チャーリー・バーネット (バンド・リーダー&リーズ)

Charlie Barnet (Band leader & Reeds)

チャーリー・バーネット

フルネーム:チャールス・ダリィ・バーネット Charles Daly Barnet
1913年10月26日ニューヨーク生まれ。
1991年10月26日カリフォルニア州サンディエゴにて死去。

白人でありながら、専属歌手に「ジュディ・エリントン」と改名させるほどデューク・エリントンに心酔し、
「ホワイト・エリントン」と呼ばれるほどだったという。
ニューヨークのマンハッタンで、名門かつ富豪の家に生まれた。
そしてラムゼイホール、ブレア・アカデミー、エール大学と名門らしいコースを歩んでいたが、学業よりもバンド活動に精を出し、
16歳で自分のバンドを結成して、リパブリック船舶のお抱えとなり、欧州、南米、アフリカを行き来し、大西洋横断22回の記録を持つという。
1932年バンドを再編、黒人ピアニストラム・ラミレスを起用したりアレンジメントをベニー・カーターに依頼したりした。
この時からベニー・カーターとの親交が生まれたという。
1933年19歳でニューヨークのパラマウント・ホテルの専属バンド・リーダーに出世した。
このバンドでレコーディングも行ったが、解散した。
翌年2月にバンドを再編し、ニューオリンズのローズヴェルト・ホテルに出演したが、同年12月に解散した。
35年3月またバンドを再編したが、二枚目ぶりを買われてハリウッドから声がかかり、俳優に転身してバンドを解散。ハリウッドでは2本の主演映画を撮ったという。
1936年ニューヨークに戻り、またまたバンドを編成してグレン・アイランド・カジノなどに出演したが、このバンドも37年半ばに解散した。
ここまでバンドの編成と解散を繰り返してきたが、経済的に恵まれていたこととお坊ちゃん育ちの気まぐれな性格せいであった。
しかし何が原因かは不明だが、一念発起し日頃敬愛するデューク・エリントンのもとを訪れ、
デューキッシュな(デュークのようなサンドの)バンドを作りたいんだがと相談すると、編曲者アンディ・ギブソンを紹介されたという。
「デューキッシュ」の旗印の下39年1月ニューヨークのフェイマス・ドアに根城を構えると共にヴィクター系列のブルーバードに録音を開始する。
バンドは早くも「ホワイト・エリントン」と異名を取って話題を呼ぶと共に「チェロキー」の大ヒットによって、全米トップ・クラスの人気バンドとなった。
彼は白人でありながら、初めて黒人スター・プレイヤーを自己のバンドでフューチャーした人でもあり、その意味で非常に進歩的な人でもあった。
彼によって引き立てられた黒人プレイヤーには、レナ・ホーン、トラミー・ヤング、オスカー・ぺティフォードなどがおり、
30年代後半から40年代中頃までは強力なメンバーを維持した。
41〜45年までメトロノーム誌人気投票で、連続第1位を獲得した。
それほどの名バンドでありながら、日本では1974年まで彼のレコードは発売されたことがなかったという。
60年代に入って音楽界から身を引き、ロス近郊で余生を送っていたが、66年末に楽団を再編、再起した。

レコード・CD

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ11巻/ザ・サウンド・オブ・スイング」(Victor RCA RA-67)
「Billie Holiday/Live and private recordings in Chronological order」