デューク・エリントン (ピアノ&バンド・リーダー)

Duke Ellington (Piano&Bandleader)

デューク・エリントン

本名:エドワード・ケネディ・エリントン : Edward Kennedy Ellington
1899年4月29日、首都ワシントンの生まれ。
1974年5月24日肺炎のため死去。

Dukeは「伯爵」という意味でもちろんあだ名。本名はエドワード・ケネディ・エリントン(Edward Kennedy Ellington)というどこかで聞いたことのあるような名前である。誕生日も昭和生まれの方なら懐かしい日付で、何となく高貴な雰囲気を漂わせている(昭和天皇は明治34年1901年生まれ)。実際子供のころから自然な優雅を身に着けていたことから、幼児の時代に親友エドガー・マッケントリーという人につけられたという。
あの口の悪いマイルス・ディヴィスに、「我々は、日に3度はデュークに跪かなければならない」と言わしめたほどのジャズ界の重鎮である。こんな重要人物を軽々しく取り上げてよいのかとも思うが、それがこのサイトの特徴と諦めていただきたい。マイルス・デイヴィス同様少しづつ書き足し少しでも充実したものにしていきたい。
ついでにガンサー・シュラー氏の言葉を紹介しよう。「デューク・エリントンはアメリカの偉大な作曲家の一人である。40年以上にわたる音楽家としての履歴を顧みると、エリントンと彼の楽団が、彼らの流儀で、20世紀のクラシック音楽の分野の代表的な作曲家たちに匹敵する水準の創意を維持してきたことに驚嘆せざるを得ない。」
エドワード・ケネディ・エリントンは、1899年4月29日(日本は明治32年)、ワシントンD.C.Tストリート1212番地で生まれたが、エリントンの家庭は黒人社会の中では最も恵まれたクラスに属していたという。父親のジェイムズは、ホワイト・ハウスの馬車の御者を勤め、その後ミドルトン・カスバードという当時有名な白人医師の執事であり、メイドやコックもいたという。また時々ホワイト・ハウスへの仕出し業も行っていたという、ハイソな黒人の家庭の出身であることは間違いない。父親はホワイト・ハウスへ出入りするような人物であり、誰とでも如才なく付き合い、特に女性に対しては上品に恭しく振舞っていたという。デュークもこの父親の影響を強く受け継いでおり、「デューク」と呼ばれる素地が出来上がった。

デューク・エリントン4歳

母親のディジーは幼い頃からデュークに、自尊心を持つことの重要性を説き、黒人としての誇りを教えたという。彼女はピアノが弾けたというから、彼女も上流の家庭の出身と思われる。デュークが6歳のころからピアノ教師マリエッタ・クリンクスケイルズに付け本格的に習わせ始めた。しかし当時のデュークは遊び盛りの少年で野球などのスポーツに夢中でピアノのレッスンは苦痛だったという。しかし、生のピアノ演奏を聴くに及んで猛烈にピアノを弾きたくなり、練習を再開するが、この時点では特別な才能を見出すことはできなかったという。
デュークは1914年ワシントンのアームストロング・ハイスクールに進む。在学中は絵を描くことが好きになり、先生が認めるほどの才能を発揮することになる。ポスター・デザインのコンクールに入賞するほどの画才の持ち主であったが、音楽に対する興味はそれを上回り、結局学校を中退して音楽の世界に入ることになった。と穏便に書いてある資料と実はピアノが弾けた方が女の子にもてるために音楽へ心が動いていったと書いてある信憑性が高い(?)資料があるが、今となってはどちらでもそれほど大きな影響はあるまい。とにかく音楽に心傾いたデュークは、在住のミュージシャンはもとよりワシントンに仕事に来る多くのミュージシャンの演奏をよく聴いたという。中でもワシントンに住むドック・ペリーは、音楽学校で正式な教育を受けたピアニストで、デュークを気に入り楽譜の読み方、コードを知る方法などを教えてくれたという。次第にデュークの評判が高まるにつれ、母校の音楽教師だったヘンリー・グラントも自宅にデュークを呼び、ハーモニーについて教えてくれたりした。
ハイ・スクール在学中の1915年、放課後は<プードル・ドッグ・カフェ>で、当時ピアニストのレスター・ディッシュマンのサブとして入りソーダ係のアルバイトをしており、その時に書いたのが処女作として知られる「ソーダ・ファウンテン・ラグ(Soda fountain rag)」である。しかし「ソーダ・ファウンテン・ラグ」の作曲年度については、13年、14年、16年、17年という諸説がある。
ハイ・スクール卒業前には友人のエウェル・コンウェイと共同で看板屋を経営し、昼間は看板を描き、夜はカフェでピアノ演奏の仕事をしていたという。この頃、親友でドラマーのパーシー・ジョンソンが、当時一流と評判だったピアニストであるジェイムズ・P・ジョンソンが吹き込んだピアノ・ロールを手に入れ、デュークに聴くように勧めた。最初はロールの回転スピードを落とし、指使いの練習を行い、ついにマスターした。すると録音を行った本人ジェイムズ・P・ジョンソンがワシントンを訪れる機会があり、仲間に背を押されたデュークは憧れのジョンソンと二人で「キャロライナ・シャウト」を演奏した。この時が二人の交友の始まりであり、音楽家としての第一歩を踏み出したとされる。1917年のことである。
またこの1917年4月、ウィルソン大統領はドイツに宣戦布告しアメリカは第一次世界大戦に参戦することになった。このことはジャズ界にも大きな影響を及ぼすことになる。当時ジャズ発祥の地として、隆盛を誇っていたニュー・オリンズが南部の兵士の集合地となり、ジャズ・ミュージシャンの仕事場の中心的存在であるストーリーヴィルが閉鎖されることになったのである。これにより職場を失ったミュージシャンの多くは、ミシシッピ河をさかのぼり、シカゴを中心とする南西部の都市へ散らばっていく。因みにこの年ヴィクターが白人ニック・ラ・ロッカがリーダーの”オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixyland Jazz Band)の史上初のジャズのレコーディングを行った。
この第一次世界大戦の後半の時期、ワシントンは音楽活動が活発な地域であって、様々なバンドがダンスやあらゆる種類の社交的、政治的行事のために演奏を行っていた。エリントンはいくつかの有名な楽団で演奏を体験し、1919年には一転してダンスやパーティー向けの小バンドに参加した。そして1918年プラット美術学校の奨学金を辞退し、絵筆ではなく音楽で身を立てることを選んだデュークは、「ザ・デューク・セレネーダーズ」を結成する。初期のメンバーは、ギター、ドラム、トロンボーンのミラー3兄弟、その後オットー・ハードウィックがベースからCメロディー・サックスに転向し、アーサー・ウェツェルがトランペットとして加わった。この年の6月、幼馴染みのエドナ・トムプソンと結婚した。そしてこの年第一次世界大戦が終結する。
1919年ニューヨークから仕事に来ていたドラマーのソニー・グリアーを気に入り、自分のグループに参加してくれるように頼む。こうして少しづつデュークのスモール・グループは形を成していく。3月11日長男マーサー誕生。
1921年ボルチモアからやってきた、バンジョーとギター奏者のエルマー・スノウデンが加わり実質的なリーダーとなる。このバンドは「ザ・ワシントニアンズ」と名乗った。このスノウデンという人はミュージシャンより事業家として優れた人で、後にニューヨークに出てからも何回となくデュークと対立することになる。ワシントンでの仕事は順調だったが、もっと刺激が欲しくなったという。
そのこともあってかウィルバー・スエットマン楽団からソニー・グリアーに仕事の口かかったことをきっかけに、オットー・ハードウィック、アーサー・ウェツェルと共にニューヨークに出る。ハーレムのラファイエット劇場でのヴォードヴィル・ショウの仕事だったというが、全くの不評で数か月でバンドは解散、食うや食わずのほうほうの体で舞い戻った。このニューヨーク行きでの収穫は尊敬するジェイムズ・P・ジョンソンを通し、ウィリー・”ザ・ライオン”・スミスとジェイムズ・P・ジョンソンの弟子格のファッツ・ウォーラーと知り合いになれたことであった。
1923年4月、そのファッツ・ウォーラーがワシントンに仕事で来た。ウォーラーの楽屋を訪ねたデュークにウォーラーは、「君たちはもうニューヨークに来る気はないのかい?来るなら仕事の口を利いてもいいよ」と申し出るが、昨年のこともありかなり不安であったが、ついに意を決しグリアーとハードウィックを先発させデュークも向かう。ニューヨークに出て順調に仕事が見つかったわけではなく窮地に陥ったが、ワシントン時代のデュークの友人である歌手のアイダ”ブリックトップ”・スミスがこの窮地を救ってくれる。8月に数週間ハーレムの「バロン・ウィルキンズ・エクスクルーシブ・クラブ」での仕事を世話してもらう。この時のメンバーはアーサー・ウェツェル(tp)18歳、オットー・”トビー“・ハードウィック(as)19歳、エルマー・スノウデン(bj,sax)23歳、デューク(p)24歳、ソニー・グリアー(ds,vo)20歳の5人であった。
9月デュークは、7番街2067番地に部屋を借りていたが、その家主のレナード・ハーパーは自らが振付をする「ハリウッド・カフェ」を紹介してくれる。この店はタイムズ・スクエアの近くで49丁目西203番地にある地下のキャバレーで新規開店したばかりであった。ここのレヴューの伴奏が「ザ・ワシントンズ」のニューヨーク・デヴューとされる。
デュークの作編曲の才能は独学或いは天賦のものと言われることが多いが、もちろん才能は人並み外れてあったと思うが、実際にはヘンリー・グラントという人についてハーモニーを学んだという記録が残されている。ここでの評判はよくWHNというラジオ局から毎晩2時より中継放送もされいよいよ運が開けていく。
デュークはこの頃初めて曲が売れ、作曲というものがいいお金になることを知った。ただし売り物につまりお金にするためには譜面に書かなくてはならないことも知ることになる。そして2度目に書いた譜面は「チョコレート・キディーズ」(ガンサー・シュラー著『初期のジャズ』によれば「1924年のチョコレート・キディーズ”Chocolate kiddies of 1924”)と題されたもので、このミュージカルは本国アメリカではヒットしなかったが、この譜面は、デュークの手を離れた後ドイツに渡り、2年間ベルリンのヴィンター・ガルテンで上演される。デュークに作曲を依頼したジャック・ロビンソンは大金持ちになったという。
翌1924年バンドのリーダーだったエルマー・スノウデンとメンバーとの間に金銭的なトラブルが起こり、スノウデンはバンドを去る。そして他のメンバーから押し上げられる形でデュークがリーダーに就く。ここに「デューク・エリントンと彼のワシントニアンズ」が誕生するのである。シュラー氏のよるとこの頃この小バンドは、59番通りとブロードウェイの一角にあった、「ハリウッド・クラブ」(直ぐに「ケンタッキー・クラブ」と改名)というクラブで定期の仕事についていたという。デュークはメンバーを強化する目的で、トロンボーンのチャーリー・アーヴィス24歳を加入させる。このアーヴィスは変わったミュートを使っていた。実は落として壊れたものだったのだが。後にこのミュート・プレイはさらに磨きがかけられエリントンのサウンドに重要な意味を持つことになっていく。アーサー・ウェツェル(tp)18歳が学業を続けるためにワシントンへ帰郷し、その後釜にアーヴィスの推薦でババー・マイレイ21歳を迎えた。マイレイはスイートなウェツェルとは全く異なるホットなプレイヤーで、さらにミュートによるグロウル・プレイを得意とするTpプレイヤーであった。これはデュークにとって運命的な出会いであり、ここからエリントン・ミュージックがスタートしたとさえ言える。マイレイはチャーリー・アーヴィスに自分のミュート・プレイのテクニックを伝授している。
デュークはスノウデンが抜けた後のバンジョー奏者としてフレッド・ガイ26歳を加入させる。ガイはファッツ・ウォーラーが在籍していたコンボのリーダーであり、デュークたちがニューヨークに来た時から親交があった。年齢もデュークと同じでリズムの強化を図るデュークの求めに応じてくれたのだった。
そしてついに11月初めてのレコーディングを行うことになる。ブルース歌手アルバータ・ハンターのセッションでグリアーとともに参加し”It's gonna be a cold winter”、と自作の”Parlor social de luxe”を吹き込む。
ザ・ワシントニアンズ(The Washingtonians)としてのインストルメンタルとしては”Choo choo”、”Rainy nights”が最初となる。いずれもブルー・ディスク・レーベルから発売される。記念すべき初のレコーディングのメンバーは
ババー・マイレイ Bubber Miley Trumpet
チャーリー・アーヴィス Charlie Irvis Trombone
オットー・ハードウィック Otto Hardwicke Alto sax
デューク・エリントン Duke Ellington Piano
フレッド・ガイ Fred Guy Banjo
ソニー・グリアー Sonny Greer Drums
そしてこの年から27年までの間、途中楽旅に出た期間も含めて、デュークとその一党は次第に彼等ならではのワン・アンド・オンリーのユニークなバンド・カラーを確立していったという。また続きを書いていきます。

レコード・CD

"Archive of Jazz/Duke Ellington"(BYG 529.071)
"The Duke"(History 204140-302)
「デューク・エリントン楽団 1929〜1943」(DVD JLD-410)
"Billie Holiday/Live and private recordings in Chronological order"(LDB01〜LDB22)
"Cootie Williams and his rug cutters 1934/40"(TAX m-8011)
「ザ・デュークス・メン」(Epic EICP 602)
"The Duke"(COL 517687-2)
"Duke Ellington presents Ivie Anderson"(Columbia KG 32064)
"Hodge Podge"(Epic JEE 22001)