そもそもアメリカと黒人 1

初めに

黒人の少年

ある本によると、ジャズの歴史を語る時アフリカから黒人が奴隷として強制的に連れてこられたところから始めようとすると、「またその話ですか。その話は散々聞かされているので、ジャズが始まったところからにしてください」的な雰囲気があるといいます。しかしそうは行きません。
僕は、次のようなことを読み衝撃を受けました。出典は忘れました。探したのですが今のところ見つけていません。見つかったら追記します。その内容とは、
「アメリカで黒人の子供が物心がつくということは、行けないレストランがあり、入れない学校があり、座れない席があるということを知ることである。」
というのです。
「ものごころ」がつくとは、人情や世情を少し理解するようになるということで、個人差はありますが、一般には5〜6歳ぐらいではないでしょうか。その歳のころ自分は何を考えていたのでしょう?もちろん覚えていませんが、絶対に自分には一生行けないところ、行ってはいけないところがあるなどということを思ってはいませんでした。しかしアメリカの黒人は違うのです。アメリカの黒人すべてがそうではないでしょうが、こうして育ってきた人々がミュージシャンとなってジャズを演奏したのであり、現在もしているのです。本当にジャズを理解するには、こうして成長してきた人々が演奏しているのだということを理解する必要があると思うのです。
ジャズはアメリカで生まれたといっても、広いアメリカ合衆国のいたるところで生まれたわけではなく、ニューオリンズ近辺のいわゆる深南部(ディープ・サウス:Deep south)で生まれたといわれます。このことは重要で、アメリカ合衆国の地図を広げ、「ニューオリンズはこの辺りか」と見るだけでは、あまり意味がありません。ニューオリンズは合衆国の一地域ですが、目を海のほうに向けてみると、カリブ海の沿岸地域でもあります。最近の研究では、このカリブ海の沿岸だったことの重要性に言及する研究書が増えています。
また僕自身の認識不足がありました。テレビなどを見ていると、カリブ海沿岸の国々には黒人の姿が目につきます。僕は愚かにもずーっと「南の国だから黒人が多いんだろうな」くらいに思っていたのです。実は彼らの先祖もアフリカから強制的に連れて来られていたのです。15世紀末にヨーロッパ人から発見されて以来、この地、新大陸でいったい何が行われてきたのか?これはやはり知らなければならないことではないでしょうか?
ということで、大変余計なことかもしれませんが、自分なりに新大陸そして奴隷の歴史を調べてみました。それがこの章となります。

「奴隷」という問題

その前に奴隷という問題について触れておきたいと思います。
「奴隷」自体は古代エジプト、ギリシャ、ローマの時代からあり、古代中国にも我が国にもあったといわれます。我が国の場合は、有名な『魏志倭人伝』にある「生口」がそれに当たるといいますが詳細な内容はよくわかっていないようです。また何を以って「奴隷」とするのかという定義も時代や国によっても異なり難しいようですが、ここではアフリカの黒人奴隷に絞って見ていこうと思います。
新大陸への奴隷移入は、そのほとんがアフリカ西海岸から積み出されました。しかし黒人奴隷はそれだけだったかというとそうではありません。アフリカ西海岸と新大陸への奴隷移入については後に詳しく見ていくとして、ここでは前提としてアフリカの奴隷全体についてみていこうと思います。
そもそも平等社会といわれるアフリカの伝統社会も首長制を作り出したような重層的な社会の内部には、「奴隷制」を内包していました。しかしこの奴隷は、生産手段を持たない制度化された固定的身分としての奴隷というよりは、種族間、国家間の戦争によって、勝者側は敗者側の捕虜や犯罪者の処罰の過程で起こる一時的な状態を指すものであり、多くの場合一定の拘束期間の後、自由民として独立していく存在でした。

アフリカ

北部アフリカ
例えばエジプト。ナイル川下流域では、エジプトのイスラム勢力はナイルを遡り、勢力を拡大しようとしますが、なかなか思うようには進みませんでした。やっと652年それらの1国と停戦協定を結びますが、相手国はエジプトの生産物を受け取る代わりに奴隷を毎年360人ずつ与えるということが決まります。続く500年間南部の黒人奴隷は、エジプトその他への主要な輸出品であり続けました。
969年〜1170年にかけて、エジプトのファーティマ朝の支配者は、兵力をそれら黒人奴隷兵士に依存していたほどであったといいます。その他イスラム勢力も、奴隷を求めてナイル川流域に入り込んでいます。
中央アフリカ
また金を産しない中央スーダン地域では、奴隷はもともと第一の交易品であったといいます。そこにあったカネム・ボルヌ帝国は、その南部地域に当たる現在の北カメルーンやチャドにおいて激しく奴隷狩りを行ったといいます。北カメルーンやチャドにおいて、歯をとがらせたり、唇に巨大な円盤を入れたりして身体を著しく変形させている人々が多く分布していたが、それは奴隷狩りを避けるためだったといいます。それはイスラム教徒は、こうした人々は「食人種」とみなして奴隷化しないからです。それほどカネム・ボルヌ帝国は奴隷狩りを盛んに行っていたらしく、サハラの奴隷交易に関する資料でもカネム・ボルヌ帝国に集中しているといいます。17世紀以後これにハウサ諸王国が加わり、中央スーダンにおける奴隷交易は一層盛んになります。
東アフリカ
「新書アフリカ史」宮本正興+松田素二編集(講談社現代新書刊)によれば、東アフリカの奴隷貿易は長い歴史を持っていて、紀元前から行われていたと推測されるとのことです。奴隷売買は多額の利潤を生むので、人を捕まえ売り買いするという非人道的な行為にもかかわらずやむことなく続けられてきたのです。
そして18世紀以前まではイスラムの奴隷商人が活躍していたといいます。イスラム法はイスラム教徒を捕まえて奴隷にすることを禁じているため、奴隷供給地はまだイスラム化の進んでいない内陸部へと延びていきました。またキリスト教徒が多いアビシニア地方も、有力な奴隷供給地でした。
奴隷たちは、内陸部やアビシニア(エチオピア)高原から海岸部の港町に連れてこられ、そこから船で運ばれて行きました。ザンジバルが東アフリカの通商の中心となってくるのに従い、多くの奴隷たちがザンジバルを経由して西アジア地域やインドへ運ばれて行ったといいます。
西アジアへ送られた奴隷の多くは家内労働や土木建設労働あるいは農業労働などに使われていましたが、アラビアやインドでは軍人として国王の側近に仕えたアフリカ出身の奴隷もいたとのことで、新大陸に運ばれた奴隷とはかなり待遇が異なっていたようです。
しかし18世紀後半以降、東アフリカの奴隷貿易に変化が現れてきます。まず18世紀半ば以降フランスの植民地モーリシャスやレユニオン島でコーヒーやサトウキビなどの大農園開発が進み、労働力として多数の奴隷が求められるようになります。フランス植民地に送られた奴隷がどのような待遇だったかは記載がなく不明です。
15世紀までの西アフリカ
西アフリカにおいても、奴隷貿易の歴史は古く、新大陸へ奴隷が大量に送られる以前は、サハラ砂漠以南のいわゆるブラック・アフリカから地中海沿岸のアフリカ側の諸国へ運ばれるというルートが中心でした。
14世紀の大旅行家イブン・バットゥータはブラック・アフリカから帰途サハラを横断する時に600人の奴隷をつれた隊商と一緒だったことがるといいますが、その奴隷はそのほとんどが女性であったそうです。
女性奴隷は妻妾や召使にされ、男性奴隷も交易されましたが、その使い道は主にサハラのオアシスにおけるナツメヤシや畑の管理・労働でした。しかしこちらも北アフリカの王朝の軍隊にも多く流れ込み、特に王の親衛隊や閣僚には相当数の黒人奴隷出身者が使われたという記録が残っているそうです。
またバットゥータは西アフリカのマリの首都を訪ね半年ほど滞在した時の見聞に、「王は宮殿の中庭で謁見するが、(略)王の後には300人の武装した奴隷が従う。」と書いています。この300人の奴隷は戦争で獲得した捕虜たちだったと推定されるのです。
つまりアフリカ黒人を奴隷化して使役するというのは、新大陸においてヨーロッパ人が初めて行ったわけではなく、それ以前から行われてきたことなのです。ポルトガルでは11世紀ごろには黒人奴隷を使役していたようですが、それは後にまとめて述べます。

大航海時代の幕開け

地中海

15世紀ころまでヨーロッパと中国、インドなどのアジア、また西アフリカなどとの貿易はイスラム教徒が独占しており、エーゲ海東部地域はイスラム教徒とヴェネチア人が海上貿易を独占していました。したがって西ヨーロッパの各国がアジアの香料や西アフリカの金市場と交易するには異教徒であるイスラム教徒、ベネチア商人を経由しなければなりませんでした。
こういった状況に初めに動きがみられたのは、ポルトガルでした。そもそもポルトガル、スペインというイベリア半島の国はアフリカ大陸特に地中海側と古くから因縁がありました。7世紀にイスラム勢力に攻め込まれ、占領された歴史があります。それをキリスト教徒側が奪還し半島から駆逐するのは15世紀の半ばになってからです。
14世紀に入ってポルトガルではアビス朝が成立、初代ジョアン1世(在位:1385〜1433)は国力の充実化に尽力し、15世紀に入ると(1415年8月)逆にジブラルタル海峡を渡り、対面モロッコのセウタを攻め落とし占領します。このセウタはスーダン産の金の集まる市場として知られ、モロッコ有数の穀倉地帯が背後に広がっていました。国土が狭く土地不足に悩んでいた封建貴族、特に土地を持たない次・三男にとって対岸に位置するモロッコは格好の標的でした。封建貴族たちはモロッコへの軍事侵略を望んでいたのです。
またポルトガルはもともと海に面した海洋国家ですが、その船は南部モロッコより先へ進むことはできませんでした。その理由は北緯30度から20度域内にあるジュビ岬からブランコ岬までの大西洋約640キロの沖合は、いつも風が北から吹き付け、当時の船と航海技術では逆風をついて北方へ戻ることができなかったのです。14世紀中ごろ、マジョルカ島の船乗りがこの冒険航海を試みて2度と戻らなかったといわれています。
そしてそこに当時の先進地域アラブ人などから風を自在に利用できる大三角帆や羅針盤、アストロラーベ(天文観測儀)など新技術が導入されます。
そこに海洋進出の大いなる立役者エンリケ航海王子(1394〜1460)が登場します。王子も初めから冒険航海に熱心だったわけではありませんが、父王からアフリカ西海岸との交易独占権を託されると、天文学者や数学者を庇護し、航海学校を設立し、海図制作を奨励するなど航海事業に力を入れ始めるのです。
またいち早くポルトガルが海洋に進出できた要因として、国内に内乱や社会不安のない唯一の国だったことが挙げられます。逆にヨーロッパの大国イギリス、フランスは国内に内乱など問題を抱え外に目を向ける余裕がなかったとも言えます。そして当時ヴェネチアと対抗関係にあったジェノヴァの商人たちがポルトガルの事業に投資を惜しまなかったことも大きく影響しています。
さて、こうした背景の中1434年エンリケの部下である部下がキャラベル船(軽装帆船)を駆ってボハドル岬を越えて南下し、彼方まで最初の航海を行い、逆風をついて無事にリスボンまで帰港するという成功事例が生まれます。
ポルトガルは、ボハドル岬を越えての航海の成功に自信を深め、ベネチア、イスラム商人を経由せず、アジアの香料や西アフリカの金市場と交易するために、南下政策をとります。以後半世紀の間にギニア湾に到達(ゴールド・コースト到達は1471年)して西アフリカに交易の窓口を開き、さらに南進して1482年アクラ(ゴールドコースト:現在はガーナの首都)に「エルミナ城」を建設します。また偶然のことですが1486年バーソロミュー・ディアズは喜望峰を発見し、インド洋岸まで到達したのは1488年3月のことです。

新大陸の発見

1492年コロンブスが新大陸を発見したことが全ての端緒といわれますが、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見そして探検が行われたのはコロンブスが最初ではありません。10世紀にノルマン人が今のグリーンランドそして北アメリカの東北部を発見していましたし、11世紀には同じノルマン人が、この地に移住を試みますが、先住民のインディアンと衝突し移住を断念していました。
しかしその後もノルマン人のアメリカ大陸冒険は何度か行われますが、新大陸の歴史に何か刻むようなことは起こりませんでした。それは当時のヨーロッパにおいては、後の大航海に打って出るような状況ではなかったからです。これらノルマン人のアメリカ大陸遠征から1世紀足らずで、十字軍による東方遠征が行われます。十字軍は、キリスト教の聖地エルサレムがイスラム勢に侵略され、キリスト教徒が迫害されていると信じ込んだキリスト教会が中心となって、聖地回復のために組織されたもので、13世紀末にかけて十数度にわたって遠征が行われました。要は関心は西方ではなく、東方にあったということになります。十字軍は結局は失敗に終わりますが、ヨーロッパ人が海外へ足を進める第一歩とはなりました。

コロンブスの登場

クリストファー・コロンブス

エンリケ航海王などポルトガルの冒険航海に対する力の入れようを見て、コロンブスはポルトガルにやってきます。しかし彼の申し出はポルトガル王に拒絶されてしまいます。そこで彼はスペインに向かいます。色々紆余曲折はあったようですがスペイン女王イサベラ(1451〜1504)から最終的には冒険航海の援助を得られることになります。
コロンブスがポルトガルに拒絶された理由は、アフリカを南下し喜望峰を回ってインドへ達するという南下方針のポルトガルと西進していけばインドに達するというコロンブスの考えが合わなかったからと推測されます。その時点でポルトガルはすでに喜望峰に達していたからです。
さて、スペイン女王イサベルから援助を受けたコロンブスは、1492年8月3日三隻の船でスペインのパロス港(地図で確認できず)を出発しました。なぜスペイン女王がコロンブスを雇って西方への航海させたのかといえば、それまでのエーゲ海を渡り、トルコからは陸路で行って東方と交易するよりも、西へ西へ行けばインドや黄金の国ジパングに行けるし、その方が速くそしてさらに西に行けばやがて地球を一周して戻ってこれるとコロンブスが説得したからでした。その当時は東方の黄金の国ジパングのことはマルコ・ポーロの「東方見聞録」でよく知られていたといいます。
しかし当時はまだ地球が丸いことは分かっていませんでした。しかし丸いのではないかという考えは、船乗りや知識人などには行き渡っていたといいます。それはダンテがその著『神曲』でそう書いており、また当時の天文学者トスカネリの、インドに達するには東進するより西進した方が距離が短いという試算を信じ切っていたからといわれます。
ともかく1492年8月3日三隻の船でスペインを出発したコロンブスは、約2か月の航海の末10月12日ついに陸地を発見しました。彼らは後にワットリング島に当たるこの地を「サン・サルバドル」と命名し、スペイン国旗を掲げます。しかし海岸に走り出てこの光景を見た先住民の驚きは想像を絶するものであったでしょう。
コロンブスは、そこからバハマ諸島をめぐり、南に向きを変えキューバに到達、ここを「ジパング(日本)」だと言いましたが、マルコ・ポーロの書いた日本とは異なっていたため、さらに探検を続け12月5日にサント・ドミンゴ(ハイチ)を発見、ここに小さな砦を作ります。これが西半球で最初にヨーロッパ人が作った植民地です。
コロンブスは、そのサント・ドミンゴに44人の乗組員を残し、一旦帰国の途に就きます。翌1493年スペインではなくポルトガルのリスボンに帰着したコロンブスは、自分はとうとうインドへ行ったと宣言をしました。ポルトガル人は、自国の探検家たちが1世紀も組織的にやりながら果たせなかったことを、この男がたった1回の航海で成し遂げたということに耳を疑ったといいます。
しかしなぜコロンブスは、ポルトガルへ寄港したのでしょうか?彼はそもそもポルトガル国王へ、西方航海の援助を願い出たのです。しかし断られたためスペインに向かったのでした。多分断れたことへの当てつけだったのでしょう。事実コロンブスの発見は、ポルトガル人バーソロミュー・ディアズが喜望峰を発見してからわずか5年後のことであり、バスコ・ダ・ガマの航海に4年も先立つものでした。
さて、サント・ドミンゴに残された乗組員たちの貪欲さや彼らが手にする銃によって、原住民たちは絶えず脅かされていました。そしてついに立ち上がりこの異人たちを一度にかどうかは分かりませんが、全員を殺害します。翌年この44人を迎えにやってきたコロンブスたちは残した乗組員を1人も発見できなかったのです。
この1493年の第2回航海以降コロンブスは1502年まで計4回の航海を行います。そして小アンティル諸島のほとんどの島、南アメリカ北海岸、中央アメリカ海岸などかなり広範囲を探検します。
なぜ彼は何度も航海を行ったのかというと、それはマルコ・ポーロが記述し、自分も信じて疑わなかった富がどこにも発見できなかったからでした。彼は焦りに焦っていたといいます。 彼はスペイン国内に沸き起こった不信の目を受け、彼は失意のうちに世を去りました。

コロンブスの4回の航海

これがいわゆるコロンブスの実に大まかにまとめた人生と航海です。そこから「失意の人」というイメージを持たれる方も多いと思います。実際失意もあったでしょうが、彼と彼の航海の乗組員は、第2回航海以降、現地インディアンに対して悪逆非道の限りを尽くします。第2回航海の1495年金または綿花の効能をインディアンに要求し、できなければ労働で払わせます。金目のものは奪い取り、女性は犯し、従わないものは平気で殺戮を繰り広げたといいます。先住民を捕まえて奴隷にして運ぶこともできるとスペイン国王に報告しています。そしてあまりにも先住民を大量に殺戮した罪で政府によって逮捕までされています。
耳を疑いながらもポルトガルは、コロンブスが到達したというインド(実際はカリブ諸島)に強い関心を抱きます。探検隊を派遣して、コロンブスが報告した土地の存在を確かめさせます。一方でポルトガルは、南進政策により1497年7月バスコ・ダ・ガマが国王の命を受けリスボン港を出港します。これは南大西洋を南下し喜望峰を回ってインドに到達するルートの開発が目的でした。
ガマは翌98年5月にカリカットに到着、大量の香料などの物資を積み込み99年9月にリスボン港へ帰着しします。
このガマの成功を受けて、1500年国王マヌエル1世はインド商業権獲得のため、カブラルにインドへの航海を命じます。カブラルは航路をアフリカの大西洋岸に沿って南下していきました。しかし暴風雨のために流され、同年4月偶然にブラジルの海岸に漂着してしまいます。そして彼はこの地をポルトガル国王の属領と宣言するのです。実はその2か月前にスペイン人がブラジルを発見していましたが、そこから距離が離れていたため領土権を主張したのです。
その後カブラルは体制を立て直しブラジルを出て、喜望峰を回りインド南西岸カリカットに到着し、ここに通商の本拠を据えて1501年7月帰国しました。
一方イギリスも動きます。コロンブスの西進によるインド到達(実際はカリブ諸島だったが)を知ったからでしょうか、コロンブスの第3回航海に先立つ1497年、国王ヘンリー7世がイタリア人のカボットを雇い、西方へ航海を行わせます。彼はアメリカ大陸の北東海岸に上陸し、探検の結果を国王に報告します。カボット自身はコロンブスと同様アジアに到達したと考えたのですが。
これに対して、ポルトガルはイギリスが行ったカボットの探検の成否を確かめるために1500年調査隊を当地に派遣し、条約に従って、カボットが発見した土地への領土権を主張します。当時頻繁に航海を行っていたスペインとポルトガルの領土権争いを裁くために、教皇アレクサンデル6世の仲介で、アゾレス群島の西方270リーグの地点を南北に引いた線でスペイン領とポルトガル領を分けるというトルデシリャス条約が1494年に結ばれていたのです。
このように西進及び南進どちらにも積極的取り組んだポルトガルは、他のヨーロッパに先駆けてある重要な事実を認識するようになります。それは西方コロンブスが到達したという土地は、コロンブスが主張したようなアジアにつながる道ではなく、新しい大陸だというという認識です。
そして大航海の探検としては、スペインのバルボアが1513年に太平洋を発見し、19年にはポルトガル人マゼランがアメリカ大陸経由で香料諸島に至る航海へと出発しました。自身はフィリピンのセブ島で命を落としましたが、残された隊員たちによってはじめて世界一周が成し遂げられました。
こうしてはじまった大航海時代は、西進=新大陸、南進=アフリカ西海岸⇒喜望峰⇒インド洋方面と2方面で展開されることになります。これがヨーロッパ⇒アフリカ西海岸⇒新大陸⇒ヨーロッパという「三角貿易」に発展してくことになります。

「日の沈まない国」スペイン

西インド諸島

コロンブスの新大陸発見からわずか半世紀で、スペイン人は数千マイルを踏破し疾風怒涛の速さで征服を進めていきます。コロンブスに援助を行って、新大陸発見の立役者の一人スペインのイサベラ女王は、自身敬虔なカトリック信者で「カトリック王」と呼ばれていました。彼女はもともと先住民インディアンを奴隷にしようとは考えていませんでした。彼女は、インディアンをキリスト教(カトリック)化して、自由な人間として扱おうと考えていたのです。カトリック教化するということはカトリック教の教えを広めることであり、カトリック教徒を増やすということです。これはカトリック・キリスト教界では最も価値のあることです。
そのため1501年ムーア人やユダヤ人などカトリック教徒でない者の移民を禁じる「選択移民」という方式をとります。さらには宗教裁判で有罪判決を受けたものの移民も禁じました。こうしてイサベラは、忠誠なカトリック教徒だけを新大陸に植民させ、これによってスペイン文明を広め、カトリック教を布教し、国威を増進しようとはかったのです。このことによりコロンブスの発見後80年間で約16万人のスペイン人が新大陸に渡りました。彼らが建設した都市は200、彼らが支配したインディアンは数百万を越えるといわれます。
こうしてカトリック教団が新大陸に派遣されることになります。中でも目覚ましい活躍したのが、イグナティウス・ロヨラによって創設されたイエズス会やフランシスコは及びドミニコ派の教団でした。これらの教団の僧侶たちはインディアンの村落を探してアンデスを越え、アマゾンやオリノコのジャングルに分け入り、布教活動を行います。彼らの布教は頑強にこれを拒むインディアンの抵抗に会い、容易に進みませんでしたが、僧侶たちの活動によって、インディアンのキリスト教化、つまり原住民のヨーロッパ化の第一歩が踏み出されます。
このようにもともと原住民のインディアンは奴隷ではありませんでしたが、現地の征服者たちは反抗的なインディアンや捕虜になったインディアンを奴隷とすることは認められていていました。その結果インディアン狩りが盛んにおこなわれるようになります。そして多数のインディアンが殺され、あるいは奴隷にされ、鉱山や農園に送り込まれ、労働使役を強制されるのです。こうしてインディアンの人口は、急速に目に見えて減ってきます。
もともとの女王の考え、「インディアンを自由民としてキリスト教(カトリック)化し、スペイン化を行う」と現地の征服者たちの「インディアンを奴隷化し手っ取り早く私腹を肥やす」という考えはそもそも合致せず対立も生まれてきます。そして結果的には植民地統治は、本国の意図通りには行われませんでした。なにせ当時は、パナマからペルーのリマに行くのに3〜5月もかかり、本国から植民地への航海も約1年くらいかかったのです。この伝達ののろさが、現地官吏において、「服従するが果たさない」ということわざを生み出すほど、現地は現地で動いていくことになります。
広大な植民地の征服者や商人層はそこに住む人々を無制限な収奪の対象とみなしていました。彼らは銀山に目を付け、1545年にはポトシ銀山、ついでグワナファート銀山を開拓します。これらの銀山ではインディアンの犠牲のもと採掘がおこなわれました。水銀アマルガム製錬法の採用と相まって、銀の生産は飛躍的に増大しました。そしてこれに伴っておびただしい金銀がスペインを通してヨーロッパに流れ込みました。ある経済史家によれば、スペインは16世紀以後の300年間に350万キロの金と1億キロの銀を新大陸から入手したといいます。
金銀に次いで植民者や商人を喜ばせたのは、ヨーロッパ市場で高価で売れる砂糖、たばこ、染料などの熱帯性物産でした。ことに砂糖は当時ヨーロッパの王室で珍重され、最上の贈り物と考えられていただけに、最も収益の上がる物産でした。コロンブスがスペインから持ってきたサトウキビは、たちまち西インドに広がり、やがてこれがブラジルに伝えられて当地の主要農産物となった。しかしサトウキビ栽培への集中は農業の多角化を阻害し、ブラジルの経済発展にとっては障害となったのです。
インディアンの人口の急激な減少について見ていきましょう。例えばサント・ドミンゴではコロンブスが最初に来た時インディアンの人口は30万人くらいと推定されていますが、20年後には1万4千人に減少し、さらに30年後には純粋な血液を持つものは200人足らずになってしまったのです。要するにコロンブスたちが行った虐殺やスペイン人が持ち込んだ疫病で、奴隷にするインディアンが少なくなっていたのです。新大陸へもたらされた最初の黒人奴隷は、コロンブスの第4回目の航海の前、1502年のことでした。そしてここで注目されるのは、奴隷を提供するするシステムがあったということです。このことは後にまとめるとして、スペインの植民地征服に話しを戻しましょう。

コロンブスの乗ったサンタマリア号

イサベラ女王亡き後を継いだスペイン国王フェルナンドはイサベラとは異なり、1509年もしインディアン人民が降伏しなければ、あらゆる手段で、屈服させ隷属させるだろうと宣言し、激烈な征服活動展開していきます。スペインから見れば、先住インディアンをキリスト教化し、スペイン国王に服させようとしたがなかなかいうことをきかないの力でねじ伏せるぞということですが、インディアン側から見ればこんな勝手な話はありません。突然襲ってきて言うことをきけ!聞かなければ力でねじ伏せるぞ!ということですから。
こうしてスペインは、サント・ドミンゴを基地として、1509年にはプエルト・リコを、14年にはキューバを征服し、この地域のインディアンを隷属化します。それによって、キューバには30万人、サント・ドミンゴには20万人、プエルト・リコには6万人のインディアンがいたとされますがことごとく一掃され、西インド全体では100万人の土着民が失われました。
次にスペイン人征服者たちは、中央、北アメリカにも触手を伸ばします。中央アメリカにおいては、1519年4月隊長エルナン・コルテスは数百人という兵力で、アステカ王国内の内紛を巧みに利用してアステカ王国を征服したのは有名な話です。さらに征服者たちは北進を続け、現在の合衆国の南部地方へと扇状に広がったばかりか南に下っては中央アメリカを通ってパナマにまで及んでいきます。
スペイン人のアメリカ大陸支配の第2の波はメキシコ征服後わずか10年して行われたペルー征服でした。1534年ピサロによって行われたペルー征服はアメリカ全体の歴史の中でも最も残忍な行為です。
ペルーでの勝利の後、征服者たちはたった10年でエクアドル、ボリビア、チリ、コロンビア、ヴェネズエラに支配権を打ち建て、スペインの勢力は急速に四方に広がっていきました。 北アメリカにおいては、1519年現在の合衆国の東海岸に到達し、続いて1528年には探検家がフロリダで黄金を発見します。1536年にはテキサス平原と北メキシコを横断、南に連なるスペイン移住地への道を発見し、1539年から数年にわたりメキシコ湾沿岸を探検しました。
こうして20余りの西インド諸島の島々を初め、南はホーン岬から北はリオ・グランデまでブラジルを除いて、その支配下に置いたのです。彼らのやり方は、野火のように広まった新しい病気と相まってインディアンに決定的な打撃を与えます。あるものは病気で死に、あるものは殺され、またある者は切羽詰まって自殺したといいます。他の地域でもペルー征服と同じころ、ラ・プラータ川の上流、現在のパラグアイの首都アスンシオンを、少し遅れてアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスを建設します。
コロンブスの新大陸発見からわずか半世紀で、スペイン人は数千マイルを踏破し疾風怒涛の速さで征服を進めていきます。こうして太陽の没しない世界帝国を築いたイベリア勢の新大陸独占に対して、ほかのヨーロッパ諸国も新大陸に触手を伸ばし始めます。もちろんイベリア勢も黙っているはずがなくここにし大陸の権益をめぐって争いの芽が吹き出します。
スペイン国王は、植民地貿易を独占するために通商に様々な制約を課しました。植民地は本国以外の国との直接貿易は許されず、植民地に往来する船舶はすべて本国の港によることを要求されたのです。植民地の特許港としてはコロンビアのカルタヘナ、パナマ地峡のノンブレ・デ・ディオス、メキシコのベラクルスなどが指定され、これら以外の場所での取引は禁止されました。
ところで植民地との貿易は毎年2回、本国を出航する数十隻の大船団で行われました。大船団は、まずサント・ド・ミンゴに向かい、ここで二手に分かれ、一団はパナマのポルトペーリョへ向かい、もう1団はメキシコのベラクルスに向かいます。当然これらの船団には軍艦による護衛がつきました。それは護送が必要だったのは、イギリスやフランス、オランダの海賊船がカリブ海に出没していたからです。
植民と貿易は極めて利益が大きく、1回の航海で300%の利益を上げる者もいたといいます。本国から植民地へ送られた商品は、毛織物、絹織物、金物、農産物などで、帰りの船には植民地の物産、金や銀でした。
植民地から上がる国王の収益は莫大なものがありましたが、相次ぐ対外戦争で国王の借債はそれをも勝る巨額に上ってしまいます。これがスペイン国力低下の最大の要因とされています。植民者たちは新大陸において富の開発に血眼になっていましたが、彼らに何よりも必要なものは労働力の確保ということでした。新大陸への最初の黒人奴隷は、コロンブスの第1回航海からわずか10年後の1502年サント・ドミンゴにもたらされましたが、この後各地にこの奴隷制は急速に普及していきます。インディアン奴隷が主にメキシコ、アンデス地方に集中していたのに対し、黒人奴隷は中央アメリカやキューバ、プエルト・リコ、サント・ドミンゴ、ジャマイカなど西インド諸島に集中し、サトウキビとか綿花を栽培する大農園で使役されました。他方ブラジルでもサトウキビ栽培の発展とともに奴隷輸入が増加し、奴隷の数のほうが白人をはるかに上回るようにさえなりました。
新大陸の大農園や鉱山では、多数の黒人奴隷も強制労働をさせられていました。この黒人奴隷はポルトガルの奴隷商人によってアフリカから運ばれた人たちで、彼らは取引の際「黒い象牙」と呼ばれ高値で取引されたといいます。彼らは16世紀後半から17世紀にかけて主にアンゴラから輸入され、18世紀から19世紀にかけてはギニアから輸入されました。
インディアンをキリスト教化し人権を認めるというエンコミエンダ制は1720年に廃止され、インディアンが完全に自分の土地を奪われるアシエンダ制が成立します。この制度の成立はインディアンは完全に奴隷になったことを意味します。
もちろん黒人奴隷は過酷な労働を押し付けられ、みじめな状況に置かれていました。西インドの場合大農園で働く黒人奴隷の平均寿命は6年ないしは7年に過ぎませんでした。またブラジルでは、7年間の激しい労働の挙句働けなくなった奴隷がまるでけだものの屍体のように、奴隷区のガラクタ山に捨てられたといいます。

ポルトガルとブラジル

南米大陸

ポルトガルによるブラジル征服もメキシコやペルーと同じように非常に容易に達成されました。しかし事情はまるで異なっていました。ブラジルでは、征服者ポルトガル人に抵抗するインディアンの数は知れていましたし、人口の集中した都市というものがなかったからです。
本来トルデシリャス条約では、ポルトガルに許されべき土地はブラジル本土の端っこの一部分だけでした。しかしこれに対し時のヨーロッパで一番勢力が弱かったポルトガルですが、猛然と抗議を行いました。その主張は結局受け入れられ、翌年の、東ブラジルがポルトガルのものになったのです。
ポルトガル人の大本命は、東方航路を利用して豊かなインドや東アジアに進出することでした。そのため赤い染料をとるパウ・ブラジル以外これと言って金目になる物産がないブラジルはさほど魅力のある土地ではありませんでした。そのため発見後30年間は、ブラジル沿岸でパウ・ブラジルが切り出される以外実際の植民は行われずしばらくは開発をなおざりにしていました。
しかしフランスやオランダが台頭し侵略の恐れが高まるにつれて内陸部開拓の必要が痛感されるようになり、1530年最初の植民地が建設されます。やがて彼らは、トルデシリャス条約を無視して西方へ、アマゾンの奥へと入り込んでいきます。それは彼らには黄金で飾られた「アマゾンの秘境」という夢物語があったからだといいます。しかしブラジルにはメキシコやペルーのような黄金も、黄金で飾られた帝国も存在しませんでした。こうしてブラジルでは、サトウキビ栽培が植民者たちの生活の土台となっていきます。
1534年ポルトガル国王はブラジルを12の領土に分け功績のあった貴族に分け与えて開拓させますが、この制度による開拓は失敗に終わります。国王の任命する総督による統治が始まります。
1580年スペイン国王フェリペ2世がポルトガル国王を兼ねるに及んでブラジルはハプスブルグ家の支配下にはいったことになります。以後スペインのブラジル統治は1640年まで続きましたが、この間の統治方法は先に述べたスペイン方式がとられたことは当然の流れでした。つまりインド会議が作られたのです。
北東部の沿岸地域は砂糖栽培に適していたため16世紀半ば以後アフリカからの黒人奴隷輸入により目覚ましい発展を遂げます。これとともに各地に砂糖工場が作られます。その結果ブラジルでもスペイン領の植民地と同じように大地主制度が作り出さました。そして一握りの大地主、ファセンデイロが奴隷を支配し、ほぼ経済の実験を掌握することになります。
1640年ポルトガルはスペインから分離しましたが、イギリスやオランダの新規参入で、東インド貿易を失ったポルトガルはブラジル開拓に専念し、積極的に重商主義を推進していくことになります。まず特許会社を作り植民地貿易を独占し、本国の利益を確保するため植民地経済の統制を強化していきます。

イベリア勢以外の植民活動

スペインとポルトガルが新大陸に植民帝国を建設してから実に100年以上もの間、フランスとイギリスは新大陸に植民地を持つことはありませんでした。しかし植民地建設の努力は何度も行われてきたのです。

大西洋

フランス

1534〜35年にセント・ローレンス湾及び河口、41年には現在のカナダ・ケベック市の北方12マイルの地点に初めてフランスの植民地を作りました。しかしどちらも結局はカナダの厳寒に負け、事業放棄のやむなきに至ったのです。その結果フランスの植民活動は、気候温暖な地方へ向けられることになります。1555年新教徒たちがブラジル海岸沖の小島にフランス植民地を作り、62年にはフロリダの一角に到達し、2年後にはここにカロリーヌ砦を建設しました。
しかしかねてからフロリダに領土権を主張していたスペインが黙ってみているはずはありません。ここに双方がぶつかり合う武力衝突が起こります。建設中のスペインの砦を叩こうと遠征隊を派遣しますが、遠征隊はハリケーンに会い、暗礁に乗り上げ、生き残った300名はことごとくスペイン人に殺害され、ついにはカロリーヌ砦も跡形もなく破壊されてしまいます。 それから20年の間フランスは積極的に新大陸に乗り出していません。それは国民の関心が、国家を二分して40年近くにもわたった宗教内乱(ユグノー戦争 1562〜98)に向けられていたからでした。
しかしそれでもフランスは新大陸への植民をあきらめたわけではありませんでした。1584年北アメリカの土地に第1回遠征をおこないます。そうして1598年ナントの勅令でユグノー戦争に決着がつけられると、新大陸への意欲を湧きおこります。まず北アメリカに第2回遠征隊を派遣し、その一隊がノバ・スコシアに上陸、99年には、50名をカナダに入植させます。
さらに1603年には、同じくアンリ4世から命で遠征隊が派遣されます。彼らの手で翌年ノバ・スコシアに建設されたロワイヤル港が、新大陸で初めて成功したフランスの植民地となりました。次いで1608年には重要なケベックの建設に成功するのです。こうしてフランス人も新大陸への侵略を開始します。次いで1608年ド・シャンプレーンがもっと重要なケベックの建設に成功するのです。こうしてフランス人が新大陸の海岸にしっかりと国旗を打ち立てられるのです。
1608年のケベック建設の後、フランスは南に進出し、カリブ海のグァドループ島、マルチニック島、後にはハイチ島などを植民地化し、これらの地で砂糖プランテーションを経営します。さらに1664年フランス西インド会社を設立、大西洋奴隷貿易にも乗り出しました。本国ではナントが奴隷貿易港として栄え、セネガルのゴレ島が積出港として脚光を浴びるようになります。
またインド洋においても1642年イル・ド・ブルボン(レユニオン)に、1715年イル・ド・フランス(モーリシャス)に交易基地を建設しました。フランスはこれによってこちらの方面でも奴隷が必要になったことは先に触れた通りです。

イギリス

ヘンリー7世がカボットを新大陸に派遣したのは、コロンブスの第1回探検のわずか数年後でしたが、総じてイギリスの新大陸における植民活動は、イベリア勢、フランスに遅れを取ることになります。こちらも理由はフランス同様16世紀前半に起こった国内紛争が原因でした。しかし16世紀中ごろ、国内紛争もほぼ見通しがつき、経済発展は軌道に乗り、フランドルやバルト海、地中海ばかりではなく新大陸まで視野に含めるようになってきました。
1560年ごろからイギリスは再び北西航路を取って新大陸に達し、さらに太平洋に至る可能性を検討し始めます。
新大陸への進出を目指すイギリスはまずアフリカのギニアを巡ってポルトガルと対立し、それが戦争へと発展します。1576年ポルトガルとイギリスの講和はなりましたが、ポルトガルよりも強勢なスペインとの衝突も避けられませんでした。「効果的占領主義」を盾に取ったホーキンスやドレイクなどのイギリス海賊たちが執拗にスペイン植民地に出没し、スペインの植民地貿易を餌食としたからです。
1584年ウォルター・ローレイはエリザベス女王に懇請して、「ヴァ―ジニア」の土地所有権を獲得し、1年後にはローアーク島に植民地を設けるため相次いで探検を行いますが、ローレイの活動もまた一時的な成功にとどまったままでした。
イギリスの北アメリカ移民は、ローレイのような有力な個人あるいは起業家の事業として推進されましたが、スペイン、ポルトガルは国王自らの事業として推進されたものでした。 そしてそれはイギリスがどのような方針で新大陸における植民活動を行うかを迫ることともなったのです。その結果イベリア勢とは違って、家族ぐるみの、または家庭を作るための植民、一攫千金ではない植民活動が望まれることになったのだというのです。 1607年ヴァージニア植民成功は、ローレイの失敗から十数年後のことになります。そして1607年ヴァージニアにイギリスのジェイムズタウンが建設されるとき両者は再び向き合うこととなります。 ジェイムズタウンも攻撃される可能性がありました。しかしジェイムズタウンにとって幸運だったことは、この時にはスペインの国力が衰えかけていたことは先に述べました。 ではそのイギリスの植民地はその後どのようになっていくのでしょうか? 1585年イギリスのローレイがアメリカ植民地建設を目的として本国を出航したとき、両国の敵対感情はいやがうえにも高まります。ローレイのヴァージニア探検に対してスペインのフェリペ2世は猛烈に抗議を行います。しかしイギリスのエリザベス女王はこれを無視するのです。そしてメアリー・スチュアートの処刑をきっかけに両国間の緊張はクライマックスに達し、ついに無敵艦隊の出動となります。1588年のイギリスとスペインの大海戦はこうして起こるのです。結果はご承知のように無敵艦隊の敗北となるのですが、その後も両国間の戦争は続き、エリザベスの死後1604年ロンドン講和条約においてようやく落ち着きます。
しかし1607年ヴァージニアにイギリスのジェイムズタウンが建設されるとき両者は再び向き合うこととなります。かつて1564年フランスが建設しようとしたカロリーヌ砦をスペインが破壊したように、ジェイムズタウンも攻撃される可能性がありました。しかしジェイムズタウンにとって幸運だったことは、この時にはスペインの国力が衰えかけていたのです。
1576年以降イギリスによる探検と植民地活動は何度か行われますが、ほとんどが失敗に終わります。そしてこれらの失敗は、一個人の財産や熱意だけではとても植民地建設などできるものではないということを自覚させることになります。そしてそれはイギリスがどのような方針で新大陸における植民活動を行うかを迫ることともなったのです。その結果イベリア勢とは違って、家族ぐるみの、または家庭を作るための植民、一攫千金ではない植民活動が望まれることになったのだというのです。

オランダ

16世紀終わりまでネーデルランド北部はスペイン領でしたがついにその束縛を脱してオランダ共和国を建設していました。諸々の国際的な事情から、1580年オランダがこれまでのような通商を行うことはできなくなります。そこでオランダは、直接インドとの通商ルートの開発に着手します。これをすすめれば当然当時西インド洋に覇権を持っていたポルトガルとの衝突は避けられません。こうして両国は戦争状態に突入します。これは1609年の12年間休戦で一応の決着をみます。
しかし1621年今度はスペインとの間に戦争が起こります。そしてこれは48年まで続きます。この戦争の講和条約「ミュンスター条約」において、スペインは「オランダ人はスペイン人が移住していない地域に行き、かつ通商する権利を持つとともに東西インドに領土を持つことができる」ということを認めることになります。実際にはそのころフランス、イギリス、オランダが東インドとアメリカに移住地を持ってはいたものの、新大陸におけるイベリア勢の独占支配の打破が公式に認められたのは、このミュンスター条約でした。
ともあれこのようにヨーロッパ列強の勢力争いを背景に、コロンブスによって発見された地理上の新大陸が歴史上の新世界への歩みを始めることになるのです。

このように16世紀ポルトガル、スペイン、イギリス、フランス、そしてオランダが西インド諸島や南北アメリカ大陸に進出し、各地を植民化していきます。そして鉱山開発やヨーロッパ向けの農園経営に乗り出すと、大量の労働力が必要となりました。当初は現地のインディアンを隷属化し、労働力として使役していったのです。しかし先住インディアンは、先に述べたように疫病その他でドンドンその数が減っていき、また激しい農園労働には不向きであることがわかると、浮上してきたのはアフリカから奴隷を移入するという考え方でした。

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