そもそもアメリカと黒人 その10 ミンストレル・ショウ

ザ・ニュークリスティ・ミンストレルズ

若い方たちにとっては、「ミンストレル」と言ってもピンとこないと思われますが、筆者のような60代中盤以降の人たちは、この言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか?それは1960年代に活躍したアメリカのフォーク・バンドに「ザ・ニュー・クリスティーズ・ミンストレルズ」というバンドがあったからです。このバンドは男女10人組で、当時「グリーン、グリーン」などという曲がヒットしていました。このグループの名前「クリスティ・ミンストレルズ」は19世紀に実際にあったミンストレル劇団で、その名の通り「ミンストレル・ショウ」を公演していました。「ザ・ニュー〜」の方は、「ミンストレル・ショウ」をやるわけではなく、リーダーは「懐かしさを感じさせる」のでこの名を付けたと言っているようですが、僕を含め大概の日本人はピンと来ませんが、本国アメリカでは「面白くない」という思いをもった人もいたと言われます。というのはこの「ミンストレル・ショウ」こそが、「ジム・クロウイズム」を広めた張本人ともいえるものだからです。
ミンストレル・ショウ(minstrel show)とは、顔を黒く塗った(Blackface)白人(特に南北戦争後には黒人)によって演じられた、踊りや音楽、寸劇などを交えた、アメリカ合衆国で行われていた大衆演芸のことです。
もともとは、18世紀末ごろサーカスで演じられていたアントラクト(Entr'acte: 幕間の茶番劇)に始まり、第二次米英戦争の終結した1820年ごろにはサーカスから独立した大衆演芸となっていきます。その時代にはまだ「ミンストレル・ショウ」とは呼ばれていませんでした。そもそも「ミンストレル」とは、中世ヨーロッパの宮廷にいた吟遊詩人や宮廷道化師たちのことで、アメリカでは主としてヨーロッパから公演に来る合唱団のことを指していました。1833年チロル地方のミンストレルがニューヨーク公演を行い、37年にはドイツのミンストレルも訪米しています。
アメリカの「ミンストレル・ショウ」という名称は、1842年〜43年にかけてダン・エメットが、自身率いる一座を「ヴァージニア・ミンストレルズ」と名付けたのがはじめとされています。こうしたネーミングが採用されたのは、ヨーロッパの合唱団に対するバーレスク(戯画化)であると同時に、主な観客層である中産階級の人々を取り込もうとする意図が含まれていたと言われています。
この大衆演芸が「ミンストレル・ショウ」を名乗る以前にある代表的なキャラクターが登場し人気を博します。それが白人が顔を黒く塗って(ブラックフェイス)黒人に成りすまして、演じる架空の黒人「ジム・クロウ」(Jim Crow)があります。「ジム・クロウ」は、1820年代はニューヨークの劇場でエキストラを務めていた白人コメディアン、トーマス・D・ライスが1820年代後半から30年代前半にかけて作り出したキャラクターです。
「ブラックフェイス」(Blackface)は、アルコールに浸して焼いたコルクを粉末にして、それに水やワセリンを加えてペースト状にしたものを、顔や首、手に塗り、巨大な目玉、広がった鼻、分厚い唇を際立たせ、演者を黒人であると連想させる手法です。

ジム・クロウ

ただ、この「ブラック・フェイス」という手法は、この19世紀に始まったものではありません。シェイクスピアの『オセロ』は言うまでもなく、役者が顔を黒く塗りアフリカ人を演じる演劇作品というのは以前から存在していました。ある研究によれば、1751年〜1843年にアメリカで上演された作品のうち、5千以上の作品がブラックフェイスを取り入れていたそうです。いずれにしろ18世紀以降ブラックフェイスによって人種的キャラクターを演じる芸能が定着し、それがミンストレル・ショウという大衆芸能のフォーマットに取り入れられたとする見方ができるでしょう。
「ジム・クロウ」(Jim Crow)の「クロウ(Crow)」は「カラス」という意味で、それは「黒んぼ」をからかう別称でもありました。ライスは、前述のように白人でありながら、ブラックフェイスで黒人になりすまし、野蛮で無知で滑稽な南部黒人奴隷を面白おかしく演じたのです。そしてこれは当時大評判を呼び、1832年フィラデルフィアやニューヨークの公演を成功させ、1836年にはリヴァプールを皮切りにロンドンやパリにも渡っています。
この説は『初めてのアメリカ音楽史』によるものです。しかし別の資料によると、トーマス・D・ライスがたまたまシンシナティの路上で、ぼろ着姿の黒人の子供が、「おいらの名前はジム・クロウ、まわれ、まわれ、ジム・クロウ 踊りで はねまわれ」という奇抜な歌を歌いながら飛び回って遊んでいるのを見ます。ライスは早速これを取り入れ、自分も顔を黒く塗ったおどけた黒人姿でこの「歌と踊り」を世間に広め評判になったというのです。これが「ジム・クロウ」という言葉が使われ出した始まりだと言われているというのです。つまり「クロウ(Crow)」は「カラス」で、「黒んぼ」をからかうという意味だったわけではないということになります。
そしてこの白人が顔を黒く塗り、黒人のステレオタイプを演じる芸風は瞬く間に広がりキャラクターも細分化していきます。北部黒人のしゃれ男「ジップ・クーン」、無知で暴力的な「オールド・ダン・タッカー」といったキャラクターが生み出されます。「黒人の奇妙な動き」を強調すればするほど「黒人らしさ」は際立ち、デフォルメされた描写に本物らしさが宿っていきます。それぞれのキャラクターにはテーマ曲も設けられ、ブラックフェイスの芸人は歌や踊りとともに黒人を演じるのです。
このようにミンストレル・ショウは、18世紀末ごろに、サーカスで演じられていたアントラクト(幕間の演芸)に始まり、1840年ごろに大体の骨組みが出来上がり、50年代に大衆化し、60年代に最盛期を迎えたと言われます。ショウはテントの中で行われ、一座は町から町へと移動して公演を行いました。中には海外まで出かける一座もありました。19世紀後半には、ミンストレル・ショウの規模も拡大し、やがて数十人から百人の芸人を擁する一座も現れたといいます。しかし19世紀末には人気が低下し、ヴォードヴィルや映画などに取って代わられたと言われます。その後のアメリカ文化の展開に決定的な影響を及ぼした。
アメリカの大衆娯楽の歴史などを扱った記述などを読んでいて、よく出てくる言葉にはこの「ミンストレル・ショウ」を初め、「ヴォードヴィル」、「メディスン・ショウ」、「レヴュー」などがあります。それぞれがどう違うのか、どう関係するのかがよく分からない部分もありますが、折に触れそれぞれの特徴などをわかる範囲で記していきたいと思います。 現在僕の理解では、まず興隆した大衆芸能が「ミンストレル・ショウ」で、それが「ヴォードヴィル」や「レヴュー」などに発展したというか姿を変えていったのではないかということです。「メディスン・ショウ(medicine show:薬屋のショウ)」はその名の通り、薬屋さんが薬を売る目的で人々を集めるために行ったショウで主に南北戦争後に盛んに行われるようになりました。

「ミンストレル・ショウ」の影響

この「ミンストレル・ショウ」は、演劇や音楽、政治的な側面、人種問題などへの様々な重要な影響を及ぼします。

1.地域

ブラック・フェイス

この「ミンストレル・ショウ」が流行った中心は、主に北部の都市でした。ではなぜ北部の都市で流行ったのでしょうか?それは北部の都市部にすむ白人達は、南部の黒人に興味を持っていましたが、日々彼らがどのような生活をしているかは知りませんでした。「異なる体つきの生き物」というイメージしか持っていなかったようです。ミンストレル・ショウは白人による黒人イメージを創り上げ、それをステレオタイプ化したと言っていいでしょう。こうして白人たちは、黒人たちを愚かなものとしてからかって面白がり優越感を味わっていたのではないかとしています。
こうした人種差別の構造が、主な観客を構成する白人労働者階級の政治意識を反映したものであることは言うまでもありません。都市の労働者階級を支持基盤とする民主党は奴隷制を支持していましたが、ミンストレル・ショウでは純粋無垢な奴隷が白人の主人の下で幸せに暮らす姿など、南部プランテイションの想像上の牧歌的な風景がしばしば描かれました。逆に奴隷制廃止論者は偽善者や臆病者として造形され、人種混淆に積極的な卑劣な人物として演じられることが多かったといいます。ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』(1852)が奴隷制を告発したとき、ミンストレル・ショウでは小説に反対するパフォーマンスが数多く繰り広げられたといいます。

2.白人の連携

歴史学者デヴィッド・ロディガーは、ミンストレル・ショウは、様々な移民で構成される白人労働者階級が「白人」というアイデンティティを獲得するのに有効に機能したとのべています。例えばカトリック教徒で乱暴者というイメージを持たれていたアイルランド系移民は初期ミンストレル・ショウに数多く出演していました。彼らは自らの故郷の歌をステージ上で積極的に披露しました。
舞台で上演された彼らの<黒人音楽>が、実はアイルランドのメロディーに黒人英語の歌詞を乗せたものであることはすでに明らかになっています。実際スティーヴン・フォスター、ヴァージニア・ミンストレルズのダン・エメット、クリスティー・ミンストレルズのジョージ・クリスティらはアイルランド系であり、彼らの多くは1820年代から40年代にかけてアメリカに移住し、主に都市の下層階級を形成しました。彼らは、「迷信深く、暴力的で、怠惰で、無知」というイメージによって、アメリカ先住民や黒人と同列に扱われ、反カトリックとも相まって差別の対象にされたのです。そして20世紀に入ると今度は多くのユダヤ人がアイルランド人に代わってミンストレル・ショウ、そして新しいメディアである映画に出演するようになります。そしてボヘミア地方のポルカなどもレパートリーに加えられていくようになります。
新大陸で差別の対象になったアイルランド人とユダヤ人。彼らは白人内の差別を、ブラックフェイスという偽装によって、表面上の<黒さ>の背後にある<白さ>を強調し、白人/黒人の二項対立に参加し、「白人」としての相対的地位を獲得するのです。
つまりこういうことです。観客は舞台で演じられている黒人は、実は黒人ではないことを十分に知っています。この見せかけの黒人を演じている人間は、実はあなたと同じ白人ですよ。こうして同じ白人である私が愚かな黒人を演じてお互いに楽しんでいるんですよ。我々は同じ白人なんですよ。それにしても黒人はおろかですよねぇ。という白人という枠で括るという構造だというのです。

3.黒人パフォーマーの登場

さてこのミンストレル・ショウには、奇妙なことが起こります。1840年代から50年代にかけて、黒人自らがミンストレル・ショウに出演するようになり、南北戦争の後には黒人が客としてみるようになったという事実です。自分たちが笑いものにされているところに飛び込んでいったのです。そして全員が黒人という一座もでき、”本物”であることを売りにしているのです。
これはどういうことでしょうか?『初めてのアメリカ音楽史』では、次のように述べています。
「白人が黒人をパロディ化しているうちに、だんだん白人たちが黒人文化に興味を持ち、ついに本物を呼んできてしまった。黒人は黒人で、内容のバカバカしさにあきれながら、どうせやるのだったらとそれにノッテしまう。自分自身を嘲笑し、それを通じて白人の黒人感を嘲笑うのです。
その場合黒人たちは、なんとブラックフェイスの化粧しているのです。彼ら自身にとってそれはあくまで芝居のキャラクターであり、現実の自分ではないということの表明です。これはペルソナ(仮面)をつければ真実を語ることができる、という芸術の本質に迫っていると言えます。つまり、現実を演じずに真実を描くということです。」

4.音楽とダンス

ダン・エメットのダンディ・ジム

音楽とダンスはミンストレル・ショーの中心を成し、その人気を左右する大きなポイントでもありました。ショウを見た人たちが家に帰ってからでも楽しむことが出来るように、そして他のミンストレルたちがそれを採用できるように、一座は彼らを特徴づけた歌の楽譜を売り出していました。
演者たちは、ブラック・フェイスで黒人になりすまして歌う歌やダンスは、その通り黒人の音楽やダンスだったのでしょうか?当時の演者たちは、自分たちの歌と踊りは黒人のそれに由来していると主張していたといいます。つまり本物だと言いたかったのでしょう。しかし実際そうだったのかもしれませんが、そうでなければどの程度影響を受けていたのかについては説が定まっておらず、議論の余地が残っているそうです。
現在では、1870年代ミンストレル・ショーのレパートリーに加わったジュビリー(jubilee)と呼ばれた霊歌が、ミンストレル・ショーで使われたまぎれもない最初の黒人音楽と言われています。 とはいえ、ミンストレルの音楽には、黒人文化の何らかの要素を含んでいることは確かです。大雑把に言えばその黒人文化にアイルランド系移民とスコットランド移民の民俗音楽その他ボヘミア地方のポルカなどヨーロッパ伝統音楽などがレパートリーに加えられていたことから相互に影響を及ぼし合ったと考えられるのです。 音楽学者のデール・コックレル氏は、「初期のミンストレルの音楽はアフリカとヨーロッパの伝統の両方の混合で、1830年代の黒人と白人の都会の音楽を区別することは不可能だ」と主張しているそうです。この区分を行うことの難しさは、どれだけのミンストレルの音楽が黒人の作曲家によって書かれたかを解明することによります。それは当時の習慣ではすべての歌の権利を出版社または他のパフォーマーに売るものであったためで、どこに著作権の源があるのかが不明なためです。
黒人の音楽と言ってもそれは、自由黒人の音楽だったと思われます。というのは、奴隷たちが故郷のアフリカ音楽を演奏することはを稀にしか許可されなかったという事情があります。しかし自由黒人たちは、北部の都市部において活発に音楽活動を行っていたようです。
19世紀のニューヨークでは、自由黒人が街角で小遣い稼ぎにシングル・ダンス(shingle dancing, タップダンスの元祖)を踊り、またミュージシャンたちは、バンジョーのようないわゆる黒人の楽器を用いて、彼らが言うところの「黒人(Negro)の音楽」を演奏していました。それと同時に、合法的な劇場も存在していたのです。ニューヨークのアフリカン・グローヴ劇場は1821年に自由黒人により創設されて運営されたものです。ここでは黒人によるステージ・パフォーマンスが行われていました。そしてこの劇場では、シェイクスピアの演目が多く演じられていたというのです。その観衆の大部分も、黒人たちでした。しかし当時のニューヨークのハイブローな人たちからは白い目で見られていたようですが。たぶん白人のブラック・フェイス・パフォーマーたちは、こういった黒人たちのストリート・パフォーマンスやステージ・パフォーマンスから「黒人らしさ」を仕入れていたのでしょう。
音楽には、楽器が欠かせません。ミンストレルの楽器も、アフリカ由来のバンジョーとタンバリンに、ヨーロッパ由来のフィドルとボーンズと、ごた混ぜでした。要するに、初期のミンストレルの音楽とダンスは、本当の黒人文化ではなく、それに対する白人の反応であったと考えてよいでしょう。これはアメリカの白人による、最初の黒人文化の大規模な横取りと商業的な搾取の始まりだったと指摘する研究者もいるようです。
1830年代後半には、明らかにヨーロッパの形式を持つスタイルが、ミンストレルの音楽で人気となりました。バンジョーは演奏技術も向上し、ジョエル・スイーニーによって広められて、ミンストレルのバンドの中心となりました。
バージニア・ミンストレルズのヒット曲「Old Dan Tucker」などの歌は覚えやすい曲で、エネルギッシュなリズム、メロディとハーモニーを持っていました。ミンストレルの音楽は今や踊るのと同じくらい歌われるようになっていたのです。ミンストレルが彼らの黒人のルーツをどこかにやってしまったと不平を言う者もいたそうです。つまり、バージニア・ミンストレルズと彼らの模倣者たちは、観衆がなじみ深くて快いと思われる音楽を演奏して、圧倒的に白人で中流階級の北部人の新しい観衆を喜ばせようとしたのです。
19世紀中頃の白人の観衆は概して、ミンストレルのブラックフェイスによる歌と踊りは確かに黒人のものであると信じ込んでいました。それは彼らミンストレルの演者たちがいつも自身と音楽それ自体をそのように宣伝していたことによります。歌曲は、「プランテーションのメロディ」や「エチオピアの合唱」と呼ばれていたいいます。つまりすべてのパフォーマンスが本物であるとして受け入れるよう観衆をだましていたのです。
その一方で、ミンストレルのダンスのスタイルは、本物の黒人のダンスにはるかに近かいものがあったと言われます。そしてミンストレルの踊りも、他のパートと同じように模倣とは見なされませんでした。
ミンストレル・ショウに関連した黒人の音楽家として最も重要な人は、何といってもW.C.ハンディでしょう。ハンディは元々ミンストレル・ショウのバンド・リーダーでした。彼は1873年生まれなので、ミンストレル・ショウ自体は下火になっていた時期に当たります。そして有名なブルースとの出会いは1903年に起こるのです。また、後にニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァイヴァルで復活するバンク・ジョンソンやジェリー・ロール・モートンも放浪中ミンストレル・ショウのバンドで糊口をしのいだことがあるようです。ミンストレル・ショウは黒人ミュージシャンが喰い詰めたらここに行けば仕事があるといった救いの場であったように思います。

5.フォスターの登場

スティーヴン・フォスター

ミンストレル・ショウから登場し、今日でも歌い継がれて「ポピュラー音楽の元祖」と呼ばれるのがスティーヴン・フォスター(1826〜64)です。フォスターは家庭歌謡(パーラー・ソング)を135曲も作っています。フォスターは自分が作詞作曲したものを一般大衆に向けた商品として出版しました。もちろんこの時代はレコード存在していませんので、シート・ミュージック(楽譜)として販売したのです。
フォスターは歌を作ることを職業にした最初のアメリカ人です。彼は1826年7月4日ペンシルヴァニア州ピッツバーグ近郊の生まれのアイルランド系の白人で、幼いころから並々ならぬ音楽的才能を見せていたといわれます。横笛、ギター、クラリネット、フルートなどを奏でる一方作曲にも精を出しています。15,6歳のころからフルートで旺盛に曲を作っています。曲の展開はほとんどがAABA形式で、スコットランドやアイルランドの民謡と同じです。
フォスターは生まれ育ったピッツバーグ近郊を離れ兄の経営する事務所に簿記係として勤めながら作曲を続けていました。するとピッツバーグに新しくオープンした音楽ホールで彼の音楽が取り上げられる機会に恵まれます。「おおスザンナ」と題されたその曲は、やがて10社以上の音楽出版社がそれぞれ異なるアレンジで発売する大ヒットとなります。しかし著作権の制度に無自覚なフォスターはこの曲の印税をほとんど得ていないといわれています。
やがてフォスターは仕事を辞め専業の作曲家として独立することを決意します。そして1850年〜51年にかけて代表作を次々と発表していきます。「草競馬」、「故郷の人々」などの曲がクリスティーズ・ミンストレルズのステージで初めて上演されました。
ただ彼はミンストレル・ショウという「低級な」舞台の作曲家であることに悩み続けたといいます。フォスターの経済状況は全く好転せず、ついに彼はアルコール依存症となりニューヨークのロウワー・イーストサイドのホテルでひっそりと息を引き取ります。37歳という若さでした。フォスターが生きた時代は、専業音楽家が家族を養えるほど音楽産業が成熟していなかった時代だったのです。
余談ですが、漂流してアメリカ船に救助されたジョン万次郎は、1852年帰国するとフォスターの「おお、スザンナ」を紹介しています。万次郎はアメリカの歌を日本に紹介した第1号です。「おおスザンナ」はアラバマからルイジアナまで旅する話ですが、自身は南部に行ったことがありませんでした。
フォスターは、南北戦争が行われている最中の1846年に亡くなりますが、その37年間の生涯で、およそ200曲を作曲(発表されたのは189曲)。そのうち家庭歌謡(パーラー・ソング)が135曲、ミンストレル・ソングを28曲作っています。有名な「おおスザンナ」は1848年「草競馬」は1850年、「スワニー川」は1851年、「主人は冷たい土の中に」は1852年、「オールド・ブラック・ジョー」は1860年(1835年という説もある)の作です。
さてフォスターの作ったミンストレル・ソングは、黒人訛りを使ったエチオピアン・ソングと農園で働く黒人奴隷の生活を歌にしたプランテーション・ソングでした。ミンストレル・ショウに曲を提供するには、黒人を主題にした曲を作るのが条件でした。彼は、「間抜けで善良な黒人」というステレオタイプを描いているものの、その穢れのない愚かしさを共感を持ったまなざしで見ているように感じます。そこには1852年に出版されたストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」に感化された可能性もあります。フォスターの52年以降に作られた作品、「主人は冷たい土の中に」、「ケンタッキーの我が家」、「オールド・ブラック・ジョー」などの歌詞には、黒人の運命に同情的な優しさが感じられます。

6.ミンストレル・ショウの政治利用

こうした人種差別の構造が、主な観客を構成する白人労働者階級の政治意識を反映したものであることは言うまでもありません。都市の労働者階級を支持基盤とする民主党は奴隷制を支持しましたが、ミンストレル・ショウでは純粋無垢な奴隷が白人の主人の下で幸せに暮らす姿など、南部プランテイションの想像上の牧歌的な風景がしばしば描かれました。逆に奴隷制廃止論者は偽善者や臆病者として造形され、人種混淆に積極的な卑劣な人物として演じられることが多かったといいます。ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』(1852)が奴隷制を告発したとき、ミンストレル・ショウでは小説に反対するパフォーマンスが数多く繰り広げられたといいます。
「ジム・クロウ」はそう言った野蛮で無知で愚かな黒人といったイメージを全米各地に植え付けていきます。毎日厳しい条件で働く白人小作農や産業労働者たちは、これらの自分たちより下の愚かな黒人たちを見て、嘲笑い日ごろの鬱憤の留飲を下げたのです。つまり「ジム・クロウイズム」とは、黒人蔑視主義、黒人蔑視信仰のことです。
しかし隆盛を誇ったミンストレル・ショウも19世紀後半になると次第に疎んぜられ、第一次大戦がはじまるころには、大衆性を失っていきます。そのころにはすでに教養のある黒人が出始めていました。彼らにとって、ミンストレル・ショウは我慢のならぬものだったのです。このミンストレルのブラックフェイスという芸は当然人種差別そのもので、それに対する批判は同時代にも存在しました。同時代のもっとも有名な黒人指導者の一人、フレデリック・ダグラスは、
「彼らは白人社会の汚れたくずのような存在であり、生まれつき与えられていない皮膚の色を金儲けのために我々から盗み、白人の仲間たちの堕落した趣味に媚びている」
と述べ、批判しています。

7.ミンストレル・ショウの終焉

1908年と09年、ニューヨークのブロードウェイの劇場に、「ジョージ・コーハン・アンド・サム・ハリス・ミンストレル一座」が有名どころのミンストレル・ショウとして最後の小屋掛けを行いますが、客入りは不入りで公演は短期間でいずれも終了し、これがブロードウェイにおけるミンストレル・ショウの最後となりました。

8.アメリカン・エンターテイメント産業の勃興

この「ミンストレル・ショウ」は、このようにいろいろな問題をはらんでいました。特に人種差別を公然と行いながら現在のエンターテイメント産業の草分け的存在であったことは否定できません。最近は深く色々な研究がなされていますが、ここでは概要を知っていただければ十分でしょう。詳細に知りたい方は、直接研究書をご覧いただいた方がよいと思います。

最後に余談を一つ。

ミンストレル・ショウは、なんと日本にも来ているのです。横浜、函館、下田、那覇などで開催されています。その名も「ジャパニーズ・オーリオ・ミンストレルズ」!。1854年日米和親条約を締結しようと2度目の来航を果たしたペリー提督は、交渉を行った日本人たちを接待したのですが、その中に「黒ん坊踊り」(Ethiopian minstrel show)というものについての描写があるそうです。ペリーは日記に「林大学頭(だいがくのかみ)の厳粛ささえも、この非常に面白い見世物が起こした陽気な楽しさに逆らうことはできなかった」と記しています。日本でも大変ウケたようで、幕府の要人は、彼らと一緒にポルカを踊ったといいます。絵も数点残されているようです。この時フォスターの「草競馬」、「主人は冷たい土の中に」などの数曲が演奏され、戯曲「リヨンの娘」に基づく喜劇も演じられたそうです。
アメリカのペリーが突然蒸気船4隻を率いて初めて現在の神奈川県・浦賀に現れたのは、1853年のことです。ペリーは開国をせまり、通商を求めてきたのですが、突然のことに慌てた幕府は、取り急ぎ回答を保留し、1年後に回答を行うことを約します。そこで1年後ペリーは約束通りやって来たのですが、その時には当然ペリーのアメリカ側も日本の幕府側もいろいろ作戦を立てていたことでしょう。アメリカ側の日本懐柔策の一つが、日本の交渉役の接待だったのでしょう。

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