そもそもアメリカと黒人 11 20世紀 その1

国際情勢とアメリカ

一言で言ってしまえば、ヨーロッパ列強の様々な面での対立から第一次世界大戦(1914〜1918)が勃発します。初めての世界規模での大戦です。ドイツ・オーストリア連合とイギリス・フランス・ロシア・日本などの連合との戦いでしたが、ロシアが国内で起こった社会主義革命「ロシア革命」によってほぼ大戦から撤退するような状況の中、ドイツ・オーストリア連合に引導を渡したのはアメリカの参戦でした。戦後処理については、イギリス、フランスなど旧勢力などの事前交渉がほとんど済んでおり、その主役はこれまでとほとんど変わっていませんでした。しかしその後の世界においては、アメリカの発言力が大きな影響力を持つようになります。そしてそれまでのヨーロッパ列強に加えて、アメリカが提唱して国際会議が行われるまでに国際的な地位が上昇した時期といえるでしょう。

ヨーロッパ

19世紀ヨーロッパ地図

19世紀末から20世紀初めにかけても世界を動かしていた中心はヨーロッパでした。そのヨーロッパでは、各国が自国の安定と勢力の拡大を目指して非常に不安定な状況にありました。その最大の火種といえば、バルカン半島を中心とした東ヨーロッパ地域でした。南下を目論むロシアは1877年トルコに攻め込みます。露土戦争です。とそれを阻もうとするイギリスの対立もトルコへの干渉を強めます。そしてその決着をつけるべく国際会議がビスマルクの主導の下ベルリンで開かれます。そこでその後の領土体制が決められます(ビスマルク体制)が、もちろんどの国もいろいろな思惑があり、満足しての決着というわけではありませんでしたし、勝手に領土を分割されたバルカン半島の人々の怒りもありました。またそこにナポレオン時代からの混乱から復興してきた大国フランスも加わり混迷を深めながら帝国主義の時代へと向かっていくのです。

ヨーロッパ列強によるアフリカの分割

ヨーロッパ列強は、帝国主義政策を強め、アフリカ、アジアでの植民地の獲得にしのぎを削ります。そして1884〜85年ベルリンでアフリカの植民地会議が行われ、勝手にアフリカの領土分割を討議するのです。その結果1893年フランスはアフリカ西部、ダホメ王国を征服、植民地化し、1896年にはイギリスはアシャンティ王国を征服、植民地化します。両国とも奴隷貿易で?栄していた国です。これらによって19世紀中にアフリカに黒人国はなくなってしまい、19世紀の終わりにはアフリカ全大陸の9割が植民地となってしまいます。

ヨーロッパによるアジアへの進出

アジア各国への列強の進出は続いていました。特に大国である中国に対してイギリスはすでに1839〜42年のアヘン戦争の勝利によって、清国への進出基盤を固めていましたが、フランスも1884〜85年清仏戦争などにより進出を積極化し、日本も1894〜95年の日清戦争で進出の意欲を示し、ドイツも1897年膠州湾を占領し、清国の列強分割が進行します。

アメリカの対外政策

アメリカは1880年代までは海外への膨張意欲を露骨には示していませんでした。どちらかといえば、新大陸における覇権の確立に注力していたのです。1889年第1回汎米会議をワシントンで開催します。この会議の目的は新大陸からヨーロッパ列強を排除し、アメリカのヘゲモニーを確立することにありました。
そして1893年1月ハワイで起きたクーデターに乗じて出兵、1898年7月1895年(〜1886年)ヴェネズエラにおけるイギリスとの紛争に関わりイギリスの譲歩を引き出し、1898年米西戦争勝利でハワイ併合を併合、フィリピンも買収します(※)。このようにラテン・アメリカへの覇権を強化し、極東への橋頭堡を固めつつありました。そして1900年7月アメリカ国務長官ジョン・ヘイは、ヨーロッパ列強に対し、清国の門戸解放の機会均等を主張するのです。 1898年12月米西戦争終結に当たって、フィリピンをスペインから買収しますが、併合の是非を巡っては連邦議会は大揺れに揺れます。これはアメリカが帝国主義をとるべきか否かという問題のように扱われますが、実際はそうではありません。要は黒人問題を抱える南部はまたもや同じような問題(褐色人種)を帝国内部に抱え込むのではないかと反対したのです。
反対論者の意見は、併合すればフィリピン人が、そのころすでに「黄禍」と呼ばれて恐れられていた黄色人種の大量の流入のように流れ込み、アングロ・サクソンの優位が脅かされるのではないかという危惧を抱いたというのです。中国人もフィリピン経由で大量に流入するだろうということを恐れたのです。結局1916年、連邦議会はフィリピンに1945年までに独立させることに決定しました。

アメリカの対ラテン・アメリカ政策

1904年12月、セオドア・ルーズベルトは年次教書を発表します。その内容は、「西半球のどの国も、合理的な能率と品位を以て社会的、政治的問題を処理し、秩序を守り義務を果たす限りは干渉を恐れる必要はない。合衆国はモンロー主義を厳守していこうとしているが、文明社会との結びつきを緩める結果をもたらすような失政や無能力がはなはだしい場合には、不本意ながら国際警察力として行動しないわけにはいかない」と述べます。この場合の「文明社会」とはもちろん「アメリカ合衆国」のことです。このいわゆる「良き隣人」政策はその後の30年間にラテンアメリカやカリブ海での数多い干渉の口実になり、その大半はアメリカの実業界の利益を守るために使われていきます。
アメリカは大西洋と太平洋を繋ぐ運河の代替ルートとしての可能性からニカラグアに介入して1912年から1933年まで軍事的占領が行い、1915年にはハイチを軍事占領し、ドイツによる諸島侵略の可能性を理由に、19年間(1915年-1934年)ハイチ占領を行い、さらに1916年にはドミニカ共和国を占領しました。
しかし一方メキシコでは1916年3月、パンチョ・ビリャが1,500人のメキシコ人を引き連れて国境を越え、ニューメキシコ州コロンバスに駐屯していたアメリカ軍騎兵分遣隊を攻撃し、100頭の馬やラバを捕獲し、町を焼き市民17人を殺害するという事件が起こります。これに対してウィルソン大統領はジョン・パーシング将軍の指揮で12,000名の軍隊を派遣して鎮圧します。

第一次世界大戦

ルシタニア号沈没

1914年6月28日オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻がサラエヴォでセルヴィア人秘密結社員に狙撃されるという事件の発生(サラエヴォ事件)を皮切りに、セルビアとオーストリアの間で戦端が開かれてしまいます。この波紋が全ヨーロッパに広がり、同年8月にはドイツとフランスの開戦にいたり、ついには全ヨーロッパだけではなくアジアなども巻き込む史上初めての世界規模での大会戦に発展します。
アメリカ合衆国は1914年に第一次世界大戦が始まったとき断固として中立を維持していました。しかし1915年5月イギリス船籍の豪華客船ルシタニア号がドイツのUボートの攻撃により撃沈するという事件(ルシタニア号事件)が発生します。この事件で1.198名もの方が命を落としましたが、そこにはアメリカ人が128名含まれていました。この事件発生後アメリカは次第に対ドイツ参戦へと傾いていったと言われます。そこに1917年2月ドイツは無制限潜水艦戦を宣言します。これは中立国の船舶に対しても無制限に潜水艦による攻撃を行うということです。このドイツの潜水艦により米国からの物資を積んだ船が撃沈されることは、連合国、アメリカにとってかなりの痛手となることは必至です。そして実際にルシタニア号事件によって多くのアメリカ人が犠牲になりました。
もともとアメリカの政治や産業で影響力ある人たちの中には、この戦争の初めからイギリスやフランスの側に好意を寄せる傾向が強かったのですが、一方かなりの数の市民(多くのアイルランド人やドイツ人を含む)はアメリカがヨーロッパでの抗争に(少なくともイギリス側につく形で)巻き込まれることに断固として反対しており、1917年4月6日に行われたアメリカ合衆国議会での参戦決議では、全会一致というわけではありませんでした。アメリカはイギリス、フランスなどの連合国に1914年8億2000万ドルの援助をしていました。それが16年には32億2000万ドルに跳ね上がります。こういった援助を受けられなくなると連合国にとっては致命傷となりますが、米国の経済にとってもこの援助金が回収できないとなると相当な痛手となります。ここに至ってアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、軍需品製造業者や銀行業者の強い後押しを受け、参戦を決意します。
ウィルソンは参戦に当たって、「合衆国は世界を民主主義にとって安全なものにするため参戦する。いかなる征服、領土も求めない。」と宣言します。しかしドイツがデンマークを占領することでデンマーク領ヴァ―ジン諸島を領有する恐れがあり、アメリカ合衆国は戦争に入る前にこの諸島を2,500万ドルで買収しました。
また、アメリカ合衆国は、アメリカがドイツに宣戦布告した場合にメキシコにアメリカに対する宣戦布告を行うよう求める「ツィンメルマン電報」と呼ばれるものを傍受したことを明かしました(傍受したのはイギリス)。ドイツはメキシコに、アリゾナ州、ニューメキシコ州およびテキサス州を占領するよう提案していたのです。これらの地域はすべて米墨戦争(1846年-1848年)の結果でメキシコがアメリカに割譲したところでした。これは実際にはドイツによる示威行動であり、メキシコは軍隊が弱く、政治的にも安定していなかったので、そのような冒険をする余裕はありませんでした。

ウッドロウ・ウィルソン大統領

第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、アメリカ大統領ウィルソンは有名な「十四か条の平和原則」を発表します。そしてフランスの戦場では、到着したばかりのアメリカ軍が1918年夏に疲弊しきっていた連合国軍を鼓舞することに重要な役目を果たします。ドイツの最後の攻勢(春の攻勢)を押し返し、連合軍最後の攻勢(100日間攻勢)を推し進めました。そして数ヶ月後の1918年11月11日ドイツは降伏し、第一次世界大戦は終結します。
1919年1月ドイツの処遇とその後の体制を討議するパリ講和会議がスタートします。イギリス、フランスおよびイタリアはヴェルサイユ条約でドイツに対して過酷な賠償金を課します。 アメリカはドイツが条約をより受け容れやすくすることを要求しましたが、イギリス、フランスなどは同意せず、ドイツに課された賠償金の額は過酷なものとなります。これが遠因となり後のヒトラー台頭の原因となり、ヨーロッパにおける第二次世界大戦に繋がっていきます。またこの条約は、戦勝国の一つ日本の要求に応える内容が盛り込まれず、後に日本に軍事独裁の基盤を造り、太平洋における第二次世界大戦に繋がっていくことになります。
1月22日議会でウィルソンは「ヨーロッパにおける平和の核心的条件」という講和の条件を演説します。そこで提唱された条件とは、
1.民族自決 2.海洋の自由 3.軍備の縮小 4.勝利なき平和 5.世界平和機構の設立でした。これらは1915年以来第2インターナショナルなどで唱えられてきたものでした。
パリ講和会議では、第一次世界大戦終結に大きな力を発揮したアメリカの大統領ウィルソンの提唱した「国際連盟」設立が企図され、その規約案が作成開始されます。規約案は1919年4月28日の第5回連合諸国会議(講和会議)総会へ報告され、採択されます。
1920年1月10日ヴェルサイユ条約が発効され、初めての国際的な平和機関、国際連盟が誕生しますが、ドイツ、ソヴィエト、そしてアメリカは参加しませんでした。アメリカ合衆国上院はヴェルサイユ条約を批准しませんでしたが、ドイツとその同盟国と別の停戦条約を結びました。上院はウィルソン政権下で、新しく創られた国際連盟に加入することも拒否したのです。
一方ロシアでは、大変なことが起こっていました。1917年1月22日ペトログラードのプチロフ工場でストライキが発生、これがゼネ・ストに発展し、ロマノフ王朝の倒壊にまでつながっていきます。ロシア3月革命です。さらに11月には、レーニン率いるボルシェビキが政権を奪取します(ロシア11月革命)。これに連動して、1918年敗戦色濃くなったドイツでは共産主義革命の動きが活発化しはじめます。そしてついにヴィルヘルム2世が退位し、1918年11月11日ドイツは降伏するにいたるのです。

大戦後経済の繁栄と国力の上昇

大戦後合衆国は未曽有の経済繁栄を遂げます。36億ドルという世界一の債務国から一挙に29億ドルという世界一の債権国になったのです。要は金を海外に送って、自分たちの商品を買わせていたのです。金保有量は、戦前19億ドル弱でしたが戦後数年で46億ドルと全世界の半分近くを保有するようになります。
そして1921年8月13日アメリカ大統領ハーディングは、イギリス、フランス、イタリア、日本、中華民国、ベルギー、オランダ、ポルトガルの8か国へワシントン会議への召集状送付します。これが1921年11月12日〜1922年2月6日まで開催されたワシントン軍縮会議です。このような国際会議は、イギリスやフランスなどヨーロッパの国が開催するのが普通でしたが、はじめてアメリカが提唱して開催されることになりますが、まさにアメリカの国際的地位を示すものといえます。なお、この会議は1927年のジュネーヴ会議、1930年のロンドン会議とともに軍縮会議と捉えられていますが内実は、日本の太平洋、中国進出を制限するためのものでした。

科学技術の推進と工業化の進行

1913年フォードの工場

この時代は、次々に開発される科学技術とそれを活かした製品、そしてそれを作る製造技術がこれまでにないような急速な発展を遂げた時代です。まさに現代社会の基礎となるような工業化が行われた時代だと思います。
通信では、1876年グラハム・ベルが「電話」を発明し、1896年にはイタリア人マルコーニが無線電信装置を発明します。19世紀前半に発明されていた写真技術を改良して、1888年にはコダックが小型写真機発売を発明し、1893年エディソンは映写機(キネトスコープ)を作り、フランスのリュミエール兄弟はカメラ、映写機、プリンターの複合機を1895年パリで開催された科学振興会で公開します。1887年ドイツのダイムラーは小型内燃機関を四輪車に取りつけることを考案、1902年ヘンリー・フォードは自動車会社設立、フォードの自動車製造工場は流れ作業を取り入れたオートメーション工場の走りとなりました。
挙げれば切りがなく、かつそれぞれの分野で1冊や2冊の本を書けるくらいの内容があるのですが、僕が気になるのはやはり「ジャズ」に関連することです。実はこの時代に現代でも使われている、録音そして再生というレコードに関する技術、そしてラジオ、それに何よりもそれらを支える電気に関する技術が開発され、ものすごいスピードで普及しているのです。1880年代からアメリカでは配電システムが普及し、途中エディソンの直流とジョージ・ウエスティングス、ニコラス・テスラ陣営の交流による「電流戦争」があったようですが、1920年代にはかなりの部分の家庭まで、電気は行き渡るようになります。現在我々の家庭では、各部屋に据え付けてあるコンセントまで電気が届いていて、電気器具のソケットを差し込めばその器具が使えるのは当たり前になっていますが、このシステムというのはものすごいものだと思うのです。これがなければレコードも聴けず、ラジオも聴けず、ジャズがここまで普及したかどうか分かりません。
レコード、ラジオの技術開発については、「僕の作ったジャズ・ヒストリー」の方で少し詳しく触れたいと思います。

市民生活

農民
19世紀後半西部の開拓が進み、開拓者たちが西部に進めば進むほど、その産品を市場に送り出すためには独占的鉄道への依存率が上がっていきます。同時に農夫たちは工業生産品に高い代金を払わされ続けます。これは東部の工業資本家に支えられた連邦政府の保護関税政策が長く維持されたためでした。そして次第に中西部や西部の農民たちは、その土地の抵当権を持っている銀行に大きな借金を背負うようになっていきます。
また南部では、南北戦争後奴隷制度はなくなり、小作農が種や生活必需品と引き換えに土地所有者に収穫品の半分を渡すというシェア・クロッピング制度が行われるようになりました。推計では南部のアフリカ系アメリカ人農夫の80%、および白人農夫の40%はこの仕組みの下で生活せざるをえないことになりました。シェア・クロッパーの大半は借金の循環に閉じ込められ、そこから唯一逃げ出す手段は収穫量を上げることでした。しかしこのことは綿花やタバコの生産過剰に繋がり(販売価格の低下と収入の減少に繋がる)、土地は疲弊し、土地所有者も小作人も貧乏になる者が多かったのです。
一般的な農業問題に対処しようとした最初の組織的な動きは農民共済組合の組織化でした。すでに1867年にアメリカ合衆国農務省職員によって始められたこの動きは、当初大半の農家が経験していた孤立化に対抗する社会運動になっていきます。女性の参加が積極的に奨励され、1873年恐慌で加速された組合運動は2万の支部と150万人の組合員数を誇るようになります。農民共済組合はその大半は結局失敗しましたが、独自の市場、店舗、加工工場および協同組合を設立に繋がっていきます。また1870年代には幾らかの政治的成功も収めます。幾つかの州は農民共済組合法を成立させ、鉄道と倉庫の料金を制限することに成功します。
1880年までに農民共済組合運動は衰退し始め農夫同盟に変わっていきます。1890年までにこの同盟はニューヨーク州からカリフォルニア州まで約150万人の会員を集めます。これと並行してアフリカ系アメリカ人の組織である有色人農夫全国同盟は100万人以上の会員数に上りました。
農夫同盟はその開始時点から精巧な経済プログラムを持った政治的組織でした。初期の政治綱領に拠れば、その目的は「アメリカの農夫を階級的立法や忍び寄る集中資本から保護するために団結させる」ことでした。そのプログラムは鉄道を完全に国有化できなければ規制し、借金を返し易くするためにインフレを助長し、関税を下げ、政府が所有する倉庫や低料金の賃貸施設を設立することも要求しました。
1880年代後半、一連の旱魃が西部を襲います。4年間でカンザス州の西部は人口の半分を失ってしまいます。事態をさらに悪くしたのは1890年のマッキンリー関税で、これはこれまでになく高い関税でした。これが農機具の価格を上げアメリカの農夫にとって大きな打撃となります。
さらに大戦後農業は衰退し始めます。大戦後ヨーロッパ市場は閉鎖され、戦時中農民は、やたらと土地を買い入れ負債を増やしていていました。農産物は市場価格ですので品物がだぶつけば価格は下がります。しかし工業製品は独占資本に操られた統制価格だったのです。
工場労働者
一方工場労働者の生活はどうだったのでしょうか?
19世紀アメリカ工場労働者の生活は、現在のアメリカ合衆国工場労働者の生活に比べ、容易なものではありませんでした。賃金はヨーロッパと比べて2倍と高かったのですが、労働条件は過酷でゆとりはありませんでした。1873年と1893年には国内を恐慌が覆い、賃金は下がり、失業率が上がり不完全雇用率も上昇しました。
同時に全国の生産性を上げた技術の改良が継続的に熟練労働の需要を減らし、未熟練労働者の需要が増加しました。さらに1880年から1910年までに前例の無いような1,800万人の移民がアメリカ合衆国に押し寄せ、仕事を求めた結果未熟練労働者の予備軍は常に増加し続けたのです。
1874年以前はこの国で事実上労働に関する規制がありませんでした。この年、マサチューセッツ州が女性と子供の工場労働者は1日10時間に労働時間を制限する最初の法律を定めます。しかし、この件に連邦政府が積極的に関わったのは1930年代になってからでした。その時代まで労働条件は州や自治体の当局に任され、富裕な工業資本家に対するように労働者に対応できる役人はほとんど居なかったのです。
富裕な工業資本家の代表的な存在であるジョン・ロックフェラーは、「大企業の成長は単に最も適応できるものが生き残ることである」と言ったといわれています。「社会ダーウィン主義」として知られるこの考え方は、事業を規制しようという如何なる試みも種の自然進化を遅らせるだけのものであると主張する多くの富裕層に支持されました。
こうした考えを反映して何百万もの労働者の生活と労働条件はお粗末なもので、生涯貧乏から逃れる望みは僅かなものでした。移民労働者は混み合った不潔な賃貸住宅に住んでいました。こうした工業化がアメリカの労働者の貧窮度を固定してしまっていることは、「百万長者の宮殿と労働者の小屋の対照」と言ったアンドリュー・カーネギーのような企業指導者ですら認めていたほどです。カーネギーのその高貴な感覚にも拘わらず、その工場での労働条件は他より良いわけではありませんでした。1900年には既にアメリカ合衆国の労働に関わる死亡率は世界の工業化されたどの国よりも高くなっていたのです。工場労働者の大半は1日10時間(鉄鋼産業では12時間)働き、生活に必要な賃金の20%から40%少ないものしか得られなかったといいます。この状況は1870年から1900年の間に2倍になっていた児童労働者の場合はさらにひどいものでした。
こうした状況の中、労働者たちの権利を獲得しようとする労働組合運動がおこります。労働組合運動は工業化の尺度と言われます。組合運動は最初イギリスで起こります。1868年全国労働組合大会が開催され、全国の組合員数は25万人に上りました。次いでドイツで、そしてフランスで組織ができていきます。そしてアメリカでの最初の大きな動きは1869年に結成された労働騎士団(ナイツ・オブ・レーバー:Knights of labor)だったといわれます。これは元々フィラデルフィアの衣料労働者によって組織化された秘密の儀礼的組織でしたが、アフリカ系アメリカ人、女性および農夫などあらゆる労働者に門戸が開かれていました。このナイツ・オブ・レーバーは1885年のストライキでは鉄道貴族といわれたジェイ・グールドを屈服させるくらいにまで成長していました。そしてこのことからさらに会員を増やし、翌1886年には新たに50万人の労働者が加盟しました。 しかし、ナイツ・オブ・レーバーは間もなく衰退し、労働運動の中心は新た1886年に結成されたAFL(アメリカ労働組合連合)に移っていきます。葉巻製造会社の元組合役員だったサミュエル・ゴンパーズが指導したアメリカ労働総同盟は、全ての労働者を対象にするのではなく、熟練労働者に焦点を当てました。ゴンパーズの目的は純粋かつ単純で、賃金を増やし、労働時間を減らし、労働環境を改善することでした。この考えは初期の労働指導者たちが信奉した社会主義的見解から距離を置いたもので、国内で次第に認められる組織にはなっていきましたが、未熟練労働者については何の活動も行いませんでした。
この未熟練労働者の待遇改善という目標は、企業経営者の認めたがらないもので、アメリカ合衆国の歴史の中でも最も激しい労働争議に繋がっていきます。その最初のものが1877年の鉄道大ストライキであり、国中の鉄道労働者が経営者の賃金10%カットに反応してストライキを行いました。スト破りを行ったことでボルティモア、シカゴ、ピッツバーグ、バッファロー、およびサンフランシスコなど幾つかの都市では流血を伴う暴動に繋がっていきます。
このように一般労働者の生活状態も決して好転しませんでした。ビジネス黄金時代と言われたこの時期、人口1億2000万人中8500万人が貧困層だったという矛盾が起こっていました。

大衆の登場

エドガー・アラン・ポー

19世紀末最後の30年間に行われた技術革新による機械化と工業化は農村から都市への人口の大量流入を引き起こしました。この年に流入した人々が「大衆」と呼ばれるようなこれまでにない「層」を形成していきます。この「大衆」というそうの形成には「教育」の普及が不可欠でした。
実は、1860年代初めころ、ヨーロッパやアメリカでも「読み・書き」ができない者が国民の大半を占めていました。イギリスでは男性の三分の一、女性の二分の一は読むことも書くこともできませんでした。フランス、ベルギ―では全人口の半分、イタリア、スペインでは四分の三、ロシアとバルカン諸国では90%が「読み・書き」ができませんでした。ではなぜこの時代教育は必要となったのでしょうか?
1.工業化
まず、工業化が進み機械化が進むことで、労働者に「読み・書き」、「加減乗除」程度の初等教育が求められるようになったのです。これまで職人の親方が弟子にマン・トゥ・マンで技術を伝えるのではなく、未熟練労働者に作業手順などを書いた紙を渡しそれに従って機械を操作すれば、生産や加工ができるという時代になって来たのです。その場合労働者が「読み・書き」出来なければ非常に効率が低いものになります。
2.都市化
人口の稠密な都市ではより敏速な社会活動、経済活動が求められます。そのような活動形態に対応できるには、ある程度の知識は必要です。
3.時代の潮流
当時の知的自由主義の思想潮流もその普及に貢献しました。
4.人道的自由主義者の主張
また当時の人道的自由主義者達は、万人に平等な初等教育を国が行うことによって、機会均等を図るべきであると主張しました。
また戦時に当たっても、「読み・書き」もできない暗愚の民よりも、指令書を書けば下々まで伝わるような軍隊が望ましく、教育水準の高い国の方が戦争も強いと考えられるに様になったのです。その結果各国の「読み」「書き」のできる人の割合は急速に増加します。
1900年時点でイギリスの95%、フランスも95%、ベルギーは86%が「読み・書き」が出来るようになります。つまり20世紀の初めにはこれらの国のほとんどの人が「読み」「書き」ができるようになっていたのです。ただしオーストリア、イタリア、ハンガリー、スペイン、ポルトガル、ロシアではかなり遅れが生じていました。
こういった下地ができたことでジャーナリズムも成り立つようになります。ヨーロッパ全体で1828年に発行されていた新聞の数はおよそ2200紙でしたが、それが1900年には12000紙に達するようになります。アメリカで「大衆新聞」隆盛のきっかけを作ったのがユダヤ人のジョゼフ・ピューリッツァ―です。彼は1883年「ニュー・ヨーク・ワールド」を買収し全米一の読者数を誇る新聞に発展させました。
また文学において19世紀末は、現代でも読み継がれる文学的古典の名作も数多く登場しました。その代表はエミール・ゾラ、フローベール、トルストイ等々ですが、これらは知識階級のもので、一般大衆が好んだのは探偵小説でした。これに先鞭をつけたのが、アメリカのエドガー・アラン・ポーです(1840年代)。そしてイギリスにはコナン・ドイルが登場し、彼が1880〜90年代に発表したシャーロック・ホームズ物は大人気を博しました。
他にはスティーヴンソンの冒険小説「宝島」(1883)、怪奇小説「ジキル博士とハイド博士」(1886)、『ジャングル・ブック』(1894)、空想科学小説「海底二万哩」(1870)、ウエルズ「透明人間」(1895)などが執筆されます。
詩の分野ではステファヌ・マラルメ、そしてヴェルレーヌ、アルチュール・ランボー、イギリスのオスカー・ワイルド、ベルギーのメーテルリンクなどが素晴らしい作品を残します。
絵画では「印象派」と呼ばれる画家たちが活躍します。フランスのマネーなどが有名です。また後期印象派は、セザンヌに始まると言われるそうです。
音楽においてはドビュッシー、ラヴェル等の印象派そしてシェーンベルク(1874〜1951)等も活動を開始しています。

移民問題

1902年 移民

1840年から1920年の間に、前例になく多様な移民の波がアメリカ合衆国に到着し、総数は約3,700万人に上りました。彼らは様々な地域からやって来ました。およその内訳は、ドイツ人600万人、アイルランド人450万人、イタリア人475万人、イングランド、スコットランドおよびウェールズ合わせて420万人、オーストリア=ハンガリー帝国から420万人、スカンディナヴィアから230万人、ロシア人330万人(大半がユダヤ人、およびポーランド人とリトアニア人はカトリック教徒)でした。大半の者たちはニューヨーク港を通って入国し、1892年からはエリス島の移民ステーションからとなりましたが、様々な民族集団が異なる場所に入って行きました。ニューヨークなど東海岸の大都市はユダヤ人、アイルランド人およびイタリア人が多く固まり、ドイツや中央ヨーロッパの出身者は中西部に移動して、工業や鉱業で職を得ました。同時に100万人のフランス系カナダ人がカナダからニューイングランドへ移民してきました。
この時にイタリアから移住してきた移住者の中に後に「アメリカ・マフィア」を形成する者たちが含まれていました。
このようにヨーロッパを中心とする他の大陸から前例の無いような移民の波が訪れ、安い工場労働力を提供し、カリフォルニア州のようなまだ開発が進んでいなかった地域では、多様な地域社会を形成しました。また急激な工業の発展と人口の拡大は、少なからず問題も発生させました。工場における労働者の虐待が暴力を伴う労働運動を生むようになっていきます。工業における虐待慣習によって労働運動は暴力的な様相を示すようになっていきます。
移民はアイルランドのジャガイモ飢饉のような貧窮や宗教あるいは政治的迫害によって母国から押し出され、逃れてきた者も多くいました。彼らはまた仕事を得る機会が多くありそうであることや親族との繋がりでアメリカに惹き付けられたのです。
こうした人々も故郷の文化(その中には音楽も含まれます)を米国に持ち込んだのです。20世紀になってニューヨークで花開いたミュージカルやレビューの作曲家たちの顔ぶれを見るとその多くが新移民1世か2世です。アーヴィング・バーリンはロシアから幼い時にやって来たユダヤ系、ジョージ・ガーシュインもユダヤ系ロシア人の息子です。ジャズ・ミュージシャンや歌手にも新移民系は多く、20世紀前半の大スターだったアル・ジョルソンはユダヤ系、ベニー・グッドマンもユダヤ系、フランク・シナトラはイタリア系です。
こうした新移民の増加に加え、南北戦争後数多くの南部黒人や南部白人が北部の都市に移住してきました。合衆国の都市と農村の人口比率は、1840年代には「都市1:農村9」だったのが、19世紀後半から都市が増えていき、「都市52%:農村48%」に逆転してしまいます。
新移民と黒人の、アメリカ社会への登場こそが、ジャズを含むアメリカン・ポピュラー・ミュージック誕生の最大の契機だったのだというのが村井氏(『あなたの聴き方を変えるジャズ史』)の見解です。
移民の大半が歓迎された一方でアジアからの移民はそうではありませんでした。鉄道建設のために多くの中国人が西海岸に到着しましたが、彼らはヨーロッパからの移民とは異なり、全く異なる文化の一部と見られたのです。カリフォルニア州など西部で激しい反中国人暴動が起こった後で、連邦政府は1882年に中国人排除法を成立させるに至ります。1907年の非公式合意により、紳士協定で日本人の移民も止められました。

禁酒法

禁酒法

さて、この時代の重要な事項として、ボルステッド法(Volstead act正式名:国家禁酒法 National prohibition act)が1919年1月16日に3/4の州が批准し憲法の修正条項が成立し、翌年1月16日に施行されたことが挙げられます。
いわゆる「禁酒法」ですが、下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドに因んで「ボルステッド法」と呼ばれています。ノンベェの僕には「天下の悪法」と思えますが、KKKの団員などは、「高貴な実験(The Noble Experiment)」といって支持されたそうです。
この法律の成立により、酒の製造・販売は出来なくなります。ではアメリカ国民は皆断酒したかというとそういうわけにはいかなかったようで、違法な酒の流通および無許可での製造・販売が激増するのです。
そこで力を発揮したのが、「マフィア」などの非合法組織です。1920年まではマフィアの主な活動は、賭博と窃盗に限られていましたが、禁酒法時代に入ると、無許可で酒を製造販売することで繁栄し出すのです。マフィアの資金源となった酒の闇市は栄え、そこでは暴力沙汰も頻繁に起こり、売春が盛んにおこなわれるようになります。強大なギャングは法執行機関を腐敗させ、最終的には恐喝するようにさえなります。
その代表的存在がシカゴのアル・カポネ(Al Capone:1899〜1947)とその一味で、彼らは違法なアルコールの売り上げで何百万米ドルもの大金を稼いだと言われます。そのギャングを取り締まる連邦捜査官エリオット・ネス(Eliot Ness:1903〜1957)率いる「アンタッチャブル」との凄絶な戦いは映画やテレビドラマにも有名です。実際にギャングとの銃撃戦で連邦捜査官500名もの殉職者を生み、市民やギャングも2千人以上が死亡したと言われているそうです。
また禁酒法を実施するための費用も重大な問題となっていきます。本来アルコールの税金で毎年5億ドルの税収がなくなり、アメリカ合衆国連邦政府の財源はかなり苦しくなるのです。その上1929年世界恐慌が起こると特に都市部において、次第に不興を買うようになります。こうして、禁酒法に対する反感が大都市でも次第に高まり、撤廃を望む意見が出るようになり、1932年の大統領選挙では禁酒法が中心的争点となります。失業対策と農家救済が叫ばれる中、フランクリン・ルーズベルトは禁酒法の改正を訴えて勝利したのです。アメリカ合衆国大統領となったルーズベルトは、1933年3月23日にボルステッド法のカレン=ハリソン修正案に署名したことで、特定の種類のアルコール飲料の製造・販売が許可されることになります。さらに1933年12月5日に、アメリカ合衆国憲法修正第21条は修正第18条を廃止します。つまり「禁酒法」は廃止されたことになります。
しかしカンザス州では1987年まで、バーの様な屋内の中で酒類を提供することを許可せず、ミシシッピ州も1966年まで禁酒法を廃止しませんでした。そして、今日でも酒の販売を制限したり禁止する「ドライ」な郡や町も多数残っているのです。
シカゴのギャング達にはジャズ・ファンが多く、特にカポネは大のジャズ・ファンだったと言われていますが、それらのエピソードは「僕の作ったジャズ・ヒストリー」の方に書いていきたいと思います。

人種問題の悪化

映画「国民の創生」

1870年代末から黒人たちはレコンストラクションの間に得ていた多くの公民権を失い、次第に人種差別を受けるようになって行ったことはすでに述べました。リンチや黒人に対する人種暴動など差別主義者による暴力が増し、南部州における黒人たちの生活水準が著しく後退します。1877年妥協の後で成立したジム・クロウ法、およびクー・クラックス・クランの勃興が社会不安の重要な要因になっていきます。1879年には既に中西部に向けての脱出を決心した黒人たちが多く、第一次世界大戦前に始まった大移住の間にこの動きが激しくなりました。
1896年、合衆国最高裁判所は「プレッシー対ファーガソン事件」判決で、人種分離と「分離すれども平等」原理を支持して、アメリカ合衆国憲法修正第14条と同第15条を実質的に無効にしてしまいます。19世紀に白人が他の全てに対して優れているという誤った概念が科学的思考の潮流になってしまいます。そうして素人の人類学者かつ優生学者で、ニューヨーク動物学協会の会長であるマディソン・グラントは、1906年にニューヨーク市のブロンクス動物園でコンゴ・ピグミー族のオタ・ベンガを猿やその他の動物と共に展示するという暴挙を行います。グラントの命令で動物園の支配人はオタ・ベンガをオランウータンと同じ檻に入れて「失われた環」と表示し、進化論の中でオタ・ベンガのようなアフリカ人はヨーロッパ人よりも猿に近いという仮説を演出したのです。
また「映画芸術の父」と呼ばれるD・W・グリフィス(David Wark Griffith:1875〜1948)の1915年の映画『國民の創生』はクー・クラックス・クランの2度目の勃興を世に広め、「科学的人種差別」理論が以前の差別主義者の偏見や白人至上主義の提唱者に新しく正当性を与えました。
南部州においては、1900年には裁判にける裁判官、保安官、陪審員も白人が独占し、1906年黒人の参政権剥奪が完了します。これで白人支配層は「人種エチケット」を守らないとみなされた黒人には、暴力を振るえることになってしまいます。
ではその「人種エチケット」にはどのようなものがあったのでしょうか?
・黒人男性は白人女性の目を見つめない
・白人と道ですれ違う場合には帽子を取って端による
・白人の家には裏口から入る
・商店で白人客がいる場合、店員が白人と対応し終わるまで待つ
・衣服店では試着をしない
・白人を呼ぶ場合には、「旦那様」、「奥様」などの敬称をつける
等々である
リンチの横行
1889〜1932年まで記録されたリンチ被害者は3745人で大半が南部で起こったものでした。そして被害者の圧倒的多数は黒人でした。かなり悍ましい内容ですが、リンチの実例を挙げてみましょう。

1916年のあるリンチ

1899年ジョージア州ニューマンにおいて行われたあるリンチでは、特別列車が仕立てられ、見物にやって来た子供を含む2000人の群衆の前で、リーダーが「犯人」の耳、指、性器を切り取り、生きたまま火をつけました。そして人々は土産として体の一部を持ち帰ったと言います。
南部で起きた黒人リンチの大半は、何らかの形で白人女性と黒人男性の性的関係を根拠にしていたと言います。「性的野獣」黒人男性から白人女性の純潔を守ることは、白人男性の責務であり、リンチの正当化の根拠とされたのです。
黒人の中産階級の勃興と黒人たちの活躍
20世紀初頭には、黒人を主な顧客とする黒人経営の保険会社、新聞、床屋、美容院、葬儀屋などが定着しました。1891年黒人が経営する最初の病院プロヴィデント病院がシカゴにオープンします。そしてその後全国各地に作られていきます。
黒人のフィスク大学は1871年、ジュビリー・シンガーズを組織し、奴隷歌、霊歌と共にスティーヴン・フォスターの歌を取り入れて全国の白人、黒人の聴衆の前で歌い大成功をおさめ、ホワイトハウスでグラント大統領の前で歌い、またヨーロッパにも演奏旅行へ出かけ数十万ドル稼いだと言われます。

ジャック・ジョンソン

スポーツ界において重要なのは、ボクシングのジャック・ジョンソンと少し時代は下りますが、野球のジャッキー・ロビンソンでしょう。
ジャック・ジョンソン(Jack Johnson:1878〜1946)はヘヴィー級ボクサーで黒人として初めてヘヴィー級チャンピオンの座につきました。当時は黒人のヘビー級チャンピオンが世界チャンピオンは別で、世界チャンピオンは白人であり、カラー・ラインという制度を利用されれば黒人は世界チャンピオンに挑戦できませんでした。ジョンソンは1903年黒人チャンピオンになりますが、世界チャンピオンだったジェイムズ・ジェフリーズがカラー・ラインを利用して対戦を拒否していたため、世界チャンピオンに挑戦することは出来ませんでした。しかしジェフリーズが無敗のまま引退し、チャンピオンになっていたトミー・バーンズにあらゆる手段を使って挑戦し、1908年オーストラリアで世界タイトルマッチに開催にこぎつけます。そしてバーンズを倒し念願の世界ヘヴィー級チャンピオンの座に就くのです。しかし1910年白人の無敗の元チャンピョン、ジム・ジェフリーズが「白人が黒人よりも優れていることを証明するため」と宣言して復帰して、ジャクソンに挑戦します。結果はジャクソンは15ラウンドの死闘の上についにノックアウトしてチャンピオンの座を守ります。この試合は大変なことになります。いつも自分たちを虐めまくっている白人たちの代表を我らがヒーローが殴り倒す、こんな痛快なことはなかったでしょう。しかしこの試合の後KKKが暴動を起こし、会場には火が放たれ、10人以上の死者が出ます。またこの試合の波紋は全米に広がり、25の州の50以上の都市で暴動がおこり少なくとも23人の黒人と2人の白人が死亡、負傷者は数百人という大事件に発展しました。
また彼の伝記映画が1970年に作成され、マイルス・ディヴィスが音楽を担当したことも話題になりました。
ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson:1919〜1972)
1870〜80年代にプロ化した野球では、当初黒人もプレーしていましたが、1889年黒人排除が決定されます。黒人たちは黒人プロ野球リーグ(ニグロ・リーグ)を結成、1900年には5チームが参加して行われました。そして約半世紀がたった1947年ブルックリン・ドジャースが「ジャッキー・ロビンソンをメジャー・チームに昇格させる」と発表します。チームメイトの中には彼とプレイするのを嫌い移籍するもの、彼のいるチームとの対戦を拒否するチームも現れ大変な差別を受けます。しかし彼とチームは辛抱強く堪え続け、彼自身も首位打者を獲得するなど活躍を続けます。
すると、他の黒人選手もメジャー・リーグでプレイするようになり、ニグロ・リーグはなくなります。MLBは長らくニグロ・リーグの記録を認めてきませんでしたが、2020年「私たちが間違っていた」と認め、彼らの記録をMLBの公式記録に加えることを発表しました。

黒人の抵抗運動

ブッカー・ワシントン

「性的野獣」と言われ黒人男性がリンチの対象になる中、前面に立って戦った女性もいました。代表はアイダ・B・ウエルズです。彼女はミシシッピ州で生まれ、在学中に両親を失い、弟や妹を養うため学校を辞め、16歳で教師を始めます。1883年弟、妹を連れてメンフィスに移り再び教師になりますが、そこで人種隔離に挑戦する行動に出ます。ウエルズは列車の白人席に乗り込みますが、白人の男たちに力ずくで引きずり降ろされてしまいます。その一部始終を黒人教会新聞「リビング・ウェイ」に投稿し、裁判闘争を始めたのです。
彼女は黒人新聞を通じて人種隔離を批判する論陣を張り続け、1892年メンフィスで起こったリンチ事件をきっかけにジャーナリストとして反リンチ運動の先頭に立ちました。その事件とは、雑貨商で成功していた3人の黒人が、白人商人たちの襲撃を受け、反撃したことから始まりました。3人の黒人は逮捕され拘置所に入れられましたが、白人暴徒が拘置所を襲い、彼ら3人をリンチした後で、彼らの店を破壊し略奪したのです。彼女はメンフィスの白人社会に抗議し、黒人たちにメンフィスを出るよう呼びかけ、間もなく約6000人の黒人がメンフィスを離れました。そして残った黒人は白人商店をボイコットし、白人社会に抗議したのです。
彼女は全国各地を講演して回り、事実調査を行い『南部の恐怖―リンチ支配のすべて』(1893年)を出版しました。そこには成功した黒人が狙われやすいことや黒人男性と白人女性との性的関係は多くの場合合意の下で行われていることが書かれていました。これに対し白人たちは彼女のオフィスを襲撃し、彼女はシカゴに非難しなければなりませんでした。また反リンチ運動を全国で支えたのは「黒人女性クラブ」でした。この団体は1895年月刊誌『女性の時代』を創刊、そして1896年には全国黒人女性協会が結成されます。
タスキーギ運動
ブッカー・T・ワシントン(Booker Washington:1856〜1915)は、1881年アラバマ州タスキーギに黒人の職業教育のための大学を創設し、自ら学長となります。ワシントンの考えは、黒人の地位や境遇の改善には、黒人自身がまず腕を磨き技能を身につけ、産業社会で白人と友情の絆を深めながら一歩一歩努力していくことが一番大切であると考えていました。そしてそこからやがて特性ある黒人の中産階層が生まれ出るであろう、そうすれば白人も黒人の立場を尊重しなければならなくなります。だから、こうした足元の努力を怠ってやたらに差別の廃止を要求するやり方には反対でした。ワシントンのこの考え方は彼の非政治主義となり、例えば先に述べた人民党運動にみられる黒人の戦いも、彼の眼には白人の反黒人感情をいたずらに刺激するものとしか映りませんでした。
1895年9月アトランタで開かれた綿花博覧会の席上、ワシントンは何人かの白人著名人に交じって、黒人代表として講演をする機会を与えられます。そこで彼が話した講演は「現在位置でバケツを下ろせ」と題するもので、黒人たちと白人との間に友愛関係を培うことの重要性を訴えるものでした。この講演は当時人民党運動に悩まされていた支配階級の心をとらえ、講演を聞いたジョージア州のバロック知事は、駆け寄って握手を求め、数日後クリーヴランド大統領もこの講演を称える親書を送り、ホワイトハウスに招いて食事を共にしたほどでした。さらにカーネギーは彼の教育事業に60万ドルの寄付をし、スタンダード石油のH・H・ロジャース、南部鉄道会社の副社長ボールドウィン2世など財界の大物たちも物心両面でワシントンの事業を支援しました。こうしてワシントンは1896年ハーヴァード大学から、1901年にはダートマス大学から名誉学位を授けられ、「もっとも偉大な黒人」として白人社会から手厚いもてなしを受けたのです。
これに対しデトロイトの新聞は「アトランタの博覧会には、テネシー州のリンチも特産品として出品されるべきであった」と厳しく批判し、デュボイスをはじめとする急進的な黒人知識人は「アトランタの妥協」と決めつけ反発します。当時のデュボイス―黒人解放運動の中核は少数の優れた黒人知識人によって推し進められるべきであるとする「才能ある十分の一(タレンテド・テンス)」理論を展開していた時期に当たります―など意識ある黒人たちは、ワシントンの教義に基づいた黒人解放運動(タスキーギ運動)に強い反対を表明します。
さらに1896年には全国黒人教会、全国黒人婦人協会が結成され、また1899年アフロ・アメリカ会議が組織されます。これらの団体はいずれも短命に終わりますが、その活動にはタスキーギ運動に反対すると同時にマッキンレー大統領やローズヴェルト大統領の帝国主義的対外政策に対する反対が表明されていました。
ナイヤガラ運動
デュボイス 一方デュボイス、ボストンの黒人新聞「ガーディアン」によって黒人差別撤廃運動を続けていたウィリアム・モンロー・トロッター、ジョージ・フォーブス達約30人の急進的な黒人知識人は、1905年7月ついにナイヤガラ瀑布付近のカナダ領フォートエリーに集まって第1回目の会合を開きます。この地は、かつて地下鉄道(Underground railroad)の終着駅として、多くの逃亡奴隷たちが安どの息をついた歴史的な場所でした。そしてこの時、この場所でいわゆる「ナイヤガラ宣言」が採択されるのです。それは、一切の黒人差別に反対し、「不屈の精神をもって絶えず世論を喚起するすることこそ解放への道である」と、同胞黒人たちに、差別撤廃闘争に立ち上がるように呼び掛けるものでした。彼らは翌1906年今度はかつてジョン・ブラウンの蜂起の土地ハーパーズフェリーで第2回目の会合を開いたのです。彼らの運動は第1回目の会合の地をとって「ナイヤガラ運動」と呼ばれます。
デュボイスはナイヤガラ運動の精神と目的を次のように訴えたのです。
「我々は、完全な人間の権利を少し欠いても満足しない。我々は、自由に生まれたアメリカ人が持っている政治的、市民的、社会的な一切の権利を要求する。我々は、これらの権利を手に入れるまでは、どんなことがあっても、抗議することをやめず、アメリカ人の耳を打つことをやめぬつもりである。我々が行っている戦いは、我々自身のためばかりではなく、すべての真のアメリカ人のためのものである。」
このようにナイヤガラ運動の精神は、気高く戦闘的でしたが、先に指摘したようにこの時期のデュボイスの選民思想からもうかがえるように、大衆運動に発展することはなく、わずか4年でその活動は停止します。資金不足も災いしましたが何よりも現実の行動綱領とそれを具体化する組織活動を書いていたことが最大の弱点でした。しかしこの運動は黒人だけではなく白人たちの間にも、黒人差別制度に対する意識を喚起したことは疑いなく、この精神は続いて組織される全国黒人向上協会の中に引き継がれていくこととなります。
全国黒人向上協会(NAACP)
全国黒人向上協会(National Association for the Advancement of Colored People:一般にNAACPと略)の発足は、1908年イリノイ州スプリングフィールドで起こった大規模な人種暴動に端を発しています。
このスプリングフィールドでの大規模な人種暴動は全国を震撼させました。なぜ震撼させたかというと、白人の暴挙に対して黒人側が同じく暴力に訴えて激しい抵抗を試みたからでした。この時の模様は現地で取材したウィリアム・E・ウォーリングの筆によって広く世間に伝えられます。ウォーリングは南部の出身でしたが、その中でその頃あちこちで盛んに行われていたリンチや人種暴動の悲劇をこれ以上増やしてはならない、そしてそのためには黒人に政治的、市民的自由を保障し、こうした悲劇の根源を取り除く努力をする組織がどうしても必要であると強く訴えたのです。
この訴えに耳を傾ける人たちが現れます。社会事業家のメリー・W・オヴィングトンやヘンリー・モスコヴィッチ博士、かつての奴隷制廃止論者ガリソンの孫のオズワルド・ヴィラードなどの知名人たちでした。彼らは、リンカーン大統領の生誕100年に当たる翌1909年2月12日、ウォーリングの訴えを具体化し、黒人問題を討議する会議を開くことを決定し、著名な白人自由主義者と数名の黒人を含む50数人からなる署名簿とともに、広く発表したのです。デュボイスは署名簿に名を連ねるとともに積極的にこの運動に加わりました。こうしてその年の5月ニュー・ヨークで開かれた集まりで「全国黒人委員会」が結成され、続いて1年後の1910年5月に同じニュー・ヨークで開かれた第二次年次大会で、「全国黒人向上協会(NAACP)」という名称が決定されます。
NAACPは、かつて共和党急進派チャールズ・サムナーの秘書だったモアフィールド・ストーリを会長に、ウォーリングを執行委員会議長に、デュボイスを広報調査部長に選出し、機関紙「危機(クライシス)」を発行しました。デュボイスは役員に就いた唯一の黒人でしたが、彼を要職につけることでナイヤガラ運動と多少とも引き継ぐ形をとったと言えるでしょう。またNAACPは、黒人たちに市民的諸権利特に裁判の公正を保障し、合わせて経済的、社会的、政治的機会を確保して、彼らの地位を向上させることを基本目的としました。さらにNAACPはリンチや人種暴動の反対闘争を行い大きな成果を収めます。そのためリンチの数は減少し始めたと言われます。
しかし白人の自由主義的知識人を中核としていたため、次第に厳しい抵抗主義は薄れていき、1934年デュボイスはこの教会を去ることになります。こうした軟化傾向によって、資本家の中からもこの運動に秋波を送る者も現れます。サイラス・マコーミック夫人やハーヴェイ・ファイヤストン達です。NAACPが結成当時の精神を再発見し、今度は広く黒人大衆とも手を取り合って黒人差別撤廃闘争で指導的役割を果たすようになるのは、第二次世界大戦後のことです。
しかしNACCPの政治路線に反対するブッカー・T・ワシントンに与する黒人指導者たちや彼らを支持する人々はより穏健な組織を求め、1911年全国都市同盟(National Urban League:一般にNULと略)を結成します。NAACPがナイヤガラ運動の系列に属するとすれば、NULはタスキーギ運動の系列に属すると言えるでしょう。どちらも白人の自由主義者と黒人との共同組織でしたが、NULはどちらかといえば慈善団体的な色彩がみられました。

第一次世界大戦の影響

南部農村からの黒人の離脱、北部の大都市への移住は、この戦争を通じて飛躍的に増大し、戦後経済の活況に拍車をかけることになります。これらの移住の数は正確にはつかみきれませんが、ルイス・ハッカーの試算では1914〜17年で40万人、ジェイムズ・アレンは1910〜30年南部のブラック・ベルトから流出した黒人だけで、100万人以上と推定しています。他の試算では1915〜1930年まで約200万人が移動しています。これにより1910〜30年間に、黒人人口はシカゴで5.3倍、デトロイトで20倍、ニューヨークで3.7倍に増えたといいます。またこの時期にはカリブ海からも黒人移民が大都市に押し寄せました。
また同時南部内部においても黒人の都市への移住が始まり、ブラック・ベルトは大都市の工場に安価な労働力を供給する兵站基地としての役割を担うことになります。こうして特に北部の大都市を中心に、黒人の中にも労働者階級が形成され始めることになります。
このような事態の推移は、都市の黒人たちに彼らがまだ知らなかった問題を投げかけることになります。何よりも彼らは都会の生活に慣れていませんでした。買い物一つにしても全く勝手が異なります。しかも彼らを待っていたのは、南部とほとんど変わらない差別待遇だったのです。賃金は安く、住居もゲットーと呼ばれる隔離された貧民街の一区域に押し込められたのです。激しい抵抗心と同時に、不安と焦燥の念が彼らの間にみなぎっていきます。
NAACPは第一次世界大戦参戦に支持を表明し、37万人の黒人が従軍しました。その大半は雑役、補給業務に就かされ戦闘部隊に配属された黒人兵はごくわずかでした。しかも彼らの中には、大戦で勇敢に戦い、戦場においてさえ差別待遇の苦渋をいやというほど味わされるとともに、他方ではフランスをはじめ同盟軍である他国の将兵から初めて人間としての扱いを受けて、ますます人種差別制度に対する反感を強めて帰ってきた帰還兵士も数多く混じっていました。
1919年夏を頂点に各地で頻発した大規模な人種暴動にはこうした社会的背景がありました。中でも1919年7月シカゴで起こった人種暴動は最大のものでした。ことの発端はミシガン湖に泳ぎに来ていたユージン・ウィリアムズという17歳の黒人の若者が、いかだに乗って遊んでいるうちに、うっかり白人が勝手に決めた「禁止線」を越えて白人用の泳ぎ場に「侵入」してしまったために、白人群衆から石の雨を浴びて溺死させられたという事件でした。これがたちまち全市を震撼させる13日間にも及ぶ人種戦争と化し、白人15人、黒人23人が殺され、他に白人178人、黒人342人が傷つき、数百軒の家屋(大半が黒人家屋)が焼き払われるという結果につながっていきます。ただしここまでの大きな事件となったのは、この事件が牛肉缶詰工場で新しく組織された労働組合弾圧に意識的に利用されたこともあったようです。
他にも1919年9月末には、アーカンソー州フィリップスで暴動が発生します。これは黒人農民協同組合の組織化の試みが地本警察によって弾圧されたのに対し、黒人が反撃、白人3人、黒人7人が死亡するという事態に発展します。直後連邦軍が出動し、推定100人以上の黒人が殺害され、122人が逮捕、起訴されて裁判の結果12人が死刑、67人が1〜20年の懲役を宣告されたのです。この裁判にはNAACPが介入、弁護士を派遣した結果、連邦裁判所は手続きにの不当性を認め1923年全員が釈放されました。
1921年のオクラホマ州で起きたタルサ事件では、警察に捕まった黒人男性をリンチしようと白人群衆が留置所に集まって来たのに対し黒人たちが武力で抵抗、銃撃戦となり双方に死者が出ます。黒人居住区の黒人たちが襲撃を迎え撃とうとしていましたが、白人側は飛行機を使って黒人居住区に火を放つという事件が発生しています。

マーカス・ガーヴェイ

ガーヴェイ運動
こうした大都市における黒人の一般的状況に、NULはもちろん、NAACPも全く対処することができませんでした。このような事情から大戦中から戦後にかけてガーヴェイ運動が多くの黒人の心をとらえていくのです。
この運動の指導者マーカス・ガーヴェイ(Marcus Garvey:1887〜1940)は、1887年ジャマイカに生まれた黒人で肌の色の黒さに現れたその「純粋な黒人」ぶりは、彼の誇りでした。印刷工として働くうちに、ブッカー・T・ワシントンの著作に触れ、自ら黒人解放に身を捧げることを決意します。そして1914年ジャマイカで全黒人地位改善協会(UNIA)を設立しましたが、彼が本格的に活動を開始するのは、1916年アメリカに渡ってからのことでした。
彼はアメリカに渡る少し前にイギリスに渡り、そこでアフリカからやってきていた幾人かの黒人から、白人のアフリカ侵略の話をつぶさに聞き、白人の植民地主義と人種的抑圧に一層憎悪を抱くようになっていました。
ガーヴェイは、全黒人地位改善協会の本部をニュー・ヨークに置き、機関紙として「黒人世界(ニグロ・ワールド)」を発行します。彼の運動はたちまち多くの黒人たちの支持を集め、1919年までに国内各地に30の支部を持ち、「黒人世界」は一躍有名になります。会員数は1922年にアメリカだけで200万人、全世界で400万人を数えるに至ったと彼自身は述べていますが、デュボイスはじめガーヴェイ運動の批判者たちは、一様にそんな数字はとんでもない大ボラだと決めつけています。ウィリアム・ピッケンズはせいぜい100万人以下だと言い、この協会の公式会計報告から会員数を割り出したW・A・ドミンゴは1920年の会費納入会員数はわずかに1万7784人だと述べ、デュボイスもこの数字を支持していますが、いずれにしろガーヴェイ主義がごく短期間に驚くほど多くの黒人たちの心をとらえたことだけ間違いありません。そうした黒人のほとんどが、比較的新しく南部を離れて大都市にやってきた黒人たちだったということは、注意しておかなくてはならないでしょう。
では、ガーヴェイ運動の特徴とはどのようなものだったのでしょうか?本田創造氏はその著『アメリカ黒人の歴史』で、「一言でいえば、黒人の民族感情に触れる戦闘性と一種の敗北主義との同居である」と述べています。全黒人地位改善協会はその第1回大会で前文と54か条からなる権利宣言を採択しましたが、前文では、白人の国ヨーロッパ列強が、黒人の国アフリカを強奪し、黒人を隷属状態に陥れたばかりではなく、西インド諸島や新大陸にまでその爪先を伸ばしていったことに対して強い抗議が加えられるとともに、何よりもアメリカ黒人に対するリンチや人種的抑圧、その他さまざまな差別待遇に激しい非難の矢が向けられました。続いて、権利宣言の中では、これに反対する具体的項目が、税金の不払い、黒人差別法の無視、暴力に対しては「手段を選ばぬ」自己防衛といった具合にきわめて過激な形で列挙されているのです。しかし権利宣言のかなめは、なんと言っても、「アフリカをアフリカ人に返せ」という要求で、そこには次のように述べられています。「我々は、世界の黒人のためにアフリカの自由があることを信じる。ヨーロッパ人のためのヨーロッパ、アジア人のためのアジアという信条にのっとって、我々もまた、国内でも国外でも、アフリカ人のためのアフリカを要求する。」こうして、すべての黒人がアフリカの自由市民であり、民族自決権を持つべきであると強く主張されたのです。
ここから「アフリカへ帰れ」という、そのこと自体はさほど珍しくないスローガンが、彼特有の空想的着想のもとに大きく打ち出され、ガーヴェイ運動はもっぱらアフリカ復帰運動という形をとって展開されるようになります。彼は、街頭でも集会場でもあらゆる機会を利用して、黒人が少数民族である白人の国では、どうしても正義を獲得することはできない、だからアフリカへ帰り自分たちの国を建設しなければならないと強く訴えます。
1921年ニュー・ヨークで開かれた第2回大会では合衆国内はもとより、西インド諸島、南アメリカ、アフリカからも多くの黒人が集まり、その数は2万5000人に上ったと言われます。この大会でガーヴェイは「アフリカ帝国」の樹立を宣言し、自らがその臨時大統領に就任します。そしていつの日かアフリカから白人侵略者を追い出すために「アフリカ旅団」を編成するのです。黒・赤・緑の3色からなる国旗が制定され、黒色は人種、赤色は血、緑は希望を象徴するとされます。彼は紫と金色の制服に身を包み、頭には鳥毛のついた帽子をかぶりました。そして「アフリカ自動車部隊」や「黒鷲飛行隊」と呼ばれた隊員たちは、国旗と同様黒、赤、緑の3色の征服で身を固めました。彼らはこうしたいでたちでしばしばニュー・ヨークその他の都市をラッパを吹き太鼓を打ち鳴らしながら示威行進を行ったのです。
そしてガーヴェィは、これらの軍隊をアフリカへ送るためにはどうしても船がいることを痛感し、黒星汽船会社を設立して船を入手しようとしました。この事業が直接的に彼の運動を挫折に導くことになります。会社は株の売買や募金などで200万ドルの金を作り、ようやく船を手に入れ少しばかり航海もしましたが、結局事業不振のため、たちまち会社は倒産してしまいます。その上募金に絡む詐欺罪でガーヴェイは1925年〜5年間アトランタの監獄へ収監されることになるのです。実際には2年間の服役で出所しますが、出所してきたときには「アフリカ帝国」もその軍隊もかつての栄光は失われ、崩壊の危機に瀕していたのです。そして運動は内部分裂し、第49州運動やエチオピア平和運動などの小グループに分解していきます。ガーヴェイ自身は西インド諸島やロンドンで再起をはかりますが、どれもうまくいかず1940年寂しくこの世を去ります。
本田氏は『アメリカ黒人の歴史』で次のようにまとめます。「黒星汽船会社は、崇高な彼の夢を実現するための手段であったはずですが、「事業」というものにいったん手を染めた途端彼の戦闘性は影を潜め、急激に色あせていったと言います。ガーヴェィの思想や行動には矛盾が多いばかりではなく、その極端さに当惑させられるものも多いが、それは彼の個性に原因があるものでそういったものを取り除くとコアには「素朴で自然な黒人民族主義」が脈々と波打ってる。」
また上杉氏は、ガーヴェィ運動はほかの黒人運動指導者からデマゴーグ、つまりは偽物だと軽蔑されてきたこともあって、その歴史は十分に研究されてこなかったといいます。ところがその後黒人公民権運動に参加した人々の多くが、家族の中にガーヴェイ運動の関係者がいたことを明かしています。ローザ・パークス(バス・ボイコット事件)の母親がそうでしたし、マルコム・Xの父親もそのメンバーでした。
ジャズ関係でも次のような記述が目を引きます。
「おやじはNAACPのやり方よりは、マーカス・ガーヴェイの方が好きだった。1920年代の昔に、黒人を一致団結させたんだから、ガーヴェィの方が重要だと考えていた。」これはマイルス・ディヴィスの自叙伝にある記述です。マイルスの父親は弁護士などをしている裕福な家庭でしたが、ガーヴェイ寄りの考えの持ち主だったことが分かります。一方母親の方はNAACP寄りで、二人の間では論争が絶えなかったようです。マイルスは1926年生まれで、上記は子供の頃の話なので1930年代のことだと思われます。

ラングストン・ヒューズ

ガーヴェィ運動の組織は、公的には解体された後も長期にわたって密かに各地で会合を重ねていたことが分かっているそうです。ガーヴェィの黒人至上主義は、末期に入ると極端になり、黒人男性と白人女性の結婚に反対し、KKKの指導者クラークと会談を行い、人種分離で一致し、彼に資金援助の申し出を出るところまで行ってしまいます。さすがに多くの黒人が彼に反発し、また連邦捜査局(FBI)は、この時期を見計らって彼を詐欺罪で起訴し、国外追放としました。
しかしガーヴェィ運動は他の黒人運動の組織を刺激し、NAACPは人種差別に反対する裁判闘争などでいくつかの成果を上げて行きますし、NULも地道な調査活動などによって組織を維持していきます。

ハーレム・ルネッサンス

戦中・戦後、ニュー・ヨークのハーレムには、多くの黒人が希望に燃えて集まり、黒人兵も帰還してきます。彼らが持ち込んだ南部農村やカリブ海域の匂いのするエネルギッシュな大衆文化と北部黒人中産階級の伝統的な洗練された黒人文化がハーレムで化学反応を起こし、「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれる文化運動が起こります。
NAACPの機関誌「クライシス」などの黒人雑誌は、黒人作家の短編小説、詩、エッセイを毎回掲載し、すぐれた作品には賞金を出してこの運動を支えました。黒人作家の多くは、誇りある黒人の生々しい姿を描き、黒人のステレオ・タイプに挑戦しました。当時はすでに英語で文学作品を書く能力を身につけた黒人も多く育っており、彼らが置かれた厳しい現実を目の当たりにしており、アメリカの社会問題をより鋭く感じ取っていたのです。アレイン・ロック、クロウド・マッケイ、ラングストン・ヒューズ、ゾラ・ニール・ハーストンなどアメリカ文学の代表的作家がこの時代輩出されました。
さらに主流出版社も白人読者を対象に黒人作家の作品を出版するようになり、黒人文学者は、白人世界に黒人の心を伝える手段を手にしたと言えます。しかし、より多くの白人を黒人街に足を向けさせたのは黒人音楽でした。黒人音楽については「僕の作ったジャズ・ヒストリー」の方で取り上げたいと思います。

このWebサイトについてのご意見、ご感想は、メールでお送りください。

お寄せいただいたご意見等は本文にて取り上げさせていただくことがあります。予めご了承ください。