そもそもアメリカと黒人 その2

南進政策と奴隷貿易

ポルトガル領マディラ諸島

前章の冒頭に述べたようにアフリカ西海岸以外の地でも奴隷は獲捕され、売買が行われていました。では本題の西海岸=ヨーロッパです。
ヨーロッパにおいても黒人奴隷労働自体は珍しいものではありませんでした。11世紀の初め1000年ごろからポルトガル人もカナリア諸島、マディラ諸島などでアフリカ人奴隷を使って砂糖生産に従事していたのではないかと推測されているそうです。ですのでヨーロッパ、少なくともイベリア人たちは、黒人の存在も奴隷も知っていました。ではこれらの奴隷をどうやって入手していたのかといえば、地中海沿岸側アフリカでアラビア商人や当時地中海交易に絶大な力を持っていたベネチアの商人から購入したのであろうと思われます。
さらに出来事自体は偶然の産物でしたが、1441年ポルトガルのある航海士と騎士がサハラ以南まで航海し、初めて「土人」12人を生け捕りして持ち帰るということが起こります。『アメリカ黒人の歴史』本田創造著(岩波新書)によれば、これがサハラ以南におけるアフリカとヨーロッパの最初の出会いだったでした。これらのことからポルトガルは、ジブラルタルの対岸のへの侵入を望みながらも、サハラ以南のブラック・アフリカとの直接交易も狙っていたことが分かります。また『新書アフリカ史』によればポルトガルとスペインは早くから奴隷を本国へも連れ帰っていたようです。西アフリカ出身の奴隷がリスボンで売られていたという1444年の記録が残っているといいます。
南下政策を推し進めるポルトガルは、1456年西アフリカのマンディンゴ族と貿易交渉を行った際にその交易項目に奴隷が入っていたといいます。「新書アフリカ史」によれば、ポルトガル人がアフリカ西海岸を南下し始めると、他のヨーロッパ人(イギリス、フランス、少し遅れてオランダ、スウェーデン、デンマーク、ドイツ)などがその後に続きました。彼らは沿岸の支配者から土地を借り、交易の許可を取り付け、多数の交易基地(砦)を建設していきます。しかしこの頃はヨーロッパ人が奥地に踏み込むことはできませんでした。19世紀以前に奥地にヨーロッパ人のコロニーはほとんど作られることはありませんでした。
ヨーロッパ各国は西アフリカに進出すると、当初は略奪商法ともいうべき海賊行為がはびこりましたが、それが収まると主にヨーロッパの金属製品と西アフリカの金、象牙、胡椒、綿製品などとの平和な交換が始まり、アフリカとヨーロッパの双方が利益を上げる対等の取引が行われたといいます。全般に16世紀は友好関係の時代であり、ポルトガルとアフリカの王との間で大使の往来、贈り物の交換もあったといいます。16世紀初めギニア湾岸の最強国ベニン王国の王がポルトガルに遣わしたアフリカ人の首長の報告が残っていますがそれは友好的な内容だといいます。
1486年ポルトガル王室はリスボン奴隷局を設置し、奴隷商人に貿易許可証を発行するなど、奴隷売買の独占を試みます。その結果16世紀中ごろには、リスボンの全人口約10万人のうち1割が奴隷が占め、同時期スペインのセビリアでも、全人口8万5000人のうち8%弱が奴隷だったといいます。
このように『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)によれば、1500年までは黒人奴隷の輸出先はヨーロッパでした。1450年〜1500年までの間だけで10万人の黒人奴隷がヨーロッパに運ばれたといいます。
ここで大きな変化が現れます。新大陸の発見とその植民地おける労働力確保という問題です。大西洋奴隷貿易を開始したのはスペインでした。先にも触れたように1502年には、西インド諸島へ最初の黒人奴隷が運ばれています。スペイン王室は、交易事業に関して民間人や外国政府との間で請負契約(アシェント)を結んでいましたが、その内容は、特に16世紀から18世紀半ばにかけては、労働力不足に悩む新世界の植民地への奴隷輸送業務に集中していたといいます。そして奴隷供給契約許可証は、1513年に最初の許可証が発行されます。そしてその2年後スペイン商人は西インドから初めて砂糖の船荷を持ち帰り、1518年に始めて奴隷の船荷をアフリカ西海岸から西インドへ運び出します。以後スペイン領アメリカ市場を標的にして、ヨーロッパ各国の商人の間で「アシェント」の獲得を巡って熾烈な競争が始まります。書籍によって奴隷貿易を始めたのはスペインという記述とポルトガルという記述があって、僕にはどちらが正しいか判断できませんがイベリア勢だったことは間違いないようです。

三角貿易

三角貿易

こうして16世紀中ごろから発達したのが三角貿易(Triangular trade)といわれる商業航海サイクルでした。三角貿易とは、産業革命を迎えたヨーロッパ(主にイギリス)の廉価な製造品(綿布、金属製品、アルコール飲料、鉄砲など)を満載した船がまずアフリカ西海岸で船荷を奴隷と交換し、その奴隷を積んで西インド諸島、南北アメリカ大陸へ渡ります。そしてそこで奴隷を下ろした後、砂糖、綿花、たばこなど現地の主要監禁商品を積み込んで西ヨーロッパの母港に向かうというものです。当時はこの航海サイクルを一巡するのに1年半から2年の期間を要しました。スペインを筆頭にポルトガル、イギリス、デンマーク、オランダ、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国がこの事業に参加し莫大な利益をあげたといいます。 この「三角貿易」の第二辺は「中間航路」(Middle passage)と呼ばれたましたが、この航路こそは人類史上例をみない、凄惨極まる奴隷航海でした。当時アフリカ西海岸の各地から新大陸までは、ほぼ40日から70日の航海でしたが、悪天候が続けば100日を超えることもありました。時期によって相違はありますたが、航海中の死亡率は8%から25%、平均的には船上の奴隷6人のうち1人が死んだといわれています。
奴隷船の大きさは100ないし200トンほどで、船に積み込まれる前には男女とも頭を剃られ、所有者か会社のブランドが焼き付けられました。足首に鎖をつけられたほか、全裸で、船のトン当たり1〜2名が船倉にぎっしりと詰め込まれました。食事は朝夕2回、少量の水が時折与えられたほか、1日に2回程度甲板に出て外気を吸うことが許されました。船内は不潔そのもので、汚物と臭気が充満し、マラリア、天然痘、赤痢などの病気が襲うこともよくあったといいます。そんな場合、死者だけでなく、病気に罹ったものまでが生きたまま海に投げ廃られたといいます。そのため奴隷船の後をサメが大群で追いかけたといわれています。航海中の損失を少なくするために、船荷には多額の保険がかけられた。
このような凄惨極まりない航海を無事に乗り切って陸地に上陸しても待っているのは、過酷な労働でした。西インドの場合、大農園で働く黒人奴隷の平均寿命は6〜7年にすぎませんでした。またブラジルでは、7年間の激しい労働の挙句働けなくなった奴隷がまるでけだものの屍体のように、奴隷区のガラクタ山に捨てられたといいます。
それでもスペイン領アメリカの黒人奴隷はいくらかましだったというのです。それは18世紀末までには、黒人奴隷が主人からひどい仕打ちを受けた時は、主人を取り換えることが認められ、結婚も許され、また金をためて自由をあがなうことができたからだといいます。
こうした過酷極まる境遇に置かれて奴隷たちは自らの運命にただ従順に従ったわけではありませんでした。奴隷運搬船などでは、反乱なども起こりましたが、なにせ土地勘もなく、事態を詳しく知るわけもない奴隷たちはすぐにとらえられてしまいます。

黒人奴隷の確保

アフリカ奴隷の移送

さて、ではこうした奴隷たちをどうやって確保していたのでしょう?まず奴隷として売り飛ばされたのは、民族・国家間の戦争捕虜、犯罪者などで、他に奴隷狩りや人さらいの犠牲者たちもいました。しかし海外での需要が高まった17世紀後半からは、アフリカ人支配者の間で奴隷獲得のための戦争が鉄砲を使って行われるようになります。中央社会のない社会では、奴隷狩りの餌食となるものが多かったのです。その多くが10〜35歳の働き盛りの年齢だったといいます。
一人黒人奴隷の例を紹介しましょう。
1745年ごろニジェール川下流のイボランド(当時のベニン王国内)に生まれ後にロンドンで奴隷制廃止運動に専念したオラウダー・エキアーノは、11歳の時大人たちが農作業に出かけ、妹と一緒に留守番をしていた時に誘拐されます。数か月後にニジェール川デルタに停泊中の奴隷船に積み込まれ、バルバドス(小アンティル諸島東端)に運ばれ、競売にかけられましたがまだ大人になっていなかったからか売れ残り、その後ヴァージニアに連れていかれます。その後の波乱万丈の生涯は、1789年(フランス革命の年)自伝「ラウダー・エキアーノすなわちアフリカ人グスタブス・バサの生涯の興味ある物語」として出版されました。そこでエキアーノは次のように書いています。
「彼ら(奴隷商人)はたいてい火器、火薬、帽子、飾り玉、乾魚を持ってくる。彼らはいつも私たちの土地を通って奴隷を運ぶ。(中略)この戦争は、捕虜あるいは戦利品を獲得するための。一小国あるいは地区が他の地区へ押し入ったものであると思える。これはおそらく、私たちの間でいわゆる舶来品を持ってくるあの交易人がそそのかしたものであろう。交易人が奴隷を必要とする場合、彼はそれを首長に申し入れ、商品で誘惑する」
エキアーノの証言から明らかなように、奴隷の取引は、ヨーロッパ人とアフリカの王や首長、、商人たちの仕事でした。ただ、奴隷貿易による被害の大きさを知ると奴隷や奴隷商人の領主内での通行を禁止するなど、これに反対する王や首長も現れます。18世紀初めダホメーのアガジャ王や同世紀末のフーター・トーロのアルマーミ王がその例として挙げられます。コンゴのンジンガ・ムベンバ王も、ポルトガル国王に奴隷交易を諫める手紙を送っています。
経済の中心が海岸部に移動した結果、スーダン諸帝国は衰退し、16世紀末にイスラムの一大中心地だったソンガイ国が滅亡します。これによって海岸部ハウサ地区には、いくつかな小さな国が興りますが、やがてベニン、ダホメーなど五王国に統合されます。これらハウサ五王国はそれぞれが自らのヘゲモニーを拡張しようとして互いに攻撃しあうようになります。つまりは奴隷の略奪をお互いに繰り返すのです。
つまりこのような構造です。各小国は自分たちの勢力を拡大するために、他国を攻撃し、他国から立派な兵士となりうる成人男子を、捕まえて奴隷商人に売り渡します。その際相手国よりも、強くなければこれは達成できません。そのためには銃がいるのです。銃を確保するためにはお金が要ります。お金を確保するためには奴隷を捕まえて売らなければならないということです。これこそまさに奴隷商人の思うつぼです。そうやって勝手に競い合って奴隷を連れてきてくれるのです。強力な中央政府が無いとこういうことが起こりえるのです。
こうしてギニアには、16世紀から19世紀にかけてヨーロッパ諸国の貿易港が置かれ、交易された商品によって、「穀物海岸」(現リベリア)、象牙海岸(現コートジボアール)、黄金海岸(現ガーナ)、奴隷海岸(現ダホメ)などの地名が並ぶことになります。
※ギニアとは、西アフリカ大西洋岸地帯のことで特定の国ではありません。地域としてはセネガルからアンゴラまでと幅広く。ポルトガル領ギニア、スペイン領ギニアなどがありました。 ギニアからの奴隷の輸出は、ブラジルだけで600万から800万人の奴隷が輸出されています。新大陸全体では正確な数字は分かりませんが、1500万とも数千万人ともいわれています。これらの奴隷はすでに述べた身の毛もよだつような三角貿易の第二辺航路によって植民地の主人に売り渡されたのです。

イギリスの奴隷貿易への取り組み

イギリスの奴隷売買では、1562年イギリス船長ジョン・ホーキンズが軍事的援助と引き換えにシエラレオネの王たちからもらい受けた多数の捕虜を奴隷に変えて、大西洋の彼方へ売り飛ばしたという記録がもっとも古い記録として残っているようです。それから100年後の1660年、王立アフリカ企業会社が設立され奴隷貿易を独占しはじめます。その後進が王立アフリカ会社で1672年に発足し、東インド会社と並ぶ最大の奴隷貿易会社に成長し、ブランコ岬から喜望峰までの貿易を独占しました。奴隷のおもな輸出先はバルバドスを含む西インド諸島で、主な積出港はゴールドコーストのケープ・コースト城砦が知られています。貿易活動が自由になった1698年以後、自由貿易商人や潜り商人が多数奴隷を送り出しました。
18世紀奴隷貿易を主導したのはイギリスで、1713年に結ばれたユトレヒト条約により海上支配におけるイギリスの優位が決定づけられると、18世紀末には、リヴァプール所属の船の約四分の一がアフリカ貿易に従事していたといいます。そしてバーミンガムでは西アフリカ交易だけのために年間10万丁の鉄砲を生産していたといいます。
イギリスの年平均奴隷輸出数は、17世紀末には約5300人、18世紀の中ごろには約その5倍、18世紀末には約8倍と跳ね上がりました。この時期ヨーロッパ各国商人のうちイギリス商人が約50%以上の奴隷を運んでいたことになります。

連れ去られた奴隷の数

新大陸での急増する奴隷需要のため、どれだけの奴隷がザイール川水界から連れ去られたかを、今日時点で確定することはできません。一説によれば1680年〜1836年の奴隷貿易の法的禁止に至るまでの期間、ルアンダとベンゲラの両港からだけでも、約200万人が積み出され、それ以後でも非合法に積み出された数も相当な数に上ると見積もられています。こうした密貿易なども含めると、コンゴとアンゴラの古い国家から連れ去られた奴隷の合計は、約500万人にのぼると考えられます。
全てのアフリカから連れ去られた黒人の数は、あまりにも膨大としか表現できませんが、
エドワード・E ・ダンバー氏は、
16世紀 88万7500人、17世紀 275万人、18世紀 700万人、19世紀 325万人 総計1400万人と推定(1861)し、
W・E・B・デュボイス氏は1人の黒人を新大陸にもたらすまでには5人の黒人が途中で死んだとし、7000万人が祖国から奪い取られたと推計しています。
ウィリアム・Z・フォスター氏は、少なくとも6000万人と推計していますが、
フィリップ・D・カーティン氏は、
16世紀 24万1400人、17世紀 134万1100人、18世紀 605万1700人、19世紀 189万4000人 総計952万4600人と推定(1969)していますが、この数字は少なすぎるという批判もあります。

イベリア勢の植民地経営

スペイン、ポルトガル領アメリカは征服によって成立し、植民地活動によって経営されてきました。すなわち植民者による大土地所有制度が行われました。いうまでもなくこの大土地所有制度で潤ったのは一握りの白人スペインのエンコミエンデロとポルトガルのファセンデイロでした。彼らは大農園を所有し、インディアン、アフリカから強制的に連れてきた黒人を過酷な状況で酷使し、大きな富を手にしました。そしてその富を手中に、都会に住み華やかな浪費生活を送っていたのです。この少数富裕層のおかげで植民地ラテン・アメリカの経済は非常に不健全な状況に陥っていくことになります。
スペイン、ポルトガルは王制であり、王様が何を望むかで植民地の情勢は決まっていきます。彼ら王家の考えは、植民地の金、銀、そのほかの種々の原料を手中に収め、代わりに本国で生産される物資を植民地で売りさばくということに尽きていました。
こうして新大陸の鉱山はインディアンの犠牲のもとに交配するまで採掘がおこなわれ、農園も継続的な奴隷労働で土地が荒れ果て、各地に地獄のような様相を呈するようになりました。さらに厳しい本国の統制と大土地所有による奴隷制経済に縛られたラテン・アメリカでは、農業の多角化も工業の発達も見られず、したがって中産階級の健全な発達も期待できませんでした。
またこの旧制度は、白人の血の量で身分が決定されるという独特の階級社会でもありました。フンボルトの記述によれば、植民地時代終わりのスペイン領アメリカの人口は1700万人。その内訳はインディアンが750万人、ムラート(黒人白人の混血)530万人、白人320万人、黒人77万人だったそうです。この白人の中でも本国生まれの白人ペニンスラールは30万人でした。このペニンスラールが植民地行政をつかさどり、貿易上の実権を握っていたのです。他方経済活動で大きな力を蓄えていた植民地生まれのスペイン人クリオーリョは、ペニンスラールの支配に反感を抱くようになっていました。そしてその下の最下層にはインディアンと黒人奴隷がいました。
もともとインディアンが暮らしていた新大陸はこうして白人が押し寄せ、黒人が連れてこられ、混血に混血が重なり、ラテン・アメリカを特徴づける混血社会を生み出すこととなっていくのです。こうして18世紀の末になっても、スペインとポルトガルの重商主義に束縛され、破滅的な経済にあえぐことになります。

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