そもそもアメリカと黒人 その3

イギリスの入植地

南部への入植

ジェイムズタウンはアングロ・アメリカ形成の第一歩となります。
1607年5月24日ロンドン会社の移民船スーザン・コンスタント号に乗り込んだ105名が今のヴァージニア州ジェイムズ河畔に上陸しました。乗り込んだ乗客の80%以上が、自営農民、小商人、職人ないしは労働者で、彼らは本国では望めないより良い暮らしを求めて新大陸の地を踏んだのでした。彼らが最初に求めていたものは、16世紀のイベリア勢と同様まず金銀であり、次いで東洋への通商路でした。
しかし移住の前途は多難で、過酷な自然環境の下、秋風が立つ頃には半数が死に、年の暮れには105名が32名に減っていたといいます。さらに1609〜10年の冬はとりわけ厳しく当時500人にまで達していた入植者は60人まで減っていました。彼らは木の実や草の根を食べ懸命に命をつなぎました。生存者の多くは植民を断念しようとさえ考えるほどでした。
さらにヴァージニアのジェイムズタウンでは金銀は発見できませんでした。しかし彼らはやがて黄金をもたらす貴重な植物を手に入れます。「煙草」です。煙草のことは、16世紀後半にこの地を建設しようとしたウォルター・ローレイによってイギリスでは知られていました。この植物の栽培に1612年ジョン・ロルフが成功するのです。なおこの成功には、彼の妻となったインディアンの酋長の娘ポカホンタスの助力が大きかったといわれます。ここにヴァージニアは、スペイン人がやったように先住民を酷使して金銀を採掘し、略奪的搾取を目的とした植民地ではなく、そこに住み着き、自ら開拓し、農業生産を営むことによって富を蓄積する定住植民地にという道を歩むことになりました。
と言っても自分たちで耕すのは限界があります。定住植民地として発展していくために当面何よりも必要とされたのは労働力でした。スペイン人の先例に倣って、最初は先住インディアンの奴隷化を試みますが、この企てはインディアンがまだ氏族社会の段階にあった狩猟民で農耕に適していなかったことや諸種族から頑強な抵抗があったり、奴隷化された者の逃亡が繰り返され、そうでなくても地理に明るい彼らを一か所に縛り付けておくことは困難でうまくいきませんでした。それでもインディアンの奴隷化は熱心に行われ、例えばサウスカロライナの場合には、1708年の総人口9580人のうち1400人がインディアン奴隷でした。
次に彼らが目を付けたのは、白人年期奉公人でした。その主な供給源はイギリス本国で土地を奪われた農民や都市の貧窮民でした。貧窮民は、ロンドンの街角で駆り集められました。渡航費のない彼らは、それを前借し、その返済として一定の期間(一般に5〜7年)植民地の主人のもとで隷属的に働くことを、年期契約書によって取り決められました。その他にももっと非合法なやり方、例えば誘拐や略奪によるものもありました。数千の人々がイギリスの諸都市の路上で殴り倒され、残忍な紐に引きずられて無理やりに植民地に送り込まれたといいます。また政治犯や罪人(当時のイギリスでは浮浪行為も犯罪とみなされたので浮浪者や乞食もこれに含まれた)の中にも強制的に植民地に送り込まれて不自由労働に服した者もいました。
植民地での年期奉公人の状態は、場所や主人によって多少の相違はありますが、総じて勝手に結婚することは許されず、酒を買ったり物を売ったりすることもできませんでした。逃亡を企てれば、鞭で打たれたうえで、烙印を押されたりすることもありました。また時には別の主人に売り渡されることもあり、その境遇は奴隷に近かったといわれます。そのうえ年期もいろいろな理由をつけて引き延ばされることも稀ではありませんでした。そんなこともあり彼らはしばしば「年期奴隷」と呼ばれることもありましたが、それでも年期が明ければ自由人として生活するために一定の給付を受け取ることができました。これを解放給付といいます。一般には、農具や種子、衣服、武器など当時の金で10ポンド相当のものでしたが、中には50エーカーの土地を支給されるものもあったそうです。
こうして例えばヴァージニアでは、1625年当時総人口1200人のうち500人弱が足らずが白人年期奉公人でしたが、1670年になると総人口は4万人にまで増え、そのうち6000人が白人年期奉公人で、黒人奴隷は2000人でした。つまりこの時点では労働の担い手は黒人奴隷ではなく白人年期奉公人だったのです。
ある学者は、いわゆる煙草植民地は、1635年〜1705年までの時期に毎年1500人ないしは2000人の白人奉公人を輸入していたと明らかにし、1680年ころまではヴァージニアとメリーランドの不自由労働人口のほとんどが彼らによって占められ、当時の植民地の主要労働力であったと述べています。
さてアメリカ史上最初の黒人奴隷は、有名なメイフラワー号による渡航の前年1619年8月20日にもたらされました。一隻のオランダ商船が20人の黒人奴隷をジェイムズ・タウンに連れてきて陸揚げし売り渡しました。ではこの奴隷はどこから来たかといえば、西インド経由でもたらされたのです。この時ヴァージニアには奴隷制はありませんでした。そのため西インドで奴隷だった彼らはヴァージニアでは年期契約奉公人となったのです。
※『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)によればオランダ船は、ジェイムズタウンに入港し水、薪その他物資を積み込んだが交換に提供したのが黒人奴隷20人だといいます。しかしその時にはすでにこの地には32人の黒人がいたという。

北部への入植

再現されたメイフラワー号

そして有名なメイフラワー号による渡航は、ジェイムズタウンへの入植後13年たった1620年に行われます。1620年12月25日の雪の日の朝、清教徒のピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)102名乗せたメイフラワー号が現在のマサチューセッツ州ボストンの南プリマスへ到着します。102名のうち女性が29人も含まれていたことは、初めからここに住み、暮らしを立てていこうという決意のもとの植民だったことを示しています。メイフラワー号は、当初現在のヴァージニアを目指したのですが、はるか北方のプリマスへ着いたのは暴風雨のいたずらでした。もし暴風雨に会わなければ、先に入植が行われたジェイムズタウンに着いていたはずで、そうであったらその後の北部対南部という敵対関係は違った形になっていたかもしれません。
さて北部の気候と土壌は石ころが多く、ところによっては不毛地帯でした。ここで作られる穀類は、本国政府が奨励金を出してまで生産を援助したいという農産物とは縁遠いものでした。本国からの援助がないので、いきおい生活必需品は自分で作らねばなりませんでした。このことによりささやかながら、誰に気兼ねする必要もない自営農民の生活がここに打ち立てられていきます。
またこのような農業に不向きな条件こそ、北部人を早くから漁業や造船業、海外貿易、つまり海を相手の生活に向けさせる下地となっていきます。イギリス本国の需要に応じる農産物に恵まれなかったからこそ、南部とは違ってイギリス商人に依存する必要もなく、本国の干渉に断固反対する独立独歩の精神が培われたのです。
しかしこの地も自然環境は厳しく、ピルグリム・ファーザーズのうち次の夏まで生き残った者は50名足らずでした。ロンドン会社は、全体で1607年〜24年の17年間で全体で5649人の入植者を送り込みましたが、飢えや疫病インディアンとの戦いなどで、最後まで残ったのは1095名だったといいます。

インディアンとの戦い

ポカホンタス

先住民インディアンとは煙草栽培におけるインディアン酋長の娘ポカホンタスの協力などもありましたが、もちろん先祖代々住み続けている土地に強引に入り込んできた白人達が歓迎されるわけがありません。小規模衝突は数限りないほどありましたが中でも、1622年南部ヴァージニアでは戦争という表現がされるほど大規模な戦いが起きています。このようなインディアンとの戦争は、1641年、76年にも起こっています。
また北部でも、1637年にピークオート族との間に戦争が起こり、1675年にはワンバノーアグ族との戦争が起こり、これは2年間も続きました。しかしこの戦争でインディアン勢力はニュー・イングランドから排除されることになります。
さらにその後もインディアンとの抗争は続いていきます。1760年〜62年にかけてサウス・カロライナで起こったチェロキー族、63年にはアルゴンクィン族との抗争が続きます。特にこのオッタワ族の酋長ポンティアックに率いられたアルゴンクィン族の反抗は「ポンティアック戦争」と呼ばれ、ペンシルヴァニア、メリーランド、ヴァージニアを含む壮大なもので、期間も4年間に渡りました。ともあれこれらの戦争の結果独立戦争のころには、インディアンたちはアレガニ山脈の西にまで追われてしまうのです。
この先住民の駆逐というとんでもない独りよがりの行動はどういうものだったのでしょうか?1620年12月プリマスに上陸した清教徒は、自分たちキリストの弟子清教徒とサタンの弟子インディアンの戦いと考えたというのです。彼ら清教徒は、インディアンを改宗させキリスト教の恩恵に浴させることが使命と考えたというのです。これはラテン・アメリカにおけるイベリア勢と同じです。しかし南アメリカのインディアンたちと違ってこの地のインディアンは抵抗を続けていくのです。

南部の発展

メリーランドからジョージアに至る熱い太陽と湿気南部の気候と土壌は、煙草は雑草のように生い茂り、南部の富の大部分を独占しました。独立戦争直前のたばこの輸出量は4万トン、金額は数百万ドルに及び、13植民地全体の輸出額の半分に達しました。また日常生活および工業用に必要なコメの作付も17世紀の80年代に始められ、さらに18世紀中ごろには重要染料として本国織物工業に不可欠なインディゴ(藍)も栽培されるようになります。
これらの作物は、本国の主要農産物と競合関係になかったばかりではなく、プレミア付きで栽培を奨励するほど本国が必要としたため、容易にその工業製品と交換されました。つまり南部の農業は商品生産的な性格を持っていました。このことは経済的依存という形で南部とイギリスとの経済関係を緊密にしたのです。この時代煙草は重要で、たばこさえあれば何とでも交換することができたといいます。そのため、南部農園主への本国商人の貸付金は年とともに多額となっっていきます。独立戦争直前、13植民地全体でイギリス商人への負債は500万ポンドに上りましたが、その少なくとも5/6はタバコ・プランターの借金でした。南部が全般的に工業生産の上で北部に劣ったのは、経済を支えていた農産物の商品的な性格によります。南部がプランターにリードされた社会だったのも、このような事情によるのです。

北部の発展

北部の織物工業と製靴業とは、独立戦争のころまでにはマニュファクチュア(工場制手工業)の段階へと急速に発展していきます。特に目を見張らせるのは造船業の発達で、イギリス帝国の船舶トン数の三分の一が植民地の造船所から進水したといいます。このように北部は小規模農業、及び製造業が主体の社会となっていきます。また造船業の発達とともに海運業も発達しますが、ここで華々しかったのは、奴隷貿易や外国領西インドとの密貿易でした。奴隷貿易は、黒人奴隷制の成立及び発展とともに、18世紀に著しくなっっていきます。黒人奴隷を必要としたのは南部でしたが、その片棒を担ぐことで北部の海運業が発達し、後には南部を上回る力をつけていくことは皮肉なことでした。

鎖につながれた奴隷

奴隷制の成立

以上のように17世紀も後半には南部の煙草の栽培が急発展していきます。さらに18世紀に入るとコメ、藍の栽培が促進され、大規模プランターたちは従来の白人年期奉公人だけでは労働力が賄いきれなくなっていきます。それに加えて白人年期奉公人達の間では厳しい労働条件に対する不満が高まり、1663年のアイザック・フレンドによる暴動計画や1675年には「サミュエル・ベーコンの反乱」など暴動計画や実際の蜂起も行われます。これらのことが黒人奴隷制形成に拍車をかけたといいます。それは導入費用が高く後は自由民になる白人年期契約奉公人よりも一生涯縛り付けておける黒人奴隷の方が得だと大プランターたちが考えたのです。
そしてヴァージニアでは1661年黒人を終生奴隷とし、白人の年期奉公人とは異なった身分とするという法律を制定します。そしてその法律には次のような規定がありました。「もし白人奉公人が義務を果しえないニグロと手を携えて逃亡した場合は、彼は自己自身の行動に対する通常の罰のほか、そのニグロの不在期間分だけ奉仕せねばならぬ」、「奉公期限を延長できないニグロは生涯の奉公人、つまり奴隷であることを要する」と。
ヴァージニアと相前後してマサチュウセッツ(1641)、コネチカット(1650)、ロードアイランド(1652)、メリーランド(1663)、ニュ―ジャージーとニューヨーク(1664)、サウス・カロライナ(1682)、ペンシルヴァニア(1700)、ニューハンプシャー(1714)、ノースカロライナ(1715)、デラウエア(1721)、ジョージア(1750)でも黒人奴隷制度が法制化されて行きます。
このように1680年代から黒人奴隷制は進展し、18世紀には黒人奴隷は南部の人口の40%、13植民地全体では20%を占めるようになり、年期契約奉公人は中部に少しいるだけということになってしまいました。

北部アメリカの植民地

イギリスの建設した植民地は13の区域(州)に分かれていました。それら13州を建設順に並べると、ヴァージニア(1607)、マサチューセッツ(1620)、ニューヨーク(1624)、コネチカット(1631)、メリーランド(1634)、ロードアイランド(1636)、ニューハンプシャー(1638)、、ニュー・ジャージー(1638)、ペンシルヴァニア(1681)、デラウエア(1701)、ノースカロライナ(1729)、サウスカロライナ(1719)、ジョージア(1732)となります。この内マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット、ニューハンプシャーの4州が「ニューイングランド」と呼ばれ、いわゆる「北部」を形成しています。『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)は当時のイギリス植民地を南部と北部だではなく、中部も加え、
北部(ニューイングランド)=マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット、ニューハンプシャー
南部=ヴァージニア、メリーランド、デラウエア、ノースカロライナ、サウスカロライナ
中部=ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴァニア
と分けた方が分かりやすいとしています。因みにイギリスの13植民地全体の人口は、1700年では30万人でした。
以前触れましたがニューヨークを建設したのはオランダで、1624年ニュー・ネザーランドを建設します。1664年にイギリス領となり、ニュー・ヨークと改名したヨーク公の私領地となり地名もニュー・ヨークと改称されます。1664年にイギリス領となり、ニュー・ヨークと改称されます。一時オランダに奪回されましたが、74年ふたたびイギリス領に戻ります。さらにニュー・ジャージーはスウェーデンによって「ニュー・スウェーデン」という名称で建設されますが、1655年オランダ領となり、64年よりイギリス領となります。

イギリス13植民地の独立

ボストン・ティー・パーティー

17世紀にイギリスで流行った「エミグラント・ソング(国外移住者の歌)」には次のような1節があるそうです。「そこ(アメリカ)では万民にパンと仕事があり、太陽は常にそこに輝く」と。17世紀初め以降ヨーロッパ人を北アメリカへの植民に駆り立てたのは、よりよい生活の前提である仕事と報酬そして土地所有の可能性でした。彼ら及び彼らの子孫をさらに奥地と誘ったのもこの土地所有を目指してのことだったのです。
新大陸は新天地であり、比較的土地の取得は容易でした。イギリスの13植民地では、年季契約奉公人、奴隷を除けば財産所有が社会各層に行き渡っていました。住民の90パーセントが自由土地所有者でした。マサチューセッツでも農地の90%は自由土地所有者である小農民の土地でした。土地所有の容易さは、長子相続制と限嗣相続制の崩壊、ついては封建制の排除につながっていきます。本国イギリスでは、血統と姓名と土地財産権は三位一体で、特に土地財産権は家系を保っていくうえで最も重要でした。そしてこの制度は次男以下及び娘たちを犠牲にすることで成り立っていました。ところが広い土地を持っていれば、ここは長男、あそこは次男、そしてあそこは長女というように分けることができます。現にそのようなことを示すプランターの遺言書が残っています。
このことは多くの移住者に経済上の自立、そして参政権を持つことができたということを意味します。この自由民の大部分が参政権を持てたというのは旧世界とは大いに異なりますし、13の植民地がそれぞれ代議会を持ったというのは、スペイン、ポルトガル、フランス領とは決定的な違いとなります。イギリスの植民地がイギリスから独立するきっかけとなった原因は、大きくは2つにまとめられると思われます。一つは参政権の停止ともう一つは課税負担の増加です。

参政権の停止

さて17世紀末はイギリスがオランダとの国際商業戦に勝利しましたが、そこには強敵フランスが存在していました。フランスはカナダを直轄領とし、勅任総督を置いて一括的に支配するとともにインディアンとも提携し、イギリス13植民を脅かす姿勢を取っていました。
これに対してイギリスは、1685年にジェームズ2世の即位とともに「ニュー・イングランド領」を結成、ニュー・ハンプシャーからペンシルヴァニアに至るまで一人の勅任総督のもとに入り、各地の代議制度を廃止し、フランスの脅威に対抗しようとします。この代議制の廃止ということに大反発するのです。自分たちのことを自分たちで決められない、イギリス本国が自分たちの将来を決めるということに対する抵抗です。

課税負担の増加

上記のように多くの移住者には経済上の自立、自立しているという意識がありましたが、しかしこの時点では本国からは免役地代が課されていたのです。もちろん本国でも、免役地代は帝国統治方式の一つとして課されていました。免役地代とは、賦役を免ぜられる代わりに収入の一部を国王あるいは領主におさめるというものです。しかし新大陸においては土地は完全に自分のものだと確信している自由土地所有者がこれに反発するようになります。
18世紀中ごろに行われた各種のヨーロッパ間の戦争によってイギリスは北アメリカではミシシッピ川以東とカナダ、そしてインドの大部分を支配下に入れ、1763年のイギリスは古代ローマ帝国とかを並べるほどの領土を獲得しましたが、このために払った財政的な負担は大変なものでした。こうした膨大な財政負担を背負ったイギリスがこの13植民地からもさらに税を徴収し、厳しい財政事情を乗り切ろうと考えるのは不自然なことではありません。そこで「印紙」など様々なものに税をかけるような政策を取り始めます。すると植民地側もこれをやすやすと受け入れません。これを機に植民地側は、植民地間で「本国製品ボイコット」を決議します。そして「バイ・アメリカン運動」が盛んになっていきます。それによってそのさまざまな徴税項目は3年のうちに廃止されるのですが、「茶条例」だけは撤廃されずに残ります。そしてこの「茶条例」こそがが大きな火種になるのです。こうして植民地側は免役地代及び各種の増税と代議制廃止に抵抗し、闘争となっていくのです。

アメリカ独立戦争

独立戦争の激闘

直接のきっかけはこの「茶税」を巡って起こりました。しかしこれが歴史の不思議なところです。イギリス政府は、東インド会社救済のためストックしていた「茶」を13植民地への直売する特許を認めました。じつはこれにより本国経由よりも安く茶が植民地側に入ることになるという本来植民地側にとってはお得な条例でした。しかしこれは大きな反発を受けます。要は「本国政府が勝手に、我々に対する販売の独占を一つの会社に与えることを決めた。これを認めれば我々植民地議会の敗北である」という認識です。要は金ではないということです。 そして1773年12月26日ボストン港に入っていた茶船に、インディアンに扮装した多数の急進分子が乗り込み、茶箱を次々と海に投げすてるという事件に発展します。これが有名な「ボストン・ティー・パーティー」です。これをきっかけに13植民地では、「くたばれ、茶!」という歌が流行歌となり、茶ではなくコーヒーを飲むことがアメリカに忠誠な行為とされるようになっていきます。
当然この事件に対するイギリス本国の憤りは大変なものでした。ボストン湾の封鎖を含めた多数の政令を決定し、植民地側を追い詰めていきます。これに対して植民地側は1774年9月フィラデルフィアで第1回大陸会議を開催します。そしてそこで次第に独立への機運が醸成されていくのです。
さらに1774年10月ボストン西北18マイルにあるコンコードでイギリス軍事政権に対抗するためのマサチューセッツ協議会が結成されます。そしてここには革命軍の軍事物資が隠されていたのです。そこに18日の夜イギリス正規軍が出動します。これを察知した革命軍は、ボストンのノース・チャーチの塔で灯火を振って合図をし、待機していたポール・リヴィアが郊外に急を告げました。これで革命軍も出動し、ボストンから10マイルにあるレキシントンで革命軍との戦闘を交えることになります。
植民地側は翌1775年5月第2回大陸会議を開き、イギリスからの分離が究極の目的ではないとしながらも、ジョージ・ワシントンを総司令官に任命し、戦争の準備に入ります。そしてその1か月後バンカー・ヒルにおいて独立戦争初の大会戦が起こります。この戦いで不十分な装備の革命軍がヨーロッパ最強をうたわれたイギリス正規軍に大打撃を与えるのです。これはイギリスの名誉と深く結びつくこととなります。もうイギリスは引くに引けない状態となります。
こうして英帝国の枠内で自由を達成するための闘争として始まった反英闘争が独立戦争へと発展していきます。そして1776年7月2日には独立宣言が採択されるのです。
しかしイギリスはもちろん黙っていません。独立宣言が採択された翌日、本国からの強大な増援部隊を得て、ロング・アイランドからニュー・ヨーク市に向けて進撃を開始し、2か月後には13連合邦をつなぐ要であるニュー・ヨーク市を占領するのです。こうして独立戦争は8年もの長きにわたって続いていくことになるのです。
独立軍は独立軍は何度も全滅の危機に瀕しましたが最終的に勝利を手にしたことはご存じのとおりです。もともと兵力には圧倒的な差がありました。ワシントンは最大でも1万6000以上の兵を持つことはできなかったのに対して、イギリスは4、5万の兵を持っていました。ワシントンが勝利をしたのは奇襲作戦の時のみで、正面衝突ではすべて敗北したといいます。
さらにワシントンを苦しめたのは根強い王党派の存在でした。この色分けは専門の歴史家でも大変に複雑でわかりにくいといいます。どう考えてもイギリスの圧政に苦しんだはずの人々が王党派についたり、イギリスのおかげで大儲けできた商人の一部が独立派についたりと実に複雑怪奇であるといいます。
独立軍の勝利の要因は地理的な要因の他に決定的な要因となったのは、フランスの参戦でした。もともと独立宣言の動機自体が、新しいアメリカの成立を世界に知らしめ、世界、特にフランスから支援を得ようという意図があったといいます。フランスはもともとひそかに独立軍に有形、無形の便宜を図っていました。フランスにとっては17世紀末のファルツ戦争から19世紀初めのナポレオン戦争に至るイギリスとの百年戦争の一環なのです。イギリスと独立軍の最大激戦の一つサラトガの戦いで、独立軍が勝利するのを見ると、フランスは正式に参戦を表明します。これを見たこれまでイギリスにやられていた、スペイン、オランダが参戦し、ロシアとプロイセンは武装中立を宣言します。要するにイギリスは孤立したのです。いくら強力なイギリス軍といってもアメリカ独立軍とヨーロッパ列強を相手にしては勝ち目はありません。
そしてついに1781年10月イギリス軍が降伏し、1783年9月3日イギリスとアメリカは講和条約を締結するに至ります。この条約に定めるところにより、合衆国は大西洋岸からミシシッピ川まで、南北はフロリダの北から五大湖までを領土として持つ一つの国となったのです。

植民地側勝利の原因

ではなぜ独立軍が勝つことができたのでしょうか?
第1の理由としては地理的条件があげられます。なにしろイギリス軍はまず3000マイル海を渡って、西の荒野1000マイルまでを戦場にしなければならなりませんでした。一方ここは土地が広く、独立軍は、ここで負けても数百マイル離れたところで再起すればよいのです。つまりは地勢が味方したのだといえます。しかし第2の、それも決定的な要因はフランスの参戦であることは先に述べました。

独立戦争と黒人奴隷の活躍

1770年3月5日戦争が始まる5年前にボストンで虐殺事件が起こります。暴動を起こした植民地側の民衆にイギリス軍が発砲し5人が射殺された事件です。この事件で、最初に命を落とした植民地民衆がクリスパス・アタックというこの20年前に逃亡して奴隷の身分から脱した47歳の自由黒人でした。そして彼は「自由の息子たち」という革命組織の活動家だったのです。 ※以上は「アメリカ黒人の歴史」(岩波新書)の記載です。しかし「アメリカ黒人の歴史」(中公新書)にいよるとクリスパスは、この事件の時バハマからついた捕鯨船を降りてボストンに上陸し、ノースカロライナに向けて出港する直前だった。彼は近くで騒ぎが起こっているとの話を聞き、現場に駆け付け、事件に巻き込まれて殺された。彼が独立運動にかかわっていたという証拠は今のところ見つかっていない。当時反英活動家ポール・リヴィアが大衆動員の目的で書いた「ボストン虐殺事件」の版画には、彼らしき人物は描かれていない。彼が独立革命の殉教者になったのは、奴隷制廃止運動が盛り上がっていた1856年に出版された『アメリカ革命の黒人愛国者』(ウィリアム・C・ネル)に添付された版画に最前列で銃殺されているクリスパスの像が描かれてからのとのことです。どちらとも僕には決めかねるので双方ご紹介しました。
戦争が本格化すると、黒人奴隷達は植民地の独立運動とともに自分たちの解放運動とを一体化しようしました。また革命指導者の中には、率先して奴隷制度に非難の声を上げるものも現れてきたのです。特にクエーカー教徒の間には、以前から奴隷制に反対する考えを持った人が多かったのですが、そうした一般的な反奴隷制感情から一歩前進して、自由に対する黒人の権利を主張しただけではなく、彼らの抵抗権さえ擁護するジェイムズ・オーティスの『イギリス植民地の諸権利』が1764年に出版されたのはこのような機運の最初の表明でした。このような奴隷制に非難の声を上げた革命家が現れ始めたのです。
1775年『コモン・センス』の著者として有名になったトーマス・ペインはフィラデルフィアの新聞に『アメリカにおけるアフリカ人奴隷制度』という論説を発表します。彼はその中で、奴隷制度の廃止と合わせて、解放された黒人に自由だけではなく、生活手段として土地も与えるべきだと主張します。
こうして1775年4月アメリカ最初の奴隷制反対協会が、ベンジャミン・フランクリンの指導の下でフィラデルフィアに設立されます。
※ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)は、凧を用いた実験で雷が電気であることを証明したことが日本では有名ですが、優れた科学者であると同時に先駆的な政治家でもありました。独立戦争の講話には全権として出席、パリ条約を締結しました。そのフランクリンは、奴隷制度は工業の発展を阻止し、そもそも黒人が白人より劣るという人種理論そのものにも反対していたのです。その後各地で相次いで奴隷制度反対協会が組織されて行きます。そして1794年1月にはフィラデルフィアで全国大会が開かれるまでになります。(最初は1775年フィラデルフィアで組織され、1785年ニューヨーク、1786年ロードアイランド、1788年デラウェア、1789年メリーランド、1790年コネチカット、1791年ヴァージニア、1792年ニュージャージーとペンシルヴァニアで組織される)
『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書)によれば、こうした社会的気運を黒人たちは、自由黒人も奴隷も感じ取って、この戦いが彼らに自由をもたらすものかもしれないと進んで戦いに参加したといいます。そのため彼らは独立軍にはせ参じ、独立の達成に力を尽くしました。しかし彼らの活動はこれまであまり伝えられていません。しかし実際は独立戦争における黒人奴隷の貢献は決して無視できないものでした。彼らが独立軍の中に相当数いたことは、まずは法律や決議文を通して、第2に目撃者の記録を通して、第三にその勇敢な行為及び死傷に関する記録を通して、認めることができます。彼らは戦争の勃発当初からいち早く独立軍に加わり、レキシントン、コンコード、バンカー・ヒルなどの緒戦だけではなく、国際戦争への転機となったサラトガの戦いやサバナ、ヨークタウンの緒戦等に至るまで、ほとんどすべての戦闘に参加しています。13邦において黒人奴隷を兵籍に入れていない市町村を上げるのは不可能なくらいでした。

サバナの激闘

しかも黒人の男子兵だけではなく独立軍には黒人の婦人兵もいたのです。マサチューセッツ第4連隊に所属した黒人婦人兵デボラ・ガネットは、17か月も軍務に精励し、マサチューセッツ議会から賞状と賞金をもらったという記録もあります。黒人部隊の活躍としては、サバナの戦闘が劇的でした。アメリカ、フランス連合軍が1,200名以上も失って手痛い打撃を受けたとき、フランス軍に所属した「フォンタージュ・レジオン」と呼ばれた700名のハイチ生まれの黒人は、イギリス軍の矢面に立ちその攻撃を退け、連合軍が秩序ある撤退をするのに貢献しました。しかもこれらの黒人戦士たちは革命の種子を多く持ち帰り、やがて到来するフランス革命の大動乱に乗じて、ハイチ黒人共和国を建設するのに重大な役割を果たしました。ハイチ解放運動を指導した黒人の大部分は、かつてアングロ・アメリカの独立の際、「フォンタージュ・レジオン」に所属して活躍した人たちだったのです。
しかしイギリス側は最初から植民地側の弱点は奴隷制にあることを知っていました。そしてもちろんこの点を突いてきます。ヴァージニアの総督ジョン・マーリー(ダンモア卿)は、1775年1月に次のような布告を出します。「イギリス軍に味方して革命軍と戦う奴隷には、参加した時点ですべて解放される」と。
過去長年にわたって奴隷貿易を行ってきて、現にその時点でも西インド諸島に多数のどれを擁していたイギリスの欺瞞性は明らかでしたが、それにもかかわらず多くの黒人奴隷が、そこに開放の機会を求めて続々とプランテーションから脱出してきたのです。彼らは別にイギリスに味方したわけではありません、解放を求めて藁にもすがる思いだったのです。 もちろん革命軍にもこぞって参加し、勇敢に戦った黒人体もたくさんいたのです。正規兵として独立軍の中にいた黒人の数は控えめに見積もって5000人、そのほかフランス軍に所属したものや、反英ゲリラを続けた者もいました。
ここが歴史の面白いところです。南部のプランターたちは、その銃口が自分に向けられるのではないかと恐れ、また奴隷という財産の喪失を恐れ、極力黒人が革命軍に参加するのを防げたにもかかわらず、彼らは率先してイギリス軍と戦うことを切望して、革命の指導者たちの協力を得て、ついに1776年1月自由黒人の軍隊参加を認めさせたのです。プランターたちにとっては、一旦イギリスと戦うことになった限りは、もう何として勝つしかなかったのです。負ければイギリスからどんな仕打ちが下されるか分かったものではありません。
※『アメリカ黒人の歴史』(中公)では、「深南部ではイギリス軍占領時に奴隷の四分の一以上が逃亡した。ジェファーソンの農場がイギリス軍に襲われたときには30人がイギリス軍に逃げ込んだ。開戦後しばらくして黒人の兵籍編入を認めたが、サウスカロライナとジョージアは一切黒人を受け入れなかった。他の州では1777年軍に自由黒人を受け入れた。多くの奴隷主はその奴隷を解放すると約束して、軍隊に自分の身代わりとして奴隷を差し出した。」
黒人奴隷の自己解放運動は一面的なものではありませんでした。彼らの中には、逃亡するかあるいは逃亡してイギリス軍に投じることによって自己の目的を達成しようとする者もいました。事実1782年イギリス艦隊がサバナ港を明け渡した時、5000人の逃亡奴隷が拉致されました。同じく83年イギリス軍がチャールストンを撤退したとき、6500人の黒人が行動を共にしました。少し時間をさかのぼると1778年、ジェファーソンは、その年だけで、ヴァージニアでは30,000人の奴隷が束縛を脱したといっています。ジョージアでは奴隷の75〜85%が、サウス・カロライナでも、10万の奴隷のうち25,000人がそれぞれ逃亡した。その他ノース・カロライナ、メリーランド、デラウエア、ニュー・ジャージー、ニュー・ヨークなどで逃亡奴隷を計算に入れれば、独立戦争の期間である1775年〜83年にわたって10万人の奴隷、つまり奴隷5人に一人が束縛を振り切ったといっても言い過ぎではあるまいとのべています。このように黒人奴隷は、解放の保障さえあれば独立軍にもイギリス軍にもはせ参じた。意見行動が矛盾するようだが、彼らにとっては「解放」こそが宿願だったのである。
黒人奴隷が自ら行動し、クェーカー教徒や独立指導者たちが音頭を取り、さらにタバコ生産から綿生産への端境期という経済事情が作用することによって、アングロ・アメリカの北部地方には自由州が成立することとなりました。自由州の成立は独立戦争がもたらした一つの成果です。
奴隷制の漸次廃止は、まず1780年ペンシルヴァニアで、84年にはコネチカットとロード・アイランドで、99年にはニュー・ヨークで、そして1804年にニュー・ジャージーでそれぞれ決定されました。さらに即時廃止は、1780年のマサチューセッツと84年のニュー・ハンプシャーで決定されました。マサチューセッツ議会が奴隷制を廃止した直截簡明ぶりは次の通りです。「あらゆる人間は生まれながらにして自由かつ平等だという邦憲法を宣言するだけで、すでに奴隷制は廃止されたのである。」このマサチューセッツこそ1790年の合衆国第1回国勢調査で、住民中に奴隷が登録されていなかった唯一の州となりました。

独立宣言

トーマス・ジェファーソン

トーマス・ジェファーソンの起草した独立宣言の草案は次のようになっていました。
「彼(イギリス国王ジョージ3世)は人間性自体に対する残忍な戦いを挑み、まだ彼を害したこともない遠隔の人民自らにとっての、最も神聖な生命及び自由の権利を侵害し、彼らを捉え、他の半球に移してこれを奴隷とし、または同地への輸送の間において悲惨な死をきたさしめた。この海賊的戦術、背信的権力の汚辱こそ、人類が売買される市場を保持しようと決意するに至った、キリスト教者たる大英国王の戦争なのである。」
ここには奴隷制反対というジェファーソンの主張が明確に示されています。しかし独立宣言は次のように修正されてしまうのです。
「我々は以下の真理を自明であると信ずる。すなわちあらゆる人間は平等に創造されているということ、各人はその創造主によって一定不可譲の権利を付与されているということ、これらの権利の中には、生命、自由及び幸福の追求が含まれているということ……」
※『アメリカ黒人の歴史』(中公)ジェファーソン起草の独立宣言はイギリスの思想家ジョン・ロックの自然権思想と社会契約論を根拠にしている。ロックの自然権思想の中核には、私有財産権が位置付けられ、その私有財産には奴隷が含まれていた。ロックは、当時奴隷貿易を行っていた王立アフリカ会社の株主であり、重役でもあった。
独立戦争中、戦後はジェファーソンの意図に従う動きも見られました。奴隷制が厳存していた南部諸州でさえ、多少の成果はあったのです。メリーランドでは、奴隷人口は、1790〜1860年に10万3036人から8万7189人に減り、有色自由民は8,046人から87,189人に増えました。ヴァージニアでも1782年後の8年間に1万人以上の奴隷が解放されたのです。独立13州を通じて奴隷数は1790年に68万以上でしたが、当時すでに6万人の自由黒人が存在していました。
自らがヴァージニアのプランターであり、多くの奴隷を所有していたジェファーソンですが、後に自らの奴隷のほとんどを解放しましたし、ジョージ・ワシントンも遺言で所有する奴隷を解放するよう残しています。
『アメリカ黒人の歴史』(中公)によれば、ジェファーソンは数百人もの奴隷を保有していた。彼の考えは「白人が怠惰になる」から奴隷制には反対なのであり、治安維持のために奴隷の解放は規制すべきだというものだった。自身が黒人奴隷のサリーに産ませた子供二人が逃亡するのを見過ごし、サリーの兄二人を解放し、遺言でサリーに産ませた別の子供二人を解放したが、それ以外は一人の奴隷も解放しなかった。
しかしなぜジェファーソンの原案が修正されねばならなかったのでしょうか?ジェファーソン自身が『自伝』の中で、「奴隷の輸入をこれまでも決して抑制しようとせず、そればかりか今後ともそれを続けていこうとしたサウス・カロライナとジョージアの機嫌を損ねないため」と述べています。

ジョージ・ワシントン

つまり原案の一部は、奴隷主であるサウス・カロライナとジョージアの代表連や、そして奴隷貿易に従事して大儲けしていた北部州の代表連のたっての要求で削除されたのです。その結果北部に自由州ができたものの南部諸州での奴隷制廃止は、一時的な運動にとどまりました。自由州と奴隷州との対決をはらんで80年後に爆発する近代史上最大の内乱の原因は実に独立戦争の中ですでに形作られていたのです。
独立戦争勝利による成果、つまり独立の大きな成果はアレガノ山脈以西の西部が解放されたことです。イギリスによる植民地統治策の一環としてアレガノ以西への移住と土地投機の禁止されていました(1763年の国王布告、74年のケベック条例)。これは厳密には実施されていませんでしたが、大きな足かせとはなっていました。しかしミシシッピ川までを手に入れたことで、大西部を開拓農民や土地投機業者に開放することができるようになったのです。初めはケンタッキーとテネシーを、そしてオハイオ以北の北西部、テネシー以南の南西部が開放されました。1783年独立戦争終結を受けたパリで講和会議が行われ、パリ条約が締結されます。その結果アメリカ合衆国の領土は2倍に広がります。
これにより西部開拓時代が到来します。そして1787年フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれます。ここでは今後西部に作られる州は連邦に組み入れられるという決議はなされていました。新しく作られた州は、これまでの13州と同等の権利を持つことを謳っています。1789年4月ワシントン内閣が発足した当時、アレガニを越えて大西部に向かった開拓農民は25万ににも上ったといいます。
そしてこれ以後西部は、国際競争とインディアン排除の時代に入っていきます。この先住民であるインディアン排除というのもひどい話ですが、実際に行われたことはそう表現するしかありません。
1777年1月に決議された連合規約をもとに連邦制はスタートしますが種々の不備や欠陥が数多くありました。1787年5月合衆国憲法をお作るための会議がフィラデルフィアで行われますが、この会議は民衆の要求を恐れて秘密会議に終始し、55人の代表は各州の有産者階級の代弁者によって行われました。この革命戦争が黒人奴隷を含む民衆の力でなされたにもかかわらず、独立達成後の連邦運営に関しては、先住インディアン、黒人奴隷、一般民衆を素通りし、北部商業資本、南部プランターが主導権を握ったのでした。
このような問題だらけのなか1789年4月30日ジョージ・ワシントンは初代大統領となり、宣誓を行います。このアメリカの独立は、フランス革命、アイルランド自立運動、インドの自立運動等々にきわめて大きな影響を及ぼしていきます。

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