そもそもアメリカと黒人 その4 アメリカ独立戦争後

新大陸でのアメリカ13州の独立の影響

アメリカの独立は、ラテンアメリカのスペイン領、ポルトガル領の植民地にも大きな影響を及ぼしました。ラテン・アメリカの人々は通商上の接触や指導者たちの北アメリカ訪問によって革命思想を学ぶようになります。ヴェネズエラの解放者ミランダやシモン・ボリバルが代表的な例です。アメリカの独立宣言書はラテン・アメリカでも広く読まれるようになったといわれています。

ラテン・アメリカ及びカリブ海諸国の独立

南アメリカ

その前に現在地図を開いて中央・南アメリカ地域をみると、メキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、キューバ、ジャマイカ、プエルト・リコ、コロンビア、ヴェネズエラ、ブラジル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンといった国名が並んでいます。ブラジルはポルトガル領でしたが、それ以外はスペイン領ですので当然国境はありませんでした。そして国名というものもありませんでした。これらが国になったのは19世紀に行われた独立によってです。ラテン・アメリカの旧スペイン領は、独立後も植民地時代の行政区画である副王領や総督領の境界線を残しこれに従って16の独立国に分離したのです。
ですのでブラジル以外は、現在ペルーと呼ばれる国の辺りということでご理解ください。同じスペインの植民地ですので明確な国境というのもありませんでした。今の大体の国の領域というのは、スペインから派遣された現地監督システム総督の区分けに近いとのことです。
さて、各植民地が独立に向かった理由は、大まかにいえば本国の統治は植民地からいかに搾り取るかということに対し、300年も経てばもとは本国の出身ではあるけれど現地で生まれ育った者や現地の先住民と混血して植民地に同化したものも増えてきていました。しかし統治の権限は本国が有し自分たちにはありません。彼らの意識はどうだったのでしょうか?シモン・ボリバルは次のように言っています。
「我々は、インディアンでもなければヨーロッパ人でもない。この国土の正当な所有者と、スペイン人略奪者との間に立つ人間なのだ」
つまり現地での不満は高まる一方だったのです。そして彼らの後ろ盾になったのは、隣のアングロ・アメリカでは常識になっていた啓蒙思想でした。ジェファーソンの独立宣言、トーマス・ペインの「コモン・センス」、モンテスキューの「法の精神」、ディドロの「百科全書」、ルソーの「社会契約論」などが、海外に旅行したり通商に従事するクリオーリョを通してもたらされ、彼らの間で広く読まれるようになっていました。
スペインに対する植民地側の反抗はすでに18世紀初めには表れています。1721年パラグアイがリマの副王に対して反乱を起こしました。これは副王の屈服で収まりましたが、1730年にはホセ・デ・アンテクェラを指導者として再び反乱が勃発します。
同じ1730年には上ペルーでメスティーソ数千人の重税反対運動がおこり、49年にはヴェネズエラのカラカスで反乱がおこり、65年にはエクアドルのキトーで、76年にはチリのサンチャゴで反乱がおこります。これらはすべてスペイン軍隊によって鎮圧されましたが、ついに全世界に衝撃を与える事態が起こります。
ハイチの黒人独立運動です。サント・ドミンゴ島はもとスペインの領地でしたが、1697年フランスの手に帰し、18世紀にはフランスのもっとも豊かな植民地となっていました。全人口は53万6千人で、うち48万人は黒人奴隷で少数の富裕な白人や自由民であるムラートによって支配されていました。こういう状況の中ヨーロッパにフランス革命が勃発したとき、黒人奴隷は奴隷上がりのフランソワ・トゥサンを指導者として独立運動に決起し、本国政府および島内の奴隷王から自由を勝ち取ったのです。そしてこの解放運動の指導者たちこそ、かつてアメリカの独立戦争の際活躍した人たちだったのです。
ハイチの独立はフランス革命中に革命政府により承認されましたが、ナポレオンの登場により事態は変わってきます。ナポレオンは新大陸に大植民地を建設しようと夢見ていただけに、1802年ルクレール将軍を派遣し反乱を収め、再びハイチを手中に収めようとはかります。しかしフランス軍には黄熱病という強敵が待ち構えていました。フランス軍は翌年撤退を余儀なくされます。しかしこの戦いの中トゥサンは捕らえられ、フランスに送られ獄中で亡くなります。しかしハイチの黒人たちはナポレオンの軍隊に対して輝かしい勝利をおさめ、1804年世界で初の黒人共和国を建設するのです。

カリブ海諸国

ハイチの独立運動を経て他のラテン・アメリカ植民地でも独立運動が激しさを増していきます。その導火線となったのが、ナポレオンのイベリア半島侵入でした。
1804年ナポレオンのフランスとスペインの連合艦隊がトラファルガー海峡でネルソンの率いるイギリス艦隊に大敗北を喫します。そこでナポレオンは、イギリス本土への侵攻を断念し、イギリス全土を封鎖してその商品をヨーロッパ大陸から締め出すという大陸封鎖作戦に出ます。この作戦によりまず彼は東に向かい、プロイセンとロシアに侵攻、次いで西方に転じポルトガル全土を占領しました。それでも不十分と見たナポレオンは同盟関係にあったスペインの内紛に乗じ侵略を断行、バイヨンヌにスペイン王家を招きカルロス4世とその子フェルナンドから王位を奪い、兄のジョセフ・ナポレオンをスペイン王に即位させたのです。
こうしたナポレオンの征服行動に対してスペインはマドリード市民を先頭に反仏闘争を展開していきます。これに呼応するようにラテン・アメリカでは反植民地運動が激化していくのです。
ラテン・アメリカ諸国の独立運動に関しては、二人の英雄がずば抜けた活動を行いました。一人は「南アメリカ開放の父」と呼ばれる先ほどのシモン・ボリバルで、もう一人はホセ・デ・サン・マルティンです。
まず1810年4月9日ヴェネズエラのカラカスでは、スペイン総督を追放し独立計画を実行するためにシモン・ボリバルらが独立委員会が組織し、独立運動が開始されます。厳しい戦いが続きますが、これまで王党派に属していた草原のカウボーイであるガウチョの支援を取り付けるのに成功します。
さらに先に独立を達成したハイチも支援を行いましたが、なんと言っても大きいのはイギリスの支援でした。もちろんイギリスはこれまでスペインが独占してきたこの広大な市場が解放されることを狙っていたのです。武器や資本の援助だけではなく、4000人の義勇軍をも派遣しました。度重なる激戦の末、1821年6月24日カラボーボの会戦で決定的な勝利を収めます。
次いで1822年5月ボリバル配下のスクレ将軍によってエクアドルの解放が達成されます。
ボリバルが北部で戦っているとき南部ではサン・マルティンが戦っていました。
マルティンはまず、チリの志士オイギンスと手を組み、1818年チリを開放。次いで1821年ペルーに北上しペルーの解放も達成するのです。
1822年7月マルティンは北へ向かいボリバルと会見します。そこで話し合われたことは明らかにされていませんが、彼は解放運動から身を引き、南アメリカ開放の栄誉をボリバルに譲って故郷のブエノス・アイレスに帰っていきます。さらに2年後イギリスへ渡り、最終的にはベルギーに移り1850年72歳で静かに世を去ったいわれます。
マルティンが去った後今度はボリバルがアンデス越えを行い、1824年12月リマ市東南アヤクチョの戦いで決定的な勝利をおさめ、ついに上部ペルーも独立を宣言、解放者ボリバルの名を取ってボリビアと国名を名乗ることになります。

中央アメリカ

メキシコでは、1810年9月ある村の司祭が革命軍を組織、メキシコ・シティに進軍します。途中多数のインディアンが参加しグアダラハラ市を占領します。そこで奴隷の解放とインディアンの土地回復を宣言するのです。しかし1811年1月スペイン軍はこれを鎮圧、首謀者の司祭は処刑されてしまいます。
しかし志を継いで決起したのは同じくクリオーリョ司祭のホセ・モレーロスで、彼は1813年11月独立宣言を行い、議会を招集し憲法を制定しました。彼もメスティーソやインディアンの解放、奴隷制度の廃止、大土地所有の解体などの運動を行いましたが、またもやスペイン軍に鎮圧されてしまいます。そして彼も1815年12月スペイン軍に処刑されてしまうのです。 すなわちメキシコの独立運動は低迷を続けることになりますが、1821年クリオーリョ出身の軍人イツルビデによってついに独立が達成されます。この要因としては、これまで王党派だったクリオーリョが独立派への転向したことがあげられますが、この転向の原因はやはりスペイン本国の情勢にありました。
そのころスペイン本国では、ナポレオンの失脚とともにフェルナンド7世が王位を回復します。そして彼は以前の絶対王政復活を目指すのですが、立憲制を目指す自由主義者たちはこれに反発、1820年1月革命へと立ち上がるのです。
この革命は成功し国王は獄へ送られます。このことで植民地はどうなるでしょうかか?これまでは王のものだった植民地が自由主義者の事業家達に握られることになります。それなら独立してこそ自分たちの権利を守ることができるということです。
こうしてイツルビデは1821年9月27日勝利者としてメキシコ・シティに入城します。しかしこの後サンタ・アナの指導する反乱がおこり、イツルビデは追放されてしまいます。彼は密かに帰国しようとしますが、見つかって銃殺刑になるのです。そしてその後しばらく政情不安が続いていくのです。
ブラジルの独立もナポレオンのイベリア半島侵入がきっかけとなりましたが、激しい闘争や動乱を通してではないことが特徴的です。
この地はほかの地域と同様住民の大多数を占める黒人は奴隷として私有され、ひどい貧困の中で奴隷主に憤りを持っていましたが、奴隷主である砂糖栽培者たちも公職その他を独占するポルトガルに不満を抱いていました。ブラジルは砂糖だけではなく17世紀末に金が発見され、18世紀前半にはダイヤモンドが発見され国の富は増していました。しかしこの富はすべて本国に吸い取られていたのです。
このような本国のやり方に対して、黒人やクリオーリョは早くから抵抗を試みていていました。ナポレオン戦争が勃発した際イギリスと結んでいたポルトガルは、ナポレオンの要求する大陸封鎖への参加を拒否します。ポルトガル侵入を狙っていたナポレオンは、好機到来とばかり1807年11月首都リスボンを包囲し陥落させます。ポルトガル国王は難を逃れ、ブラジルに移りリオ・デ・ジャネイロを首都としたのです。
1815年摂政のジョアンはブラジル人に本国人と同等の権利を与え、翌年マリア女王が没すると自ら王位について積極的に近代化に努めました。しかしながら半面で王室は徴税を強化したため、1817年クリオーリョを中心とする反乱が地方で起こります。
因みにナポレオンは1815年6月ワーテルローの戦いに敗れセント・ヘレナ島に流されていました。1820年ナポレオンから解放された本国の商人層はジョアン6世に帰国を要請し、国王は王子のドン・ペドロにブラジル支配を託して本国に帰還します。
国王の戻ったポルトガルは、ブラジルを以前の隷属状態に戻そうとしますが、ペドロはこれを拒否します。ポルトガル政府はペドロを反逆者と決めつけますが、ペドロは1822年9月7日イピランガ河畔でブラジルの独立を宣言するのです。こうしてペドロは12月にリオ・デ・ジャネイロで王冠を受け、ブラジルは独立し、王国としてスタートを切ることになったのです。
こうしてラテン・アメリカ諸国は次々と独立は果たしていきます。結論から言うと1804年〜1825までの間にラテン・アメリカの植民地はことごとく独立を成し遂げました。300年にわたるイベリア勢の植民地体制も一挙に崩壊していくのです。それぞれの国の成立時期は「世界の歴史17/アメリカの明暗」(河出書房新社)P239 ヨーロッパ列強の手に残ったのは、カリブ海の若干の島と本土ではイギリス、フランス、オランダの領地に分割されたギアナだけとなったのです。
ラテン・アメリカの独立は、フランスからの独立を果たすハイチを除くとクリオーリョが行ったクリオーリョのための闘争でした。インディアンやメスティーソ、黒人も参加しましたが中心はあくまでクリオーリョでした。植民地の自由というスローガンは、所詮クリオーリョが本国から自由になるということで、インディアンや黒人の搾取を行う封建的大地主制度には全く手が付けられないどころか強化される傾向さえ見られたのです。
世界史上アングロ・アメリカとほぼ同時期に独立を達成するラテン・アメリカ各国が、合衆国に著しい後れを取ったのは、クリオーリョのための独立にとどまり、社会、経済的な面では改革が行われなかったことによるといえます。そしてこれらの大半の国々の不安定さは21世紀の現在でも続いていると言えるでしょう。

黒人=劣等人種 差別思想の成立

「新書アフリカ史」

『新書アフリカ史』(講談社現代新書)によれば、18世紀は、人類史上最悪の奴隷売買の世紀だったと言われます。アフリカはヨーロッパにとって奴隷供給をする源であり続けました。セネガルからアンゴラまでの5000キロメートルに及ぶ海岸沿いに点々と置かれた積出港から、膨大な数の奴隷が送り出されました。その数は18世紀だけで560万人を優に超えると推計されています。
18世紀のイングランド社会には、アフリカ人奴隷の存在が色濃く刻印されていました。黒人の奴隷は公然と競りにかけられ売買されていましたし、上流婦人が黒人少年を愛玩用の子猫と同じように「飼育」することも珍しいことではなかったといいます。
またこの時代はヨーロッパに紅茶やコーヒーが嗜好品として定着する時代でもありました。ロンドンのティー・ハウスやパリのカフェで議論を戦わせたのは、ロスチャイルドら新興ブルジョアジーであり、ロベスピエールら市民革命派の面々でした。彼ら市民層が愛飲する紅茶やコーヒーの消費は急増しました。その結果砂糖の需要も膨張していったのです。そしてその砂糖を生産するために、新大陸やカリブ諸島はアフリカ人奴隷を一層必要としたのです。
自由と平等を求めるヨーロッパの市民社会は、不自由で不平等なアフリカ人奴隷を必要としていたのです。この一見矛盾する現実を解決するために、アフリカ人を文明から徹底的に遠ざける言説が作り出されました。アフリカ人は自分たちと同じ人間ではない、とすれば支配も差別も正当化できるというわけです。つまりアフリカ=野蛮の言説はこの時発明されたのです。17世紀から18世紀にかけてアフリカに滞在したヨーロッパ人の残した書物は、この人種差別の言説を繰り返し反復することによって、常識として育て上げるのに貢献しました。著者はたいてい奴隷商人か奴隷船護衛の海軍将校でした。
たとえばイギリスのアフリカ貿易を独占した王立アフリカ会社の外科医、ジェイムズ・フートソンは、1722年にシエラレオネを訪れた際の黒人の印象を、次のようにまとめて見せました。「黒人の習慣は、同じこの地で仲良く暮らしている生き物にそっくりである。つまり猿だ。」
こうしたアフリカ滞在者のレポートは、さらに哲学者や生物学者の手によって学問的に仕立てられ、人種主義が似非科学として成立していきます。近代植物学の先駆者カルル・リンネは、1735年の「自然の体系」において、人類をホモ・サピエンス(知恵をもつヒト)とホモ・モンストロスス(怪異なヒト)の二種に分類し、アフリカ人らを「原始的な人間」として後者に分類したのです。この成果を受けて、モンテスキューやヒュームといった啓蒙時代の一級の知識人たちが、アフリカ=野蛮観に哲学的な仕上げを施しました。例えばモンテスキューは「きわめて英明なる存在である神が、こんなにも真っ黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない」(「法の精神」1747年)と書いています。啓蒙精神の本音もこんなものだったのです。
※当時ヨーロッパでは世界進出とともに博物分類学が発展していました。その学者ヨハン・F・ブルーメンバッハは、1775年収集された人骨を分類し、人類を5つの人種、コーカシア(白人種)、モンゴリカ(黄色人種)、エチオピカ(黒人種)、アメリカナ(赤色人種)、マライカ(茶色人種)に分類しまし、神が作った秩序に基づく人種諸集団の階層秩序を論じた本を出版しました。この5種が後に3種、コーカソイド(白色人種)、モンゴロイド(黄色人種)、ネグロイド(黒色人種)という通俗的人種分類に繋がっていきます。そしてここですでに「コーカソイド(白色人種)が神に選ばれた優劣人種であるという今となっては誤りでしかない説が展開され、広まっていきます。アメリカの独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは黒人の生まれつきの劣等性を科学的に論証されたと述べていますが、その源となったこの論証とはこのブルーメンバッハの論文であり、それが当時の一般的な科学的知識だったのです。

アメリカの膨張と第2次米英戦争

アメリカ独立13州

まだ独立戦争中の1777年11月に決議され、81年から効力を発揮した「連合規約」のもとで、13連邦はアメリカ合衆国としてスタートを切りますが、発足当初から連邦会議の中では、中央集権派(フェデラリスツ)と地方分権派(アンチ・フェデラリスツ)が生まれ、対立の構図ができつつありました。
ところで13植民地の独立戦争に当たって対イギリス戦に参戦したフランスとは、いつの日にか英仏が開戦すれば、フランスに味方するという同盟を結んでいました。ところが海上争覇を巡ってイギリスとフランスの間が風雲急を告げるようになってきたのです。当然フランスは約束の履行を求めてきます。しかしここで対英戦に打って出れば、すでに莫大な額に上っている国家の負債はさらに増え連邦の危機となってしまいます。悩みに悩んだワシントンは1793年4月22日中立宣言を行うのです。
中立宣言をしたのち、ワシントンはまずイギリスとの関係を調整しようとします。というのは、フランスに対してよりもイギリスに対して厄介な問題を抱えていたからです。それはイギリス軍はその後も西部の砦を占拠しているし、独立戦争中に持ち去られた奴隷その他の財産は回復も弁償もされていないし、イギリス投資家による国債や銀行株や、クレジットはどこよりもずば抜けて多かったからです。それに加えてイギリス海軍による合衆国商船への打撃がひどかったのです。
第二代大統領ジョン・アダムズ時代も内慮外患の時代でした。中立宣言によりフランスとの関係は悪化し、宣戦のない戦争が行われはじめました。そして1800年第三代大統領にはジェファーソンが、就任しました。そして彼の就任中に大変重要なことが起こります。ルイジアナの買収です。ルイジアナの買収といっても、現在のルイジアナ州ではありません。現在で当てはめるなら、ルイジアナ、アーカンソー、ミズーリ、アイオワ、、ミネソタ、ノース・ダコタ、サウス・ダコタ、ネブラスカ、カンサス、オクラホマ、コロラド、ワイオミング、モンタナの13州を含むミシシッピ川からロッキー山脈までの領域(左図緑部分)に相当します。つまりこれは国土を一挙に2倍にすることになるのです。これはただ国土を広げるということだけではありません。世界一の長流ミシシッピが「オール・マン・リヴァー(Ol' man river)」という愛称で呼ばれたように、西部農民や南部プランターの生存そのものが、この川の周辺に広がる無限の緑野と大河の航行に賭けられていたのです。農本主義者といわれるジェファーソンの面目躍如です。
農民の汗の結晶はミシシッピの流れを下ってニュー・オリンズに至ります。そして川から海へ。市場は東部の海岸であり、次に旧世界です。陸路で東部へ農産物を運ぶよりも川から海に出る水路での運搬の方がはるかに効率的で、ミシシッピを含むルイジアナ買収は西部農民、南部プランターの声だったのです。
ではどこから買ったのでしょうか?もちろんフランスです。ではフランスはどうやってここに入植していたのでしょうか?ナポレオンが1800年のサン・イルデフォンソ条約でスペインからルイジアナをもぎ取っていたのです。ナポレオンは、それをもって新世界に植民帝国を築く第1段階と考えていたのですが、サント・ドミンゴ遠征に失敗したのと、イギリスとの決戦を前にしているという事情から、ついにルイジアナ売却を決心したのです。
イギリスという最大の世界帝国に対抗するだけの海軍力を持たないナポレオンは、いざ対英戦争ということになった場合、ルイジアナはフランスから離れることを読み取っていたのです。どうせ離れていくのならせめて金を手にしておこうと考えてことでしょう。

ルイジアナ売却州

こうして交渉が行われ、1803年12月20日ニュー・オリンズ市役所前広場にはフランスの三色旗が翻り、輪状の旗ひもの下端には星条旗が結びつけられました。そして定刻になると三色旗が引き下ろされ、星条旗が上昇しました。ジェファーソン内閣最大の事業の瞬間でした。買収価格は1400ドルといいますから相当安い買い物でした。
ワシントンの調整努力にもかかわらず、1812年に第2次米英戦争が勃発します。そのころまだイギリスは西部地区に地盤を維持し砦を築いていました。この戦争はさらなる土地の確保を狙う西部のフロンティアの人々のたっての希望によって引き起こされた戦争です。
アメリカが広大な領地を獲得し西進するということは、もともとの住民であるインディアンを追い立てるということです。インディアンの中には、白人の雄弁に騙され土地を奪われたものもいますしウィスキーにつられたものもいますが、そんなものには惑わせられず挽回の意気に燃える者もいました。当然そこでは戦争がはじまります。そしてショーニー族とオハイオ渓谷のインディアンの合成軍との間で1811年11月6日ティベカヌー河で大戦が行われます。
ところがアメリカの西部人は、こういったインディアンの背後にはイギリス勢力がいると信じ込んでいたというのです。これは全くの思い過ごしなのですが、彼らは信じて疑わなかったといいます。要は西部フロンティアの開拓を邪魔しているのはイギリスであるという思い込みにとらわれていたのだというのです。
戦争全期を通して合衆国は5万の正規兵、1万の志願兵、45万の国民兵を動員しました。これに対してイギリスの兵力は最大の時でも1万7千を出たことがありません。ところがそれでも合衆国はこれさえ打倒できないで3年の期間を過ごしたのです。これほど悪評の高い戦争はアメリカ史でも見当たらないといいます。
この戦争ではどちらが勝ったかという記載は不思議にもどの書籍にも全く見られないのです。しかし1814年には講和条約が結ばれたといいますから、勝敗は別としてお互いに歩み寄ったのでしょう。そして多くの人たちが新天地を目指して西部へ移動したといいますから、西部地域での脅威が薄れたのでしょう。
因みに移動した人数は、1803年オハイオには、58万1400人、1816年インディアナには4万7100人、1818年イリノイには5万5200人、1837年ミシガンには8800人だったそうです。
またこの戦争は西武の開拓だけではなく、東部旧社会に工業化の波をもたらしました。ニュー・イングランドでの織物工業の発達には目覚ましいものがあったといいます。
工業の発達は、内陸改善の必要を実感させることともなりました。有料道路として1本しかなかったカンバーランド道路は、1811年から7年の歳月をかけてオハイオ州ホィーリングまで拡張され、イリー運河も1817年に着工されて8年後の開通しました。特にこのイリー運河の意義は大きくニューヨーク市は五大湖の地方の広大なヒンターランドを持つことになり、フィラデルフィアを抜いて一躍合衆国第一の港となったのです。さらに進んで、汽船の実用化、鉄道の敷設も内陸改善に貢献しました。
汽船の実用化は1807年ロバート・フルトン建造のクラーモント号が、ハドソン川を上下したのに始まります。1830年馬車から蒸気機関車に入れ替わり、以後急速に普及していきました。1836年モールスによる電信の発明が、列車連絡に決定的な便宜を与え、鉄道の発達に拍車をかけたのです。

メキシコからの割譲

また在任期間が1817〜1825年にわたる国務長官のアダムズは、祖国(ペアレント・ステイツ)の領域は、北アメリカ全体であると考えていました。すなわち北アメリカで居住可能な地域全体を手に入れることであり、北アメリカで植民地を持ちうる国家は合衆国のみであり、合衆国は南北アメリカの指導国とならなければならないと考えていたのです。彼はまずスペインと交渉を行い1819年フロリダを割譲させます。
1829〜41年は大統領がジャクソンとバン・ピューレンの時代で、この時代において、インディアン問題、黒人奴隷問題を除いて社会のブルジョア民主主義がほぼ達成されます。
1830年代は男子普通選挙が普及しました。1924年の大統領選では、35万6000票が一般投票であったが、36年には150万に増え、40年には240万に増えていきます。これは人口の増加だけが理由ではありません。大部分は選挙権制限の撤廃と政治に対する一般の関心の上昇があります。独立戦争で男子普通選挙を実現したのはペンシルヴァニアだけでしたが、1930年代には、ロード・アイランド、ニュージャージー、ノース・カロライナを除くすべてに男子普通選挙が確立されていました。これはかなり進んだことで、たとえばイギリスでは、1832年選挙法改正によって男子普通選挙の入り口にたったばかりだったのです。宗教においても1833年マサチューセッツを最後に公立教会が廃止され、世界を驚かせました。
1840年代は「咆哮する40年代」といわれます。領土拡張のスローガンは「明白な運命(マニフェスト・ディスティニー)」というもので、これは無明の民を文明の恩沢に浴させるのが合衆国民に神が課した使命であるという実に勝手すぎる論理です。この手前勝手な論理によって、アメリカはメキシコから領土を奪い、先住民インディアンを追い込んでいくのです。
まずルイジアナの西方に広がるテキサス州は綿花の栽培に適していることから多くの合衆国人やイギリス人を引き付けていました。1821年スティーヴン・オースティンによって最初の英米混合植民地が作られました。それから10年以内で人口は2万に達したとあります。ところがここはもともとメキシコの領地であり、メキシコ政府は外国勢力の進出を恐れてこれ以上の移住を禁止します。
1835年これに対しテキサス移住者たちは反乱を起こしテキサスを共和国として独立させました。サン・アントニオにある「アラモの砦」がメキシコ人によって占領されたのはこの反乱においてです。ジョン・ウエインの映画でおなじみのようにこの時守備側の合衆国人は一人残さず殺されました。そして1845年3月時の大統領ジェイムズ・ポークはメキシコ側の警告を無視してテキサスを併合してしまいます。
次にメキシコからもぎ取るべき地域はカリフォルニアでした。スペインがサン・フランシスコに入植するのは、アメリカが独立宣言を行う1789年で、合衆国からの移住者も1200人いたのです。メキシコは、テキサス併合によって合衆国に対する不信感を増大させていきます。そしてついてテキサスの境界線を巡りアメリカと戦争が開始されます。1846年〜3年間続くメキシコ戦争です。そしてこれにアメリカは武力によって勝利します。戦いに敗れたメキシコは1848年やむなくリオ・グランデ川を米国との境界線として認めざるを得なくなってしまうのです。当時のカリフォルニアも今のカリフォルニアとは違います。現在のネバダ、ユタ、アリゾナとニュー・メキシコの一部を合わせた地域に相当します。
そして合衆国は実に運のよい国です。メキシコとの講和条約締結の1週間前、カリフォルニアで黄金が発見されます。発見者はニュー・ジャージー出身の職工ジェイムズ・マーシャル、場所はサクラメント渓谷でした。ゴールド・ラッシュの始まりです。しかも合衆国は、メキシコ戦争を始めたころイギリスとオレゴン協定を結び北太平洋側も領土としています。ここも今日のオレゴンではありません。今日のワシントンとアイダホを含む地域に相当するのです。こうして合衆国は、東は大西洋から西は太平洋までを領土とする一台大陸国家となるのです。
このことがメキシコに与えた打撃は言いようもなく大きいものがあります。さらに戦争は300万人ものメキシコ人が南西部に取り残されました。講和条約では、合衆国に併合された土地に住むメキシコ人には合衆国人と同じ権利が与えられるとはなっていましたが、実際には黒人と同じように経済上の差別待遇を強いられ市民権の多くも奪われたのです。こうしたことがラテン・アメリカに根強く残る合衆国への不信の原因となっているのです。
こうした悲劇はメキシコ人だけではありません。白人の西進はインディアンの挽歌でもありました。組織的なインディアンはすでにアレガノ山脈の西に消えていました。ジャクソン大統領時代有力部族のチェロキー族とクリーク族がミシシッピ以西に追いやられ、長い行進の途中1万4000人中4000人が死亡しました。
1812年またもやジャクソンはフロリダのセミノール族に逃亡黒人奴隷と同盟したという理由で攻撃を行います。しかし猛烈な反撃にあってしまいます。しかし1832年合衆国側はリターン・マッチを仕掛けます。インディアン戦争中最も激しい戦いといわれます。そして7年の抵抗の後講和を結ぶのです。
南部だけではありません。イリノイやウィスコンシンでも戦争が行われます。原因はジャクソンの強硬な追い出し作戦です。1832年イリノイに住むサック族の酋長ブラック・ホーク(黒い鷹)が立ち上がりましたが、圧倒的な武力の前に屈せざるを得なくなります。
それからも何百回となく戦いは行われましたが、1876年リトル・ビッグ・ホーンでスー族を破り、1880年には大部分のインディアンは土地を追われ保留地に集められてしまうのです。 しかしこのどうしようもない劣勢の中インディアン最後の武力抵抗が行われたのが、1871年〜15年間続いたジェロニモに率いられた南西部に住むアパッチ族でした。しかし敗戦は見えていました。1886年ジェロニモは降伏し、アパッチ保留地の全男子と329名の婦人・子供はフロリダの軍事刑務所に送られました。さらにはオクラホマのシル要塞に送られ、1914年まで28年間もアパッチ全部属は囚人の状態に置かれたのです。

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