そもそもアメリカと黒人 その5 奴隷制の変化

奴隷制の廃止

アフリカでの奴隷狩り

奴隷貿易の期間に大西洋を渡ったアフリカ人奴隷の数については諸説あります。諸説については、「そもそも2」で取り上げましたが、一般的には1200万人から2000万人くらいと見積もられているようです。その内訳は、ブラジル向け38%、カリブ海諸国向け31%、スペイン領アメリカ向け16%、アメリカ合衆国向け5%です。ただしこの数には、奴隷狩りの途中で殺されたものや奴隷船上で死んだものを含んでいません。スペインによる併合時代を含めて、「アシェント」をほぼ独占したポルトガル商人が全体の約4割を運んだといわれています。
奴隷需要にこたえるために奴隷商人たちは奴隷を求めてアフリカ本土を内陸部へと入っていきました。こうした奴隷貿易は様々な影響をアフリカに与えます。奴隷需要の一方で奴隷貿易禁止を求める声も高まっていたといいます。
そして18世紀後半、イギリス領の西インド、西アフリカでは奴隷貿易と奴隷制について重要な変化が生まれていました。それはイギリス本国では1787年奴隷貿易廃止委員会が作られ、1792年下院が奴隷貿易の廃止を決議したのです。これは産業革命による自由放任主義の台頭とアングロ・アメリカ北部での奴隷制廃止とが作用したといいます。
1807年イギリス議会は奴隷貿易を公式に違法とし、1834年イギリス帝国内の奴隷を開放しました。これによりデモクラシーの先進国であることをアピールしたといいますが、本当にこのアピールのために開放したのでしょうか?
ともかくイギリスに続いて1815年までの間に、アメリカ、オランダ、フランスが相次いでこれに倣い、西ヨーロッパ諸国は19世紀初めには足並みをそろえて奴隷貿易を廃止しました。これによって正式には奴隷貿易は終焉をむかえます。イギリスなどは貿易を禁止するだけではなく、強大な海軍力を駆使して洋上パトロールを行い奴隷船を拿捕するというところまで踏み出します。

奴隷船内

さらに奴隷制もイギリス植民地で1834年、フランス植民地で1848年に廃止されました。ことことは大変に良いことだと思えるのですが、これが僕には実に不思議でした。もちろん僕は奴隷制には大反対です。しかしこの制度は奴隷を使役する側にとっては、実に都合の良い制度であると思われるのです。そんな好都合な制度を自ら手放すでしょうか?そしてその手放す理由が「デモクラシーの先進国であることを主張」するためというのは、俄かに信じられません。しかし奴隷制と奴隷貿易は上記の期間に廃止されたことは歴史的事実です。ではなぜそのようなことが行われたのでしょうか?なぜヨーロッパ列強はこうも立場を180度変えたのでしょうか?それは突然人道主義に目覚めたからではありません。なぜなら19世紀のヨーロッパは、アフリカ人を劣等視する人種主義を体系的に完成させていたからです。
ではなぜ変わったのでしょう?それはヨーロッパがアフリカに求めるものが変化したからだというのです。これまではただ労働力を提供してくれればよかったのですが、ヨーロッパ人はアフリカの黒人には、賃金労働者になって働いてもらい(もちろん賃金は低く抑えるが)、稼いだ金でヨーロッパの産業製品を買ってもらうことを求め出したのです。つまり労働力の提供だけではなく市場も提供させようということです。
この奴隷貿易、奴隷制廃止の先駆者、イギリスは19世紀にはいると、東アフリカにおいて奴隷貿易禁止に向けて動き始めます。イギリスの圧力を受けてオマーンの国王サイイド・サイードは、1822年奴隷貿易禁止を目的とした条約をイギリスとの間で結びます。しかしこの条約は、キリスト教国家との奴隷貿易禁止を規定したものであり、ほとんど効果はありませんでした。
この後もイギリスは奴隷貿易の禁止を求め続け、1873年になると、ザンジバル、オマーンの両国と、すべての奴隷売買を止めることを内容とした条約の締結に成功します。ザンジバルの街にあった奴隷市場は、条約が結ばれた日に閉鎖され、その場所には後に教会が建てられました。しかしこの条約でも奴隷貿易を完全になくすことはできませんでした。奴隷貿易が姿を消すのは、20世紀に入ってからのことです。
因みにイギリスは洋上パトロールで奴隷船を拿捕すると積まれた奴隷を保護することを始めます。保護した奴隷はインドのゴアなどでキリスト教に改宗させて、解放奴隷としてアフリカへ戻しました。そして彼らにフリータウンという名称の人工都市を作らせるました。その結果シエラレオネの首都を始め、アフリカには無数のフリータウンが出現することになりました。 しかし残念ながら、入ってイギリス艦隊による奴隷貿易は監視の目を盗んで相変わらず奴隷貿易は続けられていました。19世紀だけでも売買された奴隷の数は230万にも及ぶと推定されています。南大西洋ルートでブラジルへ、あるいはエチオピアから陸路で紅海を経てアラビア半島へと運ばれたのです。かつての積出港ザンジバルでは、輸出できなくなった奴隷を使ってクロープやゴムの大プランテーションが成立しました。しかし全体としてみれば奴隷の商品価値は低下していました。1780年には40ドルだった奴隷一人の価格は、1820年にはわずか20ドルにまで下落しています。
因みに奴隷に代わる商品として人気を集めたのは象牙だったといいます(余談)。
独立によって奴隷制の廃止へと向かうかと思われたアングロ・アメリカに長く奴隷制が存続し、奴隷貿易や奴隷制のゆえに弾劾されたイギリスが奴隷貿易、奴隷制の廃止を1世代も前に達成したことは、歴史上の皮肉としか言いようがありません。
※『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)によれば、アメリカ議会が議決した内容は、「1808年に奴隷貿易を禁止する」ということではなく、「1808年以前においてこれ(奴隷貿易)を禁止することはできない」というものだったそうです。このため駆け込み的に1807年奴隷の輸入が急増しました。またこの欧米各国の奴隷貿易禁止に最も強く抵抗したのは奴隷貿易を生業としていたアフリカの部族だったそうです。

アメリカでの奴隷の変化

先に触れたようにアングロ・アメリカ北部では奴隷制廃止されましたが、南部では依然として継続されていました。そして独立戦争後も各地の奴隷制反対協会は活発な活動を続けていました。特に先にも登場したクエーカー教徒は奴隷制廃止の説得に熱心に取り組んでいました。自由黒人たちも黒人のための独立教会を作ったり、学校を建てたりします。それは、人種的偏見に満ちた白人が主張する白人優越・黒人蔑視に対する戦いだったのです。
奴隷制度のくびきに抑えられていた南部の黒人たちも抵抗を続けました。抵抗の仕方もいろいろありますが、やはり大きなもの言えば暴動と言えるでしょう。ハーバート・アプシカーという人物は1791〜1810年の間に南部で40以上に上る暴動、及び暴動計画、放火に関与したという記録が残っています。
1800年8月にはヴァージニア州リッチモンドで起こった放棄には、1000人とも10000人ともいわれる武装反乱奴隷が参加していました。さらに1811年ルイジアナ州ニューオリンズ付近でも数百人規模の反乱がおきています。
さて、前段で述べたようにアメリカでも1808年には奴隷貿易が禁止されます。その決議がなされる以前には、南部プランターや北部の奴隷貿易商人たちはこの決議に猛反対していました。しかし結局この決議を認めたのには、それなりの理由があったのです。それは南部プランテーション奴隷制度が重大な危機に直面していたのです。要は植民地時代の主要作物は応時の有利さを失いつつあったのです。「藍」などは完全に衰微し、奴隷人口も過剰となって奴隷価格も下落していたのです。事実過剰な奴隷を擁していた南部諸州は、1796年まで実質的には奴隷の輸入を禁止していたくらいです。ジェファーソン、ワシントンが自分の保有していた奴隷を解放したのには、このような事情も反映してのことでした。
※ジェファーソン、ワシントンは一切黒人奴隷を開放しなかったという記述もあります。
※『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)によれば、南部地域では、「万人平等」思想から奴隷が解放されたわけではなく。経済的な理由からでした。煙草需要が落ち込むようになると一旦小麦へと転作が行われるようになります。小麦は労働力を集中する期間が限られており、一年中奴隷を抱え込むのはコストがかかります。必要な時に雇う方が効率的なのです。そのため奴隷価格は低下します。そのため奴隷解放が進んだというのです。しかし小麦ではなく綿花が栽培されるようになると再び奴隷が必要となり、奴隷価格は高騰していきます。上南部では奴隷を増殖させ売却して利潤を上げるものが増えます。中部三州は漸次奴隷を減らしていったというか減らすのに時間がかかりました。ペンシルヴァニアでは、1820年時点で2万人弱の奴隷がいたが、1780年3月1日以前に生まれた奴隷は解放されず、それ以後に生まれた奴隷は28歳になった時点で解放されました。
※『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)によれば、南部地域では、奴隷の増殖が熱心に行われました。自ら黒人奴隷女性に子供を産ませる、望まない男女を無理やり掛け合わせることも行われた。この結果1790〜1860で、奴隷の数は約70万人から約400万人に増えた。1810〜60年の間に80万人の奴隷が売買されました。

奴隷の生活

奴隷監督の下で働く黒人奴隷

では奴隷の生活とはどんなものだったのでしょう。
自ら奴隷で、後に逃亡して自由の身になり、やがて奴隷制廃止運動の優れた指導者のひとりとなったフレデリック・ダグラスは、「奴隷所有者とは、同じ人間である者に対して所有権を主張し、行使する者のことである。(中略)黒人奴隷とは、一切の権利を剥奪され、獣の水準に引き下げられて、法律上は単なる動産にすぎず、人類の同胞関係の圏外に置かれ、人間族から切り離された人間存在である。彼ら黒人奴隷には、これは自分のものだといえるものは何一つない。彼らは、他人の果実を取り入れるために骨を折って働き、自分以外の人間が遊んで暮らせるように汗水を流すのだ。一方、奴隷所有者の1日は、昼は狩猟、夜は舞踏会と忙しい。折々の寄り合いでは、奴隷を何年で使い果たしてしまえば一番得かということが、綿花の値段や子供のしつけの話と一緒に真剣に論じられるのだ。」と述べています。
他方黒人奴隷は、自分がかろうじて生きる程度の生活物資さえ容易に与えられず、牛や馬とと同じように、一日中働き続けるのです。腹が減ったからと言って自分の労働によって作った果実を食べれば盗みの咎で鞭打たれ、離れればなれの妻や子供に会いに行けば、逃亡をたくらんだと焼き印を押されるのです。たまりかねて逃亡すれば獰猛な犬どもが後を追い、もし捕まれば耳をそがれたり、殺されても仕方ないのです。
1780年メリーランドで生まれたチャールズ・ボールは、4歳の時に母親はジョージアに、兄弟姉妹はカロライナに売られ、生き別れになりました。彼は25歳の時、別の農場の奴隷と結婚を許され、妻の農場に毎週通っていましたが、間もなく妻と子供を残してジョージアに売られることになってしまいます。彼は「その男が私のところへやってきた。わたしの首につけた首輪をつかんで「お前は俺のものだ。これからジョージアに行く」と言ったのです。その時私は「出発前に妻と子供に会うことはできないでしょうか」と尋ねます。すると男は、「向こうに行ってまた別の女を手に入れたらいい」と言って取り合ってくれなかったのです。そして鉄の首輪をされ、二人一組にして手錠をかけられ、数珠つなぎに鎖でつながれ、彼らは50人ほどの集団でジョージアに向かって歩かされたのです。彼は何度か逃亡を試みたが、その都度つかまり、ジョージアでしばらく暮らすしかありませんでした。しかし再度逃亡し、今度は自由州に逃げ込むことに成功します。そして、彼は妻と子供の消息を知ろうと昔住んでいたところへ行ってみたが、妻たちがすでに売られてしまったこと、また自分の逃亡手配広告が出ていることを知り、慌てて逃げ帰ったといいます。
植民地時代の奴隷制度にはまだどことなく家父長制的な要素がありましたが、「綿花王国」の時代になると、黒人奴隷はあからさまに主人である所有者の「動産」と化し、人間対人間の関係はすっかり影を潜め、仮借なき重労働と鞭の強制による関係に代わってしまいます。それとともに従来のクエーカー教徒や人道的漸進的奴隷解放論に代わって非妥協的な奴隷の即時、無条件、全面開放を唱える奴隷制廃止主義(アポリショニズム)が唱えられるようになります。このような奴隷制廃止運動はジャクソニアン・デモクラシーとして知られるさまざまな社会改革運動、西部の農民運動、東部の労働運動、空想的社会主義運動、女性解放運動とも相互に絡み合いながら一つのはっきりと組織された運動として発展していきます。
1831年には奴隷解放誌「解放者」や33年にはアメリカ奴隷制反対協会が設立されます。協会は様々なパンフレットや定期刊行物を発行したり講演会を行い、議会にも西岸活動を活発化させていきます。当然奴隷制寡頭権力側からは激しい抵抗や弾圧が行われ、テロも横行します。特に南部では「自警団」が組織され、奴隷制反対者に誰彼構わずリンチを加えるという行為に出ます。さらに奴隷制反対のパンフレットなどが入ってこないよう郵便物の検閲制度や憲法に保障された言論の自由を侵害してまで「箝口令」制定します。

黒人奴隷の抵抗運動

奴隷制反対協会の出版物

先に触れたようにアングロ・アメリカ北部では奴隷制廃止されましたが、南部では依然として継続され、綿花革命以後むしろ拡大強化されて行きます。植民地時代の奴隷制度にはまだどことなく家父長制的な要素がありましたが、「綿花王国」の時代になると、黒人奴隷はあからさまに主人である所有者の「動産」と化し、人間対人間の関係はすっかり影を潜め、仮借なき重労働と鞭の強制による関係に代わってしまいます。
それでも1820年以降の第二次大覚醒運動の中で、奴隷制廃止運動は飛躍的に進展します。市場革命がもたらした競争社会の道徳的荒廃や社会問題に対処しようとするこのキリスト教福音主義運動は、飲酒や売春、ギャンブル、血統の禁止、女性の地位向上と並んで奴隷制廃止を取り上げました。彼らはモーゼの教えである「神は自分以外のものを絶対者として崇めてはならないと申された」を根拠に、奴隷主が奴隷に対して自分を「絶対者」として崇めさせること、すなわち「人間が人間を所有すること」は、神の教えに反する行為であると主張したのです。こうして奴隷廃止運動の担い手たちは私有財産としての奴隷所有権の論理から解放されることになりました。
それとともに従来のクエーカー教徒や人道的漸進的奴隷解放論に代わって非妥協的な奴隷の即時、無条件、全面開放を唱える奴隷制廃止主義(アポリショニズム)が唱えられるようになります。このような奴隷制廃止運動はジャクソニアン・デモクラシーとして知られるさまざまな社会改革運動、西部の農民運動、東部の労働運動、空想的社会主義運動、女性解放運動とも相互に絡み合いながら一つのはっきりと組織された運動として発展していきます。
1830年アメリカ、自由黒人による「集会運動」の一環フィラデルフィアで開かれた集会で、黒人初の政治結社「アメリカ自由黒人協会」結成されます。集会運動を通して、彼らはアフリカ送還に反対したばかりではなく、奴隷制度そのものに反対し、時には逃亡奴隷を助け、黒人の市民的権利を要求して活動を行います。その中でもフレデリック・ダグラスが傑出した指導者として挙げられます。しかし彼の名もしばらくの間は忘れられていました。黒人を白人の平等に取り扱うことを拒む白人社会が彼の存在を隠諾していたのです。
この過程において、ラテン・アメリカ諸国を席巻した独立運動とこれらの国々における奴隷制度の廃止、1825年のフランスのハイチ黒人共和国の正式承認(アメリカ合衆国が承認したのは、南北戦争によってこの国が奴隷解放を宣言した直後の1864年のことであった)、1833年のイギリス領西インド諸島における奴隷制廃止(ただし漸進的でありかつ有償の方法がとられたが)、さらにヨーロッパ諸国、例えばフランス、スペイン、ベルギー、ポーランド、トルコ、ギリシャ、イタリアなどにおけるブルジョア民主主義革命の進展などの国際情勢がアメリカの奴隷制廃止運動に大きな影響を与えたことは見逃すことができません。
そして1831年には奴隷解放誌「解放者」がウィリアム・ロイド・ガリソンによってボストンで発刊されます。ガリソンは、「解放者」の発刊と共にウエンデル・フィリップスなど多くの同志を糾合して、組織活動に力を入れていきます。1832年には彼の指導の下ニューイングランド奴隷制反対協会が結成され、翌1833年12月ついにフィラデルフィアで奴隷制反対の全国組織「アメリカ奴隷制反対協会」が結成されるに至ります。この集会には67人の代議員が出席し、アーサー・タッパンが議長に選ばれます。
この組織と1775年4月ベンジャミン・フランクリンの指導の下で設立されたアメリカ最初の奴隷制反対協会との関係がよく分かりませんが(どの本にも書いていない)、フランクリンの設立した奴隷制反対協会は、クエーカー教徒が中心で漸進的な開放方針だったのに対して、即時解放を求める急進的な活動をを求めたのがガリソンだったように思われます。そしてガリソンの起こした活動により、33年にはアメリカ奴隷制反対協会が設立されます。協会は1840年までに地方支部2000、会員総数20万人を数えるまでに発展します。彼らは様々なパンフレットや定期刊行物を発行したり講演会を行い、議会にも請願活動を活発化させていきます。(左は協会の出版物)
こうした活動は、当然奴隷制寡頭権力側からは激しい抵抗や弾圧が行われ、テロも横行します。1837年11月にはイリノイ州オルトンで、奴隷制廃止主義者のイライジャ・ラヴジョイが南部の暴漢に襲われ殺されるという事件が起こります。ラヴジョイの殺害者たちは捕らえられて罰せられるどころか、官憲の手によって釈放されるのです。
特に南部ではことのほか狂暴で、多くの町や村では「自警団」が組織され、奴隷制反対者に誰彼構わずリンチを加えるという行為に出ます。1836年さらに奴隷制反対のパンフレットなどが入ってこないように、郵便物の検閲制度や憲法に保障された言論の自由を侵害してまで「箝口令」制定します。実際南部ではこのような権限が郵便局長に与えられ、「好ましからぬ郵便物」は1844年まで配達されないという法律が施行されていたのです。
雄弁な語り部からこの「アメリカ奴隷制反対協会」の運動に加わり指導者になった元奴隷のフレデリック・ダグラスは、1845年に最初の自伝『数奇なる奴隷の半生』を出版します。フレデリック・ダグラスは傑出した指導者として現在は高く評価されていますが、しかし彼の名もしばらくの間は忘れられていました。黒人を白人の平等に取り扱うことを拒む白人社会が彼の存在を隠諾していたのです。
また奴隷制の害悪と女性への抑圧について講演して回っていたソジャナー・トルースは1850年「ソジャナー・トルースの語り」を出版します。また白人の主人から性関係を迫られ、長いこと奴隷小屋の屋根裏に隠れていてついに北部へ逃亡したハリエット・ジェイコブスの経験は、1861年『ある奴隷少女の物語』(ハリエット・ジェイコブス自伝)として出版されました。 しかし奴隷制廃止運動の中には深刻な対立もありました。それは女性がこの運動で男性と平等に政策決定に参加することに反対するものと、認めるべきだとする者との対立です。当時のアメリカ社会では、女性が集会で演説したり、運動団体の役員についたりすることを受け入れない男性が多数存在していたのです。1840年アメリカ奴隷制反対協会の役員に女性のアビー・ケリーが選出されたとき、会長だったアーサー・タッパンはこれに抗議し協会を脱退、別組織を立ち上げるに至ります。

黒人奴隷たちの日常的な抵抗

奴隷たちは日常生活においても様々な形で抵抗を行いました。主人側が最も見分けにくい抵抗は、「ふり」をすることでした。わざと愚鈍さを装ったり、主人を喜ばせる幸せな表情を装ったりして主人を欺きました。
奴隷主がノルマを引き上げたり、他の農場と比べ厳しい条件を持ち出したりすとる、奴隷たちはサボタージュや役畜の虐待、農具の破壊、倉庫・納屋への放火、毒薬の利用などの抵抗に出ました。主人の食糧は日常的に盗まれましたし、望まない妊娠と出産を強いられた場合に女性は、避妊薬草の使用、意図的な流産などで抵抗したといいます。
組織的逃亡は重要な抵抗形態でした。もちろん懲罰を覚悟しなければなりませんでしたが、例えば奴隷主による家族の売却を思いとどまらせるためとか、引き裂かれた家族に会いに行くためとか待遇の引き下げに抗議するなどの意図をもって一時的に姿を隠したりしました。この「逃亡」は、特に農繁期には効果的で、奴隷主が譲歩することもあったといいます。

暴動

以上のように奴隷制度のくびきに抑えられていた南部の黒人たちは日常的に抵抗をつづけました。抵抗の仕方もいろいろありますが、やはり大きなもの言えば暴動・反乱と言えるでしょう。

ナット・ターナー

北アメリアでの奴隷反乱は、カリブ海域に比べれば比較的少なかったといわれています。しかし数少ない奴隷反乱の実例からは、それらが国際関係や先住民との関係が不安定な時期に起こっていること、独立戦争やフランス革命の理念と結び付けて行動を起こしていることなどから、経験と知識が豊かな指導者がいたことが分かるといいます。
独立戦争より40年近く前の1739年サウスカロライナで起こったストノ暴動を指導したのは、コンゴの内戦で拉致されたジェミー・カトーで、20人の武装した部下とともにスペイン領フロリダの国境を目指し、農場を焼き払い、奴隷を解放しながら白人と1週間にわたって戦いました。ジェミーは、フロリダで、スペインが逃亡奴隷たちに土地を与えて入植させていることを知っていたのです。彼はまた、この時チャールストンでマラリアが発生し社会不安が広がっていたこと、そして日曜日の教会礼拝に奴隷主たちが集まることを知っており、その日を決起の日に選んだのです。
独立戦争後では、ハーバート・アプシカーという人物が1791〜1810年の間に南部で40以上に上る暴動、及び暴動計画、放火に関与したという記録が残っていますし、1800年8月にはヴァージニア州リッチモンドで起こった放棄には、1000人とも10000人ともいわれる武装反乱奴隷が参加していました。
さらに1811年のジャーマン・コーストの反乱は、ハイチやキューバ、アフリカの出身者が多い砂糖プランテーション地域の奴隷15人が首謀したものでした。彼らは、プランターの息子を殺害、奴隷を次々解放して、ニューオリンズに向けて行進し、反乱奴隷の数は、200〜500人に膨れ上がりました。これに対して白人側は武装部隊を動員して彼らの野営地を襲撃し、その多くを殺害しました。ハイチ生まれの奴隷監督デスロンデスが首謀者とみなされ殺害されました。
1829年には、きわめて刺激的な『ウォーカーの訴え』と呼ばれる一冊のパンフレットが現れます。ボストンの自由黒人、ディヴィッド・ウォーカーが書いたもので、奴隷暴動を神の意思として弁護士、奴隷の反抗心を掻き立てるとともに、奴隷所有者に大きな衝撃を与えた扇動の書でした。
あたかもこれにこたえるように、1831年ナット・ターナーの反乱が勃発します。この反乱は、世界各地に知られた奴隷反乱でした。ナット・ターナーは読み書きができ、聖書を読み、奴隷たちに「預言者」と呼ばれていました。彼は、全能の神が自分に使命を与えたと確信し、蜂起を計画、約70人の黒人部隊で、白人約60人を殺害しました。武装蜂起は二日以内に鎮圧され、45人の奴隷が裁判にかけられ、18人が絞首刑に処せられました。この反乱は全南部奴隷社会を震撼させ、奴隷に対する読み書き教育の禁止の徹底など、奴隷制再強化のための対策が次々と打たれることになります。ちょうどこの時期には、英領カリブ海域植民地で大規模な黒人奴隷反乱が頻発し、1833年イギリス議会は奴隷制の廃止を決定するのです。

ジョン・ブラウン

またこのナット・ターナーの反乱は、全南部の黒人奴隷に激しい解放意欲を掻き立てたばかりか白人奴隷廃止主義者ジョン・ブラウンの心にも大きな刺激と衝撃を与えたのです。ジョン・ブラウンの蜂起は、蜂起したのが白人だったということで歴史に残る事件となりました。
ジョン・ブラウンは、1800年コネチカット州トリントンで、敬虔な清教徒の両親のもとで生まれました。両親同様熱心な清教徒だった彼は、初めのうちは奴隷制度の残忍さを憎みながらも、力による廃止には大きな抵抗を感じていたといいます。しかしナット・ターナーの暴動は、彼の心に大きな変化をもたらします。「地下鉄道」(以下詳述)にも関係していたブラウンは、続いてカンザスの内戦によってはっきりと暴力闘争の必要を身をもって感じ取ったといわれます。
カンザスの戦いで奴隷制反対闘争の強力な指導者の一人となったブラウンは、1857年ついに奴隷を暴動に決起させるための準備に取り掛かります。彼は一般的な兵学のほかに、山岳地帯でのパルチザン闘争、特にハイチでの奴隷解放戦争を丹念に研究しました。「ジョン・ブラウンの蜂起」として知られる1859年10月のハーパーズ・フェリーの襲撃はこうして起こるのです。ハーパーズフェリーは、ヴァージニア州北西部の州境に近い小さな町で、連邦兵器庫がおかれていました。
ブラウンは自分の息子3人を含む、白人黒人合わせて22人からなる少人数で襲いこの地を2日間にわたって占領したのです。彼は自分たちのこの壮挙が奴隷暴動の引き金になり、全南部の奴隷が一斉に放棄するのを期待していたのです。しかしブラウンと彼の仲間達は、兵器庫奪還のために動員された圧倒的多数の軍隊によって抑え込まれ、彼の2人の息子は戦死し、彼自身も重傷を負って捕らえられました。彼の蜂起は結局は失敗するのですが、「私、ジョン・ブラウンは、これまで多くの血を流すことなくそれができるだろうと考えて自分を慰めてきたが、それは誤りだった。罪深いこの国の罪業(奴隷制度)は流血によってのみ洗い清められるのだと、今こそはっきりと確信している」と述べ、毅然として絞首台に立ったのです。この彼の英雄的行為は、たちまちアメリカ中を震撼させただけではなく、遠く海外にまで反響を呼び起こしました。
北部では各地で追悼集会が開催され、ソローやエマーソン、ホイッティア(詩人)などの著名な知識人も心からブラウンの死を悼みました。そしてフランスの作家ヴィクトル・ユーゴーは「奴隷制度はいかなるものも消滅する。南部が殺害したのは、ジョン・ブラウンではなく奴隷制度であった」と予言しました。

逃亡

逃亡した奴隷に襲い掛かる追跡犬

奴隷の逃亡に関して1793年には、逃亡奴隷取締法が成立していました。逃亡を企てた奴隷は、獰猛な犬どもと銃口の追跡を受け、逃亡に失敗し捕らえられた奴隷は、二度と同じ罪を犯すことのないよう、また他の奴隷への見せしめのため、数十回も激しく鞭打たれた上に焼き印を押されたり、耳をそがれたりすることもありました。何とか逃亡に成功した奴隷の首には賞金がかけられ、生かすも殺すもこれを捉えたものの裁量に任されました。このようなことが法律で定めらていたのです。
しかし抑圧が厳しくなればなるほど、彼らの反抗も偶発的なものから意識的なものに変わっていきます。そして逃亡によって自由を得たい、いやそうするしか自由を得られる方法はないということになっていきます。そしてそんな彼らに同調したクエーカー教徒、博愛主義者たちの有志によって非合法組織「地下鉄道(Underground railroad)」が作られます。 この奴隷を救出する運動は1810年代末オハイオ州で始まったといわれています。この「地下鉄道」には、「駅(隠れ家)」、「車掌(道案内)」、「輸送手段(馬車など)が準備され、それを維持するために協力者と資金が集められました。
彼らは多くの身の危険を冒して南部に出かけていきました。そして抑圧され逃亡を希望する奴隷を助け、北へ、あるいはもっと安全な「約束の地(カナン)」カナダへと逃がす手伝いを行います。
逃亡には様々な知恵が働かされました。出発には土曜の夜が選ばれました。月曜日までは逃亡奴隷の手配広告を載せる新聞が発行されないからです。色の白い黒人が黒い黒人を召使として連れているふりをしたり、深夜森の中を歩く際には、樹木の苔の付き方で方向を確認したり、逃亡者を箱に入れ貨物として汽車に乗せたりしました。また文字が読めないのに新聞を読むふりをして危機を脱した者もいましたし、屋外に干すキルトの図柄で逃亡者に情報を伝えたという説もあります。もちろん彼らの歌も秘密のメッセージを伝えるのに役立ちました。 「地下鉄道」組織の中でも奴隷たちから「黒人のモーゼ」と慕われたハリエット・タブマンが有名でした。彼女自身も奴隷の子として生まれました。生まれた年は正確には分からないそうですが、フレデリック・ダグラスが生まれた時期とほぼ同じの1820年ころと推定されています。生まれたところもダグラスの生地であるタルボット郡と川一つ挟んだドーチェスター郡でした。この黒人奴隷2人が後年お互いを励まし合い、ガリソンの道徳的説得主義を克服して、奴隷廃止運動の歴史に最も偉大な足跡を残すことになります。
タブマンは1849年のある日、ダグラス同様逃亡に成功し、自由州であるペンシルヴァニア州の土を踏むことできます。そして彼女は家族を救出するためにこの活動を始めることになるのです。まず1850年12月彼女の二人の子供と妹を逃亡させることに成功します。その後1850年代を通じて獅子奮迅の活躍をするのです。
しかし1850年には逃亡奴隷取締法がさらに厳しいものに強化されました。それにもかかわらずタブマンは1850年から南北戦争までの10年間に20回近く南部に潜行し、およそ300人の奴隷を逃亡させたといわれます。奴隷所有者は彼女の首に4万ドルの賞金を懸け逮捕に躍起になりましたと言われます。そして組織全体では1830年〜南北戦争まで約6万人(岩波新書)、中公新書では7〜10万人の奴隷を逃亡させたといわれます。

フレデリック・ダグラス
フレデリック・ダグラス 「ジェファーソンやリンカーンと並び置かれるべき人物」と言われるフレデリック・ダグラスについて少し詳しく見ていきましょう。
彼、フルネームはフレデリック・オウガスタス・ワシントン・ベイリーといったは1818年2月のある日、メリーランド州東海岸タルボット郡のタッカーホーで生まれました。母親ハリエット・ベイリーは黒人奴隷、父親はエアロン・アンソニーという名で母親の所有者でした。そしてフレデリックには一人の兄と四人の姉妹がいました。そして20歳になった1838年9月に北部に逃亡するまで、奴隷として何人かの主人の下で働き続けた。
彼が他の奴隷と異なっていた点は、ボルチモアのヒュー・オウルドのところで働いていた8歳の少年時代に、女主人のソフィア・オウルドから読み書きを教えてもらったことでした。彼はこの時に「奴隷こそが学ばねばならない」と決意したと言います。そしてこの頃には早くも、「ある人々は主人であるのに、他の人々は奴隷でなければならないのか?奴隷とはいったい何なのか?」という疑問に駆られ、世間がアボリショニストと呼んでいた人々に大きな期待と関心を寄せていたというのです。
彼が自分の名前を「フレデリック・ダグラス」と名乗るようになってのは、北部への逃亡に成功し、少し遅れて彼の後を追ってきた自由黒人のアンナ・マレーとニューヨークで結婚した数日後、一緒に無事ニューベッドフォードにたどり着いた時のことです。二人はこの地でネイサン・ジョンソンという自由黒人の温かいもてなしを受けましたが、ダグラスという名前はこの人物の勧めによるものだったそうです。
ニューベッドフォードに来て間もなく、ダグラスは初めてガリソンの発行した「解放者」を手に入れ、すぐにその熱心な定期購読者になりました。彼はこの時のことを次のように書いています。
「私の魂は、火のように燃え上がった。この新聞は、私の血となり、肉となった。奴隷制度の鉄鎖の下で呻吟する私の同胞に対する心からの思いやり―奴隷を所有するものに対する仮借ない非難―奴隷制度の様々な悪の忠実な暴露―この制度を擁護するものに対する強烈な攻撃―すべてこれらが私の魂を喚起でおののかせた」と。
黒人を中心とするこの地の集会に、ダグラスの姿が見られるようになったのもこのころからでした。1839年3月29日の「解放者」に、はじめて彼の名前が掲載されます。それは黒人をアフリカに送還することに反対するこの地の集会で、彼が行った演説についての記事でした。ガリソンは、この演説を「我々の支持と信頼に値する」と称賛します。こうしてダグラスは奴隷制廃止主義者としての道に踏み込んでいきます。1841年8月にナンタケットで行われた彼自身の過去の奴隷生活に基づいた奴隷制反対演説は、すでに彼が奴隷制廃止運動の中で重要な人物になりつつあったことを示しています。
彼は、先にも触れましたが、1845年5月最初の自伝『数奇なる奴隷の半生』を出版しました(彼は自伝を3回出版している)。その後1847年までイギリスに滞在し、そこで「自由」を購入してこの逃亡奴隷は正式に自由黒人としてアメリカに帰るのですが、これは具体的にはどういうことなのかは、記載がありません。
そしてダグラスは、白人に向かって黒人のことを知らせる従来のやり方ではなく、黒人の言葉で黒人自身に向かって語りかけることの必要を痛感するようになります。そして1847年12月3日にニューヨーク州西部のロチェスターで、自分の週刊新聞「北極星(ノース・スター)」を発刊します。
黒人新聞は、1827年サミュエル・E・コーニッシュとジョン・B・ラスワームがこの国で最初の「フリーダム・ジャーナル」を発刊して以来、黒人の手による新聞はいくつもありましたが、とりわけ彼のこの新聞は、文字通り北極星の輝きをもって、長期にわたって奴隷解放の導きの星となりました。
この「北極星」の発刊は、奴隷制廃止運動を政治行動と結びつけようとした彼の見解とともに、中産階級の急進主義を信奉するガリソンやウェンデル・フィリップスら一部の非政治主義的でセクト主義的な白人奴隷制廃止主義者の反対を受け、以後ダグラスとガリソンは袂を分かつことになります。ダグラスは奴隷制廃止運動を黒人だけの狭い運動に絞るつもりはなく、実際にそうはしませんでした。
南北戦争が勃発すると、ダグラスはこの戦争が南部州の離脱という問題ではないことをいち早く看破します。南部州を打倒するには、黒人の協力が不可欠であることを訴えます。そしてダグラスの目的は、奴隷制を敷く南部を打倒し、全米に渡って奴隷制のない全国民が平等な社会を作ることが目的だったのです。ダグラスの社会的活動は、南北戦争後も続き、公演に文筆にと多忙な日々を送っていましたが、首都ワシントンの式部官や、ハイチ共和国の領事を務めるなど、直接に国の政治にも関与しました。
そして1895年2月10日婦人平等獲得集会で講演を済ませて自宅に帰って間もなく、突然死蔵発作に襲われ、その生涯を閉じたのです。
しかし先にも触れたように、彼の名はしばらくは忘れ去られていたのです。彼の名前と業績が忘却の中から救出されたのは、第二次世界大戦後の黒人解放運動の高まりの中で、黒人の歴史家が民主的な白人歴史家と協力して、長年埋没され歪められてきた自分たちの過去の歴史を発掘し、正しく再発見しようと努力し始めてからのことです。
ダグラスの取り扱いにみられる問題は、当時のアメリカ社会は、黒人を白人と平等の地位に置くことをかたくなに拒絶し、不滅の偉業を成し遂げたダグラスさえ、忘却の中に押し込めておくことを必要としていたということです。これこそがアメリカ民主主義の根幹に潜む問題の核心と思われるのです。

自由黒人という問題

南部奴隷州人口比率

奴隷制時代であっても、すべての黒人が奴隷だったわけではありません。色々な方法、例えば独立戦争の時に軍役に服することによって自由となった者、勤勉と貯えによって主人から「自由」を購入した者、また何らかの理由である時から解放された者、さらには逃亡によって非合法的に「自由」を獲得した者などは、自由な白人、奴隷とは区別されて「自由黒人」と呼ばれていました。
この自由黒人というのは、黒人奴隷制度が生み出した矛盾的存在で、黒人奴隷にとってはそれは奴隷制度のもとにおいては、彼らに許された最大限の「自由」を意味したため、多くの黒人奴隷がこの「自由」を手に入れようとしました。
自由黒人の増加率が最も高かったのは、独立戦争直後の時期で、この時には、戦争に参加した黒人奴隷に自由が与えられたほかに、すでにみたように植民地時代の主要商品の行き詰まりと、戦争中から戦後にかけての奴隷制廃止の風潮とが絡み合って、奴隷所有者による自発的な奴隷解放が行われたことが大きな原因でした。1790年5万9557人だった自由黒人は、1800年には10万8435人と82.3%増加し、続く10年間でも72%と高かったのですが、1810〜1820年までの10年間では25.2%と低下し、続く1820〜1830年は36.8%と持ち直したが、1830〜40年は20.9%、1840〜50年では12.5%、1850〜60年は12.3%と南北戦争に至るまで、低下傾向が続きました。これは綿花王国の成立による黒人奴隷制度の確立が大きく影響していることは言うまでもありません。
それでも自由黒人の絶対数は徐々に増加し、1810年で18万6446人、1820年23万3634人、1830年31万9599人、1840年38万6293人、1850年43万4495人、そして60年には48万8070人まで増加しました。
深南部では自由黒人は少なく、大半が奴隷主が奴隷に産ませた子供で、多くは都市に居住していました。上南部では、農村で奴隷と隣接しながら暮らす自由黒人が多く、再奴隷化の危険に直面しつつ生活をしていました。北部では、ボストンの「ニガー・ヒル」、シンシナティの「リトル・アフリカ」、ニューヨークの「ファイヴ・ポインツ」などそれなりの規模の自由黒人居住区ができていました。環境は良くありませんでしたが、彼らはここで自分たちの教会や学校を設立していました。
彼ら自由黒人達は、ガリソンらの進める奴隷制廃止運動には、当然のことながら積極的に参加しました。「解放者」が発刊された最初の年の購読者450人のうち400人が自由黒人だったとガリソンは述べています。1834年には購読者2300人のうち1700人が自由黒人でした。
ところが、ここで問題が起こります。1830年代以降、アイルランドからの移民が急増し、彼らは北部都市の労働市場の最底辺に流入したため、自由黒人との接触が多く、間もなく両者は、競争と対立の関係を激化させていくことになります。こうして移民労働者が黒人を排撃することによって「白人」になっていくアメリカの労働者の歴史が始まります。このことは別項「ミンストレル・ショウ」で詳しく見ていこうと思います。
さて彼ら北部の黒人たちは、黒人を顧客とする職種か、白人が好まない危険で厳しい職域に押し込められます。1850年代、アメリカの商船と捕鯨船の乗組員の少なくとも1/4以上は黒人でした。彼らが南部の港に上陸し、奴隷たちとかかわりを持つことは、奴隷主にとっては厄介なことでした。彼らはしばしば奴隷の逃亡の手助けもしていたのです。綿花という新しい商品作物を得て、黒人奴隷制度の強化に懸命になっている奴隷所有者=プランターにとっては大きな脅威でもありました。
北部都市の黒人教会は、黒人コミュニティーの中核組織でした。ビジネスマンや医師、法律家、作家など黒人エリート層も形成され出し、ヨーロッパやアフリカを含む大西洋岸の港湾都市に上陸した黒人船員からの情報がこのエリート集団によって消化され、黒人社会の英知が終結していくことになりました。
北部でも多くのホテル、坂場、リゾートなどは黒人を受け入れず、劇場や教会に入城できた場合でも、席は隔離されていました。乗合馬車は白人が載っていないときしか乗車できず、鉄度が普及した1830年代には人種別車両が設けられました。北部では様々な法律によって州内への黒人の流入を規制する州が多く、また参政権や陪審権を黒人に与えた州は例外的でした。
独立戦争後の指導者の中には、奴隷制度はやがて自然にこの国から消滅していくだろうと真面目に考えていた人もいました。そればかりではありません。ヴァージニア州のプランター政治家でさえ、「奴隷制度はこの世の堕落である」と発言していたくらいです。しかしこの様相が一変します。それはこれまでの主要作物は煙草という嗜好品でしたが、工業原料である綿花が主たる生産作物となったのです。これを機に「綿花王国(Cotton kingdam)」を中心に、プランテーション奴隷制度が以前とは比較にならないほどの規模で再生、発展したのです。
この「プランテーション」という言葉は、南部の経済システムの中でよく使われますが、ここで「プランテーション」とはどういうものかを検証しておきましょう。本田創造氏は次のようにまとめています。
最初は漠然と植民地=開拓地といった意味に用いられていました。あのメイフラワー号が漂着して創設された植民地は「プリマス・プランテーション」と呼ばれていたのです。しかしヴァージニアをはじめとする南部植民地の発展過程で、農業生産における一つの型として発展し、そうなることによって南部の基本的な社会、経済制度として固定してしまいます。そしてその特徴は、奴隷労働という不自由労働を基礎にし、「利潤」獲得を目的に海外市場向けの主要商品作物を生産する、「資本」によって経営される大規模な商業的農業企業という点にあります。
どうして南部のプランテーションが復活し、奴隷制が強化が可能になったのでしょうか?それは独立戦争において、南部の大土地所有制度が手つかずで残ったことと結局奴隷制廃止にまでは至らなかったことが原因です。要は「煙草」という商品が衰退したことで、南部のプランターの力は弱まったのですが、「綿花」という新しい商品が登場すれば、大土地所有者が奴隷を使って、南部式プランテーションを営むのは当然のことと言えます。
すなわち19世紀の始まりとともにイギリスでは、産業革命が飛躍的に進展し、アメリカの綿花に対する需要は、急速に増大していました。また独立戦争によりイギリスからの綿布の輸入が途絶したことを契機にニューイングランド地方の発展と上にあった木綿工業もやはり綿花を必要とし始めていました。そこに陸地綿のような品種改良や1793年の綿繰機の発明など技術開発も行われ、綿花さえ栽培できれば需要を賄うことができる状態になっていました。
そこに起こったのがアメリカの膨張、西進政策です。かつてのサウスカロライナ州やジョージア州の狭小地域からピードモンド高地を越えてテネシー、アラバマ、ミシシッピ、さらにアーカンソー、ルイジアナ、テキサスの広大な領域に一大綿花王国が誕生することになります。
その結果1790年3000ペールだった綿花生産量が1800年に7万3000ペール、1810年17万8000ペール、1820年33万4000ペール、1830年73万1000ペール、1840年134万6000ペール、1850年213万4000ペール、1860年383万7000ペールへと著しく増大しました。それとともにアメリカの綿花輸出(ほとんどがイギリス向け)も急速に増加し、1840、50年には総輸出額の二分の一、60年には58%を占めるに至りました。これにより1858年サウスカロライナ州のジェイムズ・ハモンドは有名な”Cotton is king”(綿花は王様である)を行うに至るのです。
しかし南部州が均等に綿花栽培が発展したわけではありません。アラバマ、テネシー以西の州が1820年全体の1/3、30年1/2、40年2/3、60年3/4の生産量を上げるに至りました。1850年における綿花生産上位5州は、アラバマ、ジョージア、ミシシッピ、サウスカロライナ、テネシーの順でしたが、1860年にはミシシッピ、アラバマ、ルイジアナ、ジョージア、テキサスの順になります。これらの州が綿花王国の心臓部です。そこには肥沃な国土に覆われた黒土地帯が、黒人が住民の過半数を占める黒人地帯となりました。これがブラック・ベルトです。
綿花生産量の増大とともに黒人奴隷数も増大します。1800年には89万4000人だった黒人奴隷は、1810年119万1000人、20年153万8000人、30年200万9000人、40年248万7000人、50年320万4000人、60年395万4000人に達します。1860年のアメリカの南部州の人口比率は表のとおりです。
確かに綿花は王者でしたが、すべての黒人が綿花生産に専念していたわけではありません。1850年南部のプランテーション数は10万1335、綿花7万4031、煙草1万5745、砂糖2681、麻8327、米551でした。

リベリアの建設

リベリア

1816年白人の有力者たちによっての「アメリカ植民協会」が組織されます。この「アメリカ植民協会」で長老派の牧師ロバート・フィンリーが提唱したものです。この趣旨は、黒人は自由人であっても白人社会の中で一緒に生活することはできないという、白人=優越、黒人蔑視の思想が元になっています。だから黒人を隔離、追放しようというとんでもないものでした。しかし一時期この「植民」が「解放」と混同されて、その思想が奴隷制反対論者にまで浸透したのです。1819年にはアフリカシェラ・リオンとフランス領象牙海岸の一地域が指定され、入植が開始されます。首都はジェイムズ・モンローの名に因みモンロヴィアと名付けられた。これがのちにリベリアとなっていきます。
実際に入植したアメリカ自由黒人の数は少なかったとありますが、アフリカの歴史によると「2万人もの」自由黒人が移住したとあります。2万人が多いか少ないかは考え方次第ですが…。 この「隔離」という考え方は後に、第一次大戦後の「アフリカへ帰れ運動」や1960年代半ばの「黒い回教徒運動(ブラック・モスリム」へとつながります。
アメリカ植民協会の自由黒人送還運動にはっきりと反対したのは、自由黒人の中の進歩的なグループでした。やがて白人の奴隷制度廃止主義者の多くがこの反対運動に加わっていきます。 さて、アメリカから見れば以上のような状況でしたが、現地アフリカから見れば状況は全く違います。
すでに触れたようにアメリカ植民協会が解放奴隷(自由黒人)とそれだけではなく奴隷船から救出した奪還奴隷を、1821年からモンロビアに入植させ始めます。それ以来アメリカから移住してきた自由黒人の数は2万人に及びました。彼らによって1847年「リベリア」国が建国されます。
敬虔なキリスト教徒であり英語を自由に操り、アメリカ式生活スタイルと価値観を身につけた彼らは、リベリアの新たな支配層を形成していきます。この新たな支配層は、混血入植者を支持基盤とする共和党と黒人入植者が支持する真正ホイッグ党に分かれて、激しく利権を争います。
彼らの移住は、元からそこに住んでいたアフリカ人にとっては、形を変えた植民地支配でした。大西洋岸のバイ人、グレボ人、クル人、内陸部のクペレ人、キッシ人、マンディンゴ人といった土着の人々は、アメリカからの解放奴隷から「部族民」、「アボリジニ」と呼ばれて蔑視されていくのです。土着の社会は、年齢階梯制に基づく長老支配やポロ(男子用)、サンデ(女子用)といった秘密結社を核としながら独自の展開を遂げていきますが、これに対してアメリカ系アフリカ人のリベリア政府は、まず平定のための軍隊を送り、続いて弁務官を派遣して支配下に置こうとしました。
米などの食糧強制供出(これは1960年まで続いた)、人頭税の徴収、私有農園での強制労働といった圧政に抗して、数多くの反乱がおこります。特に1910年代は、クル人、グレボ人の大規模な武装蜂起が頻発し、リベリア政府はアメリカ艦隊の援助を受けてようやくこれを鎮圧するのです。
こうしたリベリアに対してアフリカ進出をしていたヨーロッパ列強は次々と武力干渉を行います。1882年イギリスによってバイ人首長制の大半が、シエラレオネ植民地に併合され、フランスもリベリア南東部の広範な領土を奪い取っていきます。こうした国際環境の中でリベリア政府が頼みにしたのは、やはりアメリカでした。アメリカのファイアストン社に99年間の期限付きで199万エーカーのゴム農園用の森林を貸し与え、多くの「アボリジニ」を労働者として送り込みます。これ以降ファイアストン社とアメリカ政府はリベリアの経済運営に直接関与することになっていきます。さらに1942年アメリカとの間に防衛条約を締結し、アメリカに軍事基地を提供しました。
こうしたアメリカ系アフリカ人による国家運営に対して、土着のアフリカ人の不満は限界に達し、1977年4月政府の一方的な米価値上げに抗議して、都市の行商人や学生が放棄すると、警察が発砲して多数の死傷者を出すのです。この事件をきっかけにリベリア社会は混乱の度合いを増し、1980年にはクラーン人のドエ曹長が率いる下士官を中心とした軍のクーデターが起きます。彼らはトルバドート大統領をはじめとする旧支配層を大量に処刑して、アメリカ系アフリカ人の影響力を根絶させました。その後国家元首となったドエ将軍も殺害され、いくつもの武装グループによる内戦が、今日に至るまで続いているのです。
これらのことはつくづく人間というものはどうしようもないものだなと思わされます。アメリカで差別を受けていた黒人が、アフリカにやって来ると現地人を差別していく…。「差別」これは人間の本能なのかもしれません。

黒人奴隷廃止運動と政治

これまで19世紀の前半を黒人奴隷の問題、逃亡や暴動を見てきましたが、それらはその後アメリカの政治にどのような影響を与えたのでしょうか?
奴隷制廃止運動を中心的に担ってきたのは、中産階級の急進主義者たちでした。しかしこの運動は黒人、農業、労働者、婦人、並びに進歩的知識人の統一的な民主主義運動の中核でもありました。運動内部における立場の相違や見解の多様性はありましたが、この運動は広範な奴隷制反対勢力を結集していったところにそのおきな歴史的意義があります。現実政治の局面では、既成政党の地ならしをするとともに、この中から奴隷制反対政党を誕生させることに繋がっていきます。
1840年アメリカ奴隷制反対協会が分裂すると、奴隷制廃止運動を政治運動と結びつけようとした人々は、ガリソンの非政治主義、非妥協主義、道徳的説得主義と訣別してジェイムズ・バーニーを中心に自由党を結成し、1840年の大統領選挙にバーニーを立候補させます。因みにガリソンは、政治は妥協を伴うのであくまでも政治的な活動には反対だったといいます。 1843年バッファローで開催された黒人集会は、自由党を支持し、ダグラスはじめ多くの黒人奴隷制廃止主義者が同党に入党しました。そして1844年にもバーニーは大統領選に出馬します。その時の綱領では、「首都ワシントンの奴隷制廃止と準州への奴隷制度の拡張反対」、「いかなるところでも奴隷制度は自然権に反する」が表明されたのです。
さらにメキシコからのテキサスの奪取とメキシコとの戦争から1846年いわゆる「ウィルモット建議」が提出されます。これはメキシコから奪い取ったいかなる地域においても奴隷制を禁止するというものでした。これを巡って既成政党であるホイッグ党、民主党が分裂します。1848年奴隷制に反対するホイッグ党員、民主党員と自由党員が一緒になって自由土地党を結成します。この党のスローガンは、「自由な土地、自由な言論、自由な労働、自由な人間」でした。
こうした動きの中、1850年の逃亡奴隷取締法と1854年のカンザス=ネブラスカ法に反対する戦いの中から、より大きな奴隷制反対政党として共和党が誕生してくるのです。1854年ウィスコンシン州り本で新党結成への強力な第一歩が踏み出され、やがてミシガンのジャクソンで行われた大会で、共和党という政党名が採用されることになります。そして1856年の大統領選には、早くもジョン・フレモントを候補者に立て、敗れたとはいえ多くの票を獲得するに至ります。そしてついに次の1860年の大統領選では、リンカーンを立て勝利することになるのです。

ラテン・アメリカ

南アメリカ

さまざまな苦悩の経過をたどって、独立を達成したラテン・アメリカ諸国の独立当時の人口は、メキシコ600万、ブラジル380万、ニュー・グラナダ250万、ペルー150万、アルゼンチン100万、チリ80万、ヴェネズエラ75万という状態でした。
これらの国々が安定した発展を遂げるためには、なんと言っても古い植民地体制にとって代わる新しい強力な政治体制が必要です。しかし相次ぐ動乱、独裁者の出現、激しい国家間の闘争、加えて外からの先進国列強からの圧力などで、ラテン・アメリカは政治的、社会的な混乱状態が続いていくのです。そのためラテン・アメリカの19世紀は「不毛の世紀」と呼ばれることになります。
各国の状況はあまりにも目まぐるしく変わるので詳細はここでは割愛しますが、大まかな概略だけ見ていきましょう。ラテン・アメリカ諸国は北の合衆国のように連邦国家とはなりませんでしたが、それを構想した人はいました。先般登場したシモン・ボリバルなどもその一人です。
独立達成後各政府の指導者たちは、強力な政府を作ろうとしましたが、地方分離派の強硬な反対に直面します。これには政府の権力が小さければ小さいほど個人の自由は大きくなるという確信を持っていたためであると言われます。どうもラテン気質というのは、何が大事かというと個人の自由以上に重要なものはないという考え方をするようです。しかし国を挙げて外国からの侵入に立ち向かうには、国中の力を集中させなければならないと考える中央集権派の考えも最もです。ここに中央集権派と地方分離派の激しい抗争が行われることになります。その抗争が最も激しかったのは、メキシコ、大コロンビア、中央アメリカ連邦、アルゼンチンなどでした。
以下簡単に各地の状況

ハイチ

フランス軍撃退後黒人指導者ジャン・ジャック・デサリーヌが皇帝となり軍事政権を樹立。彼は愛国の情熱に燃えた国内統一論者で、黒人と黄色人、ムラートとの間の対立を調整すべく苦慮したが志半ばで、1806年反対派に暗殺されてしまいます。
代わって政権を握ったのは、反対派のムラート出身のアレクサンドル・ペシオン。彼は共和制を敷き終身大統領となりました。しかしペシオンの在任中もハイチは南北に分かれて内乱が続きました。1820年ジャン・ピエール・ポワイエ大統領が北部を併合し、隣のサント・ドミンゴ住民がスペインに反抗しているのを利用して一応統一を成し遂げました。

大コロンビア

南アメリカ北部であ、ニュー・グラナダ副王領の後に建設されました。建設者はシモン・ボリバルで、彼は1819年大統領となります。ここでも中央集権派と地方分離派の激しい抗争が繰り広げられ、1830年ボリバルが引退すると、頂点に達し、連邦は瓦解してヴェネズエラ、コロンビア、エクアドルに分裂します。

ペルー

ペルーではサン・マルティンが君主制を考えていましたが、住民はこれに反対しボリバルを独裁者に選びました。このあと1829年ボリバルの援助者サンタ・クルスが政権に就こうとしますが、住民はこれにも反対。ついにペルー人のペルー人のための政府を樹立します。

ボリビア

ボリバルは旧ペルー副王領を含んだ大ペルー構想を持ち、上記サンタ・クルスが志を継ぎ、1835年ペルーとボリビアの連合を実現しました。しかし南の強敵チリから攻撃を受け4年後に崩壊、その後はペルー、ボリビアとも無政府状態に悩むことになります。

中央アメリカ

中央アメリカ

グアテマラ、ホンジュラス、エル・サルバドル、ニカラグア、コスタ・リカの5国が1812年メキシコから独立。合衆国を見習い中央アメリカ連邦を作ろうとしますがここでも中央集権派と地方分離派の激しい抗争が行われ、内乱状態になります。

メキシコ

独立の志士イツルビデが1822年皇帝となり、中央アメリカの併合を目指すが失敗して退位、国外追放となります。こうして反対派のサンタ・アナの支配権が成立し、1824年憲法が制定されますが、ここでも中央集権派と地方分離派の激しい抗争が繰り返され、1829年軍人上がりのビセンテ・ゲレロが大統領になったが、政情不安は続いていきます。

ブラジル

皇帝に着いたペドロ1世は、独裁政治を強行していこうとしますが共和主義、自由主義者たちの反対にあい、さらについには軍にも見放されたことが1831年4月の暴動で明らかになり、退位し当時5歳だった皇太子に後を託し、ポルトガルへ帰ります。その後は中央集権派と地方分離派、自由主義者、保守主義者など入り乱れての反目時代が続きますが、1841年ペドロ2世の親政が行われるようになり、安定期に入ります。

アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア

もとはラ・プラータ副王領でした。1825年ラ・プラータ連合とブラジルとの間に、ウルグアイ川東岸地域の帰属問題を巡って戦争が起こります。
この対外戦争によって、一時的には連邦の結束は促進されました。しかしこの地の指導者ベルナルディノ・リバダビアがあまりにも中央集権的すぎるの再び政情不安となります。この混乱を収拾したのが、ホアン・マヌエル・デ・ロサスで、彼は1829年から強力な独裁制を敷き恐怖政治を行いっました。しかし彼も1852年ホセ・デ・ウルキサによって追放されます。 以後もブエノス・アイレスと他の地域との抗争は続きますが、アルゼンチン国土の統一はバルトロメ・ミートレの手で達成され、彼が初代の大統領とに就任します。

チリ

独立に際して志士オイギンスが独裁政権を樹立しました。彼は1823年の引退までイギリスから借款を行い近代化に努めます。オイギンスの引退後は保守派と自由主義者の間の抗争が表面化し、抗争が続きましたが、1833年ディエゴ・ポルタレスが支配権を握り、自由主義者を追放し、憲法を制定しました。この後チリは割と安定した歩みを続けることになります。

このような不安定かつ基盤が弱いラテン・アメリカ各国を狙い、イギリス、フランス、そして合衆国、さらにはメッテルニヒの指導する神聖同盟、さらにはロシアまでもが利権を求めて動きを活発化させていきます。こうしたヨーロッパ列強と国内の抗争によりラテン・アメリカの混迷は長く続いていくのです。

カナダ

カナダ

カナダは合衆国と最も長く国境を接ししている国ですが、これまであまり取り上げてきませんでした。ここで簡単にその歴史を見ておきましょう。
「カナダ」とは元はインディアン語で、1530年代にセント・ローレンス湾とその河口を探検したカルティエが名付けたものです。1604年今のノバ・スコシアにフランス最初の植民地が建設され、さらに4年後にはケベック植民地が建設され、1613年にはオタワ川をさかのぼりヒューロン湖に至るルートが発見され、内陸進出への機運が高まったことは先に述べました。フランスが勢力を五大湖からミシシッピ川まで拡大しているころ、イギリスも南部本土に続々植民地を開拓しニュー・ファンドランドを手に入れたほかハドソン湾沿岸にも進出してきていました。
いわゆるイギリス・フランス第二次百年戦争は、18世紀中ごろの7年戦争を皮切りに19世紀初めのナポレオン戦争まで続きますが、イギリスは、ヨーロッパでもインドでも北アメリカでも常に優位を保持しました。新大陸でもフレンチ・インディアン戦争でもケベックとモントリオールの攻略に成功したイギリスは、北アメリカでも絶対的優位を確保し、講和条約でカナダとミシシッピ川以東の地域をフランスから獲得します。この際イギリスは、カナダでのフランス人の宗教、言語、慣習に干渉しないことを約束しましたが、ともあれこれをもって1763年ニュー・フランスは姿を消すことになるのです。
イギリスはカナダ併合を果たしたものの宗教も言葉も慣習も違うフランス系カナダ人をどう統治するかが重要な問題となりました。なにせケベック、イリノイ、ミシシッピ流域には約7万人のフランス系住民がいましたが、イギリス系は数百人に過ぎなかったからです。こうして制定されたのが、ケベック条例です。
ケベック条例は、フランス植民時代に移植された領主制には手を触れず、カトリック信仰と10分の1税の徴収を許し、旧フランス系住民には旧本国の言語と民法の適用を認めたが、刑法だけはイギリスのものに限定しました。そしてなるべく住民の反発を買わないよう勅任総督制を採用し、有力なフランス系住民からなる評議会の後ろ盾で総督に統治させることとしました。
さらに五大湖とオハイオ川とミシシッピ川に囲まれた三角地帯をケベックに編入し、「インディアン保留地」として毛皮業者のために残しておきます。こうした措置が合衆国の13植民地側を刺激し、独立戦争の一要因ともなったと言われます。
1775年レキシントンやコンコードの戦いで13植民地の独立運動が本格化すると、合衆国の大陸会議はカナダ政府に対して独立派への参加を要請しますが、反応が鈍くかったこともあり、13植民地側は「カナダの解放」を唱えてカナダに侵入し、モントリオールを占領するという事態が起こります。しかしイギリス軍の反抗に会い撤退を余儀なくされます。これでカナダ開放を言っている場合ではなくなったばかりではなく、独立に反対していた合衆国の王党派6万人がカナダにのがれ、カナダ建設に尽力することになります。
ところが何があっても問題は起こるもので、カナダに移住した王党派は8万人にも上りますが、この人々がこれまでのフランス式領主制を嫌うのです。そしてついには廃止を要請するに至ります。ここにおいてイギリス議会は1791年立憲条例へと踏み切り、オタワ川を境にカナダを上カナダ(イギリス系が多い)と下カナダ(フランス系が多い)に分割します。しかしこのような折衷的な案はそうそう永続的にうまくいくはずもなく、かえってイギリス系とフランス系の反目を助長することになります。
1812年2度目の米英戦争が勃発すると、合衆国は再びカナダ占領を目指し上カナダに侵入します。しかしこれに対してイギリス系もフランス系も結束して戦いこれを撃退します。これはナショナリズムの萌芽がみられることとして注目すべきことです。
この戦争が転機になり、直接戦火が及ばなかったノバ・スコシアやニュー・ブランズウィックなどでは軍需景気が訪れ工業生産化促進されるようになるのです。しかし1837年不況がカナダを襲うとまたイギリス系とフランス系の対立が起こるようになります。
当時イギリス政治の実権を握っていたのは自由主義者のグレイ卿でしたが、彼はカナダの反乱に驚き、ダラム伯を派遣して事態の調査を行います。このリポートが重要です。ダラム伯は強調したのは、これまでのような強制的なやり方を改め、本国と植民地の信頼を高める自由な政策をとるべきであり、自治政府を認め統一カナダを実現するべきであると報告したのです。 そして1840年2つのカナダは統一され、そしてカナダもアメリカと同じように西部開拓時代へと入っていくのです。
1840年代当時飢饉に見舞われたアイルランド人を中心に移民の洪水が訪れます。西部地域でに人口は1841年45万5千だったのが1851年には95万2千人と倍に膨らむのです。この西進運動に伴って19世紀中ごろから鉄道の敷設も進んでいきます。そして鉄道の発展に伴って工業全般も盛んになっていきます。
カナダが西進し膨張するにつれて、合衆国との関係は緊密になってきます。こうして1854年互恵通商条約が結ばれことになります。自治領カナダは当初4つの州の連合体として発足しました。その4州は、ケベック、オンタリオ、ニュー・ブランズウィック、ノバ・スコシアです。そしてのちに1870年マニトバ、1871年ブリティッシュ・コロンビア、1873年プリンス・エドワード島、1905年アルバータとサスカチュワン、1949年ニュー・ファンドランドが参加し今日に至ります。
初代首相はジョン・マクドナルド(1815〜91)で、彼は全力を挙げて連邦の拡大と国土の開発に取り組みましたがもろもろの摩擦も生じてきます。1869年マニトバでレッド・リヴァー反乱がおこります。これはインディアンとアイルランド人の血が混じったフランス系カナダ人、ルイ・リエルが始動したもので、求めたのは英仏語の平等な使用、公有地の公正な処分というものでした。
そして1885年カナディアン・パシフィック鉄道完成します。1891年初代大統領マクドナルドが死去し、ウィルフリッド・ローリエが首相となります。彼はマクドナルドに近い拡大策を取るのです。1911年〜1926年までの間にイギリスやヨーロッパ、合衆国からの移民の数は200万人を突破するという移民大国となります。こうして西部開拓と移住はものすごいスピードで進んでいきます。鉄道も1898年カナディアン・ノーザン鉄道、1914年グランド・トランク・パシフィック鉄道が完成します。カナダの開発も進んでいきます。

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