そもそもアメリカと黒人 その6 アメリカ南北戦争

南北戦争

綿花を運び出すニュー・オリンズ港

1820年代になると、合衆国は南部、北部、西部というセクションがはっきりと形成されつつありました。そればかりか合衆国が内包していた自由社会と奴隷制社会という対立も生まれていたのです。そして南部の奴隷制社会は19世紀に入って新しい段階を迎えていました。それはイギリスで産業革命が飛躍的な発展を遂げ、綿花の需要が高まり、その結果南部では、植民地時代のタバコに代わって 「綿花」が主要作物となります(綿花を運び出すニュー・オリンズ港 働いているのは黒人)。
1793年イーライ・ホイットニーによる綿繰機の発明が綿花栽培に拍車をかけました。1820年代以降、綿花地帯(コットン・ベルト)は、南東部のサウス・カロライナやジョージアから、メキシコ湾沿岸の地味豊かなアラバマやミシシッピ、ルイジアナへと急速に広がっていきます。南部は綿花王国の道を歩むこととなります。
南部が綿花王国を築こうとしていた時、北部では工業が目覚ましい発展を遂げていました。1812年の戦争以後の保護政策で、合衆国はヨーロッパ工業への依存から次第に抜け出し、1830年代には産業革命を迎えるようになりました。ニュー・イングランドを中心として木綿工業の発達は言うまでもなく、内陸開発が進むにつれた鉄鋼業や機械工業も発達していきます。
北部自由社会の延長である西部も、西進運動の進展で目覚ましく発展してきました。アイオワからカンサス平原に広がる肥沃な土地は、小麦やトウモロコシの栽培に適していたため、多数の移民の住家となり、さらにマコーミック刈り取り機など農業機械の発明やヨーロッパでの穀物需要の増大など有利な条件に刺激され小麦王国を築いていたのです。
このように3セクションはそれぞれ異なった経済条件を持っていましたが、それだけ相対立する要因もはらんでいたのです。工業の北部は、より工業の発達を図るために保護関税や国立銀行の運営、内陸改善を要求していました。
奴隷制プランテーションの南部は、北部に対抗して奴隷貿易の再開やイギリスとの自由貿易を望んでいました。
そして自由農民の西部は、北部実業勢力への反感から保護関税、国立銀行の運営を不当とし、西部開発を進める内陸改善や自由な土地政策を要求していました。
こういった対立は1819年ミズーリの連邦加入を巡って南北の政治的緊張をもたらします。これはミズーリを奴隷州とし、北緯36度30分線を自由州と奴隷州の境界とするという妥協案であるミズーリ協定で一応の解決をみました。また1832年にはサウス・カロライナの関税無効論争が起こりますが、妥協の関税案により一応の解決をみます。だがこれは一応の解決であって本質的な解決ではありません。北部での奴隷制廃止運動が高まりを見せ、それに対する南部の憤りも激しくなり、緊張状態が高まっていきます。

綿花を摘む黒人奴隷

黒人奴隷制度は綿花生産の増大とともに、南部にはこの制度が固く根を下ろすことになりました。低廉な黒人労働力こそ、利潤追求に余念のないプランター奴隷主にとっては全く好都合なものだったからです。だが奴隷制度には様々な欠陥もありました。第1に鎖につながれ、奴隷監督の鞭のもとで働かされる奴隷労働は極めて生産性が低く、第2に奴隷制の普及は貧乏白人(poor white)の間に労働蔑視の感情を生み出しました。第3に奴隷労働とプランターの利潤追求欲とが南部を単一作物生産地帯とし、土地の著しい枯渇をもたらしたのです。このため南部のプランターは絶えず西部の処女地を求めて移動を余儀なくされたのです。第4に綿花生産にほとんど全力を尽くしただけに、南部の資本は大部分が土地と奴隷の購入に充てられ、経済活動のほかの分野、ことに工業面での資本不足が目立ってきていました。
このような問題があるにもかかわらず、南部の政治家や宗教関係者や御用学者たちは奴隷制を弁護ししていました。
<例>ウィリアム・アンド・メアリー大学教授トーマス・デューは、奴隷制が古代文化の不可欠な条件だったの述べ、「最高の能力と知識とを持つ人間が劣等な人間を支配し利用するのは、自然と神の命令だ」と述べたといいます。もちろんこの背景には、18世紀に確立された「黒人=劣等人種」思想があることは言うまでもありません。
この狂った制度とその擁護者連中に対しては、当然黒人奴隷から反抗運動が推進されます。彼らは逃亡、焼き討ち、暴動といったあの手この手で奴隷制のくびきから逃れようとしました。中でもプランターたちに最も強い衝撃を与えたのが、1831年ヴァージニアに起こったナット・ターナーの反乱でした。この反乱で殺された白人は61名、奴隷の死者は指導者のナット・ターナーを含めて120名に上ったといいます。
黒人奴隷自らの解放運動とは別に、人道主義者による奴隷制廃止運動が1830年代から北部で活発となっていきます。口火を切ったのが奴隷制即時廃止論者として知られるウィリアム・ロイド・ガリソンで、1831年ボストンで週刊誌「解放者」を発行し、今すぐ奴隷制を廃止せよと訴えました。さらにその翌年、彼は同志と図ってニュー・イングランド奴隷制反対協会を組織し、彼の急進主義に同調できない連中がフィラデルフィアで作った奴隷制反対協会と対抗しつつ、活発な運動を開始したのでした。
奴隷制即時廃止論者達は北部と西部の都市や農村に働きかけるとともに、連邦議会への請願という行動に出ます。これに対して南部のプランターは郵便物の検閲制度を実施し、請願運動を阻止するために「かん口令」を制定します。また奴隷制即時廃止論者達への弾圧や迫害も絶えず行われました。ガリソンのニュー・ヨーク・グループであるルイス・タッパンの家が1834年暴徒に破壊され、翌年ボストンでガリソン自身が暴行を受け、2年後にイリノイ州オルトンの町で、ガリソン派の編集者エリジャ・ラヴジョイがリンチで殺されるという事件が起こります。
しかし幾多の弾圧や迫害を受けながら、奴隷制即時廃止論者達の活動は熱心に続けられ、1840年には地方支部2000、会員20万を擁するようになります。そしてこのころから彼らの運動には変化が起こってきました。これまで彼らは主に道徳的説得で奴隷制を廃止させようとしてきたのですが、奴隷主の反対でこういう方式が失敗だとわかると、今や直接政治的行動で所期の目的を達成しようとします。エリザベス・スタントンやジェイムズ・バーニーに率いられた一派が1840年ガリソン派と決別して自由党を結成し、この年の選挙にバーニーを大統領候補として戦ったのは、このような事情に基づいています。この時以来北部での奴隷制反対の中心は議会に移り、より広範な政治家の運動として進展することになります。
そしてそこでメキシコ戦争(1846〜48)が起こるのです。この戦争で勝利した合衆国は、メキシコからカリフォルニアを奪い取ります。前にも書きましたがカリフォルニアは今のカリフォルニアとは違います。現在のカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナとニュー・メキシコの一部を合わせた地域です。このことは合衆国に大きな影響を及ぼします。新たに獲得した西部の領土に奴隷制を認めるかどうかという政治問題が巻き起こります。もともとメキシコ戦争は南部プランターがイニシアティヴをとって遂行された戦争でした。そのため南部人たちは、新領土は当然奴隷制を敷くべきと主張しました。これに対して北部側は、新領土には奴隷制の禁止を要求したウィルモット条項をもって対抗したのです。ウィルモット条項とは、起草者である北部の民主党員デヴィッド・ウィルモットの名にちなむもので、こういう条項が出ることで奴隷制それ自体の問題から奴隷制の拡大の問題へと転化したのです。
この条項の提出は政党関係にも大きく影響した。20年前に作られたホイッグ党は条項に賛成する北部ホイッグ、反対する南部ホイッグに分裂し、民主党も奴隷制擁護派と反対派とに分裂します。

ウィリアム・ロイド・がリソン

奴隷制の拡大を巡る南北の対立は、カリフォルニアの連邦編入を巡って危機的状態を生み出しました。これまで自由州と奴隷州は15ずつで政治均衡は保たれていました。そのためカリフォルニアが自由州となれば、南部は政治的劣勢に立たなければならなくなります。サウス・カロライナ出身のカルフーンが全力を絞って考えたのは、南部の結束により何としてもその権利を守るということでした。そのためには南部が連邦を脱退することもあえて辞さないという態度でした。
こうした危機の中1850年の妥協が成立します。その内容は、
1.カリフォルニアは自由州として連邦に編入する。
2.西部の新領土の奴隷問題については連邦議会が関与しないで住民投票で決定する。
3.逃亡奴隷取締法を強化する。
こんな程度の妥協は全く名目的で、根本的な解決にはならないものでした。
1850年代フィルモア大統領と議会は奴隷問題について協調的な態度をとります。そして南部でも妥協案支持の風潮が強かったのです。しかしそれは北部の工業、西部の農業、南部の綿花も豊作と高値によって潤っていたからで、1860年綿花は輸出額で総輸出額の57%も占めていたからです。人は潤っているときには争いを起こさないものです。サウス・カロライナのジェイムズ・ハモンドは、「誰も綿花相手に戦争などできない。綿花は王者である」と演説をぶっています。確かにその時は王者でした。南部の綿花はイギリスの100万人の労働者に仕事を与えていたのですから。
しかしその王者は内部に、増大する大きな矛盾を抱えていました。何よりも大きな問題は、奴隷労働と単一作物の栽培とに起因する土地の枯渇でした。そのころすでに大西洋岸の古い奴隷州では、土地が枯渇して生産は初期の四分の一に下落していました。50年代での綿花の増加は大部分が南西部地方、ことにテキサスへの奴隷制の拡大が原因でしたが、これらの新しい奴隷州でさえ、物価の上昇と奴隷価格の値上がりで綿花生産は引き合わないものとなっていたのです。
そして南部の奴隷社会が北部の自由社会よりも工業的に立ち遅れていることはもはや決定的な事実でした。南部は生活必需品のほとんどを北部か、あるいは北部の商人を通してヨーロッパから購入しなければならなかったのです。こうした経済事情は政治に反映していきます。これまで民主党を通じて連邦政府に強い発言権を持っていた南部は、カリフォルニアの連邦編入により均衡を破られ、少数派に追いやられましたが、経済的後進性の故この落差は大きくなるばかりでした。この苦境を南部側は、奴隷州の拡大で打開しようとします。50年代の初め南部側がメキシコから今のアリゾナとニュー・メキシコの南部の部分を購入し、さらには中南米のニカラグアを伺い、スペイン領キューバをも併合しようとしたのはこのような苦肉の策でした。
一方北部は、南部がそう出るならこちらもというわけで、北部人の奴隷制反対感情は高まり、1850年の妥協の産物「逃亡奴隷取締法」が実施されていましたが、この取締法を無視して公然の逃亡奴隷を援助し出します。
こういった中で、ハリエット・ビーチャー・ストウ夫人の小説「アンクル・トムズ・キャビン」が出版され一大センセイションを巻き起こしました。彼女が強く訴えたのは、奴隷制は残忍だということと自由社会と奴隷制は相容れないということでした。

「アンクル・トムズ・キャビン」初版本

妥協の皮が1枚1枚と捲れていく中で、1854年北部民主党指導者「南部主義を持った北部人」といわれるスティーヴン・ダグラスがカンサス・ネブラスカ法案を提出しました。要はカンサス・ネブラスカを准州とし、連邦に編入する際には奴隷州か自由州かを住民投票で決めるというものです。これは連邦議会入り乱れての激しい闘争になった末に可決されましたが、北部側が黙って済ますはずはありません。こうしてできたのが共和党だったのです。それまで合衆国のおもな政党はホイッグ党と民主党の2大政党でしたが、奴隷制について日和見的な態度をとってきたホイッグ党はここに解党され、北部の反奴隷制力を結集して1854年共和党が結党されます。共和党は自由土地党員、ホイッグの一派、反南部の民主党員からなり、北部と西部の資本家や農民、労働者に支持されました。
この法律をきっかけに、南部と北部の双方がカンサスへの移住競争を行い、武装移民の対立が武力闘争に発展して「流血のカンサス」を作り出します。1856年5月19日奴隷制拡大に強く反対するチャールズ・サムナーは、連邦議会で「カンサスへの犯罪」という演説を行い南部側議員を激しく攻撃します。これに激怒したサウス・カロライナ出身の連邦下院議員プレストン・ブルックスは3日後サムナーに襲い掛かり杖で激しく殴打するという事件まで引き起こすのである。南部側はブルックスを称賛し、北部側は奴隷制が生んだ野蛮行為と非難しました。さらにカンサス問題が片付かない57年3月ドレッド・スコット判決が行われます。スコットはミズーリの奴隷でしたが、主人に伴って自由州に住み解放されたことを理由に自由身分を最高裁判所に提訴していました。南部側の勢力の強い最高裁判所は、次のように判決しました。「スコットの身分がかつてどのようなものであれ、奴隷州に帰った場合は自由民ではない。さらに連邦議会が西部の領土の奴隷制をどんなに禁止しようとしても、それは無効だ」というものでした。
この「ドレッド・スコット判決」が重要なのは、ドレッド・スコットの提訴が却下されたからではありません。それはそもそも法律的にはスコット側に不利な点があり、そこを指摘して不利な判決を行おうとすれば容易にできたのです。しかし最高裁判所はそうはせずに、奴隷制度全般に関する判決を下してしまったのです。すなわちロジャー・トー二―裁判長がベンジャミン・カーティス、ジョン・マクリーン両判事の反対を抑えて、次の3つの理由により却下されるべきであるとしたのです。
第1…黒人奴隷及びその子孫は、所有者の財産であって合衆国の市民ではない。劣等人種である彼らは、白人と同等の権利を持つことができない。だから黒人であるスコットは連邦政府に提訴する権利はない。
第2…スコットはミズーリ州の市民ではない。したがってこの事件は異なる州の市民の間の訴訟ではないから、連邦裁判所には管轄権がない。スコットがたとえ一時的に自由州のイリノイに住んでもミズーリに帰って来た以上は、ミズーリ州の法律に服さねばならない。イリノイ州の法律に従って自由を要求することはできない。ミズーリでは彼は奴隷以外の何物でもない。
第3…スコットが北緯36度30分以北の自由地域に住んだという事実は、決して彼を自由身分にするものではない。というのは、連邦議会は合衆国の準州の奴隷制度を禁止する権限を持っていない。そもそも1820年のミズーリ協定は憲法違反であり奴隷財産はどこでも保護されなければならない。
これははっきりと奴隷制反対勢力に対する挑戦でした。ドレッド裁判に全く関係ない「ミズーリ協定」を持ち出し、憲法違反と決めつけたのです。これはもちろんトー二―裁判長だけではなく事前に、過半数を南部人に占めておいて下したものでした。

開戦へ

アブラハム・リンカーン

その後も北部と南部とは緊張した状態が続きます。
1857年南部側が関税の引き下げを断行し、北部船への補助税を打ち切ります。またブキャナン大統領は、北部の労働者や農民が多年要求してきた自営農地法案を拒否し続けました。ここに登場してきたのが、1809年ケンタッキーの辺境の貧農の子として生まれたリンカーンだったのです。彼は根っからの政治家で、1834年25歳でホイッグ党選出のイリノイ州下院議員となり、46年には連邦下院議員に当選します。
そもそも彼は奴隷制をすぐに廃止しようという考えは持っていませんでした。かれは少数派ではあるが急進的な即時奴隷解放主義者たちとその人道的同調者たちと黒人恐怖症に取りつかれた大多数の白人の二つの極の調停を図るために、これ以上の奴隷制の拡大に反対しただけでした。つまり彼の関心は奴隷制をどうするかよりも連邦の維持することだったのです。1858年の選挙では敗れますが、彼の名声は上がり、大統領への道を歩むことになります。
1859年1月に起こった、白人でありながら武力による黒人解放を目指したジョン・ブラウンらのハーパース・フェリー兵器庫襲撃事件は南北を興奮の渦に巻き込みました。ジョン・ブラウンとその一行は、ここを拠点として南部の奴隷に呼びかけ全南部で全奴隷の解放を行おうと計画したのでした。計画は民兵隊の出動で失敗に終わりましたが、南部側はどえらい黒人暴動の前触れとして恐れおののいたといいます。
こうした南北対立の中で1860年大統領選挙が行われ、共和党候補のリンカーンが、民主党の南北分裂に助けられて勝利を収めます。しかしリンカーン当選のニュースが南部に伝わると深南7州は、サウス・カロライナを先頭に相次いで連邦を脱退し、翌2月にはアラバマのモンゴメリーで南部連合を結成してジェファーソン・ディヴィスを大統領に選んで対抗します。
1861年3月4日合衆国第16代大統領に就任したリンカーンは、南部に和協を訴えますが、南部側は耳を貸そうともせず戦争の準備を進めていきます。そしてサムター要塞問題をきっかけについに戦争に突入していくのです。
4月12日南部側が北部側のサムター要塞への攻撃が開始され、翌日要塞は陥落します。ここに4年間にわたる南北戦争の幕が切って落とされることになったのです。
サムター陥落の知らせを受けるとリンカーンは戦争を決意し、直ちに義勇兵の募集を行いました。そしてこれまで分離をためらっていたヴァージニア、アーカンソー、ノース・カロライナ、テネシーが南部側に着きました。
ここで南北の戦力を比較してみると、物的資源や工業力、人口の点で北部が圧倒的に優位でした。北23州は人口2300万人、南部11州は900万人そのうち400万は黒人でした。兵士の数も北軍200万に対して南軍90万でした。北部は武器や弾薬や医療を自前で準備できましたが、工業化の立ち遅れた南部はそれらを海外に依存しなければなりませんでした。しかし南部は「綿花は王者である」という確信を持ち続けイギリス、フランスの支援を期待して戦争に突入したのでした。
戦争に突入すると、海軍力に勝る北部はまず南部沿岸を封鎖しました。そのため南部とヨーロッパとの通商は遮断され、必要物資が入らない苦境に立たされます。ところが陸上では、北部は有利に戦闘を進められませんでした。南部にはロバート・リー、ジョゼフ・ジョンストンといった優れた軍事指揮官がいたのです。リッチモンド、メリーランド、ペンシルヴァニアと激戦が行われましたが戦局は一進一退でした。
しかし北部に名将グラントが登場して、まずテネシーの南軍を破りミシシッピを南下し南部の心臓部に迫ります。さらに63年7月グラントはウィリアム・シャーマンの軍と合流しビッグスバーグを占領、ミシシッピ川を完全に支配下に入れます。これで南軍は東西に分断されることになってしまいました。63年秋グラントは北軍総司令官に就任。これ以後東部戦線でも北軍が有利となっていきます。
もちろんこの戦争での黒人たちの奮闘は特筆すべきものがありました。彼らはこの戦争を白人の戦争とは考えていなかったのです。
『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)によると、黒人指導者フレデリック・ダグラスは「この戦争は必然的に奴隷制に対する戦争になる」と開戦を歓迎しました。しかし政府は当初黒人の入隊を拒否していたのです。シンシナティでは、警察官が黒人志願兵申込所を襲って「この戦争は白人の戦争だ」として星条旗を奪って持ち去りました。さらに連邦軍は逃げてきた奴隷を初めは所有者に返還していたのです。しかし開戦1か月後連邦軍モンロー要塞に逃げ込んだ奴隷を、この要塞の司令官バトラーは彼らが反乱軍の戦力として使用される恐れがあるとして返却を拒否します。次いで2人の北軍将軍が占領した管轄地域の奴隷解放を宣言しました。しかしこれに対しリンカーンは直ちにそれを撤回させます。しかし戦場での奴隷解放はすでに食い止めることはできませんでした。
この戦争を通じて18万6000人もの黒人兵士が正式に北軍の陸軍に参加して戦いました。そのうち13万4000脱員が奴隷州の出身でした。さらに3万人の黒人が海軍に参加しました。{(中公)によれば40万人の黒人が連邦軍に入った}このほか労務者として随時軍務についたものは少なくとも25万に上るといわれます。もし南軍につかまれば殺される運命にあった黒人兵士は、白人には見られない果敢な戦いを行ったのです。
65年初め当時ジョージアの首都サバナとサウス・カロライナの首都コロンビアを相次いで占領、リッチモンド陥落も時間の問題となります。そしてついに4月2日南部連合政府はリッチモンドから撤退、1週間後にヴァージニアのアポマトリックスでリー将軍はグラントに降伏したのです。

奴隷解放

グラント将軍

南北戦争(1861〜1865)の最中の1863年1月1日リンカーンは奴隷解放宣言を行いました。正しくは、1862年9月22日リンカーンは、「来年の1月1日に反乱状態にある地域の奴隷はすべて解放する。境界州にある奴隷制には手を付けず、この日までに反乱を止めればその地域の奴隷制にも手を付けない」という予備宣言でした。しかし南軍はこの日まで投降しなかったので、18631月1日リンカーンは奴隷解放を宣言します。この宣言の発布によって、南北戦争は奴隷解放と自由のための戦いとして全世界の注目を集めることとなります。
ではどのような経緯でリンカーンは奴隷解放を決意したのでしょうか?
そもそもリンカーンは、統一連邦の維持が目的であり、できることなら奴隷制を維持したまま連邦の回復を考えていたのです。彼のスポークスマンは次のように発言しています。「全ての反乱諸州が武器を捨てて、その任務と義務に戻るなら、永久に今まで通り奴隷の所有、使用、管理を含んだすべての権利が保護されるだろう」と。
リンカーン自身も大統領就任演説で、「奴隷州の奴隷制については、直接的にも間接的にも干渉するつもりはない」と明言しています。リンカーンの大統領当選に尽力したホレース・グリーリは1862年8月、「2000万の祈り」と題する10項目を挙げ大統領の妥協政策を批判します。リンカーンはこの時点でも次のように答えています。「もし奴隷を開放しないで連邦を救えるならそうする。しかし奴隷を開放することで連邦を救えるならそうする」と。これはまだ迷ってはいるが、どうしても必要であればそうすると心の準備はできているということだと思われます。
当時戦況は北部にとって芳しくはなく、最も暗澹たる状況でした。南部のリー将軍は精鋭を引き連れメリーランド侵攻を伺い、イギリスも干渉の気配を示しつつありました。全世界の人々の支持を得て戦争を有利に導くには、北部の戦争目的が奴隷解放にあるのだと明言することが効果的だと判断されたのです。リンカーンはそのチャンスを狙っていました。そしてアンティータムの戦いでリー将軍の進撃を食い止め、北部の人民大衆が愁眉を開いた1862年9月、リンカーンはついに奴隷解放予備宣言を発表しました。宣言にはこう謳われています。 「1863年1月1日以降、合衆国に対して反乱状態にある州ないしその指定地域内で、奴隷として所有されているすべての人々は、当日直ちに、またそれ以後永久に自由を与えられる」
奴隷解放宣言は戦局を北軍有利に牽引する役割を果たしました。南部の社会体制を根底から揺さぶって、プランターたちの肝を冷やし、北部では大統領を頂点として全体の結束を固くしたのです。これは対外的にも大変な効果をもたらした。今や北部の戦争目的が奴隷解放であるであることが明らかになり、イギリスの労働者はこぞって北部支持を表明し、イギリス政府は南部支持の支援干渉ができなくなったのです。
そもそもイギリスは他に先駆けて奴隷貿易を公式に違法とし、1834年にはイギリス帝国内の奴隷制を廃止し、開放しています。しかしアメリカは奴隷貿易は廃止したものの奴隷制は残っていたのです。北部が奴隷解放を目的として、奴隷州と戦っているのに、奴隷解放の先駆者イギリスがその奴隷州を応援することはできません。
またこのリンカーンの妥協的な態度に真っ向から反対したのが、チャールズ・サムナーやサデュース・スティーヴンスに率いられた共和党急進派でした。急進派にとって南部との戦争は自由社会に敵対するプランター勢力を打倒するための戦いであり、人道主義的な正義のための戦いでした。
急進派の計画は、
第一にただちに奴隷解放を行う
第二に解放奴隷を武装化して連邦軍に編入する
第三に反乱者である南部人の財産を没収し、これを黒人や貧乏白人に分配して自由農民を育成する
こうした急進派の突き上げと、戦争の進展につれて奴隷制そのものと戦わずしてプランター権力を打倒するのは困難だということが明らかになってきたのです。これによってこれまで奴隷制に反対していなかった人々までもが次第に急進派へ傾いていきました。世論の動きに敏感なリンカーンはこれを見逃しませんでした。彼は61年11月連邦資金で奴隷の補償付き開放を行うという政策を打ち出します。しかしこれは境界諸州に住むプランターたちの反対で実施に至りませんでした。
また北部民主党も奴隷解放宣言に反対し、もし奴隷が解放されれば黒人が北部に殺到し、仕事を奪うだろうと白人労働者を脅しました。貧しい移民は、金を払えば回避できる徴兵制に反発し、1863年7月に、ニューヨークで反徴兵・反黒人暴動を起こし、100人以上の黒人を殺害するという事件も起こっています。
南北戦争は合衆国の歴史に残った最も大きな傷であり、第一次世界大戦まで人類がかつて経験したことのない悲惨な戦争でした。北軍の兵員は289万834人うち35万9528人が死亡し、南軍は兵員130万中25万8千人が死亡しました。これらの数字には戦傷者や終生廃人になった人は含まれていません。
両軍が費やした戦費も莫大なものでした。1865年4月1日現在で47億5000万ドル、これに年金や連邦公債の利子、破壊された財産を入れれば総費用は控えめに見ても100億ドル以上になります。この金額の半分で1860年の人口調査で記録された395万3857人の奴隷すべての自由があがなえたであろうといわれています。
しかしなぜこの戦争はこれほどまでに激しく戦われなければならなかったのでしょうか?それは双方にとって正義の戦いだったからだといわれています。戦争の原因を北部側は、南部が憲法違反を犯し分離主義を掲げ、連邦を脱退して全体の危機を招いたからだと批判し、南部側は、北部が中央集権化を押し付けることによって連邦憲法の精神をないがしろにしたと主張しました。
南部側にすれば、北部が独立戦争のイギリスとすれば自分たちは植民地13州だと思っていたのです。圧倒的な戦力不利にもかかわらず、南部が4年間も戦い抜けたのはこの正義の信念でした。さてこれだけの未曽有の戦争、それも武力では負けたが正しいのは自分たちだという信念を保持し続ける南部の復帰を行い、荒廃した国土を回復するのはそれは大変なことです。

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