そもそもアメリカと黒人 その7 南北戦争終結

南北戦争が終結して

リッチモンドに入ったリンカーン

そもそも分離諸州の連邦復帰については連邦憲法には何の規定もありませんでした。だからこそ再建問題は混迷を極めます。さらに加えて400万人の黒人奴隷が宣言と1865年の憲法修正第13条とで解放されましたが、そもそも黒人には住む家も耕す土地もなかったのです。
1865年3月4日リンカーンは大統領再選の就任演説と3週間後に行われる公開演説で再建政策を発表しました。その内容を一口で言えば、南部人の反逆を忘れ去り、南部諸州に十分な権利を与え、1日も早く連邦に復帰させようという極めて寛大なものでした。しかしそれから40日後の4月14日の夜観劇中に、この一座のうらぶれた俳優ブースの凶弾に倒れて命を落としたのでした。(亡くなったのは翌4月15日の未明か)
リンカーンの死に伴って大統領に就任したのは、副大統領だったアンドリュー・ジョンソンでした。彼は南部の出身でしたが分離主義への強硬な反対論者で、当初は再建に当たってリンカーンと非常に似た考えを持っていたといわれます。ついてはリンカーンの政策を踏襲していくこととなります。ヴァージニア、テネシー、ルイジアナ、アーカンソーの4州を正当な政府と認め、次いで連邦に忠誠を誓う南部人に恩赦を与えました。そしてノース・カロライナ宣言を出し残りの分離州に政府を組織させ再建を進めました。そして66年8月テキサスの再建が終わると合衆国に平和と秩序が回復されたと宣言したのです。
しかしこれらのジョンソンの再建案に共和党急進派は真っ向から反対します。彼らは分離諸州が連邦に復帰する前にプランターの土地を没収して貧乏白人や黒人に与え、黒人に市民権を認めて南部社会の民主化、プランター勢力の完全な打倒を目指したのです。
『アメリカ黒人の歴史』(岩波新書)によれば、ジョンソンは、以前はリンカーンよりも急進的な解放論者だったが、大統領の座に就くと行ったことは全く逆でした。そして当然恐れられていたこと、南部諸州では、奴隷制廃止という規定を全く無視し、以前からの奴隷制維持をはかろうとします。そこには先の「ドレッド・スコット判決」である「黒人はアメリカ市民ではない」を持ち出してくる始末です。
どうしてジョンソンは変節したのでしょうか?『アメリカ黒人の歴史』(中公新書)によれば、ジョンソンは一度大統領の座に就くと、次の選挙にも勝ち二期目の大統領の座を狙うようになります。テネシー出身のジョンソンはそのためには南部の支持が不可欠と考え、次々と南部人に有利な大統領権限を発令していくのです。権力の座という蜜の味に魅入られてしまったのでしょう。

アンドリュー・ジョンソン

ジョンソン大統領の後押しを受けて、南部諸州が歴史の歯車を押し戻そうとし、反抗的な態度をとり続けます。これに対抗する先頭に立ったのは、黒人自身でした。黒人の自由と権利を獲得するために1865年の夏から秋にかけて南部地区では大規模な大衆集会が広範に展開されます。こうした世論の後押しを受けて共和党急進派が合同委員会の主導権を握ります。1865年12月に連邦議会が招集されると、サムナーやスティーヴンスらはジョンソン政権を非難し、まず黒人を保護するため、66年4月に市民権法、公民権法を通過させ、次いで6月にはこれを条文化した憲法修正14条を通過させます。次々とジョンソンの再建政策を切り崩し67年3月ついに第一次再建法を通過させるにいたります。この法はすでに憲法修正第14条を承認していたテネシー州を除いて南部10州に軍政を敷き、連邦復帰の条件として、黒人及び連邦に忠誠を誓う白人から構成された新しい州議会を開き、黒人に選挙権を認めた新しい州議会を制定するという斬新なものでした。ジョンソンは黒人に市民権を与える公民権法に拒否権を発動しますが、共和党急進派はこれを乗り越えて法を成立させるのです。黒人の選挙権獲得運動には根強いものがありました。戦後各地で開催された黒人会議で選挙権が常に要求の第一に挙げられていたほどです。こうして再建法の実施とともに多数の黒人が有権者として登録され、選挙の結果黒人議員が目覚ましく進出してくることになります。とくに彼らの人口が多数を占めるサウス・カロライナ、ルイジアナ、アラバマ、ミシシッピでは、黒人議員が圧倒的多数を占めました。「世界の歴史17/アメリカ大陸の明暗」(河出書房新社)の著者は「合衆国の歴史の中で黒人に最良の年だったといえよう」と記載しています。
しかし南部、元奴隷主の抵抗は激しさを増します。黒人達が多数選出された再建政府に対して、結束した白人側から猛烈な反撃が行われます。南部州における税不払い運動やKKKによる攻撃です。選挙のたび武装集団による暴力、不正の横行で共和党は次々と敗北していきます。南部では1868〜1876までに白人共和党員を含めて約2万人が殺害されました。人種的に優越を信じ込んでいる南部の白人にとって、黒人の政治的進出は耐え難いものがありました。彼らは白人のための政治と社会を不動にするために手段を選びませんでした。南部の各州には、{KKK}(キュー・クラックス・クラン)をはじめ、「白ツバキの騎士」、「旭日の騎士」と呼ばれる秘密結社が作られ、黒人に対してテロやリンチがしきりに行われたのです。こうして南部各州共和党は崩壊していくのです。
急進派の圧力で南部では解放人管理局ができており、この管理局を通して「40エーカーの土地と一頭のロバ」を黒人に与えることが宣言されていました。しかし共和党急進派による再建の挫折は、黒人の政治的、社会的地位に大きな変化を与えます。急進派が掲げた「40エーカーの土地と一頭のロバ」は結局実現されませんでした。黒人奴隷たちは何世代にもわたる無償の労働に対しては何の補償も与えられず、黒人が生きていくために必要な土地と役畜は元奴隷主に残ったのです。黒人たちは、「自由以外に何もなし」で放り出されたのです。そして奴隷制の再現とみなされるシェアクロッパー制が行われ、黒人は商人や地主から前借をし、商人や地主に縛られた隷属的な小作人となってしまいます。経済的補償を与えられなかった黒人たちは日々の生活のために、結局はプランターに従属しなければならなくなってしまいます。そして南北戦争が果たしたはずの奴隷解放も、ただ法律上の解放にとどまり、黒人は政治的にも社会的にも幾多の差別を受け続けることになってしまうのです。
シェアクロッパー制とは、お金や土地を持たない解放黒人が商人や地主から前借をし、商人や地主に縛られた隷属的な小作人となるということで、プランターの大土地所有を解体する代わりにそれを温存し、その一部を黒人や貧しい白人に借地させ、彼らを昔ながらの状態に押しとどめておくことを目的とした前近代的な制度でした。経済的補償を与えられなかった黒人たちは日々の生活のために、結局はプランターに従属しなければならなくなってしまいます。計量経済史家であるR・W・フォーゲルとS・L・エンガマンの著書「苦難の時―アメリカ・ニグロ奴隷制の経済学」によると、奴隷制時代の1860年、奴隷が摂取する1日当たりのカロリーは、自由黒人より10%以上多かったそうです。つまり、使用主の「資産」であり、重要な労働力である奴隷は、ある意味では奴隷主によって守られていたということができます。

キュー・クラックス・クラン

一方南部で黒人と貧しい白人との同盟による民主的改革が推し進められようとしているときに、北部では労働運動の波が高まり労働者が団結して自己の権利を主張し始めていました。これを目の当たりにした戦時ブームに乗って飛躍的な発展を遂げていた産業資本家たちは南部の再建運動がそれ以上進むのを恐れるようになってくるのです。南部において徹底的な土地改革を行い、奴隷制を廃止し南部を解放するよりも、プランターと手を組んで南部を北部の収奪の場にした方が得策ではないか、という変質に向かいます。さら北部の独占資本化は、南部の黒人をそのような状態にしておくことが北部において低廉な黒人労働力を確保する道であり、さらに白人労働者の労働条件改善闘争を押しとどめる道でもあったのです。この点で北部の独占資本家と南部のプランターの利害が一致したばかりでなく、北部独占資本自体がいろいろな形で直接に南部の黒人搾取に乗り出し、北部の資本家の中からは同時に南部の土地所有者になるものも現れました。
KKK(キュー・クラックス・クラン)はただ黒人だけを狙ったのではありません。生活水準を異にする南東ヨーロッパやアジアからの移民をも攻撃対象としたのです。テキサスの歯科医、ハイラム・イーバンスを指導者として、まず南部に、次いで中西部、さらに極西部、東部にまで広がりました。彼らはある一つの点で首尾一貫していました。禁酒法に賛成し、移民に反対し、性的不品行を認めませんでした。
これに対して黒人側は1870〜80年代にかけて起こったいわゆる人民党運動と共同歩調を取ろうとする活動が全国的な規模で展開されます。人民党運動はそもそも1880年代に中西部や南部の農民を主体とした反独占の農民闘争でした。それが1891年には、共和党や民主党に対抗する第三党運動として発展していきます。これは黒人と貧しい白人は手を携えて戦うべきだという運動です。これに対して、独占資本家とプランターは白人民衆と黒人を離反させる作戦に出ます。1890年から20世紀初頭にかけての南部諸州を中心とした黒人の選挙権剥奪はこうして起こります。
これにとどめを刺したのが共和党のラザフォード・ヘイズと民主党のサミュエル・ティルデンとが争った1876年の大統領選挙でした。選挙の結果を巡ってルイジアナ、フロリダ、サウス・カロライナの3州で起こった混乱を収拾するため両党が妥協してヘイズが大統領となったものの、77年代償として南部から連邦軍を撤退させます。これで戦後13年間にわたる再建は終わりを告げます。ただこのヘイズ=チルデン妥協の結果として南部では白人による白人のための自治が回復されてしまうのです。

アメリカ資本主義の進展

19世紀後半アメリカの工業総生産はイギリスとフランスの合計をしのぐ世界一の工業国家となります。これほどまでに急激で大規模な工業発展は世界史上に例がありません。そしてあっという間に世界の一流国の仲間入りをしたのですが、アメリカ合衆国がツイているのは、何と言っても資源が豊富なことでしょう。まず石炭、石油、鉄という産業革命の基礎となる資源が豊富に産出するのです。
<石炭>
ペンシルヴァニアとウエスト・ヴァージニアの山脈地帯、イリノイに広がる草原、グレイト・スモーキー山脈の斜面、カンサスやコロラドやテキサス、ニュー・メキシコの数百万エーカーの土地には、無煙炭や瀝青炭が無尽蔵に存在していました。ニュー・メキシコの埋蔵量だけで、合衆国全体の工場を1世紀操業させるのに十分でした。全国の産炭量は年間5億トンに上りました。
<石油>
石油がペンシルヴァニア西部で掘り当てられたのは、南北戦争の直前1859年が初めてでした。その後数年間で石油地帯に人が殺到した有様は、10年前のカリフォルニアに起こったゴールド・ラッシュを彷彿とさせました。そして石油の産出量は、世界の36%を占めるようになります。テキサス、オクラホマ、カンサス、イリノイ、カリフォルニアでの油田開発の結果、この資源が早期に枯渇する心配は全くなかったのです。
<鉄>
スペリオル湖周辺、南部と西部の諸地方で豊富に産出され、鉄鋼資源の開発が半世紀行われた後でも、なお少なくとも2世紀はもつと見積もられました。 鉄鉱石採掘は植民地時代初期から行われていましたが、合衆国が世界最大の生産国となるのは、ミシガン州北部やスペリオル湖周辺の開発が行われたのちのことで、1890年には世界最大の鉄鋼生産国となりました。
これらの天然資源が大量に供給されるようになるのは1850年代以降なのです。さらに1860年代には銀が、70年代には鉛が、80年代には銅が、1887年にはアルミニウムが電解法で生成されるようになります。
電力
1882年エディソンが初めて電力発電所をニューヨークに作ります。これはたぶん蒸気発電。そして1893年シカゴで行われた万国博覧会で発電機が展示されます。アメリカの技術者たちは、発電機をダムに据え付けて蒸気に変えて発電を行うことを考えていたのです。

キャプテン・オブ・インダストリーの登場と独占化

アンドリュー・カーネギー

上記のように産業資源に恵まれたアメリカは、南北戦争後いわゆるキャプテン・オブ・インダストリーが続々現れ、産業集中も著しくなっていきます。その代表の一人がアンドリュー・カーネギーです。彼はスコットランドの一手織工を父に持ち全く正規の教育も受けていませんでしたが、1873年には資本金70万ドルの鉄鋼会社を立ち上げ、99年には資本金3億2千万ドルの鉄鋼会社を作り上げました。彼らの登場で合衆国は1890年までには世界第一の鉄鋼生産国となり、1900年にはイギリスとドイツの生産高の合計さえ上回るようになるのです。 もう一人はジョン・ロックフェラー。彼はニューヨーク州の一農家に生まれ、1870年オハイオ州クリーヴランドに石油会社を作り、2年後には南部開発会社を買収、82年には、合衆国最初の巨大トラスト、スタンダード・オイルを設立しました。
電気ではエディソンが1878年エディソン電燈会社を作りましたが、92年ゼネラル・エレクトリックに吸収されます。このゼネラル・エレクトリックとジョージ・ウェスティングハウスの作った会社でほぼ独占されるようになります。20世紀の初めには92の大会社が全国の産業の大部分を支配し、うち24社が一つの業種の80%を支配していました。
交通…19世紀の初めには蒸気船が運行を始めていましたが、30年代には蒸気機関車が走りはじめます。南北戦争中から建設が進められてきたユニオン・パシフィック、サザン・パシフィック、サンタフェ、ノーザン・パシフィックなど4本の大陸横断鉄道が80年代に開通します。第一次世界戦後に自動車が時代の寵児になるまではまさに鉄道の時代でした。
通信他…77年設立のベル電話会社、95年には巨大なアメリカ電信電話会社が出現しました。またエジソンは1879年白熱灯を発明しています。このようにインフラも整い始め、国内の開発により鉄鋼、石油などビッグ・ビジネスがスタートします。

金融資本の登場

しかしやがて金融資本が経済の実権を握るようになっていきます。その代表的人物がニューヨークの銀行家ジョン・P・モルガンです。これは全く新しい時代に突入したことを意味します。産業資本主義の起業家たちも最大の関心事は利潤だったが、彼らには勤労精神のかけとでもいうようなものがありました。ところが生産過程に関わらず、簿記的な仕事を本領とする金融資本家は、利潤だけにしか興味を持ちません。
この代表的な例が、1901年カーネギーの鉄鋼会社をモルガンが吸収して作ったUSスティール会社です。金融資本家の勝利だったのです。表面的には政府もこれを見逃していたわけではありません。反トラスト法は色々形を変えて交付されたが、実際は政府の巨大資本は「紳士協定」によって結ばれていたのです。例えばローズベルトとモルガンの協定です。

労働運動の激化

産業審、金融資本の独占に対して国民大衆の間に不満が沸き起こります。労働運動の萌芽です。そして1886年アメリカ労働総同盟(AFL)が設立され、ストライキ等労働運動が激しさを増します。1892年7月カーネギー鉄鋼会社の組合弾圧に対してストライキが行われます(ホームステッド・ストライキ)、1894年6〜7月シカゴ郊外にあるブルマン客車会社の社宅村でも激しい運動が行われます(ブルマン・ストライキ)。しかしこれらはいずれも州兵や連邦軍の出動で抑えられたのです。
これに呼応して1905年国際産業労働者団(IWW)が結成されます。この団体は階級闘争を視野に入れていました。労使対立の激化とともに資本家側の圧力はさらに強まっていきます。

農民運動と黒人運動

投票所に並ぶ黒人たち

前章でも触れましたが、1880年代後半農業不況が深刻化すると、ブルボン体制に対する白人小農の反抗が高まってきます。彼らの反抗は以前から始まっていましたが、80年代に入ると農民同盟を結成し、90年代に入ると民主党と決別して人民党を結成していました。しかも白人小農の反抗に呼応して黒人が立ち上がったのです。1886年黒人は全国黒人農民同盟を結成し、進んで人民党運動に加わりました。
…南北戦争後農業は衰退を始めます。それは南北戦争後ヨーロッパ市場は閉鎖され、しかも戦時中農民達はは、やたらと土地を買い入れ負債を増やしていたのです。農産物は市場価格ですので品物がだぶつけば価格は下がります。しかし工業製品は独占資本に操られた統制価格でした。一般労働者の生活状態も決して好転しませんでした。この時代は、ビジネス黄金時代と言われましたが、人口1億2000万人中8500万人が貧困層だったという矛盾が起こっていたのです。
この白人小農と黒人との共同戦線にどう対処するかがブルボンにとって緊急な課題となります。そしてここにジム・クロウイズムが顔を出してくるというのです。ブルボンは、一方で白人小農の懐柔策をとると同時に他方では白人優越主義を唱えて白人小農と黒人の離反を図ったのです。彼らのやり方は功を奏し、人民党運動はついに白人優越主義の闘争となり、黒人は再び白人間の平和のための犠牲とならなければなりませんでした。人民党の急速な衰退は、1890年代末からの景気の回復といった事情のほかに、深刻な党の内部事情が絡んでいるのです。 こうして19世紀末から20世紀初めにかけて、黒人選挙権の剥奪運動が進められます。まず、1885年ミシシッピ州が人頭税や読み書き能力テストを法律で規定します。90年にはサウス・カロライナがミシシッピに倣って黒人から選挙権を剥奪し、他の南部州がこれに続きました。しかも他方では能力テストで投票のできない白人を救うために、「祖父条項」や「善良な性質の照明条項」などが付加されたのです。
「祖父条項」は、1867年1月1日以前に選挙資格を持っていたものの子供や孫に文盲テストを免除するという規定であり、「善良な性質の証明条項」は善良で市民としての義務を果たしうると認められたものもテストを免除されるというものです。これらの規定の結果、過大な恩典を与えられた白人に対して、すべての黒人が実質的に選挙権を失うことになったのです。
選挙権の剥奪は、黒人差別の象徴的な表れだが、さらにこの差別は教育、交通機関、娯楽施設食堂など市民生活のあらゆる面に浸透していきました。そしてこの傾向を助長したのは、1896年に最高裁判所から下された「別々だが平等」という判決でした。法律は人種的本能を根絶することはできないとした最高裁の判決によって、ジム・クロウイズムは強力な法的支柱を得たのです。
また社会的には、1871年から始まったアパッチ族との最終決戦も1886年には終結します。因みに86年にアパッチの酋長ジェロニモが降伏すると、全男女、子供含めてオクラホマのシル要塞に移送され、囚人として軍隊の監視のもとに28年間も収監されるのです。こうして先住民問題は圧倒的な武力を以って抑え込まれました。

対外情勢

1867年ロシアからアラスカを720万ドルで買収します。このことにより英領北アメリカ、つまりカナダはアメリカに包囲される形となりました。19世紀後半アメリカは、モンロー主義あるいは孤立主義を宣言するがやることは全くの逆でした。1885年〜1905年までの20年間に合衆国の国際的地位は劇的に変化しました。プエルト・リコを属領とし、キューバを属領とし、またパナマに勢力を扶植し、カリブ海と中央アメリカの運河地帯を完全に支配下に入れたのです。さらにハワイ、グァム、フィリピン、サモアを領有ないしは保護化し国境は西太平洋にまで伸びたのです。他方中国の門戸解放政策、日露戦争への調停などを通じ東アジアでの威信も高まっていきます。

キューバと米西戦争

キューバ

さて、キューバです。キューバとプエルト・リコはスペインの手に残されていました。
キューバでは、1812年と23年の独立運動が失敗。68年からは10年戦争が続けられ、このような闘争を通じて86年には奴隷制が廃止となります。独立戦争が根強く続けられた理由は、スペインの統治が圧制でありしかも腐敗していたからでした。そして住民の生命、財産が保護されていませんでした。スペイン政府は、毎年キューバの所得の五分の二を吸い上げ、本国人が官職を独占しお手盛りの高級を受け取り、住民は正式な逮捕状なしに逮捕され、逃走を企てれば射殺され闇から闇に葬られました。
そして1895年経済不況の中、キューバ最高の愛国者といわれるホセ・マルティが決起の旗印を挙げるのです。19世紀中ごろにはすでに合衆国は貿易相手として、イギリス、フランスに次ぐ第3の地位にいた。貿易額は2500万ドルに達していた。決起の一つの直接的原因の一つの経済不況は、アメリカが原因していた。アメリカは94年のウィルソン・ゴーマン関税法で、外地からの輸入砂糖に高い関税を課したのでした。
キューバの反乱は、スペイン本国から容赦ない将軍、バレリアノ・ウェイラーが鎮圧のために派遣されるに及んで歴史上もっともすさまじい戦闘の一つとなりました。ウェイラーは、いくつかの街を収容所地区に指定して柵を作り、女性や子供や老人を放り込んだのです。1897年末までにハバナ一地区だけで収容されたものの数は10万1000人、うち半数は死亡しました。合衆国総領事の報告によれば、全島で40万の無抵抗な女性や子供が乞食ないしは野獣同様の状態となり、飢餓と熱病で毎日100人単位で埋葬が行われたといいます。
そしてスペインは続々と兵力を増やし、1898年の初めには20万にも上りました。合衆国議会は反乱がおこった当時から干渉を要求し続けました。国民感情も一部センセーショナルな新聞に動かされ戦争を是認するようになります。時の大統領、共和党のウィリアム・マッキンレーはできるだけ戦争は避けたいとおもっていました。98年2月にメイン号事件が起こってもすぐには開戦に踏み切らなかったほどです。
メイン号事件とは、ハバナ港に停泊していた合衆国の軍艦メイン号が、今日でも不明な原因によって爆沈し、260名の合衆国兵が死んだ事件です。合衆国の干渉を恐れたスペインが先手を打ったといわれてはきました。
ではなぜマッキンレーはすぐに開戦に吹き切らなかったのでしょうか?もっとも決定的な要因は経済界にありました。戦争が合衆国経済に大打撃を与えることを恐れたのです。1898年3月半ばになるとキューバの戦乱がもたらした動揺が景気の停滞を招きます。この不安定な状態を打開するためには戦争も辞さないという機運が、それまで非戦論を守ってきた経済界の指導者たちの間にも起こってくるのです。キューバの反乱を抑えないとこれからの海外膨張はできないと判断されたのです。
ついにアメリカはスペインに対し1898年4月宣戦を布告します。合衆国が関係したヨーロッパ諸国との戦争でこれほど速やかな成果を上げた戦争はありませんでした。戦闘は5月1日一兵も失わないで済ませたデューイ提督のマニラ湾攻撃で始まり、10週間で終結しました。そして戦時中にハワイ共和国と商議してこれを併合します。ハワイ併合も経済的な理由が絡んでいました。1898年当時合衆国の投資額は5000万ドルに上り、現地に持つ合衆国人の財産は、現地全財産の10分の9を占める白人財産の4分の3を占めていたのです。
クリーヴランド大統領は、就任2年後パール・ハーバーを海軍基地としてハワイより租借し、併合化へ歩を進めます。共和党のベンジャミン・ハリソンは大統領就任早々の1889年6月イギリス、ドイツと図ってサモア群島の保護化を断行します。そして10年後には独占支配するのです。
この米西戦争はちょっとした戦いではありましたが、その及ぼす影響は大きいものがありました。まず新大陸に残っていたスペインの栄光は完全に消え失せ、ラテン・アメリカにおけるアングロ・アメリカの干渉は大っぴらに行われるようになります。
キューバは、開戦後まもなく合衆国軍の占領下に入り、講和条約でスペインが放棄したのち、1899年1月1日から3年半も合衆国の軍政下におかれました。1902年5月に軍政は解かれ、キューバは共和主義憲法のもと民主的な歩みを始めるはずでした。ところが合衆国の圧力の下で制定されたキューバ憲法には合衆国憲法にないばかりか、これと真っ向から対立する8条項が付け加えられていました。
合衆国上院議員オービル・ブラットが口添え役になったのでブラット修正と呼ばれる8か条は、キューバ国民から実質的な独立を奪うものでした。これによってキューバは、
1.合衆国の同意なしに外国と条約を結ぶことも内外債務契約を結ぶことはできない。
2.独立を保持し生命、財産及び個人の自由を保護するために合衆国の干渉を認めなければならない。
3.貯炭所や基地の提供など、軍事特権をも合衆国に認め中ればならない
このような制約にキューバを当然応じず、憲法制定議会はこの修正条項を否決します。しかし合衆国は、無条件受託を要求し、受諾しなければ軍事占領を続けると脅したのです。キューバ政府は泣く泣くこれを受諾するのです。「生命、財産及び個人の自由を保護する」と言っても実際は、精糖業を中心とした合衆国資本の安全をはかるということです。第一次世界大戦がはじまるころには、合衆国の対キューバ投資は2億ドル、米西戦争の4倍に達しました。投資額この後ますます増えていきますが、肝心なのは額ばかりではありません。合衆国はキューバ砂糖への関税を20%に引き下げ、合衆国市場への独占的地位を承認しました。こう書くと聞こえはいいが、単一作物に生存をかけるキューバにとっては、この条約は生殺与奪の権を合衆国に与えることを意味しています。合衆国は20世紀の初めの1世代で4回も武力干渉を行います。その後反ヤンキー感情が高まり、大統領ゲラルド・マチャードが1925年から高関税策を採用し、合衆国製品の締め出しに務めます。

プエルト・リコ

米西戦争でアメリカが獲得したのは、キューバだけではなく、プエルト・リコも獲得しました。開戦後まもなく簡単に占領され、1900年4月以降は民政が施され、住民は下院議員を選べるようになりました。しかし下院は、合衆国人が大部分を占める任命行政会議(上院)と任命総督との同意なしには立法を行えませんでした。いうなれば、プエルト・リコは合衆国の属領となったのです。
プエルト・リコは「合衆国人」とは認められながらも市民権は拒否され、合衆国下院に議席と発言権は認められていましたが投票権は拒否されました。したがって、合衆国市民権と民選上院とを勝ち取ることが住民のおもな目標でしたが、これは第一次世界大戦中に達せられた。それでも立法に対する大統領および総督の拒否権や、議会の取消権ないし修正権には手が付けられず、自治の獲得というには程遠い状態でした。
さらにプエルト・リコは合衆国資本の流入と関税法によって合衆国の支配からとても脱却できそうにない状況にあった20世紀初めの一世代に、合衆国からの資本は1億ドル余り、投資の対象は砂糖やたばこや果実でしたが、キューバ同様互恵関税措置のもとで合衆国をほとんど唯一の市場としなければなりませんでした。実際に輸出、輸入の相手国は合衆国が90%を占めていました。いきおい土地は商業作物の生産へと集中されざるを得なくなります。しかし土地の集中は土地のない農民を生み出し、失業者は常に40%に上っていました。プエルト・リコ人が大挙して合衆国本土に渡りニューヨーク市などでスラム街を作るようになったのは、このような事情によるのです。こうして合衆国の中には、黒人に次ぐ今一つの強力な少数民族集団が出来上がっていくのです。
1901年マッキンレー大統領暗殺を受けて、大統領に昇格したのはセオドア・ローズヴェルトでした。1902年負債取り立てを理由にイギリス、ドイツ、イタリアの三国がヴェネズエラの海上封鎖を行ったとき、ローズヴェルトは断固としてこれに反対し、封鎖粉砕のためには武力行使も辞さないと大見えを切ったのです。ドイツはここで大幅譲歩を行い合衆国の調停に応じました。この事件はヨーロッパ帝国主義がラテン・アメリカにおいては合衆国の優先権を認めたということを示す象徴的な出来事となります。1904年12月の年次調書においてローズヴェルトはこう述べるに至ります。「西半球でモンロー主義を厳守していこうとしている合衆国は、(西半球諸国で)失政や無能力がはなはだしい場合には、国際警察力として行動しないわけにはいかないのだ。」

ドミニカ

1882〜99年まで独裁者ユリス・ウーローの失政が続いたこの共和国では、外国借款は3000万ドルもの巨額に上り、彼の暗殺後は全くの無政府状態になっていまし。不安を感じた債権国のドイツやフランス、イタリアなどが借款取り立てのためいつ税関を占拠するかもしれないといううわさまで飛んでいました。局面打開の援助要請を受けたローズヴェルトは、1905年2月ドミニカの関税収入の45%を財政支出に充てるとともに残り55%を債権国に比例配分するという条約を結び、2年後の合衆国上院の批准を得ました。こうして1907年以降合衆国はドミニカ財政の管理者となった。しかし国内秩序は回復されなかったため、ついに1916年〜7年間軍事占領下に置くことになります。7年間の合衆国の軍政を経て1922年ホラシオ・バスケースが大統領になったが、この政権は短命に終わり、30年からラファエル・トルヒーリョの独裁が一世代にわたって続くことになります。

パナマ

パナマ運河

パナマはもともと合衆国が運河を建設するために、カリブ海政策とアジア政策とを直結して世界的規模で帝国主義を推進するために、弱小国コロンビアからもぎ取ったものです。
西部膨張が進むにつれて、19世紀中ごろから大西洋と太平洋とを近距離で結ぶ通路を合衆国はのどから手の出るくらいに欲しかったのです。この要求は米西戦争でさらに高まりました。サン・フランシスコから戦場キューバへ軍艦を派遣するには、それまでは南アメリカのホーン岬を迂回せねばならず68日間もかかっていたのです。こういった事情のもと1900年合衆国はイギリスとの間に第1回ヘイ・ポンス条約を結び、50年前のクレイトン・パルワー条約を破棄して新たに運河の建設権を独占しました。国務長官ジョン・ヘイと駐米イギリス大使ジュリアン・ポンスフォートが仲立ちとなったこの条約は、イギリスのカリブ海艦隊を本国に引き上げさせ、カリブ海を合衆国の内海とする第一歩という面で重要です。さらにローズヴェルトが昇格した1901年第2回ヘイ・ポンス条約で運河建設権と要塞構築権とを勝ち取りました。
次に運河をどこに建設するかが問題となり、コロンビア領パナマ地峡と決めた合衆国国政府は、1903年1月コロンビア政府との条約にこぎつけます。しかし多額の代償を要求するコロンビア政府と折り合いがつきませんでした。そのため合衆国はパナマ住民の反乱をそそのかしたのです。そして独立運動がおこると戦艦を派遣しコロンビア政府軍をけん制しました。こうして合衆国軍に占領された形で1903年11月パナマ共和国が誕生しました。合衆国は直ちにこれを承認、また直ちに運河建設の協定を結びましだ。コロンビアは「パナマの強姦」と呼んで非難しました。そしてパナマ運河は1914年8月15日すなわち第一次世界大戦が勃発した年に開通しました。以後パナマはブラット修正と同じような干渉を受けるのです。運河を抱えるだけにほかのどの国よりも米国の目が光っていました。

中央アメリカ諸国

パナマ、コスタ・リカ、ニカラグア、エル・サルバドル、ホンジュラス、グアテマラの中央アメリカ諸国はバナナの生産地として世界的に有名ですが、この地でのバナナ生産はこれらの国々が自主的に選んで栽培したわけではありません。この地は合衆国のユナイテッド・フルーツ会社が、中央アメリカのバナナ生産の50%を自己農園で行い、その他のバナナの買い付けも生産者との買い入れ契約を取り交わし行っているのです。この果実会社は単に果実を栽培するだけではない。そのための鉄道を敷き、ジャングルを切り開き、病院を作るなど政府のようなことまでやっています。これらはもちろんすべて合衆国政府の後ろ盾でやっているのであす。これらについて合衆国に対するラテン・アメリカ諸国の強い反感が沸き起こります。そしていわゆるイベリア的アメリカ人としての同胞意識をよみがえらせる精神的、政治的運動の提唱者がホセ・ロドでした。1826年ボリバルが提唱してパナマで第1回汎アメリカ会議が開かれます。その後合衆国が干渉し、1910年には合衆国の御用会議となってしまうのです。

メキシコ

このあおりを食った最大の被害者はメキシコでした。1910年に始まる20年は内乱と革命の時代でした。1876年〜30年以上にもわたってメキシコを支配したのは、ポルフィリオ・ディアスです。彼の独裁は、自分の権力維持のためには何でも受け入れました。それが外国資本、つまりアメリカ資本です。農民を農奴として搾取し、反発するものは遠慮なく投獄、場合によっては射殺されたのです。
それに立ち上がったのが、自由主義者フランシスコ・マデロですが南ではアシエンダ(大土地所有制)解体を叫ぶエミリアノ・サパタ、北ではパンチョ・ビリャ等々が割拠して大混乱に陥り、血で血を洗う抗争が繰り広げられました。
結局強大な兵力を持つオブレゴンが1920年大統領となって一応混乱は収まります。オブレゴン大統領は、進歩的な憲法を掲げたが、社会改革は進みませんでした。2%の農地所有者が約60%の農地を所有し、全私有地の20%が外国企業の所有でありその半分は合衆国のものだったのです。

ハイチ

戦後フィリペ・ダルティグナブ大統領の下で新憲法が制定されましたが、反政府、反合衆国運動が高まったため、戦時中から駐留していた合衆国海兵隊が増強されました。

中央アメリカも不安定でした。

グアテマラ

1921年12月の軍部クーデター以来11年間に6人の大統領が交代しました。

ホンジュラス

戦前から内乱状態にありましたが、事態が好転しないまま24年内乱が勃発しました。

ニカラグア

アウグスト・サンディーノら自由派の反政府運動が25年〜8年間も続き、いったん撤退した合衆国海兵隊が息つく暇もなく引き返すという事態になりました。ここでも8年間に7人の大統領が交代しました。

コロンビア

20年代後半のミグエル・メンデス大統領時代にストライキが頻発、軍隊、警官隊の出動で多くの労働者、市民が死傷しました。

ヴェネズエラ

1909年〜35年にかけてホアン・ビンセンテ・ゴーメスが大統領および軍最高首脳として君臨しました。彼の時代は著しい進歩の時代で油田開発で世界有数の産油国となりましたが、産業進展につれてプロレタリアート階級も台頭し、学生層と組んで反政府、反合衆国運動が盛んとなりました。

エクアドル

1924年軍部クーデターが成功しましたが、29年の憲法で軍人政治が破棄され、その後も行政部と立法部とが対立し政情は不安定でした。

ペルー

19世紀末のチリなどとの太平洋戦争に敗れて苦難の道を歩むことになります。1919年〜30年にかけてアウグスト・レギア政権の下で経済発展を遂げましたが、タクナとアリカを巡るチリとの紛争は続きました。

ボリビア

太平洋戦争で内陸に押し込められたのが、バウティスタ・サーベドラ政権の下で油田開発により国家資源を増します。チャコ地方を巡るパラグアイとの紛争が政情を暗くしています。

パラグアイ

19世紀60年代の戦争で受けた大打撃をどうやら乗り越えましたが、大戦後再び政情が乱れ9年間に8人も大統領が交代しました。

ウルグアイ

20世紀初めの10年間に政情不安が著しかったのですが、民主的大統領ホセ・バトリェの下、農業改善に全力が注がれました。

チリ

硝石ブームにより南米きっての富んだ国の一つになりましたが、軍部の台頭が目立ち政情は安定していたとはいいがたかい面があります。

ブラジル

1888年奴隷70万人を一挙に解放しましたが、旧奴隷主の反撃に会い王制から共和制に転じます。驚異的な経済発展にもかかわらず独裁政治のゆえ反乱が頻発しました。大戦後も同様で、アルトロ・ベルナルデス政権、次のデ・ソーザ政権に対する国民大衆の不満がサン・パウロその他で反乱に発展し、1927年共産主義者への大弾圧が行われました。

アルゼンチン

独立から半世紀かかってようやく政治的混乱を脱しました。農業革命や産業革命によって1880年代急速な発展を遂げます。戦時中から戦後にかけて政権を担った急進派のイボリト・イリゴーエンは連合国への食糧の供与で大いに国を富ませました。しかしやがて来る世界恐慌により、軍部独裁の時代がやって来ます。

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