ジミー・ブラントン (ベース)

Jimmy Blanton (Bass)

ジミー・ブラントン

1918年(1919年、1921年説あり)10月5日テネシー州チャタヌガ生まれ。
1942年7月30日カリフォルニアにて肺結核のため死去。

ジェッター・ピラーズ&フェイト・マラブル・オーケストラの一員としてベースを弾いていたが、
39年セント・ルイスに巡業に来たデューク・エリントンが彼の驚異的なベース奏法に深い感銘を受けさっそく自分のバンドに加えた。
エリントンのバンドに在籍した期間は短かったが、そこで彼の時代に先行した奏法はジャズ界から大いに注目され後のオスカー・ペティフォード、レイ・ブラウンなど多くのベーシストに多大な影響を与えた。
評論家バリー・ウラノフはレスター・ヤング、ロイ・エルドリッジ、チャーリー・クリスチャン、それにジミー・ブラントンを「モダン・ジャズを創造した4人の男」と言っている。
わが師粟村政昭氏は、ジミー・ブラントンこそジャズ史上最大のベーシストであったと思うし、彼に迫りうるものとしては現在でも(1970年ごろ)、わずかにチャーリー・ミンガスとオスカー・ペティフォードの指し得るに過ぎないと書いている。
ブラントンがデュークのバンドに在団した期間は(39〜41年)はエリントン・オーケストラとしても最も充実していた時期でもあったが、この頃エリントンのバンドが史上最高を誇りえたのはベースにブラントンという逸材を据えたことにも大きな要因があった。
しかし粟村氏はエリントンは、現在我々が思うほどブラントンの存在を重視していなかったのではないかと書いているが、これにはちょっとばかり異論がある。
エリントンは一人のバンドマンのためにレコーディングをセッティングするような人間ではなかったと思う。しかし彼はブラントンとのデュオのような録音を行っている。他のメンバーを呼ぶのは忍びないのではなく、この天才プレイヤーと自信プレイヤーとして渡り合ってやろうと思ったのではないだろうか。
ビル・クロウ著「ジャズ・アネクドーツ」によると、エリントンという人は、人をクビにするということをほとんどしない人だったという。辞めてもらい人、新しく入れたい人がいるがすでにそのポジションにレギュラー・メンバーがいる場合自分から辞めるようにもっていったという。エリントンがブラントンを発見した時、バンドではビリー・テイラー・シニアがベーシストだった。エリントンはブラントンを入れたいが、テイラーをクビにもできない。そこでエリントンは2人をベーシストとして起用した。2人のベーシストはしばらくの間隣り合って演奏していたという。しかしとうとうテイラーがタオルを投げた。「あの若いのがガンガンベースを弾いている隣に立って、恥をかかされるのはもう耐えられない」と言って出て行ったという。
当事者のデュークは自伝の中で次のように書いている。
「私たちは彼(ブラントン)を加入させることにした。私たちにはベースにかけてはエースだったビリー・テイラーがいたけれども、ジミーは参加した。私は二つのベースを持つことになった。それはボストンに行くまではうまくいった。あるセットの途中、テイラーは自分のベースをケースに入れ、こういった。『隣で若いのがベースをブンチャカやってるんじゃ、俺はやってられないよ』彼はステージを降り、ジミーと私たちを残して正面のドアから出て行った。私は思うのだが、事実を認め、それを耐え忍ぶことこそ勇気ある人間だ」
ビリー・テイラーを持ち上げているが、エリントンはどんな場合も悪者にはならないのである。そして僕はこんな残酷な馘首の仕方を他に知らない。
ブラントン以前に本当の意味でのベース・ソロがなかったという事実、並びにこれらの演奏が80年前に吹き込まれたという事実を考えるならば、彼がブラントンがいかにほかに隔絶した天才だったが分かると粟村氏は締めている。

Record/CD

「The Duke」History 204148-302,3
"Johnny Hodges/Hodge Podge"(EPIC EICP-599)
"The Duke box"(Storyville records 108 8600)