僕の作ったジャズ・ヒストリー 10 … 初期のジャズ 3 1925年

今回は1925年を振り返ってみましょう。

1920年代ウォール・ストリート

1925年は、第一次世界大戦の戦勝国であり、国土が全く傷つけられることがなかったアメリカは、経済的には繁栄を極め、「喧噪の20年代」(Roaring Twenties:ローリング・トゥエンティーズ)とも「ジャズ・エイジ」(The Jazz Age)とも呼ばれる世代のド真ん中に当たります。「ジャズ・エイジ」と呼んだのは作家のスコット・フィッツジェラルド(Scott Fitzgerald:1896〜1940)でした。そのフィッツジェラルドが代表作『華麗なるギャツビー』(The great Gatsby)を書き上げたのが1925年でした。

ジョセフィン・ベイカー

1925年10月2日パリのシャンゼリゼ劇場に出演していた「レビュー・ニグロ(黒人レビュー)」に加わっていた黒人歌手兼ダンサー、ジョゼフィン・ベイカー(Josephine Baker:1906〜1975)がヨーロッパで大たりを取ります。彼女の踊りで初めてチャールストンに接したパリの観客をたちまち虜にしてしまうのです。このバンドにはキング・オリヴァーのバンドを短期で辞したトミー・ラドニアやシドニー・ベシエが帯同していました。ヨーロッパに人達は久しぶりに本格的なジャズを楽しんだことだと思います。
しかし一方では、1925年1月にイタリアのムッソリーニが独裁を宣言し、1921年にナチスの党首となっていたヒトラーは『我が闘争』第1巻を公表、11月にはナチス親衛隊が設立され、少しきな臭い匂いも醸し出し始めていました。

1925年のジャズ

ジャズ評論家の村井康司氏は『あなたの聴き方を変えるジャズ史』で、20年代は「ジャズ・エイジ」と呼ばれますが、それは音楽としてのジャズというよりも「がやがやした時代」というニュアンスが強いとし、『華麗なるギャツビー』に描かれたような裕福な白人たちが愛好した「ジャズ」はポール・ホワイトマン楽団が演奏するムード音楽的なものだったと記しています。主流は確かのその通りだったと思われますが、深く静かに(?)ルイ・アームストロングが変革を起こしつつあったのです。
ということで、この年も前回述べたように、ジャズの変革者、ルイ・アームストロングの動向が中心となりますが、この年に取り上げるミュージシャンのメニューを挙げておきましょう。
ルイ・アームストロング当然ですね、
ベッシー・スミス
フレッチャー・ヘンダーソン
デューク・エリントン
ビックス・バイダーベック
カリフォルニア・ランブラーズ
1924年に比べれると取り上げるミュージシャンは少ないです。
1920年に始まったラジオ放送は、あっという間に全米に普及し、1924年にはアメリカ全土で1200以上の放送局が開局し、全米のラジオ保有台数も250万台に達していたそうです。ラジオで聴いたミュージシャンのレコードを多くの人が買えば、レコード会社が潤い、ミュージシャンも潤うというのがリソウな形でしょうが、実際には家でタダで音楽が聴けるラジオの普及によってレコードの売り上げはガタ落ちします。1921年1億ドル以上合ったレコードの売り上げは1925年には約半分の5900万ドルに落ち込みました。有料媒体が一見無料に見える新媒体の登場によって苦境に陥るという現象は現代にも見られることですね。こういった背景を反映してレコーディング数が減ったのかどうかは検証できていませんが、何らかの影響はあったと思われます。
1924年に取り上げ今回取り上げないミュージシャンについて触れておきましょう。
ジェリー・ロール・モートン … 1925年はオートグラフ(Autograph)に2面分の録音があるようですが、未所有です。
キング・オリヴァー … 1925年は女性ブルース・シンガーの伴奏が2曲ほどあるようですが、未所有です。
フレディ・ケパードとジミー・ヌーンは1925年の録音が見当たりません。

ルイ・アームストロング

若きルイ

かつて「ソウルの帝王」ジェイムズ・ブラウンが自らを「もっとも働く歌手」と表現したことがありますが、この年のルイこそ「もっとも働いたミュージシャン」だったのかもしれません。ルイがフレッチャー・ヘンダーソン楽団に呼ばれてニュー・ヨークに進出し初レコーディングを行うのは前年1924年10月7日です。その後ヘンダーソン楽団はもとより、そのピック・アップ・バンドによる女性ブルース歌手の伴奏、クラレンス・ウィリアムズが主宰するバンドなど数多くのレコーディングに参加してきました。それはこの年も継続し、早くも1月7日には女性ブルース・シンガー、クララ・スミス(Clala Smith)の伴奏を務めています。そしてグレート・エンカウンター、「ブルースの皇后」ベッシー・スミスとのレコーディングが1月14日に行われます。ここで録音されたW.C.ハンディ作の「セント・ルイス・ブルース」は1925年度年間ヒット・チャート3位にランクされ、グラミー賞の「名声の殿堂(Hall of fame)」にも選ばれる名演です。
その後も活発なレコーディング活動が行われますが、1925年10月21日のレコーディングを最後にヘンダーソン楽団を辞し、11月2日に1回目のニュー・ヨーク時代の最後のレコーディングに参加し、シカゴに戻ります。ヘンダーソン楽団での在団期間は約1年間と短いものでした。
ルイはシカゴに戻ると休む間もなく、1週間後には女性ブルース・シンガーの伴奏のレコーディングを開始します。そして11月12日ジャズ史上最も重要なバンドの一つ、ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・ホット・ファイヴ (Louis Armstrong and his hot five)が初吹込みを行います。シュラー氏は、ホット・ファイヴの第1回録音について、「取り立てて画期的なジャズを生み出してはいない」と書いていますが、ここからスタートして次々とジャズ史に残る名演を記録していくことになります。
このバンドは史上初めてジャズのレコーディングを行ったO.D.J.B.と非常に似ている楽器編成を取っています。異なる点はホット・ファイヴにはドラマーがおらずバンジョー(ジョニー・サンシール)がリズムを担っているにもかかわらず推進力は抜群で、各々のプレイヤーの技量も圧倒しています。今聴いても古さなどみじんも感じさせない素晴らしいジャズが展開されて行きます。
詳しくは「ルイ・アームストロング 1925年」をご覧ください。

ベッシー・スミス 1925年

前年に引き続き吹込みが多く33曲の録音を行っていることになっている。しかし僕が持っているのは、CD”Bessie Smith/The collection”に収録された4曲のみです。
しかしそこにはルイ・アームストロングと共演した「セント・ルイス・ブルース」が含まれているのがありがたい。詳しくは「ベッシー・スミス 1925年」をご覧いただきたいのですが、内容は「ルイ・アームストロング 1925年」と同じになります。

フレッチャー・ヘンダーソン 1925年

僕が持っているヘンダーソンの吹込みはルイ・アームストロングが在団していた4曲のみです。つまり全てルイ・アームストロングの項と被るのですが、ヘンダーソン楽団の流れを記述するために、「フレッチャー・ヘンダーソン 1925年」を設けました。

デューク・エリントン 1925年

多作家として知られるエリントンだが、この年は2曲しか録音が見当たらない。それも当時重要メンバーだったババー・マイレイはいないし、ソニー・グリアもいない。このメンバーでの録音はこの1度だけだったようで、余り正式な録音という感じがしません。詳しくは「デューク・エリントン 1925年」をご覧ください。

ビックス・バイダーベック 1925年

僕はビックスの1925年の吹込みは持っていません。しかしビックスは、この年自名義のバンド、「ビックスと彼のリズム・ジャグラーズ」(Bix and his Rhythm Jugglers)で1月26日リッチモンドで4面分のレコーディングを行っています。その内の1曲「ダヴェンポート・ブルース」(Davenport blues)は年間ヒットチャート73位にランクされるそこそこのヒットとなっています。まぁ僕は一般的な単なるジャズ・ファンですので、全てのレコードを持っているわけではないことはもちろんです。上記のようにルイ・アームストロングでもベッシー・スミスでも持っているレコードは限られます。そのことはいいのですが、このレコードについて、『ビックス・バイダーベック物語』(CBS SOPB 55017〜19)に付いている油井正一氏による16ページにわたる彼のプロフィールにおいて一切触れていないのは不思議なことです。油井氏は自分の葬儀でビックスのレコードを流すよう言い残したほどのビックス・ファンでした。そんな油井氏がこの録音を知らなかったとは思えないのです。
因みにこの「ダヴェンポート・ブルース」(Davenport blues)はYoutubeで簡単に聴くことができますので、ご興味のある方は是非聴いてみてください。

カリフォルニア・ランブラーズ

ガンサー・シュラー氏は『初期のジャズ』で「フレッチャー・ヘンダーソン楽団など黒人バンドのメンバーたちは、(中略)ポール・ホワイトマンやカリフォルニア・ランブラーズのような白人大楽団を聴いて、少なくともその一定の側面に感心することもありえただろう。」そして「前者(ポール・ホワイトマン)のタイプのバンドには感嘆に値するようなジャズの要素はあまりなかったが、後者(カリフォルニア・ランブラーズ)における4人のサックスのセクションの正確な演奏と抑制の利いた響きや編曲者が作り出す特別な効果音に感心したことはあったに違いない」と述べています。
そもそもカリフォルニア・ランブラーズは、バンジョー奏者レイ・キッチンマン(Ray Kitchenman)によって1921年に結成されたバンドで、1920年代を通じて多くの異なるレーベルに数百にも上る曲を録音した最も録音数の多いバンドの一つと言われます。キッチンマン初めメンバーの多くはオハイオ州出身でしたが、カリフォルニア・ランブラーズ(California Ramblers)と名付けられました。このレイ・キッチンマンという人物、その創始者がなぜ録音に加わっていないのか等については資料がなく不明です。なぜ「カリフォルニア」なのかについても謎に包まれています。
このバンドは、1920年代を通じて多くの異なるレーベルに数百にも上る曲を録音した最も録音数の多いバンドの一つと言われます。つまりそれだけ一般受けしたバンドと言えると思います。そのバンドはどんな演奏を行っていたのでしょう?詳しくは「カリフォルニア・ランブラーズ 1925年」をご覧ください。
ランブラーズ同様非ジャズで人気のあったバンドに「フレッド・ウォーリングズ・ペンシルヴァニアンズ 1925年」もありました。

最初に書きましたが、この年はポッカリと穴が開いたように全般に録音数が少なくなります。そして翌1926年は一転して重要録音の目白押しとなります。乞うご期待!

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