僕の作ったジャズ・ヒストリー 14 … 初期のジャズ 7 1929年

世界大恐慌 1929年ウォール街

1929年に起こった大きな出来事と言えばどうしても10月24日ニューヨーク株式市場の大暴落とそこから始まる世界大恐慌ということになりますが、その直前まではアメリカは未曽有の大繁栄を謳歌していたのです。大和明著『ジャズの黄金時代とアメリカの世紀』によれば、1921年時点では電気が通じている家は全体の16パーセントにすぎませんでしたが、1929年には70パーセントに達し、ラジオ、冷蔵庫、掃除機、トースターなど家庭電化製品が登場し大々的に宣伝され普及し始めます。また電話と自動車もほとんどの家に備えられていたと言います。1927年11月の大統領選で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝した共和党のハーバート・フーヴァーは、3月4日に行われた就任式の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている……」と語ります。まさに繁栄の謳歌と言えます。
その大繁栄が10月24日を境に大不況時代へと一挙に大変換されていくことになります。ブライアン・プリーストリー著『ジャズ・レコード全歴史』によれば、1920年代が終わった時点で、レコードの年間売り上げは1年平均1億5000万枚に達していたが、大恐慌の数年後には500万枚にまで落ち込みます。村井康司著『あなたの聴き方を変えるジャズ史』によれば、1927年に1億4000万枚だった売り上げ枚数は、32年には600万枚まで激減します。
しかし大恐慌の影響が社会全般に広がり不況に陥っていくのは翌1930年辺りからではないでしょうか?特に経済関係の仕事をしていた人以外はニューヨークの証券取引所で株が大暴落したらしいということは新聞その他で知っても普段の生活がすぐに変わるわけではありません。特に大暴落が起こったのは10月末であり1929年全体のジャズの状況に限って言えば、大きな変化はまだ起こっていなかったといえるのではないでしょうか?つまりナイト・クラブやボールルームではダンス・ミュージックが演奏され、レコーディングも行われていました。

シカゴ・ギャングとジャズメンたち

油井正一著『生きているジャズ史』 またこの時代も以前として禁酒法の時代であり、大都市では”Speak Easy”(スピーク・イージー:もぐり酒場)がはびこり、マフィアなどギャングが幅を利かせていました。シカゴ・ギャングとジャズメンたちのエピソードを油井正一著『生きているジャズ史』から紹介しましょう。
マグシー・スパニア どんな事件が目前で起こっても、決して演奏を止めてはならない。むしろ、騒音を消すほど大きな音で演奏することーというのが、シカゴ・ジャズメンの不文律でした。しかし乱闘の渦中でドラマーが、つぶされては大変と大きなバス・ドラムを頭上へ差し上げて、うろうろしている風景はしばしば見られたそうです。
ある晩、マグシー・スパニア(写真右)がスタンドの前方でコルネットを吹いているとき、足元で二人の男が殺されるのを見ました。彼は演奏を続けましたが、後になっていったい何を吹いていたのか思い出せないくらいに動転していました。彼の服は、返り血を浴びてガバガバに汚れ、靴まで履き替えねばならなかったそうです。
ギャングは皆ジャズが好きでしたが、マグシーほどギャングに可愛がられた楽士も少ないようです。ギャングは踊りながらスタンドまでやってくると、吹いているマグシーのラッパの中に、5ドル、10ドル、場合によっては20ドル札を丸めて押し込んでくれたということです。

ポピュラー・ミュージック

「エディ・キャンター/フーピー」

1928年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位アーティスト曲名
エディ・キャンター(Eddie Cantor)メイキン・フーピー(Makin' Whoopee)
ファッツ・ウォーラー(Fats Waller)浮気はやめた(Ain't misbehavin')
エセル・ウォーターズ(Ethel Waters)アム・アイ・ブルー?(Am I blue ?)
クリフ・エドワーズ(Cliff Edwards)シンギン・イン・ザ・レイン(Singin' in the rain)
チャーリー・パットン(Charley Patton)ポニー・ブルース(Pony blues)
ニック・ルーカス(Nick Lucas)ティップ・トゥ・スルー・ザ・チューリップ・ウィズ・ミー(Tip toe thru' the tulip with me)
ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)君微笑めば(When you're smiling)
ルディ・ヴァレー・アンド・ヒズ・コネチカット・ヤンキーズ(Rudy Vallee & Connecticut Yankees)ハニー(Honey)
ボブ・ヘアリング・アンド・ヒズ・オーケストラ(Bob Haring & his Orchestra)ペイガン・ラヴ・ソング(Pagan love song)
10ガイ・ロンバード(Guy Lombardo)スイートハート・オン・パレイド(Sweethearts on the parade)
「アメリカン・ミュージックの原点」 No.1ヒットは、エディ・キャンターの「メイキン・フーピー」。キャンターは酒場の歌手からヴォードヴィリアンとなりついにはブロードウェイのミュージカルに出演するようなった俳優であり、コメディアン、ダンサーそして歌手でもある人物です。「メイキン・フーピー」は1928年のブロードウェイのミュージカル・コメディ”Whoopee!”中の曲。”Whoopee”とは「バカ騒ぎ」という意味です。
そしてジャズ、ブルース関連ではなんと2位にファッツ・ウォーラーの名曲「浮気はやめた」がランクしています。この曲はもともとハーレムの「コニーズ・イン」というナイト・クラブで上演された黒人だけのキャストによるレビュー「コニーズ・ホット・チョコレート」のオープニング・ナンバーとして書かれたものでした。このレビューは大ヒットとなったためブロードウェイで上演されることになったそうです。その時は演題を「ホット・チョコレート」と改め、ルイ・アームストロングがオーケストラのディレクターを務めることになりました。当初この曲は幕開けのナンバーで、ルイがTpソロを取ることになっていました。ところがこのルイの演奏があまりにも好評だったため、ルイはオーケストラ・ピットを出て舞台上で演奏することになったというのです。そんなこともありルイはこの年7月19日にキャロル・ディッカーソンのバンド・メンバーを中心にした自己の名義で吹込みを行っています。一方作曲者のウォーラーは少し遅れて8月2日ピアノ・ソロで吹込みを行っています。僕が意外に思うのが、少し地味なウォーラーのピアノ・ソロが2位でルイのレコードが51位とヒットとしてはウォーラーが上回ったことです。それぞれについては、「ルイ・アームストロング 1929年」及び「ファッツ・ウォーラー 1929年」をご覧ください。
3位のエセル・ウォーターズは黒人の女性ブルース・シンガーで、4位のクリフ・エドワーズは「ウクレレ・アイク」という別称もあるウクレレr奏者兼歌手。声優としてディズニー映画「ピノキオ」の声優を務め「星に願いを(When you wish upon a star)を歌った人物として有名です。
そして僕が最も意外だったのが、第5位のチャーリー・パットンです。「デルタ・ブルース」の父と呼ばれるパットンのレコードがこんなヒットになっているとは思いもしませんでした。詳しくは「チャーリー・パットン 1929年」をご覧ください。6位のルーカスはイタリア系ののジャズ・ギタリストで、初めてギター・ソロをレコーディングした(1922年)と言われています。この録音はYoutubeで視聴可能ですが、ジャズ・フィーリング、ブルース・フィーリングからは程遠い感じがする演奏ですが、これが初のギター・ソロ録音だといわれると興味は湧きます。
そして7位にはルイの「君微笑めば」が入り、8位のルディ・ヴァレーのヤンキーズ、9位のボブ・ヘアリング、スイート・ビッグ・バンドとして有名なガイ・ロンバードは当時を代表する白人ポップス・バンドでしょう。
中村とうよう氏監修の左の『アメリカン・ミュージックの原点』CD2枚組に収録された1929年の楽曲は2曲。ジミー・ロジャーズの”Blue yodel No.4”とベニー・モーテン楽団の”Rumba negro”です。モーテン楽団のナンバーは、モーテン楽団の項で取り上げます。ジミー・ロジャーズのこのナンバーはWeb上では1928年10月20日録音となっていますが、CDのデータでは1928年10月20日録音となっています。ロジャース得意のヨーデルを取り入れたブルース・ナンバーで大変面白い曲ですが、ちょっとキワモノ的ではありますね。ロジャースのこのヨーデル唱法は人気があったと見えて1928年の”No.1”から1932年の”No.12”まであり、同じく32年には”Jimmie Rodgers's last blue yodel”(ジミー・ロジャーズの最後のヨーデル)で終わりを告げたようです。

ポール・ホワイトマン・オーケストラとペンシルヴァニアンズ

ポール・ホワイトマンはこの1929年、年間トップ・テン・アーティストの第5位に後退します(1928年は第2位)。しかし活動自体は多忙を極めていたと思われます。1929年2月、ホワイトマンは、1回の出演料5,000ドルという好条件でコロンビア放送会社の「オールド・ゴールド」(タバコ会社)提供のレギュラー・ラジオ番組への出演契約にサインします。その他にブロードウェイのニュー・アムステルダム劇場で上演されていたレビュー、「ジーグフェルド・フォリーズ(Ziegfeld Follies)」、さらに同じくエディ・キャンター(Ededie Canter 前出)出演のミュージカル「フーピー(Whoopee!)」への出演が重なり、さらにレコーディングも行わなければなりません。これはかなりの重労働が強いられることになります。油井氏によると、ラジオ番組だけでも毎週の放送のために準備される新曲は16〜20曲、編曲者も高級をもらいましたが、もちろん密度の高い編曲ができるはずがありません。
さて、そのポール・ホワイトマンの1929年の録音を僕は2曲しか持っていません。しかしほとんどホワイトマン楽団と同じメンバーによるフランク・トランバウアー名義の録音も含めると3曲あります。ジャズ的にはビックス・バイダーベックとそのフォロワー、アンディ・セクレストのどちらがソロを取ったか論争になったトランバウアー名義の録音に興味が湧きますね。詳しくは「ビックス・バイダーベック 1929年」をご覧ください。
例によってもう一つ持っているアルバム「フレッド・ウォーリングズ・ペンシルヴァニアンズ 1929」を聴いてみましょう。1929年は彼等の人気が陰った年で、年間チャート100に1曲だけがランク・インしています。詳しくは「ペンシルヴァニアンズ 1929年」をご覧ください。

ジャズの動き … 1929年

では本題の1929年のジャズ界の動きを見ていきましょう。色々なミュージシャンの動きなどを見て感じることは、ジャズの中心地がシカゴからニュー・ヨークに確実に移りつつあったということです。

ニュー・ヨーク・シーン

フレッチャー・ヘンダーソン

フレッチャー・ヘンダーソン

当時ニューヨークで老舗のビッグ・バンドと言えば何といってもフレッチャー・ヘンダーソンのバンドだったはずです。しかし1928年のところにも書きましたが、ドン・レッドマン退団の打撃と夏に自動車事故にあって元気を失くし、とりわけバンドの実務面に対してはますます無頓着になりました。ガンサー・シュラー氏は次のように書いています。「1928年と29年の短期間に、フレッチャー・ヘンダーソンのバンドで楽員の重大な変更が発生した。ヘンダーソンと楽員の関係がひどく悪化して、解雇や自発的退団が相次いだ。トロンボーンのジミー・ハリソン、ベニー・モートンも辞めた。フレッチャーの運営上最悪の失策で、ジューン・コールとカイザー・マーシャル(ヘンダーソンの最も古い友人)も辞めた。バンジョーのチャーリー・ディクソンも去って、ビリー・ホリディの父親クラレンス・ホリディに代わった。逸材クーティー・ウィリアムスは束の間この楽団に在籍し、結局はエリントンに引き抜かれることになったが、少なくとも一つの優れたソロ(“Raisin’ the roof”)を残していった」と(後述)。
ヘンダーソンがレッドマンの退団や交通事故によって元気を失くしたことが、楽団員とのトラブルの原因だったのかまた「運営上最悪の失策」とはどのようなものだったのかは記述がありませんが、ともかくこの時期はヘンダーソン楽団にとって冬の時代だったことは間違いありません。
そのことを表すようにヘンダーソン楽団は1929年は録音を4面分しか残していません。その4曲は全て“A study in frustration”(Essential・JAZZ・Classics EJC55511)で聴くことができます。詳しくは「ヘンダーソン 1929年」をご覧ください。

デューク・エリントン

フレッチャー・ヘンダーソンのバンドに代わってグングンと伸してきたのが、デューク・エリントンです。エリントン・バンドはこの年も数多くのレコーディングを行っています。前回ご紹介したHistory社から出ているCD40枚組のボックスにも56曲が収録されています。他のジャズ・メンを圧倒する吹込み数といえます。
粟村政昭氏はその著『ジャズ・レコード・ブック』で「エリントン・バンドが真の意味でビッグ・バンド・ジャズと呼び得る演奏形態を確立したのは、ババー・マイレイがバンドを去った29年ごろからではないか。”Black and tan ”にせよ”East St. Louis”にせよ、初期のエリントン・バンドの傑作と目される演奏には、リーダー、エリントンの才能もさることながら共作者乃至はソロイストとしてのババー・マイレイの強烈な個性が大きくものを言っていた」と述べています。こう書くとババーが悪いような感じがしますが、そうではなくババーの強烈な個性が失せたことでエリントン自身の才能がより前面に出、エリントン・サウンドが形成されるようになったということだと思われます。ガンサー・シュラー氏も同様の見方をしているようです。
マイレイはスイング・ジャーナル社発行『ジャズ人名辞典』によれば29年1月、柴田浩一著『デューク・エリントン』によれば3月にエリントン楽団を退団、5月にノーブル・シスル(Noble Sisle)のオーケストラに加わりフランスへ楽旅に出かけます。帰国後はキング・オリヴァー、ジェリーロール・モートンなどと共演し、1930年自己名義でレコディングも行いましたが、過度のアルコール摂取のため体調を崩し、1932年5月29歳という若さで帰らぬ人となります。エリントン自身もその自伝で「1925〜29年にかけて彼は伝統の基礎を築いた。それ以降は、クーティー・ウィリアムズやレイ・ナンスといったミュージシャンがそれを守った」と述べています。
マイレイ以外にもこの年は重要メンバーの移動がありました。柴田浩一氏によれば、マイレイよりも早く年明けにオットー・ハードウィックが退団したとしています。ハードウィック、愛称「トビー」はデュークがソニー・グリアとニュー・ヨークに出てきた時に一緒だったワシントン時代からの盟友です。デュークは伝記で「トビーがニュー・ヨークを去ってワシントンに帰ったのは、家族と一緒に生活し、面倒を見なければならなかったからだ」と書いています。トビーは、”The Duke”のCD記載のデータでは、1月中は残っていたように記載していますが、Ellingtoniaでは、1月の録音から加わっていません。
またこの年8月ヴァルヴ・トロンボーン奏者のファン・ティゾールが入団します。彼は長らくデュークが信頼を置く重要な人物です。
そして先ほど触れたようにマイレイのババーの後任として、デュークがケンタッキー・クラブ時代から親交の深かったドラマーのチック・ウエッブの推薦でクーティー・ウィリアムズが入団します。デュークの伝記によれば、クーティーはフレッチャー・ヘンダーソンのバンドにいましたがソロを吹かせてもらえなかったといいます。クーティーがヘンダーソンのバンドには合わないと踏んだウエッブがデュークに紹介したのです。デュークは自身語っているように実にツイている、モッテいる男なのでしょう。クーティーがいつから加わったのかは書いていませんが、Historyのデータでは1929年2月18日、Ellingtoniaでは1929年3月1日のレコーディングからメンバーに加わっています。
またこの年の重要な出来事として、デュークとバンドが初の映画出演を行ったことが挙げられます。アーヴィング・ミルズが持ってきた話で、短編音楽映画”Black tan and fantasy”が製作・上映されるのです。たん映画と言っても50分ほどの長さがあります。映画の撮影がいつ行われたのかは分かりませんが、Ellintoniaによれば8月12日に映画用の音源を録音したと記載されています。
実に暗いストーリーでしかも危険な映画であるともいえます。映画の中で白人女性ダンサーとデュークが”イイ仲”になります。この女性が体の具合が悪くなり倒れてしまいます。そしてデュークの介抱も虚しく息を引き取るのですが、まだ1920年代のことです。この時代、デュークといえども黒人です。その黒人と白人女性が”恋人同士”的な雰囲気を醸し出しているのは相当危険なことではないでしょうか?なぜこんな冒険をしたのでしょうか?それともそんな気遣いは不要なのでしょうか?
そもそもこの映像は誰が企画し、誰を対象に、どんな目的で作られ、どこで映写されたのでしょうか?よく分からないことばかりです。
なお、デューク自身はこの映画について「自伝」では全く触れていません。柴田浩一氏はその著『デューク・エリントン』で、「アーヴィング・ミルズが持ってきた短編音楽映画”Black and tan fantasy”(タイトル間違えているし)でバンド演奏の初出演」としか触れていません。僕は、この作品はかなりの問題作だと思います。
もう一つたぶん誰も触れていないと思われることです。1929年4月12日録音とされる”A nite at the Cotton club”という録音があります。これはパート1と2がある長尺録音です。アーヴィング・ミルズがMCを行いバンドを紹介し演奏が始まります。当時の録音技術から考えるとスタジオ録音に観客の声をかぶせるのは無理なので、ラジオ音源をレコード化したものと考えられます。今では普通に行われることですが、僕はこれより以前にライヴ音源のレコード化というのを知りません。史上初のライヴ・レコードかもしれません。
色々話題が豊富なデュークです。詳しくは「デューク・エリントン 1929年」をご覧ください。

ジェリー・ロール・モートン

ジェリー・ロール・モートン楽団 1929年

ジェリー・ロール・モートンはこの年はニュー・ヨークとその近郊でレコーディングを行っていますが、活動の拠点もニュー・ヨークに移したように見受けられます。そして録音に関して言えば、7月に当世風にビッグ・バンドを率いニュー・オリンズに根差したような演奏をレコディングし、11月にはヘンリー・レッド・アレン、ヒギンバサムといった腕達者を起用し“Red hot peppers”という名義で傑作を録音します。そうかと思えば、バーニー・ビガード、ズッティ・シングルトンというこれまた名手を起用し、トリオでの録音を行っています。実にヴァリエイション豊かな活動内容ですが、一貫性がないとも言えます。ただこれはレコーディングの専属契約を行ったヴィクターの意向を反映したものなのでしょう。しかし聴く分には飽きが来なくていいですが。
詳しくは「ジェリー・ロール・モートン 1929年」をご覧ください。

ルイ・アームストロング ニュー・ヨークへ

「黄金時代のルイ・アームストロング」CDボックス

1929年ルイの最初の録音は3月に行われますが、これは史上実に重要な位置を占める録音となります。29年2月から3月という短い期間ルイは招かれてニュー・ヨークに滞在しました。そこで偉大なルイを歓迎するパーティーが催され、レコーディングが行われることになります。そのレコーディングは2つのバンドで2曲づつ行われます。そのうちの1セッションは、黒人3人(ルイ、H・コールドウェル、K・マーシャル)に白人3人(J・ティーガーデン、J・サリヴァン、E・ラング)というものでした。この白黒混合録音にコロンビア側が難色を示したのです。これにパーティーに出席していたエディ・コンドンが、コロンビアの首脳に『僕はヴィクターで、この間ミックスド・バンド(白黒混成バンド)を吹き込んだばかりだ。ヴィクターにできることが、オーケーにできないのか』とハッパをかけ、それから5時間後に吹き込まれたのが「壺を叩いて」(Knockin' a jug)だというのです。そしてこの録音は素晴らしい出来栄えとなります。しかし残念なことにこの時録音されたもう1曲はオクラ入りとなってしまったというのです。
因みにもう一方のセッションは当時ニューヨークでのベスト・バンドの一つと言われた黒人バンド「ルイ・ラッセル」のバンドに加わったものです(1曲だけエディ・コンドンが加わっています)。
さてルイは、3月のニュー・ヨークでの滞在を終え、いったんシカゴに戻ります。そしてルイはここに彼に従う同志たちと一大決心をします。それがニューヨークへの本格的進出でした。
シカゴにおいて再びキャロル・ディッカーソン楽団に参加するとともに、4月にはディヴ・ペイトンのバンドのゲストとして1週間だけリーガル・シアターに出演しましたが、5月に入ってルイは再びニューヨーク入りするのです。このニューヨーク往きはディッカーソン楽団を率いてのもので、ディッカーソン自身は音楽監督の任に当たり、、バンドの人気花形スターであったルイをリーダーとすることによって、ニューヨーク公演の成功を図るのです。
このルイのバンドは、ニューヨーク・ハーレムの代表的なジャズ・クラブの一つである”コニーズ・イン”を本拠として演奏活動を行っていましたが、夏からこのクラブのためのレヴューとして「ホット・チョコレート」が上演されると、それにも出演を依頼され、ファッツ・ウォーラーがこのレヴューのために作った「浮気はやめた」を演奏し、大きな評判になりますが、レコードのヒットはファッツ・ウォーラーに及ばない結果となったことはすでに述べました。
その後もルイは元キャロル・ディッカーソンのバンドをバックに活動を行い、「君微笑めば」や「ブラック・アンド・ブルー」などをヒットさせます。そして1929年12月から30年2月にかけてルイ・ラッセル楽団と帯同して、ゲスト待遇でワシントン、ボルチモア、シカゴと巡演して回ります。詳しくは「ルイ・アームストロング 1929年」をご覧ください。

白人ジャズマン

[Eddie Condon/That's a serious thing]CD・ジャケット

シカゴ … アンズエディ・コンドン

黒人ジャズマンではないが、エディ・コンドンもこの年ニュー・ヨークで活躍した人物です。シカゴアンズの大将的存在のコンドンですが、油井正一著『生きているジャズ史』によりますと、「エディ・コンドンは1928年ニューヨークに行ってから、ハーレムの名バンド、チャーリー・ジョンソンの演奏を聴き、日参して大いに感動し、ついに、レコード史上最初の白黒混合編成による吹込みを達成し、ひいては、ルイ・アームストロング不朽の名作「壺を叩いて」(Knockin' a jug)の吹込みを可能ならしめたような不滅の功績は、どんなに高く評価され過ぎても、され過ぎるということはないと私は確信します。」(原文ママ ちょっと日本がおかしい)
ルイ・アームストロングの項で『僕はヴィクターで、この間ミックスド・バンド(白黒混成バンド)を吹き込んだばかりだ。ヴィクターにできることが、オーケーにできないのか』とハッパをかけたと書きましたが、このヴィクターへの吹込みは、1929年2月8日にドラマーのジョージ・スタッフォードという人物が不明ですが、その他は黒人2名白人4名という混合編成で行われているのです。
そして3月のルイとの吹込みの後もファッツ・ウォーラーのバンドに単身加わったり、ドラマーとジーン・クルーパと加わったりと「音楽に肌の色は関係ない」とばかりの活躍をしています。詳しくは「エディ・コンドン 1929年」をご覧ください。

フライアーズ・ソサイエティ・オーケストラ
シカゴ … エルマー・ショーベル

以前も記載しましたが、そもそもシカゴ・スタイルのレコードはあまり多くありません。この年の他のシカゴアンの録音ではこのエルマー・ショーベルの録音くらいしか持っていません。ショーベルはニュー・オリンズ・スタイル・ジャズの名門N.O.R.K.の出身で、オースチン・ハイスクール・ギャングの先生的な役割を果たした人物です。そのショーベルが残した録音は、「フライアーズ・ソサイエティ・オーケストラ(写真右)」名義、シカゴのクラブ「フライアーズ・ソサイエティ」に出演していた時のバンドなのでしょう。詳しくは「エルマー・ショーベル 1929年」をご覧ください。

ビックス・バイダーベック

トランバウアーとビックス

1928年の暮、健康を害して病院に入院したビックスは1929年2月末、約3か月間の入院生活を終えてホワイトマン楽団に復帰します。しかしホワイトマンには、ホワイトマンが代役に雇ったアンディ・セクレストが在団していました。しかもホワイトマンはセクレストを気に入り、そのままバンドに留め第3トランペットの座を与えたのでした。
油井氏によれば、そういった状態で1929年4月17日に「家に帰らないかい」が吹き込まれます。この録音における2本のコルネット奏者のどちらがビックスかをはっきり断定できる人いないといいます。それほどセクレストはビックスにそっくりだったということでしょう。
しかしこの録音はトランバウアー名義です。ホワイトマンの名義の録音の場合とトランバウアー名義の区別について全く油井氏は説明していません(写真はトランバウアー(左)とビックス)。ビックスはこのあと5月のホワイトマン楽団に参加しますが、その後ホワイトマン楽団は映画制作のためハリウッドに向かいます。ニューヨークに戻っての録音は再開は9月からですが、僕は持っておらず、僕が持っているのは翌1930年に行われたものとなります。ビックス・バイダーベックは1931年8月6日28歳の若さでこの世を去ります。ディスコグラフィーによれば最終年1931年にレコード録音はされていないので、次回1930年が、記録(record)に残る最後の活動の年となります。詳しくは「ビックス・バイダーベック 1929年」をご覧ください。

ベニー・グッドマン

クラリネットを持ちながらアルト・サックスを吹くベニー・グッドマン

評論家野口久光氏は「ベニー・グッドマンRCA全曲集」に寄せた解説で、ベニー・グッドマン(以下BGと略)がベン・ポラック楽団を辞めたのは、1929年と書いています。しかしポラック在団中の1928年1月BG18歳の時に初リーダー録音を行ったとも書いています。しかし”Benny Goodman/Giants of jazz”(TimeLife STL-105)&”The young Benny Goodman”(Timeless CBC 1-088)などには、ベニー・グッドマンズ・ボーイズ(Benny Goodman’s Boys)名義の1928年1月の吹込みが収録されています。ベン・ポラック楽団での最後の吹込みは1929年7月25日なので、少なくともこの時点ではまだベン・ポラックに在団していたと思われますが、或いは退団はしていたけれども求められて録音には参加したのかもしれません。
ともかくポラックの楽団を辞した後1931年までの3年間余りで200を超えるレコーディングに呼ばれ、34年の自己バンド結成までに吹込みに参加した曲は500曲にも及んだといいます。いかに彼が様々なレコーディングから引っ張りだこの人気ミュージシャンであったかが分かります。ということで取り上げた録音は様々なバンドに呼ばれてプレイしたものが中心となっています。詳しくは「ベニー・グッドマン 1929年」をご覧ください。

レッド・ニコルス、ジャック・ティーガーデン

この年のニコルスに特筆すべきことは見当たりませんが、BGやジャック・ティーガーデンなど有望な新人たちを起用した「ファイヴ・ぺニーズ」名義の録音を順調に行っていたようです。詳しくは「レッド・ニコルス 1929年」をご参照ください。
また「ビッグT」とも呼ばれるトロンボーンの名手ジャック・ティーガーデンも初吹込みは1927年と言われますが、1928年にはベン・ポラックやエディ・コンドンらとのレコーディングなどに幅広く起用されるようになります。そして1929年には偉大なルイ・アームストロングとも共演を果たし、後の名コラボを謡われるルイとの絆の礎を築いたともいえるでしょう。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1928年」「ジャック・ティーガーデン 1929年」をご参照ください。

「ブラインド・ウィリー・ダンとロニー・ジョンソンのSP盤」

エディ・ラングとロニー・ジョンソン

白人最高のギタリストで「ジャズ・ギターの父」と呼ばれるエディ・ラングはこの年も様々なバンドのセッションに参加しレコーディングを行っています。左は「エディ・ラング 1928年」でご紹介した、変名「ブラインド・ウィリー・ダン」名義を用いてロニー・ジョンソンと共演したレコードです。この変名は、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ブレイク、ブラインド・ウィリー・マクテルといった黒人ブルースマンを連想させますね。そういった活動が評価されたのかルイ・アームストロングのニュー・ヨーク歓迎レコーディングに参加することになります。そこではイントロと1コーラスのソロを取っています。
そしてもちろんロニー・ジョンソンとの共演も引き続き行われていますが、なんといっても注目は「ブラインド・ウィリー・ダン・アンド・ヒズ・ジン・ボトル・フォー」というイカした名前のグループ名義の録音です。「フォー(4)」と名がつく通りメンバーは4人。「ブラインド・ウィリー・ダン」はもちろんラングですが、他の3人のメンバーに注目です。コルネットにはなんと「ジョー・キング・オリヴァー」、僕の持っている唯一のオリヴァーの1929年の録音です。ピアノのJCジョンソンは『ジャズ人名辞典』にも載っていな黒人ピアニスト、そしてパーカッションとスキャット・ヴォーカルでホーギー・カーマイケルが加わっているのです。詳しくは「エディ・ラング 1929年」をご覧ください。
ロニー・ジョンソンはラングとの共演以外でも1人のブルースマンとして、あるいはギターの名手としてブルース・シンガーの伴奏などに活躍しています。詳しくは「ロニー・ジョンソン 1929年」をご覧ください。

ニュー・ヨーク・シーン

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻」

では、フレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン以外のニューヨークのジャズ・シーンをビッグ・バンドを中心にみていきましょう。

チャーリー・ジョンソン、コットン・ピッカーズ、チック・ウエッブ、ルイ・ラッセル、ミズーリアンズ

左はかつてヴィクターから出ていた「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻/ザ・ビッグ・バンド・イーラ」というレコード・ボックスです。レコーディング・データがたぶん再販時に削除されかなり不備な音源集ですが、こういったものがないとこの時代の録音を聴くことはかなり難しいと思われます。そういった意味では大変ありがたいレコード・ボックスです。
今回初登場のバンドは、チック・ウエッブとザ・ミズーリアンズです。各バンドの詳細は、
「チャーリー・ジョンソン 1929年」
「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ 1929年」
「チック・ウエッブ 1929年」
「ルイ・ラッセル 1929年」
「ザ・ミズーリアンズ 1929年」
をご覧ください。

ファッツ・ウォーラー

ニュー・ヨーク・シーンの最後にビッグ・バンドではありませんが、ピアニストのファッツ・ウォーラーを取り上げておきましょう。この頃には、偉大なピアニストであり、偉大な作曲家でもあるという認識がかなり行き渡りつつあったのではないでしょうか?先ほど触れたブロードウェイでの「ホット・チョコレート」の成功や演奏家としても「浮気はやめた」ではルイ・アームストロングを抑えたヒットを記録しています。またウォーラーもバンドとしてはエディー・コンドンを迎えて混合バンドによる吹込みを行っています。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1929年」をご覧ください。

カンサス・シティ … ベニー・モーテン

カンサス・シティ・ジャズ・バンドの雄、ベニー・モーテンの楽団ですが、この年はニュー・ヨークなどの東部ではなく、シカゴに赴いてレコーディングを行っています。レコード解説の故瀬川昌久氏によれば、モーテン楽団は、1926年にRCAヴィクターに移籍し、多数のレコーディングを開始します。そしてバンドは1929年半ばまでが前期のモーテン・バンド、以降1932年の最終セッションまでが後期のニュー・モーテン・バンドと大別することができると述べています。つまり1929年モーテン楽団は7月と10月にレコーディングを行っていますが、いわばこの間で変化が起こり、1929年7月までが前期モーテン楽団、1929年10月から1932年までが後期モーテン楽団としています。
まず7月の録音について、瀬川氏の解説はかなり意味不明なところがありますが、概してなかなか聴き処の多い録音としています。一方ガンサー・シュラー氏は全米中のビッグ・バンドの中で最低の出来と酷評しています。僕はどう思うかというと、それほど目くじらを立てるほどひどいものではなく、それなりの出来栄えではないかと思っています。
それでは次の10月のレコーディングまでにいったい何が起こったのでしょうか?それは後世のジャズ・シーンに大きな影響を及ぼすような偉大なミュージシャンが加わったのです。それはトロンボーン兼ギター奏者のエディ・ダーハムであり、トランペットのオラン・ホット・リップス・ペイジであり、ピアノのカウント・ベイシーであり、ヴォーカルのジミー・ラッシングの加入です。しかしこれに対しても瀬川氏は「大変革」と書いていますが、シュラー氏は「多少の改善」としています。僕自身は7月に比べてかなり良くなったと思っています。詳しくは「ベニー・モーテン 1929年」をご覧ください。

シカゴ・シーン

この年シカゴを中心に活躍したジャズマンで僕が持っているのは、2人の偉大なクラリネット奏者(ジミー・ヌーン、ジョニー・ドッズ)のものだけです。この年だけを比べるとヌーンがどんどんポップ化していくのに対して、ドッズの方はあくまでジャズの演奏に拘っているように見えます。詳しくは「ジミー・ヌーン 1929年」をご覧ください。
ドッズに関しては「ジョニー・ドッズ 1929年」をご覧ください。
この時にはアール・ハインズもビッグ・バンドを組織して「グランド・テラス」を根城に活動しているはずですが、吹込みは見当たりません。

ブルース

ブギー・ウギー

ミード・ラックス・ルイス

この年ブギー・ウギーにとってだけではなく、ジャズ史に大きな影響を及ぼした超重要作品が吹き込まれます(吹き込んだのは1927年で発売が1929年という記載がある)。ミード・ラックス・ルイス(Meade Lux Lewis 写真右)の「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース(Honky tonk train blues)」です。しかしこのレコードは、パラマウントというマイナーで潰れかけた会社への録音だったために、ごくわずかしかプレスされませんでした。しかしたまたまその1枚を入手した、ジョン・ハモンド氏がこれを聴いて大感動し、新聞広告を打ったりいろいろな手を使って、ついにシカゴでタクシーの運転手をしているルイスを探し出したのです。その時のエピソードも伝わっています。やっとルイスが働いているタクシー会社を突き止め、ハモンドが訪ねた時ルイスは自分が乗車する車を洗っていたそうです。それを見たハモンドは驚いて走り寄り、「何をしてるんですか!あなたは天才なんですよ!」と言ったのだそうです。タクシー運転手が車を洗うのは当然のことですが、上流階級出身で元々はクラシック音楽の中で育ったハモンドには、ピアニストが大事な手を車洗いなどという荒仕事に使うなどとは信じられなかったのでしょう。
ともかくハモンドは、1937年ヴィクターにこの曲を吹き込ませます。すると大ヒットとなるのですが、それでもまだブギー・ウギーの素晴らしさを知らない人がいると自分でプロデュースした「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」コンサートにも出演させるのです。すると今度はこれを聴いて一人のドイツ人が感激するのです。その人ことアルフレッド・ライオンは、レコード会社まで立ち上げ、ルイスとアルバート・アモンズのブギー・ウギーを第1回セッションに起用するのです。この大きな歴史ドラマがこの曲から始まったというのは、それ自体が既に感動的です。
とここまでのストーリーは油井正一氏の『生きているジャズ史』を素にしています。氏はさらに「ルイスは1929年以来5回吹き込んでいるが、後になるほどつまらない。1939年(1940年の誤りだと思う)のブルーノートの12インチは最低です」。ではなぜ「最低か」というと、「右手の動きにスイングやリフの要素が入り込んできて純粋さを失っている」のだそうです。残念ながら僕の耳はタコなので、この演奏を聴くたびにスイングの影響はここかな?リフトはここかな?と探していますが、いまだ特定できていません。
ここまで書いてきてナンですが、僕はこの1929年のルイスのレコードは持っていません。なかなか収録レコードが見つからないのです。しかし何度も聴いています。Youtubeを検索していただければいくらでも聴くことができます。かつて幻のレコードと言われたものが今では簡単に聴くことができるーすごい時代になったものです。
僕の持っているこの年録音のブギー・ウギー・レコードは、
「パイントップ・スミス 1929年」
「モンタナ・テイラー 1929年」
「スペックルド・レッド 1929年」
ぜひご参照ください。

ベッシー・スミス

「ベッシー・スミス物語第2集/エニィ・ウォーマンズ・ブルース」

Bessie Smith 1929

油井正一氏によれば、ベッシー・スミスは生涯コロンビアに180曲ほどレコーディングを行いましたが、そのうち20曲は未発表のまま原盤が失われ、残っているのは160曲だといいます。1929年の音源については「ベッシー・スミス物語第2集/エニィ・ウォーマンズ・ブルース」(CBS SOPB 55027 写真左)に、5月8日から10月11日までの1929年の全録音14曲が収録されています。油井氏によれば全録音180曲中1929年録音は17曲だったそうですので、この年録音からは3曲が失われたことになります。
前年1928年は”Empty bed blues ”の発禁問題、人種差別に激しい抗議を叩きつけた歴史的作品”Poor man's blues”を吹き込むなど波乱の年でした。油井氏は8月の28年最後の録音の次の吹込みは29年5月15日の「つめたい世間」であるとし、これはこの間にブルース熱が冷めたせいだとし、熱が冷めるとレコーディングもさせてくれない「冷たい世間」だとベッシーは訴えていると述べておられますが、それは違うのではないかと前回書きました。そもそも29年最初の吹込みは5月15日ではなく5月8日です。
そしてこの5月8日の録音は注目に値するものなのです。それは伴奏者2人のうち一人は、白人ギタリストエディ・ラングだということです。この時代黒人が白人のバックを務めることはあったにせよ白人が黒人のバックを務めるということはそれなりに危険なことだったと思われるのです。さらにこの時に吹き込んだ3曲はいずれも飛んでもないエロ・ソングだということです(この程度のエロ具合はブルースではよく見られるものですが)。僕はこれはコロンビアが「人種差別などに抗議せず、売れるエロ・ソングでも歌ってろ」という指示だったように思えるのです。穿ちすぎかな?いずれにせよこういったことをプロの評論家の方たちに解説してもらいたいものです。
いずれにせよベッシーは、8月以降はもっとも好んだといわれる伴奏者ピアノのジェイムズ・P・ジョンソンと吹込みを進めていきます。詳しくは「ベッシー・スミス 1929年」をご覧ください。

ブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ブレイク

僕の持っているブラインド・レモン・ジェファーソンのこの年の吹込みは1曲だけです、それもこの年かどうか不確かです。詳しくは「ブラインド・レモン・ジェファーソン 1929年」をご覧ください。
ブラインド・ブレイクは、この年も25面分という大量の録音を記録しています。詳しくは「ブラインド・ブレイク 1929年」をご覧ください。

チャーリー・パットン

チャーリー・パットン

「デルタ・ブルースの父」と呼ばれるチャーリー・パットンもこの1929年からレコーディングを開始しています。といっても彼がレコーディングを行ったのは1929年、30年、34年の3年だけで、そのうち最も多くの録音を行ったのが1929年です。その7月14日の最初のレコーディングで録音された”Pony blues”がこの年の年間ヒット曲チャートの第5位にランクされることは意外中の意外ですが。
彼はいわゆる「放浪のブルース・マン」ではなく、その人生のほとんどを生地であるミシシッピ州サンフラワー郡で過ごしたといわれています。生粋のデルタ・ブルースを継承しレコーディングを行った貴重な存在と言えるでしょう。詳しくは「チャーリー・パットン 1929年」をご覧ください。

他のブルース・ピープル

上記以外のブルース・ピープルの1928年の録音については、詳しくは「ブルース・ピープル 1929年」をご覧ください。

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