そもそも「ファシズム」とはどういう意味で、どういうことなのでしょうか?『世界史の窓』によりますと、この用語は、イタリアのムッソリーニ(1883〜1945)の創設した「国家ファシスト党」から使われるようになったと言います。ムッソリーニはイタリアの政治家で、イタリア社会党に属していましたが、第一次世界大戦に従軍後同じ退役兵などを集めて「国家ファシスト党」を結党し統領となります。「ファシスト」の語源は古代ローマの「ファッショ」に由来するといわれます。「ファッショ」とは、古代ローマの執政官(コンスル)の権威を示す一種の指揮棒のようなもので、小枝(棒)を束ねたものです。それはそもそも「束ねる」という意味から、「人民を束ねる」⇒権力の象徴とされ、全体主義を意味する言葉として蘇ることになります。そこからファシスト(全体主義者、国家主義者)、ファシズム(その主張)という用語が派生したのです。
候補者名 | 獲得選挙人 | 得票数 | 得票率 |
ルーズヴェルト | 472 | 22,821,277 | 57.41% |
フーヴァー | 9 | 15,761,254 | 39.65% |
・緊急銀行救済法 |
・TVA(テネシー川流域開発公社)などによる公共事業 |
・CCC(民間資源保存局)による大規模雇用 |
・NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や最低賃金の確保 |
・AAA(農業調整法)による生産量の調整 |
・ワグナー法「全国労働関係法」による労働者の権利拡大 |
1932年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位 | アーティスト | 曲名 |
1 | フレッド・アステア&レオ・ライスマン(Fred Astaire & Leo Reisman) | 夜も昼も(Night & Day) |
2 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | おい兄弟、10セント貸してくれないか(Brother, Can You Spare a Dime?) |
3 | ルディ・ヴァリー・アンド・ヒズ・コネチカット・ヤンキーズ(Rudy Vallee & his Connecticut Yankees) | おい兄弟、10セント貸してくれないか(Brother, Can You Spare a Dime?) |
4 | ルイ・アームストロング(Louis Armstrong) | オール・オブ・ミー(All of Me) |
5 | ビング・クロスビー&ザ・ミルズ・ブラザーズ(The Mills brothers) | ダイナ(Dinah) |
6 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | プリーズ(Please) |
7 | テド・ルイス・アンド・ヒズ・オーケストラ(Ted Lewis & his Orchestra) | イン・ア・シャンティ・イン・オールド・シャンティ・タウン(In a Shanty in Old Shanty Town) |
8 | デューク・エリントン(Duke Ellington) | スイングしなけりゃ意味ないね(It don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing)) |
9 | ジョージ・オルセン(George Olsen) | 木の葉の子守歌(Lullaby of the Leaves) |
10 | ガイ・ロンバード(Guy Lombardo) | パラダイス(Paradise) |
年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、フレッド・アステア&レオ・ライスマンの「夜も昼も」です。コール・ポーターが1932年のミュージカル『陽気な離婚』のために作詞作曲し、現代でもよく歌われるスタンダード・ナンバー。これが初演です。フレッド・アステアは、タップ・ダンスの名手でトップハットに燕尾服、ホワイトタイというエレガントなスタイルで、当時最高の作詞家・作曲家たちの手になるナンバーを歌い踊るアステアは、不況下のアメリカの大衆を熱狂させました。翌1933年からジンジャー・ロジャースとのコンビは、映画史上最高のダンシング・ペアとされ、二人の一連の主演作は「アステア=ロジャース映画」と呼ばれて人気を博します。なお、レオ・ライスマンはヴァイオリン奏者兼ダンス・バンド・リーダーです。
2位と3位は同じ曲を異なるアーティストが吹き込む一種の「対決」ものです。さて、原題”Brother, Can You Spare a Dime?”を「おい兄弟、10セント貸してくれないか」と訳していますが、これは僕の訳ではありません。科の油井正一氏の訳です。氏は『生きているジャズ史』で次のように述べています。「この頃(不況が深刻な頃)、ビング・クロスビーがラジオ歌手としてデビューしましたが、一番ヒットした彼の唄が「おい兄弟、10セント貸してくれないか(Brother, Can You Spare a Dime ?)」であったとは、当時の不景気を反映して余りあるではありませんか」
油井氏の訳の調子は軽い感じがしますが、実際は実に重たい歌です。歌の主人公は周りから言われたことを信じ,そうすることで平和や栄光や繁栄が自分と自分の国のものになると考えて,懸命に働き戦地へと赴きますが,その後大恐慌に見舞われて仕事もなにもかも失い,施しの食事を求めて行列することになってしまいます。「大恐慌の国歌」とも言われるほど人口に膾炙したしたそうです。クロスビーもクルーナー・スタイルではなくダイナミックに劇場スタイルで歌っています。
第4位のルイ、第8位のデュークに関しては夫々の項で取り上げることにします。
ビング・クロスビーは、前年1931年ポール・ホワイトマンの楽団から独立、自分のラジオ・ショウを持ち、ベスト10に3曲もランクされるなど絶好調だった言っていいでしょう。第5位の「ダイナ」は1925年に作られた曲でこれまでも登場していますが、このクロスビー版が決定的ヒットになったようです。日本ではディック・ミネのデビュー曲として有名です。時代的には黒人コーラス・グループを従えてという形式をtらざるを得なかったのではないかと思われますが、ミルズ・ブラザーズもしっかりと存在感を発揮しています。
7位のテド・ルイスは1931年にも登場しましたが、ヴォードヴィル出身のクラリネット奏者兼バンド・リーダーで30年代初期ポール・ホワイトマンに次いで人気がったといわれる楽団です。第9位のジョージ・オルセンも30年代に人気があったバンドで、バーニス・ペトケレ(Bernice Petkere)がこの年1932年に作ったナンバーです。日本ではヴェンチャーズのものがヒットしました。第10位のガイ・ロンバードはこれまで何度も登場している「スイート・ミュージック」を得意とした楽団です。
右の中村とうよう氏監修の『アメリカン・ミュージックの原点』CD2枚組には、「ビリー・マレイとグレイト・ホワイト・ウェイ・オーケストラ(Billy Murray and the great white way orchestra)」の「はい、バナナは売り切れです(Yes ! We have no bananas)」1曲が収録されています。ギリシャ移民の果物屋を主人公にしたナンセンス・ソングとのことで、1928年エディ・カンターが大ヒットさせたものだそうです。年間ヒットチャートには登場しませんが、世界不況の真っただ中という暗い時代を反映した代表的な面白ソングだそうです。
また代表的な白人オーケストラの一つポール・ホワイトマンの録音も持っていませんが、ペンシルヴァニアンズの演奏は2曲持っています。2曲ともヴォーカル・ナンバーです。詳しくは「ペンシルヴァニアンズ 1932年」をご覧ください。
では本題の1932年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年はさらに録音数が減少しているように感じます。
まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。1932年もバンドはメンバーの移動も少なく好調だったようです。
時代を反映してか3月には「コニーズ・イン」名義でヴォーカル入りのナンバーを録音していますが、12月に行われた吹込みは素晴らしいパフォーマンスを披露しています。特にこの年になるとソロイストの中心は完全にコールマン・ホーキンスが担っています。詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1932年」をご覧ください。
前年1931年は前年に比べると録音数が減ったのですが、1932年になるとさらにかなり数が減ってきます。と言っても33曲のレコーディングがあるのでその多さは特筆ものですが。
まず目を惹くのは前年加入したデュークが最も気に入っていたといわれる歌手アイヴィー・アンダーソン(写真右)が初めてレコードに登場します。歌ったナンバーは代表曲の一つ「スイングしなけりゃ意味ないね」(It don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing)です。この曲は先にも触れたように年間ヒットチャートの8位にランクされるヒットとなります。しかし不思議なのはこの年彼女の吹込みはこの曲だけなのです。どういった事情があったのでしょう?
前年ジャズ史上多分初めて組曲の録音を行ったエリントンですが、この年も多分ジャズ史上初めてと思われることを行います。メドレーの録音です。今ではある程度歴史のあるバンドが自身のヒット曲をメドレーでプレイするなど珍しいことではないですが、当時としては珍しいというか<初>で試みだったのではないでしょうか?
またこの年は人気絶頂の歌手ビング・クロスビーやエセル・ウォーターズなどとも共演吹込みを行っています。詳細については、「デューク・エリントン 1932年」をご覧ください。
この年シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーン、アール・ハインズそしてエディ・コンドンなどシカゴアン達も録音は見当たりません。
カンサス・シティ・ジャズ・バンドの雄、ベニー・モーテン楽団は1931年の冬、バンドのレパートリーを充実するために、当時最高のアレンジャーと歌われたベニー・カーターとホレス・ヘンダーソンから多数のアレンジメントを購入しました。さらに31年の末に大幅なメンバー・チェンジも実行します。これがモーテンの生き残り戦術だったのかもしれませんが、結果的にはバンドの力量が充実することとなります。
加えてそれまでの2ビート・スタイルを4ビート・スタイルに変更し、全体のサウンドをよりモダンな路線に改良しました。瀬川昌久氏によれば、これは一般大衆にとっては高踏的に映り、取っつきにくいという印象を与えてしまったというのです。その結果1932年5月に開かれた恒例のカンサス・シティ・ミュージシャンの舞踏会で、バンドを辞めたタモン・ヘイズ率いるカンサス・シティ・ロケッツとのバンド合戦で惨敗を喫してしまいます。こういった傾向は東部でも同様だったらしく、東部への遠征は財政的に大失敗で、素寒貧で腹を空かせてヴィクターのスタジオのあるキャムデンに到着したといいます。
このような全く士気は上がらない状況で、1932年12月にヴィクターへの最後の吹き込みが行われます。瀬川氏は「皮肉なことに、バンドの士気は上がっていなかったにも拘らず、レコーディングの結果はモーテン・バンド史上最高の出来であったのである」と解き、ガンサー・シュラー氏は『このバンド史上最高の出来』などというチンケなものではなく、ジャズ史上に残る重要な録音になったというのです。
なぜこの録音がそれほど重要なのでしょうか。それはシュラー氏曰く「オーケストラ的ジャズにおいて、ヘンダーソンや東部のバンドとは別個な着想を初めて提示した。これは、スイング時代に特有なスタイル上の冒険を飛び越して、モダン・ジャズやバップに至る歩みの、少なくとも一つを提供したのである」と。さらにシュラー氏は、「この日の録音に横溢する奔放な精神と楽しい気分を聴くと彼らの切迫した状況はとても想像できない。バンドは霊感に満ちた抑制を利かせてスイングするし、アンサンブルとソロの構造的な均衡が抜群で、セクション奏の時折の乱れも全体に漲る力強い抒情を損なうものではない」と述べています。また両氏とも触れていませんが、テナー・サックスの巨匠となるベン・ウエブスターの初吹込みではないかと思われる録音でもあります。詳しくは「ベニー・モーテン 1932年」をご覧ください。
まずこの年常連のジェリー・ロール・モートン、「ストライド・ピアノの父」ジェイムズ・P・ジョンソン、ファッツ・ウォーラー達の録音は見当たりません。全くなかったとも思えませんが、吹込み数が激減したことは確かだと思われます。
この年は白人ジャズマンたちにとっても受難の年だったようです。老舗レッド・ニコルスの「ファイヴ・ぺニーズ」は僕がもともとレコードを集める気がないのでないのは当然として、ジャック・ティーガーデン、トミー・ドーシー、昨年登場したばかりのバニー・ベリガンそしてなんとベニー・グッドマンですら録音が見当たらないのです。BG達はどこか白人スイート・バンドに客演していたかもしれませんが、この時代が苦しかったことは間違いないようです。BGは後に盟友グレン・ミラーとハンバーガー1個を分け合って食べたというエピソードを語っています。
油井正一氏によれば、この年「ブルースの皇后」ベッシー・スミスには録音がありません。
さらにブギー・ウギーの録音も見当たりません。僕が持っているレコード、CDにもこの年1932年の録音は含まれていません。僕の持っているブルースのこの年の録音は、ロニー・ジョンソンとブラインド・ブレイクの2人だけです。そしてこの二人についてはこれ以降の録音は持っていません。
詳しくは「ロニー・ジョンソン 1931年」をご覧ください。
詳しくは「ブラインド・ブレイク 1932年」をご覧ください。