僕の作ったジャズ・ヒストリー 17 … 初期のジャズ 10 1932年

世界の情勢

ファシズムの拡大
ムッソリーニ

そもそも「ファシズム」とはどういう意味で、どういうことなのでしょうか?『世界史の窓』によりますと、この用語は、イタリアのムッソリーニ(1883〜1945)の創設した「国家ファシスト党」から使われるようになったと言います。ムッソリーニはイタリアの政治家で、イタリア社会党に属していましたが、第一次世界大戦に従軍後同じ退役兵などを集めて「国家ファシスト党」を結党し統領となります。「ファシスト」の語源は古代ローマの「ファッショ」に由来するといわれます。「ファッショ」とは、古代ローマの執政官(コンスル)の権威を示す一種の指揮棒のようなもので、小枝(棒)を束ねたものです。それはそもそも「束ねる」という意味から、「人民を束ねる」⇒権力の象徴とされ、全体主義を意味する言葉として蘇ることになります。そこからファシスト(全体主義者、国家主義者)、ファシズム(その主張)という用語が派生したのです。

イタリア
ムッソリーニは1921年の総選挙で当選していましたが、そもそも議会政治に頼る気はなく、早期に権力掌握を目指し、黒シャツ隊と呼ばれる私兵組織による直接行動を行います。そして1922年国家ファシスト党と人民党自由党、社会民主党の連立による第一次ムッソリーニ政権が成立させますが、1924年「独裁」を宣言し、結社規制法、定期刊行規制法、政府による公務員免職法など次々と可決させ、統制的な社会体制を作り上げていくのです。
そして1932年10月28日、ローマ進軍十周年を記念して国内のモダニズム芸術家による協力の下にファシスト革命記念展が盛大に開催するのです。このように一党制による独裁制に牽引される全体主義は必然的に指導者(ムッソリーニ)への個人崇拝を生み出していきます。政府宣伝を通じて独裁者ムッソリーニは国家・民族の英雄として神格化され、神話とも言うべきプロパガンダが展開されていきます。
ドイツ
一方ドイツでは、ナチ党を率いるヒトラーが1932年2月大統領選挙にします。結果はヒンデンブルク(1865万1497票 得票率49.6%)に敗れますが、1341万8517票(得票率 30.2%)を獲得し次点となります。 さらに続く7月の国会議員選挙では、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が第一党(37.8%得票率)になり、ヒトラー独裁の地盤が着々と固められつつありました。
日本
1932年は日本では昭和7年に当たります。前年1931年満州事変が勃発したことをきっかけに、関東軍は満州全土を占領、1932年3月1日中華民国からの独立を宣言させ、愛新覚羅溥儀を皇帝に押し立て、「満州国」を建国します。
鉄道を調査する調査団 そして5月には「5・15事件」が勃発します。当時の内閣総理大臣、立憲政友会の犬養毅を東京・麹町にある首相官邸を襲撃し、暗殺した事件です。日本でも大正時代に議会制民主主義が根付き始めた(大正デモクラシー)と言われますが、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加、農村は相次ぐ自然災害で貧困に喘ぎ疲弊する中、それらの問題に政党政治は対処できず敵視されるようになっていました。この国家革新を求める者の中には過激化し、時の首相を暗殺しようとする動き(濱口首相遭難事件)が起こったり、昭和維新を標榜し、政党と財閥を倒し軍事政権の樹立を目指す陸軍将校らによるクーデター未遂事件(三月事件、十月事件)も相次ぐなど世情は緊迫していたのです。発端は1930年に締結された「ロンドン軍縮条約」の締結にあったといわれます。この条約の締結に不満を持つ一部将校たちによる蛮行でした。
実はこの時日本には喜劇王、チャールズ・チャップリンが来日していました。事件の前日5月14日に神戸につき熱烈な歓迎を受けたと伝えられます。そしてこの5月15日は首相の犬養と会食の予定だったのです。それをチャップリン側の事情で予定が延期され、犬養は首相官邸で寛いでいたと言われます。一方チャップリンはこの日に移動したのでしょう、5月15日は帝国ホテルに滞在し、犬養の息子、健と会食していたといいます。どういう事情で首相との会食をキャンセルし、その息子と会食することになったかは分かりませんが、5月19日官邸の大ホールで行われた葬儀(写真右))に、チャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」という弔電を送り、参列者を驚かせたと伝えられます。
また前年9月に発生した柳条湖事件に関して中華民国は、国際連盟に日本の謀略ではないかと調査を求めます。これに応じて1932年3月国際連盟はリットン卿を団長とする調査団を派遣します。調査団は日本、満州国、中華民国の各地を調査、10月に報告書を提出するのです。この報告書はこの事件を、満州国が隣国日本に侵略されたという単純な事件ではないことを指摘し、日本・中華民国間の紛争解決のための提言を行っています。イギリス、フランスなどの連盟各国は、「和解の礎が築かれた」と期待しますが、その後も日本の中国侵略は留まることはありませんでした。

ソ連

スターリン 世界教の影響を免れた国があります。ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)です。ロシア革命後国内は大いに乱れますが、最終的にはレーニンが主導するロシア共産党が政権を奪取します。1924年絶対的指導者レーニンが死去すると、スターリン(「鋼鉄の男」という意味のあだ名。本名はヨシフ=ヴィサリオノヴィチ=ジュガシヴィリ)とトロツキーの間で後継者争いが起こります。激しい闘争の末勝利したのは、スターリンであったことはご承知の通りです。そして1929年までにはスターリン独裁体制を築き上げます。
スターリンは、すでに社会主義国家の建設を目指し、1928年10月に第1次五カ年計画を決定し、工業の重工業化と翌1929年からコルホーズ・ソフホーズによる農業集団化を推し進めていきます。つづく第2次五カ年計画も含めた10年間を通して、スターリン体制のもとでの社会主義国家建設が続いていきます。しかし急速な工業化と農村の集団化に批判的な政治的対立者は次々と排除され、独裁体制の政治手法に批判的な人々も厳しく処罰されて投獄されたり、シベリア送りにされました。そして最終的には数多くの人々が抹殺されるのです。正確な数値は分かっていませんが、1990年秘密警察KGB長官は、1930〜53年の間に380万人を拘留し、78万6千人が死刑判決を受けたと証言しています。これでも大変な数字ですが、そんなものではなかったという研究結果も発表されているようです。1930年代に行われたこれらスターリンの弾圧は『大粛清』と呼ばれています。
スターリンは、ドイツ、イタリアにファシズムが台頭すると、1935年に開かれたコミンテルン(共産主義運動の国際会議)第7回大会で方針を「反ファシズム統一戦線」を提唱しますが、自らが行っていることこそ典型的な「ファシズム」でした。

アメリカ

フランクリン・ルーズヴェルト 1929年の10月の株価大暴落に端を発した不況の波は、この年最悪の状態に陥ったといわれます。現職の大統領、共和党のハーバート・フーヴァーも色々施策を打ち出しますが、経済の再生には至りませんでした。そんな中で1932年11月大統領選が行われるのです。民主党のフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)は、「ニューディール政策」と呼ばれる改革を公約して選挙を戦い、二期目を目指した共和党のフーヴァーに大差をつけて勝利するのです。
候補者名獲得選挙人得票数得票率
ルーズヴェルト47222,821,27757.41%
フーヴァー915,761,25439.65%
テネシー河のダム ではルーズヴェルトが提唱した「ニューディール政策」とは、どういう政策でしょうか?それはそれまでアメリカの歴代政権は、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる古典的な自由主義的経済政策 を取ってきましたが、これを転換し政府が市場経済に積極的に関与する国家資本主義的政策のことです。ルーズベルトは1933年3月4日に大統領に就任すると、よく日曜日からただちに大胆な金融緩和を行います。さらに議会に働きかけて、矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策を審議させ、最初の100日間でこれらを制定させるのです。
・緊急銀行救済法
・TVA(テネシー川流域開発公社)などによる公共事業
・CCC(民間資源保存局)による大規模雇用
・NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や最低賃金の確保
・AAA(農業調整法)による生産量の調整
・ワグナー法「全国労働関係法」による労働者の権利拡大
『暗黒街の顔役』映画ポスター このようにアメリカは国を挙げて大不況克服に向けて舵を切ります。前年シカゴでは大ボス、アル・カポネが逮捕され、8月22日カリフォルニア州のアルカトラス刑務所へ収監されます。ニューヨークではルチアーノが前年の1931年に犯罪シンジケートのトップの座に付こうとしている段階であり、カンサス・シティでも禁酒法下トム・ペンダーガストが権力を維持していました。
このような不況の中、フーヴァー大統領時代の7月30日から8月14日ロス・アンゼルスで第10回夏のオリンピックが開催されます。世界中が不況の中開催地として立候補したのはこのロスアンゼルスだけだったそうで、無競争で開催地が決まったそうです。参加国数は37国で全第9回オリンピックの半分だったそうです。この大会には日本も参加し金メダル7個を含む合計メダル獲得数は18で参加国数第5位でした。
この年映画界では、チャップリンの『街の灯』が大ヒット中でしたが、アメリカの世相を反映してかギャング物がヒットしていたと言います。その代表的な作品が『暗黒街の顔役』です。主演はポール・ムニ、オールド・ファンには懐かしい名前ですね。

ポピュラー・ミュージック

1932年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
フレッド・アステア
順位アーティスト曲名
フレッド・アステア&レオ・ライスマン(Fred Astaire & Leo Reisman)夜も昼も(Night & Day)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)おい兄弟、10セント貸してくれないか(Brother, Can You Spare a Dime?)
ルディ・ヴァリー・アンド・ヒズ・コネチカット・ヤンキーズ(Rudy Vallee & his Connecticut Yankees)おい兄弟、10セント貸してくれないか(Brother, Can You Spare a Dime?)
ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)オール・オブ・ミー(All of Me)
ビング・クロスビー&ザ・ミルズ・ブラザーズ(The Mills brothers)ダイナ(Dinah)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)プリーズ(Please)
テド・ルイス・アンド・ヒズ・オーケストラ(Ted Lewis & his Orchestra)イン・ア・シャンティ・イン・オールド・シャンティ・タウン(In a Shanty in Old Shanty Town)
デューク・エリントン(Duke Ellington)スイングしなけりゃ意味ないね(It don't Mean a Thing (If It Ain't Got That Swing))
ジョージ・オルセン(George Olsen)木の葉の子守歌(Lullaby of the Leaves)
10ガイ・ロンバード(Guy Lombardo)パラダイス(Paradise)
「アメリカン・ミュージックの原点」

年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、フレッド・アステア&レオ・ライスマンの「夜も昼も」です。コール・ポーターが1932年のミュージカル『陽気な離婚』のために作詞作曲し、現代でもよく歌われるスタンダード・ナンバー。これが初演です。フレッド・アステアは、タップ・ダンスの名手でトップハットに燕尾服、ホワイトタイというエレガントなスタイルで、当時最高の作詞家・作曲家たちの手になるナンバーを歌い踊るアステアは、不況下のアメリカの大衆を熱狂させました。翌1933年からジンジャー・ロジャースとのコンビは、映画史上最高のダンシング・ペアとされ、二人の一連の主演作は「アステア=ロジャース映画」と呼ばれて人気を博します。なお、レオ・ライスマンはヴァイオリン奏者兼ダンス・バンド・リーダーです。
2位と3位は同じ曲を異なるアーティストが吹き込む一種の「対決」ものです。さて、原題”Brother, Can You Spare a Dime?”を「おい兄弟、10セント貸してくれないか」と訳していますが、これは僕の訳ではありません。科の油井正一氏の訳です。氏は『生きているジャズ史』で次のように述べています。「この頃(不況が深刻な頃)、ビング・クロスビーがラジオ歌手としてデビューしましたが、一番ヒットした彼の唄が「おい兄弟、10セント貸してくれないか(Brother, Can You Spare a Dime ?)」であったとは、当時の不景気を反映して余りあるではありませんか」
油井氏の訳の調子は軽い感じがしますが、実際は実に重たい歌です。歌の主人公は周りから言われたことを信じ,そうすることで平和や栄光や繁栄が自分と自分の国のものになると考えて,懸命に働き戦地へと赴きますが,その後大恐慌に見舞われて仕事もなにもかも失い,施しの食事を求めて行列することになってしまいます。「大恐慌の国歌」とも言われるほど人口に膾炙したしたそうです。クロスビーもクルーナー・スタイルではなくダイナミックに劇場スタイルで歌っています。
第4位のルイ、第8位のデュークに関しては夫々の項で取り上げることにします。
ビング・クロスビーは、前年1931年ポール・ホワイトマンの楽団から独立、自分のラジオ・ショウを持ち、ベスト10に3曲もランクされるなど絶好調だった言っていいでしょう。第5位の「ダイナ」は1925年に作られた曲でこれまでも登場していますが、このクロスビー版が決定的ヒットになったようです。日本ではディック・ミネのデビュー曲として有名です。時代的には黒人コーラス・グループを従えてという形式をtらざるを得なかったのではないかと思われますが、ミルズ・ブラザーズもしっかりと存在感を発揮しています。
7位のテド・ルイスは1931年にも登場しましたが、ヴォードヴィル出身のクラリネット奏者兼バンド・リーダーで30年代初期ポール・ホワイトマンに次いで人気がったといわれる楽団です。第9位のジョージ・オルセンも30年代に人気があったバンドで、バーニス・ペトケレ(Bernice Petkere)がこの年1932年に作ったナンバーです。日本ではヴェンチャーズのものがヒットしました。第10位のガイ・ロンバードはこれまで何度も登場している「スイート・ミュージック」を得意とした楽団です。
右の中村とうよう氏監修の『アメリカン・ミュージックの原点』CD2枚組には、「ビリー・マレイとグレイト・ホワイト・ウェイ・オーケストラ(Billy Murray and the great white way orchestra)」の「はい、バナナは売り切れです(Yes ! We have no bananas)」1曲が収録されています。ギリシャ移民の果物屋を主人公にしたナンセンス・ソングとのことで、1928年エディ・カンターが大ヒットさせたものだそうです。年間ヒットチャートには登場しませんが、世界不況の真っただ中という暗い時代を反映した代表的な面白ソングだそうです。
また代表的な白人オーケストラの一つポール・ホワイトマンの録音も持っていませんが、ペンシルヴァニアンズの演奏は2曲持っています。2曲ともヴォーカル・ナンバーです。詳しくは「ペンシルヴァニアンズ 1932年」をご覧ください。

フレッチャー・ヘンダーソン

ジャズの動き … 1932年

では本題の1932年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年はさらに録音数が減少しているように感じます。

ニュー・ヨーク・シーン

フレッチャー・ヘンダーソン

まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。1932年もバンドはメンバーの移動も少なく好調だったようです。
時代を反映してか3月には「コニーズ・イン」名義でヴォーカル入りのナンバーを録音していますが、12月に行われた吹込みは素晴らしいパフォーマンスを披露しています。特にこの年になるとソロイストの中心は完全にコールマン・ホーキンスが担っています。詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1932年」をご覧ください。

アイヴィー・アンダーソン

デューク・エリントン

前年1931年は前年に比べると録音数が減ったのですが、1932年になるとさらにかなり数が減ってきます。と言っても33曲のレコーディングがあるのでその多さは特筆ものですが。
まず目を惹くのは前年加入したデュークが最も気に入っていたといわれる歌手アイヴィー・アンダーソン(写真右)が初めてレコードに登場します。歌ったナンバーは代表曲の一つ「スイングしなけりゃ意味ないね」(It don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing)です。この曲は先にも触れたように年間ヒットチャートの8位にランクされるヒットとなります。しかし不思議なのはこの年彼女の吹込みはこの曲だけなのです。どういった事情があったのでしょう?
前年ジャズ史上多分初めて組曲の録音を行ったエリントンですが、この年も多分ジャズ史上初めてと思われることを行います。メドレーの録音です。今ではある程度歴史のあるバンドが自身のヒット曲をメドレーでプレイするなど珍しいことではないですが、当時としては珍しいというか<初>で試みだったのではないでしょうか?
またこの年は人気絶頂の歌手ビング・クロスビーやエセル・ウォーターズなどとも共演吹込みを行っています。詳細については、「デューク・エリントン 1932年」をご覧ください。

その他のニュー・ヨーク・シーン

キャブ・キャロウェイ デュークに次いで録音数が多いのは、前年に自己のバンドを立ち上げたドン・レッドマンです。ただしこの年のレッドマンはバンド維持のためかポップ調の録音が多く、ジャズ的に興味を惹かれる録音は多くありません。また僕はおかまのお誘いのようなレッドマンのヴォーカルが好きになれません。詳しくは「ドン・レッドマン 1932年」ご覧ください。
またこちらもジャズ度100%というわけではないですが、キャブ・キャロウェイもレコーディングを行っています。僕が持っているのは6曲のみで、これが彼の1932年の録音のすべてかどうかわかりませんが。やはり<コットン・クラブ>強しという印象です。「キャブ・キャロウェイ 1932年」ご覧ください。
また前年取り上げたチック・ウエッブ、マッキニーズ・コットン・ピッカーズ、ジミー・ランスフォードなどの録音は見当たりません。

ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロング・クロノジカルCD ルイ・アームストロングはこの年の初めもシカゴにいて録音を行っています。しかしこの年の3月に行った録音が長年続いたオーケー・レコードとの契約が終了するのです。その後ルイは4月に再びカリフォルニアに向かい、ニュー・セバスチャン・コットン・クラブに出演し、シカゴを経てしばらくぶりでニューヨークに戻ります。そしてその直後の7月から11月まで英国巡演を果たしますが、これが彼の初渡欧です。その渡英中にイギリスの音楽誌「メロディー・メーカー」の編集長から“サッチモ”(サッチェルマウス=がま口の略)というニックネームを貰い、その後その愛称が使われるようになるのです。ここから彼のことを<サッチモ>と呼んでいいことになりますね。
そして帰国後12月にサッチモは大手レコード会社ヴィクターと契約するのです。ディスコグラフィーを見ると、ヴィクターへの初吹込みは1932年12月8日に4面分が行われたのが最初のようですが、それが収録された音源は持っていません。2回目の録音は12月21日に「メドレー・オブ・アームストロング・ヒッツ」のパート1とパート2が行われます。自身のヒット曲のメドレー化はデュークと同じですね。詳しくは「ルイ・アームストロング 1932年」をご覧ください。

シカゴ・シーン

この年シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーン、アール・ハインズそしてエディ・コンドンなどシカゴアン達も録音は見当たりません。

カンサス・シティ・シーン … ベニー・モーテン

モーテン楽団時代のベイシー

カンサス・シティ・ジャズ・バンドの雄、ベニー・モーテン楽団は1931年の冬、バンドのレパートリーを充実するために、当時最高のアレンジャーと歌われたベニー・カーターとホレス・ヘンダーソンから多数のアレンジメントを購入しました。さらに31年の末に大幅なメンバー・チェンジも実行します。これがモーテンの生き残り戦術だったのかもしれませんが、結果的にはバンドの力量が充実することとなります。
加えてそれまでの2ビート・スタイルを4ビート・スタイルに変更し、全体のサウンドをよりモダンな路線に改良しました。瀬川昌久氏によれば、これは一般大衆にとっては高踏的に映り、取っつきにくいという印象を与えてしまったというのです。その結果1932年5月に開かれた恒例のカンサス・シティ・ミュージシャンの舞踏会で、バンドを辞めたタモン・ヘイズ率いるカンサス・シティ・ロケッツとのバンド合戦で惨敗を喫してしまいます。こういった傾向は東部でも同様だったらしく、東部への遠征は財政的に大失敗で、素寒貧で腹を空かせてヴィクターのスタジオのあるキャムデンに到着したといいます。
このような全く士気は上がらない状況で、1932年12月にヴィクターへの最後の吹き込みが行われます。瀬川氏は「皮肉なことに、バンドの士気は上がっていなかったにも拘らず、レコーディングの結果はモーテン・バンド史上最高の出来であったのである」と解き、ガンサー・シュラー氏は『このバンド史上最高の出来』などというチンケなものではなく、ジャズ史上に残る重要な録音になったというのです。
なぜこの録音がそれほど重要なのでしょうか。それはシュラー氏曰く「オーケストラ的ジャズにおいて、ヘンダーソンや東部のバンドとは別個な着想を初めて提示した。これは、スイング時代に特有なスタイル上の冒険を飛び越して、モダン・ジャズやバップに至る歩みの、少なくとも一つを提供したのである」と。さらにシュラー氏は、「この日の録音に横溢する奔放な精神と楽しい気分を聴くと彼らの切迫した状況はとても想像できない。バンドは霊感に満ちた抑制を利かせてスイングするし、アンサンブルとソロの構造的な均衡が抜群で、セクション奏の時折の乱れも全体に漲る力強い抒情を損なうものではない」と述べています。また両氏とも触れていませんが、テナー・サックスの巨匠となるベン・ウエブスターの初吹込みではないかと思われる録音でもあります。詳しくは「ベニー・モーテン 1932年」をご覧ください。

ピアノ・シーン

まずこの年常連のジェリー・ロール・モートン、「ストライド・ピアノの父」ジェイムズ・P・ジョンソン、ファッツ・ウォーラー達の録音は見当たりません。全くなかったとも思えませんが、吹込み数が激減したことは確かだと思われます。

白人ジャズマン

グレン・グレイとカサ・ロマ・オーケストラ

この年は白人ジャズマンたちにとっても受難の年だったようです。老舗レッド・ニコルスの「ファイヴ・ぺニーズ」は僕がもともとレコードを集める気がないのでないのは当然として、ジャック・ティーガーデン、トミー・ドーシー、昨年登場したばかりのバニー・ベリガンそしてなんとベニー・グッドマンですら録音が見当たらないのです。BG達はどこか白人スイート・バンドに客演していたかもしれませんが、この時代が苦しかったことは間違いないようです。BGは後に盟友グレン・ミラーとハンバーガー1個を分け合って食べたというエピソードを語っています。

カサ・ロマ・オーケストラ

僕はカサ・ロマ・オーケストラのこの年の録音を8曲ほど持っていますが、ジーン・ギフォードが本領を発揮したと思しき精緻なアレンジが施された聴き応えのあるナンバーは2曲程度で、後は他の白人ダンス・バンドと変わらないハッピー・サウンドが繰り広げられることは残念と言わざるを得ません。詳しくは「カサ・ロマ・オーケストラ 1932年」、をご参照ください。

ブルース・イメージ

ブルース

油井正一氏によれば、この年「ブルースの皇后」ベッシー・スミスには録音がありません。
さらにブギー・ウギーの録音も見当たりません。僕が持っているレコード、CDにもこの年1932年の録音は含まれていません。僕の持っているブルースのこの年の録音は、ロニー・ジョンソンとブラインド・ブレイクの2人だけです。そしてこの二人についてはこれ以降の録音は持っていません。
詳しくは「ロニー・ジョンソン 1931年」をご覧ください。
詳しくは「ブラインド・ブレイク 1932年」をご覧ください。

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