僕の作ったジャズ・ヒストリー 18 … 初期のジャズ 11 1933年

世界の情勢

ファシズムの拡大

アドルフ・ヒトラー
イタリア

1932年10月28日、ローマ進軍十周年を記念してファシスト革命記念展が盛大に開催され、翌1933年の記念日には首都ローマにヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂からコロッセウムまでを繋げた大通りである皇帝街道を開通させます。独裁制と一党制によって牽引される全体主義は必然的に指導者への個人崇拝を生み出していきます。政府宣伝を通じて独裁者ムッソリーニは国家・民族の英雄として神格化され、神話とも言うべきプロパガンダが展開されていました。

ドイツ
1933年1月ヒトラーはドイツの首相に就任し、ナチ党政権獲得します。第一次世界大戦の敗戦国であったドイツは1926年に国際連盟加入を認められていました。国際連盟は加盟国に最低限まで軍備を縮小することを求めていましたが、そもそも大国アメリカは連名に加入しておらず、連合国側には「最低限まで軍備を縮小」という曖昧な表現にとどまる一方、ドイツには「陸軍は兵力10万人以内、海軍は1万6500人が上限、空軍は全面禁止」と決められていました。
このようなヴェルサイユ体制の下、ナチ党を率いるヒトラーは、領土を削減され、植民地の放棄、軍備の制限、過重な賠償金を押しつけられたとして、その打破を国民に訴えていました。そして1932年から始まったジュネーヴ軍縮会議に出席したドイツはこのような不平等な軍縮体制に反発し、1933年10月国際連盟脱退します。実際には国内で密かに軍備拡充を進めていましたが、これ以降ドイツは大々的に軍拡への道に突き進んでいくことになります。
日本 昭和8年
3月、リットン調査団の報告に基づき、国際連盟が満州事変を侵略と認定し、日本軍の満州からの撤退を決議します。これに従う気のない日本は、国際連盟を脱退するのです。そしてさらに日本陸軍は中国進出をさらに活発化させていくのです。

アメリカ

フランクリン・ルーズヴェルト 1932年に行われた大統領選挙に勝利したフランクリン・ルーズヴェルトが3月、第32代大統領として就任します。そして公約として掲げた「ニューディール政策」と呼ばれる改革を次々と実行に移していきます。「ニュー・ディール政策」主に産業分野での改革が注目されますが、そればかりではありません。産業面での柱については前回触れましたので、今回はそれ以外の面を見ていきましょう。
NIRA(全国産業復興法)による労働時間の短縮や最低賃金の確保の一環として行われた「フェデラル・ワン」(正式名称:連邦プロジェクト・ナンバー・ワン)による芸術家支援計画です。大恐慌のため1929年から1933年の間に、絵画に支払われる価格が3分の2に下落し、雑誌が収入減のためグラフィック・アーティストが解雇され1万人のアーティストが失業しました。またブロードウェイのプロダクションの数が大幅に減少し、雇用されていた俳優の数が半減、劇場労働者も同様に大きな打撃を受けました。出版、新聞の売り上げが大幅に下がると、多くのジャーナリストや広告クリエイター達の雇用が打ち切られ、またムーヴィー映画の登場で、すでに雇用の安定が損なわれていたミュージシャンは、ホテルがバンドをキャンセルし、交響楽団が解散し、音楽レッスンを受ける生徒が少なくなるなど大きな打撃を受けていました。1933年においてアメリカ音楽家連盟の会員の3分の2が失業していたのです。この具体的な動きは1934年以降のことになりますので、次回以降改めてみていきたいと思います。
禁酒法の解除
この年は1919年から続いていた「禁酒法」が解除されます。そもそも禁酒法が施行されるまで、マフィアなどギャングたちの主な収入源は賭博と窃盗でした。しかし1919年に禁酒法が施行されると、モグリで酒を飲ませるスピーク・イージーが全国で繁盛し、これがギャングたちの大きな収入源となっていたのです。禁酒法の影響はそれだけではなく、それまで5億ドルもあった酒税がなくなり、財政的にも大きな負担となっていたのです。しかしその禁酒法が廃止されることによって、ギャングたちは安い酒販売競争に敗れ、力を失っていきます。
ロング・ビーチ大地震
ロングビーチ大地震
不況と闘うと宣言して3月4日に第32代大統領として就任したルーズヴェルトですが、そこに大きく水を差すような事態がその6日後カリフォルニアで発生します。「ロングビーチ大地震」です。これまでもカリフォルニア州南部のロス・アンゼルス盆地では、1920年のイングルウッド地震、29年のウィッティア地震、30年のサンタモニカ地震と度々大きな地震が発生していましたが、その最大のものが1933年に発生した「ロング・ビーチ大地震」です。
この地震では、マグニチュード6.4を記録し、死者120人に上りました。消防署さえも崩壊し、道路は瓦礫の山で通行不能となり、学校は壊滅し都市機能は完全に壊滅しまし、被害総額は5000万ドル(約52億円)に上りました。その後の研究によって、この地震は石油の掘削が原因ではないかといわれていますが、当時はまさか石油の掘削と地震に何らかの関係があると想像する人はいなかったと思われます。
この地震のことはチャールズ・ミンガスがその自伝『負け犬の下で』に書いています。当時10歳だったミンガスは、「小学校の塀が崩れ、校舎が使えなくなった。チェロを抱えて小学校まで、曲がりくねったサンペドロ線路沿いに歩いていくことになった」と書いている。
大衆芸能・スポーツ
野球
1929年頃始まった大恐慌の影響を受けて、野球の人気は下降し始めます。野球の観戦チケットには10%の娯楽税が課せられ、観客動員は減少します。1932年までに利益を上げたMLBチームは2チームだけとなってしまいます。オーナーは契約選手を25人から23人に減らし、最優秀選手でさえも賃金を引き下げざるを得ませんでした。MLBは生き残りをかけて、ナイト・ゲームの実施、ラジオでのライブ中継、女性の無料入場などの改革を行い、さらに1933年には史上初めてオールスター・ゲームを開催するなど様々な企画を実施しますが、大恐慌の前には歯が立ちませんでした。
映画「キング・コング」の1シーン 映画
この年製作・上映され大ヒットした映画作品としては「キング・コング」が挙げられます。この作品は何といっても主役が人間ではなく、「キング・コング」といういわゆる怪獣です。怪獣ではありませんが、いわゆる「化け物」を扱った映画としては、これ以前には「吸血鬼ノスフェラトゥ」(ドイツ:1922年)、「魔人ドラキュラ」(アメリカ:1931年)、「フランケンシュタイン」(1931年:アメリカ)などがありましたが、それらはどちらかというとホラー映画であり、ほぼ人間大の大きさなので、人間がメイクをして演じられるものでした。ところがこの主役「キング・コング」は、身長15メートルを越すという大物です。撮影は、ストップ・モ−ション・アニメーションなどの特撮技術が用いられ、その怪獣が人間文明の象徴である高層ビルの屋上で、これまた最新兵器飛行機と戦うという映像は人々を驚かせずにはおきませんでした。
「キング・コング」は「ミッキー・マウス」と共にアメリカ映画生み出した最も有名なキャラクターとなります。
因みにわれらがチャーリー・チャップリンは、前年末から次作「モダン・タイムス」のシナリオ作りに着手していたそうです。
ポピュラー・ミュージック 1933年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
エセル・ウォーターズ
順位アーティスト曲名
エセル・ウォーターズ(Ethel Waters)ストーミー・ウェザー(Stormy Weather)
デューク・エリントン(Duke Ellington)ソフィスティケイティド・レディ(Sophiscated lady)
ディック・パウエル(Dick Powell)ゴールド・ディガーズ・ソング(Gold digger's song)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)シャドウ・ワルツ(Shadow waltz)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)ユーアー・ゲッティング・トゥ・ビー・ア・ハビット(You're getting to be a habit)
ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)ラヴァー(Lover)
エディ・デューチン(Eddie Duchin)ディド・ユー・エヴァー・シー・ア・ドリーム・ウォーキング?(Did you see a dream walking ?)
レイ・ノーブル(Ray Noble)ラヴ・イズ・ザ・スイーテスト・シング(Love is the sweetest thing)
ジョージ・オルセン(George Olsen)ザ・ラスト・ラウンドアップ(The last round-up)
10ガイ・ロンバード(Guy Lombardo)ザ・ラスト・ラウンドアップ(The last round-up)

年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、エセル・ウォーターズ(Ethel Waters)の「ストーミー・ウェザー」です。この曲についてはデューク・エリントンが詳しく語っています。それによれば、この曲はテッド・ケーラー作詞ハロルド・アーレン作曲でエセル・ウォーターズのために作った曲です。エセルが4週間に渡ってエリントンのバンドに加わってコットン・クラブに出演した時に歌っていたそうです。そしてエセルはこの曲をストリングス入りのオーケストラをバックに吹き込み大ヒットさせます。因みにエリントンはこの年1933年にイギリス公演の際アイヴィー・アンダーソンに歌わせるのですが、これは感動の嵐を巻き起こしたと自伝に書いています。しかしエリントンはこの年5月に演奏のみでレコーディングを行っています。エセルとも1932年に吹き込みを行っているエリントンは、この曲でエセルにアイヴィー・アンダーソンでぶつかることは避けたのでしょう。
そのエリントンは自作の名曲「ソフィスティケイティド・レディ」を第2位にランク・インさせています。第3位のディック・パウエルはミュージカル出身の白人男性シンガーで30年代から60年代にかけて幅広く活躍しました。第4、5位にはビング・クロスビーが入っています。まさに人気絶頂です。
第6位には久々にポール・ホワイトマンがランク・インされています。第7位のエディ・デューチンは、1930、40年代に活躍したピアニスト兼バンド・リーダーで、そのバンドは10位にランクインされているガイ・ロンバード同様「スイート・ミュージック」を得意としていました。第8位のレイ・ノーブルは”チェロキー”の作者としてジャズ界では有名な人です。彼はイギリスのビッグ・バンド・リーダーですが、アメリカに移住しアメリカで活躍しました。ただその時期については1934年に渡米したとあるので、この曲はイギリスで録音したものではないかと思われます。
第9位のジョージ・オルセンも30年代に人気があったバンドでこれまで何度か登場しています。”The last round-up”どちらも30年代に人気のあったバンド同士の競作となっています。曲はビリー・ヒルという作曲家が初めて放ったヒット曲。同名の映画が翌1934年に公開されますが、その関係は不明です。

ジャズの動き … 1933年

では本題の1933年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年は少し録音数が増えているように感じます。

コールマン・ホーキンス

ニュー・ヨーク・シーン

フレッチャー・ヘンダーソン

まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。ヘンダーソン楽団はこの年は残念ながら録音数が少なくなります。そしてその録音ではホーキンス一色になっています。そしてイギリスの放送協会がこれらの録音を聴くや否や、ホーキンスにロンドンでの1年間の契約仕事を申し込んできました。ホーキンスはこれに乗り、ヘンダーソンの元を離れてこの後1939年までヨーロッパに滞在することになります。
詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1933年」をご覧ください。
イギリス・サザンプトンに到着したデューク一行

デューク・エリントン

この年のデュークはまさに絶好調と言っても良い状態だったのではないでしょうか?代表曲の一つ”Sophiscated lady”は2月と5月に吹き込みを行いますが、そのどちらかのヴァージョンが年間2位にランクされるヒットとなったことは先ほど書きました。さらに1927年から続いていたコットン・クラブとの専属契約が終了すると、6月敏腕プロデューサー、アーヴィング・ミルズの手腕により初の海外公演を行います。当時ヴァラエティを上演する劇場としては世界最高とみられていたというイギリス・ロンドンのパラディウムで公演を行います。こうした世界戦略は白人のミルズならではのものでしょう。
これまではレコードで聴いていてファンだったというイギリスの貴族たちが実際のステージを観、交流を行うことで、アメリカのジャズ界の「デューク(伯爵)」が世界の「デューク」への道を歩み始めます。詳細については、「デューク・エリントン 1933年」をご覧ください。

その他のニュー・ヨーク・シーン

この年録音された音源で僕が持っているのは、ドン・レッドマン(2曲)と久しぶりに登場するジミー・ランスフォード(2曲)のみです。レッドマンの方は2曲ともヴォーカル入りのナンバーで特に触れることはありません。ランスフォード楽団はこれからレコードが増えてきます。ウィリー・スミス(As)のソロが聴かれます。詳しくは「ドン・レッドマン 1933年」「ジミー・ランスフォード 1933年」ご覧ください。
またこれまで取り上げてきたキャブ・キャロウェイ、チック・ウエッブ、マッキニーズ・コットン・ピッカーズなどの録音は見当たりません。

ルイ・アームストロング

油井正一氏は、サッチモのキャリアを4期に分けて分析しています。この1933年を含む第3期(1931〜1935年)は「サッチモの最悪の時期」に分類されているのです。氏は次のように述べています。「人気はますます上がり、最高音を発するトランペットとして担ぎ上げられたのが、彼の不運だったのではないでしょうか。心無いファンのテクニック尊重癖が、彼を脱線させたのだと思います」と。
1931年シカゴでの吹込みのためにサッチモは、ジルナー・ランドルフとリューベン・“マイク”・マッケンドリックにより率いられていたビッグ・バンドを雇いました。そのバンドはずっとルイのレギュラー伴奏バンドとしての役割を果たし、翌32年3月に解散したといいます。
そしてこの1933年の録音では、ジルナー・ランドルフとリューベン・“マイク”・マッケンドリックが残り、他は一新されたメンバーで録音を行っています。詳しくは「ルイ・アームストロング 1933年」、「メズ・メズロウ 1933年」をご覧ください。

注目のニュー・カマー … テディ・ウィルソン

サッチモが1933年1月の録音では、ランドルフとマッケンドリック以外一新されたメンバーで注目されるニュー・カマーはピアノのテディ・ウィルソンです。テディのディスコグラフィーを見てもこれ以前の録音はないので、この録音がレコード・デビューと思って間違いないでしょう。
テディ・ウィルソンは、モダン・ピアノからカクテル・ピアノまであらゆるピアニストに影響を与えたスタイリストと言われ、ブランズウィックに行った連作セッションは、後に登場するビリー・ホリデイとレスター・ヤングとの名コラボを生み出し、スイング時代の華と言われます。このルイとのレコーディングでは目立ったソロは取らせてもらっていませんが、この年ベニー・カーターが加わったメズ・メズロウの録音にも参加し、ソロも取っています。

シカゴ・シーン

実は前項ルイ・アームストロングは拠点をニューヨークに移したはずですが、この年はシカゴでレコーディングを行っています。この年シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーンには4曲ほど録音がありますが、アール・ハインズの録音は持っていません。ジミー・ヌーンについては「ジミー・ヌーン 1933年」をご覧ください。
エディ・コンドンをシカゴアンの代表としていいか分かりませんが、この年はニューヨークでレコーディングを行っています。その演奏はユニークなもので、僕は注目に値する録音だと思っています。詳しくは、「エディ・コンドン 1933年」をご覧ください。

カンサス・シティ・シーン … ベニー・モーテン

ベニー・モーテン楽団は1932年12月にヴィクターとの契約が切れたためと大不況の影響のためと思われますが、1933年の吹込みは見当たりません。
若きベニー・グッドマン

白人ジャズマン

ベニー・グッドマン

1932年では1曲も録音が見当たらなかったBGですが、この年は16曲ほど録音があります。ただ面白いのは中盤までの録音が見当たらず10月以降に固まっていることです。まず最初はジョー・ヴェヌーティのオーケストラに加わったもので、僕は意外なことに「プレスティッジ(Prestige)」から発売されたレコードで持っています。バップから初期モダン・ジャズの貴重なレコードを多数制作・販売している「プレスティッジ」レーベルが、ベニー・グッドマンのレコードを発売しているとは知りませんでした。
またどのような経緯かは分かりませんが、BGはこの辺りからBGは、ドンドン力を付けつつあったジャズ評論家のジョン・ハモンドの知己を得ます。そのハモンドが強くその際を認めたシンガーがビリー・ホリデイでした。こうしてハモンドの<押し>によって、グッドマン・コンボのバックでビリー・ホリデイの初レコーディングが実現するのです。
ビリーの初レコーディングへの参加はジョン・ハモンド氏の存在を考慮すれば、よく理解できるのですが、以外なのは、この年「ブルースの皇后」ベッシー・スミスの録音にも参加していることです。これはベッシー・スミスの項で触れましょう。詳しくは、「ベニー・グッドマン 1933年」をご覧ください。

注目のニュー・カマー … ビリー・ホリデイ

レディ・デイ(Lady Day)と呼ばれるジャズ史上最も重要な歌手の一人、ビリーホリデイはこの年1933年にレコーディング・デビューを果たしました。そしてその伴奏を行ったのは、後の「スイング王」ベニー・グッドマンであるということはあまり知られていないかもしれません。
ビリーは1915年ボルチモアで生まれ、極貧の中で育ち、10歳か11歳(本によって記述が異なる)で強姦され、自身売春はするはクスリは打つはという、どん底生活を送っていた。母親と同居していたアパートを追い出される寸前、踊り子を募集していたナイト・クラブで歌って、経営者、お客を感動させ、歌手として身を立てることを決意します。彼女の波乱万丈の人生はその自伝『奇妙な果実』(原題:Lady sings the blues)に詳述されています。この本はかなり露骨に暴露しているように思えますが、それでも事実とは異なる部分も多いという指摘もされているようです。
初レコーディングは、本人が「半分死ぬほどの恐怖だった」と述べるほどだったそうですが、たまたま居合わせた「バックとバブルス」のバック・ワシントンのアドヴァイスによって、何とか無事に終了させることできます。しかしこのレコードの反響は全くなかったようです。
この辺りの記述はビリー側からのものしかないのですが、僕が感心したのは、この時代夜な夜な行われていたナイトクラブでのジャムセッションに、BGはよく通って腕を磨いていたという記述です。2年後には自分のバンドを率い、「スイング王」として君臨するBGが、腕を磨きに通っていたということです。
これもビリー側の記述しか知らないのですが、ビリーとグッドマンのロマンスです。ビリーは次のように自伝に書いています。「私とベニーは1週間に1度は、こういうジャム・セッションで落ち合い、数時間を一緒に過ごした。ママは白人の青年の一緒に歩き回ってはいけないとくどいほど注意をし、ベニーの姉のエセルは当時ベニーのマネージャーをやっていたが、将来弟が大物になるだろうと目星をつけていたので、黒い女と問題を起こすことを望まなかった。(中略)二人は一緒に過ごすために、ママや姉の裏をかいた。ベニーとの交際は、私が別の恋愛に悩むまで、相当長い間続いた。」
これが事実で大ぴらになれば大変なスキャンダルです。グッドマン側が沈黙を通すのは当然ですが、評論家の人たちでこの問題に触れた記述は見たことがありません。なぜ無視するのでしょう?詳しくは、「ビリー・ホリデイ 1933年」をご覧ください。

その他白人ジャズメン

カサ・ロマ・オーケストラ
僕はこの年の録音は1曲しか音源がありません。相変わらずジーン・ギフォードの複雑・精緻なアレンジが聴かれます。詳しくは、「カサ・ロマ・オーケストラ 1933年」をご覧ください。
ジャック・ティーガーデン
この年は自己名義のレコーディングも加え幅広い活動が見られます。実に安定したプレイ、魅力的なヴォーカルを聴かせてくれます。また彼はBGと共にビリー・ホリデイ、ベッシー・スミスとのレコーディングにも参加しています。BGとはマブダチだったのでしょうか?詳しくは、「ジャック・ティーガーデン 1933年」をご覧ください。
ミルドレッド・ベイリー
ミルドレッド・ベイリーの1933年の吹込みはバックをドーシー・ブラザーズが務めたことで注目です。ジミー(兄)とトミー(弟)のドーシー兄弟は、それぞれでも活動はしていましたが、1928年二人でザ・ドーシー・ブラザーズ・オーケストラを結成し活動を開始します。しかしなかなかその録音には巡り合いませんでした。彼らはブランズウィックと契約していたというので、このミルドレッド・ベイリーのブランズウィックへの吹込みでそのバックを務めることになったのでしょう。
またこれらの吹込みにはトランペットにバニー・ベリガンが加わっています。ベリガンはトミー・ドーシーのバンドで名を上げますが、それはまたのちの吹込みにおいてです。ここではまだ重要なポジションを任せてもらっているとは言えないようです。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1933年」をご覧ください。

ブルース

この年、ブギー・ウギーも含めてブルースの録音はベッシー・スミスを除いて見当たりません。しかもこれがベッシー・スミスのラスト・レコーディングとなります。このレコーディングについては、すでにふれましたが、クラリネットにベニー・グッドマン、トロンボーンにジャック・ティーガーデンを加えた白黒混合バンドがバックを務めます。そこにはテナー・サックスのチュー・ベリーの名も見え、彼にとって最も初期の録音の一つであったと思われます。
ベッシー・スミスは1926年を頂点として、人気は次第に下降気味だったと言われます。しかしこれが最後のレコーディングになるとは思っていなかったと思います。この後コロンビアとの契約が終了した後は、どこのレコード会社もレコーディングを行わなかったため、その後の歌声を聴くことは叶いません。それでも景気が上向きとなった1936年などにはコンサートで彼女の姿が見受けられるようになったと伝えられます。やがてジョン・ハモンド氏の主催する38年のカーネギー・ホールでのジャズコンサート「スピリチュアルからスイングへ」に出演依頼が届きます。そのころのスミスは地方のキャバレーなどへの出演が中心で、移動なども自身で車を運転して回っていたようです。そこへ最高の檜舞台「カーネギー・ホール」への出演依頼が舞い込み、有頂天になっていたと伝えられます。しかしカムバックの希望が見えた矢先の1937年9月26日(日)早朝、たった一人でメンフィスに向かって車を走らせていた彼女は、道路わきに駐車していた大型トラックに激突し、42年の波乱の生涯を終えるのです。詳しくは「ベッシー・スミス 1933年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1933年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1933年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみましょう。
既に今回はデューク・エリントンの自伝『A列車で行こう(Music is my mistress)』とビリー・ホリデイの自伝『奇妙な果実(Lady sings the blues)』が登場しています。まずデュークの自伝の中心はイギリスをはじめとするヨーロッパ楽旅が中心に記述されています。それでわかることは、イギリスの貴族たちを初めとしてたくさんの人たちがすでにレコードなどでデュークたちの演奏を聴いて知っていたことが分かります。ジャズは確実にすそ野を広げていました。
またビリーの自伝からは、この時代は各ジャズ・クラブなどで夫々の腕を競い合う或いは同じバンド以外のミュージシャンとの交流を楽しむ「ジャム・セッション」が夜な夜な行われていたことです。何となくそういったジャムなどには縁のなさそうなベニー・グッドマンなども参加していたということは、この頃はまだミュージシャン魂のようなものを持っていたことが分かります。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
レスター・ヤング1909年8月27日ミシシッピ州ウッドヴィル評伝『レスター・ヤング』ディヴ・ゲリー
セロニアス・モンク1917年10月10日ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント評伝『セロニアス・モンク』ロビン・ケリー
チャーリー・パーカー1920年8月29日ミズーリ州カンサス・シティ評伝『バードは生きている』ロス・ラッセル
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス(
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー

レスター・ヤング
もっと年上で間もなく、1936年から登場することになるのがレスター・ヤングです。彼は1933年当時33歳か34歳で、評伝によればトム・ペンダーガストの支配の下、売春宿、ダンス・ホール、キャバレー、賭博場などが盛況で、大いににぎわっていたカンサス・シティにおいて、カウント・ベイシーのバンドに加わって演奏していたといいます。しかしこれは少しばかり記述が合いません。ベニー・モーテンが急死し、ベイシーがバンドを引き継ぐのは1935年以降のことです。ただモーテンはピアノ演奏はすでにベイシーに任せ、バンド経営に専念していたようですのでこういう表現になったのかもしれません。
そのころのよく語られる有名なエピソードがあります。語るのは草分け的な女性ジャズ・ピアニスト、メリー・ルー・ウィリアムズです。「<チェリー・ブロッサム>にコールマン・ホーキンズが出ているという話はすぐにカンサス・シティ中に広まった。すると直ぐにレスター・ヤング、ハーシャル・エヴァンズ、ベン・ウエブスターその他腕に覚えのあるテナー・マンが続々とクラブに押し掛けてきた。私は午前4時にベン・ウエブスターに起こされて呼ばれた。ピアニストがへたばってしまったので後を引き継いでくれという。行ってみたらホークは下着1枚になってサキソフォン奏者たちとやりあっていた。しかしレスターが演奏を止めないので、結局諦めてフレッチャー・ヘンダーソンのその日の公演場所セントルイスに向けてキャデラックをぶっ飛ばして行ったわ。」
ホークがまだヘンダーソン楽団にいたころの話なので1933年の頃でしょう。その後1934年ホークの後釜としてヘンダーソン楽団に加わり、レスターは大変ひどい目にあって、カンサス・シティに戻ってきます。
セロニアス・モンク
モンクは評伝では1917年、しかしスイング・ジャーナル社発行「ジャズ人名辞典」では1920年10月10日ノース・カロライナ州ロッキー・マウント生まれとなっています。評伝通りとすれは15〜16歳ということになります。モンク一家は1921年に知り合いを頼りニューヨークに出ています。そして1926年知り合いからもらったピアノに興味を覚えます。そして13歳ころにはジャズこそが一番好きな音楽だということがはっきりしてきた。1932年春14歳でスタイベサント高校に入学、ここには素晴らしいオーケストラとバンドがあったといいますが、モンクは全く関わりを持とうとしませんでした。そして16歳になる直前の1033年の夏に一人の少年と知り合い親友となります。通称ソニーと呼ばれる少年で、このソニーの妹ネリーと後にモンクは結婚します。
1933年チャールズ・スチュワート、モーリス・シンプソンという少年と初めてバンドを作ります。3人ともまだ15、6歳でしたが、地元のレストランやダンス・パーティーでギグを行っていたといいます。他にレント・パーティーなどで景気のいい晩3人で10〜15ドルも稼げることがあり、大恐慌の真っただ中としては相当な金額だったといいます。また「アポロ・シアター」の「オーディション・ナイト」というコンテストに出演し、稼いでいたそうです。
1933年のスタイベサント高校の2年生の秋期が始まるころモンクは教室内で行われるどんなことよりも音楽への興味が勝るようになり、16歳で高校を中退しました。
チャーリー・パーカー
12〜13歳。本人曰く子供頃は、広場で野球をして遊びまわる普通のガキで、家の近くのクリスパス・アタックス小学校に入学、模範的な生徒で教師たちのお気に入りだったという。活発で物覚えもよく、成績はいつも平均以上だったそうです。しかし1933年13歳でリンカーン・ハイスクールの入学します。そこには学校のブラス・バンドがあり、そのハイスクール・バンドはパレードや市の重要な行事には必ず狩り出されるカンザス・シティの名物であり、市当局も力を入れているバンドでした。そこで音楽に興味を持ち始め、上級生たちが作っているバンド、ディーンズ・オブ・スイングに入れてもらいます。彼は一番年少でマスコット的存在で、腕前はバンドのお荷物程度のものでしたが、これ以降バードは音楽にのめり込んでいきます。
チャールズ・ミンガス
チャールズ・ミンガスは生まれはアリゾナ州だが2歳の時にはカリフォルニアへ移っており、西海岸出身のジャズマンということでも貴重です。1922生まれのミンガスは1933年は10〜11歳に当たります。ミンガスの自伝の幼少時代の記述は性的なことが多く、何よりもセックスに興味があったのではないかと思われるほどです。
ミンガスでは本人の書いた『負け犬の下で』という変わったタイトルの自伝と『ミンガス/ミンガス』という評伝がありますが、夫々記述が異なるところがあります。自伝では8歳、評伝では6歳の時に最初の楽器トロンボーンを手にします。しかし父親がトロンボーンには失望し、チェロを買い与えます。
9歳の時(1931年)、白人の少女とトラブルを起こしそうになります。その時「消え失せろ、黒んぼ!」と言われ、自分が黒んぼ以外の何物でもないことに初めて気づいたと述べています。その事件は尾を引き、白人につかまりリンチで殺されそうになりますが、黒人の知り合いに助けられるという経験をしています。そして次のように語るのです、「絶対にに忘れるな、肌の色が黄色だろうと、髪の毛が砂色だろうと、コーカサス人種に交じっていようと家系に一人でも黒人がいたら、そいつは「黒んぼ」なんだと。」
1933年の時にはロス・アンゼルス・ジュニア・フィルハーモニック・オーケストラに加入してチェロを弾き、楽譜も読めるようになっていました。またこの年には先述したようにロングビーチ大地震が発生し、ミンガスの学校の校舎も被害を受けたこと、そしてガソリン・スタンドで働いていた黒人のジョンソンさんが目の前で、車にわざとぶつかられ死ぬのを目撃します。白人のリンチでした。
ミンガスの自伝は、南部ほどではないと言われる西海岸の人種差別も生易しいものではなかったことが分かります。
マイルス・ディヴィス
「帝王」と呼ばれるマイルス・ディヴィスは1926年生まれなので、1933年は6〜7歳です。「音楽に入れ込む前で、スポーツに熱中してた。野球、フットボール、バスケットボール、水泳、ボクシングなど何でもやった。いつも親友と誰かフットボールや野球をやっていないか探し回った」と自伝に書いています。まぁその通りの普通の少年だったのでしょう。
ジョン・コルトレーン
コルトレーンもマイルスと同じ1926年生まれなので、1933年は6〜7歳です。母型の祖父が影響力のある牧師であり、母親も敬虔なクリスチャンだったので、よく教会に通っていたそうです。コルトレーンは南部(ノース・カロライナ州)なので、ジム・クロウ法が覆いかぶさり、黒人の人権は全く認められず、白人の居住区に入る時は許可証が必要でした。このような差別を肌身で体験し、祖父からアンダーグランド・レイルロードなど抵抗の歴史も聞いていました。このような経験がコルトレーンの人格、音楽に大きな影響を及ぼしていることは間違いないでしょう。
スタン・ゲッツ
自伝・評伝で初めて登場する白人ミュージシャンです。父型、母型ともユダヤ人でウクライナからの移民です。1933年は5〜6歳の時に当たります。生まれはペンシルヴァニア州フィラデルフィアですが、父親がいわゆる「できない人」で、1929年の強硬以降極貧生活に陥り、成功している父型の叔父を頼ってニュー・ヨークに出ます。しかしニュー・ヨークでも状況は変わらず、貧民街で極貧生活を送ることになります。
しかしスタンは、学校ではトップ・クラスの成績で、後には試験の成績と知能指数の高さから、特別優秀な生徒を集めたプログラムに編入されるほどでした。このことは父親に失望した母親から大きな期待をかけられることになります。
そして6歳を過ぎたころから、つまり1933年ごろからスタンは音楽に引き寄せられるようになります。ピアノを持つ友人宅を訪れたとき、スタンが弾かせてくれとしつこくせがんだといいます。そしてスタンは全く澱みなくラジオで聞いて耳で覚えた曲を完璧に演奏したというのです。このことは両親をとても喜ばせます。というのはスタンは閉じこもりがちで内気な少年で、趣味をほとんど持たなかったからでした。そのため土曜の午後ラジオに向かってメトロポリタン・オペラの指揮をしたり、放課後にバンドの練習を聴いたり、ベニー・グッドマンのソロを覚えてハミングしたりすることを両親は励ましたといいます。
6歳のころ(1933年ころ)スタンの音楽の天賦の才が現れ始めます。
ビル・エヴァンズ
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1933年は3〜4歳。エヴァンズはこの時代の多くの子供たちと同様、教会で音楽と出会いますが、それはまだもう少し先のことのようです。
穐吉敏子
わが国を代表するジャズ・ウーマン穐吉敏子は、エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1933年は3〜4歳。日本が進出していた満州国生まれというところが当時の時代背景を表しています。母親が音楽好きで、オルガンで箏曲を弾いたり、アメリカの映画女優の歌やメキシコの歌などのレコードを買って聴いていたそうです。自身は活発な子で幼稚園のジャングル・ジムで遊ぶのが好きだったそうです。
ウエイン・ショーター
ウエイン・ショーターは、この年ショーター家の次男として生を受けました。

ジャズメンの自伝、評伝からも1933年当時は、ジム・クロウ法が重くのしかかり、南部よりましと言われた西部でも各人による黒人リンチが日常茶飯事のように行われていたことが分かります。1929年以来の全世界的な不況の中、カンサス・シティの夜の街は活況を呈していたことや、カンサス・シティ、ニュー・ヨーク共通のジャズメンの習性として、夜な夜な夜が明けるまでジャム・セッションが行われていたことなどが分かります。

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