1932年10月28日、ローマ進軍十周年を記念してファシスト革命記念展が盛大に開催され、翌1933年の記念日には首都ローマにヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂からコロッセウムまでを繋げた大通りである皇帝街道を開通させます。独裁制と一党制によって牽引される全体主義は必然的に指導者への個人崇拝を生み出していきます。政府宣伝を通じて独裁者ムッソリーニは国家・民族の英雄として神格化され、神話とも言うべきプロパガンダが展開されていました。
順位 | アーティスト | 曲名 |
1 | エセル・ウォーターズ(Ethel Waters) | ストーミー・ウェザー(Stormy Weather) |
2 | デューク・エリントン(Duke Ellington) | ソフィスティケイティド・レディ(Sophiscated lady) |
3 | ディック・パウエル(Dick Powell) | ゴールド・ディガーズ・ソング(Gold digger's song) |
4 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | シャドウ・ワルツ(Shadow waltz) |
5 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | ユーアー・ゲッティング・トゥ・ビー・ア・ハビット(You're getting to be a habit) |
6 | ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman) | ラヴァー(Lover) |
7 | エディ・デューチン(Eddie Duchin) | ディド・ユー・エヴァー・シー・ア・ドリーム・ウォーキング?(Did you see a dream walking ?) |
8 | レイ・ノーブル(Ray Noble) | ラヴ・イズ・ザ・スイーテスト・シング(Love is the sweetest thing) |
9 | ジョージ・オルセン(George Olsen) | ザ・ラスト・ラウンドアップ(The last round-up) |
10 | ガイ・ロンバード(Guy Lombardo) | ザ・ラスト・ラウンドアップ(The last round-up) |
年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、エセル・ウォーターズ(Ethel Waters)の「ストーミー・ウェザー」です。この曲についてはデューク・エリントンが詳しく語っています。それによれば、この曲はテッド・ケーラー作詞ハロルド・アーレン作曲でエセル・ウォーターズのために作った曲です。エセルが4週間に渡ってエリントンのバンドに加わってコットン・クラブに出演した時に歌っていたそうです。そしてエセルはこの曲をストリングス入りのオーケストラをバックに吹き込み大ヒットさせます。因みにエリントンはこの年1933年にイギリス公演の際アイヴィー・アンダーソンに歌わせるのですが、これは感動の嵐を巻き起こしたと自伝に書いています。しかしエリントンはこの年5月に演奏のみでレコーディングを行っています。エセルとも1932年に吹き込みを行っているエリントンは、この曲でエセルにアイヴィー・アンダーソンでぶつかることは避けたのでしょう。
そのエリントンは自作の名曲「ソフィスティケイティド・レディ」を第2位にランク・インさせています。第3位のディック・パウエルはミュージカル出身の白人男性シンガーで30年代から60年代にかけて幅広く活躍しました。第4、5位にはビング・クロスビーが入っています。まさに人気絶頂です。
第6位には久々にポール・ホワイトマンがランク・インされています。第7位のエディ・デューチンは、1930、40年代に活躍したピアニスト兼バンド・リーダーで、そのバンドは10位にランクインされているガイ・ロンバード同様「スイート・ミュージック」を得意としていました。第8位のレイ・ノーブルは”チェロキー”の作者としてジャズ界では有名な人です。彼はイギリスのビッグ・バンド・リーダーですが、アメリカに移住しアメリカで活躍しました。ただその時期については1934年に渡米したとあるので、この曲はイギリスで録音したものではないかと思われます。
第9位のジョージ・オルセンも30年代に人気があったバンドでこれまで何度か登場しています。”The last round-up”どちらも30年代に人気のあったバンド同士の競作となっています。曲はビリー・ヒルという作曲家が初めて放ったヒット曲。同名の映画が翌1934年に公開されますが、その関係は不明です。
では本題の1933年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年は少し録音数が増えているように感じます。
まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。ヘンダーソン楽団はこの年は残念ながら録音数が少なくなります。そしてその録音ではホーキンス一色になっています。そしてイギリスの放送協会がこれらの録音を聴くや否や、ホーキンスにロンドンでの1年間の契約仕事を申し込んできました。ホーキンスはこれに乗り、ヘンダーソンの元を離れてこの後1939年までヨーロッパに滞在することになります。
詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1933年」をご覧ください。
この年のデュークはまさに絶好調と言っても良い状態だったのではないでしょうか?代表曲の一つ”Sophiscated lady”は2月と5月に吹き込みを行いますが、そのどちらかのヴァージョンが年間2位にランクされるヒットとなったことは先ほど書きました。さらに1927年から続いていたコットン・クラブとの専属契約が終了すると、6月敏腕プロデューサー、アーヴィング・ミルズの手腕により初の海外公演を行います。当時ヴァラエティを上演する劇場としては世界最高とみられていたというイギリス・ロンドンのパラディウムで公演を行います。こうした世界戦略は白人のミルズならではのものでしょう。
これまではレコードで聴いていてファンだったというイギリスの貴族たちが実際のステージを観、交流を行うことで、アメリカのジャズ界の「デューク(伯爵)」が世界の「デューク」への道を歩み始めます。詳細については、「デューク・エリントン 1933年」をご覧ください。
実は前項ルイ・アームストロングは拠点をニューヨークに移したはずですが、この年はシカゴでレコーディングを行っています。この年シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーンには4曲ほど録音がありますが、アール・ハインズの録音は持っていません。ジミー・ヌーンについては「ジミー・ヌーン 1933年」をご覧ください。
エディ・コンドンをシカゴアンの代表としていいか分かりませんが、この年はニューヨークでレコーディングを行っています。その演奏はユニークなもので、僕は注目に値する録音だと思っています。詳しくは、「エディ・コンドン 1933年」をご覧ください。
このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1933年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみましょう。
既に今回はデューク・エリントンの自伝『A列車で行こう(Music is my mistress)』とビリー・ホリデイの自伝『奇妙な果実(Lady sings the blues)』が登場しています。まずデュークの自伝の中心はイギリスをはじめとするヨーロッパ楽旅が中心に記述されています。それでわかることは、イギリスの貴族たちを初めとしてたくさんの人たちがすでにレコードなどでデュークたちの演奏を聴いて知っていたことが分かります。ジャズは確実にすそ野を広げていました。
またビリーの自伝からは、この時代は各ジャズ・クラブなどで夫々の腕を競い合う或いは同じバンド以外のミュージシャンとの交流を楽しむ「ジャム・セッション」が夜な夜な行われていたことです。何となくそういったジャムなどには縁のなさそうなベニー・グッドマンなども参加していたということは、この頃はまだミュージシャン魂のようなものを持っていたことが分かります。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
レスター・ヤング | 1909年8月27日 | ミシシッピ州ウッドヴィル | 評伝『レスター・ヤング』 | ディヴ・ゲリー |
セロニアス・モンク | 1917年10月10日 | ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント | 評伝『セロニアス・モンク』 | ロビン・ケリー |
チャーリー・パーカー | 1920年8月29日 | ミズーリ州カンサス・シティ | 評伝『バードは生きている』 | ロス・ラッセル |
チャールズ・ミンガス | 1922年4月22日 | アリゾナ州ノガレス | 自伝『負け犬の下で』 | チャールズ・ミンガス( |
マイルス・ディヴィス | 1926年5月26日 | イリノイ州オルトン | 自伝『自叙伝』 | マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ |
ジョン・コルトレーン | 1926年9月23日 | ノース・カロライナ州ハムレット | 評伝『ジョン・コルトレーン』 | 藤岡靖洋 |
スタン・ゲッツ | 1927年2月2日 | ペンシルヴァニア州フィラデルフィア | 評伝『スタン・ゲッツ』 | ドナルド・L・マギン |
ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事情』 | 中山康樹 |
穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |
レスター・ヤング
もっと年上で間もなく、1936年から登場することになるのがレスター・ヤングです。彼は1933年当時33歳か34歳で、評伝によればトム・ペンダーガストの支配の下、売春宿、ダンス・ホール、キャバレー、賭博場などが盛況で、大いににぎわっていたカンサス・シティにおいて、カウント・ベイシーのバンドに加わって演奏していたといいます。しかしこれは少しばかり記述が合いません。ベニー・モーテンが急死し、ベイシーがバンドを引き継ぐのは1935年以降のことです。ただモーテンはピアノ演奏はすでにベイシーに任せ、バンド経営に専念していたようですのでこういう表現になったのかもしれません。
そのころのよく語られる有名なエピソードがあります。語るのは草分け的な女性ジャズ・ピアニスト、メリー・ルー・ウィリアムズです。「<チェリー・ブロッサム>にコールマン・ホーキンズが出ているという話はすぐにカンサス・シティ中に広まった。すると直ぐにレスター・ヤング、ハーシャル・エヴァンズ、ベン・ウエブスターその他腕に覚えのあるテナー・マンが続々とクラブに押し掛けてきた。私は午前4時にベン・ウエブスターに起こされて呼ばれた。ピアニストがへたばってしまったので後を引き継いでくれという。行ってみたらホークは下着1枚になってサキソフォン奏者たちとやりあっていた。しかしレスターが演奏を止めないので、結局諦めてフレッチャー・ヘンダーソンのその日の公演場所セントルイスに向けてキャデラックをぶっ飛ばして行ったわ。」
ホークがまだヘンダーソン楽団にいたころの話なので1933年の頃でしょう。その後1934年ホークの後釜としてヘンダーソン楽団に加わり、レスターは大変ひどい目にあって、カンサス・シティに戻ってきます。
セロニアス・モンク
モンクは評伝では1917年、しかしスイング・ジャーナル社発行「ジャズ人名辞典」では1920年10月10日ノース・カロライナ州ロッキー・マウント生まれとなっています。評伝通りとすれは15〜16歳ということになります。モンク一家は1921年に知り合いを頼りニューヨークに出ています。そして1926年知り合いからもらったピアノに興味を覚えます。そして13歳ころにはジャズこそが一番好きな音楽だということがはっきりしてきた。1932年春14歳でスタイベサント高校に入学、ここには素晴らしいオーケストラとバンドがあったといいますが、モンクは全く関わりを持とうとしませんでした。そして16歳になる直前の1033年の夏に一人の少年と知り合い親友となります。通称ソニーと呼ばれる少年で、このソニーの妹ネリーと後にモンクは結婚します。
1933年チャールズ・スチュワート、モーリス・シンプソンという少年と初めてバンドを作ります。3人ともまだ15、6歳でしたが、地元のレストランやダンス・パーティーでギグを行っていたといいます。他にレント・パーティーなどで景気のいい晩3人で10〜15ドルも稼げることがあり、大恐慌の真っただ中としては相当な金額だったといいます。また「アポロ・シアター」の「オーディション・ナイト」というコンテストに出演し、稼いでいたそうです。
1933年のスタイベサント高校の2年生の秋期が始まるころモンクは教室内で行われるどんなことよりも音楽への興味が勝るようになり、16歳で高校を中退しました。
チャーリー・パーカー
12〜13歳。本人曰く子供頃は、広場で野球をして遊びまわる普通のガキで、家の近くのクリスパス・アタックス小学校に入学、模範的な生徒で教師たちのお気に入りだったという。活発で物覚えもよく、成績はいつも平均以上だったそうです。しかし1933年13歳でリンカーン・ハイスクールの入学します。そこには学校のブラス・バンドがあり、そのハイスクール・バンドはパレードや市の重要な行事には必ず狩り出されるカンザス・シティの名物であり、市当局も力を入れているバンドでした。そこで音楽に興味を持ち始め、上級生たちが作っているバンド、ディーンズ・オブ・スイングに入れてもらいます。彼は一番年少でマスコット的存在で、腕前はバンドのお荷物程度のものでしたが、これ以降バードは音楽にのめり込んでいきます。
チャールズ・ミンガス
チャールズ・ミンガスは生まれはアリゾナ州だが2歳の時にはカリフォルニアへ移っており、西海岸出身のジャズマンということでも貴重です。1922生まれのミンガスは1933年は10〜11歳に当たります。ミンガスの自伝の幼少時代の記述は性的なことが多く、何よりもセックスに興味があったのではないかと思われるほどです。
ミンガスでは本人の書いた『負け犬の下で』という変わったタイトルの自伝と『ミンガス/ミンガス』という評伝がありますが、夫々記述が異なるところがあります。自伝では8歳、評伝では6歳の時に最初の楽器トロンボーンを手にします。しかし父親がトロンボーンには失望し、チェロを買い与えます。
9歳の時(1931年)、白人の少女とトラブルを起こしそうになります。その時「消え失せろ、黒んぼ!」と言われ、自分が黒んぼ以外の何物でもないことに初めて気づいたと述べています。その事件は尾を引き、白人につかまりリンチで殺されそうになりますが、黒人の知り合いに助けられるという経験をしています。そして次のように語るのです、「絶対にに忘れるな、肌の色が黄色だろうと、髪の毛が砂色だろうと、コーカサス人種に交じっていようと家系に一人でも黒人がいたら、そいつは「黒んぼ」なんだと。」
1933年の時にはロス・アンゼルス・ジュニア・フィルハーモニック・オーケストラに加入してチェロを弾き、楽譜も読めるようになっていました。またこの年には先述したようにロングビーチ大地震が発生し、ミンガスの学校の校舎も被害を受けたこと、そしてガソリン・スタンドで働いていた黒人のジョンソンさんが目の前で、車にわざとぶつかられ死ぬのを目撃します。白人のリンチでした。
ミンガスの自伝は、南部ほどではないと言われる西海岸の人種差別も生易しいものではなかったことが分かります。
マイルス・ディヴィス
「帝王」と呼ばれるマイルス・ディヴィスは1926年生まれなので、1933年は6〜7歳です。「音楽に入れ込む前で、スポーツに熱中してた。野球、フットボール、バスケットボール、水泳、ボクシングなど何でもやった。いつも親友と誰かフットボールや野球をやっていないか探し回った」と自伝に書いています。まぁその通りの普通の少年だったのでしょう。
ジョン・コルトレーン
コルトレーンもマイルスと同じ1926年生まれなので、1933年は6〜7歳です。母型の祖父が影響力のある牧師であり、母親も敬虔なクリスチャンだったので、よく教会に通っていたそうです。コルトレーンは南部(ノース・カロライナ州)なので、ジム・クロウ法が覆いかぶさり、黒人の人権は全く認められず、白人の居住区に入る時は許可証が必要でした。このような差別を肌身で体験し、祖父からアンダーグランド・レイルロードなど抵抗の歴史も聞いていました。このような経験がコルトレーンの人格、音楽に大きな影響を及ぼしていることは間違いないでしょう。
スタン・ゲッツ
自伝・評伝で初めて登場する白人ミュージシャンです。父型、母型ともユダヤ人でウクライナからの移民です。1933年は5〜6歳の時に当たります。生まれはペンシルヴァニア州フィラデルフィアですが、父親がいわゆる「できない人」で、1929年の強硬以降極貧生活に陥り、成功している父型の叔父を頼ってニュー・ヨークに出ます。しかしニュー・ヨークでも状況は変わらず、貧民街で極貧生活を送ることになります。
しかしスタンは、学校ではトップ・クラスの成績で、後には試験の成績と知能指数の高さから、特別優秀な生徒を集めたプログラムに編入されるほどでした。このことは父親に失望した母親から大きな期待をかけられることになります。
そして6歳を過ぎたころから、つまり1933年ごろからスタンは音楽に引き寄せられるようになります。ピアノを持つ友人宅を訪れたとき、スタンが弾かせてくれとしつこくせがんだといいます。そしてスタンは全く澱みなくラジオで聞いて耳で覚えた曲を完璧に演奏したというのです。このことは両親をとても喜ばせます。というのはスタンは閉じこもりがちで内気な少年で、趣味をほとんど持たなかったからでした。そのため土曜の午後ラジオに向かってメトロポリタン・オペラの指揮をしたり、放課後にバンドの練習を聴いたり、ベニー・グッドマンのソロを覚えてハミングしたりすることを両親は励ましたといいます。
6歳のころ(1933年ころ)スタンの音楽の天賦の才が現れ始めます。
ビル・エヴァンズ
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1933年は3〜4歳。エヴァンズはこの時代の多くの子供たちと同様、教会で音楽と出会いますが、それはまだもう少し先のことのようです。
穐吉敏子
わが国を代表するジャズ・ウーマン穐吉敏子は、エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1933年は3〜4歳。日本が進出していた満州国生まれというところが当時の時代背景を表しています。母親が音楽好きで、オルガンで箏曲を弾いたり、アメリカの映画女優の歌やメキシコの歌などのレコードを買って聴いていたそうです。自身は活発な子で幼稚園のジャングル・ジムで遊ぶのが好きだったそうです。
ウエイン・ショーター
ウエイン・ショーターは、この年ショーター家の次男として生を受けました。
ジャズメンの自伝、評伝からも1933年当時は、ジム・クロウ法が重くのしかかり、南部よりましと言われた西部でも各人による黒人リンチが日常茶飯事のように行われていたことが分かります。1929年以来の全世界的な不況の中、カンサス・シティの夜の街は活況を呈していたことや、カンサス・シティ、ニュー・ヨーク共通のジャズメンの習性として、夜な夜な夜が明けるまでジャム・セッションが行われていたことなどが分かります。