僕の作ったジャズ・ヒストリー 19 … 初期のスイング 1934年

世界の情勢 … ファシズムの拡大とアメリカの再生

1934年ワールド・カップ イタリア優勝
イタリア
ムッソリーニ率いるファシスト党の一党独裁がより進行していきます。宿敵オーストリア・ハンガリー帝国の後裔国家オーストリアに反感を抱きつつも、同じくオーストリアに野心を持つヒトラーに対抗するためこの時ばかりはイギリス・フランスと共同でドイツと反目します。またアフリカにおいてエチオピア帝国とイタリア領エリトリア・ソマリランドとの国境紛争が起こり、エチオピアの植民地化戦争を進めていきます。 またこの年サッカーの第2回ワールドカップがイタリアで開催されます。これはムッソリーニのファシズム政権の宣伝と世界的な不況で苦しい生活を強いられている庶民の目をそらすためだったと言われています。試合の結果は決勝でイタリアがチェコスロバキアを2対1で破り優勝しています。 ヒトラーとヒンデンブルグ
ドイツ
1934年8月2日ヒンデンブルグが大統領在任のまま死去すると、直ちに大統領の職務を首相の職務と合体させる法律を発行させ、ヒトラー個人に大統領の職能を移します。これでヒトラーは首相と大統領の権限を併せ持つ「総統」というドイツにおいて唯一の絶対権力者となるのです(写真はヒトラーとヒンデンブルグ)。
日本 昭和9年
野球において、11月にベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら17名の選抜チームが来日し、日本各地で日本選抜チームと対戦を行いました。アメリカのプロ野球チームが来日するのは初めてではありませんでしたが、この時は日本側には沢村栄治という名投手がおり、アメリカのホームランキング、ベーブ・ルースとの対戦など話題も多く大いに盛り上がりました。このようにすべてが反米というムードでもなかったようですが、年も押し詰まった12月29日アメリカに対してワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告します。このことにより第一次世界大戦の戦勝国の友好関係は完全に終わりをつげ、再び軍拡の道を突き進むことになります。

アメリカ

ルー・ゲーリックとベーブ・ルース アメリカ経済は、大恐慌によって1929 年から1933年にかけて、名目GNPはおよそ46%,工業生産は48%,卸売物価は30%以上下落しました。さらに1929年に3.2%であった失業率は,1933年には25%近くにまで激増していました。しかし広大な国土と資源を持つ「持てる国」アメリカは、1933年を底として、1933年3月第32代大統領として就任したルーズヴェルトの「ニュー・ディール政策」とも相俟って僅かずつですが、回復基調となっていきます。

大衆芸能・スポーツ

野球
大リーグではナショナル・リーグではセントルイス・カージナルス、アメリカン・リーグではデトロイト・タイガースが優勝しています。ヤンキーズのルー・ゲーリックが三冠王となって話題を集めました。
ボクシング
後に大スターとなる黒人の英雄、ジョー・ルイスがデビューしています。 「武器よさらば」ポスター
映画
この年の第6回アカデミー賞の作品賞に輝いたのは「カヴァルケード」(Cavalcade)。1933年1月に公開された作品で、イギリスの上流階級の歴史を描いた作品とのことです。作品賞こそ逃したものの撮影賞、録音賞の2部門を獲得した「武器よさらば(A farewell to arms)」(写真右)が注目されます。文豪ヘンミングウェイの小説の映画化で、第一次世界大戦に引き裂かれた若き兵士(ゲイリー・クーパー)と看護婦(ヘレン・レイズ)の物語で戦争の悲惨さを描いています。
ディスカヴァー・アメリカ
かつて日本には日本の良さ、美しさを再発見しようという「ディスカヴァー・ジャパン」というキャンペーンがありました。当時そのような言葉は使われませんでしたが、アメリカでもそのような文化活動が行われたことがありました。
レッド・ベリー 1928年アメリカ議会図書館の音楽部門のディレクター、カール・エンゲル(Carl Engel)は、この国の民俗音楽とその演者は他のどの国よりも多様で豊富であるが、この貴重な民俗遺産は、録音され、保存されなければ四散し、ラジオや蓄音機などの発達によるポピュラー音楽が広がる中に埋没し、やがて失われてしまうと危惧していました。そこでエンゲルは民俗音楽収集プロジェクトを立ち上げ、民間資金を募って活動を開始します。ところが1929年起こった世界恐慌によって、経済は壊滅状態に陥り、1932年には民間の寄付が尽きてしまいます。そこに登場するのがジョン・ローマックスです。彼は元々プロジェクトから資金提供を受けフォークソング収集のフィールドワークを行っていましたが、収集に必要な録音機を議会図書館から借りる代わりに、彼がこれまで収集した資料を議会図書館のアーカイヴに預けるという契約を結びます。新たな録音機を得、さらにアメリカ学識協会協議会からも助成金を受け、さらに議会図書館の後援の下、ロマックスは1933年さらなるフォークソングの資料収集するレコーディングの旅に出ます。
翌1934年、ロマックスは「ジ・アーカイヴ・オブ・アメリカン・フォークソング(The Archive of American folksong)」の名誉コンサルタント兼キュレーターに任命され、妻のルビー・テリル、娘のシャーリー、息子のジョン・ジュニア及びアランと共にアメリカ全土を採集の旅に出ましたが、特にテキサス、ルイジアナ、アーカンソー、ミシシッピ、アラバマ、フロリダ、サウス・カロライナ、ジョージア、ヴァージニアといった南部諸州を広範囲に回りました。そしてルイジアナ州の刑務所に収監されていたブルース・マン、レッド・ベリー(Lead Belly:写真左収監中)の演奏を録音したことは、有名です。
こうした活動が、「ニュー・ディール政策」の一つ、「フェデラル・ワン」(正式名称:連邦プロジェクト・ナンバー・ワン)による芸術家支援計画と結びつき、多くの作家や音楽家が地方のコミュニティに派遣され、地元のブルースやワークソングの採集を命じられます。こうして民俗音楽の蒐集活動が活発に展開されることになっていきます。
もちろんこの背景には、第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃する中、アメリカは兵器などの生産と輸出により巨利を得、債務国から債権国へと変わり、一挙に世界の一流国にのし上がります。しかし<文化・芸術>という面ではどうでしょうか?政治的な地位が向上した国家は必ず文化的なアイデンティティを求めます。アメリカは文化的にも「ヨーロッパの辺境」ではなく、ヨーロッパとは異なる独自の、<文化>を模索していたのです。
ポピュラー・ミュージック
ザ・サンズ・オブ・ザ・パイオニアーズ 1934年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位アーティスト曲名
ベニー・グッドマン(Benny Goodman)ムーングロウ(Moonglow)
レオ・ライスマン(Leo Reisman)コンチネンタル(Continental)
ザ・サンズ・オブ・ザ・パイオニアーズ(The sons of the pioneers)タンブリング・タンブルウィーズ(Tumbling tumbleweeds)
ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)煙が目にしみる(Smoke gets in your eyes)
デューク・エリントン(Duke Ellington)カクテル・フォー・ツー(Cocktail for two)
レイ・ノーブル(Ray Noble)ザ・ヴェリー・ソート・オブ・ユー(the very thought of you)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)ラヴ・イン・ブルーム(Love in bloom)
ガイ・ロンバード(Guy Lombardo)ウィンター・ワンダーランド(Winter wonderland)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)ジューン・イン・ジャニュアリー(June in January)
10ファッツ・ウォーラー(Fats Waller)ハニーサックル・ローズ(Honeysuckle rose)

年間ヒットチャートの第1位に輝いたベニー・グッドマン、5位のデューク・エリントン、10位のファッツ・ウォーラーについては、夫々の項で取り上げます。
2位のレオ・ライスマンはボストン出身のヴァイオリン奏者兼バンドリーダー。彼の率いるバンドは「ダンス・バンドの弦楽四重奏団」と呼ばれ、20〜30年代に活躍し合計80曲以上をヒット・チャートに送り込んだと言われます。第3位は"The son of the pioneers"(写真右)つまり「開拓者の息子たち」というカントリー・アンド・ウエスタン系のバンドのデビュー・ナンバーです。大和田俊之氏はその著『アメリカ音楽史』の中で、1920年代レコード会社の商品として市場に流通し始めたフォーク・ミュージックは、30年代に入ると公式に「国民文化」として承認されるようになったと述べていますが、その一つの現れがこの「〜パイオニアーズ」の登場とそのヒットに見られます。これは上記の<ディスカヴァー・アメリカ>的動向のとして、「国民のアイデンティティー」=「パイオニア精神(俺たちは開拓者なんだ)」という意識とそれに対する誇りといった意識と言えると思います。
4位のポール・ホワイトマン、6位のレイ・ノーブル、8位のガイ・ロンバードは何度も登場している白人バンドです。またこの年もベスト10に2曲もランク・インさせているビング・クロスビーの人気のほどが分かります。

ジャズの動き … 1934年

では本題の1934年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年はかなり録音数が増えているように感じます。

ジャズ雑誌「ダウンビート(Downbeat)」創刊
この年シカゴでジャズ専門誌として名高い「ダウンビート(Downbeat)」がマハー出版社(Maher Publication)から創刊されました。しかし「ダウンビート」誌はジャズだけではなく、「ジャズ、ブルース、そしてその先」(jazz, blues and beyond)を標榜して創刊されたということです。われわれ日本人というか特にわかりにくいのはこの”Beyond”という言葉で、「ジャズやブルースだけではないよ」ということなのでしょう。 コールマン・ホーキンス

ニュー・ヨーク・シーン

フレッチャー・ヘンダーソン

まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。何といってもバンドのスターになっていたコールマン・ホーキンスが2月にベニー・グッドマンのセッションに加わってその存在感を示し、3月にヘンダーソン楽団における最後の録音に参加し、渡欧します。これはヘンダーソンにとってスター・ソロイストがいなくなるというだけではなく、大きな痛手となりました。なにせホーキンスがヘンダーソンの楽団に加入したのは1923年、バンド草創期から苦楽を共にしてきた仲間だったからです。
意気消沈したヘンダーソンはバンドの解散も考えたようですが、何とか保ち堪え代わりのテナー・サックス奏者を雇うことにします。ヘンダーソンは以前カンサス・シティに行った時に実際にプレイも聴き評判も高かったレスター・ヤングを雇うことにします。ところがこれは双方にとって不幸なこととなってしまいます。ホーキンスの大きくてたくましい音に慣れていたバンドのメンバーが、ヤングのクールで軽いテナーのプレイを拒絶したのです。そしてヘンダーソンの細君までも口をはさみレスターにホーキンスのように吹くように執拗に勧めてくるようになります。バンド・メンバー間の不和に悩んだヘンダーソンはクビを宣告し、レスターも嫌気がさしていたため退団しンサス・シティーに戻ってしまいます。
ホークが加わった最後の録音は1934年3月6日に行われましたが、次のヘンダーソンの録音は1934年9月25日に行われます。上記のレスター・ヤングの入団即退団のゴタゴタはこの半年間のことです。どういう経緯かは分かりませんが、9月25日の録音にはホークに近いプレイ・スタイルのベン・ウエブスターがテナーの席に座っています。結果的にはモーテン楽団との間で交換トレードが成立した形です。
この9月の録音に対して音楽家で評論家のンサー・シュラー氏は「ヘンダーソン楽団の末路を示した」と大変厳しい評価を下しています。しかし僕には、スインギーでウエブスターやレッド・アレンのソロが聴ける楽しい録音です。詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1934年」をご覧ください。
映画『罪じゃないわよ』ポスター

デューク・エリントン

柴田浩一氏は『デューク・エリントン』で、1934年のデュークについて短く次のように記しています。「世の中の不況をよそに、パラマウント映画『絢爛たる殺人』“Murder at the vanities”にオーケストラで出演したのに続き、同じく美人セクシー女優メエ・ウエスト主演の映画『罪じゃないわよ』“Belle of the Nineties”(ポスター写真右)に出演。5月にフレディ・ジェンキンスが去って、Tpセクションにはレックス・スチュワートが加わった。」
レコーディングについては1月から行っていますが、場所はシカゴで公演があったのかシカゴで行われています。このシカゴでのレコーディングで現代でもよく取り上げられるデュークの傑作「ソリチュード」の初録音が行われています。この曲についてデューク自身は、「スタジオに到着した時には予定の4曲中の1曲が出来ていなかった。幸い前の録音が押していたため4曲目に取りかかった。スタジオのガラス窓にもたれながら書かれた曲は20分で完成し、すぐさまレコーディングされた。」こうして名曲が出来上がったと言います。事前に準備した3曲ではなく、間際に慌てて作った曲が名曲になるとは…。
4〜5月は映画出演と映画音楽の録音のためデュークとその楽団は、ロス・アンゼルスで活動していたようで、ニュー・ヨークでレコーディングを再開するのは9月になってからです。1934年度年間ヒット・チャートで第5位にランキングされた「カクテルス・フォー・ツー」は4月12日の録音で、映画『絢爛たる殺人』で使われた挿入歌です。
次にメンバー交代の方ですが、フレディ・ジェンキンスはHistoryでは5月の録音から名前が消えていますが、Ellingtoniaでは10月の録音まで名前が残り、レックス・スチュワートに関してはHistory、Ellingtoniaとも初の録音参加は1935年1月です。
2本の映画出演、音楽担当ということでこの年も順調な活躍ぶりは、人気の高さを物語っていますが、それよりもマネージャー、アーヴィング・ミルズの剛腕さをより示唆しているように感じます。詳細については、「デューク・エリントン 1934年」をご覧ください。
サイ・オリヴァー

ジミー・ランスフォード

ヘンダーソン、エリントンと同様にニュー・ヨークで活躍するようになったもう一つのビッグ・バンドの雄「ジミー・ランスフォード・アンド・ヒズ・オーケストラ」もこの年から録音が多くなります。この年の地に縦横にアレンジの筆を振るうことになる鬼才サイ・オリヴァーが入団しますが、何といっても剛腕アーヴィング・ミルズの知己を得、その援助で「コットン・クラブ」との出演契約を取り付けたことが彼らの将来を明るいものしたと思われます。評論家粟村政昭氏は「バンドの陣容は、充実してきており急速調のナンバーを整然として演奏できる合奏能力にも見るべきものがあったが、ウィル・ハドソンの編曲そのものが当時人気のあったカサ・ロマ楽団風のメカニカルなものであったために、後年のランスフォード・スタイルから見れば極めて味のない演奏となったのは致し方なかった」と述べています。このハドソンはミルズの配下の作曲家兼アレンジャーでした。
しかし作品に純粋に耳を傾ければ、見事なアンサンブルとウィリー・スミス(As)、ジョー・トーマス(Ts)のソロも素晴らしく、聴き応えがあるれこーになっていると思います。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1934年」をご覧ください。

チック・ウェッブ

サヴォイ・ボールルームのバンド合戦の雄、チック・ウェッブも自身のバンドを率いて6面分の録音を行っています。エドガー・サンプソン策で後にベニーグッドマンで大ヒットし、スイング時代の定番曲となった「その手はないよ」(Don't be that way)が初演されています。
またサイドマンとしてメズ・メズロウの吹込みに参加した録音がありますが、僕はウェッブのサイドマンとしての録音はこれしかありません。珍しい録音です。そこでは地震のバンドではほとんど行わないブラシによるドラム・ソロも行っています。詳しくは「チック・ウェッブ 1934年」をご覧ください。
メズ・メズロウ

メズ・メズロウ

メズ・メズロウは久しぶりの登場です。メズロウは麻薬の密売で検挙され臭い飯を食ったり、れっきとした白人であるのに「特別志願黒人」と自称したりと少しメンドクサイ人のように思われるが、評論家の粟村氏は彼のプレイは確かなプロの技術の上にアマの精神が宿っているといった感じで大変好ましいものと高評価をしています。そして何より彼は当時の厳しい人種差別などものともせずに、白人・黒人混合編成のレコーディングを頻繁に行ったことは、マイルス・ディヴィスが聞いたら喜んで握手を求めただろう的な人間でもあります。
この年5月に行われた自己名義のセッションでは正に、メズロウ、カミンスキー、フリーマンといったオースチン・ハイスクール・ギャング出身とオブライエンのような白人プレイヤーにベニー・カーター、ウィリー・ザ・ライオン・スミス、チック・ウェッブといった黒人プレイヤーを交え素晴らしい録音を残しています。また9月にはオブライエンと共にファッツ・ウォーラーの録音に参加するなど、「特別志願黒人」の面目躍如の活躍ぶりを示します。詳しくは「メズ・メズロウ 1934年」をご覧ください。

ベニー・カーター

この時代ナンバー・ワンのアレンジャーと言われたカーターもこの年は関係したレコーディングの数は増加しています。アレンジだけ行った8月16日のベニー・グッドマンの録音もありますが、プレイヤーとしてのみ加わった5月7日のメズ・メズロウのレコーディング、アレンジャー及びプレイヤーとして久しぶりに加わったフレッチャー・ヘンダーソンの9月25日の録音、そして自己名義のオーケストラを率いて録音を行った2月13日の録音ではフランスのジャズ評論家ユーグ・パナシェがカーター楽団の代表作の一つと激賞した傑作「エヴリバディ・シャッフル」が生まれます。詳しくは「ベニー・カーター 1934年」をご覧ください。

カサ・ロマ・オーケストラ

粟村政昭氏はその著『ジャズ・レコード・ブック』において、「34年にギフォードが去ってからのカサ・ロマ楽団は完全にスイート・スタイルのバンドに転向してしまい〜」と書いています。しかし34年のどの時点でギフォードが去ったのかは記載がありません。34年の4月の録音時点で持ち場のバンジョー、ギターの席をジャック・ブランシェットに譲っていますので早い時点で抜けている可能性があります。しかしただ楽器演奏はしなくなったがアレンジャーは続けていた可能性はあります。スイート&メロウな曲が多いですが、アンサンブルは複雑精緻だからです。詳しくは、「カサ・ロマ・オーケストラ 1934年」をご覧ください。

ベニー・グッドマン

油井正一著「生きているジャズ史」 油井正一氏は、BGの「クラリネット・スタイル」と限定して、3期に分けて考えたいとし、その1期を1926年のベン・ポラック楽団での初吹き込みから1934年ヴィクターの専属になった頃までとしています。正にこの年です
また野口久光氏によれば、ジャズを熱愛していた若きベニー・グッドマンの夢は自分のバンドを持つことであったといいます。そのBGが当時の大興行師ビリー・ローズが開店したレストラン・シアター<ミュージック・ホール>のためにバンド結成を依頼されたのがこの1934年でした。これがBGが初めて組織した自分の名前を冠した初めてのバンドであったと書いています。しかしこれまでもベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Benny Goodman and his orchestra)という名前で録音は行っています。しかしジャズ評論の重鎮野口久光氏にそんな見落としをするとは思えません。ということはこれまでの「ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ」名義のバンドは、BGのレギュラー・バンドではなく、あくまでレコーディングのために招集したバンドだったということなのでしょう。
尚2月の「ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ」名義の吹込みには、テナー・サックスに唯一の黒人コールマン・ホーキンスが歌手のミルドレッド・ベイリーが加わっています。ここでベイリーがブルースを歌っており、彼女にしては大変珍しい吹込みと言えます。
ともかくビリー・ローズの依頼によって組織したバンドは6月に結成して3か月でホールを去るという非常に短命に終わります。そしてその時付けられていた条件というのは2本のヴァイオリンを入れることということであったといいます。ヴァイオリンを入れるとジャズではなくなるというわけではありませんが、純ジャズのバンドではないバンドの組織を求められたと言えるでしょう。これまで取り上げてきた中ではベン・セルヴァン、アート・カーンなどのバンドにはヴァイオリンが2本入っていますが、そのようなサウンドを求められたと推測できます。因みに1934年に吹き込まれたBG名義のバンドにはヴァイオリンは入っていません。ということはビリー・ローズに言われて組織したバンドの録音ではないということになります。
さらに野口氏はBGが最初のレギュラー・バンドを持ったのは1934年12月から始まったラジオ番組「レッツ・ダンス」出演を機に組織されたと書いています。ともかく僕の持っているBGの1934年の音源は全15曲、1月16日から11月26日までの録音です。つまりレギュラー・バンド結成前夜までのレコーディングと言えるでしょう。
因みにこの年5月の録音で初めてテディ・ウィルソンと共演しています。また年間ヒット・チャート1位にランクされた「ムーングロウ」は5月14日の録音でヴォーカルはなく、BG、ティーガーデン(Tb)、テディ・ウィルソン(P)が聴き応えのあるソロを聴かせてくれます。詳しくは、「ベニー・グッドマン 1934年」をご覧ください。

ジャック・ティーガーデン

この年のレコーディングで僕が注目するのは、これまたお久しぶりのフランキー・トランバウアーの楽団に加わってのものです。かつてビックス・バイダーベックとの共演が有名ですが、この時点ではまだ活動を続けていました。トランバウアーが1月、2月に呼んでくれたことへの返礼か9月の自己名義の録音にはトランバウアーを招いています。ここでティーガーデンが歌う「アラバマに星落ちて」は絶品です。詳しくは、「ジャック・ティーガーデン 1934年」をご覧ください。
1934年のルイ・アームストロング

ルイ・アームストロング

1934年は、油井正一氏の言うサッチモのキャリアの最悪の第3期(1931〜1935年)に当たります。またボックス「ルイ・アームストロングの黄金時代」ボックスでも「終わった人」扱いで、1932年以降についての動向については全くと言っていいほど触れていません。ガンサー・シュラー氏も評論を展開しているのは、1931年のロスアンゼルスにおける録音まででその後については、「ルイは既に自らの貢献を成し遂げた。つまり授業料を払え終えたのであり、今度はそのお返しを享受することを望んだ」と述べ、完全に終わった人扱いです。
ともかく1934年の録音データを見ると、レコーディングは全てフランスのパリで行われています。そのためか一緒に演奏しているメンバーで知っている人が一人もいない。ピアノのハーマン・チッチソンを除いて一人も「ジャズ人名辞典」に載っていません。どうも地元のミュージシャンを起用しての録音だったようです。
ルイは1933年4月まではシカゴにいてレコーディングなどをこなしていたようですが、ディスコグラフィーによれば、前回4月26日シカゴで行われた録音の次は、約半年後の10月21日デンマークのコペンハーゲンでレコーディングを行い、さらに10月28日にはスウェーデンのストックホルムでレコーディングを行っています。コペンハーゲンでの録音時のパーソネルは記載されていませんが、ストックホルムでの録音のパーソネルを見るとTpの一人を除いて、今回の録音に参加しているメンバーと同じです。もしかするとルイは1933年10月からヨーロッパに滞在し、現地のミュージシャンと各地で公演を行ったり、レコーディングをしたりしていたようです。詳しくは「ルイ・アームストロング 1934年」をご覧ください。

注目のニュー・カマー … ジャンゴ・ラインハルト

ジャンゴ・ラインハルト パリ録音と言えばこの年驚異のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトがレコーディング・デビューを果たしています。アメリカ以外で最も早くにジャズに取り組み、身に付いた独自の音楽とジャズを融合させた独特な音楽は「ジプシー・スイング」と呼ばれ、今も色あせぬ魅力を放っています。我が国においても「ジャンゴ・ラインハルト研究会」が組織されるなど熱狂的なファンが多いようです。僕は日本で誰かジャズ・マンの研究会というのを他には余り聞いたことがありません。それだけはまり込んでいく魅力というか魔力を持っているミュージシャンと言えるでしょう。
またもう一つ重要なのは、この当時これほど「ギター」という楽器を前面に押し出し、単音でソロを弾きまくるというギタリストはアメリカでも、エディ・ラングくらいしかいませんでした。そういった意味ではジャズ・ギターの開拓者の一人ということもできるでしょう。
さて僕の持っているCDはプレスティッジ・レコードともファンタジーとも書いてあるよく分からない代物ですが、何年か前に「ジャンゴのファースト・レコーディング」と書いてあるので、買ってみたものです。ジャンゴ自身によれば、1926年ある歌手の伴奏を行ったのが最初のレコーディングと述べているそうですが、このレコーディングはまだ発見されていないそうです。
また非常に有名な話として彼のハンディキャップのことがあります。1928年10月(11月説あり)のある日の未明、彼のキャラヴァンが火事を出し、火を消そうとして半身に大やけどを負ってしまいます。その結果右足は麻痺し、左手の薬指と小指には障害が残り使えなくなるというギター奏者としては致命的な痛手を受けてしまいます。彼を見た医師は、再びギターを弾くことは無理と思ったそうですが、彼は練習により独自の奏法を開拓し、ハンディキャップを克服するのです。
ジャズ評論家の岩波洋三氏によれば、1934年ジャンゴと同郷のベルギー出身のジャズ評論の先駆者であるユーグ・パナシェ氏が彼のギターに惚れこみ、フランスのジャズ愛好家集団「ホット・クラブ・ド・フランス」の協力を得、ジャンゴに新グループの結成を勧めます。そして弦楽器ばかりというユニークなバンド、「フランス・ホット・クラブ五重奏団(仏:Le Quintette du hot club de France)」が結成されるのです。詳しくは「ジャンゴ・ラインハルト 1934年」をご覧ください。

シカゴ・シーン

この年シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーンには4曲ほど録音があります。詳しくは「ジミー・ヌーン 1934年」をご覧ください。
アール・ハインズ・オーケストラ

アール・ハインズ

アール・ハインズは1928年ジミー・ヌーンやそして何よりもルイ・アームストロングと歴史的なレコーディングを行い、単身ニューヨークに出てピアノ・ソロを録音します。このレコードはQRSというレーベルに吹き込まれましたが、後にアトランティックからも出ていたことがあるそうですが、残念なことに見たことがありません。ぜひ聴いてみたいものです。
そして28年直ぐにシカゴに引き返し、ビッグ・バンドを結成します(左写真の中央がハインズ)。電光石火の早業です。このバンドにも興味があるが、レコーディングを行ったのか或いは不況の波に飲み込まれ、殆どレコーディングは出来なかったのか、今回取り上げる1934年までビッグ・バンドでの録音は見当たりません。ハインズがバンドを結成して6年、メンバー変遷等は分かりませんがなかなか素晴らしい、息のあったアンサンブルを聴かせてくれます。詳しくは、「アール・ハインズ 1934年」をご覧ください。
ファッツ・ウォーラー

ファッツ・ウォーラー

場所はニュー・ヨークに移りますが、ピアニストつながりでファッツ・ウォーラーです。1931年の録音以来久々の登場ですが、椙山雄作氏によれば、1932年に4曲のレコーディングがありますが、1933年には吹込みが全くなくなるそうです。彼ほどの才能の持ち主がこれだけ録音の機会を持てないほど不況が深刻だったということなのか?それとも何かほかの理由があったのでしょうか?そして1934年には一挙に24曲のレコーディングが行われます。
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」の解説に拠れば、「ヴィクター・レコードにおける20年代のジャズ・コンボのリーダーはジェリー・ロール・モートンだった。そして30年代のリーダーはファッツ・ウォーラーだった。モートンがスイング時代の波に乗り切れず、不況下の時代に商業的成功を得るのは難しいと見たヴィクターは、モートンの位置をウォーラーに乗り換えた。それによってモートンは失意の中、ジャズ界から引退を迫られた」ということになるんだそうです。
この年はピアノ・ソロの録音は減少し、新たに「ファッツ・ウォーラー・アンド・ヒズ・リズム」という新コンボによる吹込みが増えてきます。そのコンボによる11月7日の録音が年間ヒット・チャート第10位というヒットになった「ハニーサックスル・ローズ」です。詳しくは、「ファッツ・ウォーラー 1934年」をご覧ください。

注目のニュー・カマー … アート・ティタム

アート・ティタム 油井正一氏のレコード解説によるとティタムは1933年に初めてレコーディングを行い、ソロで4曲を録音したというがそのレコードは持っていないので、今回が初登場となります。ごく初期の吹込みであることは間違いないでしょう。
ティタムはよく不世出のピアノの天才と言われます。その華麗なテクニックと天才ぶりの逸話は絶えませんが、突然現れた驚異の天才ピアニスト的色彩が強く、また直接的な後継者というのも見当たらないため、まさに「孤高の」という形容詞が付されることが多いようです。ジャズの歴史などを扱った本などを見てもその孤高ぶりからか「かつてこういうすごいピアニストがいた」的な取り上げ方が多いような気がします。
また油井氏によれば、ティタムは我が国のジャズ・ファンに不当なほど知られていない真の巨匠とし、その理由は「ティタムのレコードは売れない」というジンクスがあるためだと述べています。
ティタムはその脅威的なテクニックをよく謳われますが、それは元々クラシック・ピアノでその腕前を鍛え、クラシック・ピアノのコンサート・ピアニストを夢見ていたのですが、黒人にとっては、まずそれは不可能に近いことでした。そのため彼はジャズ・ピアニストになることを選ばざるを得なかったのだといいます。
生まれ故郷のオハイオ州トレドでピアノを弾いていましたが、1932年彼の腕前を高く評価したピアニストのジョー・ターナーによって歌手アデレイド・ホールの伴奏者に推薦され、同年冬ニューヨークに出て、ホールの伴奏者となっていました。アデレイド・ホールはデューク・エリントンのレコードなどでこれまで何度か登場している歌手です。詳しくは、「アート・ティタム 1934年」をご覧ください。

カンサス・シティ・シーン … ベニー・モーテン

カウント・ベイシー達が在団していたベニー・モーテン楽団は1932年12月にヴィクターとの契約が切れたためと大不況の影響のためと思われますが、1934年の吹込みは見当たりません。

ブルース

僕の持っているこの年のブルースのレコードは数少ないですが、チャーリー・パットン、タンパ・レッドやビッグ・ビル・ブルーンジーといった大物の吹込みがあります。パットンは、この年の初め一緒に住んでいた内縁の妻、バーサ・リーと大喧嘩をし、投獄されますがヴォカリオン・レコードのW・R・キャラウェイに救われ、バーサと共にニュー・ヨークに上りレコーディングを行います。レコーディングが終了し、居住地のミシシッピ州ホリーリッジに戻ってほどなく、1934年4月28日心臓の僧帽弁の障害のため、40年余りの短い生涯を閉じます。詳しくは「チャーリー・パットン 1934年」を、その他のブルース・マンについては「ブルース・ピープル 1934年」をご覧ください。

ジャグ・ミュージック

ジャグ・ミュージックはジャズやブルースと非常に近しい音楽です。僕の持っているこの年のジャグ・ミュージックのレコードは数少ないですが、クラレンス・ウィリアムズ率いる「アラバマ・ジャグ・バンド」の9月の録音があります。詳しくは「ジャグ・バンド 1934年」をご覧ください。

バーバーショップ・コーラス

ジャグ・ミュージックなどとは対極にあるようなシティ・ミュージック「バーバーショップ・コーラス」。その代表格「ザ・ミルズ・ブラザーズ」の録音については、「ザ・ミルズ・ブラザーズ 1934年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1934年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1934年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみましょう。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
レスター・ヤング1909年8月27日ミシシッピ州ウッドヴィル評伝『レスター・ヤング』ディヴ・ゲリー
セロニアス・モンク1917年10月10日ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント評伝『セロニアス・モンク』ロビン・ケリー
チャーリー・パーカー1920年8月29日ミズーリ州カンサス・シティ評伝『バードは生きている』ロス・ラッセル
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス(
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー

レスター・ヤング
この年はレスターにとって激動の年でした。詳しくは<フレッチャー・ヘンダーソン>の項で書きましたので、割愛します。
セロニアス・モンク
評伝通りとすれは16〜17歳です。この年モンクにもその後の音楽に大きな影響を与えたと思われることがありました。大恐慌の下生活は苦しく、なかなか普通の仕事に就けないモンクはグレアム氏或いは「テキサスのつわもの」と呼ばれる伝道師と旅に出ることになったのです。その伝道師から伝道に必要な小楽団を作って欲しいと依頼されたのです。母親は反対したがモンクはやる気満々で出かけます。モンクはその楽旅についてほとんど明かしていませんが、メンバーはトランペット、サックス、ピアノ、ドラムスでリズム・アンド・ブルースとかロックンロールのようなものをやっていたと語っています。
筆者のケリー氏は、従来この旅をサーカスの巡業についていった演奏活動のように取り扱う記述が多いが、そうではない。宗教活動だったということは重要だと述べています。この伝道の旅は昔の大覚醒(リヴァイヴァル)のようなもので、アメリカ中の町を回り1か所で5〜6日間滞在し布教活動を行います。
グレアム師の会派はペンテコステ派で、この会派はメソジスト、バプティストに比べてはるかに熱狂的で、説教師が語り、信者たちが応え、感情が高ぶってくると床に倒れ、祈祷を行うのだそうです。そしてこれは西アフリカの祈祷師たちが行っていたことに非常に通じるといいます。これを毎日のように繰り返すのです。これが少年モンクに何の影響も与えないわけがありません。これらはアフリカン・アメリカン達の習俗「シャウト・ステップ」、「リング・シャウト」に通じるもので少年モンクに大きな影響を与えたと考えられます。後年モンクはサイドマンのソロの間ピアノの椅子から立ち上がり、踊りまわったそうですが、これは「リング・シャウト」を模しているのだというのです。共演したドラマーのすべてがこう証言しているとそうです。おそらくこの旅でモンクの中で、音楽と踊りとの本質的な関係が一層強まり、音楽とは身体を動かし、魂に触れるべきものという考えが根付いていったのではないでしょうか?。
チャーリー・パーカー
13〜14歳。13歳の時母親は貯めていたお金で古ぼけたアルト・サックスを買ってくれました。そして14歳の時シンプソンとローレンス・キーズの率いるスモール・バンドで初めてギャラ付きの仕事をします。その14歳の時ミュージシャン・ユニオンに加入するため18歳と偽り、年上ミュージシャンと付き合うようになり、学校へは行かなくなります。当時カンサス・シティの<リノ・クラブ>には、カウント・ベイシー、レスター・ヤングなどを擁するベニー・モーテンの楽団が出演していました。
チャールズ・ミンガス
11〜12歳。日本人移民家族と出会い、自分の身は自分で守ることを教わったエピソードが記載されています。これは黒人のミンガスにとってとても重要なことでした。
マイルス・ディヴィス
1934年は7〜8歳です。6歳か7歳ころの体験として非常に重要なエピソードが登場します。これはまた有名な話で、これを基にしたテレビの特集番組が作られたほどです。それはアーカンソーの祖父のところでの体験です。要約すると、「田舎の暗い道を歩いていると、突然音楽が聞こえてきた。B.B.キングみたいなギターを弾く奴がいて、男と女が「失望」について歌っていた。それから俺の体にブルースとか教会音楽とかバック・ロード・ファンクとか南部や中西部のサウンド、リズムが俺の体に入って来て染みついた」というものです。これはどういうことでしょうか?黒人には生まれつきブルースなどが身についているものではないということでしょうか。良家の生まれのマイルスはそれまで触れる機会がなかったということなのでしょう。
また7歳か8歳の頃、「ハーレム・リズムズ」というラジオ番組を聴き始めたころから音楽に入れ込み始めたそうです。その番組は毎日8時45分から始まるからよく学校に遅れたといいます。「たいていは黒人のバンドだったが、白人のバンドがかかることもあり、白人ではハリー・ジェイムズかボビー・ハケット以外はスイッチを切った。ルイ・アームストロング、ジミー・ランスフォード、ライオネル・ハンプトン、カウント・ベイシー、デューク・エリントンたくさんのバンドを聴いて興奮した」と書いています。
ジョン・コルトレーン
マイルスと同い歳、1934年は7〜8歳です。ウィリアム・ペン・ハイスクールに入学します。音楽との出会いについて記載はないが、ここで初めて「アルトホーン」とクラリネットといった楽器は手にしたといいます。演奏方法は、教会のコミュニティ・バンドのスティール氏から学んだとあります。
スタン・ゲッツ
1934年は6〜7歳です。6歳のころ(1933年ころ)スタンの音楽の天賦の才が現れ始め、ピアノを持つ友人宅を訪れたとき、スタンが弾かせてくれとしつこくせがんだといいます。そしてスタンは全く澱みなくラジオで聞いて耳で覚えた曲を完璧に演奏したというエピソードの続きはもう少し先のことになります。
ビル・エヴァンズ
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1934年は4〜5歳。音楽との出会いはまだです。
穐吉敏子
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1934年は4〜5歳。住んでいた満州国・遼陽には10月には冬が来るそうです。小学校の運動場にはスケート・リンクが作られ、10月から翌年3月までスケートをやったそうです。そして敏子の姉妹はみな運動神経がよく、スケートを覚え得意としていたようです。よく運動神経と音楽の能力は比例すると言いますが、生まれつき<運動神経>と<音楽の能力>が備わっていたのでしょう。
左の図は当時の満州国です。生地の遼陽、そして後に敏子は大連の女学校に入学します。
ウエイン・ショーター
1933年生まれなので、0〜1歳です。まだこれといったエピソードはありません。

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