僕の作ったジャズ・ヒストリー 1… 初めに

まず「ジャズ」とは何でしょうか?どんな音楽で、どうやって生まれ、どういう経緯をたどって現在聴かれているような音楽になってきたのでしょうか?つまり「ジャズの歴史」を自分なりに確認したい、それがこのサイトのテーマです。

「ジャズ」(Jazz)という言葉について

さて、この「ジャズ」(Jazz)という言葉はもともとはどのような意味で、いつごろから使われ、その語源はどこからきているのでしょうか?何人かの方が述べているので先ずはそれらをご紹介しましょう。

ジャズ評論家の「いソノてルヲ」氏は小学館「日本百科事典」において

「ジャズという言葉の語源には、伝説的なジャズ初期の演奏者チャールス(Charles)がなまったという説と「せかせる」というイギリスの方言”Dzaz”に由来するという説があり、後者に賛成者が多い。」

大和明氏著『ジャズの黄金時代とアメリカの世紀』(音楽之友社)によれば

「初めてジャズという言葉が公式な場で現れるのは、1913年3月6日発行のサンフランシスコ新報の記事と言われている。ジャズの語源は、それ以前に体育競技のスピードとエネルギーを表すスラングであり、性的な意味にも使われた”Jass”という言葉があった。さらにその後1917年になると”Jas”、”Jass”、”Jaz”、”Jasz”、”Jascz”など様々に表記されて印刷物などに登場するようになる。」
そういえば初めてジャズ演奏を録音した「ニュー・オリンズ・ジャズ・バンド」(O.D.J.B.=Original Dixieland Jass Band)も表記は”Jass”でしたね。

『ジャズ百科事典』(スイングジャーナル社)

「フランス語の「早める」という動詞”jaser”からきているとか、Charlesという名のドラマーを仲間のプレイヤーが”chas”⇒”Jaz”と訛っていたのが始まりとかという説があるが、実際には1900年以前にニグロの間の秘語として使われていたことも確かであるとし、その意味は性交や女性性器を意味していたが、後にはナンセンス、馬鹿げたおしゃべりといった意味に使われたこともあった。」

ヨアヒム・ベーレント著『ジャズ』

「1915年シカゴでジャズ・バンドを率いていたトム・ブラウンは、この言葉を最初に使ったのは自分であると主張した。しかし1913年にこの言葉は音楽用語として、サンフランシスコの一新聞が使っている(大和明氏と同じ、大和氏のネタ元か)。さらにその前にJassという言葉は(もっと前にはJasmとかGismと綴られた)体育競技のスピードとエネルギーを意味するスラングだったし、性的な意味にも使われたようである。」
要するに「語源についてもはっきりしたことは分かっていない」ということです。

「ジャズ」(Jazz)の起源は

大和田俊之氏は『アメリカ音楽史』(講談社選書メチエ)において、「これまでにジャズの起源について様々なことが書かれてきたが、実ははっきりとしたことはまだわかっていない。歴史学、音楽学、人類学、社会学に携わる多くの研究者が長年にわたってこの問題について取り組んできたものの、ジャズの起源について学術的な合意が得られているとは到底言えない」と述べています。つまりジャズはどのようにして生まれたのかはわかっていないということです。ではその「ジャズの起源について書かれてきた様々なこと」を見てみましょう。

広辞苑

―僕の持っているのは、第2版昭和57年に出た第7刷と少々古いですが、そこでは次のように書いています。
「アメリカに発生した民衆音楽。南部の黒人音楽から出たもので、舞踏に適する明快な律動を有する。そのバンドは、ピアノ、バンジョー、サキソフォン、トランペット、トロンボーン、大太鼓、小太鼓その他の打楽器などで編成され、即興的な演奏を生命とする。」

百科事典

―昭和38年発行の小学館「日本百科事典」から。執筆者はジャズ評論家のさきほどの「いソノてルヲ」氏である。
「アフリカからアメリカへ移住した黒人によって創造された新しい演奏法による音楽。19世紀末から20世紀にかけてアメリカ合衆国の南部で誕生した。現在では全世界に広がり、一つの鑑賞音楽となったが、従来はダンス音楽と考えられていた。ジャズの特色は、即興的に音楽を創作して同時に演奏する、いわゆるインプロヴィゼーションにある。」
ジャズの通史ではどう言っているでしょう。

@エドワード・リー著小木曽俊夫訳『ジャズ入門』(音楽之友社)1972年刊

「ジャズを始めたのはアメリカ黒人であるという認識において、一般的通念と歴史的研究成果は一致している。」

Aジョン・F・スウェッド著諸岡敏行訳『ジャズ・ヒストリー』(青土社)2004年刊

「ジャズは黒人音楽として始まり、(アメリカ合衆国の音楽)文化の中心へと移行した。」

Bガンサー・シュラー著湯川新訳『初期のジャズ』(法政大学出版局)1968年刊

「この新しい音楽は、一面では黒人奴隷のアメリカへの輸入によりアフリカから、一面では西欧から新世界へもたらされた多彩な音楽的伝統から発展してきた。」

Cヨアヒム・エルンスト・ベーレント著油井正一訳『ジャズ』(誠文堂新光社)1968年増補刊

「ジャズとは、アメリカにおいて、黒人とヨーロッパ音楽の出会いから生まれた芸術である」(最終章「定義」)

D油井正一著『ジャズの歴史』昭和42年改訂増刷(東京創元社)

「ジャズは、1900年前後にアメリカのルイジアナ州ニューオリンズに起こった音楽であります。」

E相倉久人著『ジャズの歴史』2007年刊(新潮新書)

「ジャズは19世紀の終わり(1890年代)から20世紀のあたまにかけて、ニューオリンズなどアメリカ南部の都市を舞台に、そこに暮らす黒人たちの手で、徐々に形を整えていきました。」

F村井康司著『あなたの聴き方を変えるジャズ史』2017年刊(シンコー・ミュージック・エンタテイメント)

「ジャズという音楽は、19世紀末にルイジアナ州ニューオリンズで演奏されていた様々な音楽が融合してできたもの」

G丸山繁雄著『ジャズ・マンとその時代』平成18年刊(弘文社)

「ジャズを生んだ人々は、アフリカン・アメリカン(アメリカ黒人)と呼ばれる人である。」

H里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』2018年刊(ちくま新書)

「遅れて拍子を打つバック・ビート(4拍子と1拍目と3拍目におくアクセントを、2拍目と4拍目にずらして演奏する)をリズムにもち、即興演奏を生命とする音楽」

Iジェイムズ・M・ヴァーダマン『はじめてのアメリカ音楽史』2018年刊(ちくま新書)

「黒人のアフリカ音楽と白人のヨーロッパ音楽が融合して、ニューオリンズ(ルイジアナ州)で生まれた音楽」

以上が辞書・事典、通史で語られる「ジャズとは大体こんなもの」です。キーワードは、

1.誕生時期 … 19世紀末から20世紀初頭

2.誕生場所 … ルイジアナ州ニュー・オリンズ近辺

3.生みの親 … アメリカ黒人

ということになりそうです。

まず「1.誕生時期」の「19世紀末から20世紀初頭」についての全般については「そもそも・モール アメリカの歴史7」をご覧いただくとしてここでは、「2.誕生場所」のニュー・オリンズについて、何故ニュー・オリンズで、そしてこの時代のニュー・オリンズについてみていくことにしましょう。そこには自然と「3.生みの親」の黒人であるということが絡んでくると思います。

ニュー・オリンズの特殊性

ニュー・オリンズ

ジャズ発祥の地といわれるニュー・オリンズの特殊性はいくら強調してもし過ぎるということはないと言われます。ニュー・オリンズはアメリカ合衆国のいわゆる深南部(ディープ・サウス:Deep south)、ルイジアナ州にあるカリブ海に面した港湾都市です。合衆国の一地域ですが、目を海のほうに向けてみると、カリブ海の沿岸地域でもあります。
歴史を振り返ってみても、もともとはフランスが開拓し、一時期スペイン領となりますが、ナポレオンの時代にフランスにもどり、アメリカに買収されています。領主が替わったと言って住民が入れ替わるわけではありません。フランス、スペインからの植民者が多いこの地域では、アメリカに編入されることを大いに悲しんだと伝えられていますが、国家としてはアングロ・サクソンの合衆国の一員になりました。しかし周りのカリブ海諸国はほとんどがスペイン領(一部フランス領)という状況なのです。つまりニュー・オリンズは、人種が入り乱れる特殊な地域でありながら、アメリカの法制度の下で歴史が進んでいくことになります。
油井正一氏は次のように述べています。「このように多様な人種で構成された社会には一定した性格がみられない。話し言葉も混乱していて、フランス語、スペイン語、英語、クレオール語(一種フランス語の放言)が通用していた。1880年〜20世紀の初めにかけて、ニュー・オリンズで演奏されていた音楽は、『世界の縮図』そのものであった。この町ほど、音楽と市民生活が密着していた都市は他に類がない。音楽会などをわざわざ聴きに行かなくても、市民生活イコール音楽だったとさえいえるのである。
ブラス・バンドで練り歩くストリート・パレード―いろいろな編成のグループがいっぱいあって町中が音楽であふれていた。家庭でも客までも台所でも人々は歌った。市民は各々の出身国の音楽を持ってきていた。西インド諸島、イギリス、アイルランド、スコットランド、ドイツ、アフリカ、スペイン、メキシコ、フランス…。その上国内を巡業してくる音楽グループを通じて東部、中西部、南部、北部の音楽を覚えこんだ。換言すれば、後にジャズを作り出したミュージシャンの頭の中には、世界中の音楽が強制的に詰め込まれていたわけである。」
また『初めてのアメリカ音楽史』(P136)によれば、ニュー・オリンズという町では、肌の色による抑圧が他の南部の都市とは比べ物にならないくらい低かったのだそうです。黒人奴隷たちもほかの地域の奴隷よりも「自由」を享受していました。ニュー・オリンズの黒人法では、日曜日と祝日には強制労働を免除され、土地を与えられていたものもいて彼らは自由に農作物を売りさばくこともできたというのです。

18世紀末ごろのコンゴ・スクエア

奴隷所有者から監視されな自由時間もあり、黒人たちはフレンチ・クォーター(中心部)に出かけ、トレメ地区にある広場、コンゴ・スクエア(現在はルイ・アームストロング公園と呼ばれている)に集うこともできました。そこで彼らは大きな声で歌い、太鼓を打ち鳴らしたというのです。さらに1805年コンゴ・スクエアでの踊りが許可されると、ニュー・オリンズの町々へ黒人の踊りが広がっていったといいます。もちろん太鼓はアフリカ生まれ、コンガやボンゴなどもアフリカ産で、コンガはコンゴが変形したものだそうです。そこではヴ―ドゥ―教の儀式も太鼓を使って行われていたというのです。
19世紀の初めにニュー・オリンズを訪れた旅行者の、コンゴ・スクエアに500人ほどの黒人が集まって、太鼓を叩いたり、輪になって踊ったりしているのを目撃したという記録もあるそうです。さらに19世紀の半ばには、打楽器の他にトライアングル、フィドル、タンバリン、ハーモニカという楽器も登場してくるそうです。これらはほかの地域では考えられないことです。
しかしニュー・オリンズには、「負」の側面もありました。それはニュー・オリンズが南部の主要生産物である煙草、穀物そして綿花の輸出港として、そしてカリブ海諸島経由で輸入される奴隷を「水揚げ」する拠点港として発展したことです。貿易、商業が興隆となり、貿易港として各国人がこの都市に出入りするようになると、酒場、淫売屋、賭博場などが急速に数を増し、ニュー・オリンズは一大歓楽街になっていくのです。奴隷貿易に関してもう少し触れると、奴隷は単に陸揚げされるだけではありません。町の広場では奴隷を競りにかける市が開かれました。ニュー・オリンズは、奴隷の買い付けに全米から奴隷商人やプランターが集まる「アメリカ最大の黒人奴隷市場」でもあったのです。
丸山繁雄著『ジャズ・マンとその時代』(弘文堂)によると、ニュー・オリンズでは、通常の奴隷市の他に「クオドルーン・ボール(quadroon ball)」(混血女の舞踏会)という名の定期市も開かれていました。「クオドルーン」とは白人と女性クレオールの混血、すなわち「黒人の血を1/4受けている人」を意味します。

ニュー・オリンズ/ストーリーヴィル

ちょっと言葉を整理すると、クレオール(Creole、クリオールとも記される)とは、もともとは「ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者」を指していました。しかしこうした本来の意味から転じて、「フランス系やスペイン系の白人と混血した黒人を指す用い方もされるようになります。要するに奴隷主がその所有する女奴隷に産ませた子供」が「クレオール」、そしてその女性と白人男性の間にできた子供が「クオドルーン」です。油井正一氏によれば、「クオドルーンにせよオクトルーンにせよ、黒白混血女は、錬金術的な美貌と、性的魅力を持っていた」そうで、そのため富裕な農園主や商人はこの「クオドルーン・ボール」に現金を持って集まり、自ら囲い者にする黒人女性を吟味し、買い付けていたのです。奴隷制は農場だけで行われたわけではありません。アフリカ人女性は奴隷商人にとっては、安価な原価と輸送費だけで輸入できる「性の商品」だったのです。「クオドルーン」の女性は、黒人の妻となる自由を与えられておらず、白人の妻となる自由もなく、唯一の運命は白人の慰み者になるしかなかったというのです。
もう一つニュー・オリンズの暗部として忘れてはならないのが「ストーリーヴィル(storyville)」の存在です。「ストーリーヴィル」は米国市場唯一の政府公認の買春街でした。1857年ニュー・オリンズ市は法律を発布し、非常に回りくどい表現で売春行為は2階以上でやるように規定しています。そして1897年、時の助役シドニー・ストーリーが、これらの売春宿を1か所に集めますそしてその地区を自分の名をなぞらえ「ストーリーヴィル」と命名したのです。

さて、重要なのはこのクレオールです。クレオールは純粋なアフリカ人の子孫よりも肌の色の薄い市民でした。黒人たちのヨーロッパ化に大きく貢献したのはこのクレオールたちでした。彼らの社会的地位は高く、長い間黒人よりはるかに多くの富と特権を享受していました。ニュー・オリンズの特殊なところは、このクレオールが白人と同等の権利を保障されていたというところです。ベーレント氏は「クレオールの祖先は、特別な功績を認められて、富裕なフランス人の農園主や商人によって、南北戦争以前に開放され自由市民となっていた人たち」だと述べています。またニュー・オリンズにはベーレント氏の言うようにこの地で解放されて自由市民になったクレオールの他に、村井康司氏は、「19世紀初頭に起きたハイチ革命で、ハイチに黒人政権が誕生し、主にフランス系の白人達と、彼らが連れてきたアフリカ系奴隷、そしてクレオールがキューバやプエルト・リコ、そしてニュー・オリンズに逃げてきた」ことが大きいと述べています。
またクレオールは裕福な白人を養父に持つことが多く、彼らの多くは教育を受けていましたし、白人の生活と地位に慣れていたのです。クレオールで成功した者は、ニュー・オリンズのダウンタウンに高級住宅地を形成し、奴隷階級にある黒人たちを見下し、中には自身黒人奴隷を所有し農場経営を行ったものもいるというのです。因みにニュー・オリンズのダウンタウンとは、日本でいう「下町」とは異なり高級住宅街です。下層黒人が住む場所はアップタウンと呼ばれ、市中央部のキャナル・ストリートを挟んで西側に位置していました。
油井正一氏『ジャズの歴史物語』によれば、
「1850年ごろクレオールの繁栄は絶頂に達し、子弟をフランスに留学させ、中にはそのままフランスに住み着いてしまうものも多かった。日常用語はフランス語という一種のエリート階級で、子供達にはヴァイオリンやピアノを習わせて、みっちりと音楽教育をほどこす商人などの金持ちが多く、金を出し合って百人編成の交響楽団まで養成したというから、教育パパと教育ママがそろった階級だったと言えよう。この交響楽団の指揮者がニュー・オリンズ生まれのクレオール、エドモン・デーデ(Edmond Dede)でパリの音楽院で学び、後ボルドーのオペラ・ハウスの音楽監督になった俊才も現れた。もっとも成功に遅れたクレオールでも、靴屋、床屋、洋服屋、大工、室内装飾などの仕事をし、大体中産階級の生活を送っていた」といいます。

ニュー・オリンズ/ストーリーヴィル

ここから想像できるように、これらクレオールがジャズの誕生において大変大きな役割を果たします。丸山繁雄氏(『ジャズ・マンとその時代』)によれば、まずクレオールはアメリカの黒人社会、特にニュー・オリンズにヨーロッパ音楽をふんだんに持ち込みましたし、反対にヨーロッパ、特にフランスにアメリカの黒人音楽のエスプリも伝えたのです。例えばフランスの印象派の巨匠クロウド・ドビュッシー(1862〜1918)は、『ゴリウォーグのケイク・ウォーク』(組曲「子供の領分」1908年)や『ミンストレルズ』(1909年)という曲を作曲していますが、それらはその影響だと言います。

※「ケイク・ウォーク(cake walk)」の記述の違い

左は僕の持っている数少ないドビュッシーのピアノ曲のCDです。ウォルター・ギーゼキングというピアニストが弾いたものです。ここに『ゴリウォーグのケイク・ウォーク』が収録されています。曲というか演奏は、部分的に左手がブンバンブンバンというストライド奏法を思わせる個所が出てきたりして、年代的には?ですがラグタイムの影響か?と興味深い作品です。この曲を含む組曲「子供の領分」不思議なところがあります。それは原題を”The Children's corner”とドビュッシーは英語で付けたことです。この理由は分かっていないそうです。もしかすると彼はアメリカからやって来たクレオールと交流があったのかもしれません、いやあったのでしょう。でなければ「ケイク・ウォーク」を知るはずがありません。
しかしこの「ケイク・ウォーク」めぐるCD解説の三浦淳史氏と『ジャズ・マンとその時代』の丸山氏の解説は大いに異なります。
先ず三浦氏「”ケイク・ウォーク”は、1850年ごろから1930年ごろにかけてアメリカ諸州で流行った子供の遊戯である。子供たちは椅子の周りを歩いたり、踊ったりしていて、音楽が止むと椅子を掴まえて座る。椅子の数が減って行ってたった一人が残るまで遊技は続けられる。最後に残った勝者は賞品としてケーキ(cake)をもらったことから、ケイク・ウォークと呼ばれるようになった」。何のことはない日本の「椅子取りゲーム」である。
一方丸山氏の記述はかなり詳細にわたり長いので要約すると、「白人プランターたちの催す大舞踏会で最後に繰り広げられる男女手を組んでの行進を見た黒人奴隷たちがそれを大げさにデフォルメし、滑稽化して舞踏を行った。最も主人を滑稽化し、仲間に受けたペアにケーキが振舞われたことからケイク・ウォークと名付けられた。そしてこれを見た白人達は自分たちがからかわれたことを知らずにミンストレル・ショウのハイライトとして取り入れた。1890年代のラグタイムの到来によりケイク・ウォークは黒人、白人を問わず国民的狂騒娯楽となった。」

アメリカ本国では、1892年ヨーロッパから作曲家アントニン・ドヴォルザークをニューヨークの国立音楽院の院長として招き、クラシック音楽のレベル向上を図っている時ヨーロッパでは、ドビュッシーらがもしかすると渡欧したクレオールからアメリカのミンストレル・ショウの音楽から影響を受けていたのかもしれません。

クレオール栄華の終焉

1965年南北戦争の終結に伴う黒人奴隷の解放は、奴隷黒人の身分をあくまで法律的には向上させましたが、それ迄特権を甘受してきたクレオールの身分を「単なる黒人」の身分に引き下げることになります。400万人に上る黒人奴隷の解放は低廉な労働力資源と新しい最低層労働者を誕生させました。南部全域にわたって労働賃金の低下を招き、貧困白人階級の雇用確保にも致命的な不安材料を投げかけることになります。ただでさえ敗戦の痛手に苦しむ経済崩壊の南部では、仕事と収入を奪い合う人種間の軋轢は貧困層において激しさを増します。こうしたことが数々の「ジム・クロウ法」を成立させていくのですが、ついに白人達の憤懣はついに1874年「南部同盟(White league)」の結成につながっていきます。その目的は南部に入り込んでくる北部人の追放と、黒人に対してその分を守らせることにあったと言います。
そのとんでもないとばっちりを受けたのがクレオールたちでした。「あいつらだって黒人じゃねぇか。やっつけちまえ。でけぇ顔はさせとけねぇ」というわけです。クレオールの商人から物を買うのをやめる。クレオールの仕事を白人の手に奪い返す。こういうことが悪意を持って、頻繁に行われたのです。クレオールの知識階級に牛耳られていた市の行政機構も全部白人に握られることになり、地位的、経済的にクレオールの没落が始まっていくのです。
こうした傾向にとどめを刺したのが、1894年に出された行政条例第111号です。すなわち「クレオールもまた一般黒人と同様、差別を受けること」ということになってしまいます。このように白人社会から締め出されたクレオールは、アップ・タウンの元奴隷たちの中に、恥を忍んで働きに出なければならなくなったのです。こうしたクレオールの没落は、ジェリー・ロール・モートンの話を速記したアラン・ローマックスの著書に克明に捉えられています。
白人の下で受けた教育と白人社会への強い憧憬があったからこそ、彼らは、1894年の人種差別法によってその社会的地位が黒人と全く同じところまで追いやられ、低落してしまった後でさえも、新たな同僚たる黒人たちの間にあって、白人の影響を十分に伝え得たのですが、しかし問題も多々ありました。クレオールは昔の栄華が忘れられなかったのか、一般黒人とは折り合いが悪かったのです。仲が悪いどころか敵対意識があったとヨアヒム・ベーレント氏は書いています。
白人が黒人に対する態度よりも、クレオールの黒人に対する偏見の方が、激しかったと言われます。ルイ・アームストロングのホット・ファイヴなどで名を上げるギター奏者のジョニー・センシアは、「この当時、白人が黒人に対する態度よりも、クレオールが黒人に対する偏見の方が激しかった」と証言しています。
このクレオールと解放黒人の対立は後々にまで影響を及ぼします。後に「ニュー・オリンズ・リヴァイヴァル」の波に乗って発見された解放奴隷出身のバンク・ジョンソン(Tp)とクレオールのジョージ・ルイス(Cl)は、結局は喧嘩別れをしますが、油井正一氏は「解放奴隷出身とクレオールがうまくいくはずがない」と切って捨てています。 ともかくこのクレオールが存在がジャズ誕生に大きな影響を及ぼして行くことになります。そのことはおいおい触れていくことになると思います。

「ジャズとは何か?」

ニュー・オリンズ/ストーリーヴィル

サラリーマンを引退した単なるオジサンの僕などよりももっともっと何倍も凄い人が「ジャズとは何か」を解説してくれる録音があります。その凄い人とはかのアメリカ・クラシック界の重鎮クラシックレナード・バーンスタイン氏(1918.8.25〜1990.10.14)です。
バーンスタイン氏はご存知のように1918年アメリカ・マサチューセッツ州生まれで、アメリカが生んだ最初に国際的な指揮者といわれた人物です。そういう方が「ジャズとは何か」を教えてくれる、こんなありがたいことはありません。
この作品はベッシー・スミスの古い録音なども用いていますが、当時最新のジャズとしてマイルス・ディヴィスの演奏も収めています。使用されているマイルスの録音は1956年9月10日に吹き込まれた”Sweet Sue , just you”で、これはマイルスのコロンビア・レコード移籍の第1弾”’Round about midnight”に収録されているものです。この演奏は一連の解説の最後に収録され、バーンスタイン氏は「我々が今聴いているのは現在のジャズです。それは確固たる過去と生き生きとした未来を持ったフレッシュで生命力に富んだ芸術です」と締めくくっています。実際その通りなのですが、コロンビアがプレスティッジ・レコードから引き抜いた当時新人のマイルスの宣伝も兼ねているのでしょう。レコード”What is Jazz ?”の発売は1956年とのことですので、マイルスの録音を直ぐに組み込み、直ぐに発売したものと思われます。
バーンスタイン氏は、1943年病気のために指揮が出来なくなったブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニックを指揮して成功を収め一躍有名になったそうですが、同楽団の音楽監督に就任するのは1958年のことです。この1956年という時期は未だその地位を確実なものしたとはいえない状況であり、そんな時期に一般の白人たちには単なる黒人音楽として顧みられることのなかった「ジャズ」を正面から語るというのは大変に勇気の要ることであったと思われるのです。しかも氏は中でクォーター・トーンの説明するために何とスワヒリ族の歌を歌っているのです。クラシック界の期待の新星がアフリカの土人の歌を歌う、こんな冒険をするのはこの人くらいでしょうし、それだけ真摯にこのジャズという音楽の素晴らしさを受け止め、多くの人に知ってもらいたいと願っていたのでしょう。
さてこの録音は日本では最初にレコードで発売され後にCD化もされました。僕は双方もっているのですが、もしこれから買おうという方へ中古ショップでどちらも安く出ているので、見かけたらどちらも買われることをお勧めします。というのは、レコードはバースタイン氏のナレーション原文と飯塚経生氏の対訳を掲載しています(レコード・サイズ約7ページ)し、CDの方は小川隆夫が約12ページに渡って詳細に解説してくれています。どちらも大変に参考になるものです。
さて内容ですが、バーンスタイン氏は冒頭で「ニュー・オリンズから始まる歴史には触れないで音楽そのものを検証しよう」と語っており、その通り歴史的な背景は抜きにしてブルー・ノートやリズムのことを解説してくれている。そして分かりやすくするためにクラシックのとの対比で語ることが多いのが分かりやすい。先ほどの「クォーター・トーン」なども正直このレコードで初めて僕は知りました(汗!)。

このWebサイトについてのご意見、ご感想は、メールでお送りください。

お寄せいただいたご意見等は本文にて取り上げさせていただくことがあります。予めご了承ください。