現在私たちは、1939年9月ドイツ軍のポーランド侵攻から第二次世界大戦に突入し、日本では1941年12月のハワイ・真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入し、欧州そしてアジアで大規模で悲惨な戦争が行われたことを知っています。そんな開戦前のこの年世界はどのように動いていたのでしょうか?簡単に振り返ってみましょう。
順位 | アーティスト | 曲名 |
1 | フレッド・アステア(Fred Astaire) | 頬と頬(Cheek to cheek) |
2 | ザ・カーター・ファミリー(The Carter family) | 永遠の絆(Can the circle be unbroken) |
3 | エディ・デューチン(Eddy Duchin) | ラヴリー・トゥ・ルック・アット(Lovely to look at) |
4 | シャーリー・テンプル(Shirley Temple) | オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ(On the good ship lollipop) |
5 | レイ・ノーブル(Ray Noble) | カプリ島(Isle of Capli) |
6 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | きよしこの夜(Silent night , holy night) |
7 | コール・ポーター(Cole Porter) | ユア・ザ・トップ(You're the top) |
8 | パッツィ・モンタナ・アンド・ザ・プレイリー・ランブラーズ(Patsy Montana & the prairie ramblers) | カウ・ボーイの恋人になりたい(I want to be a cowboy's sweetheart) |
9 | フレッド・アステア(Fred Astaire) | トップ・ハット・ホワイト・タイ・テイルズ(Top hat , white tie & tails) |
10 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | 夕日に赤い帆(Red sails in the sunset) |
年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、フレッド・アステアの「頬と頬」。ジンジャー・ロジャースとのゴールデン・コンビで出演して大ヒットとなった映画「トップ・ハット」(Top hat)の挿入歌です。なお9位の「トップ・ハット・ホワイト・タイ・テイルズ」同映画の挿入歌です。僕の持っている数少ないSP盤の中にこのSP盤があります。オールド・ファンには懐かしいレコードだと思います。このレコードはラベルを見てお分かりのように、「ラッキー・レコード」という日本の会社から発売されたものです。ラッキー・レコードは、1934年11月に綿花の輸入ビジネスを行っていたSaito Shoten(斎藤書店?)が経営していた「ラッキー・レコード」によって設立された東京に本社があったレーベルということの他詳しいことは分かっていません。1930年代アメリカのポピュラー音楽を中心に輸入、発売していたようです。ということはこの時点ではまだアメリカから、ポピュラー音楽のレコードが輸入、販売されていたことが分かります。
2位のカーター・ファミリーは、白人バンドの元祖と言われるバンドで、フォーク・ソングやカントリー・ミュージックの草分け的存在です。メンバーの一人、メイベル・アディントン・カーターが編み出した、右手親指で1〜3弦の低音部を弾き、人差し指で4〜6弦の高音部を弾くという「カーター・ファミリー・ピッキング」を、日本でもフォーク・ギターを弾く人でやったことがない人知らない人はいません。2位にランクされた「永遠の絆」エイダ・R・ハーバーションとチャールズ・H・ガブリエルによって作られたゴスペル・ナンバーで彼らの最初のヒット曲です。
3位のエディ・デューチンは白人のピアニスト兼バンド・リーダーでいわゆる「スイート」系のバンドを率いて人気があったアーティストです。この「ラヴリー・トゥ・ルック・アット」は1933年に公開されたロマンティック・コメディ・ミュージカル映画のタイトル曲です。サウンドトラックではないようです。
またまた懐かしい名前が出てきました。4位のシャーリー・テンプル(1928〜2014:写真右)です。天才子役として、1931年(3歳)から映画に出演し、大人気となります。日本でも「テンプルちゃん」はかわいらしくて大人気だったと僕の母親も言っていました。この「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」は、1934年の映画「ブライト・アイズ」(Bright eyes)でテンプルが歌った曲で、彼女が初めて歌った曲と言われています。
5位のレイ・ノーブルはこれまで何度か登場しているイギリス出身のスイート系ダンス・バンド。この「カプリ島」は1934年に出版され、レイはこの曲をロンドンでレコーディングしたそうです。7位と9位は相川図の人気を誇るビング・クロスビー。7位はクリスマス・ソングとして定番の「きよしこの夜」、10位の「夕日に赤い帆」はこのクロスビー盤が初演で、この後ルイーアームストロングはじめ沢山の人々によってカヴァーされました。
7位のコール・ポーターは作曲家としてまりにも有名ですが、自身で歌って大ヒットしたのはこの曲が初めてだと思います。他にも"Love for sale""Night and day""Begin the beguine""You'd be so nice to come home"などジャズでもおなじみの定番曲がたくさんあります。
8位のパッツィ・モンタナ・アンド・ザ・プレイリー・ランブラーズ(写真左)の「カウ・ボーイの恋人になりたい」は、最初に録音されたカントリー・アンド・ウエスタンの曲と言われます。
その他ジャズ関連でのチャートを見ると、ドーシー・ブラザーズの"Lullaby of broadway"が11位と"Chasin' shadows"が24位、グレン・グレイとカサ・ロマ・オーケストラの"Blue moon"が12位、ファッツ・ウォーラーの"Truckin'"が15位、ベニー・グッドマンの"King porter stomp"が16位、ジミー・ランスフォード・オーケストラの"Rhythm is our business"が21位、ルイ・アームストロングの"I'm in the mood for love"が20位、ジャンゴ・ラインハルトの"Djangology"が49位など数多くの楽曲がトップ50以内にランク・インしています。
しかし何といっても人気だったのは、男らしいダンディズムをまき散らすクラーク・ゲーブル、愛くるしいお人形さんのようなシャーリー・テンプル、歌って踊れる映画スター、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスは正にきらめくスターであり、日本でもそのカッコよさ、華やかさにしびれ、ため息交じりに銀幕を眺めていたものだと母親も言っていました。
余談です
かつてそのキレキレのダンスで一世を風靡したマイケル・ジャクソン。1983年初めてその代名詞ともなる「ムーンウォーク」を披露すると、たくさんの人たちが「ムーンウォーク」を教えてくれとやって来たそうです。確かかつてSmapもTV番組でそんなことをやっていました。彼に教えを請いに来た沢山の人たちの中で最も覚えが速く上手だったのは誰かと尋ねられたマイケルは即座にこう答えました。「フレッド・アステアだね。」
すごい話です。1899年生まれのアステアは1983年としても84歳です。かつての白人の大スターがその当時の大スター黒人のマイケルに教えを請いに行くことがすごいですし、その80歳を超えたおじいさんが最も覚えが速く、美しい「ムーンウォーク」を踊ったというのです。げに恐ろしきは「芸の力」ということでしょうか。
前置きが長くなりました。1935年は音楽、特にジャズ関連において起こった重要なことが2つあります。
ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
レスター・ヤング | 1909年8月27日 | ミシシッピ州ウッドヴィル | 評伝『レスター・ヤング』 | ディヴ・ゲリー |
セロニアス・モンク | 1917年10月10日 | ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント | 評伝『セロニアス・モンク』 | ロビン・ケリー |
チャーリー・パーカー | 1920年8月29日 | ミズーリ州カンサス・シティ | 評伝『バードは生きている』 | ロス・ラッセル |
チャールズ・ミンガス | 1922年4月22日 | アリゾナ州ノガレス | 自伝『負け犬の下で』 | チャールズ・ミンガス( |
マイルス・ディヴィス | 1926年5月26日 | イリノイ州オルトン | 自伝『自叙伝』 | マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ |
ジョン・コルトレーン | 1926年9月23日 | ノース・カロライナ州ハムレット | 評伝『ジョン・コルトレーン』 | 藤岡靖洋 |
スタン・ゲッツ | 1927年2月2日 | ペンシルヴァニア州フィラデルフィア | 評伝『スタン・ゲッツ』 | ドナルド・L・マギン |
ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事情』 | 中山康樹 |
穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |