僕の作ったジャズ・ヒストリー 20 … スイングの幕開け 1935年

世界の情勢 … ファシズムの拡大とアメリカの再生

現在私たちは、1939年9月ドイツ軍のポーランド侵攻から第二次世界大戦に突入し、日本では1941年12月のハワイ・真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入し、欧州そしてアジアで大規模で悲惨な戦争が行われたことを知っています。そんな開戦前のこの年世界はどのように動いていたのでしょうか?簡単に振り返ってみましょう。

枢軸国…イタリア、ドイツ、日本

愛新覚羅溥儀 この辞典でムッソリーニが率いるイタリアとヒトラーのナチス・ドイツとの関係はオーストリアをめぐる対立から決して良好とは言えませんでした。ドイツは3月にヴェルサイユ条約破棄を宣言し再軍備に踏み切っていました。時のイギリスのボールドウィン内閣は、ヒトラーに一定の譲歩をすることでそれ以上の膨張政策を抑え、最も懸念していた共産国家ソ連に対する防波堤とするという宥和政策を取ります。一方イタリアは、10月エチオピアへ侵攻を開始します。これは当然ながら国際社会から激しい批判を浴びることになります。この機にオーストリアの併合を目論むヒトラーはイタリアとの関係を改善しようと動きます。翌年閣僚の一人、ハンス・フランクを派遣し、イタリアの外相を招きます。こうした両国は接近し1937年「ベルリン=ローマ枢軸」と呼ばれるような関係になっていきます。
そのころ日本で大きな議論となっていたのは、東京大学名誉教授であり、貴族院勅撰議員だった美濃部達吉博士が唱えた「天皇機関説」の不敬罪問題でした。これは当時制定されていた大日本帝国憲法の解釈で、天皇はあくまで国家があってのものであり、その権限は憲法などによって規定されたものであり、内閣の輔弼や帝国議会の協賛があって初めて行使できるという考え方です。これに対して の唱えた天皇主権説は、天皇は現人神であり、皇祖神から受け継いだ憲法などの法から拘束されるものではなく、法律以前から存在している自然な神権を持つ、国家を超越した存在であるとするものです。当の昭和天皇自身は「天皇=機関」説を当然と受け止めていたようですが、軍部の台頭とともに起こった「天皇=現人神=統治権の主体」とする国体明徴運動の中で排撃されていきます。
これはあくまで僕の記憶ですが、当時一般民衆はこれを憲法解釈論争とは分かっておらず、「天皇=現人神」という教育を受けており、どの天皇を機関などという機械設備のような用語をもって説明したことに対する反感が強かったと授業で習いました。
また4月には満州帝国の皇帝溥儀が来日、満州帝国の傀儡化を進め、中華民国との摩擦はいよいよ激しさを増していきます。

アメリカ

世界恐慌の発火元だったアメリカは、徐々に回復を見せ始めます。1933年、失業率が30%を越え失業者数も1500万人に達していましたが、1935年には失業率が26%、失業者数も1000万人を僅かに越えるくらいまでに回復してきます。国内に豊富な資源を持つアメリカ、世界各地に多数の植民地を持つイギリス、フランスといった「持てる国」と植民地や領土拡大を求めファシズム化を推し進めるイタリア、ドイツ、日本といった「持たざる国」の明暗がはっきりと分かれてくるのです。
「ある夜の出来事」ポスター

アメリカの大衆芸能

映画
この年の第7回(1935年2月発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは「ある夜の出来事」(It happened one night)。左写真はそのポスター。主演は「キング・オブ・ハリウッド」と異名を取る大スター、クラーク・ゲーブル(Clark Gable:1901〜1960)で、典型的なボーイ・ミーツ・ガールですが、作品、監督、主演男優、主演女優、脚色賞と主要5部門を独占しました。
ポピュラー・ミュージック
フレッド・アステア「頬と頬」 1935年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位アーティスト曲名
フレッド・アステア(Fred Astaire)頬と頬(Cheek to cheek)
ザ・カーター・ファミリー(The Carter family)永遠の絆(Can the circle be unbroken)
エディ・デューチン(Eddy Duchin)ラヴリー・トゥ・ルック・アット(Lovely to look at)
シャーリー・テンプル(Shirley Temple)オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ(On the good ship lollipop)
レイ・ノーブル(Ray Noble)カプリ島(Isle of Capli)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)きよしこの夜(Silent night , holy night)
コール・ポーター(Cole Porter)ユア・ザ・トップ(You're the top)
パッツィ・モンタナ・アンド・ザ・プレイリー・ランブラーズ(Patsy Montana & the prairie ramblers)カウ・ボーイの恋人になりたい(I want to be a cowboy's sweetheart)
フレッド・アステア(Fred Astaire)トップ・ハット・ホワイト・タイ・テイルズ(Top hat , white tie & tails)
10ビング・クロスビー(Bing Crosby)夕日に赤い帆(Red sails in the sunset)
シャーリー・テンプル 1933年

年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、フレッド・アステアの「頬と頬」。ジンジャー・ロジャースとのゴールデン・コンビで出演して大ヒットとなった映画「トップ・ハット」(Top hat)の挿入歌です。なお9位の「トップ・ハット・ホワイト・タイ・テイルズ」同映画の挿入歌です。僕の持っている数少ないSP盤の中にこのSP盤があります。オールド・ファンには懐かしいレコードだと思います。このレコードはラベルを見てお分かりのように、「ラッキー・レコード」という日本の会社から発売されたものです。ラッキー・レコードは、1934年11月に綿花の輸入ビジネスを行っていたSaito Shoten(斎藤書店?)が経営していた「ラッキー・レコード」によって設立された東京に本社があったレーベルということの他詳しいことは分かっていません。1930年代アメリカのポピュラー音楽を中心に輸入、発売していたようです。ということはこの時点ではまだアメリカから、ポピュラー音楽のレコードが輸入、販売されていたことが分かります。
2位のカーター・ファミリーは、白人バンドの元祖と言われるバンドで、フォーク・ソングやカントリー・ミュージックの草分け的存在です。メンバーの一人、メイベル・アディントン・カーターが編み出した、右手親指で1〜3弦の低音部を弾き、人差し指で4〜6弦の高音部を弾くという「カーター・ファミリー・ピッキング」を、日本でもフォーク・ギターを弾く人でやったことがない人知らない人はいません。2位にランクされた「永遠の絆」エイダ・R・ハーバーションとチャールズ・H・ガブリエルによって作られたゴスペル・ナンバーで彼らの最初のヒット曲です。
パッツィ・モンタナ・アンド・ザ・プレイリー・ランブラーズ 3位のエディ・デューチンは白人のピアニスト兼バンド・リーダーでいわゆる「スイート」系のバンドを率いて人気があったアーティストです。この「ラヴリー・トゥ・ルック・アット」は1933年に公開されたロマンティック・コメディ・ミュージカル映画のタイトル曲です。サウンドトラックではないようです。
またまた懐かしい名前が出てきました。4位のシャーリー・テンプル(1928〜2014:写真右)です。天才子役として、1931年(3歳)から映画に出演し、大人気となります。日本でも「テンプルちゃん」はかわいらしくて大人気だったと僕の母親も言っていました。この「オン・ザ・グッド・シップ・ロリポップ」は、1934年の映画「ブライト・アイズ」(Bright eyes)でテンプルが歌った曲で、彼女が初めて歌った曲と言われています。
5位のレイ・ノーブルはこれまで何度か登場しているイギリス出身のスイート系ダンス・バンド。この「カプリ島」は1934年に出版され、レイはこの曲をロンドンでレコーディングしたそうです。7位と9位は相川図の人気を誇るビング・クロスビー。7位はクリスマス・ソングとして定番の「きよしこの夜」、10位の「夕日に赤い帆」はこのクロスビー盤が初演で、この後ルイーアームストロングはじめ沢山の人々によってカヴァーされました。
7位のコール・ポーターは作曲家としてまりにも有名ですが、自身で歌って大ヒットしたのはこの曲が初めてだと思います。他にも"Love for sale""Night and day""Begin the beguine""You'd be so nice to come home"などジャズでもおなじみの定番曲がたくさんあります。
8位のパッツィ・モンタナ・アンド・ザ・プレイリー・ランブラーズ(写真左)の「カウ・ボーイの恋人になりたい」は、最初に録音されたカントリー・アンド・ウエスタンの曲と言われます。
その他ジャズ関連でのチャートを見ると、ドーシー・ブラザーズの"Lullaby of broadway"が11位と"Chasin' shadows"が24位、グレン・グレイとカサ・ロマ・オーケストラの"Blue moon"が12位、ファッツ・ウォーラーの"Truckin'"が15位、ベニー・グッドマンの"King porter stomp"が16位、ジミー・ランスフォード・オーケストラの"Rhythm is our business"が21位、ルイ・アームストロングの"I'm in the mood for love"が20位、ジャンゴ・ラインハルトの"Djangology"が49位など数多くの楽曲がトップ50以内にランク・インしています。
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース しかし何といっても人気だったのは、男らしいダンディズムをまき散らすクラーク・ゲーブル、愛くるしいお人形さんのようなシャーリー・テンプル、歌って踊れる映画スター、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのダンスは正にきらめくスターであり、日本でもそのカッコよさ、華やかさにしびれ、ため息交じりに銀幕を眺めていたものだと母親も言っていました。
余談です
かつてそのキレキレのダンスで一世を風靡したマイケル・ジャクソン。1983年初めてその代名詞ともなる「ムーンウォーク」を披露すると、たくさんの人たちが「ムーンウォーク」を教えてくれとやって来たそうです。確かかつてSmapもTV番組でそんなことをやっていました。彼に教えを請いに来た沢山の人たちの中で最も覚えが速く上手だったのは誰かと尋ねられたマイケルは即座にこう答えました。「フレッド・アステアだね。」
すごい話です。1899年生まれのアステアは1983年としても84歳です。かつての白人の大スターがその当時の大スター黒人のマイケルに教えを請いに行くことがすごいですし、その80歳を超えたおじいさんが最も覚えが速く、美しい「ムーンウォーク」を踊ったというのです。げに恐ろしきは「芸の力」ということでしょうか。

前置きが長くなりました。1935年は音楽、特にジャズ関連において起こった重要なことが2つあります。

その1 … ジョージ・ガーシュイン「ポーギーとべス」初演

「ポーギーとべス」ボストンでのトライアウト公演 「ポーギーとべス」は、サウスカロライナ州チャールストンの小説家、エドワード・デュボーズ・ヘイワード(Edwin DuBose Heyward:1885〜1940)が1925年自身の住むチャールストンを舞台にした小説『ポーギー』を発表、さらに妻のドロシーの協力を得て1927年に舞台化されたものです。これをジョージ・ガーシュウィンは、兄のアイラ、作者のヘイワードと共にオペラ化に取り組んだものです。作曲するにあたりガーシュウィンは実際にチャールストンに赴いて黒人音楽を研究し、その語法を取り込みました。まず1935年9月30日にボストンのコロニアル劇場でトライアウト公演が行われ(写真左)、その評判は芳しくなかったそうですが、翌月の10月10日にニューヨーク・ブロードウェイのアルヴィン劇場(コロニアル劇場という記載あり)で行われた公演は成功し、連続公演が行われることとなります。
物語は、海に面した黒人の居住区キャットフィッシュ・ロウ(“なまず横丁”)が舞台となっていることから、ほんのわずかの白人以外ほとんどの出演者は、クラシックの訓練を受けた黒人でした。
<第1幕> … ある夏の夕方〜夜
足の不自由な乞食のポーギーは、給仕女のベスに思いを寄せている。ベスの内縁の夫クラウンは賭博のトラブルから仲間を殺し逃亡し、これをきっかけにベスはポーギーと一緒に暮らすことになる。住民たちはクラウンに殺されたロビンスの部屋に集まり、彼の死を悼むとともに、なけなしの金を出し合って葬儀の費用を捻出する。
「ポーギーとべス」DVD <第2幕> … 殺人事件の1ヶ月後〜1週間後
ある天気のよい日、キャットフィッシュ・ロウの住民たちは離島にピクニックに出かける。ポーギーは足が不自由なために留守番である。ベスもピクニックに参加するが、島に隠れていたクラウンと出会ってしまう。島から戻ったベスは熱を出して寝込み、ポーギーは献身的に彼女を看病する。1週間後、回復したベスはクラウンとのことを告白し、ポーギーへの愛を誓う。
その翌日、ハリケーンがキャットフィッシュ・ロウを襲う。住民たちが集まっているところへクラウンが登場しポーギーと険悪なムードになるが、漁師ジェイクの妻クララが難破した夫の船を見つけ嵐の中へ飛び出して行く。クラウンは嵐を恐れる住民たちを臆病者と罵りクララを追う。
<第3幕> … ハリケーンの翌日〜その1週間後
嵐のために死んだ仲間のための葬式が終わった後、クラウンがポーギーの部屋に忍び込む。発見したポーギーは乱闘の末にクラウンを殺してしまう。翌日、警察による捜査が行われ、ポーギーは検死のために参考人として警察へ連行される。ポーギーが犯人であることは発覚しなかったものの、彼は自分が殺した相手を見ることができなかったため警察に1週間勾留されてしまう。勾留がとけて意気揚々と帰ってきたポーギーはベスの姿がないことに気づく。住民たちから、ポーギーがいない間に遊び人の麻薬の売人スポーティング・ライフがベスを誘惑し、2人が遠いニューヨークへ行ってしまったことを知らされたポーギーは悲嘆にくれるどころか、ベスを見つけるため、不自由な足をおして数千キロ離れたニューヨークを目指し旅立つ。
<評価>
神保m一郎著「クラシック音楽鑑賞辞典」にも取り上げられています。「歌劇というよりはミュージカルに近い」としながらも、「アメリカ黒人を中心にした物語で、ジャズ歌曲、黒人霊歌が存分に使われ、異色味溢れる傑作。」と評しています。作曲したガーシュウィン自身はこの作品を“アメリカのフォーク・オペラ”と述べているようですが、世評は「20世紀を代表するオペラ作品」として評価が定着しているようです。
ただ、黒人の居住区における暗く貧しい黒人たちの生活の中で、麻薬、賭博、殺人が筋立てを作って行くという異色の展開であり、白人が創作したストーリーは『人種差別的』だと、黒人サイドから大きな批判を受けたそうです。そしてかのデューク・エリントンも「顔に炭を塗りつけたようなわざとらしい黒人の姿は、虚偽のものだ!」と猛然とガーシュインを非難しました。また各地の黒人俳優組合も、激しい拒否反応を示したそうです。
神保m一郎著「クラシック音楽鑑賞辞典」 確かに貧困の中で、賭博、麻薬、殺人がストーリーを作っていく展開は、黒人たちから見れば「これだけが俺たちの世界じゃない、俺たちを馬鹿にしている」と反感を持つのも不思議なことではないと思います。しかし「オペラ」というもう一つの面、音楽を聴けば第1幕第1場の冒頭で歌われる「サマータイム(Summertime)」は、現在でも多くのミュージシャンにより、ジャンルの垣根を超えて取り上げられている傑作ですし、他にも"I love you , Porgy"など傑作がそろっています。
その証拠にジャズ界では、マイルス・ディヴィスやエラ・フィッツジェラルドなどたくさんの人が"Porgy and Bess"の楽曲を取り上げてレコーディングをしていることを見ても明白です。
さて最後にこのオペラは観ることができるのでしょうか?勿論上演され、チケットを手に入れ、劇場に訪れれば見ることはできます。しかしいつ上演されるかは、分かりません。そんなこともあってか、1959年に映画が作られました。出演はシドニー・ポアチェ、ドロシー・ダンドリッジ、サミー・ディヴィス・ジュニアなどオリジナル脚本通り、黒人たちが占めた意欲作だったそうですが、映画会社と映画監督が表現をめぐって対立し、さらにガーシュインの遺族からもクレームが付き契約に基づく上映の後は未公開作品としてオクラ入りになっているそうです。
因みに僕は、右のDVDで観ました。ウィラード・ホワイトという役者さんがポーギーを、シンシア・ヘイモンという女優さんがベスを演じています。どちらの役者さんも知らない人です。どうもイギリスで1986〜7年にかけて制作されたようです。これしか見ていないので、これが原作に忠実なものかどうかは分かりませんが、舞台は確かに黒人社会で、登場人物人物も黒人ですが、完全に「オペラ」という感じです。全体で3時間を超す大作(オペラでは大作かどうか分からないけど、通常の映画と比べれば長い)です。

スイング時代の幕開け

悠雅彦氏著『ジャズ』 [スイング時代は1935年ベニー・グッドマンとともに始まった。]と言われます。つまり1935年が「スイング元年」ということであり、その前は「スイング以前」ということになります。これは一体どういうことでしょうか?
そもそも「スイング(Swing}」という言葉はジャズでは頻繁に用いられる言葉です。この「スイング」という用語には二つの意味があります。評論家の悠雅彦氏はその著『ジャズ』で次のように簡潔にまとめてくれています。「一つはリズム、正確にはリズミック・フィーリングのことで、アフリカ人のリズム感と西洋音楽の機能的な拍子が出会って生まれ、やがて弱拍(普通には第2、4拍)にアクセントを置く独特のリズミック・フォーメイションの進展とともに発生した、揺れ動くようなリズムの感じを指す。いみじくもエリントンの有名な作品の題名が象徴するように、広く開削すればどんなジャズも「スイングしなければ意味がない」と言えるほど、「スイング」はジャズをジャズたらしめている最も重要な要素の一つである。」ここでいうエリントンの有名な作品とは、言うまでもなく1932年2月に吹き込まれた「スイングしなけりゃ意味ないね(It don't mean a thing if it ain't got that swing)」のことでしょう。この言葉は、エリントン楽団の初期の重要メンバー、ババー・マイレイ(Tp)の口癖だったそうですから、ずっと以前から「スイング」という言葉は使われてきたわけです。
ではもう一つの意味は?これも悠雅彦氏がまとめてくれています。曰く「30年代を特徴づけるジャズのスタイル。限定的に「スイング・ジャズ」とか「スイング・ミュージック」と呼ぶ様式の一般語である。この「スイング」の王様と呼ばれて一世を風靡したのが、ベニー・グッドマンである。」
こういう言い方をすると、ベニー・グッドマン(以下BG)がスイングの生みの親みたいに聞こえるかもしれませんが、もちろん音楽的にはそうではありません。ではなぜこのような言い方をされるのでしょうか? 1934年までのBGについてはこれまで触れてきましたが、少し復習しておきましょう。
グッドマンは、1934年最初のレギュラー・バンドを組織してビリー・ローズのレストラン・シアター、「ザ・ミュージック・ホール」に出演することになります。「The RCA years 全曲集」の原盤の解説を担当するのはモート・グッド(Mort Goode)氏は、BGのバンドは、すんなりと「ザ・ミュージック・ホール」のオーディションに受かったわけではないとし、ヴォーカリスト、ヘレン・ウォードの存在が大きな力になったと書いています。そしてその契約が10月に切れるとナビスコが提供する全米中に流れるラジオ番組『レッツ・ダンス』への出演が決まります。この番組は1934年12月1日から翌35年5月25日まで続きます。この間グッドマンはヴィクターとレコーディング契約を行い、テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッション(歌手としてビリー・ホリデイが加わる)にも参加しています。
[パロマーの爆発]
ベニー・グッドマン-パロマ―出演告知 レコーディングの方は順調だったよですが、レギュラーの仕事の途切れたグッドマンにブッキング・エージェントはホテル・ルーズヴェルトへの出演、そしてニューヨークから始まってロス・アンゼルスで終わる一台コンサート・ツアーの計画を持ち込んできます。このツアーの最初は散々な評判だったようですが熱心な支持者であるジョン・ハモンド氏らの後押しを得てロス・アンゼルスまでたどり着きます。そこで一大異変が起こるのです。ロスにたどり着くまでは、各地で散々に罵られ、嘲笑われてきたグッドマンのダンス音楽が爆発的に大受けするのです。「ロスのレヴュー、パロマ―にデビューしたBGのダンス音楽−俄然、市民の絶賛を浴びる」というニュースがアメリカ中に伝わり、レコード屋でホコリにまみれていた彼のレコードは、羽が映えたように売れ出したのです。これが『パロマーの爆発』です。正に会心の一発逆転劇です。
ハリウッド放送局のアル・ジャーヴィス(ディスク・ジョッキーの草分け)が、毎日のようにBGのレコードをかけ、ファンを作っていてくれたこと、それに厳しい不況から立ち直りかけ人々が何よりも解放というかはじけるものを欲していたことがその背景にあると言われています。何はともあれこれを機にベニー・グッドマンは「受け」の時代に入ります。これに続いてシカゴのコングレス・ホテルとの契約、そしてニューヨークのペンシルヴァニア・ホテルへと順調に出演契約が決まっていくのです。
[白人社会へのジャズの浸透]
ベニー・グッドマンのエンパイア・ルーム出演告知 悠氏によれば、ルイ・アームストロングやデューク・エリントン達の活躍はあったものの、ジャズは白人の一般家庭にまでは浸透していませんでした。グッドマンが先ほど触れたようにNBCのラジオ放送にレギュラー出演し、ヴィクター・レコードへの吹込みを開始し、ホテルやボールルームでのコンサートが人気を呼ぶにつれ、白人大衆の間に「ジャズ」が広まっていったのです。一般大衆がジャズを知ったのはまさにこの時です。ジャズはベニー・グッドマンの登場によて陽の当たる場所で演奏されるようになったのです。一般の白人たちが、「スイングは白人が始めた新しいアメリカの音楽」と思い込んだのも無理はありません。さらに悠氏はこう述べます。「本来『ジャズ王』と呼ばれるべきはデューク・エリントンであり、真の『スイング王』がカウント・ベイシーであったことは否定しがたい。だが、それを認めたうえでもグッドマンがジャズに果たした功績は偉大だ。(中略)何にも増して大書されるべき功績は、「スイング」や「ジャズ」を一般大衆に認知させたことであろう」
"King of Swing"考
同じく評論家の相倉久人氏は、次のような指摘もしています。「ラジオ番組『レッツ・ダンス』の人気上昇が続く中で、一つ問題が起こりました。<ジャズ>という言葉の響きが、禁酒法時代の裏社会とのつながりや、元々が黒人音楽であることへの偏見などから、中産階級の家庭には入れたくない不適切なイメージとして敬遠された。そこで浮上したのが<スイング>あるいは<スイング・ミュージック>という呼び方でした。したがってこの時期<ジャズ>と<スイング>はほとんど同意義でした。」だからベニー・グッドマンは「スイング王(King of Swing)」であって、「ジャズ王(king of Jazz)」ではないのです。
映画「キング・オブ・ジャズ」ポスター また既に「ジャズ王(king of Jazz)」を名乗った人物がいました。ポール・ホワイトマンです。ポール・ホワイトマンは自身の映画"King of Jazz"で堂々と「ジャズ王(king of Jazz)」と名乗っており、それを奪うようなことはできません。
僕が思うに、ポール・ホワイトマンの場合、ビックス・バイダーベックやフランク・トランバウアー、エディ・ラングなど一流のジャズマンを雇ってはいましたが、バンドにはヴァイオリンなども加わる大所帯で、演っている音楽はジャズではありませんでした。グッドマンは自分たちが演っている音楽は、ホワイトマンの言う「ジャズ」などではない、本格的なスイングするジャズなんだぞ!という意気込みもあったのだと思います。因みにポール・ホワイトマンについてはわずかですが、1935年の録音を保有しています。詳しくは「ポール・ホワイトマン 1935年」をご覧ください。この時期にはジャック・ティーガーデン、久しぶりのフランク・トランバウアーが在団していました。
さらにホワイトマンは気にしていないようですが、ジミー・ヌーンなど本格的なジャズマンに憧れ、実際にジャズをやってきたグッドマンは「ジャズ王(king of Jazz)」を名乗るのは気が引けたのだとも思いますし、 ジャズを知っているグッドマンは過去に「ジャズ王(king of Jazz)」と言われる先達たちがいたことを知っていたのでしょう。その先達とは、初代がバディ・ボールデンであり、2代目がフレディ・ケパード或いはキング・オリヴァーです。もしグッドマンが「ジャズ王(king of Jazz)」を名乗ったら3代目ということになります。しかも先代の3人はすべて黒人です。ベニー・グッドマンは黒人達の後目を継ぐなどということを受け入れられるはずがありません。
また実際にグッドマンは自分がやっているのは、黒人たちがやっているジャズとは違う、もっと新しいスイング・ミュージックだという意識があったのかもしれません。いずれにせよこれらは僕の勝手な妄想ですので真実はどうか不明です。ただこの年ベニー・グッドマンはジャズの檜舞台の中心人物の一人にのし上がったことだけは確かです。詳しくは、「ベニー・グッドマン 1935年」をご覧ください。

その他ジャズの動き … 1935年

ではベニー・グッドマン以外の1935年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年はかなり録音数が増えているように感じます。

フレッチャー・ヘンダーソン

老舗のフレッチャー・ヘンダーソンは1934年末経営に行き詰まり楽団を解散し、この年は専らグッドマンの楽団のアレンジャーとして活動していたようです。吹込みもありません。

デューク・エリントン

映画[Symphony in black] この年もエリントンは話題豊富です。箇条書きにしてみます、
@パラマウントの短編映画”Symphony in black”(タイトル左)にバンドで出演します。
A6月に最愛の母を亡くし失意の中、母への贈り物として当時としては異例の25pSP4枚分に当たる「レミニッシン・イン・テンポ」を作曲しコロンビアに吹き込みます。
Bベースのウエルマン・ブロウドが退した後セカンド・ベースを入れ2ベース体制をとります。
まず@の映画ですが、ビリー・ホリデイが出演し、歌(ビリー曰く<感動的なブルース>)も歌っています。多分デュークとビリーの共演はこれだけであり、貴重だと思われます。Aは12分を超える文字通り大作で、ジャズというよりもクラシックの香りがするような組曲となっています。Bの2ベース体制は、ジャズ界では初めての試みではないでしょうか?詳細については、「デューク・エリントン 1935年」をご覧ください。
ルイ・アームストロング 1934年

ルイ・アームストロング

ルイは1933年8月に渡欧し、ヨーロッパで活動を行い、1935年1月にアメリカに戻り、新たにジョー・グレイサーがマネージャーとなります。そして1935年10月からはルイ・ラッセルのバンドをバックに従えて録音を行います。ルイ・ラッセルのバンドは一時期最もニューヨークで力のあるバンドと言われたこともある実力派です。そして新たにデッカとレコーディング契約を交わし、吹込みを開始するのです。
しかし1月に帰国した後10月までルイは何をしていたのでしょうか。それは分かりませんが、その間にアメリカの音楽シーンは激変を遂げるのです。ベニー・グッドマンという白人率いるバンドが爆発的な人気を得て、全米中を席捲しているのを目の当たりしてどんな思いを抱いていたのでしょうか。それもかつて自分だ在団したこともあるニューヨークの名門バンドの棟梁、フレッチャー・ヘンダーソンをアレンジャーとして抱え込んで、白人が「スイング・ミュージック」なる新語を掲げて受けまくっているのを見て何を思っていたのでしょうか。詳しくは「ルイ・アームストロング 1935年」をご覧ください。
テディ・ウィルソン

テディ・ウィルソン

テディ・ウィルソンはこの年ウィリー・ブライアントの楽団での録音やベニー・グッドマンのセッションに呼ばれるなど「受け」に入ります。しかし最も重要なのは7月から始まったブランズウィック・セッション・シリーズではないでしょうか?このテディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションは、スイング時代の花形セッションと言われます。レコードだけに限って言えば1933年にデビューしたばかりのウィルソンを中心において連続セッション・シリーズを企画するというのは僕などにはずいぶん大胆な企画だなぁと思えますが、ともかく1935年からスタートする連続セッションは、1939年1月まで全133曲の吹込みを行われます。そしてその初年度の1935年は計4回のセッションで、18曲がレコーディングされます。このシリーズが「花形」と言われる所以は、ウィルソンを中心に選ばれたメンバーが後に一家をなすような名プレイヤーが、名プレイを繰り広げたことでしょう。第1回目の7月のセッションでは早くもスイングき最高のトランぺッターと言われるロイ・エルドリッジがデビューしています。そして史上最高の女性・ジャズ・シンガーと言われるビリー・ホリデイの初期の音源の多くはここに求められるのです。
詳しくは「テディ・ウィルソン 1935年」並びに「ビリー・ホリデイ 1935年」をご覧ください。
[ついでに黒人ビッグ・バンドを見ていきましょう。]

ジミー・ランスフォード

アポロ・シアターでのジミー・ランスフォード出演告知 鬼才サイ・オリヴァーがアレンジ面において、その手腕を発揮し見事なアンサンブルを聴かせてくれます。34年12月に録音した"Rhythm is our business"がこの年の年間ヒットチャート21位に入るヒットとなりました。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1935年」をご覧ください。

チック・ウェッブ

この年の録音は2曲しか持っていません。詳しくは「チック・ウェッブ 1935年」をご覧ください。

ウィリー・ブライアント

ボーっとではあるけれどジャズ・ファンを長いことやっているが、この「ウィリー・ブライアント」という名前はこの聴き返しをしていて初めて知った。因みに「ウィリー・ブライアント」はスイング・ジャーナル社発行の『ジャズ人名辞典』にも未収録で、これまで『ジャズ人名辞典』に未収録の人物がタイトルとなるのは初めてである。ただしピアノのテディ・ウィルソンが参加していたり、テナー・サックスにベン・ウエブスターが加わっていたり、アルト・サックスにはベニー・カーターが名を連ねているという説もありジャズ的興味をそそる録音です。詳しくは「ウィリー・ブライアント 1935年」をご覧ください。 アール・ハインズ・オーケストラ

アール・ハインズ

僕はアール・ハインズの録音を6面分持っています。メンバーは1934年と同じなのですが、そのメンバーで録音はニュー・ヨークで行われています。ハインズはメンバーを引き連れてニュー・ヨークに上ったことになります。詳しくは、「アール・ハインズ 1935年」をご覧ください。

ジミー・ヌーン

シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーンには4曲ほど録音があります。バンド名は<ジミー・ヌーンズ・アンド・ヒズ・オーケストラ>ですが、メンバーは7名です。詳しくは「ジミー・ヌーン 1935年」をご覧ください。

ファッツ・ウォーラー

活躍場所はニュー・ヨークですが、ファッツ・ウォーラーもコンボ<ファッツ・ウォーラー・アンド・ヒズ・リズム>を率いて活躍しています。代表的ヒット曲「手紙でも書こう」や「アイム・100パーセント・フォー・ユー」、「ナイトウィンド」などはこの年の録音です。しかし「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第5巻/ファッツ・ウォーラー」(RCA RA-23〜27)には、年間ヒット・チャートにランクされるヒット曲"Truckin'"や"Lulu's back intown"が収録されていません。詳しくは、「ファッツ・ウォーラー 1935年」をご覧ください。 ミード・ラックス・ルイス

ミード・ラックス・ルイス

久々のブギー・ウギー・ピアノです。1曲(Honky tonk train blues)だけですが、数あるブギー・ウギー曲中その逸話と共に最も有名な曲かもしれません。この逸話については「僕の作ったジャズ・ヒストリー14」に詳述していますが、簡単に紹介すると、ルイスはこの曲を最初は1929年にパラマウントというマーナー・レーベルに吹き込みますが、会社はあえなく倒産し数枚のテスト盤が残されただけとなります。たまたまそのテスト盤を聴いたジョン・ハモンドがここでも情熱を傾けて一肌脱ぐというお話である。再発見されたルイスは、油井正一氏の本などでは1935年、『ジャズ人名辞典』では1936年に再録音したのです。
油井氏によるとルイスはこの曲を5度録音しているが、後のものほど右手にスイングやリフの要素が入り込んできて、純粋さを失っていくと嘆いています。このパラマウントに吹き込んだ1929年のオリジナル・ヴァージョンは現代においては聴くことはとても無理と思いがちですが、実は非常に簡単に聴くことができます。Youtubeにちゃんと上がっています。すごい時代になったものです。「ミード・ラックス・ルイス 1935年」をご覧ください。

注目のニュー・カマー … ロイ・エルドリッジ

ロイ・エルドリッジ ルイ・アームストロングとディジー・ガレスピーをつなぐジャズ・トランペットの主流線上の巨人で、スイング時代最高のトランペット奏者と言われるロイ・エルドリッジが、7月に行われたテディ・ウィルソンの第1回のブランズウィック・セッションでレコーディング・デビューをしています。エルドリッジのディスコグラフィーでは、初録音は1936年2月5日自己名義のレコードとなっていますが、それよりも半年早い録音なのでこちらをデビューとして間違いないでしょう。またエルドリッジは12月にもTp、Cl、Gt、Bという珍しい編成のコンボでもレコーディングを行っています。詳しくは「ロイ・エルドリッジ 1934年」をご覧ください。

ジャンゴ・ラインハルト

ジャンゴ・ラインハルトもこの年「フランス・ホット・クラブ五重奏団」以外にも多くの録音があるようです。特にこの年吹き込んだ"Djangology"がヒット・チャートの49位のヒットになり、アメリカでもその名を知られるようになったのではないかと思われますが、この"Djangology"は僕の持っているレコード、CDには収録されていません。ただこれもYoutubeにはアップされていますので、興味のある方は簡単に聴くことができます。
僕が興味を惹かれるのは3月2日のビッグ・バンドによる録音で、これには渡欧したコールマン・ホーキンスが参加しています。相変わらず太いトーンによる豪快なプレイは健在です。詳しくは「ジャンゴ・ラインハルト 1935年」をご覧ください。

BG以外の白人ジャズメン

ボブ・クロスビー

ドーシー・ブラザーズ

ジミーとトミーのドーシー兄弟はこの年はまだ大喧嘩前で、二人でバンドを率いていたようです。年間ヒット・チャートでは"Lulla of broadway"が11位、"Chasing shadows"が24位にランクされるヒットになっていますが、どちらも僕は保有していません。僕が唯一持っているこの年の録音は、1935年1月17日に行われたラジオ放送の録音です。あまりジャズっぽくない演奏が多くこの時代はそうなのかなと思ってしまいます。しかしこの後、春に兄のジミーと弟のトミーは喧嘩別れをしてしまいます。トミーはバンドを出て、折からバンドをたたもうと思っていたジョー・ヘイムス(Joe Haymes)のバンドを引き継ぎ、自分色に仕立て直し、9月には「トミー・ドーシー・アンド・ヒズ・オーケストラ」としてレコーディングを行います。電光石火の早業です。
ビング・クロスビーの弟で後に自己のバンドを率いることになるボブ・クロスビーが歌手として参加しているのが興味深いです。 ボブ・クロスビーは、この後ギル・ロディンがベンポラック楽団の残党を集めたバンドに加わります。そしてそこで歌った"In a little gypsy tea room"が年間18位にランクされるヒットになります。詳しくは「ドーシー・ブラザーズ 1935年」をご覧ください。

ジーン・ギフォード

当時最も人気があったバンドと言われるカサ・ロマ・オーケストラを1934年に辞したアレンジメントの鬼才、ジーン・ギフォードがレコーディング・バンドを率いて吹込みを行っています。油井正一氏は、集められた面子は超一流で、それもギフォードの名声ゆえであろうと述べています。鬼面人を驚かす風のアレンジではなく、一聴普通だが細部にこだわった優雅なアレンジを行っています。後にユニークなバンドを率いることになるクロウド・ソーンヒルがピアノでいい味を出しています。詳しくは「ジーン・ギフォード 1935年」をご覧ください。 エイドリアン・ロリーニ

エイドリアン・ロリーニ

バス・サックスの第一人者エイドリアン・ロリーニのリーダー録音です。エリントン楽団などで活躍したトランペット奏者レックス・スチュアートは、「20年代を通じて、エイドリアンはバス・サックスの第一人者だったが、その後レッド・ノーヴォと知り合い、初めてヴァイブラフォンという楽器を知った。すると彼は、同僚たちの驚きをよそに、サックスを捨ててヴァイブラフォンに転向してしまった。それから彼は死ぬまでヴァイブラフォンしか演奏しなかったのである」というエピソードを披露しています。この録音ではバス・サックスとヴァイブラフォン双方をプレイしており、その過渡期の録音だったと思われます。詳しくは「エイドリアン・ロリーニ 1935年」をご覧ください。

バニー・ベリガン

スイング時代白人最高のトランぺッターと言われるバニー・ベリガン。1934年は持っている音源がありませんでしたが、この年はジーン・ギフォードをはじめベニー・グッドマンのバンドに加わっての録音などその数グッと増えます。詳しくは「バニー・ベリガン 1935年」をご覧ください。

マグシー・スパニア

久しぶりのシカゴアン、マグシー・スパニア。シカゴアン達はニュー・オリンズ・ジャズを志向した人々だと思いますが、ここではディキシー風とスイングの折衷的な演奏を行っています。詳しくは「マグシー・スパニア 1935年」をご覧ください。

レイ・ノーブル

レイ・ノーブルはスタンダード・ナンバー”Cherokee”の作者として有名ですが、彼は作曲家であり編曲家でもありますが、何といっても自己のバンドを率いるバンド・リーダーでした。彼は、イギリスで生まれで、自国でバンドを率いて成功します。そしてアメリカに招かれ、グレン・ミラーなどの協力を得て、1935年1月にバンドを結成するのです。演奏はアレンジが程よくなされ聴き応えがある作品が多い。詳しくは「レイ・ノーブル 1935年」をご覧ください。

ミルドレッド・ベイリー

ビリー・ホリディがテディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションで本格的レコーディングを開始しました。一方当時白人最高のジャズ・シンガーと言われるミルドレッド・ベイリーのレコードも注目です。そして彼女のこの年のレコーディングのパーソネルは、いずれも白黒混合セッションとなっています。さらにこちらのセッションでピアノを弾いているのは、テディ・ウィルソンなのです。白黒最高の歌手の伴奏を行うという当時最も重要なピアニストだったと言えるでしょう。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1935年」をご覧ください。

カンサス・シティ・シーン … ベニー・モーテン

カウント・ベイシー達が在団し、カンサス・シティーで大人気だったベニー・モーテン楽団。そのリーダー、ベニー・モーテンは、1935年4月簡単なはずの扁桃腺の手術を受けましたが、医者がこれを失敗し40歳という若さで命を落とします。モーテン楽団はモーテンの甥であるバスター・モーテンが引き継ぎます。そしてベイシーはバンドを去り、カンサス・シティで単独の仕事をやったり、トリオを率いたりしていましたが、やがてブルー・デヴィルズ時代の同僚であるバスター・スミスと組んで双頭バンド“Barons of rhythm”を結成します。そして間もなく(1935年暮れ頃と思われる)ベイシーは単独でリーダーとなり、10人編成にまでバンドの人員を拡充し、クラブ「リノ・クラブ」(正式名称は“Reno beer Garden’s”)に出演するようになります。

ブルース

僕の持っているこの年のブルースのレコードは数少ないですが、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ビッグ・ジョー・ウィリアムズ、メンフィス・ミニーなどの吹込みがあります。ブルース・マンの吹込みについては、「ブルース・ピープル 1935年」をご覧ください。

ジャグ・ミュージック

ジャグ・ミュージックはジャズやブルースと非常に近しい音楽ですが、僕の持っているこの年のジャグ・ミュージックのレコードはありません。

バーバーショップ・コーラス

ジャグ・ミュージックなどとは対極にあるようなシティ・ミュージック「バーバーショップ・コーラス」。その代表格「ザ・ミルズ・ブラザーズ」の録音については、「ザ・ミルズ・ブラザーズ 1935年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1935年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1935年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみましょう。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
レスター・ヤング1909年8月27日ミシシッピ州ウッドヴィル評伝『レスター・ヤング』ディヴ・ゲリー
セロニアス・モンク1917年10月10日ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント評伝『セロニアス・モンク』ロビン・ケリー
チャーリー・パーカー1920年8月29日ミズーリ州カンサス・シティ評伝『バードは生きている』ロス・ラッセル
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス(
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
レスター・ヤング
前年フレッチャー・ヘンダーソン楽団を退団し、カンサス・シティに戻りベニー・モーテンのバンドで「リノ・クラブ」などに出演していたと思われます。しかし上記のように4月にモーテンが急逝した後の行動はよくわかりませんが、多分カウント・ベイシーと行動を共にしていたのではないかと推測されます。そのベイシーは単独のリーダーとして編成したバンドにも加わり、「リノ・クラブ」などに出演しチャーリー・パーカーのあこがれの人となっていたのではないかと想像されます。レスターのレコード・デビューは翌年1936年のことです。
セロニアス・モンク
この年前回書いた伝道師との旅の途上でした。モンクがニュー・ヨークに戻ったのは19歳の時というので、1936か7年です。但しこの年モンクの目撃談があるのでご紹介しましょう。語るのは、ピアニストのメリー・ルー・ウィリアムズです。彼女は1935年カンサス・シテイーでモンクに会ったというのです。モンクたち一行がカンサス・シティーにいる間、毎晩モンクはナイト・クラブにジャムりに来ていたというのです。彼女はその素晴らしい技量にうならされたと語っているそうです。
もしその通りだとしたら、モンクは後に共演するホット・リップス・ペイジ、レスター・ヤング、カウント・ベイシーとも会っていた可能性があります。というか夜な夜なジャムに繰り出せば合わないわけがありません。ベイシーとモンクのプレイには共通点があります。間を生かしより少ない音数で表現するところなどです。こういったスタイルは、ベイシーから影響を受けたのかあるいはベイシーが影響を受けたかもなどと想像するのは楽しいことです。
目撃談は他にもあります。この年ベン・ウエブスターはあるクラブで、何とジミー・ブラントンと共演しているのを見たというのです。これが本当だとすれば、ブラントンは16か17歳。まだテネシー州チャタヌガのハイ・スクールに通っていたころです。モンク一行がチャタヌガにも行ったということでしょうか?
チャーリー・パーカー
14〜15歳。ロス・ラッセルの『バードは生きている』は1935年ごろのカンサス・シティの様子を活写しています。ピート・ジョンソン(P)やジョー・ターナー(Vo)が出ていたサンセット・クラブや、ベニー・モーテンが扁桃腺の手術に失敗して急逝した後、カウント・ベイシーとプロフ・スミス(バスター・スミス)が同等のリーダーとして引き継いだバンドが「リノ・クラブ」に出ていたことなどです。14歳のチャーリーは当然店には入れませんでした。ドラマーのジェシー・プライスと親しくなります。プライスはチャーリーを可愛がり、裏口からこっそり中に入れてくれ、2階の死角になるところからこっそりと見ていたのです。そしてレスター・ヤングがチャーリーのアイドルでした。
またカンサス・シティほどジャム・セッションが盛んなところは全米中でもありませんでした。ジャム・セッションは成人式のようなもので、ジャズマンたちはそこで男としての試練を受けたのです。ジャム・セッションに加わるには、まずスタンダード・ナンバー、ブルース、その時々の流行の曲を知っていなければなりませんでした。何よりも求められるのは新しい発想で、同じことを繰り返していたのでは相手にされません。コード・チェンジの仕方に種々な変化を付ける能力、新しいメロディを考え出すこと、そしてジャズの最も重要な要素スイングを生み出す複雑なリズム形態を処理する技量が求められたといいます。
あちこち分散されて書かれているため時系列が分からないのですが、この時期辺り初めてチャーリーがクラブ、ハイハットでジャム・セッションに加わります。チャーリーはキーのことが全く分かっておらず、またテクニックも未熟でついていけず散々な結果に終わります。その後3か月楽器を手にしなかったほどでした。
さらに1935年夏リンカーン・ハイスクールで知り合った4歳年上のレベッカ・ラフィングと結婚をするのです。何か月かするとレベッカの家族・親族が転がり込んできます。結婚した数週間が過ぎるとチャーリーの夜の生活は元のナイト・クラブを巡る生活に戻り、家に長くはいることはありませんでした。
そして8月15歳になります。キーの練習は熱心に続けられ、すべてのキーでブルースを吹けるように練習したといいます。よくジャムでやる曲”I got rhythm”に取り組み、それが終わると”Cherokee”に取り掛かりました。結婚をし組合員証も手にして早速仕事を探し、グリーンリーフ・ガーデンズという店で、ビリー・チャニングという白人ピアニストのバンドに雇われます。チャーリーと一緒にハイスクールに入って友人たちは皆3年生になり卒業を待っていましたが、チャーリーはまだ1年生でした。1科目として進級を認められなかったのです。
チャールズ・ミンガス
12〜13歳。自伝に書いてあるのは、13歳の時映画館で座席に座りながら、女の子とお互いコートで隠しながらとんでもないエロ行為をしたことぐらいです。
マイルス・ディヴィス
1935年は8〜9歳です。マイルスの自伝を読んでいて不思議なことはトランペットとの出会いが書いていないことです。どう出会ったのか、なぜトランペットを吹きたいと思うようになったのかです。ともかく 評伝『ソー・ホワット』によれば、9歳のころからマイルスはトランペットを吹きたいと考えるようになったといいます。しかし母親は自分がやっていたヴァイオリンを弾かせたがったというのですが、ではなぜトランペットを選んだのかの記述はありません。評伝では、セントルイスが有名なトランぺッターを多く輩出した土地柄だったからだと書いてありますが、本当にそれだけの理由でマイルスはトランペットを選んだのでしょうか?
ともかく10歳の時医師のユーバンクス先生からもらったコルネットが手にした最初の楽器で、姉のドロシーがピアノを弾き、弟ヴァ―ノンがダンスをしてタレント・ショウなどをやって遊んでいたそうです。
ジョン・コルトレーン
マイルスと同い歳、1935年は8〜9歳です。特記事項はなく変わらずアルトホーンの練習に明け暮れていたと思われます
スタン・ゲッツ
1935年は7〜8歳です。音楽への興味は増しますが、家が貧しく楽器などは買えず、土曜の午後ラジオに向かってメトロポリタン・オペラの指揮をしたり、放課後にバンドの練習を聴いたり、ベニー・グッドマンのソロを覚えてハミングしたりしていたと言います。天賦の才能の開花はもう少し先のことになります。
ビル・エヴァンズ
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1935年は5〜6歳。音楽に興味を持ち始めます。(6歳ごろ 1935年)、兄のハリーもピアノを弾いていました。兄が自宅でピアノのレッスンを受けているとき、弟はじっとそれを見守り、先生が帰るなり、兄がレッスンで受けたパートを兄よりもうまく弾きこなしたと言われます。兄ハリーによれば、ビルが6歳のころ、「弟は自分が守らなければならない」という使命感を抱いたといいます。「ビルはいじめられっ子だった。友人もいなかった。味方は、音楽と私だけだった。」弟がいじめにあっている時とびかかって相手を殴り倒すなど、ハリーの武勇伝が残っているそうです。
穐吉敏子
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1935年は5〜6歳。小学1年の時、学芸会で3年生の女生徒がモーツァルトの「トルコ行進曲」を弾いたそうです。敏子はそれを聞いた瞬間からピアノに魅せられてしまいます。私もあのように弾きたいとという思いが頭いっぱいになり、母に頼んでピアノを習うことになります。遼陽にはピアノを教える専門家はおらず、敏子の担任だった先生に週2回、放課後学校でレッスンをしてもらいます。だが真冬は指がかじかんで引けずお湯で温めてから弾かなければならなかったそうです。先生の家は学校の近くで家からは遠く、一旦帰ってからまた出かけるのは大変でしたが、レッスンが楽しくて全く苦にならなかったと書いています。
ウエイン・ショーター
1933年生まれなので、1〜2歳です。まだこれといったエピソードはありません。

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