僕の作ったジャズ・ヒストリー 22 … スイング時代 1937年

世界の情勢 … ファシズムの拡大とアメリカの再生

世界史の大きな流れは、日独伊枢軸国と英米仏連合国の対立がより深まり、第二次世界大戦が不可避なものになっていった年と言うことができますが、具体的にはどのように動いていたのでしょう?簡単に振り返ってみましょう。
パブロ・ピカソ「ゲルニカ」 [ヨーロッパ]
左は有名なパブロ・ピカソの描いた「ゲルニカ」です。戦争の悲惨さ描いたこの絵は1937年に描かれました。1936年スペインで勃発した内戦にイタリアと共に介入したナチス・ドイツの空軍が、フランコ将軍率いる反乱軍に味方し無差別空爆を行いました。故郷スペインが無差別空爆を受けたことを知ったピカソは早速その製作に取り掛かり、1937年6月パリで開催されていた万国博覧会に掲げられました。ナチスドイツの軍事介入は、再軍備後の軍の訓練の意味があったと伝えられています。たくさんの人々が軍隊の訓練のため無残に殺されたのです。何という愚かな行為でしょう。
そのヒトラー率いるナチス・ドイツはアウトバーンの建設に代表される公共事業や軍備拡張による軍需工業の隆盛そして徴兵制によって雇用を拡大し、インフレを起こすことなく経済繁栄を実現させます。国民の多くも戦争の危険よりも経済の好転を望んだのです。さらにドイツ国内にもあった反対論を押し切って行われたラインラント進駐に対してフランス、イギリスからの反撃がなかったことから、進駐を決定したヒトラーは、ドイツ国内で神がかり的な指導者であるというイメージが醸成され、「ヒトラー神話」ができあがっていくことになります。その一方でエルンスト・ヒムラーの指揮する親衛隊(SS)とヘルマン・ゲーリングの掌握する国家秘密警察(ゲシュタポ)が反対派を封ずる暴力装置として機能し、恐怖政治により独裁体制を強化していきます。そしてナチス・ドイツはポーランドへと進行の準備に進んでいきます。
盧溝橋事件 [日本]
日本では、前年の2・26事件以降軍部の政治介入が激しさを増していました。既に1932年大陸に満州国を傀儡政権として成立させていた日本は、さらなる大陸侵略を企図し、中国の国民党政府と対立を深めます。このような日本の露骨な侵略に対し、それまで中国内の覇権争いを行っていた蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党は1936年12月に起こった西安事件以後「抗日」を旗印に歩み寄り、1937年7月に勃発した盧溝橋事件により、中国側と全面的な戦争へと進んでいくのです。
[連合国]
1937年5月イギリスではボールドウィン内閣が総辞職し、保守党のネヴィル・チェンバレン内閣が成立します。チェンバレンはヒトラー率いるナチス・ドイツに対して「宥和政策」を取ります。「ゆうわ」は「融和」=「とけあう」ではなく「宥和」=「なだめる」という意味です。そもそもイギリスは前ボールドウィン内閣時代から、ドイツの反ヴェルサイユ体制の動きや日本の中国侵略などに対して積極的に批判を行ってきませんでした。当時イギリスにとっての最大の脅威はソ連の共産党体制と受け止められており、ドイツ、日本は防共の防波堤になりうると考えられていたこと、また特にドイツは第一次世界大戦で悲惨な敗戦を味わい、再び大きな戦争を起こすほど愚かではないだろうと高をくくっていたと言われます。これがヒトラーの増長に拍車をかけることになるのですが、それは戦後70年以上も経った今だから言えることかもしれません。
[アメリカ]
前年の大統領選に圧勝した民主党のフランクリン・ルーズヴェルトの第二期目がスタートします。1929年以来の恐慌による不況も克服間近と思われ、ヨーロッパや極東からきな臭いにおいが漂ってきていましたが、戦争に関しては中立を宣言していました。

アメリカの大衆スポーツ・芸能

「巨星ジーグフェルド」ポスター <ボクシング>
前年ドイツ出身の元チャンピョン、マックス・シュメリングにプロ25戦目にして初の黒星をKOで喫したジョー・ルイスは、1937年8月22日世界ヘビー級王者ジェームス・J・ブラドックを8回KOで破り、世界ヘビー級王者の地位に就きます。
<プロ野球>
1937年の大リーグは、アメリカン・リーグが「ニューヨーク・ヤンキース」、ナショナル・リーグが「ニューヨーク・ジャイアンツ」がそれぞれ2年連続で優勝し、ワールド・シリーズもヤンキースが2年連続で制しました。
<映画>
この年の第9回(1937年3月発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは「巨星ジーグフェルド」(The great Ziegfeld)。左写真はそのポスター。物語は米国レビュー界の第1人者であった故フローレンツ・ジーグフェルドの生涯を映画化したものだそうです。監督はロバート・Z・レナード、そして主演はウィリアム・パウエルです。僕は映画は詳しくないからかもしれませんが、全く知らない名前です。
ポピュラー・ミュージック
1937年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
ベニー・グッドマン「シング、シング、シング」SP盤
順位アーティスト曲名
ベニー・グッドマン(Benny Goodman)シング・シング・シング(Sing , sing , sing)
カウント・ベイシー(Count Basie)ワン・オクロック・ジャンプ(One O'Clock Jump)
ビング・クロスビー(Bing Crosby)麗しのレイラニ(Sweet Leilani)
フレッド・アステア(Fred Astaire)誰にも奪えぬこの思い(They can't take that away from me)
デューク・エリントン(Duke Ellington)キャラヴァン(Caravan)
トミー・ドーシー(Tommy Dorsey)マリー(Marie)
エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)グッドナイト・マイ・ラヴ(Goodnight , my love)
シェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラ(Shep Fields & his ripping rhythm orchestra)ザット・オールド・フィーリング(That old feeling)
ガイ・ロンバード(Guy Lombardo)イット・ルックス・ライク・レイン・イン・チェリー・ブロッサム・レーン(It looks like rain in cherry blossom lane)
10ガイ・ロンバード(Guy Lombardo)9月の雨(September in the rain)
「シャル・ウィ・ダンス」ポスター

年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」。日本では映画『スイング・ガールズ』にも使われ、日本で最も有名なベニー・グッドマンのナンバーではないでしょうか?2位はこの年から本格的にレコーディングを開始したカウント・ベイシーのテーマ曲『ワン・オクロック・ジャンプ』。他にもデューク・エリントンの『キャラヴァン』やトミー・ドーシーの『マリー』などスイング時代を代表するビッグ・バンドの演奏が4曲もランク・インしているのが注目です。
ビング・クロスビーの『麗しのレイラニ』は、1937年の映画『ワイキキ・ウエディング』で使われた曲で、翌1938年3月に選ばれるアカデミー賞の歌曲賞を受賞しました。1937年クロスビー一番のヒット・チューンです。フレッド・アステアの『誰にも奪えぬこの思い』は、ジョージとアイラ・ガーシュインというゴールデン・コンビによる作詞作曲で、1937年公開のフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズというこれまた黄金コンビの映画『シャル・ウィー・ダンス』の挿入歌として歌われ大ヒットしたナンバーです。オールド・ファンには涙が出そうな曲ですよね。
第7位にランクされたエラ・フィッツげラルドの「グッドナイト・マイ・ラヴ」は「?」です。この曲は前年1936年11月5日にベニー・グッドマンの楽団に客演して吹き込んだものですが、なぜ、どこが「?」なのかは「エラ・フィッツジェラルド 1936年」をご覧ください。
8位にランクされたシェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラは、元々クラリネットやサックスをプレイしていたシェップ・フィールズが率いたダンス・バンドです。9、10位のガイ・ロンバードは甘く切ないポップス・チューンを得意にしていた拙HPに度々登場しているダンス・バンドです。この2曲もそんなナンバーです。

前置きはこのくらいにして1937年のジャズの動きを見て行きましょう。

「スイング・ジャズ」の浸透

ベニー・グッドマン
この年もスイングの立役者「スイング王」ベニー・グッドマンから見ていきましょう。まずこの年の1月Tpに弟のアーヴィング・グッドマンに代わってハリー・ジェイムズ(写真右)が入団します。ハリー・ジェイムズと言っても若い方にはピンと来ないでしょうか、ハンサムなトランぺッター兼バンドリーダーとして、昭和のころは日本でも人気がったトランぺッターです。1935年19歳でベン・ポラックの楽団に加わり、翌36年にBGに見出され、BGの楽団に加わります。そこからスター街道を上り詰め、自分のバンドを率いることになります。若きマイルス・ディヴィスはこのハリー・ジェイムズに憧れていたことでも有名ですが、その出世の糸口がBG楽団への入団だったことは間違いないでしょう。ジェイムズは実際実力もあり、BGのTpセクションはこれまでのどのビッグ・バンドにも負けぬほど強力になります。
強力になったBGバンドの実力の度合いを示す逸話があります。後々にまで語り草となったその逸話とは、左の告知のようにチック・ウェッブの楽団とのサヴォイでのバンド対決です。BGとバンドはニュー・イングランドへのツアーを終えて、サヴォイ・ボールルームでチック・ウェッブのバンドと顔を合わせることになります。以前拙HPでも書きましたが、チック・ウェッブといえば合戦狂と言われ、バンド合戦で負けたことがないと言われる強者です。しかしてその結果は…?詳しくは「ベニー・グッドマン 1937年」をご覧ください。
そしてスイング時代の代表曲ともいえる「シング・シング・シング」を7月に吹き込みます。この曲は年間ヒット・チャートのNo.1にランクされる大ヒットとなります。テイク1とテイク2があり、どちらも甲乙つけがたい熱演で、どちらも8分を超す長尺ナンバーで30センチSP盤両面を使う大作です。SP盤で最初に発売されヒットしたのはテイク2の方です。またこの年はテディ・ウィルソン、ジーン・クルーパとのトリオに加え、ライオネル・ハンプトンを加えたカルテット演奏、録音も定番化していきます。
その他白人ビッグ・バンド
[トミー・ドーシー]
トミー・ドーシーもこの年は録音数が増えてきます。そしてこの年は、トミー・ドーシー楽団のお家芸と言われる「スゥイング・クラシック」の録音が多くなります。「スゥイング・クラシック」とは、スイング・バンドがクラシックの有名な旋律をスイングにアレンジして演奏することで、1930〜40年代にかけて一つの流行となっていました。その背景の一つには、放送会社と著作権協会(ASCAP)の係争があり、一時期ASCAPに属する流行歌を放送できなかったので、それに抵触しない作品を放送局側が求めていたという事情があります。
ドーシー楽団最初の「スゥイング・クラシック」ナンバーは、1月19日録音の『メロディ・イン・F』で、元はアーサー・ルービンシュタインの「ヘ長調のメロディ」をGtのマストレンがアレンジしたものでした。その後ドーシー楽団は、フランツ・リストやメンデルスゾーンなどのよく知られたクラシックの名曲を次々と吹き込んでいきます。
ヒット・チャートノ第6位にランクされた「マリー」は1月29日に録音されたヴォーカル入りナンバーですが、当時メンバーに加わっていたバニー・ベリガンの素晴らしいソロが聴けるドーシー楽団の代表曲の一つです。詳しくは「トミー・ドーシー 1937年」をご覧ください。
[ボブ・クロスビー]
ボブ・クロスビーとその楽団もこの年ヒット・チャート第12位にランクされるヒットを放っています。パラマウント映画”Artists and models”の挿入歌”Whisper in the dark”です。ディーン・マーチンとジェリー・ルイスの底抜けコンビによる同名の映画がありますが、それとは別です。残念ながら僕の持っているレコードには”Whisper in the dark”は収録されていませんが、ジャズ的にあまり興味を惹かれる楽曲でもないので詳しく触れる必要はないでしょう。僕個人的に興味を惹かれるのはこの年ピック・アップ・メンバー「ボブ・キャッツ」によるディキシー・ナンバーが吹き込まれることです。詳しくは「ボブ・クロスビー 1937年」をご覧ください。
[カサ・ロマ・オーケストラ]
僕の持っている1937年の録音は2曲だけですが、野口久光氏によればジーン・ギフォード三大傑作の1曲「カサ・ロマ・ストンプ」が再録音されます。速いテンポで突っ走るギフォードらしい複雑怪奇なアレンジによるアンサンブルが圧巻です。詳しくは「カサ・ロマ・オーケストラ 1937年」をご覧ください。しかしこの後バンドは、普通のシートなダンス・バンドになっていきます。
[バニー・ベリガン]
スイング時代最高のトランぺッターと言われるバニー・ベリガンは、トミー・ドーシーの楽団に参加し素晴らしいソロを吹き込んだ後、ついに自己の楽団を立ち上げます。そしてそこにはベリガンに見いだされ、後に様々な楽団や自己の楽団でその類稀なる才能を開花さえるテナー・サックス奏者ジョージ・オウルドが加わっていました。オウルドは当時弱冠18歳の若者でした。詳しくは「バニー・ベリガン 1937年」をご覧ください。
[クロウド・ソーンヒル]
後に「エーテル・サウンド」と呼ばれるユニークなサウンドを作り上げるクロウド・ソーンヒルが自身のバンドを結成したのもこの年ですが、残念ながら音源を持ち合わせていません。
黒人ビッグ・バンド
[フレッチャー・ヘンダーソン]
この年フレッチャー・ヘンダーソンは約20曲と彼にしては活発なレコーディングを行っています。(右写真は1942年のヘンダーソン楽団)曲によっては手の込んだアレンジやメイン・ソロイストのチュー・ベリーの聴き応えのあるテナー・ソロなどが聴かれます。それでもヴォーカル入りのナンバーが多いのは、時代背景を意識したものと言えるでしょう。詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1937年」をご覧ください。
History盤CD 40枚組 [デューク・エリントン]
この年エリントンの吹込み数は、50曲に上る活発な活動が見受けられます。しかし楽団の主力メンバー名義の録音が増えエリントン名義の録音はそれほど多くありません。内訳は、クーティー・ウィリアムス…13曲、バーニー・ビガード…8曲、ジョニー・ホッジス…4曲、レックス・スチュアート…4曲、エリントン…21曲です。
つまり御大のエリントン名義は全体の半分以下ということになります。これらの中で特筆すべきは、1937年3月25日にザ・ゴッサム・ストンパーズ(The gotham stompers)名義で録音された4曲で、リーダーはクーティー・ウィリアムスでエリントニアンとしては、バーニー・ビガード、ジョニー・ホッジス、ハリー・カーネイ、ベースのビリー・テイラー、ヴォーカルにアイヴィー・アンダーソンが加わっていますが、エリントンは加わっていません。ピアノはトミー・フルフォードですが、彼はチック・ウエッブ楽団のピアニストです。チック・ウエッブ楽団からは他にサンディー・ウィリアムスそして御大のチック・ウエッブ自身も参加しています。
僕は基本的には、左のHistoryから出ているCD40枚組のボックスを聴いていますが、「ザ・ゴッサム・ストンパーズ」の4曲も収録しています。CD40枚中エリントンが加わっていなのはこの4曲だけです。
この年の年間ヒット・チャートの第5位に「キャラヴァン」がランク・インしています。「キャラヴァン」は1936年12月にバーニー・ビガード・アンド・ヒズ・ジャゾペイターズ(Barney Bigard and his jazzopators)名義で一度録音していますが、エリントン名義で1937年5月に再録音したものがヒットしたのでしょう。詳しくは「デューク・エリントン 1937年」をご覧ください。
[チック・ウェッブ]
この年チック・ウエッブのレコードでは、ほとんどがエラ・フィッツジェラルドのヴォーカル入りとなります。若い割には実力があり、人気も出てきた女性歌手を押し立てるのはこの時代ビッグ・バンド生き残り術の重要なポイントだったのでしょう。詳しくは「チック・ウェッブ 1937年」及び「エラ・フィッツジェラルド 1937年」をご覧ください。
[ジミー・ランスフォード]
僕がこの年の録音で保有しているのはあまり多くはありませんが、鬼才サイ・オリヴァーの編曲が冴え、聴き応えのある作品が多くあります。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1937年」をご覧ください。
[カウント・ベイシー]
この年からデッカによるカウント・ベイシー楽団の本格的なレコーディングが始まります。3月の録音からギターがクロウド・ウィリアムスからフレディー・グリーンに代わり"All American Rhythm Section"が完成します。そして7月7日に録音した「ワン・オクロック・ジャンプ」が年間ヒット・チャート2位にランクされ、全米的な人気を得る足掛かりとなります。前述のようにヒットした「ワン・オクロック・ジャンプ」のスタジオ録音は7月7日ですが、6月30日のライヴ音源を聴くと、クロージング・テーマに演奏しており、レコーディング以前から演奏されていたことが分かります。またこの時期は歌手のビリー・ホリデイが在団していた時期でもあります。あまり吹込みはありませんが、エレックから出ていた「カウント・ベイシー・アット・サヴォイ・ボールルーム 1937」(ELEC Record KV-109)には、ベイシー楽団で歌うホリデイが記録されていて貴重です。詳しくは「カウント・ベイシー 1937年」をご覧ください。
[アンディ・カークとメリー・ルー・ウィリアムス]
僕の持っているアンディ・カークの1937年の録音は3曲のみ、いずれもほとんどがアンサンブル主体のメロウなナンバーです。1936年のような聴き応えのある作品がありません。この年本当にカークのバンドはそのような演奏スタイルだったのかあるいは僕が持っているのがたまたまそのようなスタイルの演奏なのかの判断が尽きません。僕の持っている音源を聴く限り、興味を惹かれるバンドではありません。
いっぽうメリー・ルー・ウィリアムスはこの年ブギー・ウギー・スタイルの録音を行っています。男臭い低音がエグイブギー・ウギーではなく、女性らしい上品なブギー・ウギーです。詳しくは「アンディ・カーク 1937年」及び「メリー・ルー・ウィリアムス 1937年」をご覧ください。
[ジミー・ヌーン]
シカゴを中心に活動してたミュージシャンの定番、ジミー・ヌーンには年も押し詰まった12月に8曲ほど録音しています。バンド名は<ジミー・ヌーンズ・アンド・ヒズ・オーケストラ>に戻っています。オーケストラと言っても8人編成のオクテットです。そして注目は録音場所がニューヨークで行われています。たまたまニューヨークに出て録音したのでしょうか?それとも活動の中心をニューヨークに移したのでしょうか?
また後に幅広く活躍するTpのチャーリー・シェイヴァースの拙HP初登場の録音でもあります。解説の大和昭氏によれば当時驚異の新進Tp奏者として将来を嘱望されていたといいます。詳しくは「ジミー・ヌーン 1937年」をご覧ください。
[ベニー・カーター]
スイング時代の三大アルト奏者の一人、ベニー・カーターは昨年に続きヨーロッパを楽旅中だったようです。1936年はイギリス・ロンドンでの録音でしたがこの年はオランダのハーグで現地ミュージシャン達とレコーディングを行っています。注目は8月の吹込みに当時欧州に移住していたコールマン・ホーキンスが参加していることです。僕が保有する唯一の1937年のホークの吹込みです。左の写真はホーク(Ts)、フレディ・ジョンソン(P)、ドラマーは不明。詳しくは「ベニー・カーター 1937年」をご覧ください。
[キャブ・キャロウェイ]
この年のキャロウェイの録音は4曲しか持っていませんが、最初の3月での録音ではテナー・サックスがベン・ウエブスターが吹いており、次の録音ではチュー・ベリーに代わります。キャブはテナーに一流どころを起用するというこだわりがあったのかなと思ってしまいます。詳しくは「キャブ・キャロウェイ 1937年」をご覧ください。
[テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッション]
テディ・ウィルソンとビリー・ホリディ この年もベニー・グッドマンのセッションや自身のブランズウィックにおけるセッション・シリーズなど活発な活動を行います。ブランズウィック・セッションは1935年7月に始まり、1939年1月まで3年半行われるが、最もセッション数が多く、吹き込まれた曲が多いのはこの1937年です。詳しくは「テディ・ウィルソン 1937年」をご覧ください。
[ビリー・ホリデイ]
ビリーにとってこの年も大変重要な年となります。この年はテディ・ウィルソンのブランズウィック・セッション以外にビリー自身名義の録音も増えてきます。またジョン・ハモンド氏の勧めで、37年3月から約1年間カウント・ベイシー楽団に専属女性ヴォーカリストとして参加するようになります。それと前後して出会ったレスター・ヤングとのコラボレーションはジャズ史上最高のコラボの一つと言われるようになります。ビリーとレスターの出会いは、ビリーの自伝『奇妙な果実』によれば、ジャム・セッションの場だったいいます。因みにビリーとレスターの初コラボ・レコーディングは1937年1月25日テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションです。
しかしベイシー楽団に入団する時期である3月1日に父のクラレンス・ホリデイが亡くなります。上記『奇妙な果実』では、1937年2月ニュー・ヨークのアップタウン・ハウスに出演している夜、ステージの10分前に電話に呼ばれた。テキサス州ダラスからの長距離電話で、全く冷たい声が「クラレンス・ホリデイは今亡くなりました」と告げたといいます。このことが後の大問題作『奇妙な果実』に結実していくことになります。
テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションに参加して吹き込んだ「うかつだった私」(Carelessly)が年間第40位にランクされています。ランキングではビリー名義になっていますが、本来は「テディ・ウィルソン・アンド・ヒズ・オーケストラ」とすべきでしょう。その他詳しくは「ビリー・ホリデイ 1937年」をご覧ください。
[ライオネル・ハンプトンのオールスター・セッション]
ライオネル・ハンプトン テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッションと並び称せられるスイング時代の花形セッション、ライオネル・ハンプトンの「オール・スター・セッション」は1937年2月8日から録音が開始されます。ハンプトンは、1930、31年にルイ・アームストロングと共演歴はあるものの全米中に名前を知られているという状況ではなく、地元西海岸で活動しているローカル・ミュージシャンでした。そのハンプトンがベニー・グッドマンと出会ったのは、1936年の夏のことでした。BG側の記載ではBG達が西海岸に公演に行った時、偶然ハンプトンを見出し、カルテットのメンバーとしてBGの公演やレコーディングに同伴するようになります。しかしBGがハンプトンと出会い共演を行うようになってからまだ半年しか経っていません。そんなハンプトンを主役にしたセッション・シリーズをレコード化するというのはいかにも異例のことと思われます。一体どのようにしてこのセッション・シリーズが始まることになったのでしょうか?
『RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第16巻/ライオネル・ハンプトン/オール・スター・セッション」(RCA RA-90〜95)の解説によれば、1937年初頭のある日、ハンプトンは、RCAヴィクターのレコーディング・ディレクター、イーライ・オーバーステイン(Eli Oberstein)から、「いつでも気が向いた時にレコーディングしてくれないか。色々違ったタイプのミュージシャンを自由に組んで、君がニューヨークにいる時ならいつでもスタジオを都合するよ」という夢のような申し入れを受けます。グッドマン・コンボの先輩メンバーで同僚のテディ・ウィルソンは、これより先ブランズウィックからオールスター的メンバーによるシリーズ・レコーディングを既に開始しており、ジャズ・ファンの注目を集めていました。オーバーステインは、コロンビア系ブランズウィックで成功しているテディ・ウィルソンの連作しリーに対抗する意図だったのではないかと思われます。BGカルテットの同僚ハンプトンのライヴァル意識を駆り立てようという魂胆だったのでしょう。ともかくリーダー吹込みをしたことのないハンプトンにとっては実に嬉しい話でした。こうしてBGのバンドのメンバーを主軸にして第1回セッションが2月8日に行われることになるのです。詳しくは「ライオネル・ハンプトン 1937年」をご覧ください。
注目のニュー・カマー … ディジー・ガレスピー
ディジー・ガレスピー 1937年5月17日チャーリー・パーカーと共にバップの立役者となるディジー・ガレスピーの記念すべき初レコーディングが行われます。その初レコーディングはテディ・ヒルが率いるNBCオーケストラの一員として、ブルーバード・レーベルへ吹き込まれました。
テディ・ヒルは1920年代後半から活躍しているテナー・サックス奏者で、1934年不況の真っただ中に自己のバンドを組織します。そして翌35年には初めてのレコーディングを行っているので、サックス・プレイヤーとしての腕前はともかくバンド経営の才は卓越したものがあったと言えるでしょう。しかしテディ・ヒルの名前が一番知られるのは、ビ・バップ勃興の基地ともいえる「ミントンズ・プレイ・ハウス」のマネージャーとして先見の明を発揮したところだと思われます。そんな彼の先見の明はバンドを辞めたロイ・エルドリッジの後任としてスイング時代の名トランぺッターとして知られるフランキー・ニュートンを経由して、ディジー・ガレスピーを起用したことにも如実に表れています。
しかし困ったことに、僕はこの音源を2種類のレコードで持っていますが、解説のお二人の「どのソロが初ソロ・レコーディングか」の意見が分かれています。いずれにせよどちらのソロも尊敬するロイ・エルドリッジのスタイルそのままに若々しいディズが輝かしいトランペットを吹き上げる姿が捉えられています。僕はこの年のディズの吹込みはこの3曲しか持っていません。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1937年」並びに「テディ・ヒル 1937年」をご覧ください。
[チュー・ベリー]
チュー・ベリー チュー・ベリーはベン・ウエブスターに次ぐコールマン・ホーキンス派の逸材、コールマン・ホーキンスとソニー・ロリンズを結ぶ巨人と言われますが、僕はホーキンスよりもレスター・ヤングに近い感じがします。それはホーキンスのように力ずくでゴリゴリ押してくる感じではないからですが、これは多分僕の不明なせいでしょう。
それはともかくそのチューはこの年自己名義のバンド"Stompy stevedores"を率いてリーダーとして初レコーディングを行います。バンド名の"Stompy stevedores"はどのような意味なのでしょうか?"Stomp"はジャズでは古くから使われた言葉で「弾むような音楽・演奏」、"Stevedores"は荷役夫ということなので、「弾むような楽しい音楽を運んでくる人たち」といった意味と思います。違うかな?
SP盤時代のことでソロは短く残念ではありますが、チューの端正なソロが楽しめます。詳しくは「チュー・ベリー 1937年」をご覧ください。
ピアニストたち
[ウィリー・ザ・ライオン・スミス]
ウィリー・ザ・ライオン・スミスは若きデューク・エリントンが憧れたというハーレム・ピアノの大物ですが、拙HPでは2度目の登場となります。1度目は1920年初の黒人シンガーによるブルース・レコード、メイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」のピアニストとして記載されていますが、これはピアノの音が全く聞こえません。そして2度目の登場の今回もソロではなく、コンボ演奏です。スミスやジェイムズ・P・ジョンソンの日本で発売されたレコードというのは本当に少ないです。詳しくは「ウィリー・ザ・ライオン・スミス 1937年」をご覧ください。
ミード・ラックス・ルイス [ファッツ・ウォーラー]
上記スミスと同じハーレム・スタイルのピアニスト兼シンガー、というよりもエンターティナー、ファッツ・ウォーラーはこの年56曲もの吹込みを行っています。1年間の吹込み数としては最多です。多くは「アンド・ヒズ・リズム」によるコンボ演奏ですが、2年7か月ぶりにピアノ・ソロを吹き込む機会が与えられたそうで、5曲ほどピアノ・ソロを吹き込んでいます(僕が持っているのは3曲)。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1937年」をご覧ください。
[アート・ティタム]
ハーレム・スタイルのピアニストの大物たちがなかなかソロ演奏の機会を与えられない中一人、ソロ演奏で気を吐くのがアート・ティタムです。ピアノの超絶テクニックを聴くならこの人という感じがします。詳しくは「アート・ティタム 1937年」をご覧ください。
[ミード・ラックス・ルイス(写真右)]
シカゴ派というかブギー・ウギー・ピアノです。僕の持っているこの年のルイスの録音は2曲のみです。その1曲「ホンキー・トンク・トレイン・ブルース」は、ルイスのというよりブギー・ウギー最大のヒット曲で、初演は1929年。そして2回目は1935年、そして3回目の録音となります。油井正一氏は時代が下るほどつまらなくなると書いています。詳しくは「ミード・ラックス・ルイス 1937年」をご覧ください。
[ルイ・アームストロング]
残念ながら僕は偉大なルイ・アームストロングの1937年の六億音を持っていません。
その他のジャズメン
メズ・メズロウ [ジャンゴ・ラインハルト]
僕の持っているこの年のジャンゴ・ラインハルトの録音は5曲です。うち2曲はギター・ソロです。ジョー・パスなどギター・ソロ演奏は最近では珍しくありませんが、当時のジャズとしては珍しかったのではないでしょうか?。詳しくは「ジャンゴ・ラインハルト 1937年」をご覧ください。
[メズ・メズロウ]
この年シカゴアンの代表的プレイヤー、メズ・メズロウのリーダー録音が記録されます。祭神サイ・オリヴァーを起用したコンボ録音で、メンバーは自身を除いて全員黒人。「特別志願黒人」と称したメズロウの面目躍如の立派なセッションとなっています。詳しくは「メズ・メズロウ 1937年」をご覧ください。
女性シンガー
[ミルドレッド・ベイリー]
僕の持っているベイリーの1937年最初の吹込みは夫君レッド・ノーヴォ名義のバンドに加わってのもので、その後2か月半後にほぼ同じメンバーですが、名義を自己名義にして1曲吹き込みます。この1曲が彼女の最大のヒット曲になります。曲はホーギー・カーマイケル作の「ロッキン・チェア」。この曲は彼女にとって2回目の録音で、年間ヒット・チャート第38位にランクされるヒットとなります。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1937年」をご覧ください。
[アンドリュース・シスターズ写真右]
拙HPでは初めての“シスターもの”である。日本では「かしまし娘」などが有名ですが、海の向こうアメリカの戦前の女性ジャズ・コーラスの「シスターもの」といえば、ボスウェル・シスターズとこのアンドリュース・シスターズということになるでしょう。芸歴的にはボスウェル・シスターズの方が先輩でレコード・デビューは1925年と古く、アンドリュース・シスターズに先立つこと12年も前になります。ということは、 本来ならボスウェル・シスターズから取り上げるべきなのですが、ボスウェルズの戦前のレコードは見たことがないのです。もちろんアンドリューズのレコードもそれほど多くは見かけませんが、たまたま見かけたので買っておいたということです。今後手が届くようなボスウェルズのレコードも購入したいと思っています。詳しくは「アンドリュース・シスターズ 1937年」をご覧ください。
ブルース
ロバート・ジョンソン [ロバート・ジョンソン]
伝説のブルース・マン、ロバート・ジョンソン(写真左)は、この年最後の録音を行い、翌1938年8月16日に27歳の若さで亡くなりました。詳しくは前回書きましたので今回は割愛します。1937年の録音については「ロバート・ジョンソン 1937年」をご覧ください。
他のブルース・ピープル
僕の持っているこの年のブルースのレコードは数少ないですが、「ブルース・ピープル 1937年」にまとめましたので、ご参照ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1937年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1936年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
セロニアス・モンク1917年10月10日ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント評伝『セロニアス・モンク』ロビン・ケリー
チャーリー・パーカー1920年8月29日ミズーリ州カンサス・シティ評伝『バードは生きている』ロス・ラッセル
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス(
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[セロニアス・モンク]
17〜18歳。特にこの年の記載はなく、組合費を払い米国音楽家連盟802支部の正式組員となるのは、1939年3月のことですので、相変わらずお金がなくニューヨーク中やニューヨーク近郊のいたるところで仕事をしてお金を稼いでいたと思われます。
[チャーリー・パーカー]
16〜17歳。この年の春加わっていたトミー・ダグラスのバンドが解散し、バードは日雇いのジャズメンの一人となります。そこで大変有名なエピソードが起こります。
ある晩ベースのジーン・ラメイとリノ・クラブに出かけます。そこにカウント・ベイシーに加わってニューヨークへ行っていたジョー・ジョーンズが週末を利用して戻ってきていました。ドラムスに座ったジョーンズを囲んで50人を超すカンサス・シティのジャズメンが彼に手合わせをしてもらおうとソロの順番を待っていたのです。ラメイは言います「大層な連中だよ。またにした方がよかないか?」「今最高に調子が良いんだよ」バードは新しいサキソフォンに自信を得て答えます。
順番が来てバードはステージに上がりますが、リノでジャムをやるのは初めてでした。背後からジョーンズがハイハットでアクセントを付けながらビートを刻む音が聞こえます。曲は「アイ・ガット・リズム」で、バードにとっては申し分のないものでした。ジョーンズの送るきっかけを待ってソロを始めます。事実上町中のジャズメンがリノに詰め掛けていました。彼らは他人の演奏を聴くと同時に自分の演奏を聴かせに来ている厳しい連中です。
バードは最初の32小節を終えます。上出来でした。ドラムの音と聴衆の反応からそれが分かります。しかしバードは、これこそ俺のものだという何かを演奏で示したいと考えました。<ダブル・タイム>は躊躇われます。まだ自信を持てていませんでした。そこでバードはトミー・ダグラスから教わった<パッシング・ノート>の一つを使います。彼はキーから外れますが、自分で練習したスケールの一つに逃げ込みます。コード・チェンジはうまくいき、居合わせた連中は息をのみます。さぁこれからバードはどう出るか、彼らは期待に胸を膨らませます。バードは別のキーに移ります。しかし気が付くとコードが分からなくなっていました。Cマイナー・セヴンスの代理コードは何だったか?バードは行き詰ります。どうして良いか分からなくなってしまうのです。バードはフレーズを飛ばしてしまいます。そして最大のミスを犯すのです。リズムを狂わせてしまうのです。ビートは彼を置き去りにして進んでいきます。ジョーンズは怒った悪魔のようにシンバルを乱打し、ぴたりと止まります。バードはサックスを握りしめたまま立ち尽くします。シンバルが風を切って飛んできます。ジョーンズがシンバルをリングからもぎ取ってバードの足元めがけて叩きつけたのです。シンバルは床に当たってけたたましい音を発します。リノに集まった演奏家達を押さえつけるような沈黙の中で、そのシンバルの音は小屋中に広がり、壁にこだまして、バンド・スタンドの天蓋に再びどっと押し寄せてくるかと思われました。1年前のハイハット・クラブの夜と同じように、洪笑の渦が爆発し、野次と怒号が飛び交います。バードは打ちのめされたのです。
バードは赤くなり、歯ぎしりを知サックスをケースにしまうと店を出ます。彼が店を出るときジャズメンたちは未だ笑い転げていました。「今に見てろ」彼は自分に言いました。「きっと見返してやる」
リノ・クラブでの出来事から数週間後の夏バードは、伝説のオザーク・マウンテンでの特訓に向かうのです。といってもカンサス・シティの避暑地のダンス・ホールで演奏する契約を取ったジョージ・リーのバンドに加わったのです。バンドは毎晩9時から2時まで湖水に臨むダンス・ホールで演奏し、演奏家たちは自由な時間をのんびりと釣りをしたりボート遊びをすることを楽しみにしていました。しかしバードはそんな楽しみには目もくれませんでした。リーのバンドのピアニスト、キャリー・パウエルはカンサス・シティきってのコード・マンに数えられていました。またギターのエファージ・ウェアもジャズ・クリニックをやっている理論家です。2人がハーモニーについて毎日教えてやるからと言ってバードをこの避暑地へ誘ったのです。
レッスンは人気のない昼からホールで行われました。レッスンが終わるとバードは持ってきたレスター・ヤングのソロが入ったレコードを何度もかけ、レスターのプレイを分析・研究しました。レコードは繰り返し繰り返しかけられ溝が擦り切れるほどでした。そして10月初めジョージ・リーは給料を払い、バンドを解散したのです。
バードはカンサス・シティに戻ると、早速リノ・クラブのジャム・セッションに向かいます。そこでカンサス・シティのジャズメンたちは皆この若き演奏家の目をみはるばかりの変貌ぶりに驚くのです。そのころバードと出会ったピアニストのジェイ・マクシャンは、「バードはそのころジャム・セッションに命を懸けているようだった」と証言しています。マクシャンは後にバードを自分のバンドに雇うことになるのですが、そのころはドラムのジェシー・プライスとアルト・サックスのバスター・”プロフ”・スミスのバンドに加わっていました。スミスはセカンド・アルトを探していたので、マクシャンが推薦しバードも加わることになります。スミスはレスター・ヤングのように厳しい旅公演で育った演奏家で知識も豊富でした。バードはスミスに付きまとい様々なことを学んでいきます。 [チャールズ・ミンガス]
14〜15歳。自伝ではこの年に当たる記述がありませんが。この頃から彼の終生変わらぬ悩みが目を吹いてきたようです。それは「自分はいったい何者なのだ」、「自分の仲間とはいったい誰なんだ」というアイデンテティの問題です。彼は黒人にしては白すぎ、といっても白人でもない。彼の血には、インディアン、アフリカ人、メキシコ人、アジア人そして白人が少し入り交じり、色のあまり黒くない黒人でした。もちろん白人の仲間には入れないし、黒人からも仲間外れにされました。
[マイルス・ディヴィス]
1937年は10〜11歳です。前回と変わりません。ただ11か12歳のころに服装に凝り始めたとあります。
[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1937年は10〜11歳です。特記事項はないので変わらずアルトホーンの練習に明け暮れていたと思われます
[スタン・ゲッツ]
1937年は9〜10歳です。特にこの年の記載はないので、相変わらず土曜の午後ラジオに向かってメトロポリタン・オペラの指揮をしたり、放課後にバンドの練習を聴いたり、ベニー・グッドマンのソロを覚えてハミングしたりしていたと言います。天賦の才能の開花はもう少し先のことになります。
[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1937年は7〜8歳。特にこの年の記載はありません。
[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1937年は7〜8歳。特に記載はないので、「楽しくて仕方なかった」というピアノのレッスンを熱心に続けていたのだと思います。
[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、3〜4歳です。まだこれといったエピソードはありません。

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