世界史の大きな流れは、領土的野心をあらわにしたナチス・ドイツとイギリス・フランスの対立はさらに進み、まさに開戦前夜といった状況となります。
[ヨーロッパ]
ヒトラーのナチス・ドイツは、1938年3月オーストリアを併合し、さらにドイツ人居住者が多いことを理由にチェコスロヴァキアに対してズデーデン地方の割譲を要求します。このような事態に対応するため、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンは、ヒトラーに対話を呼びかけます。そして1938年9月15日、チェンバレンとヒトラーはドイツのベルヒテスガーデンで会見を行いますが、ヒトラーがズデーテン併合要求について戦争も辞さずと言う強硬姿勢を示します。さらに同月中にゴーデスベルクで2度目の首脳会談が行われますが決裂します。事態は緊迫しますが、9月26日、ヒトラーはズデーテン割譲は自分の最後の要求であると声明、それを受ける形で9月29日ミュンヘン会談が開催されることになります。
ミュンヘン会議には、右写真の左からイギリス(チェンバレン)・フランス(ダラディエ)・ドイツ(ヒトラー)・イタリア(ムッソリーニ)の4国代表が集まりましたが、当事国のチェコスロヴァキアの代表は召集されませんでした。会議はイギリス首相チェンバレンの対独宥和政策によって枠が作られ、ヒトラーの要求通りズデーテン併合を認め、フランス外相ダラディエもそれに追随しました。
ヒトラーはこれ以上領土拡張を行わないと宣言したことを以て宥和外交の成果だとチェンバレンは強調していましたが、それは一時のごまかしにすぎず、ドイツは必ず更なる領土拡張に動くと予測した政治家もいます。イギリスのウィンストン・チャーチルです。
[日本]
日本では2月に第2次人民戦線事件が起こり、軍部が実権を握る政府にとって好ましくないと思われる思想の弾圧が本格化していきます。そして4月には「国家総動員法」が成立します。この法律は、日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用(総動員)できることを規定したもので、国家の戦争のためには、個人の生活や資産は制限されてもかまわないということになっていきます。
一方、中国大陸においては、その戦いは激しさを増します。日本は5月に徐州を占領し、10月に広東、武漢を占領、12月には重慶への爆撃を開始します。日本と中国の戦争はもう後戻りできないところまで進んでしまったのです。
順位 | アーティスト | 曲名 |
1 | アーティー・ショウ(Artie Shaw) | ビギン・ザ・ビギン(Begin the Beguine) |
2 | ジ・アンドリュース・シスターズ(The Andrews Sisters) | 素敵な貴方(Bei Mir Bist Du Schon) |
3 | エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald) | ア・ティスケット・ア・タスケット(A-tisket A-tasket) |
4 | ボブ・ホープとシャーリー・ロス(Bob Hope & Shairley Ross) | サンクス・フォー・ザ・メモリー(Thanks for the memory) |
5 | ロイ・エイカフ(Roy Acuff) | ワバシュ・キャノンボール(Wabash cannonball) |
6 | フレッド・アステア(Fred Astaire) | チェンジ・パートナーズ(Change partners) |
7 | ベニー・グッドマン(Benny Goodman) | その手はないよ(Don't be that way) |
8 | バニー・ベリガン(Bunny Berigan) | 言い出しかねて(I can't get started) |
9 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | アイヴ・ガット・ア・ポケットフル・オブ・ドリームス(I've got a pocketful of dreams) |
10 | ビング・クロスビー(Bing Crosby) | ユー・マスト・ハヴ・ビーン・ア・ビューティフル・ベイビー(You must have been a beautiful baby) |
年間ヒットチャートの第1位に輝いたのは、アーティー・ショウの「ビギン・ザ・ビギン」。コール・ポーター作の名曲で、現在でも数多くのミュージシャンによって取り上げられています。最近では1981年(最近でもないか?)スペインの歌手フリオ・イグレシアスの歌ったナンバーがイギリスでNo.1ヒットとなり、日本でも大ヒットしました。アーティー・ショウのナンバーについては、詳しくは「アーティー・ショウ 1938年」をご覧ください。
2位のアンドリュース・シスターズの「素敵な貴方」はベニー・グッドマンも吹きこんでいるナンバー。アンドリュース・シスターズが吹き込んだのは1937年11月下旬なので、発売⇒ヒットは翌年の1938年になったのだろう。詳しくは「アンドリュース・シスターズ 1937年」をご覧ください。またこの年の吹込みについては「アンドリュース・シスターズ 1938年」をご覧ください。
3位の「ア・ティスケット・ア・タスケット」は、エラ・フィッツジェラルド最大のヒット曲。エラ自身が同様からヒントを得てアル・フェルドマンに手伝ってもらって作詞作曲したという。エラ最大のヒット曲だが、在団していたチック・ウエッブやエラ自身のレコードには収録されていない。ジャズ・シンガーとしての経歴に傷がつくということなのであろうか?詳しくは「チック・ウエッブ 1938年」をご覧ください。
4位の「サンクス・フォー・ザ・メモリー」は、僕はミルドレッド・ベイリーが歌ったものが好きだが、ヒットしたのはボブ・ホープとシャーリー・ロスのレコードだが、元はこの二人が出演したパラマウント映画の主題歌。第5位のロイ・エイカフは「キング・オブ・カントリー・ミュージック」と呼ばれる歌手兼フィドル奏者。この「ワバシュ・キャノンボール」は彼の最も初期のヒット曲の一つ。
6位のフレッド・アステアの「チェンジ・パートナーズ」は、アステアとジンジャー・ロジャースのゴールデン・コンビの映画「チェンジ・パートナーズ」の主題歌。7位のベニー・グッドマンについては「ベニー・グッドマン 1938年」を、8位のバニー・ベリガンについては「バニー・ベリガン 1938年」をご覧ください。
9位と10位は、この時代最大の人気歌手ビング・クロスビーの面目躍如といったところでしょう。
前置きはこのくらいにして1938年のジャズの動きを見て行きましょう。
1938年アメリカのジャズだけではなく、ブルース、ゴスペルといった音楽界、特にブラック・ミュージックの人々の間の頭上に、年末に行われる超画期的なイヴェント「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートが薄雲のように頭上に広がっていたのではないでしょうか?何せ白人の上流社会の紳士淑女がクラシック音楽を聴きに行く「カーネギー・ホール」で、アフリカ系アメリカ人たちのルーツから当代人気のジャズ「スイング」までの歴史を紹介するコンサートを、出演者はすべて黒人で行うというのですから。一体どんなことが起こるのだろう、誰が出るのだろう?ミュージシャンは自分は呼ばれるだろうか?と思ったかもしれません。
カーネギー・ホールは、鉄鋼王アンドリュー・カーネギによって1891年ニュー・ヨークに建てられました。クラシック音楽の殿堂であり、ニュー・ヨーク・フィルハーモニーの本拠地でもありました。しかしこのホールは黒人たちに門戸を閉ざしていたわけではありません。1892年黒人ピアニストのW.T.タルバートがリサイタルを行っていますし、黒人ソプラノ歌手のシシエレッタ・ジョーンズ(Sisseretta Jones 1868〜1933:写真右)が黒人社会組織ザ・ソンズ・オブ・ニューヨーク(The sons of New York)主催のコンサートに出演しています。
さらに驚くべきことは、全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会(National Association for the Advancement of Coloured People:NAACPと略)の活動家ブッカー・T・ワシントンやW.E.B.デュヴォイス、さらには全世界黒人改善協会(UNIA)のマーカス・ガーヴェイ等に演説会場として場所を提供しています。
ジャズのコンサートとしては、純粋にジャズとは言えませんが、ジェイムズ・リース・ヨーロッパ(James Reese Europe)が彼のクレフ・クラブ・オーケストラを率い、1912年プレ・ジャズ的な音楽を演奏していますし、1924年「キング・オブ・ジャズ」を自称するポール・ホワイトマンは、カーネギー・ホールで「ラプソディ・イン・ブルー」の初演を行おうとしますが予約が取れず、2月12日エオリアン・ホールで初演を行い、同年4月21日にカーネギー・ホールでのお披露目を果たしました。
少し回り道をしました。さてこの画期的なコンサートを企画したのは、余りに多岐に渡ってジャズに貢献した「ジャズの恩人」ともう言うべきジョン・ハモンド氏です。ハモンド氏はコンサートの1年以上前から念入りに準備を進めていたことが分かっています。その証として「ブルースの皇后」ベッシー・スミスにも出演依頼をしていました。ベッシーは自分でクルマを運転して各地を巡演していましたが、1937年9月26日自分で運転していて、道路わきに駐車していた大型トラックに追突し、命を落としました。その車の運転席の前には、ハモンド氏からの出演依頼状が貼ってあったそうです。ブルースの人気が落ち、零落していたベッシーは、このコンサートを非常に楽しみにしていたそうです。ドサ周りのつらい日々をこのコンサートを希望に耐えていたのでしょう。
こうして名門カーネギー・ホールで久しぶりに、それも黒人由来の音楽、ジャズの歴史を振り返るコンサートが1938年末に行われたのかというとそうはなりませんでした。
上記のように1938年末の公演のために、ハモンド氏の「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing)」コンサートの準備が行われる中、突然ベニーグッドマンのカーネギー・ホール・コンサートの実施が決まります。「コンプリート・ベニー・グッドマン」CDボックスの解説には、「1937年12月BG楽団が出演中だった“キャメル・キャラヴァン”の運営をしていたトム・フィズデイル・エージェンシーのウィン・ネイサンソンが、伝説的な興行師ソル・ヒューロックのオフィスを訪ね、BGがカーネギー・ホールに出演すれば大成功を収めるのではないかと持ち掛けたというのです。ヒューロックはそのアイディアを買い、翌1938年1月16日日曜夜の出演の契約を行った」と書いています。アメリカのこういったホールの事情はよく分かりませんが、よく1か月前でブッキングが出来たものです。このような由緒あるホールの予約が1か月前にできるなど、現代の日本ではありえない話です。それともたまたま空いていたのでしょうか?
またハモンド氏はここまで影に日向にBGの支援をしてきた恩人のような存在であり、またBG夫人の兄でもあります。当然BGはハモンド氏にどうしたものか相談したと思います。しかし先ほどの解説書によりますと、ハモンド氏が背中を押して実施が決定したとあります。どこまで懐の深い人物なんでしょう!ともかくこのような事情で1938年は年明け早々の1月16日ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートという画期的なイヴェントで幕を開けることとなります。
そして大変ありがたいことにこのコンサートは録音されており、レコードとして発売もされているのです。何と1938年1月16日のコンサートで行われた演奏が80年以上たった現代で聴くことができるのです。技術的に詳しいことは分かりませんが、レコード解説によると、ステージ上に1本のマイクロフォンが立てられ、そのマイクが捉えた音はCBS放送のスタジオにリレーされていたのである。そしてリレーされた音響は、当時は磁気テープが存在しなかったので、16インチの大型ディスクにされていたのです。この大型ディスクは2組作られ、1組は国会図書館に収められ、もう1組は行方不明になっていました。その行方不明になっていた1組が1950年グッドマンの自宅で発見されたのです。何のことはない、自分で持っていたのを忘れていたのですね。ともかくBGはそれをコロンビアの録音技師に渡し、ひとまず最良の状態でテープに複写することを命じたのです。こうして我々はこの歴史的なコンサートを聴くことができることになったのです。
それではこのコンサートは、歴史的に初のちゃんとしたジャズ・コンサートという以外にどんな意義があるのでしょうか?それは第一に、このような格式の高い舞台に初めて白人と黒人が一緒に舞台に立ち、同じ音楽を演奏したということと思われます。BGは白人を主体としたオーケストラの他にDsのジーン・クルーパに黒人ピアニスト、テディ・ウィルソンを加えたトリオ、さらに黒人のヴァイブラフォン奏者ライオネル・ハンプトンを加えたカルテットで演奏を行っています。これは各地のボールルームやホテルなどではこれまでも行ってきたことですが、このような格式の高いコンサート会場では、初めてのことでした。さらにオクテット(八重奏団)ではエ厘と楽団のクーティ・ウィリアムス、ジョニー・ホッジス、ハリー・カーネイと共演し、ジャム・セッション・コーナーでは、カウント・ベイシー楽団からバック・クレイトン、レスター・ヤング、フレディー・グリーン、さらには御大のベイシーまでも加えて、ジャム・セッションを展開しています。
これらはこの時代としては大変に勇気のいることで、それ自体素晴らしいことだと思います。しかしBGは純粋に音楽的な欲求だけでこれらを行ったのでしょうか?このコンサートの前半で、BGクインテットというオーケストラからのピック・アップメンバーで、「ジャズの20年史(Twenty years of jazz)」というコーナーを設け、O.D.J.B.から始まるジャズの20年の歴史を振り返っています。BGはここでジャズの歴史を総括してしてみせたのです。そしてこのコンサートでは自らのバンドを「ベニー・グッドマンと彼のスイング・オーケストラ(Benny Goodman and his Swing orchestra)」と名乗っています。これはジャズの歴史はこうだった、そして今は自分が作り出した新しい時代「スイング時代」と言わんばかりではないでしょうか?さらに黒人の名門、人気バンド、デューク・エリントンそしてカウント・バイシーからもバンド・メンを招き、自分の差配の下で演奏させたのです。正にジャズの時代は終わった、今はスイングの時代であり、その盟主は自分なのだということを聴衆たちにアピールしているように思えてなりません。ちょっと穿ちすぎでしょうか?ジョン・ハモンド氏との関係もあってカウント・ベイシー自身も出演しましたが、自らの出演も求められたデューク・エリントンは「自分はいずれ自分のバンドで出るから」と言って断ったそうです。伯爵(Duke)の矜持に拍手です。しかしこうしたことはジャズの裾野を広げていったことは間違いありませんが。
最後になりましたが、もしこの音源の新規購入をお考えの方がいましたら、左のCD2枚組ボックスをお勧めします。理由はレコードでは、ジャム・セッションにおけるバック・クレイトンのソロ1コーラス、フレディ・グリーンのソロがカットされているからです。
この年史上初のジャズのインディーズ・レーベル、<コモドア・レコード(Commodore records)>が誕生します。これまでもジネット、パラマウントといった小レーベルのレコード会社はありましたが、コロンビア、ヴィクターといった大手レコード会社の系列に入らず、専門的にジャズのレコード製作、販売を目的としたレコード会社はありませんでした。このレコード会社を立ち上げたのがミルト・ゲイブラー(写真右)です。この<コモドア・レーベル>の記念すべき第1回録音は、ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートの翌日、1月17日の深夜(正確にはもうすでに1月18日になっていた)に行われたのです。<コモドア・レーベル>立ち上げの詳細、この第1回録音について詳細は「エディ・コンドン 1938年」を、同日録音のバド・フリーマンの録音については「バド・フリーマン 1938年」をご参照ください。
1930年以来の再登場ですが、と言ってモートンは演奏活動を辞めていたわけではありません。30年以来これまでの彼の動向をまとめると、1929年に勃発した大恐慌により、1930年代に入ると人々はジャズを楽しむどころではなくなっていたことはこれまでも触れてきました。そんな不況の中で、モートンのバンドも行き詰まり、メンバーも一人、二人と辞めていくようになりました。そんな中で、モートンの派手な生活ぶりや化粧品の事業に手を出し失敗したこともあって、モートンは破産状態に陥ってしまいます。
1930年代の前半の5年間をモートンはニューヨークで過ごし、演奏活動は続けていましたが、もはや人々の注目を得ることも無く過去の人として忘れられ始めていました。
1934年8月15日ディッキー・ウエルズ、アーティー・ショウ、バド・フリーマンらとウィンギー・マノンのレコーディング・セッションに参加し、スペシャル・エディションズに2曲の録音を行いますが、これが30年代前半における彼の唯一の吹込みでした。
1935年モートンは再び巡業用のバンドを結成し楽旅に出ますが、翌年には早くも解散してしまいます。モートンはそのままワシントンに住みつき、1936年暮からワシントンの黒人街にある小さな「ジャングル・クラブ」でピアノを弾き何とか生活をしていたのでした。この頃には「ジェリー・ロール・モートン」の名は完全にジャズ・シーンから消え去り、ジャズ界の人々にとっては消息不明の過去の人物と考えられるようになっていたのです。
そんな彼がどういった経緯で人々の耳目を集めるようになったのでしょうか?ことの発端は、1938年3月、当時の人気ラジオ番組ロバート・リプレイ(Robert Leroy Ripley)の“Believe it or not”(信じますか、信じませんか)が、W.C.ハンディのことを取り上げ、「ジャズとブルースの創始者」としてその業績を讃えたのを、たまたまモートンが聴いていたことから始まりました。この放送を聴いたモートンは、怒り狂います。
モートンは直ちに筆を執り、ボルチモア・アフロ・アメリカン紙に「ハンディはブルースの父ではない(Handy not father of blues)」という抗議文を送り、ワシントンポスト紙にも抗議文を送ったのです。さらに「W.C.ハンディは嘘つきだ(W.C.Handy is a liar)」という4000字にも及ぶ長文の抗議文を先述のリプレイ氏に、そのコピーをダウンビート誌にも送ったのです。そしてその抗議文はまずダウンビート誌に掲載されます(右は抗議文の掲載告知)。
そこで彼はジャズ発祥地はニューオリンズであり、1902年に自分が創り上げたのだと大見得を切ります。そしてその手紙の末尾を“Jelly Roll Morton / Originator of jazz and stomps /Victor artist /Worlds greatest hot tune writer”と署名しました。後には“Stomps”の後に“Swing”を加え、「ジャズ・ストンプ・スイングの創始者/ヴィクター専属/世界で最も偉大なホットな作曲家」と名乗るようになります。
さて、このモートンの行動は、大方のジャズ・ファンには「大ぼら」と捉えられ、大いに顰蹙を買ったと言われますが、ともかく彼の名は再び人口に膾炙されるようになります。そしてある一人の男が彼に興味を抱くことになるのです。その男の名はアラン・ロマックス(Alan Lomax)。彼は民俗音楽の収集、分析などを行っている研究家で、アメリカ議会図書館のディレクターでした。彼の行っていたアメリカの各種民俗音楽の蒐集は、時のニュー・ディール政策の一環であり、国家事業でもありました。ロマックスは早速モートンと連絡を取り、1938年5月〜7月までの3か月間国会図書館のために、ピアノ演奏、ヴォーカル、語りによるジャズ創成期の回顧談、ジャズ音楽の形成などについて12インチSP盤48枚に吹き込みを行います。このSP盤は当初サークル・レーベル(ジャズ・マン・レーベル)で発売され、後にリヴァーサイド・レコードから30センチLP12枚として世に送られました。この辺りの詳細は「ジャズの歴史2 ラグタイム」を参照。
この資料は大変貴重で、拙HP初期のジャズで頻繁に登場するガンサー・シュラー氏の『初期のジャズ』などのネタ元になっています。ジャズを根本から研究する人には必須の資料です。因みに僕は持っていませんが。詳しくは「ジェリー・ロール・モートン 1938年」をご覧ください。
「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing)コンサート 1938年」については開催が年末ですので、最後に詳しく取り上げたいと思います。
当時ベニー・グッドマンと人気を二分する白人バンドと言えば、トミー・ドーシーとその楽団でした。ドーシーはその代表曲「センチになって」から「センチメンタル・ジェントルマン」などと言われますが、音楽に関しては妥協を許さない完璧主義者で、常にバンドの強化を目指して、メンバーの入れ替え等を積極的に行っています。これにベニー・グッドマン楽団内の不和などとも絡み、もう一つの有力バンド、ボブ・クロズビーの楽団なども巻き込みながら、各バンド目まぐるしくメンバーが入れ替わっています。
また1938年最初の1月14日のNBCのラジオ放送では、「エヴォリューション・オブ・スイング」というコーナーを設け、1909年の「メンフィス・ブルース」からスタートし、1916年の「タイガー・ラグ」、カリフォルニア・ランブラーズの「スイート・ジョージア・ブラウン」、ジーン・ゴールドケット楽団の持ち歌などを演奏したのです。この企画は、発想という点において2日後に行われるベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートにおける「ジャズの20年史(Twenty years of jazz)」コーナーと被ります。時間的なことを考えれば、どちらかが模倣したということはなく、双方が同じようなことを考えていたというのが正しいでしょう。ドーシーのこれらの演奏はアレンジャーのポール・ウエストン(Paul Weston)、アクセル・ストーダル(Axel Stordahl)によって正確な譜面が書かれていたそうです。ということは結構以前から準備されていたと言えるでしょう。そしてドーシーはこの年、「チャイナタウン・マイ・チャイナタウン」、「コペンハーゲン」、「オールド・ブラック・ジョー」、「ダヴェンポート・ブルース」といった古いナンバーを取り上げて録音しています。そして注目されることは、クラレンス・”パイントップ”・スミスの自作自演「ブギ・ウギ」をディーン・キンケイドのアレンジで吹込んだことで、この曲はドーシー楽団最大のヒット曲として当時400万枚を超す大ヒットとなりました。詳しくは「トミー・ドーシー 1938年」をご覧ください。
アーティー・ショウは、15歳の時に家出して以来、何度が郷里に帰ったこともあるようだが、アメリカ各地を転々としながら腕を磨き、30年頃ニューヨークに進出やってきます。そして色々なジャズ・マンと共演を果たしながらさらに腕を磨いたり、田舎に引っ込んだりしていましたが、1936年5月異色の編成のスモール・グループを結成し注目を集めます。そして弦楽4重奏を加えたビッグ・バンドを結成しますがこれは見事に失敗してしまいます。そして翌37年春通常編成のビッグ・バンドを結成するに至ります。スタートがやや遅くベニー・グッドマン、トミー・ドーシーなどのビッグ・バンドの後塵を拝する形ですが、ショウは着々とバンドの強化に力を注ぎ、1938年初頭にメンバーの3分の一を入れ替え、専属歌手に白人バンドとしては初めて黒人女性歌手、カウント・ベイシー楽団を辞めたばかりのビリー・ホリディを雇い入れセンセイショナルな話題を提供します。
そしてボストンの「ローズランド・ステート・ボールルーム」に長期出演契約を結ぶなど上昇気運に乗るようになっていきます。さらに後にグレン・ミラー楽団で名を上げたジェリー・グレイを迎えハリー・ロジャース、アル・アヴォラというアレンジャー陣を充実させ、バンド・スタイルは一新し、素晴らしいビッグ・バンドに急成長するに至るのです。
こういったショウ楽団の評判に目を付けたRCAヴィクターは1938年7月ショウ楽団と専属契約を結びます。その第1回目の録音が1938年7月24日に行われますが、その内の1曲が空前の大ヒットとなる「ビギン・ザ・ビギン」です。このヒットで一躍ベニー・グッドマン、トミー・ドーシーと並ぶスイング・バンドの地位を獲得するのです。
1938年はビリー・ホリディが専属歌手として在団した時期ですが、レコーディングはほとんどありません。ビリー自身「歌手としての私の経歴はレコードでたどることができるが、アーティー・ショウ時代は空白である」と自伝に書いているくらいです。原因はビリーはコロンビアの専属で、ショウはヴィクターの専属だったからです。しかし実際は1曲だけ録音は存在します。それは7月24日録音の「エニー・オールド・タイム」という曲ですが、その録音・販売・オクラ入りの経緯は「ビリー・ホリディ 1938年」を参照してください。その他この年のショウについては、「アーティー・ショウ 1938年」をご覧ください。
1939年以降華々しい活躍をするグレン・ミラーですが、スイング・ジャズが脚光を浴びつつあった1936〜37年はイギリスから渡米したレイ・ノーブル楽団のアレンジャーとして活動していました。そしてついに1937年自己の楽団を組織し、スイング・ジャズ界に打って出ますが、なぜか人気が盛り上がらず1938年1月2日バンドはコネチカット州リッツ・ボールルームの公演を最後に解散に追い込まれます。失意のうちにニュー・ヨークに戻ったミラーは、独自のサウンドを持たなければ成功しないと考え、クラリネットを有効に活用したサウンドを作り上げ、これを生かした「ムーンライト・セレナーデ」が大ヒットとなるのですが、これは翌1939年のことです。
ディスコグラフィーによれば、1937年バンド解散前に6曲ほどレコーディングを行っていますが、全くヒットしませんでしたし、そのレコードは僕も持っていません。そして1938年9月27日新生バンドによって3曲ほど録音を行っています。その内の1曲「ミネトンカの湖畔」は、25pSP盤両面にわたる大作でミラーがジャズ・アレンジへの意欲を見せた快作とされています。詳しくは「グレン・ミラー 1938年」をご覧ください。
これは僕だけが感じることかもしれないが、この年は白人のビッグ・バンドがブギー・ウギーを多く吹き込んでいることを感じます。以下は拙HPで取り上げたナンバーの録音日順です。
日付 | バンド名 | 曲名 | 原題 |
1937年7月7日 | ベニー・グッドマン楽団 | ロール・エム | Roll 'Em |
1938年2月15日 | ベニー・グッドマン楽団 | ロール・エム | Roll 'Em |
1938年3月10日 | ボブ・クロスビー楽団 | ヤンシー・スペシャル | Yancey special |
1938年9月16日 | トミー・ドーシー楽団 | ブギー・ウギー | Boogie Woogie |
1938年10月19日 | ボブ・クロスビー楽団 | ホンキー・トンク・トレイン・ブルース | Honky tonk train blues |
1938年11月9日 | カウント・ベイシー | ブギー・ウギー | Boogie Woogie |
1938年12月29日 | ベニー・グッドマン・クインテット | ピカ・リブ | Pick-a-Rib |
柴田浩一氏は、その著『デューク・エリントン』で、「コットン・クラブで、『コットン・クラブ・レヴュー』を上演。6ヵ月のロング・ランの成績を収める。その後、演奏旅行とアポロ劇場出演などで明け暮れる」とこの年のエリントンの活動を総括しています。しかし実際はレコーディングもかなり積極的に行われています。1年で75曲というのはかなり多い方だと思います。
この年のレコーディングは、早くも1月13日から始めています。そして3日後の1月16日には、ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートが行われ、クーティ、ホッジス、カーネイという主力メンバーを貸し出しています。デューク自身も出演を依頼されますが、「いずれ自分のバンドで出演するので」と言って断ったことは前に記述しました。そして当日デュークは最前列のボックス席でコンサートを聴いていたといいます。その時の思いはどんなものだったのでしょうか?もしかするとその時の思いがデュークの創作意欲にさらに火を点け、旺盛な吹込み活動につながったのかもしれません。詳しくは「デューク・エリントン 1938年」をご覧ください。
実に久しぶりの登場です。いつ以来かというと前回取り上げたのは1929年の録音ですので、9年ぶりということになります。この間の状況を、レコード解説の大和明氏が次のように述べています。
すなわち30年代に入ってから大恐慌の影響で仕事に恵まれず、一時タクシーの運転手をしていた時期もあったといいます(ドッズの息子は、父はタクシー会社を共同で経営していたと述べている。経営と言っても椅子にふんぞり返っていたわけっではなく、自らも運転していたのかもしれません)。
そして30年代の半ば、スイング時代が到来しジャズが大衆の音楽として受け入れられるようになると、彼のワイルドで強烈な個性は、当時全盛となっていたビッグ・バンドを演奏を主とした洗練されたスイング・ジャズには到底溶け込めず、吹込み活動から全く遠ざかってしまいました。
そしてデッカ・レコードが昨年(1937年)のジミー・ヌーンのレコーディングに続いて、この忘れられた巨匠にレコーディングの機会を与えることにしました。それがこの吹込みです。ドッズにとって、実に9年ぶり、初めてニューヨークに出てきてのレコーディングだったのです。
ここでドッズは、本来のニュー・オリンズ・スタイルで演奏するのかと思えばさにあらず、完全にスイングのスタイルで演奏するのです。詳しくは「ジョニー・ドッズ 1938年」をご覧ください。
スイング時代きっての名ベーシストとして、これまでも多数の録音に参加しており、拙HPでもよく登場するジョン・カービー。しかし彼自身は単なるベーシストではなく、サウンド・イノヴェイターであったと言って過言ではありません。ビッグ・バンド全盛時代に彼が組織したこの六重奏団こそは真にコンボ・スタイル・ジャズの草分けではなかったかと云われるほど重要です。そんな彼らの1938年の録音は、僕の持っているジョン・カービー・セクステットの最も古い録音となります。クラシックのジャズ化はトミー・ドーシーなども取り組んでおり決して当時珍しいものではありません。しかしドーシー楽団と異なり、コンボで取り組んだところがその特徴で、辛口のジャズ評論家粟村政昭氏をして、「時に軽やかに時に優雅にスイングして室内楽的ジャズの最高のものを想像するのに成功した」と言わしめています。そして「室内楽的ジャズ」と言っても決して難解ではなく、楽しい演奏であり、各自のソロも見事であり、全体の雰囲気としては後年のジョージ・ラッセル風です。いや逆ですね、ラッセルがカービー風なのです。詳しくは「ジョン・カービー 1938年」をご覧ください。
史上初めてジャズの芸術性を論じたと言われるフランスのジャズ評論家、ユーグ・パナシェ(Hugues Panassie)氏が1938年初めてアメリカに渡り、その敬愛するミュージシャンたちを集めてレコーディングのプロデュースを行った。このことは何項目か前の<インディーズ・レーベルの登場>に少々近い話題のような気がします。<インディーズ・レーベルの登場>の方は、もともとジャズ・ファンだった人物が、自分の聴きたいジャズ・レコードの政策を目指してレコード会社を立ち上げるということであり、こちらは大のジャズ・マニアである評論家がこれも自分好みのミュージシャンを集めレコーディングを行うというお話です。どちらも行動を起こした人は、もともとレコード会社で経験を積み上げるということはしておらず、言ってみれば「素人」です。しかしジャズ愛なら誰にも負けないといった人々で、そういう人たちが、レコード会社が好みのレコードを作ってくれるのを待ちわびるということに満足せず、自分たちで作ってしまおうと行動に移したという点で共通項があると思われるのです。
左はそのレコーディング合間の光景。左からメズ・メズロウ(Cl)、ジェイムズ・P・ジョンソン(P)、ユーグ・パナシェ(背広)、トミー・ラドニア(Tp)。セッションは1939年1月まで全4回行われました。その内の3回は1938年に行われ、いずれも素晴らしい出来栄えを示しています。詳しくは「メズ・メズロウ 1938年」をご覧ください。
パナシェ氏が年を跨いでアメリカに滞在したのは、盟友(と思われる)ジョン・ハモンド氏がプロデュースする、一大イヴェントカーネギー・ホールで開催される「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing)」コンサート を見ることもその目的の一つだったのではないかと思われます。パナシェ氏がこの時期渡米することは当然ながらジョン・ハモンド氏には伝わっていたでしょう。僕はこのコンサートを見たパナシェ氏の感想を聴いてみたい気がします。
初めに「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing」は、多岐に渡ってジャズに貢献した「ジャズの恩人」ともう言うべきジョン・ハモンド氏が1938年と1939年ニューヨークのカーネギー・ホールで開催したコンサートです。題名「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」とは言わずもがなですが、「Spiritual(黒人霊歌)からSwing(正に当時のジャズのスタイル)まで」ということで、その趣旨は、タキシードを身に付け、或いイヴニング・ドレスで身を飾った上流社会の白人の紳士淑女達にこの国に生れ興った新しい芸術”Jazz ”がどのようにして生まれ、現在皆さんが楽しんでいる音楽に変遷を遂げてきたかを理解してもらいたいということではないかと思います。
油井正一氏によれば、この一晩のコンサートは1年以上前から周到な準備が行われていました。それは、最高のものでなければ居並ぶ人種差別の偏見に凝り固まった白人聴衆の心に響かせることはできないと考えたのではないでしょうか?
その入念な準備を示す証拠に油井氏は、1937年9月26日に自動車事故で亡くなった「ブルースの皇后」ベッシー・スミスが生前ジョン・ハモンド氏から出演依頼を受け、大変喜んで楽しみにしていたというエピソードを紹介しています。
出演者を見ればこのコンサートは、当時多分ほとんど白人達があまり知らなかった「ブルース」、「ゴスペル」、「ブギ・ウギ・ピアノ」を網羅し、これらから皆が楽しく踊るベニー・グッドマンやトミー・ドーシーの「スイング」が生まれてきたのだということを示したかったのでしょう。
さて気になるのは、このコンサートと約11か月前の1938年1月16日に行われたのにベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートとの関連です。BGのCDボックス「コンプリート・ベニー・グッドマン」(BMG BVCJ-7030)の解説を担当しているモート・グッド氏は、「1937年12月BG楽団が出演中だった“キャメル・キャラヴァン”の運営をしていたトム・フィズデイル・エージェンシーのウィン・ネイサンソンが、伝説的な興行師ソル・ヒューロックのオフィスを訪ね、BGがカーネギー・ホールに出演すれば大成功を収めるのではないかと持ち掛けた。ヒューロックはそのアイディアを買い、翌1938年1月16日日曜夜の出演の契約を行った」と書いています。もちろんBGの重要な相談相手ジョン・ハモンド氏も賛成し、大いに背中を押したとも書いてあります。
因みにアメリカのこういったホールの事情はよく分かりませんが、よく1か月前でブッキングが出来たものです。このような由緒あるホールの予約が1か月前にできるなど、現代の日本ではありえない話です。たまたま空いていたのでしょうか?
ともかくこの記述通りとすれば、BGのカーネギー・ホールでのコンサートは1か月前にバタバタと決まったことになります。そしてBGは年末にはハモンド氏がカーネギー・ホールで一大イヴェントを行うことを知っていたはずです。しかしBG側の資料にはこの「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing 1938)」に関する言及は全くありません。
またベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートでは、演目の中に「ジャズの20年史」というコーナーが設けられデキシーランド・ジャズのナンバーやルイ・アームストロングのナンバーが演奏されました。1950年に発売されていたレコードの解説を担当したアーヴィング・コロディン(Irving Kolodin)氏によれば、このアイディアを出したのはコロディン氏自身だという。そしてジョン・ハモンド氏の支持によって実現の運びとなったと書いています。
ハモンド氏は人気上昇中の白人ジャズ・マンBGに「ジャズの20年史」というジャブを打たせ、自分では黒人音楽を網羅する「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」コンサートを行ったのかもしれません。そこには余りにBGに黒人よりのパフォーマンスをやらせると、白人達から顰蹙を買い将来に禍根を残すかもしれない、だからBGにはジャズまで遡り、そして「ブルース」、「ゴスペル」、「ブギ・ウギ」といった最も黒人らしいパフォーマンスについては自分が矢面に立とうということだったかもしれません。以上推測ばかりですが、何せこの辺りの事情を記載した資料というのは、ほとんど見受けられないのです。
油井氏のレコード解説によれば、そもそもこの録音はLP化し発売することを前提にしないで録音されました。そのことは主催者のジョン・ハモンド氏自身が自分の楽しみのために録音したと語っていることからも明らかです。
僕は、そもそもこのレコードといい、BGの「カーネギー・ホール・コンサート」といい3分間程度と言われるSP盤時代に10分にも及ぶ演奏が録音されていることが不思議でなりませんでした。油井氏によれば、その年の1月に行われたBGのカーネギー・ホール・コンサートは、アル・マークスという技術者によってアセテート盤に録音されていました。そしてそのことを知ったハモンド氏はゼータ・フランクという技術者に、依頼し同じことをやってもらったのだといいます。ハモンド氏は、これらの録音盤を門外不出とし、訪問客や自分の楽しみのために時折取り出して聴いていましたが、53年にコロンビアの技師ビル・サヴォリーに頼んでテープに写しを取っておいたというのです。その後そのテープをヴァンガードの優れた技術者であるシーモア・ソロモンとジョン・ボーモントの2人が、延べ数百時間を費やしてスクラッチやノイズを取り除き、当時出来る限りの修正を加えてマスター・テープを作り上げたものだといいます。そして1959年春にヴァンガードから発売されるや、ダウン・ビート誌をはじめあらゆるジャズ・ジャーナリズムが最高点を捧げ、発売から半年足らずで2万組を超える販売記録を樹立したというのです。その割にしばらくは廃盤となっていましたが、1976年日本だけかどうかは分かりませんが、復刻したものが僕の持っている「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(ヴァンガード・ジャズシリーズ キング・レコード LAX-3076-7)です。
さてこのヴァンガード・レコーズ(Vanguard records)とはどのようなレコード会社なのかと言いますと、「スイング・ジャーナル」誌増刊号『ジャズ・レコード・マニア』(右写真)によれば、1950年ニューヨークにメナードとシーモアのソロモン兄弟によって設立されたレーベル。この二人の兄弟の志向は元来クラシックであったといいます。ジャズ以外にも貴重なレコードは多数ありますが、ジャズに関してだけ触れると、1953年ジョン・ハモンド氏を監修者として招き、6年間に渡り中間派ジャズの傑作を次々と制作していったと言います。このシリーズは「ジャズ・ショウケース」シリーズと呼ばれ、クラシック録音で得たハイファイ録音のノウハウを生かした優れた音質が、ジャズ・ファンに好評でした。そしてハモンド氏は、このシリーズの終わり近くに秘蔵していた1938、39年の「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing)」コンサートのレコード化を行い、1959年暮れに発売するやダウンビート氏は満点を付けて激賞し、半年足らずで2万セットを売るというジャズ界では異例の大ヒットなった。」
さてこの日本盤が最初にいつ発売されたのかは分かりませんが、僕が持っているのは1976年に発売されたLP2枚組のレコード。しかし実はこのレコードはかなり不親切な分かりにくい構成になっています。それは1938年が1枚目、1939年が2枚目という構成にはなっておらず、1938年と1939年のパフォーマンスが入り交じっているのです。しかも始末が悪いのは、それぞれにこれは1938年のコンサートのような表示が一切ありません。監修の油井正一氏にはもう少し頑張って欲しかったなあと思います。
そこで僕は1990年にCD化された2枚組を購入しました。少しぐらい解説が改良されていることを期待したのですが、これは見事に裏切られます。解説はレコードと全く同じで、演奏の収録もレコードと同じ。レコード1枚目をCD1枚目に、レコード2枚目をCD2枚目に同じ順序で並べただけでした。その他の音源についてもかなり???な部分があります。
これだけ歴史的に重要なイヴェントなのですから、きちんとした形で、解説も充実させた日本盤を期待するのは僕だけではないでしょう。
このコンサートについて非常に有名なエピソードを紹介しておきましょう。コンサート中の<ブギー・ウギー>のコーナーがありますが、これがドイツ人の貿易会社員アルフレッド・ライオンの心に火を点けます。
1908年ベルリン生まれのライオンは幼いころからのジャズ・ファンでした。一度本場のジャズが聴きたくて単身ニューヨークに渡ったこともありましたが、その時は散々な目に会い、一旦ドイツに帰国します。しかしドイツではヒトラーのナチズムが吹き荒れ始めており、危険を感じたライオンは1933年母親と共に南米のチリに移住します。そこでも貿易会社に勤めていましたが、数年後ニューヨークに移住します。ニューヨークでも貿易会社に勤め、生活も落ち着くようになると、再びジャズへの情熱が燃え上がってきたのです。そんな折に知ったのがこの「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートでした。そこでミード・ラックス・ルイスやアルバート・アモンズそしてピート・ジョンソンなどを聴いて感動したライオンは、それから2週間後<ブルーノート>レーベルを設立し、1939年1月6日にはミード・ラックス・ルイスとアルバート・アモンズの初レコーディングを行うに至るのです。(『ブルーノートJAZZストーリー』(油井正一、マイケル・カスクーナ著 新潮社)もしライオン氏がこのコンサートを聴いていなかったならば、<ブルー・ノート・レコード>は無かったかもしれません。詳しくは「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング 1938年」をご覧ください。
ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
セロニアス・モンク | 1917年10月10日 | ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント | 評伝『セロニアス・モンク』 | ロビン・ケリー |
チャーリー・パーカー | 1920年8月29日 | ミズーリ州カンサス・シティ | 評伝『バードは生きている』 | ロス・ラッセル |
チャールズ・ミンガス | 1922年4月22日 | アリゾナ州ノガレス | 自伝『負け犬の下で』 | チャールズ・ミンガス( |
マイルス・ディヴィス | 1926年5月26日 | イリノイ州オルトン | 自伝『自叙伝』 | マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ |
ジョン・コルトレーン | 1926年9月23日 | ノース・カロライナ州ハムレット | 評伝『ジョン・コルトレーン』 | 藤岡靖洋 |
スタン・ゲッツ | 1927年2月2日 | ペンシルヴァニア州フィラデルフィア | 評伝『スタン・ゲッツ』 | ドナルド・L・マギン |
ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事情』 | 中山康樹 |
穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |