僕の作ったジャズ・ヒストリー 24 … スイング時代 1939年

世界の情勢 … 第二次世界大戦開戦

ポーランドを進軍するドイツ戦車部隊 [ヨーロッパ]
ヒトラーのナチス・ドイツは、1938年3月オーストリアを併合し、ミュンヘン会談で宥和政策をとるイギリス・フランスの妥協を引き出し、ズデーテン地方割譲に続くチェコスロヴァキア解体に成功します。さらにオーストリア併合し、リトアニアからメーメル地方を奪います。ヴェルサイユ条約で自由都市とされていたポーランドのダンツィヒを併合、本格的なポーランドへの侵攻を開始します(右はポーランドを進軍するドイツ戦車部隊)。そしてヒトラーは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結してソ連と手を結びます。事ここに至ってようやく宥和政策を続けることが困難と判断したイギリスは、ドイツを牽制するためポーランド支援を明確にし、25日イギリス=ポーランド相互援助条約を締結、フランスもそれに倣います。
1939年9月1日ダンツィヒを親善訪問中のドイツ巡洋艦シュレスヴィヒ・ホルスタイン号が、突如ポーランド守備隊に対して砲撃を開始したのです。ナチス=ドイツは開戦の理由としてポーランド国内で虐待されているドイツ系住民の保護を掲げたが、そのような虐待の事実はありませんでした。ヒトラーの目的は、ヴェルサイユ条約で失ったドイツ領を回復することであり、それによって東方への「生存圏」を拡大することでした。イギリスとフランスは9月2日共同で最後通牒を送付、ドイツ軍のポーランド領からの即時無条件撤退を要求します。しかしドイツはこれを無視し、9月3日イギリスとフランスに宣戦布告し、イギリス・フランスもドイツに対し宣戦布告を行います。これによって第二次世界大戦が始まることになります。
[日本]
ノモンハン事件での日本兵 日本は満州事変を機に満州全域を支配下に収め、1933年に満州国を樹立していましたが、それによってソ連と直接に国境を接することとなっていました。事変後、日本軍は中国全土に戦線を拡大、日中戦争を優位に戦っていましたが、この段階でも最大の仮想敵国はソ連であると捉えていました。そのため満州北部の防備に力を注ぎ、またソ連軍の動向とその戦力に強い関心を持っていたのです。このような緊張状態の中で、満州国とソ連の国境線には不明確なところが多く、双方の主張に食い違いがあり、しばしば紛争が生じていました。1938年7月29日には南東部の豆満江河口付近で、日本軍とソ連軍の軍事衝突である張鼓峰事件が起こっています。このときソ連兵が国境を越えて進出しているとして、中央の参謀本部の指令に従い、「威力偵察」と称して朝鮮駐留の日本軍が出動しましたが、戦車、飛行機などを動員したソ連軍に撃退されます。
関東軍は、張鼓峰での敗北は当事者の朝鮮軍(朝鮮駐留の日本軍)の消極的な姿勢のためであるとして、ノモンハン地区の国境線の明確化を主張して軍事行動を開始します。これに対してソ連側も迎撃戦を展開、広大な草原での機甲部隊同士の対戦となり、双方に多大な犠牲が生じることになります。
この戦闘で関東軍は情勢を不利と判断、9月15日に休戦協定を締結します。このときヨーロッパでは既にドイツ軍によるポーランド侵攻が開始され、第二次世界大戦が始まっていました。ソ連軍も全力でヨーロッパ戦線に当たる必要が生じていたのです。日本軍も日中戦争において前年に武漢三鎮、広東を攻略したものの、戦線拡張は限界に達し、重慶に逃れて抵抗を続ける蒋介石・国民党軍と、延安を拠点とする中国共産党の八路軍の抵抗に手を焼きいていました。このノモンハン事件での敗北を機に、中国との戦争の膠着を打開するため東南アジア方面に進出しようという南進論へと戦略を転換することとなっていきます。<.p>

[アメリカ]
アメリカは国内に根強く残る孤立主義や反ソ親ドイツ派の存在などもあって、明確な態度決めていませんでした。それを反映したかイギリスとフランスが宣戦布告した9月3日の2日後の9月5日ヨーロッパ戦線への不介入を宣言します。しかし時の大統領ルーズヴェルトは、ドイツの強大化、日本の東南アジアへの進出は強く懸念していたと伝えられます。1939年7月26日アメリカは日本へ中国侵略に抗議して「日米通商航海条約」の破棄を通告します。実は資源のない日本は、中国、東南アジア侵略に関し、アメリカからの物資・資材・原料の輸入が必要だったため、大きな打撃を受けることになります。

アメリカの大衆スポーツ・芸能

「大いなる幻影」DVD <プロ野球>
大リーグは、アメリカン・リーグが「ニューヨーク・ヤンキース」が4年連続のリーグ優勝、ナショナル・リーグが「シンシナティ・レッズ」が1919年以来2度目のリーグ優勝を飾り、ワールド・シリーズもヤンキースが4年連続で征しました。
また大きな話題としては1925年6月1日にレギュラー入りしてから足掛け14年間1試合も休まずに出場し続けたヤンキーズのルー・ゲーリックが5月に引退を表明、連続出場記録は2130試合で途絶えることになりました。このげ―リックの後を継いでスターになったのが、後にマリリン・モンローと結婚して話題となるジョー・ディマジオです。ディマジオはこの年初の首位打者を獲得し、MVPにも輝きます。さらにこの年テッド・ウィリアムズがボストン・レッドソックスでデビューし、終生ディマジオのライヴァルとして活躍します。
<映画>
この年の第12回(1939年2月発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは"You can't take it with you"(邦題:「我が家の楽園」)です。フランク・キャプラ監督ジェームズ・スチュアート主演の人間味あふれるコメディだそうです。因みに僕はこの作品を見ていません。またこの年は外国作品が初めて作品賞の候補に上がったことが話題になったそうです。1937年制作・公開のフランス映画、ジャン・ルノワール監督、ジャン・ギャバン主演の『大いなる幻影』です。第一次世界大戦のフランスとドイツの戦いを題材に、民俗とは何か、階級とは、国家とは、という根源的な問題を戦争の悲惨さの浮かび上がらせる名作です。この名作はDVDで僕も見ました。主題とは関係ないですが、僕は登場人物たちが食事中など時や場所を考えずに煙草をすのに驚いたことを覚えています。ヨーロッパではあんな風にタバコを吸うのかということが意外でしたが、あれも一つの演出(神経がイラついているという)なんだろうなと今では思っています。
ポピュラー・ミュージック
1939年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
ビリー・ホリデイ「奇妙な果実」SP盤
順位アーティスト曲名
ジュディ・ガーランド(Judy Garland)虹の彼方に(Over the Rainbow)
グレン・ミラー(Glenn Miller)ムーンライト・セレナーデ(Moonlight Serenade)
ケイト・スミス(Kate Smith)ゴッド・ブレス・アメリカ(God Bless America)
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)奇妙な果実(Strange Fruit)
コールマン・ホウキンス(Coleman Hawkins)ボディ・アンド・ソウル(Body & Soul)
ジ・インク・スポッツ(The Ink Spots)イフ・アイ・ディドント・ケア(If I Didn't Care)
ラリー・クリントン(Larry Clinton)ディープ・パープル(Deep Purple)
マーサ・ティルトン(Martha Tilton)天使は歌う(And the Angels Sing)
ウィル・グラーエと彼のオーケストラ(Will Glahe & his Orchestra)ビア樽ポルカ(Beer Barrel Polka)
10シェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラ(Shep Fields & his Rippling Rhythm Orchestra)国境の南(South of the Border)

先ずこれまでの常連、ビング・クロスビーやフレッド・アステアの名前が見えないことが意外です。またジャズ史上重要な録音であるビリー・ホリデイの『奇妙な果実』、コールマン・ホウキンスの「ボディ・アンド・ソウル」といったところがランク・インしていますが、本当かなと疑いたくなります。
先のビリー・ホリデイ、コールマン・ホウキンス、2位のグレン・ミラー、8位のマーサティルトンは改めて別項目で取り上げます。
3位のケイト・スミスの「ゴッド・ブレス・アメリカ」は、第二の国歌などとも言われる愛国かです。世界に戦乱の匂いが立ち込めだしたところからこういう歌が出現したのでしょうか?6位のインク・スポッツは当時の人気コーラス・グループ、7位のラリー・クリントンは元来はトランペット奏者で1937年からバンドを率いるようになりました。「ディープ・パープル」は1933年に作られた曲でビー・ウエイン(Bea Wain)の素晴らしいメロウなナンバーです。
9位のウィル・グラーエはドイツ生まれの作曲家兼アコーディオン奏者です。「ビア樽ポルカ」は1920年代後半から30年代前半にチェコで作られたポルカで、当時大ヒットした曲です。10位にランクされたシェップ・フィールズ・アンド・ヒズ・リッピング・リズム・オーケストラは、元々クラリネットやサックスをプレイしていたシェップ・フィールズが率いたダンス・バンドです。「国境の南」は同名の映画の主題歌でこのバンドのヴァージョンのものが最もヒットしたようですが、他にフランク・シナトラやビング・クロスビーなども取り上げています。

「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing)」コンサートの余波 … ブルーノート・レーベルの誕生

ブルーノート・レコード・マーク

1938年も押し詰まった12月23日ニューヨーク・カーネギー・ホールで開催された歴史的な「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートに一人のドイツ出身の男が聴きに来ていました。アルフレッド・ライオン氏です。1908年ベルリン生まれのライオン氏は幼いころからのジャズ・ファンでした。一度本場のジャズが聴きたくて単身ニューヨークに渡ったこともありましたが、その時は散々な目に会い、一旦ドイツに帰国します。しかしドイツではヒトラーのナチズムが吹き荒れ始めており、危険を感じたライオン氏は1933年母親と共に南米のチリに移住します。そこでも貿易会社に勤めていましたが、数年後ニューヨークに移住します。ニューヨークでも貿易会社に勤め、生活も落ち着くようになると、再びジャズへの情熱が燃え上がってきたのです。そんな折に知ったのがこの「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートでした。このコンサート中には<ブギー・ウギー>のコーナーがありました。これがドイツ人の貿易会社員アルフレッド・ライオン氏の心に火を点けます。そこでミード・ラックス・ルイスやアルバート・アモンズそしてピート・ジョンソンなどを聴いて感動したライオンは、それから2週間後<ブルーノート>レーベルを設立し、1939年1月6日にはミード・ラックス・ルイスとアルバート・アモンズの初レコーディングを行うに至るのです。(『ブルーノートJAZZストーリー』(油井正一、マイケル・カスクーナ著 新潮社)もしライオン氏がこのコンサートを聴いていなかったならば、<ブルー・ノート・レコード>は無かったかもしれません。

「ブルーノートSP時代」CDボックス

この時代のSP盤の録音を集めた音源集が「ブルーノートSP時代」(TOCJ-5231-8)です。このCD8枚組には1月6日ミード・ラックス・ルイス3曲やアルバート・アモンズ4曲、二人の連弾1曲の計8曲が収録されています。アルバート・アモンズはご機嫌なブギー・ウギー・ピアノを披露していますが、意外なのはミード・ラックス・ルイスで全くブギー・ウギーを弾いていません。ライオン氏はこの録音は友人たちにプレゼントするつもりだったようですが、出来栄え素晴らしかったのとピアニスト二人の提言もあり、市販することにします。アモンズ1枚、ルイス1枚で各々50枚の発売でした。こうして1938年のコモドア・レーベルに次いで新しいジャズ・専門インディーズ・レーベルが登場するのです。
ライオン氏はこの年アモンズ、ルイスにホーン奏者たちを加えてコンボ、大御所アール・ハインズのソロなども制作販売します。詳しくは「アルバート・アモンズ 1939年」「ミード・ラックス・ルイス 1939年」「ピート・ジョンソン 1939年」「アール・ハインズ 1939年」をご覧ください。

スイング全盛時代 … 白人ビッグ・バンド

雑誌「メトロノーム(Metoronome)」

ポール・ウィナーズ録音の先駆け … 「メトロノーム・オールスターズ」

「メトロノーム(Metoronome)」誌は、1884年創刊されたアメリカ最古の音楽雑誌です。創刊当時からこの雑誌においてジャズ関連の記事が掲載されることはほとんどありませんでした。しかし1935年ハーバード大学出身のドラマー、ジョージ・T・サイモンが編集部に加わり、当時スイング・ジャズが一般大衆の間で人気を集め始めていたことから、次第にスイング・ミュージックの専門誌的な編集方針を取るようになっていったといいます。ジャズ関連の雑誌としては「ダウンビート」(Downbeat)誌が1934年に発刊され、1937年からミュージシャンの読者人気投票を行っていました。これに対して「メトロノーム」誌も39年度(集計は38年暮)からサイモン氏の指導の下に同様のポール・ウィナーの選出を始めたのです。その頃は「メトロノーム」誌の方が圧倒的に売れていたので、その結果は「ダウンビート」誌よりも一般大衆の好みを一層反映したものでした。そしてその結果に基づいたレコーディングを企画するのです。これはジャズ・ファンの夢を満たすものとして大きな注目を集めることになります。こうして1939年1月12日1938年度のその投票を反映した「オールスターズ」によるレコーディングが行われることになります。これがその後も続く「ポール・ウィナーズによるレコーディングの先駆けとなります。
では実際の「メトロノーム」誌、「ダウンビート」誌の39年度のポール・ウィナーズはどのような顔ぶれだったかというと現段階では資料がなく分かりません。色々ググってみても該当する資料にヒットしません。
そして僕が考えるにこう言うことが実現できることこそがジャズの特徴の一つではないかということです。すなわち「メトロノーム・オールスターズ」とは、トランペット、クラリネッット、ピアノ、ベースなどの楽器ごとの分野での人気No.1プレイヤーを集めたバンドによる録音ということで、そういった企画自体他の分野では難しいのではないかと思われます。ヴァイオリン部門やチェロ部門の人気No.1になった演奏奏者を一堂に集めて交響楽団を作って演奏や録音をしたなどということはが嘗てあったでしょうか?少なくとも僕は聞いたことがありません。
では、このような企画がなにゆえジャズでは可能かといえば、ジャズで一番の聴かせ処は「アドリブ」だからではないでしょうか?アンサンブルが重要ではないということではありません。そもそもプロになるくらいのプレイヤーなら譜面のあるなしにかかわらず主旋律部のアンサンブルくらいはそれほど苦労なく吹けたり、弾けたり出来るでしょう。つまりそういった合奏部はそれなりにこなして、勝負はソロになるわけです。そしてここでは各プレイヤーが腕を競うからかえって聴き処の多い演奏になることも多いと思われます。
こうして選ばれたポール・ウィナーたちは、スタジオに集合しレコーディングを行うことになります。そして第1回目は「ヴィクター」、2回目は「コロンビア」というように2大メジャー・レコード会社が交互に録音を行っていましたが、7回目からはキャピトルが参加し、その後MGMとクレフ(後のヴァ―ヴ)も1回ずつ吹込みを行うことになります。なおこのセッションに当たって、それぞれ別々のレーベルに専属契約していたスターたちを一堂に集めてレコーディングすることの問題は、「メトロノーム」誌がミュージシャンに支払うギャラの問題ですが、これを失業ミュージシャン救済のため使うということで解決したといいます。<
ともかく第1回1939年度は投票が行われたのは1938年です。この年と言えばスイング時代の絶頂期で、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、アーティー・ショウ・ボブ・クロスビーなど白人ビッグ・バンドの演奏が圧倒的に大衆に受けていた時代でもあります。当然ポール・ウィナーズの顔ぶれも多くは白人によって占められます。結局この年ポール・ウィナーに選ばれた黒人はピアノ部門のテディ・ウィルソンとヴォーカル部門のエラ・フィッツジェラルドだけであったといいます。しかしこの年の録音は白人プレイヤーのみで行われることになります。要は投票結果によるとしながらも肌の色や相性なども考慮されたメンバーは構成されました。つまり純粋なポール・ウィナー達というわけではないということです。詳しくは「ベニー・グッドマン 1939年」「トミー・ドーシー 1939年」「ジャック・ティーガーデン 1939年」をご覧ください。

「ベニー・グッドマン/RCAイヤーズ」CDボックス

ベニー・グッドマン

1939年1月11日単独で「メトロノーム・オールスターズ」に参加した後はしばらくの間専属のヴィクターに順調にレコーディングをこなしていました。同じく1月に1935年以来4年ぶりにビリー・ホリディとラジオ放送で共演しています。また2月1日に歌手のマーサ・ティルトンが参加して吹き込んだうちの1曲「天使は歌う」は年間ヒット・チャート第8位にランクされるヒットとなりました。こうして順調に見えたBGに大きな転機が訪れます。

ヴィクター ⇒ コロンビアへの移籍

BGはこの年5月の録音を最後にヴィクターを去り、ライヴァル社のコロンビアに移ります。実はなぜこの移籍が行われたかはよく分からないのです。BG自身も「この移籍はそれほどうまい話ではなかった」 と述べているほどである。ではなぜかと言えば、やはりジョン・ハモンド氏に引っ張られたとしか考えられません。当時経営難に陥っていたコロンビアはCBSに買収され、資金繰りに目途がつき反転攻勢に出ます。ヴィクターから社長のテッド・ウォーラースタインや優秀な人材を引き抜き、ジョン・ハモンド氏をもプロデューサーとして採用するのです。後は売れっ子の獲得であったということなのでしょう。
コロンビアへの吹込みについては、「コンプリート・ベニー・グッドマン/RCA イヤーズ」のような網羅した音源集を持っていませんので、僕の持っているものを取り上げていくことになります。

ニュー・カマーT … チャーリー・クリスチャン(写真右)

スイング王として盤石の人気を誇っていたBG楽団ですが、今やジーン・クルーパ、テディ・ウィルソン、ハリー・ジェイムスといった花形ソロイストはなく、彼らに代わる新しい強力な呼び物を必要としていました。 ここでも動いたのはジョン・ハモンド氏でした。1939年夏チャーリー・クリスチャンの噂を聞いたハモンド氏はローカル・テリトリー・バンドでプレイをしていたクリスチャンを引き抜き、ロス・アンゼルスに滞在中のグッドマンの下に連れて行くのです。初めは全く興味を示さなかったBGですが、ハモンド氏らの裏工作によって、「ローズ・ルーム」で共演し、たちまちBG楽団のメンバーの1員となるのです。そして1939年9月にBGバンドのレギュラー・メンバーとして、憧れのニューヨークの地に進出することになります。
BG楽団のメンバーの1員となったと言っても、オーケストラ演奏ではアーノルド・コヴェイなどがギターの席に座り、コンボの場合はクリスチャンのような使い分けをしていたようです。それはかつてピアノでオーケストラでジェス・ステイシーを使い、コンボではテディ・ウィルソンと使い分けていたように、BGなりの考えがあったのでしょう。
クリスチャンを加えた正式な初吹込みは1939年10月2日に行われますが、何といってもインパクトが強いのは10月6日ASCAP(American Society of Composers , Authors and Publishers:米国作曲家作詞家出版者協会)が主催したコンサートで、カーネギー・ホールへ出演したことでしょう。ここではBG自らが「…我々の新しい発見であるギターのチャーリー・クリスチャン、…私は心底近年で最もすごいミュージシャンの一人だと思います」と紹介するに至るのです。
コロンビア移籍後からベニー・グッドマン名義のレコードというのは、つとに見受けられなくなります。多分数多くのレコーディングが行われていると思うのですが。一方チャーリー・クリスチャンが加わったレコードは、チャーリー・クリスチャン名義で発売されているのです。すなわち1939年から40年代初めのレコードは、少なくとも日本においては、「ベニー・グッドマン」で探しても見つからず「チャーリー・クリスチャン」で探さねばなりません。この実態を知ったらBGはさぞかし怒るだろうなぁと思うのであります。
そして年末12月24日には第2回目の「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートにクリスチャンを加えたセクステットで出演します。この<ジャム・セッション>においてクリスチャンはレスター・ヤングと初共演を果たします。いよいよバップが近づいてきたというところでしょうか。詳しくは「ベニー・グッドマン 1939年」「チャーリー・クリスチャン 1939年」をご覧ください。

トミー・ドーシー

数ある白人スイング・バンドのリーダーの中でも最もジャズ志向が強かったと言われるトミー・ドーシー。この年は黒人3大スイング・バンドの一つと言われるジミー・ランスフォードの楽団からTp奏者であり才能あふれるアレンジも手掛けていたサイ・オリヴァーを引き抜きます。そして同楽団の代表曲の一つ"Easy does it"などを吹き込みます。ただオリヴァーはアレンジャーの裏方の作業に徹しフロントに立ってトランペットを吹くことはなかったようです。
出演していたNBCのラジオ放送"The Raleigh and Kool"の番組が続いており、全体的に好調だったと思われますが、この年強力なライヴァル・バンドがデビューします。同じトロンボーン奏者が率いるバンド、グレン・ミラーのオーケストラです。詳しくは「トミー・ドーシー 1939年」をご覧ください。

ボブ・クロスビー
ボブ・クロスビーとその楽団にこの年大きな出来事は見当たりませんが、レコードを聴くと実に充実した演奏ぶりが楽しめます。ピック・アップ・メンバー「ボブ・キャッツ」によるディキシーランド・ジャズも、実に楽しそうに演奏しており、本当に彼らはディキシーが好きなんだなぁと思います。それは聴いている側にも伝わり、楽しい気分にさせてくれます。詳しくは「ボブ・クロスビー 1939年」をご覧ください。
アーティー・ショウ

前年バンド・デビューし「ビギン・ザ・ビギン」の大ヒットを放ち、一躍人気バンドの仲間入りしたアーティ・ショウ。前年1938年暮れに、バーニー・プレヴィン、ジョージ・オールド、バディ・リッチ等を補強しバンドはさらに充実したものになっていきます。その頃最大のライヴァルと目されたベニー・グッドマン楽団では、花形ソロイスト、ハリー・ジェイムス、テディ・ウィルソン、ジーン・クルーパ等が独立し、自らのバンドを率いるようになっていたため、1939年になるとバンドの質自体はショウのバンドが上回るようにさえなっていたといいます。それに加え女性ヴォーカルに新人ヘレン・フォレストを加えて人気も急上昇していきます。
1939年5月ショウ楽団は、「パロマー・ボールルーム」に出演するため、ハリウッドに赴きます。「パロマー・ボールルーム」と言えば、1935年ここでベニー・グッドマンの人気が火を噴き、スイング時代の起爆剤となった場所です。ボールルームからはNBC放送を通じてバンドの演奏は各家庭にも届けられ、また『オールド・ゴールド』というレギュラー・ラジオ・ショウにも出演することになります。さらにショウ楽団は『ダンシング・コ・エド』という映画に初出演を果たします。正にこの時のショウの人気ぶりがよく分かる。左は映画「ダンシング・コ・エド」に出演したショウ・バンド。
ところがショウはこの後11月人気が上り詰め始めた時点で、何を思ったかのかバンドを放り出しメキシコに行ってしまうのです。残された楽団員たちは、バディ・リッチを除いてジョージ・オウルドの下にそのままバンドを続けましたが、約40年初頭にバンドは解散してしまいます。「キング・オブ・気まぐれ」ショウの面目躍如の出来事ですが、楽団員等関係者にとっては溜まったものではありませんね。詳しくは「アーティー・ショウ 1939年」をご覧ください。

バニー・ベリガン
スイング時代最高の白人トランぺッターと言われるバニー・ベリガンもバンド経営は困難を極めてはいましたが、何とか維持していました。ドラムの逸材バディ・リッチはアーティ・ショウに引き抜かれたこともあってか、その演奏はジャズ的な要素が減り、時の経過とともにアンサンブル主体のポピュラー・ミュージックに近いものとなっていった気がします。こうした逆境は飲酒癖に拍車をかけて行ったような気がします。詳しくは「バニー・ベリガン 1939年」をご覧ください。
デュークとチャーリー・バーネット
ニュー・カマーU … チャーリー・バーネット
「白いエリントン」ことチャーリー・バーネットは名門かつ富豪の子息としてニューヨークのマンハッタンで生まれました。名門のお坊ちゃんらしく学校は名門コースを歩みますが、バンド業に夢中になり16歳でバンドを結成し活動を始めたといいます。しかしバンドを組んでは解散するという繰り返しで、評論家の斉木氏は彼のバンド稼業は、所詮お坊ちゃんの道楽と手厳しく評価を下しています。
しかし何が機縁か分かりませんが、日頃から敬愛するデューク・エリントンに貴方のようなバンドを作りたいと相談したところから事情は一変します(右の写真はバーネットとエリントン)。デュークにアレンジャー、アンディ・ギブソンを紹介してもらい、エリントン・サウンドを鮮明に打ち出した彼のバンドは、1939年1月ニューヨークのフェイマス・ドアを根城に活動を開始します。すると早くも「ホワイト・エリントン」と異名を取って話題を得ると共にこの年「チェロキー」が大ヒットするに及び彼のバンドは一流バンドの仲間入りを果たすことになります。詳しくは「チャーリー・バーネット 1939年」をご覧ください。

ニュー・カマーV … グレン・ミラー

本来<ニュー・カマー>とは言えないグレン・ミラーですが、ジャズ界で華々しく活躍するのはまさにこの年からです。しかし野口久光氏の解説によると、ディスコグラフィーの編纂などで有名なイギリスの研究家ブライアン・ラスト氏は、そのディスコグラフィーにグレン・ミラーの項には1938年までの作品は取り上げていますが、1939年以降の作品は取り上げていないそうです。つまり「ムーンライト・セレナーデ」が大ヒットし決定的な人気を得た1939年以降の作品は取り上げていないのです。なぜでしょうか?その理由は、グレン・ミラー楽団はダンス・バンドとしてものすごい人気がありましたが、ポピュラー・ソングを扱ったスイートな曲が多く、ジャズに値するソロも少なく、ミラー自身のトロンボーン・ソロの入っている曲もごく僅かであるというのがその理由だというのです。要するにジャズではないから取り上げないということです。
しかし僕等の世代はグレン・ミラーの音楽を意識するしないにかかわらず、聴いて育ってきたような気がします。特に僕らの一世代上の方たちにとってはグレン・ミラーこそがジャズだった時代があったと思うのです。僕なども一時期アドリブこそジャズの命、優れたアドリブこそが真のジャズ、最高の音楽と思いつめた時もありましたが、齢を重ねるにつれ、この手の音楽が耳に馴染んでくるように感じます。
ミラーとその楽団は1939年2月に4面分のレコーディングを行っていますが、これは全くと言い程話題にはなりませんでした。僕もこの4曲は未聴です。そして4月に入りミラーの人気が爆発する録音が行われるのであす。クラリネットを有効に活用した実に柔らかなサウンドを作り上げ、これを生かした出世作「ムーンライト・セレナーデ」です。
映画「グレン・ミラー物語」によると、Tpのジョーが唇を怪我したためリード奏者がいなくなり、窮余の策としてクラリネットがリードを吹いたことになっています。当時Tpにジョーという名前の奏者はいませんが。ともかくこうしてグレン・ミラー楽団の代名詞「キラー・ディーラー」サウンドが誕生するのです。「キラー・ディーラー(Killer Diller」とは、当時のアメリカのスラングで、「何か素晴らしいもの、ずば抜けたもの」といった意味だそうです。しかしジャズ界で使う場合「キラー・ディーラー・スタイル(Killer Diller Style)」とは、グレン・ミラーが発明した独特のサウンドのことで、ビッグ・バンドにおける通常のサックス・セクションの5人(アルト2本、テナー2本、バリトン1本)の内リード(1番高音のパート)、もしくはセカンド(2番目の高音のパート)をアルト・サックスの代わりにクラリネットで1オクターブ高い音で演奏することで、これによって甘美で独特なヴォイシング(和声)のサウンドが得られることになります。この専売特許的奏法を駆使し、グレン・ミラー楽団はポピュラー音楽界を席捲していくのです。詳しくは「グレン・ミラー 1939年」をご覧ください。

ニュー・カマーW … ウッディ・ハーマン

後に1940年代ファースト・ハード、セカンド・ハードを率い、斬新な「モダン・ビッグ・バンド」の先駆けとして大いに高く評価されているウディ・ハーマンは完全な新人というわけではありません。1936年まさにこれからスイング時代が到来するといった時代に既に自己のバンドを率いていていました。そのバンドは白人バンドでありながらブルースを演奏するユニークなバンドとして知られていたそうです。僕の最も信頼する評論家粟村政昭氏はこの時期のハーマンのバンドを、「異色ではあったが一流と称するにはいささか物足りない泥臭いバンドであった」と評しています。
ハーマンは、9歳の時に自分の収入でサックスを買い、11歳の時にクラリネットを習い始めたといいます。その後いろいろなバンドでサックスやクラリネットを吹いていましたが、1934年デンヴァーで作曲家としても名高いアイシャム・ジョーンズのバンドに加入します。そのジョーンズ楽団時代の1936年には初吹込みを経験したのですが、親分のアイシャム・ジョーンズがバンド・ビジネスに嫌気がさしており、36年半ばバンドを解散してしまいます。色々経緯はあったようですが結局ハーマンがこのバンドを引き継ぐことになるのです。そして同年11月と12月にはデッカに合計8曲の吹込みも行っています。その後色々メンバーの出入りなどもありましたが、バンドは存続し1939年4月に吹き込んだ「ウッドチョッパーズ・ボール」が100万枚を超すセールスを記録する大ヒット(年間ヒット・チャート第14位)となり、人気スイング・バンドの一角に食い込んでくるのです。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1939年」をご覧ください。

スイング全盛時代 … 黒人ビッグ・バンド

柴田浩一著『デューク・エリントン』

デューク・エリントン

いつものように柴田浩一氏の著『デューク・エリントン』の記述をネタに始めたい。ともかくこの年は話題が多い。
まず、柴田氏はこの1939年からがデューク・エリントンのゴールデン・エイジとしていて、「録音する曲、曲が素晴らしい演奏である」と述べている。
そしてこの年の初めコットン・クラブの踊り子、ビイ・エリスと3度目の結婚をする。こういったことは『自伝』には全く書かれていない。

ニュー・カマーX … ビリー・ストレイホーンの発見⇒加入

デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン エリントンがストレイホーンを発見し、楽団に加入させたことは、ベニー・グッドマンがチャーリー・クリスチャンを発見し加入させたこと(実際に発見したのはジョン・ハモンド氏だが)と匹敵する重大事項だと思われます。しかしこの経緯には、BG=クリスチャンのようなドラマティックな展開がなかったのでしょうか意外に本などにはあっさりと書いてあります。
柴田氏は、「前年暮にビリー・ストレイホーンが入団した」と書いています。一方『自伝』には、デュークが初めてストレイホーンに会ったのはピッツバーグということは書いてありますが、いつかは書いていません。
いつか分かりませんが、デュークはピッツバーグのホテルでストレイホーンのピアノを聴き、大いに感心しニューヨークに連れて行くと言ったといいますが、その後は記述がよく分かりませんが、最終的には3月のデュークの渡欧の直前にデュークの家に連れて行き、息子のマーサ―と妹のルースに世話させることにし、ヨーロッパ・ツアー中もデュークの家にいるように伝えます。
そしてデュークは、1939年3月23日フランス船シャンプラン号でフランスに向けて出発するのです。何をもって入団したというかは難しいですが、もしデュークが言う通りだとすれば、ビリー・ストレイホーンの入団は、デューク達がヨーロッパから帰った後とするのが妥当と思います。
しかしエリントンは、ヨーロッパに立つ直前の3月21日セッションで、1曲(サムシング・トゥ・リヴ・フォー)ピアノをストレイホーンに弾かせています。これがストレイホーンのデビューです。
マネージャー、アーヴィング・ミルズとの決別
1926年以来13年間にわたってデュークのマネージャーを一手に引き受けていたアーヴィング・ミルズと決別します。この時期も定かではありません。デュークも有名にしてもらいましたが、ミルズもおかげで巨万の富を築いたといいます。「この辺りの経緯について、デュークははっきりと言っていないが」、と柴田氏は書くがハッキリ言わないどころか自伝では、「私は、ウィリアム・モリス・エージェンシーと組んで、バンドの興業を任せた」としか書いていません。幼なじみでギタリストのフレッド・ガイは、「いつしかミルズは、自分がエリントン・バンドのボスだと勘違いしてしまった」と言っているそうですがこの辺りが二人の決別の原因なのかもしれません。

ニュー・カマーY … ジミー・ブラントンの発見⇒加入

ジミー・ブラントン 1939年 ビリー・ストレイホーンに続き、弱冠18歳にして天才ベーシストであるジミー・ブラントンが入団します。柴田氏は「類稀な才能を察知したエリントンは早くも11月にデュオでコロンビアに2曲吹き込む」と簡単に記しています。そもそも新人に甘くないデュークが入ったばかりの新人とデュオを吹き込むなどというのはこのブラントン以外ありません。ストレイホーン同様デュークとブラントンとの出会いに、ベニー・グッドマンとチャーリー・クリスチャンの出会いのようなドラマティックなエピソードがなかったのかもしれませんが、このブラントンというベーシストは、天才中の天才で。彼はクリスチャン同様ジャズにおけるそれまでのベースという楽器の位置づけに革命をもたらしました。個別の楽器の歴史を振り返るとき、ギターにおいてクリスチャンはTpやサックスと対等に渡り合えるソロ楽器としての位置を確立したと言われますが、ギター・ソロ自体はそれまでもありますし、「ジャズ・ギターの父」エディ・ラングなどはアコースティック・ギターでしたが、素晴らしいパフォーマンスを記録しています。ところが一旦ベースという楽器に目を向けると録音されたソロ自体が極めて少なく、またソロと言ってもちょっと8分音符や19分音符を加えることはあっても基本的には4ビートでコード・トーンを弾くということがほとんどでした。そこにブラントンは音符の細分化はもちろん、その驚異的なテクニックで独自のメロディ・ラインさえも弾きこなすという全く新しい奏法を行うの0です。僕はモダン・ジャズを創造した偉大なる演奏家として、レスター・ヤング、チャーリー・クリスチャン、ジミー・ブラントンの3人はその筆頭に位置していると考えています。
ただ惜しむらくはクリスチャン同様1942年7月20代前半(誕生日にいろいろな説があるため)で、この世を去ってしまうのです。そしてその演奏の記録はクリスチャンに比べても極端に少ないのです。
さてエリントン楽団で、ベースがビリー・テイラーからジミー・ブラントンに交替する時期について、Historyでは10月14日の吹込みから変わったとしているが、Ellingtoniaでは、11月2日のコロラド・ホテルからのCBS放送から替わったとしています。僕には判断する材料が無いので双方を記述しておきます。
この1939年はデューク名義の録音はもちろん、クーティー・ウィリアムズ、ジョニー・ホッジス等団員名義の録音も活発で充実期を迎えつつある感じがします。詳しくは「デューク・エリントン 1939年」をご覧ください。

カウント・ベイシー

1939〜41年ごろのベイシー楽団 この年のベイシー楽団の活躍ぶりも目覚ましいものがあります。この年の録音は早くも1月5日から開始されますが、2月に契約切れになる前にきちっと仕事をしてもらおうというデッカの意向が反映されているのでしょう。いよいよ契約切れという2月ある重大な事件が発生します。ニューヨーク進出以前からのメンバーであるハーシャル・エヴァンズが病に倒れ、2月の録音では一時的な代役としてチュー・ベリーが加わります。そして3月からはコロンビア傘下のヴォカリオンでレコーディングを開始するようになりますが、ベイシーと旧知の間柄だったバディ・テイトが加わることになります。テイトはエヴァンズと同じくホーキンス派のテナー奏者であり、ベイシーが意図していたと思われるレスター×ホーキンス派という構図が継続することになります。ただ僕はこのコロンビア時代のベイシーのデッカ時代のようなまとまった音源集のようなものを持っていないので、音源は散らばっているのが残念である。
またベイシーは9月からピックアップ・メンバーによる録音も始めます。このバンド名は人数によって「カンサス・シティ・セヴン」とか「カンサス・シティ・シックス」という名称が使われますが、これは前年1938年より、デッカの契約によって大将のベイシーは参加できませんでしたが、バック・クレイトンやレスター・ヤングのコンボなどで使われてきました。「カンサス・シティ・〇〇」にベイシーも参加できるようになったということでしょう。
年末12月24日に行われた第2回「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートでも中心的な役割を果たしています。第2回「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートについて詳しくは「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング 1939年」をご覧ください。ベイシー楽団について詳しくは「カウント・ベイシー 1939年」をご覧ください。

スイング全盛時代 … 他の黒人ビッグ・バンド

ジミー・ランスフォード
ウィリー・スミス(As)、トラミー・ヤング(Tb)とソロイストは健在でしたが、アレンジャーのサイ・オリヴァー(Ar&Tp)がこの年5月の吹込みを最後にトミー・ドーシーに引き抜かれたことが大きい。その後バンドはアレンジャーにビリー・ムーアを迎え、ヘッド・アレンジなどで対応していきます。詳しくは「ジミー・ランスフォード 1939年」をご覧ください。
チック・ウェッブとエラ・フィッツジェラルド
前年『ア・ティスケット・ア・タスケット』の大ヒットで、人気バンドの仲間入りを果たしたチック・ウエッブ一党にとってこの年は大きな不幸、一大事件が起こります。大将のウエッブがまだ30代という若さでこの年の6月にこの世を去ってしまうのです。チックは前年11月頃から体調を崩していたそうですが、この年1月の放送音源などで激しいドラミングを披露しています。とても体調不良とは思えないほどの激しさです。しかし4月を最後にレコーディングは行われなくなります。そして1939年6月16日生地のメリーランド州ボルチモアにて鬼籍に入ってしまいます。誕生年について諸説がありますが、もし最も古い1905年だとしても34歳、早すぎる逝去でしょう。
バンドはその後ドラムにドン・レッドマンの楽団からビル・ビーソンを迎え、エラが弱冠21歳になったばかりでバンド・リーダーとして立つことになります。詳しくは「チック・ウェッブ 1939年」及び「エラ・フィッツジェラルド 1939年」をご覧ください。

アール・ハインズ
アール・ハインズ・オーケストラ 「ジャズ・ピアノの父」と言われるアール・ハインズだが、拙HPでは久しぶり、1935年の録音を取り上げて以来の登場です。
アール・ハインズは1928年ルイ・アームストロングとの録音を終えると電光石火のスピードでビッグ・バンドを組織し、シカゴのクラブ<グランド・テラス>を根城に大活躍をします。このバンドは19年の長きに渡って存続し、終始豪快にスイングしたと言われますが、その録音は多くありません。前回1935年からこの1939年までのレコードが見当たらないのでする。もちろん全くないということは考えられませんので、あることはあるのでしょうが手に入り易い形では世の中に出ていないと思われます。僕などもレコード・ショップに行くたびに探すのだが、見かけたことがありません。
故粟村政昭氏は名著『ジャズ・レコード・ブック』の中で、次のように書いています。
「34、35年の録音を集めた『サウス・サイド・スイング』というレコードも良いが、彼のバンドが最高に充実していたのは39年から40年にかけてのころで、その時期の傑作を集めたものに『グランド・テラス・バンド』(Victor VRA-5007)というアルバムがある」と。またこの時期の録音を集めたものとしては、「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第10巻/ザ・ビッグ・バンド・イーラ Vol.2」(RCA RA-54〜59)というボックスものに、ハインズ楽団の1939〜41年までの演奏がLPレコード2枚に渡って収録されています。1939年を見てみると、『グランド・テラス・バンド』には10曲、「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第10巻/ザ・ビッグ・バンド・イーラ Vol.2」には、『グランド・テラス・バンド』+2曲計12曲収録されています。詳しくは「アール・ハインズ 1939年」をご覧ください。
ドン・レッドマン
嘗てその天才ぶりをうたわれたドン・レッドマンですがこの年もレコーディングの機会に恵まれなかったと見えます。詳しくは、「ドン・レッドマン 1939年」をご覧ください。

アンディ・カークとメリー・ルー・ウィリアムス
僕の持っているアンディ・カークの1939年の録音は3曲だけですが、興味を惹かれることが2つあります。一つはこの年の3月の録音からテナーにドン・バイアスが加わったことがあります。多分バイアスの最も初期の録音の一つではないかと思われます。もう一つは同じ3月の録音でギターのフロイド・スミスがエレキ・ギター、それもハワイアンで用いられるスチール・ギターを弾いていることです。その後の11月の録音はまたアンサンブル中心の演奏に戻ってしまい、ウィリアムズのピアノ以外興味が惹かれる演奏ではなくなることが残念ではあります。詳しくは「アンディ・カーク 1939年」及び「メリー・ルー・ウィリアムス 1939年」をご覧ください。
テディ・ウィルソン・ブランズウィック・セッション
テディ・ウィルソンのブランズウィック・セッション
この年は一転して録音数が激減します。といっても認められていないわけでも人気がなくなったわけでもありません。この年から始められた「メトロノーム」誌による39年度のポール・ウィナーズ選出(投票は38年)に、ヴォーカル部門のエラ・フィッツジェラルドと共にピアノ部門のポール・ウィナーに選出されます。しかしそのポール・ウィナーによるレコーディングには黒人を理由に呼ばれませんでした。テディの忸怩たる思いが想像されます。
まずこの年からベニー・グッドマンのトリオ、カルテット演奏から身を引きます。そして1935年7月に始まったブランズウィックにおけるセッション・シリーズが年明け早々1月6日に行われた吹込みで終わりを告げます。この後もテディは自己のバンドを率いてブランズウィックに吹き込みを行いますが、オールスターによるセッションとは異なります。詳しくは「テディ・ウィルソン 1939年」をご覧ください。
「ライオネル・ハンプトン/オールスター・セッション」レコード・ボックス
ライオネル・ハンプトンのオールスター・セッション
ライオネル・ハンプトンはこの年も自己名義のオールスター・セッション、ベニー・グッドマンのカルテット、セクステットのメンバーとして極めて多忙な活躍を見せます。特に自己名義のオールスター・セッションにおいては、充実した傑作を次々に世に送り出し、5月にドル箱、ベニー・グッドマンを失ったヴィクターにとっては大変重要なシリーズ・セッションとなったと思われます。またBG楽団とのツアー中にチャーリー・クリスチャンの発見に立ち会うといち早くその才能を認め、BGよりも早くレコーディングに参加させるのです。さらにそのレコーディングでは、帰国したばかりのコールマン・ホーキンスも加え、歴史的とも思われるレコーディングを行います(9月11日)。さらに新生ベニー・グッドマン・セクステットの重要な一員として、カーネギー・ホールにおけるASCAP主催のコンサート、第2回「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」コンサートなどにおいても大活躍します。詳しくは「ライオネル・ハンプトン 1939年」をご覧ください。

ベニー・グッドマンとフレッチャー・ヘンダーソン
フレッチャー・ヘンダーソン
かつてジャズ界きっての名門バンドを率いたフレッチャー・ヘンダーソンは、完全にベニー・グッドマンの重要スタッフとして、数々のレコーディング、驚異の新人チャーリー・クリスチャンとのレコーディングやカーネギー・ホールにおけるコンサートに出演しますが、自己名義のバンドを率いることはありませんでした。詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1939年」をご覧ください。
ベニー・カーター
この年ベニー・カーターはテディ・ウィルソンのブランズ・ウィック・セッション最後の録音やライオネル・ハンプトンのオール・スター・セッションでプレイヤーとして或いは作・編曲家としてその才能を発揮していますが、自己名義のバンドを率いての演奏も記録されています。そこでは後に人気ピアニストとなるエディ・ヘイウッドの多分初吹込みではないかと思われるトラックも聴くことができます。詳しくは「ベニー・カーター 1939年」をご覧ください。

エンターテイナー

キャブ・キャロウェイ
キャブ・キャロウェイ
純然たるジャズ・マンなのかと問われたら、答えることが難しいキャブ・キャロウェイですが、少なくとも彼の率いるバンドはメンバーが充実しており、一流のバンドであったと言えるでしょう。特にこの年はテナーにチュー・ベリーを擁し、彼のソロだけでも聴き応えのある作品があります。詳しくは「キャブ・キャロウェイ 1939年」をご覧ください。
ルイ・アームストロング
ビッグ・スター、ルイ・アームストロングはこの年もルイ・ラッセルのバンドを従えてポップス・チューン中心の吹込みを行っています。また大変珍しいことに、かつての面影なくダンス・バンドとなっていた白人バンド、カサ・ロマ・オーケストラに客演したレコードも吹き込んでいます。またこの年『聖者の行進』(When the saints go marching in)が年間ヒット・チャート18位にランクされるヒットとなります。本国アメリカでのことは分かりませんが、こと日本においては、サッチモと言えば一般的には「聖者の行進」であり、これこそディキシーランド・ジャズの代表だったのではないかと思います。しかしどのディスコグラフィーを見てもこの曲の吹込みが記載されていません。不思議なことです。詳しくは「ルイ・アームストロング 1939年」をご覧ください。

ファッツ・ウォーラー
もう一人の大スター、ファッツ・ウォーラーはこの年48曲もの吹込みを行っています。かなり多い数です。それだけ人気があった証拠でしょう。僕の持っているこの年の吹込みは、すべて「アンド・ヒズ・リズム」によるコンボ演奏です。それぞれ実に楽しい演奏が聴かれます。11月に吹き込んだ"Your feet's too big"が年間ヒット・チャート第18位にランクされるヒットになりますが、この曲は僕の持っているレコードには収録されていません。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1939年」をご覧ください。

ピアニスト

ジェリー・ロール・モートン 再起後
ジェリー・ロール・モートン 前年1938年人々の顰蹙を買うあるいは失笑を浴びるようなやり方だったとはいえ、モートンはいまだ健在であることを人々に知らしめました。そこでモートンは再起すべく1938年暮にニューヨークに戻ります。そして早速楽譜出版業を始め、それと共に1939年9月ヴィクターの傍系レーベル「ブルーバード」にレコーディングを開始したのです。
嘗てですが大物ジェリー・ロール・モートンが9年ぶりにヴィクターのスタジオ入りするとあって、メンバーは凄腕のオール・スター・メンバーが組まれます。しかし解説の大和明氏によれば、残念ながらこういったオール・スター・メンバーを意のままに統率し、モートン・ミュージックを創造していくだけの指導性はすでに失われていました。
セッションは9月14日と28日に行われ、全8曲録音されましたが、その演奏曲目もディキシーランド・ジャズ・バンドが日頃演奏するスタンダード・ナンバーで、モートンの個性が出しにくいがあったのかもしれませんが、やはりそこはモートンの神通力が失せてしまったと考えるべきだというのです。さらに8曲中3曲はモートンの作品として著作権登録されていますが、その3曲にも盗用等の問題が指摘されています。モートンは、「ワシの創った音楽を盗まれた」と言ってマスコミに再注目されましたが、再起に当たっては自分が「盗んで」しまったのです。詳しくは「ジェリー・ロール・モートン 1939年」をご覧ください。
ジェイムズ・P・ジョンソン
ストライド・ピアノの重鎮、ジェイムズ・P・ジョンソンは前年の「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」コンサートへの出演やパナシェ・セッションなどで再注目されたのかもしれませんが、この年ピアノ・ソロ、自己名義のバンドでの吹込みが行われます。詳しくは「ジェイムズ・P・ジョンソン 1939年」をご覧ください。 ジミー・ヤンシー
アート・ティタム
チャーリー・パーカーの評伝『バードは生きている』によると1939年のいつかははっきりしませんが、チャーリーはニュー・ヨークに向い、バスター・スミスのところに居候しながら生涯ただ一度のミュージシャン以外の仕事、皿洗いの仕事に「ジミーズ・チキン・シャック」という店で就いていました。そしてそこで演奏していたのが、ピアノの巨人アート・テイタムで、その演奏を聴きそのハーモニー展開やその演奏の速さなどに聴き入っていたと言います。そしてチャーリーはテイタムの契約切れと同時にその「ジミーズ・チキン・シャック」を辞めたのだそうです。もちろんクラブなどで弾かれるピアノ演奏とレコード吹込みは異なりますが、チャーリーパーカーに大いに影響を与えた時期の吹込みということになります。詳しくは「アート・ティタム 1939年」をご覧ください。
ジミー・ヤンシー(写真左)
僕自身はかなり疑問に思っているが、油井正一氏がブギー・ウギー・ピアノの創始者とするジミー・ヤンシーがこの年初のレコーディングを行っています。ただミード・ラックス・ルイスが「ヤンシー・スペシャル」なる曲を奉っているので、シカゴでは尊敬されるピアニストだったのだと思います。詳しくは「ジミー・ヤンシー 1939年」をご覧ください。

花開くテナー・サックス

チュー・ベリー テナー・サックスの帝王とも言うべきコールマン・ホーキンスが7月ついに僕アメリカに帰国します。そのころアメリカではホーキンス派のチュー・ベリー(写真右)の評価が急上昇していました。チューは、本拠地キャブ・キャロウェイのバンドに置きながら、ビリー・ホリデイのセッションやライオネル・ハンプトンのオールスター・セッション、さらにはエクストラとしてカウント・ベイシーの録音にまで呼ばれています。勿論もう一方にはレスター・ヤングがユニークなプレイで評価を高めていました。この時期辺りのことと思われるあるエピソードがありますのでご紹介しておきましょう。出店は『ジャズ 1930年代』(レックス・スチュワート著村松潔訳:草思社)です。
ドラマーのナイツィー・ジョンソン(?)がこじんまりしたミュージシャン向けの店をやっていて、ミュージシャンの溜まり場になっていた。その店はビリー・ホリデイとレスター・ヤングで持っているような店で、「レディ・デイ」が毎晩のように現れるという噂が立つと店はいよいよ繁盛した。そこに「ホークが帰ってきた」というニュースが野火のように広がり、やがて毎晩のようにやってくるようになった。ホークは非の打ち所のない格好でやってきたが、サックスは持ってこず、酒を舐めながらほかのプレイヤーが才能を発揮するのをただニヤニヤ眺めていた。イリノイ・ジャケー、チュー・ベリー、ドン・バイアスなど一流のプレイヤーが登壇しホークに少しでも認めてもらおうとハゲタカの群れのようにやって来た。1939年のある夜ついにその時がやって来た。
その晩ホークは午前3時ころ楽器を持って現れた。その時舞台では珍しくビリー・ホリデイがレスター・ヤングの伴奏で歌っていた。するとホークは客の驚きをよそに楽器を取り出しその演奏に加わったのである。ビリーは歌い終わるとこう言った、「世界最高のテナー・サックス奏者レスター・ヤングに伴奏してもらって幸せだ」と。一瞬針を落としても聴こえそうな沈黙が訪れた。ホークはそれを無視し、ピアニストを振り返り、「〇〇を2、3コーラスやってくれないか。」その曲名は忘れたが、ホークが指示したテンポは耳を疑うほど速かった。演奏はホークの一人舞台で、ホークは自分の演奏が終わるとカウンターに歩み寄り、ダブルのウィスキーを舐めながら誰が引き継ぐかを見守った。しかし誰一人演奏しようとはしなかった。それを見て取るとホークは再び舞台に上がり、今度はバラードをテーマにいろいろな装飾を施し、信じがたいカデンツァで締めくくった。一瞬後店には割れんばかりの拍手喝さいが巻き起こった。続いてホークは「ハニーサックル・ローズ」に取り掛かった。チューとドン・バイアスに合図を送り演奏に加わらせた。
コールマン・ホーキンス レスターは窓際のベンチに腰掛けレディ・デイと飲んでいたが、冷静さは失っていなかった。ホークが再び「ハニーサックル・ローズ」に取り掛かった時、ディック・ウィルソンがエルマー・ジェイムズ(両者ともテナー奏者)に話すのが耳に入った。「これでケリがついたな。ボスは未だコールマンだ」と。
嘗てカンサス・シティでカンサス・テナーマン達にやり込められたというメリー・ルー・ウィリアムズの証言とは反対に、ここではホークがその実力を見せつけたのです。詳しくは「チュー・ベリー 1939年」「ベン・ウエブスター 1939年」をご覧ください。
コールマン・ホーキンス(写真右)
7月に帰国したホークはレックス・スチュワートの記すようなエピソードを残しながら、久しぶりの母国を楽しんでいたと思われます。僕の知る限りそのホークの帰国後最初のレコーディングは、9月11日に行われたライオネル・ハンプトンのオールスターセッションです。このレコーディングは、Tpにディジー・ガレスピー、Asにはベニー・カーターが入り、Tsにはホーク、ベン・ウエブスター、チュー・ベリーが揃うという大変なセッションとなります。因みにこれが最初のチャーリー・クリスチャンのスタジオ・レコディングという点でも貴重なものです。
そして10月1日ついにリーダー作のレコーディングが行われ、そこで吹き込まれた「身も心も」(Body and soul)は、歴史的名演となるのです。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1939年」をご覧ください。 レスター・ヤング
レスター・ヤング(写真右)
上記レックス・スチュワートの著作ではホークにやっつけられた感のあるレスターですが、この年もカウント・ベイシー楽団はもちろん様々なセッションに呼ばれ、その卓抜たるプレイを披露しています。ジャズ史上初ではないかと思えるハモンドオルガン奏者グレン・ハードマンによる吹込みやそのクラリネット・プレイを認められてのミルト・ゲイブラー氏のコモドア・レーベルへの吹込みなどを行います。また年末の第2回「スピリチュアルス・トゥ・スイング」コンサートでは、チャーリー・クリスチャンと共演しています。詳しくは「レスター・ヤング 1939年」をご覧ください。

ビリー・ホリデイと『奇妙な果実』

ビリー・ホリデイ ビリー・ホリディは1938年11月に当時人気が高まりつつあったアーティー・ショウの楽団を退団します。バーネット・ジェイムス著『ビリー・ホリディ』によれば、ショウとビリーの訣別は全国的なニュースになったといいます。そしてビリーはショウのバンドを辞めた後二度とバンドの専属歌手とはなりませんでした。
独立したビリーはニューヨークの中心部にできたクラブ「カフェ・ソサイエティ(Cafe society)」の専属歌手になります。これもジョン・ハモンド氏の尽力によるものと思われます。このカフェ・ソサイエティは黒人・白人の混成のグループが出演できたり、客席も白人・黒人が同席できるという当時としては極めて改革的な店で、このような店はニューヨークでも初めてだといいます。そのような店は当然進歩的な人々が集まる店となっていきます。
ビリーがカフェ・ソサイエティで歌い始めた頃、彼女は詩人であるルイス・アレンから一篇の詩を見せられ心を動かされます。それが『奇妙な果実』でした。リンチに遭って黒人が木に吊るされた凄惨な姿を描いた詩でしたが、ビリーはその詩の中に父親クラレンス・ホリディを殺したもののすべてが歌い出されているように感じたのです。彼女の父親クラレンスは、1937年2月ドン・レッドマンの楽団に加わっての南部巡業中テキサス州ダラスで風邪から肺炎を併発し3月1日息を引き取りました。しかし実際は治療を受けるために病院に行ったのですが、どの病院からも黒人であるために治療を断られ、治療してくれる病院を探し回っているうちに手遅れとなったのでした。これを知ったビリーは自叙伝にこう書いている。「肺炎が彼を殺したのではない。殺したのはテキサスのダラスだ」と。
このアレンの詩に心を動かされたビリーは、ピアニストのソニー・ホワイトとともに3週間かけて詩に曲を付けたのです。ダニー・メンデルスゾーンが編曲に力を貸し、しかもビリーが納得するまで練習を付けてもくれたのでした。
ビリー・ホリディ自伝「奇妙な果実」 ビリーがこの歌をクラブで初めて披露した時のことを、その自叙伝に次のように書いています。
「私にはナイトクラブに遊び半分に集まる客に、私の歌の精神を感じ取ってもらえるかどうか、全く自信がなかった。私は客がこの歌を嫌うのではないかと心配した。最初に私が歌った時、ああやっぱり歌ったのは間違いだった、心配したことが起こった、と思った。歌い終わっても一つの拍手も起こらなかった。そのうち一人が気の狂ったような拍手を始めた。次に全部の人が手を叩いた。(中略)今もってこの歌を歌うたびに沈痛な気持ちになる。パパの死にざまが瞼に浮かんでくるのだ。しかし私は歌い続けよう。リクエストしてくれる人々のためばかりでなく、20年を過ぎた今でも南部では、パパを殺した時と同じようなことが起こっているからだ」と。
では何故この録音が重要なのでしょうか?アメリカでは1950年代公民権運動が活発になり、60年代には”闘うニグロ”が名乗り上げ、マックス・ローチやチャールス・ミンガスが人種差別に抗議する作品を次々と発表するようになります。しかしこの1939年のこの歌まで人種差別に真っ向から抗議するような歌はほとんどありませんでした。僕が知る鍵では、1928年にベッシー・スミスが自作で吹き込んだブルース『プア・マンズ・ブルース』くらいしか思い当たりません。そしてこの吹込みの後しばらくの間ベッシーは干されることになるのです。この歌を歌うには相当の勇気、覚悟が必要です。ともすれば自分自身が『奇妙な果実』になりかねないのです。そのことを充分に分かった上でそれでも彼女は歌うことを決心したのです。
当時ビリーはレコード会社はコロンビアと契約していました。実際のレコードはコロンビアの傘下の”Brunswick”、”Vocalion”レーベルから出ていました。ビリーはコロンビアにこの曲を吹き込みたいと主張しました。しかしコロンビアはこれを断ります。しかしどうしても吹き込みたいビリーは、コロンビアと交渉し、マイナー・レーベル「コモドア・レコーズ」での吹込みにこぎつけるのです。「コモドア・レコーズ」は、1938年にミルト・ゲイブラーによって創設されたジャズ・史上初の独立レーベルです。しかしいくら「コモドア」が新興のマイナー・レーベルだからと言って、専属歌手の他レーベルへの吹込みを許すというのは極めて異例のことです。というのはこの録音の後ビリーは再びコロンビアのレーベルへの吹込みを行っているからであり、『奇妙な果実』を含む4曲だけがコモドアへの吹込みだったのです。この辺りの事情は色々あったと想像されますが、多分ジョン・ハモンド氏の尽力や「カフェ・ソサイエティ」に集う知識人たちの後押しなどがあったのだと想像されます。そしてこの曲は1939年度ヒット・チャート第4位にランクされるヒットとなるのです。詳しくは、「ビリー・ホリデイ 1939年」をご覧ください。

その他の注目のレコーディング

ジョン・カービー(写真右)
ジョン・カービー・セクステット

ビッグ・バンド全盛時代に彼が組織したこの六重奏団こそは真にコンボ・スタイル・ジャズの草分けではなかったかと云われるほど重要です。そんな彼らはその洗練さを買われたのか「ミセス・スイング」と呼ばれる白人女性シンガー、ミルドレッド・ベイリーの伴奏をその夫君のレッド・ノーヴォ共に務めています。詳しくは「ジョン・カービー 1939年」をご覧ください。

ミルドレッド・ベイリー
この年もミルドレッド・ベイリーは本人の希望かどうかは分かりませんが、挑戦的なレコーディングを行っています。前掲のジョン・カービーのセクステットの伴奏でブルースを歌ったり、メリー・ルー・ウィリアムス率いるアンディ・カーク・オーケストラからのピック・アップ・メンバーによる伴奏などです。しかしヒットしたのはベニー・グッドマンのオーケストラがバックについた「ダーン・ザット・ドリーム」で、年間ヒット・チャート第34位にランクされるヒットとなります。詳しくは「ミルドレッド・ベイリー 1939年」をご覧ください。
アンドリュース・シスターズ
この年はウィル・グラーエと彼のオーケストラがヒットさせた「ビア樽ポルカ」を歌い、年間ヒット・チャート第17位とヒットさせますが、残念ながらそのレコードは持っていません。他にもボブ・クロスビー・オーケストラがバックについた「ビギン・ザ・ビギン」など見事なコーラス・ワークを聴かせてくれます。詳しくは「アンドリュース・シスターズ 1939年」をご覧ください。 ユーグ・パナシェ

パナシェ・セッションズ

1938年から渡米していたフランスのジャズ評論家、ユーグ・パナシェ(Hugues Panassie)氏(写真左)は、初めてアメリカに渡り、その敬愛するミュージシャンたちを集めてレコーディングのプロデュースを行っていました。本来はシカゴまで足を延ばして、ジミー・ヌーン、ジョニー・ドッズ、ベイビー・ドッズなどニューオリンズ・スターの録音も行う予定でしたが、不幸にしてそれは実現せず、ニューヨークで最後のセッションを録音します。前3回とは趣向を変えて一流のスイング・ミュージシャンを集めて録音を行います。パナシェ氏はピアノのジョンソン始めその出来栄えに大変満足しているが、このラスト・セッションは余りにも今日的過ぎ、前3回のようなオリジナリティに欠けるような気がすると述べています。詳しくは「メズ・メズロウ 1939年」をご覧ください。
エディ・コンドン
エディ・コンドンとその一党はこの年もコモドアなどを中心にシカゴ・ジャズを録音しています。詳しくは「エディ・コンドン 1939年」をご覧ください。
ユーグ・パナシェ
ジャンゴ・ラインハルト
ジャンゴ・ラインハルトはこの年3月23日に船で欧州楽旅へ出発したデューク・エリントンの楽団のメンバーとレコーディングを行います。デューク自身は参加していませんが、デュークは大いにジャンゴを高く評価し、後にアメリカに呼び寄せ、ツアーに帯同するのです。詳しくは「ジャンゴ・ラインハルト 1939年」をご覧ください。
ジャック・ティーガーデン
ジャック・ティーガーデンはこの年の初めのメトロノーム誌のポール・ウィナーではありませんでしたが、そのレコーディングに参加します。ポール・ウィナーであったトミー・ドーシーはソロをジャック・ティーガーデンに譲ります。こういうブルース・プレイは自分よりティーガーデンが名手であることを認めていたのです。その後ティーガーデンは自分のバンドを率いてレコーディングを行います。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1939年」をご覧ください。

「Muggsy Spanier/The great 16」オリジナル盤レコード・ジャケット
マグシー・スパニア … 世紀の傑作
マグシー・スパニアはシカゴを中心に様々なバンドでプレイしたトランぺッターでした。ベン・ポラック楽団に参加していましたが大病を患い38年初めに退団します。しかしこの病を乗り越え1939年春に復帰を果たすのです。そして吹き込んだ一連のレコードはみな素晴らしく、それをまとめたアルバム“Great 16”は彼の最高作と言われます。粟村政昭氏も「瀕死の病床からカムバックして吹きこんだだけに、全篇これ歓喜に満ちた極上のジャズ・ムードにあふれている」と激賞し、他の評論家の諸氏も「全曲これ名演という珍しいアルバム」と賛辞を贈っている傑作です。詳しくは「マグシー・スパニア 1939年」をご覧ください。

ブルース

僕の持っているこの年のブルースのレコードは、第2回「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing)コンサート」に出演したブルース・マンのものを除けば、2曲しかありません。そのうち2月に録音されたロゼッタ・クロフォードという女性シンガーのものだが、バックをパナシェ・セッションに参加した実力者たちが顔を揃えていることが珍しい。ブルースの名手、トミー・ラドニアもその中に名前が見えるが、体が弱っていたのかオブリガードのみでソロは吹いていない。そしてこの年の6月には帰らぬ人となってしまうのです。享年40歳実に若いのに残念な死としか言えません。詳しくは「ブルース・ピープル 1939年」をご覧ください。

「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング(From Spiritual to Swing)」コンサート 1939年

ジョン・ハモンド氏主宰の第2回「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」コンサートは1939年も押し詰まったクリスマス・イヴの12月24日ニューヨーク/カーネギー・ホールにて開催されました。このコンサートの意義については前回「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング 1938年」で詳しく触れましたので、今回は割愛します。
「ヴァンガード」版CDジャケット
第1回との違いについて
1.第2回のコンサートでは、スポンサーがザ・ニュー・マッシズから"The Theater Arts Committee"(劇場芸術委員会)とその機関誌"TAC"に変わります。替わった理由は不明です。
2.また第1回目の出演者は黒人だけでしたが、2回目ではベニー・グッドマンらも出演し、白黒混合のステージとなります。
3.2回目のコンサートでは、ステージ・マネージャーが雇われ、ステージ上の補助席も廃止されます。
4.司会進行をスターリング・A・ブラウン(Sterling A. Brown) が務めました。ブラウンはハワード大学の教授であり、ジャズやブルースそして黒人霊歌に影響を受けた詩人でもありました。
このコンサートでの注目は何といっても、カウント・ベイシー楽団のピック・アップ・メンバーにチャーリー・クリスチャンが加わった。「カンサス・シティ・シックス」の演奏で、ゆったりとしたテンポで典型的なレスターの寛ぎのあるプレイに触発されたようなクリスチャンも悠揚迫らざる堂々たるプレイぶりでしょう。また最初に出たヴァンガード盤ではジャム・セッションの「レディ・ビー・グッド」において、チャーリー・クリスチャンの3コーラス目のソロがカットされていることが、<ヴァンガード・リジェンダリー・ヴァージョン>で明かされ、元に戻されています。詳しくは「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング 1939年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1939年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1939年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。
ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
セロニアス・モンク1917年10月10日ノース・カロライナ州・ロッキー・マウント評伝『セロニアス・モンク』ロビン・ケリー
チャーリー・パーカー1920年8月29日ミズーリ州カンサス・シティ評伝『チャーリー・パーカー』カール・ウォイデック
チャールズ・ミンガス1922年4月22日アリゾナ州ノガレス自伝『負け犬の下で』チャールズ・ミンガス
マイルス・ディヴィス1926年5月26日イリノイ州オルトン自伝『自叙伝』マイルス・ディヴィス&クインシー・トループ
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
スタン・ゲッツ1927年2月2日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア評伝『スタン・ゲッツ』ドナルド・L・マギン
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事情』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[セロニアス・モンク]
21〜22歳。1939年1月29日新しい甥が生まれます。その子は「セロニアス」という名付けられました。そのことをモンクは気に入って、新しい甥をかわいがります。モンクはルビーと本当に結婚したいと考えていて、「ニューヨーク中のいたるところで仕事をしたといいます。しかしノン・ユニオンの仕事だったため、週給20ドルくらいで毎晩働かねばなりませんでした。しかも途中でクビになればその週給さえもらえないこともありました。
さらにモンクは新しいピアノが欲しがります。母親からの援助もあり、急場しのぎの金も工面でき中古ですがとてもきれいなアップライト・ピアノを手に入れます。そのピアノはもちろんモンクの部屋に据え付けられました。
1939年3月組合費を支払い、米国音楽家連盟802支部の正式な組合員となります。モンクは友人となったエディ・ヘイウッド・ジュニアと一緒に組合に加盟しました。ヘイウッドは既に多くの高齢のストライド・ピアニストと知り合いになっていて、モンクを彼らに紹介したのは、ヘイウッドでした。ヘイウッドはこの年8月に行われたベニー・カーターの吹込みでレコーディング・デビューも果たしています。高齢のストライド・ピアニストとは、ジェイムズ・P・ジョンソン、ウィリー・“ザ・ライオン”スミス、ラッキー・ロバーツ、クラレンス・プロフィット、アート・ティタム達でした。彼らはよく互いの家に集まって、気の置けないジャム・セッションをやったり、アイディアの交換を行っていたのです。
ピアニストのビリー・テイラーがそんなサロンで、初めてモンクに会ったのは、1939年9月のことでした。ビリーの回想によると、ライオン・スミスたちモンクを評価している人たちは、モンクに「自分の音楽をやるように自立させようとしていた」そうです。テディ・ウィルソンもモンクのプレイをひたすら称賛していたといいます。
モンクはユニオン・カードも手に入れその活動は本格化するため、カルテットを結成する。メンバーは、テナー・サックスがジミー・ライト、ドラムがケグ・カーネル、そして「マサピクア」と呼ばれていた謎のベーシストでした。このカルテットの録音は残されていません。モンクは作曲を始めていて、そのオリジナルも演奏したと思われますが、スタンダードが中心だった十と思われます。1930年代から40年代を通じて、白人バンドに比べて黒人のバンドは賃金が低く、実況のライヴ放送が行われていた高級ホテルからも締め出されていました。ラジオ放送が限られていたということは世に知られる機会も少なくレコードの売れ行きも低いということです。
[チャーリー・パーカー]
18か19歳。カール・ウォイデック著「チャーリー・パーカー」によれば、1938年末から1940年初頭にかけての行動はよくわかっていません。それは本人の記憶があいまいで(薬の影響か?)この時期にかかわった日々との記憶そして証言も曖昧なのです。さらにチャーリー自身が神出鬼没でふいと出て行ったり帰ってきたりということの連続で、実際のところはよくわかっていないのでしょう。僕の知る限り最も筋が通っているのは、カール・ウォイデック著「チャーリー・パーカー」だと思いますので、今後はこの本を中心にまとめていきましょう。
1938年暮れに一度ニューヨークへ行き、年内か1939年初頭にはカンサス・シティに戻っていたと記載されています。この短いニューヨーク行きのことは全く分かっていません。そして1939年1月にはカンサスで一、二の実力を謳われていたハーラン・レナードのロケッツに入りしばらく過ごしました。そしてこれもいつかは分かりませんが、1939年の早い時期にチャーリーは再びニュー・ヨーク向かうのですが、その足跡はシカゴに見いだせるのです。なぜニュー・ヨークではなくシカゴだったのでしょう?ちょっとその理由は分かりません。
ともかくシカゴにやってきたチャーリーはその地のクラブ“65”でトランぺッターのキング・コラックス・バンドに飛び入りし、その楽団のアルト奏者グーン・ガードナーの楽器を借りてプレイしたといいます。チャーリーのプレイに感心したガードナーは、彼を家に連れて行き、乞食同然の格好だったチャーリーに衣服などを与えたのです。しかしチャーリーはガードナーからもらったクラリネットを質に入れ、あるバンドのバスに便乗してニュー・ヨークに向かったと言います。チャーリーのシカゴ滞在はごく短い期間だったと思われます。
何とかニュー・ヨークについて師と仰ぐバスター・スミス夫婦のアパートにたどり着いた時は乞食同然のみじめな姿だったと言います。そしてスミスのアパートに居候しながら「ジミーズ・チキン・シャック」という店で、生涯唯一のミュージシャン以外の仕事、皿洗いの仕事に就きます。本来はアルト・サックスの仕事を探したのですが見つからなかったのです。
その店でピアノの巨人アート・テイタムの演奏を聴いたといいます。チャーリーはあの速さをサックスでできたなら…と考えたといいます。ティタムは契約で毎晩演奏していたという記述と契約ではなくよくやって来て演奏に参加しただけだったという記述があります。そのお目当てのティタムが来なくなったからかどうかは実はわかっていませんが、チャーリーは3か月で皿洗いの仕事を辞め、パリジャン・ボールルーム」という店の踊り子と踊るような店のバンドに食いつなぐために加入します。ここで古いダンス・ナンバーを数多く覚えたそうです。そして夜な夜な数々のハーレムのクラブに出入りし、ジャム・セッションに加わっていたといいます。その代表はクラーク・モンローズ・アップタウン・ハウスとダン・ウォールズ・チリ・ハウスでした。このチリ・ハウスでビディ・フリートというギタリストとよくジャムったといいます。フリートによれば、この時パーカーは個々のコードの知識は持っていたが、それらを独創的に結び付ける方法を知らなかったといいます。
1939年12月このチリ・ハウスで神が降臨します。チャーリー自身の発言です。
「俺はこの時、使っていたコード・チェンジに飽き飽きしていた。何かは聞こえていたけど、それを演奏することはできなかった。とにかくその時俺は<チェロキー>を演奏していた。奏したら、コードの高い方の音をメロディ・ラインとして使って、それを相応しいコード・チェンジに戻すことを発見したんだよ。それまで聞こえていたものを演奏できたんだ。俺は生き返ったよ」
ウォイデック著「チャーリー・パーカー」では、1939年の終わりころ、バンジョー・バーニーの率いるバンドのメンバーとしてメリーランド州アナポリスで演奏しているところで、母から、父チャールズSr.の死を知らせる電報とカンザス・シティーに帰る旅費が届きカンサス・シティに戻ったとありますが、他の本ではそれは夏のことだったと記載されています。
[チャールズ・ミンガス]
16〜17歳。夏靴磨きの仕事を始めます。また図書館で様々な本をむさぼり読んだそうです。靴磨きの客を待ちながら本を読んでいると、バディ・コレットから声をかけられます。バディはイカしていて、仲間のメジャー・ハリソン、チャールズ・マーチン、クロスビー・ルイス、ラルフ・フレッドソーと一緒でした。「チェロではなくベースを持って来い、そうすれば俺たちのバンドに入れてやる」と言われたそうです。
それで父親にチェロをベースに替えれば、金儲けができると話してロス・アンゼルスの店で130ドルを払い交換してもらいます。ミンガスはブリット・ウッドマンに電話して、ウッドマンのバンドのベース奏者のジョー・コンフォートの電話番号を聞き、ジョーにベースの練習方法を尋ねました。ジョーはラジオをかけてそれに合わせて弾くんだと言ったそうです。それで何時間も練習して何週間かすると感じがつかめてきたといいます。
さらに17歳の時ブリット・ウッドマンに教えてもらい、レッド・カレンダーというベーシストを知ることになります。彼のレコード吹込みを見に行ったミンガスは「この人を先生にしよう」と決めたそうです。ミンガスは、カレンダーの所に通い、指使いや演奏の基礎を教えてもらったそうです。授業料は1回2ドル、しかしそのお金でレッスン後二人で映画を見に行ったりしたそうです。
またミンガスはそのころから作曲に打ち込むようになります。それを見たコレットはロイド・リースにピアノを習った方が良いとアドヴァイスをしたそうです。ミンガス自身次のように述べています。
「すべてを音楽に注ぎ込む毎日を送っていた。学校のオーケストラに参加し、カレンダーとリースに学び、コレットとユニオン・スイング・バンドとのプレイで相応の楽しみを得、残る時間は家での練習と作曲にあてた。」
[マイルス・ディヴィス]
1938年は12〜13歳です。小学校6年になったマイルスは初めて正式な音楽教育を受けることになります。教師はエルウッド・ブキャナン(黒人)というプロのミュージシャンで、父親の飲み友達でもありました。このブキャナン氏が、マイルスの父親に、マイルスに新しいトランペットを買ってやるべきだと話し、13歳の誕生日プレゼントは新品のトランペットになりました。マイルス自身父親の次に自分の人生に大きな影響を与えた人物と言っています。クラシックの流儀に則りヴィブラートをかけないで吹く練習を徹底して行ったそうです。
[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1939年は12〜13歳です。1938年から40年にかけてコルトレーン一家に次々と不幸が見舞います。伯母や一族の大黒柱ブレア牧師、そして父親、祖母などが次々亡くなるのです。
[スタン・ゲッツ]
1939年は11〜12歳です。1939年のある春の日、ボラ・ミネヴィッチ・ハーモニカ・ラスカルズというヴァラエティ・グループが学校の講堂でコンサートを開きました。そしてグループは生徒たちにその週いっぱいジュニアのメンバーになる機会を与えました。メンバーになるには1ドル必要でした。ハーモニカが50セント、夏の間受けられる講習が50セントでした。スタンはこれを何とか母親を説得して受けることになり、12歳ではじめて自分の楽器を手にすることができました。
ゲッツの吹くハーモニカの音がアパートに1日中に響いていました。ビッグ・バンドのアレンジのマウス・オルガン版をゲッツは演奏しました。例えばウッディ・ハーマンの「ウッドチョッパーズ・ボール」やベニー・グッドマンの「キング・ポ^ター・ストンプ」などでした。他にもたくさんのポピュラー曲やフォークソングを覚え、ブルースの音階をマスターしたといいます。夏の終わりには学校のコンサートで演奏するように言われるまでになります。最初に人前で演奏して時緊張のあまり小便を漏らしましたが、「おおスザンナ」を最後まで吹き切りました
[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンズは1929年うまれですので、1939年は9〜10歳。特にこの年の記載はありません。
[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1938年は9〜10歳。特に記載はないので、「楽しくて仕方なかった」というピアノのレッスンを熱心に続けていたのだと思います。
[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、5〜6歳です。子供のころは遊びには熱中しましたが、6歳のころから自分の気持ちを口に出さない傾向が強くなったといいます。小学校時代親友と呼べる存在はできませんでした。それは変わった素行のせいだったと言われています。
ウエインの父親は、人種的偏見に対しては、毅然とした態度で立ち向かっていく人間で、母親は常に「自分のことは自分でできる人間になれ」と言っていたそうです。芸術家になりたいとは思っていたそうで、それこそが自分自身に責任を持つことだと考えていたそうです。

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