僕の作ったジャズ・ヒストリー 5 … ジャズ以前 2

ジャズの形成 ジャズ

前回プリミティヴ・ジャズ1回目は<ブラス・バンド⇒ジャズ>を検証しました。そのキー・マンはバンク・ジョンソンでした。今回の最初のキーマンはジェリー・ロール・モートン(Jelly Roll Morton 1885〜1941)です。

変奏、装飾、即興

モートンは、1885年9月20日ニューオリンズの東方約70キロメートルにあるミシシッピー州ガルフポートというところで生まれたクレオール(フランス人と黒人の混血)です。本名は、「フェルディナンド・ジョゼフ・ラ・メンテ(Ferdinand Joseph la Menthe」といいます。当時南部では、クレオールは黒人ではなく白人として扱われていたといいました。彼は父親が楽器をよく手にしていたことの影響で幼いことから楽器に親しんでいましたが、10歳の時からピアノに専念するようになり、ちゃんとした先生にも付き正規の音楽教育を受けることになります。ところが彼の祖父の商売が失敗し、家庭は一挙に経済的に苦しくなってしまうのです。そこで彼も働きに出ることになり、紅灯街として有名なストリーヴィルでピアノを弾いて稼ぐことになります。いったんそこを離れるのですが、1902年17歳の時には、ストリーヴィルの娼婦館のお抱えピアニストとなったのです。
ヨアヒム・ベーレント氏は、「作曲されたラグという制約を解放し、メロディの素材を、より自由に、よりジャズ的に処理した最初のミュージシャンの一人にジェリー・ロール・モートンがいる。彼とともにニュー・オリンズの伝統が始まったという点で、重要なミュージシャンの一人である。モートンは、『1902年に、ジャズを発明したのは私である。また自分の名刺に<ラグタイムの創始者>と肩書を刷り込んでいた。』(これは間違いかいつの名刺か?彼は名刺に”Originator of jazz and stomp/Victor artist/World's greatest hot tune writer”)と書き込んでいたのであり、Ragtimeの文字はない。シュラー氏は、ブルースやラグタイムではなくジャズの創始者と言っているところに意味があると言っている)ジェリー・ロールはラグタイムの伝統を20年代のシカゴへ、さらにはカリフォルニアへ運んだ。ジェイムズ・P・ジョンソン、ウィリー・ザ・ライオン・スミス、ファッツ・ウォーラーといったピアニストは、ラグタイム、またはその伝統を、20年代のニューヨークで継承した。当時、ブギ・ウギ・ピアニストを別として、何らかの形で、ラグタイムの影響を見せなかったジャズ・ピアニストはいなかった」としています。

「ザ・スミソニアン・コレクション・オブ・クラシック・ジャズ」

モートンは、1907年にニュー・オリンズを出て全米中の大半の地域を渡り歩いていますが、ニュー・オリンズに居た1902年に「ジャズを発明した」と言っています。ストリーヴィルの娼婦館のお抱えピアニストとして働いている時に当たります。 彼は「ブルース、ラグタイムだけではなく、オペラ、フランスやスペインの通俗歌謡や舞踏曲などの多様な音楽素材に対して、一層滑らかにスイングするシンコペーションを加え、即興的な要素を増やした。そうして出来上がったものは、ラグタイムとかブルースという言葉では覆い切れないものである。それを『ジャズ』と名付けたのだ。」と言っていることもご紹介しました。
ガンサー・シュラー氏はその著『初期のジャズ』において、「ジャズのスタイルとより厳格で保守的なラグタイムのスタイルとの間の顕著な差異を聴き取るには、初期のラグタイムの録音との対比で聴き比べをしてみればよい。(中略)モートンが堅苦しい「クラシック」音楽志向の右手と行進曲風な左手の動きのスタイルから外れていることがはっきりわかる」とし、「その差異を絵のように明らかにした例として」モートン自身がスコット・ジョプリンの『メイプル・リーフ・ラグ』の二つの録音で明らかにしている」と書いています。
この録音は、1938年5月に”Library of Congress”のために録音したものを指していると思われます。録音を行ったのはアラン・ローマックス氏だったようです。この時の録音は12枚のアルバムとしてアメリカでは出ているようです。僕は偶々左のスミソニアン協会(Smithsonian institution)が出している「ザ・コレクション・コレクション・オブ・クラシック・ジャズ」という1963年までに行われたジャズ史上重要な録音をLP6枚にまとめたオムニバス盤に含まれていたので持っていました。ここでは最初にスコット・ジョプリン自身が1916年4月に記録したピアノ・ロールとモートンの変奏を比較するような趣向となっています。さすが観衆のマーティン・ウィリアムス氏はツボを押さえた編集ぶりです。
ウィリアムズ氏の解説によれば、ジョプリンの原曲はAABBACCDDという構成に対し、モートンはABACCDD構成で、最初のDは「タンゴ」からヒントを受け、2度目のDはニューオリンズの”ストンプ(stomp)”のヴァリエーションなのだといいます。さらにここでのモートンはニュー・オリンズのバンド・スタイルでピアノを弾いているといいます。それは右手はトランペット、クラリネットを、そして左手はトロンボーンによるリズムを弾いているというのです。こうなると確かにもはや「ラグタイム」とは言えないと思われます。
エドワード・リー氏も『ジャズ入門』で、「(これに限らず)モートンの作品は、ラグタイムがジャズとして形を成しつつある見事な例だ。そこにおいてラグタイムは、表現方法の限定され様式化されたものから無限のニュアンスを持ったものへと変貌している。」と述べ非常に高く評価をしています。

エドモンド・ホール

シュラー氏は初期のジャズに関して、他のミュージシャンの証言も紹介しています。
クラリネット奏者のエドモンド・ホール(Edmond Hall 1901〜1967:写真右上)は、主に1930年代になってから活躍したクラリネット奏者ですが、ニュー・オリンズ生まれで1915年頃からニュー・オリンズで演奏を解した人物です。その彼はこう証言しています、「ブラス・バンドの初期の時代、すなわち90年代、そしてそれ以前の段階ですら、音楽の大半は記譜されていた」。
続いてバスター・スミス(Buster Smith 1904〜1991:写真左)です。彼はチャーリー・パーカーが師と仰いだことでつとに有名ですが、彼は1917、18年頃カンサス・シティでクラリネットを演奏していたことについて、「俺は旋律の装飾はやっていた。当時は即興なんて言葉は判らなかった。俺が判っていたのは装飾という言葉だった。」
もう一人ガルヴィン・ブッシェル(Garvin Bushell 1902〜1991;写真)。彼はオハイオ州スプリング・フィールド生まれで、1919年までその地でクラリネットを演奏していたそうです。彼は「その地域ではラグタイムが主流の音楽で、ジャズへの転換は1912年から15年にかけて、4弦バンジョーとサキソフォンが導入された時代に始まった。演奏者たちは和声やリズムは同じままであったが、旋律線に工夫を凝らすようになった。」
これらの例でシュラー氏は何を言いたかったのでしょうか?それは多分以前は音楽は全て記譜されたものでそれをそのまま演奏するものでした。しかし少しずつ装飾、変奏、即興が行われるようになり、そしてそれがジャズに繋がって行ったということでしょうか?

ブルースとジャズ

村井康司著『あなたの聴き方を変えるジャズ史』

村井康司氏は『あなたの聴き方を変えるジャズ史』で、鈴木啓志氏の言葉を引用しながら、「ジャズはブルースとは全く違う場所で、全く別の階層の間で、全く別々に生まれた」ものだと述べています。しかし最初にブルースを理解し、学んだ人たちはジャズメンたちだったとも述べています。しかしこの「最初にブルースを理解し、学んだ人たちはジャズメンたち」が分かりません。この場合ジャズメンとは誰なんでしょうか?どんな人たちのことを言っているのいるのでしょうか?これに対しエドワード・リー氏は次のように述べています。「ニュー・オリンズ・ジャズは軍楽隊の音楽とラグタイムが合わさって形作られて行ったわけだが、それも、常にブルースを耳にして育った人々による、柔軟で熱っぽい音楽を目指した絶えざる改良がなかったならば、一つのスタイルとしてあのように説得力のある、力強いものにはならなかっただろう。」僕はジャズメンが「ブルースを理解し学んだ」のではなく、「常にブルースを耳にして育った」すなわち「ブルースが自然と身に付いた人たち」が「軍楽隊の音楽、すなわちマーチとラグタイム」を融合させていったところにジャズは生まれた、いやこれまでのことを総合すれば「ブルースを感じ取る素地がある人がマーチやラグタイムを装飾したり、変奏したり、即興するしたことがその後のジャズ大きな影響を与えた」ということなのではないでしょうか?少なくともこれまでの各研究者たちのを見方を総合すればそういうことになるように思えます。
シュラー氏は「ブルースが1880年代と1920年代の初頭の間に根本的に変化したとは考えにくい。バンク・ジョンソンは若いころバレル・ハウスでは「もっぱらブルースだけを演奏していた」と述べましたが、彼が演奏していたブルースは、本質的には1920年代のレイス・レコードで瞬く間に広まったブルース、あるいはまた―時代を遡れば1890年代にバディ・ボールデンの演奏で彼の聴いたブルースと同じものだったと断定してかまわないだろう。」と述べています。これは意外な意見です。この議論が分かりにくいものに終始するのは、村井氏、鈴木氏、シュラー氏の言うブルースとは何なのか、何を指してブルースといっているのかが不明なことだと思われます。
さてジェリー・ロール・モートンです。ガンサー・シュラー氏の記載によれば、モートンは作曲活動をニュー・オリンズ時代に始めていて、「ニュー・オリンズ・ブルース(New Orleans blues)」は1902か1903年、「キング・ポーター・ストンプ(King Porter stomp)」は、1902年か1905年に、「ジェリー・ロール・ブルース(Jelly Roll blues)」は1905年に作曲したと言っているそうです。例えばギタリストのジョニー・セント・サイアは1906年には「ウォルヴリン」を聴いたと証言しているようですし、1911年ニュー・ヨークでジェイムズ・P・ジョンソンが彼の「ジェリー・ロール・ブルース」を聴いたと証言しているそうです。
モートンの発言はそのまま受け取っていいのか判断に迷うところもありますが、もしそれが事実とすれば、彼が1902年か03年に作ったという「ニュー・オリンズ・ブルース(New Orleans blues)」、1905年に作ったという「ジェリー・ロール・ブルース(Jelly Roll blues)」はどんな曲だったのでしょう?

ジェリー・ロール・モートン『1923/24』レコード・ジャケット

左はジェリー・ロール・モートンの1923年と24年の録音を集めた2枚組のレコードです。このレコードにモートンが1923年6月17日ジネット社(Gennett Recording Company)に吹き込んだ2曲「キング・ポーター(King porter)」と「ニュー・オリンズ・ジョイズ(New Orleans (blues) Joys) 」が収録されています。この1923年6月の吹込みはモートンの中でもかなり早い時期の吹込みです。もちろん元はSP盤ですがこちらは後にMilestone社によってLP化されたものです。この録音は後に取り上げるとしてここでは「ニュー・オリンズ・ジョイ(New Orleans (blues) Joy) 」だけを取り上げます。レコードには”New Orleans Joys”とありますが、モートンのディスコグラフィーには”New Orleans (blues) joys”とあります。この曲は彼が1902年か03年に作ったという「ニュー・オリンズ・ブルース(New Orleans blues)」と考えて良さそうです。この曲に関してはシュラー氏が詳細な分析を行っていますが、ここではそのブルース度合だけを見たいと思います。この曲は12小節1コーラスであり和声の進行もほぼT‐W‐Xのブルース進行になっているようです。左手のリズムが全般ではありませんが、ハバネラのリズムを使っています。
この曲と1912年にシート・ミュージックで出版されたW.C.ハンディの「メンフィス・ブルース」を、シュラー氏は「いささかもブルースではなく、ケイクウォークに近いもの」と述べています。そして前々章でご紹介したように1914年「ハンディ氏はこの曲を作曲したことで多くの人に非難された。(中略)ひとまとまりが16小節ではなく12小節で構成されているのだ」という評価を受けているのです。もしモートン自身が語っているように、この曲が作られたのが1902年か03年というのが正しければ、吹込みは1923年であるということと即興、変奏が得意なモートンの吹込みであることを差し引いても1902年か03年時点でかなりブルースの形式化を整いつつあったのではないでしょうか?ではなぜ「メンフィス・ブルース」の評価者はこの12小節1コーラスを奇妙と感じたのでしょう?考えられるのは、モートンは当時ニュー・オリンズで活躍ピアニストだったのに対し、評者の<黒人コミュニティ向けの定期刊行物に黒人ヴォードヴィル劇場のプロデューサー>はどこにいた人なのでしょうか?記載がなく分かりません。ほとんど現代に通じるブルースは誕生していたのかもしれませんが、評者の方が知らなかったのでしょうか?いずれにしろまだ一般的ではなかったのかもしれません。
シュラー氏はまた次のようにも発言しています。「ニュー・オリンズの無数のクレオールの音楽家たちの足跡をたどっていくと、演奏する音楽の内容はその音楽が誰のために演奏されるかということによってもっぱら規定されていたことがはっきりしてくる。ニュー・オリンズの都市全体では2種類のジャズ、アップタウンではより荒々しいブルース志向の音楽、ダウンタウンではより洗練されたクレオールの音楽が演奏されていた。」そして先ほどのバスター・スミスも証言しています。「もちろん、俺たちの大半が時折スイートな音楽の演奏もやっていた。全く客次第なんだ。上品なお客様が踊るいくつかの高級な場所では、俺たちの音楽を演奏することはできなかった。」つまり何を演奏するか、どんな風に演奏するかは、その場所でのお客次第だったのでしょう。

バーバー・ショップ・ミュージック

大和田俊之著『アメリカ音楽史』

ここまでジャズの誕生に係わる事柄としてラグタイム、ブルース、マーチなどについてみてきました。しかしそればかりではない新たな視点の提案があるようです。ただこの視点は僕の持っている資料では一つだけが取り上げている視点でもあります。『アメリカ音楽史』で大和田氏は
「『ブルーノート』について、19世紀後半に流行したある特定の音楽文化との関連性が指摘されている。それは『バーバー・ショップ・ハーモニー』と呼ばれる男声合唱のスタイルである。もともと南北戦争以前から理髪師(バーバー)の多くは自由黒人で占められていた。その結果としてアメリカにおける理髪店は、黒人が白人の顧客にサーヴィスを提供する「人種の交差路」の役割を果たしていた。人は整髪だけではなく社交のためそして合唱のリハーサル会場としても利用していた。
現在のアメリカで見られるバーバーショップ・ハーモニーは白人カルテットが主流であるため、これまでの研究ではエリザベス朝時代のイギリスの「バーバー・ミュージック」との影響関係を考察するものが多かった。しかし重厚なヴォードヴィル研究で知られるリン・アボットは豊富な資料とともに定説に異議を唱え、バーバーショップ・ハーモニーにおける黒人文化の要素を強調する。
それは主として1890年代から1900年代初頭に爆発的に流行した男性カルテットのスタイルであり、即興的で自然発生的なハーモニーを特徴とする。即興的なハーモニーはしばしば「マイナー」、「スワイプ(かっぱらう)」、「スネイク(くねくね進む)」といったスラングで表現され、全米の黒人の間で流行した現象だった。これが半世紀後ドゥワップに結びついていく。
20世紀前半を代表する黒人カルテット、ミルス・ブラザーズもバーバー・ショップでハーモニーを学んだと証言しているというし、W.C.ハンディも1888年ごろアラバマのカルテットに参加していたことが明らかになっている。
こうした合唱スタイル―メロディーを即興的に崩しながら自然発生的なハーモニーを重視する―こそが「ブルーノート」の結晶化につながったのだ。」という説を紹介しています。
さらに氏は「19世紀末の黒人コミュニティにおけるバーバーショップ・ハーモニーの流行は、それが同時期に流行したラグタイムとの共通点を連想させる点で重要である。どちらも固定されたメロディを崩し、即興性を重んじることで「黒人らしさ」をアピールするジャンルとして発展した」というのです。
これは意外な説です。というのはそもそも「ラグタイム」は即興性を重視しないどころかラグタイムは即興演奏は行わないのです。あくまでも譜面通りに演奏するのがラグタイムでそこがジャズと異なるところのはずです。ジェリー・ロール・モートンはラグタイムにリズム変奏や即興を取り入れたことで「ジャズを発明した」といっているのです。
さらに氏はアボット氏の次のような説も紹介しています。

ザ・ミルズ・ブラザーズ

「バーバーショップ・ミュージックがニュー・オリンズの黒人ブラス・バンドの和声を基礎づけたのではないかと推測する。ということは、それがジャズの成立に大きく寄与した可能性があるということで、ラグタイムやバーバーショップ・ハーモニーが世紀転換期の黒人社会に浸透していったという事実は、ブルースの歴史を検証するうえでも示唆に富む。なぜなら、ブルースは決してアメリカ南部の辺境で隔離された状態で発達したのではなく、その初期の段階から同時代の音楽文化と相互に影響を及ぼしあいながら発展したからである」と。
拙HP「僕の作ったジャズ・ストーリー3…ブルース」でシュラー氏の次のような報告を掲載しています。女優であり音楽家でもあるフランセス・ケンブルの1839年の旅の報告で、黒人たちは全て斉唱で歌った、つまり和声はなかったということ、そして1867年に刊行された『合衆国の奴隷歌謡(Slave songs of the United States)』の編集チームの一人チャールズ・ウェアー(Charles Ware)氏は黒人の歌謡に「我々の理解するような、パートに分かれての歌唱は全く存在しない」と報告しています。これらのことから1860年代では和声は黒人奴隷たちに馴染んでいなかったことがわかります。黒人コーラスといいますと後の「ドゥ・ワップ」に代表されるように、重厚なコーラス・ワークを思い浮かべますが、そもそもそれはアフリカ由来ではないと推察されることを述べました。しかしアボット氏の記述のように1890年代から1900年代初頭に爆発的に流行した黒人男性カルテットの即興的で自然発生的なハーモニー「バーバーショップ・ハーモニー」スタイルというものが生まれたとすれば、もちろん黒人全員がそうだったというわけではないでしょうが、約20年間で和声の感覚を獲得したことになります。
作家のラルフ・エリクソンは、「黒人の音楽家たちは、耳に届くいかなる音楽にも疎外感を抱いたことがない集団である」と述べているそうです。これより下はないと思われるほどの困窮生活にあっても政治的、階級的にはにっくき敵の音楽、白人音楽のマズルカもポルカもワルツもスコットランド民謡も、クレオールの持ち込んだドビュッシーもラベルも、彼らの旺盛な創作欲で食欲に取り込んだと言われます。黒人たちは、どこかで耳にした白人たちのコーラスを面白いと感じ貪欲に取り込んだのでしょう。正に驚異的なスピードです。

まとめ

ここまで「ジャズ以前」からジャズが生まれてくる状況を振り返ってみました。ジャズは19世紀から20世紀の初めにかけて、西洋の行進曲にアフリカ由来の黒人のヴァイタリティ―が加わったものに、ラグタイム、ブルースなどの要素が加わって形作られてきました。但しこれらを確認するにも録音された音源がなく、実際の演奏を取り上げたのはスコット・ジョプリンのピアノ・ロールぐらいでした。これまで見てきた音楽の歴史はもう少し時代が下って1917年になると初めてジャズのレコーディングが行われます。次回以降は実際の音源を取り上げながらジャズの歴史を振り返ってみたいと思います。

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