ベニー・モーテン 1926年

Bennie Moten 1926

ベニー・モーテン

僕が勝手に師と仰いでいる師粟村政昭氏が、その著書『ジャズ・レコード・ブック』において、ベニー・モーテンの項において、次のように書いているからである。「モーテンはその早すぎる死によって来たるべきスイング全盛時代の脚光を浴びることなく終わったが、モーテン楽団の残した足跡を丹念に辿っていくことは、カンサス・シティ・ジャズの研究者にとって先ず第一になさねばならぬ重要な仕事である。(中略)カウント・ベイシー往時のヒット作を聴いたぐらいでは、モダン・ジャズ最大の温床となったカンサス・シティ・ジャズのルートを探ることなど不可能に近いことをファンは銘記すべきである」と。さすがに師は厳しい。ベイシーの諸作を聴いたぐらいで、KCジャズが分かったなどとは片腹痛いということであろう。

僕が今回音源として利用するのは、ビクターから1975年に出された「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻/ザ・ビッグ・バンド・エラ第1集」(RA-45〜53)というLPレコード9枚組である。このボックスはタイトル通りビッグ・バンド時代、つまり1920年代後半から30年代にかけての重要なビッグ・バンドの録音を集めたかなり貴重なものである。ざっと内容を述べるとフレッチャー・ヘンダーソン2枚、ベニー・モーテン3枚、マッキニーズ・コットン・ピッカーズ、チャーリー・ジョンソン、ザ・ミズーリアンズ、ジミー・ランスフォード各1枚の計9枚である。ビクター時代のヘンダーソン、モーテンそしてコットン・ピッカーズ、チャーリー・ジョンソン、ザ・ミズーリアンズ、ジミー・ランスフォードというバンドは名前は聞くが単独のレコードなどほとんど見かけない大変貴重な音源集である。


しかし大きな欠点がある。次のことはこのレコードを取り上げるたびに何度も書くことになる欠点である。それは録音データが一切ないということである。どうしてそんな不出来なことになったのか?その僕なりの推理は以下の通りである。
もともとこのボックスの初版にはデータが付いていたが、再発するに当たって経費削減のため外したのである。そして残念なことに僕が持っているのは<再発盤>なのである。どうしてそのようなことが言えるのか?解説諸氏が次のように記載しているのである。

「フレッチャー・ヘンダーソン」担当の油井正一氏、「詳細な吹込みデータは中ジャケット裏の記載を参照されたい」
「チャーリー・ジョンソン」担当瀬川昌久氏、「レコード・ジャケット裏のパーソネルは〜」
「ジミー・ランスフォード」担当粟村政昭氏、「別掲のディスコグラフィー〜」
「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ」担当瀬上保男氏、「中ジャケット裏のデータをご覧〜」
解説諸氏全員が「レコード・ジャケット裏にレコーディング・データがある」と述べている。
左は同じ「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」のジェリー・ロール・モートンの中ジャケットの裏面である。少々見にくいかもしれないがこのように録音データが掲載されている。そして右がこの「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻/ザ・ビッグ・バンド・エラ第1集」の中ジャケットである。
僕が推測するに、このボックスも初めは左のようにレコーディング・データが付いていたのである。ところが再発売をするに当たっては右のようにデータのない黒ジャケットに統一したのである。何故か?それは経費節減しか考えられない。
もしモートンと同じように各レコードの中ジャケットに録音データを乗せて1000セット再生する場合、中ジャケットは1000セット×9種類作らなければならない。ところが7種類のレコードを1種類のジャケットで済ませば、1000セット×9=1種類9000枚で済むのである。費用は全く違う。しかもこの黒ジャケットは他のシリーズにも使用している。一挙に何十万枚と作ってしまえるのである。費用はものすごく有利になるはずだ。しかしそれでいいのか?本文の執筆者たちの記述と全く合致しなくなっている。どう贔屓的に見ても良心的な所業とは言えない。レコード会社の恥である。
このことに対する反論はいつでも受けるので、関係者には名乗り出て欲しい。

<Date&Place> … 1926年12月13、14日 シカゴ或いはキャムデンにて録音

録音場所については、Web版ディスコグラフィーではシカゴとしているのに対してシュラー氏はニュージャージー州のキャムデンとしている。これも僕には決め手がないので、こういう2つの説があることを紹介しておくだけとする。

<Personnel> … 瀬川氏とシュラーの記述を元に作ってみたベニー・モーテンズ・カンサス・シティ・オーケストラ(Bennie Moten's Kansas City Orchestra)

Bandleader & Pianoベニー・モーテンBennie Moten
Trumpetラマー・ライトLammar Wrightエド・ルイスEd Lewisorハリー・クーパーHarry Cooper
Tromboneサモン・ヘイズThamon Hayes
Alto Sax & Clarinetハーラン・レナードHarlan Leonard
Clarinet & Tenor Saxウッディー・ウォルダーWoody Walder
Alto Sax & Baritone saxラフォーレ・デントLaForet Dent
Banjoサム・トールSam Toll
Tubaヴァ―ノン・ペイジVernon Page
Drumsウィリー・マクワシントンWillie McWashington

<Contents> … 「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻/ザ・ビッグ・バンド・エラ第1集」(RA-51)

A面1曲目シック・リップ・ストンプThick lip stomp1926年12月13日録音
A面2曲目ハーモニー・ブルースHarmony blues1926年12月13日録音
A面3曲目カンサス・シティ・シャッフルKansas City shuffle1926年12月13日録音
A面4曲目ミズーリ・ウォブルMissouri wobble1926年12月14日録音

解説の瀬川昌久氏は、6頁に渡りかなり詳しくモーテンを紹介している。しかし冒頭の事情で、録音データの記載がないため、メンバーは解説文中から推測するしかない。しかしまことに残念なことだが、瀬川氏の表記は大きくブレてよく分からないのである。瀬川氏の文章を以下そのまま記す。
『モーテンは、1923年9月に初吹込みを行った。それは6重奏団によるもので、メンバーは、ラマー・ライト(Tp)、サーモン・ヘイズ(Tb)、ウーディー・ウォルダー(Cl&Ts)、モーテン(P)、サム・バンジョー・ジョー・トール(Bj)、ウィリー・ホール(Dr)の6人であった。1年後の1924年には、この6人に、ハリー・クーパー(Tp)、ハーラン・レナード(As&Cl)を加えた8重奏
団で吹込みを行った。1925年には、ラフォレスト・デントがトールに代わってバンジョーを弾き、ヴァ―ノン・ペイジ(チューバ)がクーパーに代わり、ウィリー・マクワシントンがホールに代わっていた。26年には、ホールが戻ってバンジョーに復帰し、デントはAsとBsを吹くようになった。』
これは分かりやすそうで分からない。そもそも「サム・バンジョー・ジョー・トール(Bj)」って何だ?本当にこういう名前なのか?他の資料から推測するとバンジョー奏者は「サム・トール(Sam Toll)」である。もしかすると<Sam ”Banjo Joe”Toll>ということなのだろうか?
次の疑問は「ヴァ―ノン・ペイジ(チューバ)がクーパーに代わり」という文章である。クーパーという名前はここまでTpのハリー・クーパーしか出てこない。ヴァ―ノン・ペイジ(Tu)がTpのハリー・クーパーと交替したとしか読めない。交替してTpを吹いたのだろうか?それともTpが1本減ってチューバが入ったということなのだろうか?その場合「代わる」とは言わないのではないだろうか?
さらなる疑問、「26年には、ホールが戻ってバンジョーに復帰」という文章。ホールとはドラムス担当でマクワシントンに代わった人物のはず。元ドラムス担当が一端辞め、復帰する時はバンジョーで復帰したということになる。ではバンジョー奏者は2人になったのだろうか?これはたぶん「ホール」と「トール」の書き間違いであろう。しかし「トール」が復帰するためには一度辞めなければならないはずでそのことは書いていない。
もう一つ「デントはAsとBsを吹くようになった」で、このまま意味するところは、「デントはバンジョー奏者として入団したが、辞めたはずのバンジョー奏者が戻ったのでアルト・サックスとバリトン・サックスを吹くようになった」ということである。本当だろうか?まぁこれはあるかもしれない、後に出てくるエディ・ダーハムはギターを弾き、トロンボーンを吹いたというのだから…。しかし瀬川氏はダーハムのことは詳しく述べているのに、デントについては全く触れていない。どうも間違いではないかという気が強くするのである。
一方シュラー氏は総勢10名だったとするが、一部を除いてメンバーを記載していない。瀬川氏は混乱の中でトータルの人数を記載していない。

瀬川氏の解説

A-1シック・リップ・ストンプ
いかにも1926年らしいダンサブルで甘美な演奏とし、レナード、ヘイズ、のソロのバックで、リズムが休止するのもこの時代らしいと解説している。
僕は、レナードのソロがこの時代にしてはちょっと傑出しているのではないかと思う。演奏全体は何となくラグタイムの香りがする。
A-2ハーモニー・ブルース
初めのサックス・アンサンブルがちょっと奇異な感じを与えるが、全体のアンサンブルとソロのバランスも良く美しい演奏。ラマー・ライトのコルネット・ソロが秀でているし、御大のモーテンもソロを取っているが、ストライド奏法ではなく間を活かしたようなプレイでちょっと現代的なソロのように感じる。
A-3カンサス・シティ・シャッフル
主旋律をコルネットがリードする。この解説で瀬川氏は「バンジョー・ソロはサム・トール」と書いている。初めからそう書いて欲しい。このソロはマンドリンのようなソロである。クラリネット合奏のパッセージが入る、ラストのディキシー風の絡み合いは、モーテン・バンドの特色だった。
A-4ミズーリ・ウォブル
主旋律をラマーのコルネットがリードし、他のホーンが絡む。ヴァ―ノンのチューバ・ソロも珍しい。

ガンサー・シュラー氏の解説

この1926年の録音についてシュラー氏はまとめて以下のように述べる。
この録音は、ヴィクター(という大手)に移ってニュージャージー州キャムデンで行われたのだがこのこと自体がすでに、南西部のバンドの偉大な勝利を物語る。
バンドの演奏は、この頃にはアンサンブルの点でよりまとまりだし、ソロがあるい程度様式的な統一性を持ち始めた。メンバーに関して最も重要な追加はトランペット奏者のエド・ルイスで、後にベイシー楽団の不動のメンバーとなった人物であった。当時はまだ10代後半のルイスが、ヘンダーソン楽団のスター・トランペットを務めたジョー・スミスを聴き込んでいたことは明らかである。彼は、ルイ・アームストロングも聴いていて、モーテンの楽団では、新しい世代、少なくともより新しい音楽指向を代表していた。
ルイスの影響、とりわけトロンボーンのサモン・ヘイズへの影響はA-3「カンサス・シティ・シャッフル」などの1926年の録音を通じて感じ取ることができる。ヘイズの演奏はそれまでは常に喜劇的なまでに素朴な側面を強調していたが、1926年では、彼のソロの中に新しいドライヴ感と「ホットな」精神がこもっていた。アルトとバリトン・サックスを演奏するラ・フィレスト・デントが加わって、リード・セクションは3人にまで膨れ上がり、ウッディ・ウォルダーの依然としてノヴェルティ効果やワウワウ音に拘ったクラリネットのソロを中和するような、もう一つのソロの声部を提示することになった。
こうしたメンバーの変化や南西部でのこのバンドの地位向上の結果として、演奏が次第により洗練されたものとなった。ヘンダーソンやその他の東部のバンドの録音や放送に影響されて、モーテンは、より興味深い音楽形式を探求し、より洗練された水準のアンサンブルとソロの演奏を創造することによって、彼の地元やその外部において増加してきた競争相手に対抗した。しかしそれでも、このバンドの演奏は、ジェリー・ロール・モートンのこの時期の録音あるいはまたヘンダーソンの最良の録音の典雅さと構造的なまとまりを持っていなかった。しかしながら、どの曲も彼らの初期のレコードの、形式が単調で、反復の多いアンサンブルやソロと比べれば、少なくともわずかながらの成長と発展を披露している。
過去の痕跡が残るのは避けられないことであった。「カンサス・シティ・シャッフル」の最後のアンサンブルのコーラスは冒頭のコーラスのほとんどそのままの再現であり、ニューオリンズの発想がこれらのアンサンブルにまだまとわりついている。「Midnight Mama」(未収録)のクラリネットとテナー・サックスの二重奏や「ミズーリ・ウォブル」のサックスによる三重奏などにうかがえるように、より変化にとんだ楽器奏法の模索もちらちら登場する。音楽的内容の観点から見れば、それらの試みはごく平凡であるのだが、多彩なフォーマットと表現に対する殆ど子供のような探求心を物語るものである。
「Yazoo blues」(未収録)では、いくつかの新しい影響も姿を現している。例えばモーテンが、モートンかヘンダーソンのレコード(例えばヘンダーソンの「シュガー・フット・ストンプ」)で聴いたかもしれない、讃美歌のような末尾のコーラスとか、12小節の構造を4小節のストップ・タイムめいたソロとそれに後続する8小節のアンサンブルへと分解する手法である。
シュラー氏は次のようにまとめる。「この時期の録音が優れたダンス音楽であることは明らかであって、激しく揺れるビートを備えたモーテンのバンドが地元で最も人気を得た理由はすぐさま理解できる」と。僕などはそれほどダンサブルとは思わないのだが、例えば「A-2ハーモニー・ブルース」等でも踊れたのだろうか?ただ黒人のリズム感はものすごいものがあり、どんなものでも踊ってしまうところがある。もしかすると十分にダンサブルなのかもしれない。ただ1926年録音全体として、雰囲気は明るいのである。

こうしてモーテンのグループは、カンサス・シティの代表的な存在となり、1927年ごろには、伝統的な楽器編成のビッグ・バンドにまで拡大した。そして次回の録音は、1927年6月に行われる。ガンサー・シュラー氏は、これらの録音を聴くと、国中のジャズ・バンドの影響からの影響やそれらのバンドの洗練の高まりが、モーテンのバンドにも投影されて、モーテンのバンドがヘンダーソンのバンドのような東部の楽団に懸命に追いつこうとしていた様子が分かるという。他方彼らの地元周辺では、アルフォンス・トレントの注目すべき楽団やサンアントニオのトロイ・フロイド、ダラスのテレンス・ホルダー、南西部のジェス・ストーンやドン・レッドマンの楽団などとの競争も生じていた。彼らはカンサス・シティそのものは避けながらも、ミズーリやカンサス州を巡演していたのである。

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