バディ・ボールデン (コルネット) 

Buddy Bolden (Cornet) (Trumpet)

バディ・ボールデン

本名:本名:チャールズ・ジョゼフ・ボールデン Charles Joseph Bolden

1877年9月6日ルイジアナ州ニュー・オリンズ生まれ(スイング・ジャーナル社「新・世界ジャズ人名辞典」1988年)。
1870年の初めごろニューオリンズで生まれた(ヨアヒム・ベーレント著「ジャズ」)
1931年11月4日ルイジアナ州ニュー・オリンズのジャクソン病院にて死去

ジャズ評論家レナード・フェザー氏は「レコード以前の人物なので、伝説以外何も残っていない」
ニュー・オリンズ出身のTp奏者マット・キャリーは「ジャズですべてを初めて人こそ、バディ・ボールデンである。」
このようにレコードなど録音は残っていないが、ジャズ史上最初の「伝説」であり、初代ジャズ王(King of Jazz)と言われる。伝説のためか死亡日時の他は
資料によって記載が異なる。
―スイング・ジャーナル社「新・世界ジャズ人名辞典」
母親の友人であるマニュエル・ホールにコルネットを習う。
チャーリー・ギャロウェイのバンドやアルバート・グレニーらのダンス・バンドで活躍し、10代末にはギャロウェイ、フランク・ルイスらのバンドに参加する
傍ら自己のグループも立ち上げ活発に活動した。
1900年ごろまでにはニュー・オリンズ中のダンス・ホール、キャバレーで演奏するほどの地位を築いたが、次第にフレディ・ケパード、ジョー・オリヴァーといった
若手の勢力に押されアルコール中毒となり、1907年3月13日に投獄され、ニュー・オリンズ内のジャクソン病院に収容された。
以後死去するまでの24年間は同病院で過ごし、脳動脈硬化症のためその生涯を閉じた。
―ヨアヒム・ベーレント著「ジャズ」
彼は床屋であった。
ある古物屋で中古のアコーディオンを手に入れたが、楽譜は読めなかった。しかし一度聴いたメロディなら、ニグロ・ブルースであろうと
フレンチ・オペラのアリアであろうとすぐ弾いてみせた。
ミシシッピー・デルタにあるこの生き生きした町は、音楽の町でもあった。誕生でも葬式でも、人間の行事には音楽は欠かせず、バンド・ワゴンは街中を練り歩いていた。
青年バディは、これを聞き漁り、自分も演奏したいと思った。やがてアコーディオンは不向きな楽器であることに気づき、コルネットに転向した。彼は街頭に
転がっているコルネットを見つけた…これも伝説の一部であるが。
1890年代ボールデンのバンドは、ニューオリンズで前例のない成功を収めた。
「バディ・ボールデンが、チルドレンを呼び寄せているよ。」チルドレンとはダンスや遊びごとが好きなニューオリンズっ子のことである。
1895年か6年ごろボールデンはセカンド・コルネット奏者を雇った。ちょうど25年後キング・オリヴァーがルイ・アームストロングを呼び寄せた
のと同じケースである。そのセカンド・コルネットがバンク・ジョンソンだった。
ボールデンを語るものはみなその音の馬鹿でかさと力強さを称賛する。
アルフォンス・ピクーsays「バディのコルネットは、空前絶後の音を出した。そのヴォリュームはサッチモがマイクを通して吹く音に匹敵する。」
ボールデンのコルネットはニュー・オリンズ市内の隅々まで聞こえたというが、これも伝説の一つだが、多分音は本当に「デカかった」のであろう。
このまちには有名な約30のバンドがあった。しかし当時この町の人口は20万に達していなかった。
バンドのかき入れ時は月1度のマルディ・グラと呼ばれるカーニヴァルだった。
※マルディ・グラは、トリニダード・カーニヴァル、リオデジャネイロ・カーニヴァルと共に世界三大カーニヴァルの一つ。現在は年1回開催だが、
この頃は月1回開催されてたのかな?
バンドは徒歩或いはワゴンに乗って街から町へと練り歩き、明け方から翌朝果てはその次の朝まで続き、街中が興奮のるつぼと化した。
バンク・ジョンソンsays「彼は褐色の色男で、背が高く痩せぎすで、女性にはだらしなかった」
1906年ごろ彼はノラ・ベスという女性と同棲し、母と妹のコーラも同居していた。そのころからよく「ひどい頭痛がする」と訴え、やがて激しくなりまともな音も
出せないほどになった。
1906年あるストリート・パレードで発狂し、逮捕された。やがて吹奏能力を失い、親戚の顔すら見分けがつかなくなった。
近所の人からの苦情が殺到したため1907年4月精神病院に収容された。
第一次世界大戦の終わりごろ一時退院したが、彼のことを覚えているものは誰もいなかった。10年前の町の英雄は見向きもされぬ存在になっていた。
ただ彼の方も相手を覚えておらず、自分がミュージシャンであったことすら思い出せなかった。間もなく病院に送り返され、以後死ぬまで廃人として生き永らえた。
24年間この一時退院を除き病院の地下の病室の窓から外の景色を眺め暮らした。
毎年1回診断を受けたがその結果は判で押したように同じもので次のようなものであった。
診断―偏執狂的早発性痴呆症
この診断書は天才画家ゴッホの症状に酷似しているという。この診断書の他に母親か妹が、年に1,2度安否を問い合わせてきた手紙も残っているという。
1927年2月の1通にはこう記されているという。
「センセどうかせがれチャーリー・ボールデンのようだいをしらせてくだされクリスマスのこづつみをううけとったかどうかしらせてくだされ、
ニューオリンズ市フィリップ街2338アリス・ボールデン母より」 そして彼の死の2か月前の記録には「実母死す」とあるという。
病院に保管されている書類は4〜50もあるというが、彼がミュージシャンであり、ジャズの創造に一役買ったことは一言も書かれていないという。

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