バンク・ジョンソン(コルネット&トランペット)

Bunk Johnson (Cornet & Trumpet)

バンク・ジョンソン

本名:ウィリアム・ゲイリー・ジョンソン William Gary Johnson
河野隆次氏はウィリアム・ギャリー・ジョンソン[William Geary Johnson]だと書いている
1879年12月27日ルイジアナ州ニュー・オリンズ生まれ。
1949年4月7日ルイジアナ州アイベリアにて死去。

バンク・ジョンソンの経歴については、『ジャズ人名辞典』(スイング・ジャーナル社)、ニュー・オリンズ・ジャズの研究家、河野隆次氏、木田三七雄氏、山口克己氏などで記載が異なる部分がある。僕には度の記載が正しいのか決定する能力がないので、そういう場合はどちらも表記することにしたい。
7歳から音楽の勉強を始めたという。8歳の時彼の音楽の先生が彼の母親に、彼には音楽の才能があることを告げ、音楽家としての道を歩ませるよう熱心に勧めた。ついに母親は先生の勧めで初めは中古の、しかし後には新品のコルネットを買い与えたという。
この彼の音楽教師はウォーレス・カッチェイ(Wallace Cutchey)というメキシコ人でかなり厳しい指導ぶりだったらしいが、バンクも大いに努力をし14歳の時には、いっぱしのジャズを演奏するようになっていたという。

これは彼のレコードをたくさん出しているアメリカン・ミュージック・レコード(American music 以下略してA.M.)のライナー・ノーツに記載されているものですが、これはA.M.レコードのビル・ラッセル氏がジョンソンに聞いたものが中心になっていると思われます。そこにはボールデンとバンク・ジョンソンの関係や当時のニュー・オリンズの様子も知られる貴重なものです。これらの解説は日本におけるニュー・オリンズ・ジャズに非常に詳しい研究家の河野隆次氏と木田三七雄氏、山口克己氏によるものをまとめたものですが、ちょっと辻褄が合わない部分もあります。
若き日のバンク・ジョンソン

バンク・ジョンソンが初めてバンドに加わったのは1894年、アダム・オリヴァーのバンドであった。彼とはその頃からの友人だったピアノのトニー・ジャクソンも同じくそのバンドからスタートした。そしてそのバンドには約1年在団し、次にバディ・ボールデンのバンドに加わった。ボールデンは、オリヴァーのバンドで吹いているバンクを聴き彼のバンドに引き抜いた。
その1895年時点でのメンバーは次の通りである。
Band leader & Cornet … バディ・ボールデン
Cornet … バンク・ジョンソン
Trombone … ウィリー・コーニッシュ
Clarinet … ウィリー・ウォーナー
Guitar … ブロック・マンフォード
Bass … ジミー・ジョンソン
Drums … コーネリウス・ティルマン
他のメンバーはいずれも大人の中でバンクだけがショート・パンツの子供であった。
この頃バディ・ボールデンのバンドにも加わって演奏を行いながら、96〜97年ごろにはアダム・オリヴァーのバンドでも演奏をしていた。
その頃のボールデンのバンドの人気は大変なもので、「キング・ボールデン・バンド」と呼ばれていたという。バディ・ボールデンのバンドには1898年まで在団し、ボブ・ラッセルのバンドに加わった。
しかしこのバンドは余り数多く仕事をしないので、すぐに辞めバディ・ボールデンのバンドに戻った。その時にはトロンボーンのコーニッシュが辞めていて、代わりにフランク・デューソンが入っていたという。約7か月後ボールデン・バンドを辞し約2年間地方巡業に出たという。
1900年ごろには、もうニュー・オリンズのあちこちのバンドを掛け持ちで演奏をしていた。その後サーカスのバンドに加わり、10年にニュー・オリンズに戻ってくるまでは、アメリカ中を巡業していた。
1900年以後、トム・アンダーソンのダンス・ホールに小編成のバンドを作って出演していた。またその頃ジョン・ロービショーのオーケストラでも演奏していたという。ロービショーのバンドはニュー・オリンズの有名バンドで、専らパーティーに招かれたり、白人上流社会の催し物に応じてグルンウォルド(楽器商の主催)やアントワーヌ(レストラン)などが出演場所であった
彼らはカドリールやラグタイムまで文字通りありとあらゆる音楽を演奏した。また月曜日の夜には、山の手にあるメソニック・ホールでダンス・パーティーでも演奏を行った。
メソニック・ホールの毎土曜日はイーグル・バンドの演奏だった。サウス・ランバートには彼らの演奏を聴く群衆が群がり、イーグル・バンドのホット・プレイに声援を送ったという。この間もバンクは、昼の間は努めてパレードの演奏に参加していた。祝祭日、奴隷解放日、選挙のキャンペーン、それに葬式のパレードなどである。
またイーグル・バンドは夏の間ピクニックのために多くの演奏も行っていた。ポンチャートレーン湖にあるミルンバーグが古くから有名だった。また後に出来たウエスト・エンドも人気があった。小さな美しい公園といくつかのナイト・クラブがあり、1900年ごろは大変に繁盛していたという。
また当時見世物として人気があったものにバンド合戦があった。多くは定期的に毎日曜日の午後、キャロルトン通りの北にあるワシントン公園(現ニュー・オリンズ市公園)で行われた。野球やキリスト昇天記念の風船飛ばしなどの日に集まったバンドは、聴衆からの商品をかけて一方が参るまで徹底的にホット演奏を繰り広げるのである。しかし本来のバンド合戦は街頭や大通りの交差点で展開される。バンド名を書き込んだワゴンに乗り、車輪が動かないように錠をかけて行われた。全ての楽器と演奏者が積み込まれているが、トロンボーンの席は馬車の最後尾と決められていた。長い楽器なので他の演奏者の邪魔になるからである。これがテイル・ゲートの所以である。
イーグル・バンドはバンド合戦では圧倒的な強みを持っていたらしい。どのバンドもカナル・ストリートを越えてイーグル・バンドのテリトリーに入ることは大きな冒険だったという。イーグル・バンドにつかまってさんざんにやり込められたバンドが多かったのである。「イーグル・バンドが来たら逃げてしまえ」とは、バンド仲間の合言葉だったという。
バンクは、1903年ホールキャンプのジョージア・スマート・セットというミンストレルの一座に加わってニューヨークでも演奏した。その後テキサス州ダラスを経て1905年サンフランシスコで演奏したが、後にニュー・オリンズに戻った。
> 1907年バディ・ボールデン精神病院に収容。
次の1911年から14年までについての記述は錯綜しています。
河野氏
「1911年から14年までは、バンクはイーグル・バンドのレギュラー・メンバーとして本格的なジャズ演奏も行っていた。このバンドではまだクラリネットを吹き始めたばかりのシドニー・ベシエと出会う。またトロンボーンにはレナード・ベシエ、コルネットを始めたばかりのシドニー・ディスヴィン、ギターのジョー・ベシエもいたという。彼らは時に小編成(ニュー・オリンズで小編成というと3~5名程度の編成を指す)を組み、シルヴァー・ベルと称していたという。」
別の解説で河野氏は次のように記述します。
「1911〜14年まで、バディ・ボールデンのイーグル・バンドに加わってようやく名前が売れてきた(この時期ボールデンはいないはず)。しかしこの当時イーグル・バンドのバンクはレギュラーではなく臨時のメンバーであった。バンクが正式にイーグル・バンドのリーダーとなったのは、ボールデンが引退してからで、トロンボーンのフランキー・デューセンがだいぶ彼の世話をしたらしい。1914年以後バンクは各地を楽旅し演奏を行っている。しかしどういう訳かシカゴには行かなかったという。」とイーグル・バンドはバディ・ボールデンのバンドであると書かれている。
一方木田氏+山口氏は、
バンクは10年にニューオリンズに戻った次の年、このバンドからフランキー・デューセンのイーグル・バンドに移った。このバンドは、バンクのコルネット、デューセンのトロンボーン、ビル・ハンフリーのクラリネット、ボブ・ライアンのベース、ヘンリー・ゼノーのドラムス、ダニー・ルイスのヴァイオリンであった。このバンドについて、ルイ・アームストロングは後年こう語っている。「バンク・ジョンソンがイーグル・バンドでコルネットを吹いている時は、本物の音楽を聴くことができた。ミュージシャンの王様(キング)はジョー・オリヴァーだったが、彼には一人だけライヴァルがいた。それはバンクだった…」と「イーグル・バンド」のリーダーはフランキー・デューセンだったと書いています。
さて1914年バンクはニュー・オリンズを出ます。そしてボガルーサのコロニアル・ホテルのオーケストラで演奏、1916年レーク・チャールスでロイヤル・オーケストラに、1917年バトン・ルージュでウォルター・ブランディのバンドに参加し、その後ジョージア・スマート・セット一座に入り、ヴォードヴィルやミンストレル・ショウなどで演奏しながら各地を巡演しました。
1920年イバン・トーマスのブラック・イーグル・バンドに入ってルイジアナ州のクローリーで、またニュー・アイベリアでガス・フォーティネットのバンドに加わります。
そして30年ごろは折からの不況の中で、再びイヴァン・トーマスのブラック・イーグル・バンドのセカンド・トランぺッターとして働いたといいます。なおこのバンドにはクラリネットのジョージ・ルイスも加わっていました。このバンドはルイジアナ州のレインなどで演奏し人気を博していましたが、32年にリーダーのイヴァン・トーマスが演奏中に殺され(これは女出入りのもつれが原因と言われている)、またこの時の騒動でバンクの楽器もつぶされてしまい、彼は嫌気がさして引退してしまいます。その後33年ごろも時々呼ばれたときだけポール・バーンズなどと仕事をしていたようですが、ニュー・オリンズ西方のニュー・アイベリアに引きこもり、農園のトラックの運転手や作業の手伝いなどをする傍ら近所の人々に音楽を教えたりしながら糊口をしのいでいたといいます。
その後ウィリアム・ラッセル氏らジャズ研究家に発見され、真のニュー・オリンズ・ジャズの継承者と目され、1942年に初のレコーディングを行うことになります。この発見された年についても様々な記述がありますが、1937か38年に行われた『ジャズメン』のためのインターヴューで生存が確実視され、現地に赴いて捜索したところ発見したということなので、早くても39年か40年くらいではないかと思われる。
木田氏+山口氏
1939年『ジャズメン』という本が発表された。フレデリック・ラムゼイ・ジュニアとチャールズ・エドワード・スミスの2人が編集したこの本には、ジャズがニュー・オリンズで発生し、シカゴ、ニュー・ヨークと発展していく有様が書かれていた。この本の執筆者であったウィリアム(ビル)・ラッセル氏は、この本のため、あちこちで取材した話の中に、シドニー・ベシエとルイ・アームストロングのバンクはまだ元気であり、ニュー・アイベリアで暮らしているということがあった。ルイは自分の先生として慕っており、ベシエにしても彼のアイドルとして尊敬していたのである。
ラッセル氏は、ディヴ・スチュアート、ジーン・ウィリアムスなどと彼を見つけ出し、彼の演奏を録音する計画を立てた。ラッセル氏は、バンクのところへ行き、また数度の手紙のやり取りを行った。その結果、バンクは歯が抜けてしまってトランペットを吹けないこと、また楽器を持っていないので演奏ができないことなどが分かった。バンクは、これらが解決されれば、今でも演奏が可能であることを言ってきたのである。ラッセル氏達は、入れ歯を入れてやり、楽器を探してあげて、録音がニュー・オリンズのグリュンワルド楽器店で行われたのである。1942年6月11日のことであった。これがバンクの初録音であり、ジャズマン・レーベルの名盤である。そしていわゆるニュー・オリンズ・リヴァイヴァルを決定づけるレコードともなった。
1942年の初レコーディング以来ニュー・オリンズ・ジャズ・リヴァイヴァルの中心人物として多数のレコーディングや各地での公演を行った。
バンクは大変な気分屋だったという。これは生来のものか売れてきてからのものかは分からないが。レコーディングの当日バンク一人だけ来ないので、迎えに行くと酔っぱらったバンクが懐中時計の鎖を以てぐるぐる回しながら、「今日は気分が乗らないから辞めるよ」とキャンセルしたこともたびたびだったという。

レコード・CD

「初期のバンク・ジョンソン」(VC-4020)
「バンク・ジョンソン・メモリアル・シーン」(SR-3134)
「伝説の巨人、バンク・ジョンソン」(Commodore XM-31-MSD)
「バンク・ジョンソン・1944・第1集」(VC-4006)
「バンク・ジョンソン・1944・第2集」(VC-4007)
「バンク・ジョンソン・1944・第3集」(VC-4008)
「バンク・ジョンソン・1944・第4集」(VC-4016)
"Bunk Johnson 1944 Vol.2"(Storyville 670 205)
「これがバンク・ジョンソンだ!!」(VB-1001)
「バンク・ジョンソン&ディンク・ジョンソン」(VC-4021)
「バンク・ジョンソン・ブラス・バンド」(VC-7011&VC-4009)