本名:ルチアーノ・ポゾ・ゴンザレス(Luciano Pozo Gonzales)
1915年1月7日キューバ・ハバナ生まれ。
1948年12月2日死去。
警察でさえも足を踏み入れることを恐れると言われる劣悪地域の貧困に喘ぐ家庭で育った。
小さいころからドラムに興味を示し、アフロ・キューバンの宗教儀式などで演奏した。
そして生き延びるためのストリート・ライフを学んでいった。
3年生で学校を中退し、日々ドラムを叩き、喧嘩し、飲酒し、犯罪に関わって生きていたという。
この時期にナイジェリアのヨルバ族の伝統的な信仰に由来するアフロ・カリブの宗教「サンテリア」の信者となった。
1929年ハバナで最も影響力のある新聞『エル・パイス』の新聞販売の仕事を始め、街角で新聞を売っていた。
その仕事で成功し、新聞社のオーナーで影響力のある実業家アルフレド・スアレスの目に留まり、運転手兼ボディーガードとして雇われた。
しかし彼のドラムの腕前の評判は、年々人々の間で高まっていき、数年のうちにキューバで最も有名で引っ張りだこなルンベロ(リズム奏者)となった。
ポソと仲間の音楽家たちは、1940年のサンティアゴ・デ・キューバのカーニバルで1位を獲得したコンガ曲「La Comparsa de los Dandys」を作曲した。
この曲はサンティアゴ・デ・キューバの非公式のテーマソングとされ、多くのラテン・アメリカのカーニバルでよく演奏されるスタンダード曲である。
1947年より良い生活を求めてアメリカに移住し、ニューヨークに住んだ。
そこでマリオ・バウザの紹介で、コンガ奏者を探していたディジー・ガレスピーと会う。
1947年『アフロクバーノリズム1、2、3、4』で、ルンバ、コロンビア、グアグアンコス、アバクアの最初の商業録音とされる作品を録音した。
1947年9月29日、カーネギー・ホールでのディジー・ガレスピーのビッグバンドに参加しました。
これは「ラテンジャズ発展における画期的な出来事」と評価され、その後ヨーロッパツアーにも参加した。
彼らの代表作には、ジョージ・ラッセルの「Cubana-Be/Cubana-Bop」や、ガレスピーと共作した「Tin Tin Deo」と「Manteca」がある。
1948年12月2日、ハーレムの111丁目とレノックス・アベニューのエル・リオ・バーで射殺された。
1947年のディジー・ガレスピーのレコードに名前が見える。
"Dizzy Gillespie/Dizziest"(Bluebird 5785-1-RB)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/スイングからバップへ」(RCA RA-100)
「ディジー・ガレスピーとビ・バップ・イーラ」(RMP-5119)