チャーリー・ジョンソンと彼のパラダイス・オーケストラ Charlie Johnson’s Paradise Orchestra
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1週」 レコード 4枚目
チャ―リー・ジョンソンの項を担当しているのは、生けるリジェンド瀬川昌久氏である。氏は冒頭次のように述べる。
「名著『ビッグ・バンド・ジャズ』の著者アルバート・マッカーシーによれば、1920年代後半から30年代初頭、すなわちスイング以前の時代の米国東部においてフレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン、マッキニーズ・コットン・ピッカーズに次ぐ優れたジャズ・オーケストラは、チャーリー・ジョンソンのバンドであった。ただここに収録した20年代の演奏しかレコーディングされなかったので、ほとんど埋もれてしまった」と。
1891年生まれのチャーリー・ジョンソンは、1914年ニューヨークに出てしばらくはトロンボーン奏者として活動していた。間もなくアトランティック・シティに移り、ピアノに転向、1919年初め(1924年という記述あり)に自己のバンドを結成した。
1925年10月22日ニューヨークに移り、「スモールズ・パラダイス」というクラブのオープンに伴い、そのハウス・バンドとなり以後約15年間にわたってレギュラー・バンドとして演奏を続けた。もちろんその間他のクラブや劇場に出演したこともあったし、夏季シーズンにスモールズ・パラダイスが閉じている間は、アトランティック・シティで演奏するのが常であったという。
バンドのメンバーには、初期にはシドニー・ド・パリス、ジャボ・スミス、後期にはベニー・カーター、ロイ・エルドリッジ、フランク・ニュートン、ビル・コールマン、ディッキー・ウエルズ、エドガー・サンプソンらを抱えていた。
38年にバンドを解散した後はローカルで不定期に活動を行っていたが、健康上の理由で50年代には引退していた。
「スモールズ・パラダイス」というクラブは20〜30年代に栄えたビッグ・バンドが出演するクラブの中で今でも(1970年代中期)まだ開いている実に稀な場所の一つである。
このクラブの名称は経営者のエド・スモールズの名前からとったもので、クラブのオーナー、スモールズとバンド・リーダーのジョンソン、そしてバンドのミュージシャンたちの関係は他では見られないほどハッピーなものであったという。
トロンボーン奏者ディッキー・ウエルズが自著『ザ・ナイト・ピープル』という本の中で、スモールズとジョンソンについて親しみを込めて回想している。
それによると、1929年の大恐慌とその影響が到来するまでは、このクラブは他に類がないくらい、景気がよかった。スモールズは実に気前の良い経営者で、バンドのメンバー全員に自動車が十分に買えるくらいの金を貸し、返済はいつでも可能な時に5ドルでも10ドルでも少しづつ返せばよい、というほどに寛大だった。
リーダーのジョンソンは、ピアニストとしては決して偉大とは言えなかったが、優れた才能を聴き分ける耳を持っていたので、いつも良いメンバーをそろえ、バンドを指揮することができた。彼はまたギャンブルが大好きで、時々バンド・スタンドをそっと抜け出してスロット・マシーンを廻していたりしたし、また酒を飲むことも大好きで、時に酔っぱらって記憶をなくし、メンバーたちに週給を2回も支払ったこともあったという。
そんなジョンソンのバンドにも、1930年代に入って大不況の波が押し寄せ、クラブの経営難から、バンドのサイズを小さくすることを余儀なくされるような事態がしばらく続いた。しかし1935年には、再び元のレギュラー・サイズに復帰することができたという。
バンドのサックス奏者でアレンジャーでもあったベニー・ウォーターズによれば、初期のジョンソンのバンドはフレッチャー・ヘンダーソンに次ぐ偉大な実力を有するとみなされていた。サウンド的にはヘンダーソンのバンドよりも、もっとカラフルなものを持っていた。ブラスにハットとダービーをかぶせて吹いたり、ワウ・ワウ・ミュートを使うやり方を初めて採用したのが彼のバンドだった。ヘンダーソンのバンドはクリーンで揃ったスイング・サウンドを誇ったが、ジョンソンのバンドは同じスイングでも、独特のちょっとした工夫を加えたサウンドを持っていた。ベニー・ウォーターズがバンドに在籍したのは、1925〜32年と、36〜37年と2度に渡ったが、この初期の期間こそ、このバンドがその特異なサウンドを完成した時期であった。ブラスにハットやダービーやワウ・ワウといったミュート奏法を取り入れたことは明らかにデューク・エリントンの初期のバンドのサウンドに酷似している。むしろエリントンの方がジョンソンのバンドのサウンドをコピーしたともいえるのである。
スタイルの点で比較すると、ジョンソンのバンドはヘンダーソンとエリントンのちょうど中間に位置するともいえた。すなわちエリントン・バンドがコットン・クラブに専属した時代のエキゾチックなサウンド効果と、ヘンダーソン・バンドのもっと自由にスイングするアプローチとの奏法をジョンソン・バンドは兼ね備えていた。しかしジョンソンとエリントンとのサウンドの類似は、互いに真似をしたというよりも、ともに有名なナイト・クラブの専属バンドであった、という事実に基づいていたといえよう。当時これらの豪華なクラブは、いずれも大変に贅沢で、目を楽しませる素晴らしいレヴューを売り物にしていたので、ステージに登ってその伴奏を務めるという目的のためには、客の注目を引くようなユニークなサウンドを発することが必要だったのだ。

ジョンソンのバンドは、スモールズというナイト・クラブで人気があっただけではなく、その余暇に大学のダンス・パーティに盛んに招かれ、大学生に非常に人気があった。政治、大学のキャンバスに同時に4つのバンドが揃ったことがあった。フレッチャー・ヘンダーソン、ドーシー・ブラザーズ、ザ・メンフィス・ファイヴ、そしてチャーリー・ジョンソンのバンドが代わる代わる出演した。そしてジョンソンのバンドが最大の人気を獲得したのだった。彼のバンドの前には、いつも多くの人々が群がってダンスを楽しんだ。もちろん白人バンドは当時から美しい音色を持っていたし、ヘンダーソンのバンドはそれに加えてさらにスイングしたが、いずれもショーマンシップに欠けていた。ジョンソンのバンドは、後のジミー・ランスフォードにも比すべき優れたショーマンシップを備えていたのだ。しかもアレンジメントについてもカラフルなチャートを持つことを忘れなかった。ジョンソンは、ケン・マッコーバーという白人の編曲者に何曲か書かせていたし、その他にも良いアレンジがあればリハーサルをしてすぐにも書いとった。アレンジ費やすほど、金にも恵まれていたのだ。
バンドのサイドメンには、著名な一流プレイヤーが去来している。このアルバムの吹き込まれた1927年から29年までの期間はパーソネルの移動も少なく、比較的安定した時代だった。29年5月の最後のセッションの後、数か月して未曽有の大恐慌が起こったためレコーディングも中断されてしまった。その間「スモールズ・パラダイス」も経営不振となり、バンドの人員を削減せざるを得なくなり、サイドメンはより良い待遇を求めて他に移動するものが多くなった。
不況が終わってスイング時代が到来し、レコード会社が再びレコーディングを考え始めたころにはチャーリー・ジョンソンはバンドの解散を考え始めていた。そのため残念ながら、二度と吹込みの機会に恵まれることはなかったのであった。
しかしそれにもかかわらず各セクションには常に一流のプレイヤーが残っていた。特にトランペット人にはスイング期の最も優れた奏者が何人か参加した。ヘンリー・レッド・アレン(1932年末から1933年春)、エドワード・アンダーソン(1930年)、ビル・コールマン(1930年)、ハーマン・オートリ―(1933年末)、ロイ・エルドリッジ(1930年代初期)、バーナード・フラッド(1936年から37年)、ルノー・ジョーンズ(1930年代初期)、フランク・ニュートン(1930年から31年及び1933年秋から35年末)、ケネス・ロウン(1932年)等著名な名前(?)が並んでいる。
またトロンボーンには、ロバート・ホートン(1930年)、ジョージ・スティーヴンソン(1932年から33年)、ディッキー・ウエルズ(1933年)、アルトン・スリム・ムーア(1938年)、ジョー・ブリットン(1936年)らが参加した。
サックス・セクションには、テナーのレオン・チューベリー(1932年末から33年初め)、テディ・マクレー(1930年代初め)等のスター・ソロイストがいた。
このような一流プレイヤーを揃えた30年代のジョンソンのバンドは、確かに優れた演奏水準を最後まで維持したに相違なく、レコーディングに恵まれなかったのは誠に残念なことであった。
チャーリー・ジョンソンのレコーディングについて述べると、1925年エマーソンというレーベルに2曲“Don’t forget you’ll regret”(Emerson 10856)と“Meddin’ with the blues”(Emerson 10854)とが吹き込まれているが、今日このレコードは殆ど入手し難く、かつ正確なパーソネルとデータが判明していない。
したがって1927年2月から29年5月までの間にRCAヴィクターに録音された12曲が、このレコードで今日聴くことのできる全てである。
そのうち2曲“Getting away from me”と“Mo’lasses”とは発売されず、今日でもテイクが入手できない。したがってこのアルバムには、残り10曲とそのうちテイクが余分にあるものを加えて計13タイトルが収録してある。各吹込みのパーソネルについては諸説があり、チャールズ・デロネイのホット・ディスコグラフィー、アルバート・マッカーシーのジャズ・ディスコグラフィー、ブライアン・ラストのディスコグラフィーの3種の間にもいくつかの相違がある。レコード・ジャケット裏のパーソネルはブライアン・ラストによるものを記載した(記載されていない)。
| Band leader & Piano | … | チャーリー・ジョンソン | Charlie Johnson | |||||||||
| Trumpet | … | ジャボ・スミス | Jabbo Smith | 、 | シドニー・ド・パリス | Sidney De Paris | 、 | トーマス・モリス | Thomas Morris | 、 | レナード・ディヴィス | Leonard Davis |
| Trombone | … | ジミー・ハリソン | Jimmy Harrison | 、 | チャーリー・アーヴィス | Charlie Irvis | 、 | ジョージ・スティーヴンソン | George Stevenson | |||
| Alto sax , Clarinet & Arrangement | … | ベニー・カーター | Benny Carter | |||||||||
| Alto sax , Clarinet | … | ベン・ウィチッド | Ben Whittet | |||||||||
| Clarinet & Tenor sax | … | ベニー・ウォーターズ | Benny Waters | |||||||||
| Violin | … | エドガー・サンプソン | Edger Sampson | |||||||||
| Vocal | … | モネット・ムーア | Monette Moore |
| 1. | パラダイス・ウォブル | Paradise wobble |
| 2. | バーミンガム・ブラック・ボトム | Birmingham black bottom |
| 3. | ドント・ユー・リーヴ・ミー・ヒア | Don’t you leave me here |
A面1〜3までの3曲は1927年2月25日ニューヨークで行われたRCAへの初吹込みであるとレコード解説にあるが、Web版ディスコグラフィーによれば1925年2月25日となっている。どちらが正しいのか?1927年と1925年では大分違う気がするが…。
A-1.パラダイス・ウォブル
バンジョーのよく効いたリズムがいかにも古めかしいジャズ的サウンドである。Tbソロはチャーリー・アーヴィスで、続く流麗で高音のよく効いたTpはジャボ・スミスであろうという。
瀬川氏は、サックスの合奏が薄いというが、こんなものだろうと思う。またモネット・ムーアのヴォーカルはなかなかに黒人歌手の気分が出ているというが…?。ムーアは黒人なんですけど…。短いクラリネットは、ベニー・カーターかベン・ウィチットであろう。合奏がディキシー風の絡みが多いのも20年代のビッグ・バンドの特色であるという。<
A-2.バーミンガム・ブラック・ボトム
ムーアのヴォーカル、アンサンブルの後に素晴らしい輝きに満ちたトランペット・プレイはジャボ・スミス。後半Bjソロが出るのが懐かしく、ラストのTpソロに他のホーンが絡んでいくのが時代を感じさせる。
A-3.ドント・ユー・リーヴ・ミー・ヒア
ジェリー・ロール・モートンの作。ムーアのヴォーカルの後に出るプランジャー・ミュートのTpソロが、シドニー・ド・パリスかトム・モリスかと説が分かれているという。次のTbはアーヴィスという。