いよいよチャーリー・パーカーの登場である。かつてマイルス・デイヴィスは次のように述べている、「ジャズの歴史?それは簡単だ。4つの言葉で全て言える。[Louis] [ Armstrong]そして[Charlie][Parker]だ」。つまりジャズに革命を起こした人物である。彼がどのように、どのような革命を起こしたのか?それを探っていくのが本項の目的となる。
パーカーのこれまでの歩みは簡単ではあるが、「僕の作ったジャズ・ヒストリー」の「自伝・評伝」のコーナーで記してきたので、ここでは1940年以降から記していこう。そのため「僕の作ったジャズの歴史」の1940年以降は、「自伝・評伝」のコーナーからは彼を外すことにする。
ということで、この1940年のパーカーの行動からたどってみよう。と言っても彼自身及び証言者によってかなり食い違いが多いのだが、「僕の作ったジャズ・ヒストリー 24 スイング時代 1939年」の「自伝・評伝」で述べたように、カール・ウォイデック著『チャーリー・パーカー』によれば、1939年末、母親から父親が死亡した問い知らせを受け、郷里のカンサス・シティに戻っていた。そして同じくカンサス・シティに戻っていたジェイ・マクシャンのバンドに再加入する。再加入というのは、パーカーは一度1938年マクシャンのバンドに加入するが遅刻が多いなど素行が悪く3、4か月でクビになっていたのである。しかし今度は長く保ち約2年半の間マクシャンのバンドメンとして行動するのである。写真右は1940年のマクシャン・バンド。前列右座ってアルト・サックスを吹いているのがバードである。
今回取り上げるマクシャン・バンドでの吹込みに入る前に、チャーリー・パーカーの初吹込みについて触れていこう。それが「ハニー・アンド・ボディ」と言われるものである。
詳しい時期は不明だが、カンサス・シティのTp奏者、クラレンス・ディヴィスがアマチュア用のディスク録音機でチャーリー・パーカーの即興演奏による、2つの曲のメドレーを録音した。その2曲とは"Honeysuckle rose"と"Body and soul"というスタンダード・ナンバーで、それで"Honey and body"(ハニー・アンド・ボディ)とクラレンス・ディヴィスが命名したという。さてこの録音時期については、原盤保有者のキャロル・ジェンキンスは1937年の録音としているが、これはクラレンス・ディヴィスが1937年にパーカーと共演しているからそう推測しただけで、根拠としては薄い。カール・ウォイデック氏は演奏内容から言って、1937年はあり得ず、1940年であろうとしている。そしてウォイデック氏はこの演奏の採譜を行い詳細に検討している。さらにウォイデック氏の分析などを基に、評論家の村井康司氏は、この演奏において既に「ビ・バップ」は完成しているとさえ述べている。
この音源はPhilology社とStash社からCD化されているが、残念ながら保有しておらず未聴。
マクシャンのバンドはカンサス・シティや近郊のボールルームなどで演奏を行い、1940年の秋に初のツアーに出る。そのツアー中の11月の下旬にはウィチタにいた時に画期的なことが起きるのである。バンドは11月の末珍しく仕事のない週末を迎えていた。たまたまウィチタにはマクシャンが以前別のツアーで来た時に知り合ったフレッド・ヒギンスンという地元のラジオ局KFBIのプロデューサーがおり、彼から放送用の録音を頼まれるのである。これは当時としてはかなり異例のことだったという。そもそも縫合用の録音を行ったことのあるバンドなどは数少なく、名も無いローカル・バンドが録音を行うことなどまずあり得ないことだったのである。これが今回取り上げるチャー・リー・パーカーを擁したジェイ・マクシャン・バンドの吹込みで従来「ウィチタ・トランスクリプション」と呼ばれるものである。
しかし実際は録音の事情はかなり異なることが判明した。実際は熱狂的なジャズ愛好家である、ピート・アームストロング、フレッド・ヒギンスン、そしてミュージシャンのバド・グールド、純粋にジャズに対する情熱故に録音を行ったものだということを1990年12月18日付けの「ダウンビート」誌でボブ・ディヴィスが明らかにしたのである。ラジオ局KFBIは高性能の録音機を提供しただけだった。当時ミュージシャンのバド・グールドがこの放送局のハウス・バンドを通じて貸してもらったのである。
パーカー研究家の間ではこの録音のことは知られていたが、録音ディスクは紛失したと考えられてきた。しかし1959年奇跡的に、ジャズ歴史研究家のフランク・ドリッグスによって、良好な状態の録音ディスクが発見された。そして1974年初めて正式に発売される。僕が持っている日本盤の解説をしている悠雅彦氏は、解説文を書いた日付を<1976年1月9日>と記載されているので、1974年にアメリカで発売された時のデータに基づいて書かれていると思われる。その時は11月30日と12月2日2回セッションが行われたと考えられていた(JSPのCDボックスも同じ)が、その後11月30日の1日だけセッションが行われたことが分かったという。今回はウォイデック氏の記述に基づいて記載する。
| Band leader & Piano | … | ジェイ・マクシャン | Jay McShann | |||
| Trumpet | … | バディ・アンダーソン | Buddy Anderson | 、 | オーヴィル・マイナー | Orville Miller |
| Trombone | … | ボブ・グールド | Bob Gould | |||
| Alto sax | … | チャーリー・パーカー | Charlie Parker | |||
| Tenor sax | … | ウィリアム・J・スコット | William J Scott | 、 | ボブ・マベイン | Bob Mabane |
| Bass | … | ジーン・ラミー | Gene Ramey | |||
| Drums | … | ガス・ジョンソン | Gus Johnson |
| A面1.&CD1-1. | いい娘を見つけた | I found a new baby |
| A面2.&CD1-2. | 身も心も | Body and soul |
| A面3.&CD1-6. | モーテン・スイング | Moten swing |
| A面4.&CD1-5. | コケット | Coquette |
| A面5.&CD1-4. | レディ・ビー・グッド | Lady be good |
| A面6.&CD1-7. | ブルース | Blues |
| A面7.&CD1-3. | ハニーサックル・ローズ | Honeysuckle rose |
カール・ウォイデック氏によれば、まず間違いなくこの年1940年、後に音楽活動上大変に重要な人物ディジー・ガレスピーと出会っているという。それはジェイ・マクシャン楽団のTp奏者バディ・アンダーソンの証言とディズの証言は一致するという。その証言によるとディズがキャブ・キャロウェイ楽団に在団している時、キャブの楽団はカンサス・シティを訪れた際、アンダーソンとディズは旧知の間柄であり、パーカーを賞賛しして彼らを引き合わせたという。ディズはパーカーを見て衝撃を受けたと言っているが、アンダーソンによればディズはほとんど反応を示さなかったという。反応を示さなかったのは、ディズのプライドがそうさせたのだろうとは、ウォイデック氏の推測である。パーカーの証言はあてにならないが、ディズと最初にあったのは1942年だった話しているという。