チャーリー・パーカーは、1942年12月ジェイ・マクシャンのバンドから、アール・ハインズのバンドに移籍します。当時ハインズのバンドには、ハインズの右腕、サックス奏者のバド・ジョンソンが連れてきた、若くて研究熱心なミュージシャンが、在籍していました。1943年3月から4月にかけて、在籍していたのは、ディジー・ガレスピー、ベニー・ハリス、ベニー・グリーン、ワーデル・グレイ、ビリー・エクスタイン、サラ・ヴォーンそしてチャーリー・パーカーという顔ぶれでした。この陣容のハインズ・バンドがAFMの吹込みストによる影響で、全く商業的な録音を残せなかったことは、ジャズ史上に残る痛恨事と言われているほどです。
しかしバードは既にこの頃から、麻薬中毒で衰弱しながら素晴らしい才能を示すという矛盾した状態にありました。そしてパーカーは、麻薬常用による素行の悪さで、ハインズのバンドを数か月でクビになるのです。しかしハインズは、パーカーのミュージシャンとしての才能と音楽を解釈する能力には、大いに感銘を受けていたと言います。パーカーは、編曲にざっと目を通せば、その曲を画像のように記憶することができ、スコアを見る必要が無かったと言います。また、パーカーはガレスピーとの間に音楽的な結びつきが形成されていくことにも気づいていました。「パーカーは、ショウの合間に、ガレスピーと教則本の練習曲を一緒に吹いていた。」熱心に勉強していたよ」と語っています。最終的にパーカーは、自分と同じような音楽のスピリットが、ガレスピーにあることを見出します。音楽の知識や、卓越した技術が似たような方向性を持っていたのです。
しかし数か月後ハインズはバードを返すと連絡をします。バードは、バンド全員から借金をし、ハインズからプレゼントされたテナー・サックスもどこかに無くしてしまっていました。つまり手に負えないということなのでしょう。パーカー本人は、ハインズ楽団に10か月居たと話しているそうです。
さて、ここでこの年のパーカーの録音について見ていきましょう。先ほども書きましたが、この年AFMの吹込みストで、ハインズ楽団は商業的な録音を行っていません。しかし僅かですが、プライヴェートな録音が残っています。ただこのプライヴェート録音はデータが不正確なことがほとんどです。僕は、基本的には、右のカール・ウォイデック氏の『チャーリー・パーカー』が最も信頼性が高いと判断していますので、それを中心に、見ていきたいと思います。
パーカーは、ハインズ楽団在団中の4月10日、ワシントンD.C.でジェラルデン・スコットという女性と結婚します。パーカーはカンサス・シティ時代にレベッカ・ラフィンと結婚していましたが、この時にはすでに離婚していたと言われていました。しかしレベッカによれば、離婚は成立しておらず、違法だと訴えます。この争いは後々まで続くことになります。さてパーカーは、ハインズ楽団をクビになると、一旦居心地のいい故郷カンサス・シティに戻ります。パーカーがいつまでカンサス・シティに滞在していたかについて詳しいことは分かっていません。
| Alto Sax | … | チャーリー・パーカー | Charlie Parker |
| Guitar | … | エファージ・ウエア | Efferge Ware |
| Drums | … | リトル・フィル・フィリップス | Little Phil Phillips |
| CD1-15. | チェロキー | Cherokee |
| CD1-16. | マイ・ハート・テルズ・ミー | My heart tells me |
| CD1-17. | いい娘を見つけた | I've found a new baby |
| CD1-18. | 身も心も | Body & soul |
アルト、ギター、ドラムという珍しいトリオ編成。聴いた感じでは1941年の演奏とは思えない。トリオ演奏なのでバードが吹きまくる感じになる。バックがシンプルだけにバードのプレイが浮き立って聞き応え十分である。