1923年7月19日コネチカット州ハートフォード生まれ。
2012年11月22日コネチカット州ウエストヘヴンにて死去。
『ジャズ人名辞典』未収録。
父はハートフォード交響楽団でフレンチ・ホルンを演奏し、母は歌手だった。
ビング・クロスビーに憧れ、高校時代から歌手を目指して歌い始めたという。
1940年から1942年までジャック・ティーガーデンのビッグ・バンドに加わり、
1945年にはライル・グリフィンのスタジオ・オーケストラで歌った。
第二次世界大戦での兵役後はヴァン・アレクサンダーのオーケストラで歌った。
1940年代半ばはボイド・レーバーンのオーケストラに所属していた。
この間にレコーディングも経験している。
1950年代は麻薬法違反で、最初はシングシング刑務所、次はニューヨーク州の
デナモラ刑務所で2度服役し、1957年に釈放された。
その後、フランク・シナトラが彼をサンズ・ラウンジで歌えるように手助けしたという。
1950年代後半は、ジョニー・マンデル、スタン・ケントン・オーケストラのバンドで歌い、
1964年にはカウント・ベイシー・オーケストラで歌った。
1960年代は、プレイボーイ・クラブなどのクラブで頻繁に歌った。
その後も薬物問題により再びそのキャリアは危機に瀕したが、1970年代半ば
ピアニストのバリー・ハリスとのデュオ・アルバムで音楽業界に復帰した。
1990年代初頭はミネアポリスに住んでいたが、後にニューヨークに移住、
さらにはスペインのビッグ・バンドでも歌った。
1945年のボイド・レーバーンの録音に名前が見える。
"Boyd Raeburn and his orchestra/Where you at"(HEP-3)
"Boyd Raeburn/Memphis in June"(Hep 22)