19世紀末から20世紀初めにかけても世界を動かしていた中心はヨーロッパでした。そのヨーロッパでは、各国が自国の安定と勢力の拡大を目指して非常に不安定な状況にありました。その最大の火種といえば、バルカン半島を中心とした東ヨーロッパ地域でした。南下を目論むロシアは1877年トルコに攻め込みます。露土戦争です。とそれを阻もうとするイギリスの対立もトルコへの干渉を強めます。そしてその決着をつけるべく国際会議がビスマルクの主導の下ベルリンで開かれます。そこでその後の領土体制が決められます(ビスマルク体制)が、もちろんどの国もいろいろな思惑があり、満足しての決着というわけではありませんでしたし、勝手に領土を分割されたバルカン半島の人々の怒りもありました。またそこにナポレオン時代からの混乱から復興してきた大国フランスも加わり混迷を深めながら帝国主義の時代へと向かっていくのです。
ヨーロッパ列強は、帝国主義政策を強め、アフリカ、アジアでの植民地の獲得にしのぎを削ります。そして1884〜85年ベルリンでアフリカの植民地会議が行われ、勝手にアフリカの領土分割を討議するのです。その結果1893年フランスはアフリカ西部、ダホメ王国を征服、植民地化し、1896年にはイギリスはアシャンティ王国を征服、植民地化します。両国とも奴隷貿易で?栄していた国です。これらによって19世紀中にアフリカに黒人国はなくなってしまい、19世紀の終わりにはアフリカ全大陸の9割が植民地となってしまいます。
アジア各国への列強の進出は続いていました。特に大国である中国に対してイギリスはすでに1839〜42年のアヘン戦争の勝利によって、清国への進出基盤を固めていましたが、フランスも1884〜85年清仏戦争などにより進出を積極化し、日本も1894〜95年の日清戦争で進出の意欲を示し、ドイツも1897年膠州湾を占領し、清国の列強分割が進行します。
19世紀末から20世紀初頭にかけては、次々に開発される科学技術とそれを活かした製品、そしてそれを作る製造技術がこれまでにないような急速な発展を遂げた時代です。まさに現代社会の基礎となるような工業化が行われた時代だと思います。
通信では、1876年グラハム・ベルが「電話」を発明し、1896年にはイタリア人マルコーニが無線電信装置を発明します。19世紀前半に発明されていた写真技術を改良して、1888年にはコダックが小型写真機発売を発明し、1893年エディソンは映写機(キネトスコープ)を作り、フランスのリュミエール兄弟はカメラ、映写機、プリンターの複合機を1895年パリで開催された科学振興会で公開します。1887年ドイツのダイムラーは小型内燃機関を四輪車に取りつけること、つまりは4輪の自動車を考案します。
その他挙げれば切りがありませんが、僕が気になるのはやはり「ジャズ」に関連することです。実はこの時代に現代でも使われている、録音そして再生というレコードに関する技術、そしてラジオ、それに何よりもそれらを支える電気に関する技術が開発され、ものすごいスピードで普及しているのです。1880年代からアメリカでは配電システムが普及し、途中エディソンの直流とジョージ・ウエスティングス、ニコラス・テスラ陣営の交流による「電流戦争」があったようですが、1920年代にはかなりの部分の家庭まで、電気は行き渡るようになります。現在我々の家庭では、各部屋に据え付けてあるコンセントまで電気が届いていて、電気器具のソケットを差し込めばその器具が使えるのは当たり前になっていますが、このシステムというのはものすごいものだと思うのです。これがなければレコードも聴けず、ラジオも聴けず、ジャズがここまで普及したかどうか分かりません。
このように1900年の時点でアメリカは既にGNP200億ドルを誇る世界最大の工業国でしたが、さらに拍車がかかるような大変重要な出来事が起こります。1901年1月に、テキサス州スピンドルトップ丘陵で史上最大級の油田(写真右)が発見され、空前の石油ブームが巻き起こります。続く2月にはモルガン系とカーネギー系の鉄鋼会社が合併しUSスチィールという巨大企業が出現しました。そして1902年ヘンリー・フォードは自動車会社設立、翌年大衆車構想を発表します。フォードの自動車製造工場は流れ作業を取り入れたオートメーション工場の走りとなりました。
20世紀への転換期から第一次世界大戦に至る時期のアメリカは、しばしば「革新主義の時代」と呼ばれます。急激な工業化がもたらした、資本の集中や都市化とその環境の悪化、移民の流入、貧富の格差といった問題が、若いアメリカ中産階級に広く危機意識を醸成し、自らを改革者意識を醸成し、自らを改革者或いは革新主義者と認じ、立ち上がる人々が続出したのです。こうした人々は、高度な資本主義社会の到来が、伝統的にアメリカ人のよりどころである自由や平等、民主主義と云った理想を破壊しつつあると懸念していたのです。
アメリカは1880年代までは海外への膨張意欲を露骨には示していませんでした。どちらかといえば、新大陸における覇権の確立に注力していたのです。1889年第1回汎米会議をワシントンで開催します。この会議の目的は新大陸からヨーロッパ列強を排除し、アメリカのヘゲモニーを確立することにありました。
そして1893年1月ハワイで起きたクーデターに乗じて出兵、1898年7月1895年(〜1886年)ヴェネズエラにおけるイギリスとの紛争に関わりイギリスの譲歩を引き出し、1898年米西戦争勝利でハワイ併合を併合、フィリピンも買収します。そして1900年7月アメリカ国務長官ジョン・ヘイは、ヨーロッパ列強に対し、清国の門戸解放の機会均等を主張するのです。左は米西戦争でアメリカが獲得した旧スペイン領です。
1901年5月同じく米西戦争で獲得したプエルトリコについて、アメリカ合衆国憲法の完全な適用を受けない「非編入領土」と位置付ける判決を下します。そしてこの考え方は翌1902年に制定されるフィリピン組織法でも踏襲され、フィリピンの人々は、プエルトリコ島民と同様に、アメリカの統治下にありながらアメリカ市民権を持たない、いわゆる「合衆国人」として編入されることになります。このようにラテン・アメリカへの覇権を強化し、極東への橋頭堡を固め、カリブ海から太平洋、極東へと広がる当初植民地帝国を形成していくのです。
1901年12月、セオドア・ルーズベルトは年次教書を発表します。その内容は、「西半球のどの国も、合理的な能率と品位を以て社会的、政治的問題を処理し、秩序を守り義務を果たす限りは干渉を恐れる必要はない。合衆国はモンロー主義を厳守していこうとしているが、文明社会との結びつきを緩める結果をもたらすような失政や無能力がはなはだしい場合には、不本意ながら国際警察力として行動しないわけにはいかない」と述べます。この場合の「文明社会」とはもちろん「アメリカ合衆国」のことです。このいわゆる「良き隣人」政策はその後の30年間にラテンアメリカやカリブ海での数多い干渉の口実になり、その大半はアメリカの実業界の利益を守るために使われていきます。
アメリカは大西洋と太平洋を繋ぐ運河の代替ルートとしての可能性からニカラグアに介入して1912年から1933年まで軍事的占領が行い、1915年にはハイチを軍事占領し、ドイツによる諸島侵略の可能性を理由に、19年間(1915年-1934年)ハイチ占領を行い、さらに1916年にはドミニカ共和国を占領しました。
19世紀アメリカ工場労働者の生活は、現在のアメリカ合衆国工場労働者の生活に比べ、容易なものではありませんでした。賃金はヨーロッパと比べて2倍と高かったのですが、労働条件は過酷でゆとりはありませんでした。1873年と1893年には国内を恐慌が覆い、賃金は下がり、失業率が上がり不完全雇用率も上昇しました。
こうした状況の中、労働者たちの権利を獲得しようとする労働組合運動がおこります。労働組合運動は工業化の尺度と言われます。組合運動は最初イギリスで起こります。1868年全国労働組合大会が開催され、全国の組合員数は25万人に上りました。次いでドイツで、そしてフランスで組織ができていきます。そしてアメリカでの最初の大きな動きは1869年に結成された労働騎士団(ナイツ・オブ・レーバー:Knights of labor)だったといわれます。これは元々フィラデルフィアの衣料労働者によって組織化された秘密の儀礼的組織でしたが、アフリカ系アメリカ人、女性および農夫などあらゆる労働者に門戸が開かれていました。このナイツ・オブ・レーバーは1885年のストライキでは鉄道貴族といわれたジェイ・グールドを屈服させるくらいにまで成長していました。そしてこのことからさらに会員を増やし、翌1886年には新たに50万人の労働者が加盟しました。 しかし、ナイツ・オブ・レーバーは間もなく衰退し、労働運動の中心は新た1886年に結成されたAFL(アメリカ労働組合連合)に移っていきます。葉巻製造会社の元組合役員だったサミュエル・ゴンパーズが指導したアメリカ労働総同盟は、全ての労働者を対象にするのではなく、熟練労働者に焦点を当てました。ゴンパーズの目的は純粋かつ単純で、賃金を増やし、労働時間を減らし、労働環境を改善することでした。この考えは初期の労働指導者たちが信奉した社会主義的見解から距離を置いたもので、国内で次第に認められる組織にはなっていきましたが、未熟練労働者については何の活動も行いませんでした。
19世紀後半西部の開拓が進み、開拓者たちが西部に進めば進むほど、その産品を市場に送り出すためには独占的鉄道への依存率が上がっていきます。同時に農夫たちは工業生産品に高い代金を払わされ続けます。これは東部の工業資本家に支えられた連邦政府の保護関税政策が長く維持されたためでした。そして次第に中西部や西部の農民たちは、その土地の抵当権を持っている銀行に大きな借金を背負うようになっていきます。
19世紀末最後の30年間に行われた技術革新による機械化と工業化は農村から都市への人口の大量流入を引き起こしました。この年に流入した人々が「大衆」と呼ばれるようなこれまでにない「層」を形成していきます。この「大衆」というそうの形成には「教育」の普及が不可欠でした。
実は、1860年代初めころ、ヨーロッパやアメリカでも「読み・書き」ができない者が国民の大半を占めていました。イギリスでは男性の三分の一、女性の二分の一は読むことも書くこともできませんでした。フランス、ベルギ―では全人口の半分、イタリア、スペインでは四分の三、ロシアとバルカン諸国では90%が「読み・書き」ができませんでした。ではなぜこの時代教育は必要となったのでしょうか?
1.工業化
まず、工業化が進み機械化が進むことで、労働者に「読み・書き」、「加減乗除」程度の初等教育が求められるようになったのです。これまで職人の親方が弟子にマン・トゥ・マンで技術を伝えるのではなく、未熟練労働者に作業手順などを書いた紙を渡しそれに従って機械を操作すれば、生産や加工ができるという時代になって来たのです。その場合労働者が「読み・書き」出来なければ非常に効率が低いものになります。
2.都市化
人口の稠密な都市ではより敏速な社会活動、経済活動が求められます。そのような活動形態に対応できるには、ある程度の知識は必要です。
3.時代の潮流
当時の知的自由主義の思想潮流もその普及に貢献しました。
4.人道的自由主義者の主張
また当時の人道的自由主義者達は、万人に平等な初等教育を国が行うことによって、機会均等を図るべきであると主張しました。
また戦時に当たっても、「読み・書き」もできない暗愚の民よりも、指令書を書けば下々まで伝わるような軍隊が望ましく、教育水準の高い国の方が戦争も強いと考えられるに様になったのです。その結果各国の「読み」「書き」のできる人の割合は急速に増加します。
1900年時点でイギリスの95%、フランスも95%、ベルギーは86%が「読み・書き」が出来るようになります。つまり20世紀の初めにはこれらの国のほとんどの人が「読み」「書き」ができるようになっていたのです。ただしオーストリア、イタリア、ハンガリー、スペイン、ポルトガル、ロシアではかなり遅れが生じていました。
こういった下地ができたことでジャーナリズムも成り立つようになります。ヨーロッパ全体で1828年に発行されていた新聞の数はおよそ2200紙でしたが、それが1900年には12000紙に達するようになります。アメリカで「大衆新聞」隆盛のきっかけを作ったのがユダヤ人のジョゼフ・ピューリッツァ―です。彼は1883年「ニューヨーク・ワールド」(写真左)を買収し全米一の読者数を誇る新聞に発展させました。
また文学において19世紀末は、現代でも読み継がれる文学的古典の名作も数多く登場しました。その代表はエミール・ゾラ、フローベール、トルストイ等々ですが、これらは知識階級のもので、一般大衆が好んだのは探偵小説でした。これに先鞭をつけたのが、アメリカのエドガー・アラン・ポーです(写真右:1840年代)。そしてイギリスにはコナン・ドイルが登場し、彼が1880〜90年代に発表したシャーロック・ホームズ物は大人気を博しました。
他にはスティーヴンソンの冒険小説「宝島」(1883)、怪奇小説「ジキル博士とハイド博士」(1886)、『ジャングル・ブック』(1894)、空想科学小説「海底二万哩」(1870)、ウエルズ「透明人間」(1895)などが執筆されます。
アメリカ以外の文学では、フランスの象徴派といわれる詩人ステファヌ・マラルメ、そしてヴェルレーヌ、アルチュール・ランボー、イギリスのオスカー・ワイルド、ベルギーのメーテルリンクなどが素晴らしい作品を残します。
絵画では「印象派」と呼ばれる画家たちが活躍します。フランスのマネーなどが有名です。また後期印象派は、セザンヌに始まると言われるそうです。
音楽においてはドビュッシー、ラヴェル等の印象派そしてシェーンベルク(1874〜1951)等も活動を開始しています。
1840年から1920年の間に、前例になく多様な移民の波がアメリカ合衆国に到着し、総数は約3,700万人に上りました。彼らは様々な地域からやって来ました。およその内訳は、ドイツ人600万人、アイルランド人450万人、イタリア人475万人、イングランド、スコットランドおよびウェールズ合わせて420万人、オーストリア=ハンガリー帝国から420万人、スカンディナヴィアから230万人、ロシア人330万人(大半がユダヤ人、およびポーランド人とリトアニア人はカトリック教徒)でした。大半の者たちはニューヨーク港を通って入国し、1892年からはエリス島の移民ステーションからとなりましたが、様々な民族集団が異なる場所に入って行きました。ニューヨークなど東海岸の大都市はユダヤ人、アイルランド人およびイタリア人が多く固まり、ドイツや中央ヨーロッパの出身者は中西部に移動して、工業や鉱業で職を得ました。同時に100万人のフランス系カナダ人がカナダからニューイングランドへ移民してきました。
この時にイタリアから移住してきた移住者の中に後に「アメリカ・マフィア」を形成する者たちが含まれていました。
このようにヨーロッパを中心とする他の大陸から前例の無いような移民の波が訪れ、安い工場労働力を提供し、カリフォルニア州のようなまだ開発が進んでいなかった地域では、多様な地域社会を形成しました。また急激な工業の発展と人口の拡大は、少なからず問題も発生させました。工場における労働者の虐待が暴力を伴う労働運動を生むようになっていきます。工業における虐待慣習によって労働運動は暴力的な様相を示すようになっていきます。
移民はアイルランドのジャガイモ飢饉のような貧窮や宗教あるいは政治的迫害によって母国から押し出され、逃れてきた者も多くいました。彼らはまた仕事を得る機会が多くありそうであることや親族との繋がりでアメリカに惹き付けられたのです。
こうした人々も故郷の文化(その中には音楽も含まれます)を米国に持ち込んだのです。20世紀になってニューヨークで花開いたミュージカルやレビューの作曲家たちの顔ぶれを見るとその多くが新移民1世か2世です。アーヴィング・バーリン(写真右)はロシアから幼い時にやって来たユダヤ系、ジョージ・ガーシュインもユダヤ系ロシア人の息子です。ジャズ・ミュージシャンや歌手にも新移民系は多く、20世紀前半の大スターだったアル・ジョルソンはユダヤ系、ベニー・グッドマンもユダヤ系、フランク・シナトラはイタリア系です。
こうした新移民の増加に加え、南北戦争後数多くの南部黒人や南部白人が北部の都市に移住してきました。合衆国の都市と農村の人口比率は、1840年代には「都市1:農村9」だったのが、19世紀後半から都市が増えていき、「都市52%:農村48%」に逆転してしまいます。
新移民と黒人の、アメリカ社会への登場こそが、ジャズを含むアメリカン・ポピュラー・ミュージック誕生の最大の契機だったのだというのが村井氏(『あなたの聴き方を変えるジャズ史』)の見解です。
移民の大半が歓迎された一方でアジアからの移民はそうではありませんでした。鉄道建設のために多くの中国人が西海岸に到着しましたが、彼らはヨーロッパからの移民とは異なり、全く異なる文化の一部と見られたのです。カリフォルニア州など西部で激しい反中国人暴動が起こった後で、連邦政府は1882年に中国人排除法を成立させるに至ります。1907年の非公式合意により、紳士協定で日本人の移民も止められました。
1901年12月のルーズベルトの年次教書において、敢えて触れらなかった重要問題があります。それが人種問題です。ルーズヴェルトは、南部民主党一党支配を切り崩す目的から、黒人指導者ブッカー・T・ワシントン(写真左)と親交を結び、大統領昇進後の10月16日、彼を正式な晩餐に招待しました。この晩黒人で初めてホワイトハウスの賓客となったワシントンは、ルーズヴェルトの家族と食卓を囲みます。そしてこのことを伝える翌日のプレスがリリースされるとルーズヴェルトに対する苛烈な政治バッシングを巻き起こすのです。結局大統領の人種問題への対処は非公式なコミュニケーションの形を取らざるを得なくなります。これが当時の現実です。このような政治のメインストリームにおける人種問題の不可視化は、1890年に南部に確立したジム・クロウ体制や黒人投票券収奪が革新主義やニュー・ディールの革新政治と共生していくことを可能にしていくのです。
スポーツ界において重要なのは、ボクシングのジャック・ジョンソンと少し時代は下りますが、野球のジャッキー・ロビンソンでしょう。
ジャック・ジョンソン(Jack Johnson:1878〜1946)はヘヴィー級ボクサーで黒人として初めてヘヴィー級チャンピオンの座につきました。当時は黒人のヘビー級チャンピオンが世界チャンピオンは別で、世界チャンピオンは白人であり、カラー・ラインという制度を利用されれば黒人は世界チャンピオンに挑戦できませんでした。ジョンソンは1903年黒人チャンピオンになりますが、世界チャンピオンだったジェイムズ・ジェフリーズがカラー・ラインを利用して対戦を拒否していたため、世界チャンピオンに挑戦することは出来ませんでした。しかしジェフリーズが無敗のまま引退し、チャンピオンになっていたトミー・バーンズにあらゆる手段を使って挑戦し、1908年オーストラリアで世界タイトルマッチに開催にこぎつけます。そしてバーンズを倒し念願の世界ヘヴィー級チャンピオンの座に就くのです。しかし1910年白人の無敗の元チャンピョン、ジム・ジェフリーズが「白人が黒人よりも優れていることを証明するため」と宣言して復帰して、ジャクソンに挑戦します。結果はジャクソンは15ラウンドの死闘の上についにノックアウトしてチャンピオンの座を守ります。この試合は大変なことになります。いつも自分たちを虐めまくっている白人たちの代表を我らがヒーローが殴り倒す、こんな痛快なことはなかったでしょう。しかしこの試合の後KKKが暴動を起こし、会場には火が放たれ、10人以上の死者が出ます。またこの試合の波紋は全米に広がり、25の州の50以上の都市で暴動がおこり少なくとも23人の黒人と2人の白人が死亡、負傷者は数百人という大事件に発展しました。
また彼の伝記映画が1970年に作成され、マイルス・ディヴィスが音楽を担当したことも話題になりました。
ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson:1919〜1972)
1870〜80年代にプロ化した野球では、当初黒人もプレーしていましたが、1889年黒人排除が決定されます。黒人たちは黒人プロ野球リーグ(ニグロ・リーグ)を結成、1900年には5チームが参加して行われました。そして約半世紀がたった1947年ブルックリン・ドジャースが「ジャッキー・ロビンソンをメジャー・チームに昇格させる」と発表します。チームメイトの中には彼とプレイするのを嫌い移籍するもの、彼のいるチームとの対戦を拒否するチームも現れ大変な差別を受けます。しかし彼とチームは辛抱強く堪え続け、彼自身も首位打者を獲得するなど活躍を続けます。
すると、他の黒人選手もメジャー・リーグでプレイするようになり、ニグロ・リーグはなくなります。MLBは長らくニグロ・リーグの記録を認めてきませんでしたが、2020年「私たちが間違っていた」と認め、彼らの記録をMLBの公式記録に加えることを発表しました。
1870年代末から黒人たちはレコンストラクションの間に得ていた多くの公民権を失い、次第に人種差別を受けるようになって行ったことはすでに述べました。リンチや黒人に対する人種暴動など差別主義者による暴力が増し、南部州における黒人たちの生活水準が著しく後退します。1877年妥協の後で成立したジム・クロウ法、およびクー・クラックス・クランの勃興が社会不安の重要な要因になっていきます。1879年には既に中西部に向けての脱出を決心した黒人たちが多く、第一次世界大戦前に始まった大移住の間にこの動きが激しくなりました。
1896年、合衆国最高裁判所は「プレッシー対ファーガソン事件」判決で、人種分離と「分離すれども平等」原理を支持して、アメリカ合衆国憲法修正第14条と同第15条を実質的に無効にしてしまいます。19世紀に白人が他の全てに対して優れているという誤った概念が科学的思考の潮流になってしまいます。そうして素人の人類学者かつ優生学者で、ニューヨーク動物学協会の会長であるマディソン・グラントは、1906年にニューヨーク市のブロンクス動物園でコンゴ・ピグミー族のオタ・ベンガを猿やその他の動物と共に展示するという暴挙を行います。グラントの命令で動物園の支配人はオタ・ベンガをオランウータンと同じ檻に入れて「失われた環」と表示し、進化論の中でオタ・ベンガのようなアフリカ人はヨーロッパ人よりも猿に近いという仮説を演出したのです。
南部州においては、1900年には裁判にける裁判官、保安官、陪審員も白人が独占し、1906年黒人の参政権剥奪が完了します。これで白人支配層は「人種エチケット」を守らないとみなされた黒人には、暴力を振るえることになってしまいます。
ではその「人種エチケット」にはどのようなものがあったのでしょうか?
・黒人男性は白人女性の目を見つめない
・白人と道ですれ違う場合には帽子を取って端による
・白人の家には裏口から入る
・商店で白人客がいる場合、店員が白人と対応し終わるまで待つ
・衣服店では試着をしない
・白人を呼ぶ場合には、「旦那様」、「奥様」などの敬称をつける
等々である。
1899年ジョージア州ニューマンにおいて行われたあるリンチでは、特別列車が仕立てられ、見物にやって来た子供を含む2000人の群衆の前で、リーダーが「犯人」の耳、指、性器を切り取り、生きたまま火をつけました。そして人々は土産として体の一部を持ち帰ったと言います。
南部で起きた黒人リンチの大半は、何らかの形で白人女性と黒人男性の性的関係を根拠にしていたと言います。「性的野獣」黒人男性から白人女性の純潔を守ることは、白人男性の責務であり、リンチの正当化の根拠とされたのです。
「性的野獣」と言われ黒人男性がリンチの対象になる中、前面に立って戦った女性もいました。代表はアイダ・B・ウエルズです。彼女はミシシッピ州で生まれ、在学中に両親を失い、弟や妹を養うため学校を辞め、16歳で教師を始めます。1883年弟、妹を連れてメンフィスに移り再び教師になりますが、そこで人種隔離に挑戦する行動に出ます。ウエルズは列車の白人席に乗り込みますが、白人の男たちに力ずくで引きずり降ろされてしまいます。その一部始終を黒人教会新聞「リビング・ウェイ」に投稿し、裁判闘争を始めたのです。
彼女は黒人新聞を通じて人種隔離を批判する論陣を張り続け、1892年メンフィスで起こったリンチ事件をきっかけにジャーナリストとして反リンチ運動の先頭に立ちました。その事件とは、雑貨商で成功していた3人の黒人が、白人商人たちの襲撃を受け、反撃したことから始まりました。3人の黒人は逮捕され拘置所に入れられましたが、白人暴徒が拘置所を襲い、彼ら3人をリンチした後で、彼らの店を破壊し略奪したのです。彼女はメンフィスの白人社会に抗議し、黒人たちにメンフィスを出るよう呼びかけ、間もなく約6000人の黒人がメンフィスを離れました。そして残った黒人は白人商店をボイコットし、白人社会に抗議したのです。
彼女は全国各地を講演して回り、事実調査を行い『南部の恐怖―リンチ支配のすべて』(1893年)を出版しました。そこには成功した黒人が狙われやすいことや黒人男性と白人女性との性的関係は多くの場合合意の下で行われていることが書かれていました。これに対し白人たちは彼女のオフィスを襲撃し、彼女はシカゴに非難しなければなりませんでした。また反リンチ運動を全国で支えたのは「黒人女性クラブ」でした。この団体は1895年月刊誌『女性の時代』を創刊、そして1896年には全国黒人女性協会が結成されます。
一方デュボイス、ボストンの黒人新聞「ガーディアン」によって黒人差別撤廃運動を続けていたウィリアム・モンロー・トロッター、ジョージ・フォーブス達約30人の急進的な黒人知識人は、1905年7月ついにナイヤガラ瀑布付近のカナダ領フォートエリーに集まって第1回目の会合を開きます。この地は、かつて地下鉄道(Underground railroad)の終着駅として、多くの逃亡奴隷たちが安どの息をついた歴史的な場所でした。そしてこの時、この場所でいわゆる「ナイヤガラ宣言」が採択されるのです。それは、一切の黒人差別に反対し、「不屈の精神をもって絶えず世論を喚起するすることこそ解放への道である」と、同胞黒人たちに、差別撤廃闘争に立ち上がるように呼び掛けるものでした。彼らは翌1906年今度はかつてジョン・ブラウンの蜂起の土地ハーパーズフェリーで第2回目の会合を開いたのです。彼らの運動は第1回目の会合の地をとって「ナイヤガラ運動」と呼ばれます。
全国黒人向上協会(National Association for the Advancement of Colored People:一般にNAACPと略)の発足は、1908年イリノイ州スプリングフィールドで起こった大規模な人種暴動に端を発しています。お寄せいただいたご意見等は本文にて取り上げさせていただくことがあります。予めご了承ください。