そもそもアメリカと黒人 11 19世紀から20世紀

国際情勢

ヨーロッパ

19世紀ヨーロッパ地図

19世紀末から20世紀初めにかけても世界を動かしていた中心はヨーロッパでした。そのヨーロッパでは、各国が自国の安定と勢力の拡大を目指して非常に不安定な状況にありました。その最大の火種といえば、バルカン半島を中心とした東ヨーロッパ地域でした。南下を目論むロシアは1877年トルコに攻め込みます。露土戦争です。とそれを阻もうとするイギリスの対立もトルコへの干渉を強めます。そしてその決着をつけるべく国際会議がビスマルクの主導の下ベルリンで開かれます。そこでその後の領土体制が決められます(ビスマルク体制)が、もちろんどの国もいろいろな思惑があり、満足しての決着というわけではありませんでしたし、勝手に領土を分割されたバルカン半島の人々の怒りもありました。またそこにナポレオン時代からの混乱から復興してきた大国フランスも加わり混迷を深めながら帝国主義の時代へと向かっていくのです。

1913年アフリカ地図

ヨーロッパ列強によるアフリカの分割

ヨーロッパ列強は、帝国主義政策を強め、アフリカ、アジアでの植民地の獲得にしのぎを削ります。そして1884〜85年ベルリンでアフリカの植民地会議が行われ、勝手にアフリカの領土分割を討議するのです。その結果1893年フランスはアフリカ西部、ダホメ王国を征服、植民地化し、1896年にはイギリスはアシャンティ王国を征服、植民地化します。両国とも奴隷貿易で?栄していた国です。これらによって19世紀中にアフリカに黒人国はなくなってしまい、19世紀の終わりにはアフリカ全大陸の9割が植民地となってしまいます。

ヨーロッパによるアジアへの進出

アジア各国への列強の進出は続いていました。特に大国である中国に対してイギリスはすでに1839〜42年のアヘン戦争の勝利によって、清国への進出基盤を固めていましたが、フランスも1884〜85年清仏戦争などにより進出を積極化し、日本も1894〜95年の日清戦争で進出の意欲を示し、ドイツも1897年膠州湾を占領し、清国の列強分割が進行します。

20世紀幕開け期のアメリカ

科学技術の推進と工業化の進行

スピンドルトップの油井

19世紀末から20世紀初頭にかけては、次々に開発される科学技術とそれを活かした製品、そしてそれを作る製造技術がこれまでにないような急速な発展を遂げた時代です。まさに現代社会の基礎となるような工業化が行われた時代だと思います。
通信では、1876年グラハム・ベルが「電話」を発明し、1896年にはイタリア人マルコーニが無線電信装置を発明します。19世紀前半に発明されていた写真技術を改良して、1888年にはコダックが小型写真機発売を発明し、1893年エディソンは映写機(キネトスコープ)を作り、フランスのリュミエール兄弟はカメラ、映写機、プリンターの複合機を1895年パリで開催された科学振興会で公開します。1887年ドイツのダイムラーは小型内燃機関を四輪車に取りつけること、つまりは4輪の自動車を考案します。
その他挙げれば切りがありませんが、僕が気になるのはやはり「ジャズ」に関連することです。実はこの時代に現代でも使われている、録音そして再生というレコードに関する技術、そしてラジオ、それに何よりもそれらを支える電気に関する技術が開発され、ものすごいスピードで普及しているのです。1880年代からアメリカでは配電システムが普及し、途中エディソンの直流とジョージ・ウエスティングス、ニコラス・テスラ陣営の交流による「電流戦争」があったようですが、1920年代にはかなりの部分の家庭まで、電気は行き渡るようになります。現在我々の家庭では、各部屋に据え付けてあるコンセントまで電気が届いていて、電気器具のソケットを差し込めばその器具が使えるのは当たり前になっていますが、このシステムというのはものすごいものだと思うのです。これがなければレコードも聴けず、ラジオも聴けず、ジャズがここまで普及したかどうか分かりません。 1913年フォードの工場 このように1900年の時点でアメリカは既にGNP200億ドルを誇る世界最大の工業国でしたが、さらに拍車がかかるような大変重要な出来事が起こります。1901年1月に、テキサス州スピンドルトップ丘陵で史上最大級の油田(写真右)が発見され、空前の石油ブームが巻き起こります。続く2月にはモルガン系とカーネギー系の鉄鋼会社が合併しUSスチィールという巨大企業が出現しました。そして1902年ヘンリー・フォードは自動車会社設立、翌年大衆車構想を発表します。フォードの自動車製造工場は流れ作業を取り入れたオートメーション工場の走りとなりました。

革新主義の時代

セオドア・ルーズヴェルト 20世紀への転換期から第一次世界大戦に至る時期のアメリカは、しばしば「革新主義の時代」と呼ばれます。急激な工業化がもたらした、資本の集中や都市化とその環境の悪化、移民の流入、貧富の格差といった問題が、若いアメリカ中産階級に広く危機意識を醸成し、自らを改革者意識を醸成し、自らを改革者或いは革新主義者と認じ、立ち上がる人々が続出したのです。こうした人々は、高度な資本主義社会の到来が、伝統的にアメリカ人のよりどころである自由や平等、民主主義と云った理想を破壊しつつあると懸念していたのです。
1901年3月4日前年に行われた大統領選の結果を受けて、共和党のウィリアム・マッキンリーが2期目の大統領に就任します。しかし就任後約半年後の9月6日ニューヨーク州バッファローで開催されていた博覧会会場で銃撃され、8日に死去します。この事態を受けて、3月に副大統領になったばかりのセオドア・ルーズヴェルト(写真左)が史上最年少、42歳の若さで第26代大統領に就任するのです。ルーズヴェルトは、米西戦争で活躍した英雄であり、自らを改革者と認じていました。この「改革者」を自認する若き指導者の誕生は、その後のアメリカを大きく規定することになります。

アメリカの対外政策
太平洋地図

アメリカは1880年代までは海外への膨張意欲を露骨には示していませんでした。どちらかといえば、新大陸における覇権の確立に注力していたのです。1889年第1回汎米会議をワシントンで開催します。この会議の目的は新大陸からヨーロッパ列強を排除し、アメリカのヘゲモニーを確立することにありました。
そして1893年1月ハワイで起きたクーデターに乗じて出兵、1898年7月1895年(〜1886年)ヴェネズエラにおけるイギリスとの紛争に関わりイギリスの譲歩を引き出し、1898年米西戦争勝利でハワイ併合を併合、フィリピンも買収します。そして1900年7月アメリカ国務長官ジョン・ヘイは、ヨーロッパ列強に対し、清国の門戸解放の機会均等を主張するのです。左は米西戦争でアメリカが獲得した旧スペイン領です。
1901年5月同じく米西戦争で獲得したプエルトリコについて、アメリカ合衆国憲法の完全な適用を受けない「非編入領土」と位置付ける判決を下します。そしてこの考え方は翌1902年に制定されるフィリピン組織法でも踏襲され、フィリピンの人々は、プエルトリコ島民と同様に、アメリカの統治下にありながらアメリカ市民権を持たない、いわゆる「合衆国人」として編入されることになります。このようにラテン・アメリカへの覇権を強化し、極東への橋頭堡を固め、カリブ海から太平洋、極東へと広がる当初植民地帝国を形成していくのです。
1901年12月、セオドア・ルーズベルトは年次教書を発表します。その内容は、「西半球のどの国も、合理的な能率と品位を以て社会的、政治的問題を処理し、秩序を守り義務を果たす限りは干渉を恐れる必要はない。合衆国はモンロー主義を厳守していこうとしているが、文明社会との結びつきを緩める結果をもたらすような失政や無能力がはなはだしい場合には、不本意ながら国際警察力として行動しないわけにはいかない」と述べます。この場合の「文明社会」とはもちろん「アメリカ合衆国」のことです。このいわゆる「良き隣人」政策はその後の30年間にラテンアメリカやカリブ海での数多い干渉の口実になり、その大半はアメリカの実業界の利益を守るために使われていきます。
アメリカは大西洋と太平洋を繋ぐ運河の代替ルートとしての可能性からニカラグアに介入して1912年から1933年まで軍事的占領が行い、1915年にはハイチを軍事占領し、ドイツによる諸島侵略の可能性を理由に、19年間(1915年-1934年)ハイチ占領を行い、さらに1916年にはドミニカ共和国を占領しました。

市民生活

工場労働者
ジョン・ロックフェラー 19世紀アメリカ工場労働者の生活は、現在のアメリカ合衆国工場労働者の生活に比べ、容易なものではありませんでした。賃金はヨーロッパと比べて2倍と高かったのですが、労働条件は過酷でゆとりはありませんでした。1873年と1893年には国内を恐慌が覆い、賃金は下がり、失業率が上がり不完全雇用率も上昇しました。
同時に全国の生産性を上げた技術の改良が継続的に熟練労働の需要を減らし、未熟練労働者の需要が増加しました。さらに1880年から1910年までに前例の無いような1,800万人の移民がアメリカ合衆国に押し寄せ、仕事を求めた結果未熟練労働者の予備軍は常に増加し続けたのです。
1874年以前はこの国で事実上労働に関する規制がありませんでした。この年、マサチューセッツ州が女性と子供の工場労働者は1日10時間に労働時間を制限する最初の法律を定めます。しかし、この件に連邦政府が積極的に関わったのは1930年代になってからでした。その時代まで労働条件は州や自治体の当局に任され、富裕な工業資本家に対するように労働者に対応できる役人はほとんど居なかったのです。
富裕な工業資本家の代表的な存在であるジョン・ロックフェラー(写真左)は、「大企業の成長は単に最も適応できるものが生き残ることである」と言ったといわれています。「社会ダーウィン主義」として知られるこの考え方は、事業を規制しようという如何なる試みも種の自然進化を遅らせるだけのものであると主張する多くの富裕層に支持されました。
こうした考えを反映して何百万もの労働者の生活と労働条件はお粗末なもので、生涯貧乏から逃れる望みは僅かなものでした。移民労働者は混み合った不潔な賃貸住宅に住んでいました。こうした工業化がアメリカの労働者の貧窮度を固定してしまっていることは、「百万長者の宮殿と労働者の小屋の対照」と言ったアンドリュー・カーネギーのような企業指導者ですら認めていたほどです。カーネギーのその高貴な感覚にも拘わらず、その工場での労働条件は他より良いわけではありませんでした。1900年には既にアメリカ合衆国の労働に関わる死亡率は世界の工業化されたどの国よりも高くなっていたのです。工場労働者の大半は1日10時間(鉄鋼産業では12時間)働き、生活に必要な賃金の20%から40%少ないものしか得られなかったといいます。この状況は1870年から1900年の間に2倍になっていた児童労働者の場合はさらにひどいものでした。 イギリスの労働争議 こうした状況の中、労働者たちの権利を獲得しようとする労働組合運動がおこります。労働組合運動は工業化の尺度と言われます。組合運動は最初イギリスで起こります。1868年全国労働組合大会が開催され、全国の組合員数は25万人に上りました。次いでドイツで、そしてフランスで組織ができていきます。そしてアメリカでの最初の大きな動きは1869年に結成された労働騎士団(ナイツ・オブ・レーバー:Knights of labor)だったといわれます。これは元々フィラデルフィアの衣料労働者によって組織化された秘密の儀礼的組織でしたが、アフリカ系アメリカ人、女性および農夫などあらゆる労働者に門戸が開かれていました。このナイツ・オブ・レーバーは1885年のストライキでは鉄道貴族といわれたジェイ・グールドを屈服させるくらいにまで成長していました。そしてこのことからさらに会員を増やし、翌1886年には新たに50万人の労働者が加盟しました。 しかし、ナイツ・オブ・レーバーは間もなく衰退し、労働運動の中心は新た1886年に結成されたAFL(アメリカ労働組合連合)に移っていきます。葉巻製造会社の元組合役員だったサミュエル・ゴンパーズが指導したアメリカ労働総同盟は、全ての労働者を対象にするのではなく、熟練労働者に焦点を当てました。ゴンパーズの目的は純粋かつ単純で、賃金を増やし、労働時間を減らし、労働環境を改善することでした。この考えは初期の労働指導者たちが信奉した社会主義的見解から距離を置いたもので、国内で次第に認められる組織にはなっていきましたが、未熟練労働者については何の活動も行いませんでした。
この未熟練労働者の待遇改善という目標は、企業経営者の認めたがらないもので、アメリカ合衆国の歴史の中でも最も激しい労働争議に繋がっていきます。その最初のものが1877年の鉄道大ストライキであり、国中の鉄道労働者が経営者の賃金10%カットに反応してストライキを行いました。スト破りを行ったことでボルティモア、シカゴ、ピッツバーグ、バッファロー、およびサンフランシスコなど幾つかの都市では流血を伴う暴動に繋がっていきます。
このように一般労働者の生活状態も決して好転しませんでした。ビジネス黄金時代と言われたこの時期、人口1億2000万人中8500万人が貧困層だったという矛盾が起こっていました。

農民
1890年代の綿花農場で働く黒人たち 19世紀後半西部の開拓が進み、開拓者たちが西部に進めば進むほど、その産品を市場に送り出すためには独占的鉄道への依存率が上がっていきます。同時に農夫たちは工業生産品に高い代金を払わされ続けます。これは東部の工業資本家に支えられた連邦政府の保護関税政策が長く維持されたためでした。そして次第に中西部や西部の農民たちは、その土地の抵当権を持っている銀行に大きな借金を背負うようになっていきます。
また南部では、南北戦争後奴隷制度はなくなり、小作農が種や生活必需品と引き換えに土地所有者に収穫品の半分を渡すというシェア・クロッピング制度が行われるようになりました。推計では南部のアフリカ系アメリカ人農夫の80%、および白人農夫の40%はこの仕組みの下で生活せざるをえないことになりました。シェア・クロッパーの大半は借金の循環に閉じ込められ、そこから唯一逃げ出す手段は収穫量を上げることでした。しかしこのことは綿花やタバコの生産過剰に繋がり(販売価格の低下と収入の減少に繋がる)、土地は疲弊し、土地所有者も小作人も貧乏になる者が多かったのです。
一般的な農業問題に対処しようとした最初の組織的な動きは農民共済組合の組織化でした。すでに1867年にアメリカ合衆国農務省職員によって始められたこの動きは、当初大半の農家が経験していた孤立化に対抗する社会運動になっていきます。女性の参加が積極的に奨励され、1873年恐慌で加速された組合運動は2万の支部と150万人の組合員数を誇るようになります。農民共済組合はその大半は結局失敗しましたが、独自の市場、店舗、加工工場および協同組合を設立に繋がっていきます。また1870年代には幾らかの政治的成功も収めます。幾つかの州は農民共済組合法を成立させ、鉄道と倉庫の料金を制限することに成功します。
1880年までに農民共済組合運動は衰退し始め農夫同盟に変わっていきます。1890年までにこの同盟はニューヨーク州からカリフォルニア州まで約150万人の会員を集めます。これと並行してアフリカ系アメリカ人の組織である有色人農夫全国同盟は100万人以上の会員数に上りました。
農夫同盟はその開始時点から精巧な経済プログラムを持った政治的組織でした。初期の政治綱領に拠れば、その目的は「アメリカの農夫を階級的立法や忍び寄る集中資本から保護するために団結させる」ことでした。そのプログラムは鉄道を完全に国有化できなければ規制し、借金を返し易くするためにインフレを助長し、関税を下げ、政府が所有する倉庫や低料金の賃貸施設を設立することも要求しました。
1880年代後半、一連の旱魃が西部を襲います。4年間でカンザス州の西部は人口の半分を失ってしまいます。事態をさらに悪くしたのは1890年のマッキンリー関税で、これはこれまでになく高い関税でした。これが農機具の価格を上げアメリカの農夫にとって大きな打撃となります。

大衆の登場

ニューヨーク・ワールド紙

19世紀末最後の30年間に行われた技術革新による機械化と工業化は農村から都市への人口の大量流入を引き起こしました。この年に流入した人々が「大衆」と呼ばれるようなこれまでにない「層」を形成していきます。この「大衆」というそうの形成には「教育」の普及が不可欠でした。
実は、1860年代初めころ、ヨーロッパやアメリカでも「読み・書き」ができない者が国民の大半を占めていました。イギリスでは男性の三分の一、女性の二分の一は読むことも書くこともできませんでした。フランス、ベルギ―では全人口の半分、イタリア、スペインでは四分の三、ロシアとバルカン諸国では90%が「読み・書き」ができませんでした。ではなぜこの時代教育は必要となったのでしょうか?
1.工業化
まず、工業化が進み機械化が進むことで、労働者に「読み・書き」、「加減乗除」程度の初等教育が求められるようになったのです。これまで職人の親方が弟子にマン・トゥ・マンで技術を伝えるのではなく、未熟練労働者に作業手順などを書いた紙を渡しそれに従って機械を操作すれば、生産や加工ができるという時代になって来たのです。その場合労働者が「読み・書き」出来なければ非常に効率が低いものになります。
2.都市化
人口の稠密な都市ではより敏速な社会活動、経済活動が求められます。そのような活動形態に対応できるには、ある程度の知識は必要です。
3.時代の潮流
当時の知的自由主義の思想潮流もその普及に貢献しました。
4.人道的自由主義者の主張
また当時の人道的自由主義者達は、万人に平等な初等教育を国が行うことによって、機会均等を図るべきであると主張しました。
また戦時に当たっても、「読み・書き」もできない暗愚の民よりも、指令書を書けば下々まで伝わるような軍隊が望ましく、教育水準の高い国の方が戦争も強いと考えられるに様になったのです。その結果各国の「読み」「書き」のできる人の割合は急速に増加します。 エドガー・アラン・ポー 1900年時点でイギリスの95%、フランスも95%、ベルギーは86%が「読み・書き」が出来るようになります。つまり20世紀の初めにはこれらの国のほとんどの人が「読み」「書き」ができるようになっていたのです。ただしオーストリア、イタリア、ハンガリー、スペイン、ポルトガル、ロシアではかなり遅れが生じていました。
こういった下地ができたことでジャーナリズムも成り立つようになります。ヨーロッパ全体で1828年に発行されていた新聞の数はおよそ2200紙でしたが、それが1900年には12000紙に達するようになります。アメリカで「大衆新聞」隆盛のきっかけを作ったのがユダヤ人のジョゼフ・ピューリッツァ―です。彼は1883年「ニューヨーク・ワールド」(写真左)を買収し全米一の読者数を誇る新聞に発展させました。
また文学において19世紀末は、現代でも読み継がれる文学的古典の名作も数多く登場しました。その代表はエミール・ゾラ、フローベール、トルストイ等々ですが、これらは知識階級のもので、一般大衆が好んだのは探偵小説でした。これに先鞭をつけたのが、アメリカのエドガー・アラン・ポーです(写真右:1840年代)。そしてイギリスにはコナン・ドイルが登場し、彼が1880〜90年代に発表したシャーロック・ホームズ物は大人気を博しました。
他にはスティーヴンソンの冒険小説「宝島」(1883)、怪奇小説「ジキル博士とハイド博士」(1886)、『ジャングル・ブック』(1894)、空想科学小説「海底二万哩」(1870)、ウエルズ「透明人間」(1895)などが執筆されます。
アメリカ以外の文学では、フランスの象徴派といわれる詩人ステファヌ・マラルメ、そしてヴェルレーヌ、アルチュール・ランボー、イギリスのオスカー・ワイルド、ベルギーのメーテルリンクなどが素晴らしい作品を残します。
絵画では「印象派」と呼ばれる画家たちが活躍します。フランスのマネーなどが有名です。また後期印象派は、セザンヌに始まると言われるそうです。
音楽においてはドビュッシー、ラヴェル等の印象派そしてシェーンベルク(1874〜1951)等も活動を開始しています。

移民問題

1902年 移民

1840年から1920年の間に、前例になく多様な移民の波がアメリカ合衆国に到着し、総数は約3,700万人に上りました。彼らは様々な地域からやって来ました。およその内訳は、ドイツ人600万人、アイルランド人450万人、イタリア人475万人、イングランド、スコットランドおよびウェールズ合わせて420万人、オーストリア=ハンガリー帝国から420万人、スカンディナヴィアから230万人、ロシア人330万人(大半がユダヤ人、およびポーランド人とリトアニア人はカトリック教徒)でした。大半の者たちはニューヨーク港を通って入国し、1892年からはエリス島の移民ステーションからとなりましたが、様々な民族集団が異なる場所に入って行きました。ニューヨークなど東海岸の大都市はユダヤ人、アイルランド人およびイタリア人が多く固まり、ドイツや中央ヨーロッパの出身者は中西部に移動して、工業や鉱業で職を得ました。同時に100万人のフランス系カナダ人がカナダからニューイングランドへ移民してきました。
この時にイタリアから移住してきた移住者の中に後に「アメリカ・マフィア」を形成する者たちが含まれていました。
このようにヨーロッパを中心とする他の大陸から前例の無いような移民の波が訪れ、安い工場労働力を提供し、カリフォルニア州のようなまだ開発が進んでいなかった地域では、多様な地域社会を形成しました。また急激な工業の発展と人口の拡大は、少なからず問題も発生させました。工場における労働者の虐待が暴力を伴う労働運動を生むようになっていきます。工業における虐待慣習によって労働運動は暴力的な様相を示すようになっていきます。
移民はアイルランドのジャガイモ飢饉のような貧窮や宗教あるいは政治的迫害によって母国から押し出され、逃れてきた者も多くいました。彼らはまた仕事を得る機会が多くありそうであることや親族との繋がりでアメリカに惹き付けられたのです。 アーヴィング・バーリン こうした人々も故郷の文化(その中には音楽も含まれます)を米国に持ち込んだのです。20世紀になってニューヨークで花開いたミュージカルやレビューの作曲家たちの顔ぶれを見るとその多くが新移民1世か2世です。アーヴィング・バーリン(写真右)はロシアから幼い時にやって来たユダヤ系、ジョージ・ガーシュインもユダヤ系ロシア人の息子です。ジャズ・ミュージシャンや歌手にも新移民系は多く、20世紀前半の大スターだったアル・ジョルソンはユダヤ系、ベニー・グッドマンもユダヤ系、フランク・シナトラはイタリア系です。
こうした新移民の増加に加え、南北戦争後数多くの南部黒人や南部白人が北部の都市に移住してきました。合衆国の都市と農村の人口比率は、1840年代には「都市1:農村9」だったのが、19世紀後半から都市が増えていき、「都市52%:農村48%」に逆転してしまいます。
新移民と黒人の、アメリカ社会への登場こそが、ジャズを含むアメリカン・ポピュラー・ミュージック誕生の最大の契機だったのだというのが村井氏(『あなたの聴き方を変えるジャズ史』)の見解です。
移民の大半が歓迎された一方でアジアからの移民はそうではありませんでした。鉄道建設のために多くの中国人が西海岸に到着しましたが、彼らはヨーロッパからの移民とは異なり、全く異なる文化の一部と見られたのです。カリフォルニア州など西部で激しい反中国人暴動が起こった後で、連邦政府は1882年に中国人排除法を成立させるに至ります。1907年の非公式合意により、紳士協定で日本人の移民も止められました。

人種問題

ブッカー・T・ワシントン 1901年12月のルーズベルトの年次教書において、敢えて触れらなかった重要問題があります。それが人種問題です。ルーズヴェルトは、南部民主党一党支配を切り崩す目的から、黒人指導者ブッカー・T・ワシントン(写真左)と親交を結び、大統領昇進後の10月16日、彼を正式な晩餐に招待しました。この晩黒人で初めてホワイトハウスの賓客となったワシントンは、ルーズヴェルトの家族と食卓を囲みます。そしてこのことを伝える翌日のプレスがリリースされるとルーズヴェルトに対する苛烈な政治バッシングを巻き起こすのです。結局大統領の人種問題への対処は非公式なコミュニケーションの形を取らざるを得なくなります。これが当時の現実です。このような政治のメインストリームにおける人種問題の不可視化は、1890年に南部に確立したジム・クロウ体制や黒人投票券収奪が革新主義やニュー・ディールの革新政治と共生していくことを可能にしていくのです。

黒人の中産階級の勃興と黒人たちの活躍

20世紀初頭には、黒人を主な顧客とする黒人経営の保険会社、新聞、床屋、美容院、葬儀屋などが定着しました。1891年黒人が経営する最初の病院プロヴィデント病院がシカゴにオープンします。そしてその後全国各地に作られていきます。
黒人のフィスク大学は1871年、ジュビリー・シンガーズを組織し、奴隷歌、霊歌と共にスティーヴン・フォスターの歌を取り入れて全国の白人、黒人の聴衆の前で歌い大成功をおさめ、ホワイトハウスでグラント大統領の前で歌い、またヨーロッパにも演奏旅行へ出かけ数十万ドル稼いだと言われます。

ジャック・ジョンソン

スポーツ界において重要なのは、ボクシングのジャック・ジョンソンと少し時代は下りますが、野球のジャッキー・ロビンソンでしょう。
ジャック・ジョンソン(Jack Johnson:1878〜1946)はヘヴィー級ボクサーで黒人として初めてヘヴィー級チャンピオンの座につきました。当時は黒人のヘビー級チャンピオンが世界チャンピオンは別で、世界チャンピオンは白人であり、カラー・ラインという制度を利用されれば黒人は世界チャンピオンに挑戦できませんでした。ジョンソンは1903年黒人チャンピオンになりますが、世界チャンピオンだったジェイムズ・ジェフリーズがカラー・ラインを利用して対戦を拒否していたため、世界チャンピオンに挑戦することは出来ませんでした。しかしジェフリーズが無敗のまま引退し、チャンピオンになっていたトミー・バーンズにあらゆる手段を使って挑戦し、1908年オーストラリアで世界タイトルマッチに開催にこぎつけます。そしてバーンズを倒し念願の世界ヘヴィー級チャンピオンの座に就くのです。しかし1910年白人の無敗の元チャンピョン、ジム・ジェフリーズが「白人が黒人よりも優れていることを証明するため」と宣言して復帰して、ジャクソンに挑戦します。結果はジャクソンは15ラウンドの死闘の上についにノックアウトしてチャンピオンの座を守ります。この試合は大変なことになります。いつも自分たちを虐めまくっている白人たちの代表を我らがヒーローが殴り倒す、こんな痛快なことはなかったでしょう。しかしこの試合の後KKKが暴動を起こし、会場には火が放たれ、10人以上の死者が出ます。またこの試合の波紋は全米に広がり、25の州の50以上の都市で暴動がおこり少なくとも23人の黒人と2人の白人が死亡、負傷者は数百人という大事件に発展しました。
また彼の伝記映画が1970年に作成され、マイルス・ディヴィスが音楽を担当したことも話題になりました。
ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson:1919〜1972)
1870〜80年代にプロ化した野球では、当初黒人もプレーしていましたが、1889年黒人排除が決定されます。黒人たちは黒人プロ野球リーグ(ニグロ・リーグ)を結成、1900年には5チームが参加して行われました。そして約半世紀がたった1947年ブルックリン・ドジャースが「ジャッキー・ロビンソンをメジャー・チームに昇格させる」と発表します。チームメイトの中には彼とプレイするのを嫌い移籍するもの、彼のいるチームとの対戦を拒否するチームも現れ大変な差別を受けます。しかし彼とチームは辛抱強く堪え続け、彼自身も首位打者を獲得するなど活躍を続けます。
すると、他の黒人選手もメジャー・リーグでプレイするようになり、ニグロ・リーグはなくなります。MLBは長らくニグロ・リーグの記録を認めてきませんでしたが、2020年「私たちが間違っていた」と認め、彼らの記録をMLBの公式記録に加えることを発表しました。

人種問題の悪化

クー・クラックス・クラン

1870年代末から黒人たちはレコンストラクションの間に得ていた多くの公民権を失い、次第に人種差別を受けるようになって行ったことはすでに述べました。リンチや黒人に対する人種暴動など差別主義者による暴力が増し、南部州における黒人たちの生活水準が著しく後退します。1877年妥協の後で成立したジム・クロウ法、およびクー・クラックス・クランの勃興が社会不安の重要な要因になっていきます。1879年には既に中西部に向けての脱出を決心した黒人たちが多く、第一次世界大戦前に始まった大移住の間にこの動きが激しくなりました。
1896年、合衆国最高裁判所は「プレッシー対ファーガソン事件」判決で、人種分離と「分離すれども平等」原理を支持して、アメリカ合衆国憲法修正第14条と同第15条を実質的に無効にしてしまいます。19世紀に白人が他の全てに対して優れているという誤った概念が科学的思考の潮流になってしまいます。そうして素人の人類学者かつ優生学者で、ニューヨーク動物学協会の会長であるマディソン・グラントは、1906年にニューヨーク市のブロンクス動物園でコンゴ・ピグミー族のオタ・ベンガを猿やその他の動物と共に展示するという暴挙を行います。グラントの命令で動物園の支配人はオタ・ベンガをオランウータンと同じ檻に入れて「失われた環」と表示し、進化論の中でオタ・ベンガのようなアフリカ人はヨーロッパ人よりも猿に近いという仮説を演出したのです。
南部州においては、1900年には裁判にける裁判官、保安官、陪審員も白人が独占し、1906年黒人の参政権剥奪が完了します。これで白人支配層は「人種エチケット」を守らないとみなされた黒人には、暴力を振るえることになってしまいます。
ではその「人種エチケット」にはどのようなものがあったのでしょうか?
・黒人男性は白人女性の目を見つめない
・白人と道ですれ違う場合には帽子を取って端による
・白人の家には裏口から入る
・商店で白人客がいる場合、店員が白人と対応し終わるまで待つ
・衣服店では試着をしない
・白人を呼ぶ場合には、「旦那様」、「奥様」などの敬称をつける
等々である。

1916年のあるリンチ
リンチの横行
1889〜1932年まで記録されたリンチ被害者は3745人で大半が南部で起こったものでした。そして被害者の圧倒的多数は黒人でした。かなり悍ましい内容ですが、リンチの実例を挙げてみましょう。

1899年ジョージア州ニューマンにおいて行われたあるリンチでは、特別列車が仕立てられ、見物にやって来た子供を含む2000人の群衆の前で、リーダーが「犯人」の耳、指、性器を切り取り、生きたまま火をつけました。そして人々は土産として体の一部を持ち帰ったと言います。
南部で起きた黒人リンチの大半は、何らかの形で白人女性と黒人男性の性的関係を根拠にしていたと言います。「性的野獣」黒人男性から白人女性の純潔を守ることは、白人男性の責務であり、リンチの正当化の根拠とされたのです。

黒人の抵抗運動

ブッカー・ワシントン

「性的野獣」と言われ黒人男性がリンチの対象になる中、前面に立って戦った女性もいました。代表はアイダ・B・ウエルズです。彼女はミシシッピ州で生まれ、在学中に両親を失い、弟や妹を養うため学校を辞め、16歳で教師を始めます。1883年弟、妹を連れてメンフィスに移り再び教師になりますが、そこで人種隔離に挑戦する行動に出ます。ウエルズは列車の白人席に乗り込みますが、白人の男たちに力ずくで引きずり降ろされてしまいます。その一部始終を黒人教会新聞「リビング・ウェイ」に投稿し、裁判闘争を始めたのです。
彼女は黒人新聞を通じて人種隔離を批判する論陣を張り続け、1892年メンフィスで起こったリンチ事件をきっかけにジャーナリストとして反リンチ運動の先頭に立ちました。その事件とは、雑貨商で成功していた3人の黒人が、白人商人たちの襲撃を受け、反撃したことから始まりました。3人の黒人は逮捕され拘置所に入れられましたが、白人暴徒が拘置所を襲い、彼ら3人をリンチした後で、彼らの店を破壊し略奪したのです。彼女はメンフィスの白人社会に抗議し、黒人たちにメンフィスを出るよう呼びかけ、間もなく約6000人の黒人がメンフィスを離れました。そして残った黒人は白人商店をボイコットし、白人社会に抗議したのです。
彼女は全国各地を講演して回り、事実調査を行い『南部の恐怖―リンチ支配のすべて』(1893年)を出版しました。そこには成功した黒人が狙われやすいことや黒人男性と白人女性との性的関係は多くの場合合意の下で行われていることが書かれていました。これに対し白人たちは彼女のオフィスを襲撃し、彼女はシカゴに非難しなければなりませんでした。また反リンチ運動を全国で支えたのは「黒人女性クラブ」でした。この団体は1895年月刊誌『女性の時代』を創刊、そして1896年には全国黒人女性協会が結成されます。

タスキーギ運動
ブッカー・T・ワシントン(Booker Washington:1856〜1915 写真左)は、1881年アラバマ州タスキーギに黒人の職業教育のための大学を創設し、自ら学長となります。ワシントンの考えは、黒人の地位や境遇の改善には、黒人自身がまず腕を磨き技能を身につけ、産業社会で白人と友情の絆を深めながら一歩一歩努力していくことが一番大切であると考えていました。そしてそこからやがて特性ある黒人の中産階層が生まれ出るであろう、そうすれば白人も黒人の立場を尊重しなければならなくなります。だから、こうした足元の努力を怠ってやたらに差別の廃止を要求するやり方には反対でした。ワシントンのこの考え方は彼の非政治主義となり、例えば先に述べた人民党運動にみられる黒人の戦いも、彼の眼には白人の反黒人感情をいたずらに刺激するものとしか映りませんでした。
1895年9月アトランタで開かれた綿花博覧会の席上、ワシントンは何人かの白人著名人に交じって、黒人代表として講演をする機会を与えられます。そこで彼が話した講演は「現在位置でバケツを下ろせ」と題するもので、黒人たちと白人との間に友愛関係を培うことの重要性を訴えるものでした。この講演は当時人民党運動に悩まされていた支配階級の心をとらえ、講演を聞いたジョージア州のバロック知事は、駆け寄って握手を求め、数日後クリーヴランド大統領もこの講演を称える親書を送り、ホワイトハウスに招いて食事を共にしたほどでした。さらにカーネギーは彼の教育事業に60万ドルの寄付をし、スタンダード石油のH・H・ロジャース、南部鉄道会社の副社長ボールドウィン2世など財界の大物たちも物心両面でワシントンの事業を支援しました。こうしてワシントンは1896年ハーヴァード大学から、1901年にはダートマス大学から名誉学位を授けられ、「もっとも偉大な黒人」として白人社会から手厚いもてなしを受けたのです。
これに対しデトロイトの新聞は「アトランタの博覧会には、テネシー州のリンチも特産品として出品されるべきであった」と厳しく批判し、デュボイスをはじめとする急進的な黒人知識人は「アトランタの妥協」と決めつけ反発します。当時のデュボイス―黒人解放運動の中核は少数の優れた黒人知識人によって推し進められるべきであるとする「才能ある十分の一(タレンテド・テンス)」理論を展開していた時期に当たります―など意識ある黒人たちは、ワシントンの教義に基づいた黒人解放運動(タスキーギ運動)に強い反対を表明します。
さらに1896年には全国黒人教会、全国黒人婦人協会が結成され、また1899年アフロ・アメリカ会議が組織されます。これらの団体はいずれも短命に終わりますが、その活動にはタスキーギ運動に反対すると同時にマッキンレー大統領やローズヴェルト大統領の帝国主義的対外政策に対する反対が表明されていました。
ナイヤガラ運動
デュボイス 一方デュボイス、ボストンの黒人新聞「ガーディアン」によって黒人差別撤廃運動を続けていたウィリアム・モンロー・トロッター、ジョージ・フォーブス達約30人の急進的な黒人知識人は、1905年7月ついにナイヤガラ瀑布付近のカナダ領フォートエリーに集まって第1回目の会合を開きます。この地は、かつて地下鉄道(Underground railroad)の終着駅として、多くの逃亡奴隷たちが安どの息をついた歴史的な場所でした。そしてこの時、この場所でいわゆる「ナイヤガラ宣言」が採択されるのです。それは、一切の黒人差別に反対し、「不屈の精神をもって絶えず世論を喚起するすることこそ解放への道である」と、同胞黒人たちに、差別撤廃闘争に立ち上がるように呼び掛けるものでした。彼らは翌1906年今度はかつてジョン・ブラウンの蜂起の土地ハーパーズフェリーで第2回目の会合を開いたのです。彼らの運動は第1回目の会合の地をとって「ナイヤガラ運動」と呼ばれます。
デュボイスはナイヤガラ運動の精神と目的を次のように訴えたのです。
「我々は、完全な人間の権利を少し欠いても満足しない。我々は、自由に生まれたアメリカ人が持っている政治的、市民的、社会的な一切の権利を要求する。我々は、これらの権利を手に入れるまでは、どんなことがあっても、抗議することをやめず、アメリカ人の耳を打つことをやめぬつもりである。我々が行っている戦いは、我々自身のためばかりではなく、すべての真のアメリカ人のためのものである。」
このようにナイヤガラ運動の精神は、気高く戦闘的でしたが、先に指摘したようにこの時期のデュボイスの選民思想からもうかがえるように、大衆運動に発展することはなく、わずか4年でその活動は停止します。資金不足も災いしましたが何よりも現実の行動綱領とそれを具体化する組織活動を書いていたことが最大の弱点でした。しかしこの運動は黒人だけではなく白人たちの間にも、黒人差別制度に対する意識を喚起したことは疑いなく、この精神は続いて組織される全国黒人向上協会の中に引き継がれていくこととなります。
全国黒人向上協会(NAACP)の創設
全国黒人向上協会 全国黒人向上協会(National Association for the Advancement of Colored People:一般にNAACPと略)の発足は、1908年イリノイ州スプリングフィールドで起こった大規模な人種暴動に端を発しています。
このスプリングフィールドでの大規模な人種暴動は全国を震撼させました。なぜ震撼させたかというと、白人の暴挙に対して黒人側が同じく暴力に訴えて激しい抵抗を試みたからでした。この時の模様は現地で取材したウィリアム・E・ウォーリングの筆によって広く世間に伝えられます。ウォーリングは南部の出身でしたが、その中でその頃あちこちで盛んに行われていたリンチや人種暴動の悲劇をこれ以上増やしてはならない、そしてそのためには黒人に政治的、市民的自由を保障し、こうした悲劇の根源を取り除く努力をする組織がどうしても必要であると強く訴えたのです。
この訴えに耳を傾ける人たちが現れます。社会事業家のメリー・W・オヴィングトンやヘンリー・モスコヴィッチ博士、かつての奴隷制廃止論者ガリソンの孫のオズワルド・ヴィラードなどの知名人たちでした。彼らは、リンカーン大統領の生誕100年に当たる翌1909年2月12日、ウォーリングの訴えを具体化し、黒人問題を討議する会議を開くことを決定し、著名な白人自由主義者と数名の黒人を含む50数人からなる署名簿とともに、広く発表したのです。デュボイスは署名簿に名を連ねるとともに積極的にこの運動に加わりました。こうしてその年の5月ニュー・ヨークで開かれた集まりで「全国黒人委員会」が結成され、続いて1年後の1910年5月に同じニュー・ヨークで開かれた第二次年次大会で、「全国黒人向上協会(NAACP)」という名称が決定されます。
NAACPは、かつて共和党急進派チャールズ・サムナーの秘書だったモアフィールド・ストーリを会長に、ウォーリングを執行委員会議長に、デュボイスを広報調査部長に選出し、機関紙「危機(クライシス)」を発行しました。デュボイスは役員に就いた唯一の黒人でしたが、彼を要職につけることでナイヤガラ運動と多少とも引き継ぐ形をとったと言えるでしょう。またNAACPは、黒人たちに市民的諸権利特に裁判の公正を保障し、合わせて経済的、社会的、政治的機会を確保して、彼らの地位を向上させることを基本目的としました。さらにNAACPはリンチや人種暴動の反対闘争を行い大きな成果を収めます。そのためリンチの数は減少し始めたと言われます。
しかし白人の自由主義的知識人を中核としていたため、次第に厳しい抵抗主義は薄れていき、1934年デュボイスはこの教会を去ることになります。こうした軟化傾向によって、資本家の中からもこの運動に秋波を送る者も現れます。サイラス・マコーミック夫人やハーヴェイ・ファイヤストン達です。NAACPが結成当時の精神を再発見し、今度は広く黒人大衆とも手を取り合って黒人差別撤廃闘争で指導的役割を果たすようになるのは、第二次世界大戦後のことです。
しかしNACCPの政治路線に反対するブッカー・T・ワシントンに与する黒人指導者たちや彼らを支持する人々はより穏健な組織を求め、1911年全国都市同盟(National Urban League:一般にNULと略)を結成します。NAACPがナイヤガラ運動の系列に属するとすれば、NULはタスキーギ運動の系列に属すると言えるでしょう。どちらも白人の自由主義者と黒人との共同組織でしたが、NULはどちらかといえば慈善団体的な色彩がみられました。

19世紀末から20世紀初めにかけても世界を動かしていた中心はヨーロッパでした。そのヨーロッパでは、各国が自国の安定と勢力の拡大を目指して非常に不安定な状況にありました。それらが複雑に絡み合い、史上初の世界を巻き込んだ形での戦争が勃発します。第一次世界大戦です。
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