そもそもアメリカと黒人 12 アメリカと第一次世界大戦

第一次世界大戦

1914年ヨーロッパの2つの陣営

19世紀末から20世紀初めにかけても世界を動かしていた中心はヨーロッパでした。そのヨーロッパでは、各国が自国の安定と勢力の拡大を目指して非常に不安定な状況にありました。そしてヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げていました。右の図の緑は三国協商で茶色は三国同盟です。そしてついにヨーロッパ列強の様々な面での対立から第一次世界大戦(1914〜1918)が勃発します。初めての世界規模での大戦です。1914年6月28日オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻がサラエヴォでセルヴィア人秘密結社員に狙撃されるという事件の発生(サラエヴォ事件)を皮切りに、セルビアとオーストリアの間で戦端が開かれてしまいます。この波紋が全ヨーロッパに広がり、同年8月にはドイツとフランスの開戦にいたり、ついには全ヨーロッパだけではなくアジアなども巻き込む史上初めての世界規模での大会戦に発展します。
イギリスの戦車 当初はドイツ・オーストリア連合とイギリス・フランス・ロシアそれに日本も加わった連合との戦いでしたが、ロシアが国内で起こった社会主義革命「ロシア革命」によってほぼ大戦から撤退するような状況の中、ドイツ・オーストリア連合に引導を渡したのはアメリカの参戦でした。戦後処理については、イギリス、フランスなど旧勢力などの事前交渉がほとんど済んでおり、その主役はこれまでとほとんど変わっていませんでした。しかしその後の世界においては、アメリカの発言力が大きな影響力を持つようになります。そしてそれまでのヨーロッパ列強に加えて、アメリカが提唱して国際会議が行われるまでに国際的な地位が上昇した時期といえるでしょう。
(写真右は第一次世界大戦で初めて投入された武器”戦車”。英国が開発した。)

第一次世界大戦開戦時のアメリカ

ウッドロウ・ウィルソン大統領

概況

アメリカ合衆国は1914年に第一次世界大戦が始まった時、大統領に就任していたのは民主党のウッドロウ・ウィルソン(在任1913〜1921)でした。1914年ヨーロッパに「8月の砲声」が鳴り響いた時ウィルソン大統領を含む多くのアメリカ人は、この戦争を大西洋の彼方に仄かに見える「対岸の戦火」のように感じていたと言います。
時の大統領ウィルソンはプリンストン大学の学長から政界に転身し、一期目を務めていました。1914年ウィルソンにとって差し迫った問題は、革新主義時代から引き継いだ国内の、社会的な闘争でした。中でも労働紛争の激化、暴力化は極めて深刻でした。統一鉱山労組(UMW)がコロラド州ラドロウの鉱山で前年から組織してきた労働争議は、初めから経営者側からの過酷な暴力にさらされてきましたが、1200人が参加した1914年4月20日労働者とその家族(子供を含む)20名が殺害されるという最悪の事態を迎えます。しかし労働組合と鉱山会社の紛争はその後も続き、政権は連邦軍を派遣、それでも鎮圧までに2年を擁し、75人が命を落とす事態となります。労働争議はこれに留まるものではなく、労働問題の改善は政権にとって喫緊の課題となっていたのです。そして民主党が多数を占める議会は、ついに労働者の団結権、団体交渉権は経営者の財産権に優越するという見解を示すに至ります。1916年秋大統領選が近づくと、ウイルソンは労働組織との距離を縮めようと児童労働規制、鉄道労働者の労働時間規制などを次々と法制化していくのです。

映画「国民の創生」

人種間対立の悪化

南部州においては、1900年には裁判にける裁判官、保安官、陪審員も白人が独占し、1906年黒人の参政権剥奪が完了していました。さらに南部民主党を基盤とするウィルソン政権の誕生は、多くの人種隔離主義者を政治の中枢に呼び寄せることになりました。その結果1914年人種別トイレ施設を導入するなど、連邦職員に対するジム・クロウが強いられます。こういったことに対し、同年11月黒人の市民権活動家W・トロッターがホワイト・ハウスを訪問し、直接ジム・クロウの首都への蔓延を抗議します。これに対しウィルソンは激高し、トロッターに退席を求めますが、この出来事は主要な新聞各紙に大きく取り上げられ報道されました。
そんな中で翌1915年D・W・グリフィス(David Wark Griffith:1875〜1948)監督の映画『國民の創生』が封切られます。この映画は、南北戦争によるアメリカ白人社会の分裂を描き、戦後のクー・クラックス・クラン(KKK)の2度目の反黒人運動を英雄視する内容でした。当然トロッター達は各地でNAACP(全国黒人向上協会)と共に上映禁止を訴える活動を行いますが、残念なことに『國民の創生』の人気は反対運動を凌駕し、1000万ドルの興行収入が得られるほどの空前のヒットとなります。この映画の流行は、人種間の憎悪を煽り、白人の暴力を正当化していくのです。そして実際に1916年5月テキサス州で、KKKを支持する白人群衆が、17歳の黒人少年を生きながら焼き殺すという凄惨な事件も起こっているのです。
『國民の創生』の原作者トーマス・ディクソンは、ウィルソン大統領とは旧知の間柄であり、その申し出を受けてホワイトハウスで特別上映会を行っています。このことは差別主義者の偏見や白人至上主義の提唱者に新しく正当性を与えることになり、北部ボストンやニューヨークの大衆たちにもKKKをアメリカの国民創生の立役者という見方が広まっていくのです。

アメリカの対外政策

先にも触れたように、1914年ヨーロッパで第一次世界大戦が始まった時、ウィルソン大統領を含む多くのアメリカ人はほとんど無関心でした。ウィルソン自身1914年末に「その起源が我々と全く関係のない戦争」と述べているほどです。では孤立主義に徹していたのかというと事情は全く異なります。カリブ海を含む中米地区と東アジアにおいて、熾烈な権力政治を展開していたのです。
中米
中米

先ず隣国メキシコについての紛争が深刻さを増していました。メキシコは、19世紀後半以来ディアス大統領が独裁政権を築いていました。しかし1911年5月民主化革命が起こり、ディアスは政権の座を追われます。その後自由主義者のマデロが大統領に就任しますが、1913年には軍部によるクーデターが起こりウェルタ将軍が権力を掌握します。ウィルソンは国際関係に道徳的な側面を要求するという性癖があり、しばしば相手国が民主政体であることを要求するのです。ウェルタ将軍による軍事政権はもちろんこれを満たすものでなく、ウィルソンは1914年4月海兵隊を派遣し、中部の軍港ベラクレスを占領するのです。この暴力的な内政干渉は11月まで続きます。結局ウェルタは失脚し、リベラル派のカランサの政府が成立します。当然このことはメキシコ民衆に、反米ナショナリズムを醸成していくことになります。
その間1914年8月15日パナマ運河が完成し、最初の船舶が大西洋から太平洋へと通過しました。こうしたことからもカリブ海はアメリカの安全保障上重要さは増します。アラスカ―ハワイ―パナマ―カリブ海を基本的な防衛ラインとする帝国領域が設定されていくのです。
1915年7月ウィルソンは、ハイチに海兵隊を上陸させ保護国化します。さらに財政顧問を送り込み、沿岸警備隊を創設し、警察権を掌握するのです。政情不安に苦しむドミニカに対しては、1916年5月海兵隊を派遣、首都を占領させ、米軍による直轄統治を敷くのです。

中国山東省
東アジア
1914年日本はイギリスとの「日英同盟」を理由に、連合国側で参戦、ドイツが領有していた山東省・青島を電撃的に攻略、これを足掛かりに中国政府に対し様々な領土的、経済的権益を要求するようになります。そして1915年大戦中に日本は、中国に「21カ条の要求」を突き付け、強引に承認させていました。「21カ条の要求」の内容は多岐に渡っていますが、第5項が秘密にされていました。列強の反応は、第5項が秘密にされていた段階では、帝国主義政策をとる列強にとっても日本だけを責めるわけにはいかず、また日本が第一次世界大戦に参戦してドイツとの戦争に加わった見返りの意味もあって黙認、基本的には容認していました。しかし中国側が第5項を暴露すると、アメリカとイギリスは、第5項には中国保護国化の恐れがあるとみて警戒し、中国を擁護し、日本に第5項の取り下げを要求します。5月に日本が第5項を取り下げたことを評価し、アメリカは1917年11月に石井・ランシング協定を締結します。それは、アメリカの主張である中国の領土保全と門戸開放を日本が認める一方で、アメリカに日本の山東省権益を認めさせたものでした。しかし、その後もアメリカは日本の中国大陸侵出を警戒し続けることになります。

このようにアメリカは1915年の段階でもまだ、第一次世界大戦の当事者になるつもりはありませんでした。

第一次世界大戦参戦前の国内情勢

ルシタニア号事件
ルシタニア号沈没

アメリカが第一次世界大戦の当事者になるつもりがなかったとしても、無縁ではいられませんでした。1915年5月イギリス船籍の豪華客船ルシタニア号がドイツのUボートの攻撃により撃沈するという事件(ルシタニア号事件)が発生します。この事件で1.198名もの方が命を落としましたが、そこにはアメリカ人が128名含まれていました。この事件発生後アメリカは次第に対ドイツ参戦へと傾いていったと言われます。そこに1917年2月ドイツは無制限潜水艦戦を宣言します。これは中立国の船舶に対しても無制限に潜水艦による攻撃を行うということです。このドイツの潜水艦により米国からの物資を積んだ船が撃沈されることは、連合国、アメリカにとってかなりの痛手となることは必至です。そして実際にルシタニア号事件によって多くのアメリカ人が犠牲になりました。
それでも1915〜16年を通じて、ウィルソンのヨーロッパ外交の基本は、戦争の当事者になることなく、私心無き第三者として、講和を主導しようとするものでした。そして腹心のハウス大佐を特使として1916年春交戦各国を訪れ、国際平和組織の創設を含めた具体的な講和会議を提案していました。

反戦運動
「息子を兵士に育てたわけじゃない」楽譜

もともとアメリカの政治や産業で影響力ある人たちの中には、この戦争の初めからイギリスやフランスの側に好意を寄せる傾向が強かったのですが、一方かなりの数の市民(多くのアイルランド人やドイツ人を含む)はアメリカがヨーロッパでの抗争に(少なくともイギリス側につく形で)巻き込まれることに断固として反対していました。またドイツ、オーストリアからやって来た移民たちは、自分が現在住む国と自分或いは父親や母親が生まれた祖国の戦いを複雑な思いで見ていたのではないでしょうか?
社会改革者であり、貧しい人々の支援も行っていた女性活動家ジェーン・アダムズ(Jane Adams)と女性参政権運動グループは、ヨーロッパでの戦争の激化、長期化に危機感を深め、19151月女性平和党を結成します。同党は、「建設的な平和のためのプログラム」を発表、軍縮と自決主義、『勢力均衡』ではなく『諸国民の協調』のための連合形成などの政策を発表します。この運動は、イギリス労働党系知識人たちの反帝国主義=反戦論の影響を受けたもので、同年4月にはオランダのハーグでの国際女性会議を主導するような活躍を見せます。このような反帝国主義、反植民地主義からの戦争批判は、革新主義左派や社会主義者の間に広く見られたものでした。
黒人指導者W・E・B・デュボイスも、1915年5月『戦争のアフリカ起源』と題する論文を発表します。大戦の原因をグローバルな帝国主義競争にあるとし、そのことと各地にはびこる人種主義の密接な関係を論じた画期的な論文でした。
こういった一部の知識人層だけではなく、アメリカの社会全般にも戦争に対する嫌悪感情は存在していました。その例として1915年大ヒットした反戦歌に『息子を兵士に育てたわけじゃない』(I didn't raise my boy be a soldier:左は楽譜の表紙)という楽曲があります。「誰が他の母親の可愛い息子を殺させるために、うちの息子に銃を背負わせたのか…銃と剣を捨てる時が来た…世界の母親がこう叫べば、戦争は無くなるだろう。息子を兵士に育てたわけじゃない」とモートン・ハーヴェイ(男性)という歌手が歌いあげるこの曲は、楽譜の売り上げは65万部、1915年年間ヒット・チャート第10位にランクされるヒットとなりました。

戦争準備

アメリカはイギリス、フランスなどの連合国に1914年8億2000万ドルの援助をしていました。それが16年には32億2000万ドルに跳ね上がります。こういった援助を受けられなくなると連合国にとっては致命傷となりますが、米国の経済にとってもこの援助金が回収できないとなると相当な痛手となります。
ここに至ってアメリカ大統領ウィルソンは、次第に軍備増強論に傾斜していきます。1916年6月、反軍国主義連盟の激しい反対を抑え、国防法の抜本的な改正を断行します。
@連邦正規軍を現行の2倍の17万5000人に、州兵を45万人にまで拡大する。
A有事における州兵の指揮権を大統領が持つ。
B戦争計画の立案を職掌とする国防会議を創設する。などがその内容となります。
このように参戦の国家意思も定まらぬまま、ウィルソンの主導の下、急速に物資と体制両面で戦争準備が進められていきます。

ラテン・アメリカ問題
パンチョ・ビリャ

1915年末ウィルソン大統領は第二次年次教書を公表します。そこでウィルソンは、「パン・アメリカ主義…それは帝国の精神ではない。それは法と独立、自由と相互奉仕の精神である」と述べ、翌16年1月、ラテン・アメリカ諸国との相互的な集団安全保障協定案(パン・アメリカ協定)を公にします。この背景には、外国勢力から自立を目指すメキシコのカランサ政権との間の関係を修復できない焦りがあり、メキシコ以外にアルゼンチン、ブラジル、チリを加えた多国間交渉を行い安定化を図ろうという目論見がありました。
しかしその目論見は1916年3月メキシコの反米ナショナリスト、パンチョ・ビリャ一党のアメリカ侵略を以て暗礁に乗り上げます。パンチョ・ビリャとその一党1,500名は、国境を越えニューメキシコ州コロンバスに駐屯していたアメリカ軍騎兵分遣隊を攻撃し、軍事施設を焼き払い、100頭の馬やラバを捕獲し、町を焼き市民17人を殺害するという事件を起こします。ウィルソンはすぐさま報復のため、1万人の軍隊を派兵します。しかし、ジョン・パーシング率いる米軍は、1か月経ってもビリャを捕まえられず、メキシコ領内500キロ以上も侵攻してしまい、ついにメキシコの正規軍との間で戦闘が開始されてしまうのです。こうした状況の中、チリはパン・アメリカ協定への参加見送りを通達するのです。

ウッドロウ・ウィルソン大統領再選

このように問題が山積みの中、1916年大統領選挙が行われ、現職のウィルソンが共和党のチャールズ・E・ヒューズを僅差で抑えて二期目を務めることになります。選挙期間中ウィルソンは敢えて参戦問題には触れず、前に触れた労働対策に力を入れます。投票直前に複数の労働法を作るなどして、政治と労働組織の連携をはかっていきます。翌1917年初の国防会議が組織されたときに、AFL(The American Federation of Labor:アメリカ労働総同盟)の指導者サミュエル・ゴンパースを7人の諮問委員の一人に選抜します。こいったことから全国の労組は、戦時の総力戦へ国民動員の推進者となっていくのです。
こうして再選されたウィルソン一挙に参戦へと舵を切っていきます。そして1917年1月22日上院において、有名な「勝利なき平和」演説を行います。「合衆国は世界を民主主義にとって安全なものにするため参戦する。いかなる征服、領土も求めない。」と宣言するこの演説は、厭戦気分の蔓延した英仏の社会主義勢力を戦線に留まらせ、ボリシェビキの平和攻勢に対抗する意味がありました。国内においても、この演説直後から広範な革新主義者が、堰を切ったように参戦支持に転じて行ったと言われます。

ツィンメルマン電報事件
ツィンメルマン電報 1917年2月アメリカ合衆国は、アメリカがドイツに宣戦布告した場合にメキシコにアメリカに対する宣戦布告を行うよう求める「ツィンメルマン電報」(写真左:暗号化されている)と呼ばれるものを傍受したことを明かしました(傍受したのはイギリス)。その内容とは、ドイツはメキシコに、アメリカと共に戦おうと提案し、失われた領土アリゾナ州、ニューメキシコ州およびテキサス州を回復するのを応援するというものでした。これらの地域はすべて米墨戦争(1846年-1848年)の結果でメキシコがアメリカに割譲したところでした。「ツィンメルマン電報事件」は実際にはドイツによる示威行動であり、メキシコは軍隊が弱く、政治的にも安定していなかったので、そのような冒険をする余裕はありませんでしたが、1916年のパンチョ・ビリャ事件があったため、反目するメキシコがドイツと共闘するかもしれないという恐れを抱いたのでしょう。
また翌月3月ロシアで革命が起こり、ロマノフ王朝が倒れたことも重要でした。アメリカが連合国側で参戦した場合、ツァーリの専制政治体制を取るロシアと同盟するというのは、ウィルソンの言う「民主主義のための戦争」と矛盾するからです。
参戦決議
1917年3月20日ウィルソン大統領は、ついに参戦を閣議決定し、4月2日議会で演説を行い、4月6日ドイツに対して宣戦を布告するのです。しかし列強間の軍事同盟を嫌うウィルソンは、連合国に加わることを拒み、あくまで協力国としての参戦でした。議会は参戦支持の決議を行いましたが、上院で6票、下院で50票の反対票があり全会一致というわけではありませんでした。

戦時体制

サミュエル・ゴンパース 参戦に際して、アメリカ政府は前例のない国民動員を敢行します。史上初の全国的な徴兵制を導入し、鉄道や鉱山などの重要産業は、国家の管理下に置かれます。また戦時防護法を成立させ、反戦の声を封じるとともに、司法省と陸軍省の国内諜報を拡充、思想監視の体制を形成します。さらに民間の女性団体やエスニック集団が食料保存や戦争公債運動に、「自発的」に参加する仕組みも模索します。つまり「民主主義のための戦争」は、少なくとも形式的には、広く講習の合意のもとに行わなければならなかったのです。
この総力戦体制の中核を形成したのは、ベイカー陸軍長官をはじめとする主要閣僚と産業界・労働界の民間指導者からなる国防会議という準国家機関でした。その民間諮問委員には、先のAFLのサミュエル・ゴンパース(写真右)、ボルチモア・オハイオ鉄道社長ダニエル・ウィラード、ウォール街の大投資家バーナード・バルーク等が名を連ねていました。国防会議はいわば中央政府と産業界・労働界が結びついたもので、この官民共同組織は、無数の業界や地域に下部組織を持ち、具体的な動員政策の立案や各種ヴォランティアによる愛国運動を推し進めました。
さらにこの組織機構の中から、戦時生産の計画化を進める戦時産業局や鉄道の国家管理を担った戦時鉄道局、軍需産業の労使関係の調停を行う戦時労働委員会などが誕生していきます。そしてこれらの戦時機関では、戦争管理者と呼ばれた若い行政官僚や専門家による、効率の最大化を目指すマネジメントが強力に推し進められていきます。
戦時労働政策
女性労働者のストライキ

注目すべきは、ゴンパース率いる全国労組AFLが、この集産主義の一翼を担ったことでした。これまで見てきたように、ゴンパースが唱えてきた「産業の立憲主義」は、政府介入に否定的であり、労使の対立はアメリカ社会の非常に重要な問題の一つでした(左は女性労働者のストライキ)。しかし、第一次世界大戦下AFLの指導層は戦時国家の権威を背景として、全国労組が結ぶ労働協約に正当性を確保する道を選んだのです。この背景には、戦時下の労働力不足による労働者の交渉力が拡大し、かつてない規模で労働争議が頻発していたことが挙げられます。統計によると、1917年1年間に発生した争議は4450件で、その数は1881年から1937年の間で最多を記録しています。この爆発的な葬儀拡大は、戦時生産の脅威となり、産業の平和と安定のために統一的な労働政策の形成を望む声が、政府内外から高まります。そして国防会議、製造者団体、AFL等の間で約半年に渡り激論が交わされ、1918年3月末、連邦政府によって戦時労働政策の「統一原則」が採択されるのです。
まず「統一原則」は、労働政策の前提として、「戦争中はいかなるストライキ、ロックアウトもあってはならない」と争議権を放棄させます。しかし同時に、労働者の団結権・団体交渉権については全般的に擁護するとします。つまり戦争中は、ストライキなどによって生産を止めることは許さないが、労働条件などを巡って労働者が団結して経営者側と交渉することは認めるというものです。そして経営者側と労働者側との間に問題が発生した場合、これを仲裁するために、政府は1918年4月8日、緊急大統領声明により戦時労働委員会を創設します。戦時労働委員会は、「効率的な戦争遂行にとって必要な生産部門」から計1251件の提訴を受け、うち490件に裁定・決定を下し、まさに「戦時産業の最高裁」として君臨します。これにより138件のストライキが回避されました。
また戦時労働委員会の活動で特筆すべきことは、未組織の産業では「職場委員会」という労働者の自治組織を新設させ、団体交渉の当事者とさせたことです。この職場委員の選挙では、既存のAFL労組に加入できなかった女性労働者や未熟練の移民労働者(帰化一次書類提出が条件)も投票することができました。実際には、戦時労働委員会が設置した125の職場委員会の多くは、ネイティヴの男性熟練工が支配しましたが、工場の全従業員を網羅するこの組織方式は後の産業別組合の萌芽とも言えます。しかし戦時労働委員会は、ほとんど南部の産業には介入できず、人種差別的な二重賃金制度を存続させたところに限界がありました。ただ前述のように南・東欧系移民や女性労働者の社会参加に大きく貢献することになりました。

戦時広報政策
戦時広報委員会ポスター

ようやく参戦を決意したウィルソン政権にとって、総力戦を敢行する以上、これまで非民主的と反対してきた徴兵制を導入せざるを得ず、国内情報宣伝活動は最も重要な課題の一つでした。参戦した1週間後の4月14日、戦時の健全な世論形成を担う戦時広報委員会(Committee on Public Information 以下CPIと略)が大統領行政命令によって設置されます。CPIに課せられた最大の任務は、国民に戦争目的を周知し、解説することでした。そして作成された第1号パンフレット、「いかに戦争がアメリカに到来したか」は次のように参戦の経緯を説明しています。以下要約します。
「アメリカは大戦の勃発後も中立を保ち、新世界の諸共和国への責任を果たしつつ、ヨーロッパにおける紛争の調停者になろうとした。だが、ドイツは潜水艦攻撃でルシタニア号を撃沈し、我々の中立国としての権利を侵害した。そればかりか、人道の根本概念に背反してみせた。またドイツの謀略は、キューバ、ハイチ、セント・ドミンゴで叛乱を扇動するなど、モンロー・ドクトリンに対する攻撃を行い、アメリカの中立政策を脅かしてきた。(中略 「勝利なき平和」演説を抜粋)政府の公正な統治権力は、あまねく被統治者の合意に由来するという原則を承認しないような平和は長続きしない。私は、諸国民がともにモンロー大統領の原則を世界の信条として受け入れることを提案する。
と理念の戦争であることを強調します。さらに説明の最後にドイツが行ったツィンメルマン電報事件と潜水艦攻撃再開にも触れ、アメリカの参戦が不可避となった事情に理解を求めます(右は「戦時広報」を読むように促すポスター)。「いかに戦争がアメリカに到来したか」は、総部数543万部というすさまじい数が印刷され、全米の津々浦々に配布されました。その後休戦までの1年半の間に、CPIは新聞各紙へのプレス・リリースは6000回を超え、総計7500万部のパンフレットと無数のポスターを発行した他に大規模な演説運動や映画も制作し、巨大な戦争プロパガンダを形成したのです。

市民への抑圧
ユージン・デブス

上記の政府広報という、統治権力が主体となった民意形成という行為は、それ自体本来の「市民の領域」を侵食するものです。しかしウィルソン政府は、さらに一連のスパイ対策法を用いて、政府と対立する市民の表現の自由を制限していきます。1917年6月「戦時防諜法」を成立させ、「虚偽の情報や声明によって、軍隊内に不服従、不忠誠、反乱を惹起したり、意図的に徴兵を妨害したものには、20年以下の懲役を科す」とし、郵政長官に、同法に触れる新聞・雑誌の流通を規制する検閲権限を与えます。また翌18年5月に成立した「戦時騒擾法」では、これらに加えて、政府の形態や国旗、軍服に対する不忠誠や悪罵の言葉までが処罰の対象となったのです。
しかし初めからこうした条文は、憲法が保障する市民的自由(表現の自由)に反するものではないかという危惧がありました。というのは合衆国憲法修正第1条には、「議会は、言論と出版の自由、並びに、平和的に集会する国民の権利を制限する法を制定してはならない」とあるからです。」
1918年6月、この問題が大きく注目される事件が起こります。アメリカ社会党のカリスマ的指導者、ユージン・デブス(写真左)が逮捕され、裁判の結果有罪判決を受けるのです。少し詳しく見ると、デブスは6月16日オハイオ州カントンのニミシラ公園で、いつものように戦争の階級抑圧的性格を非難する演説していました。「戦争の中で、血を流し、犠牲となる労働者階級は、そもそも宣戦に際して賛否の意志を示す機会すらなかったではないか」と訴えます。これらの言葉によって、「戦時騒擾法」違反の嫌疑をかけられ、クリーヴランドの連邦地裁において、有罪判決を受けるのです。これに対してデブスは当然上告しますが、最高裁も演説が「徴兵妨害に当たる」とし、1919年3月全会一致で懲役10年の実刑判決を言い渡すのです。デブスは4月、アトランタ連邦刑務所に収監されます。
最高裁は、この判決において、戦時の防諜法・騒擾法と憲法修正第1条との整合性について特に論ぜず、1週間前に出されたシェンク裁判という同種の紛争の判決を参照すべしとしました。さてそのシェンク裁判とはどのようなものなのでしょうか?
この発端は、同じくアメリカ社会党の書記長チャールズ・シェンクが、徴兵対象となった若者に向けて軍役への不服従を促す政治ビラを、1万5000枚配布した事件です。シェンクもまた戦時防諜法違反で有罪判決を受けていました。そして判決に際して最高裁は次のような法理を展開したのです。「言論の自由を最大限厳格に保護するとしても、満員の劇場で火事だと嘘の叫びをあげ、パニックを引き起こすような人物を保護することはできない。問題は、その言葉が明白かつ現存する危機を惹起するような環境で、そのような性格を持つものとして用いられるかどうかである」と。要するに「明白かつ現存する危機」があると判断されれば、憲法上の市民権は制限可能だということになります。この原則は、公共の安全という統治者の論理が、市民的自由に優越するということで、この判例が後々大きく影響していくことになります。つまり第二次大戦期の日系人の強制収用や、冷戦期の人権侵害の多くが、国家安全保障を理由に行われることに繋がるのです。

選抜徴兵制
砲弾を作る女性

南北戦争時代、合衆国からの脱退を宣言したアメリカ連合国(南軍)は、南北戦争遂行のために徴兵制を実施したことがありますが、実質的に合衆国軍も連合国軍も兵士の大部分は志願兵でした。前述しましたが、ここに至ってアメリカは初めて全国的な徴兵制度の導入へ向かいます。まず1916年2月、「徴兵制」に合憲判決が出ます。「徴兵制」は、「何人に対しても、犯罪に対する刑罰として法律に基づいて有罪判決を執行される場合を例外として、奴隷および本人の意思に反する労働を強制してはならない」という合衆国憲法憲法修正13条に違反するのではないかという議論がありましたが、アメリカ最高裁判所は、徴兵制度は憲法修正13条に違反せず合憲であると判決したのです。
これを受けてウィルソン政権は、1917年5月18日、「選抜徴兵法」を成立させます。そもそもウィルソン自身は、徴兵制の導入に批判的な立場を取っていましたが、欧州遠征のための兵力を短期間に整備するには、「徴兵制」しかないという周囲の説得に首を縦に振るしかありませんでした。ではこのアメリカの「選抜徴兵法」とはどのような内容を持つものなのでしょうか?簡単に言えば、21〜30歳の男性(参戦後18〜45歳に拡大)に「徴兵登録」をするよう求め、その登録された名簿の中から兵士になる者を選び出すというものです。
まず「登録」ですが、対米中の外国人や敵国市民を含む徴兵年齢の全男性に登録が義務付けられました。1917年6月5日の第1回登録日には、全米の21〜30歳の男性978万人が地域の徴兵委員会に出頭し、全米統一の質問票に、職業、家族構成、未婚か既婚か、人種、国籍、身体的な問題等を書き込みました。この調査は1年半の参戦期間に4回行われ、第一次世界大戦の終結までに2400万人が登録を行いました。このことは重要で、徴兵登録という形を借り、政府は膨大な個人情報を手にすることができたのです。
「登録」された名簿の次は、「免除」という段階へ進みます。この「免除」という制度が独特であると言われます。@扶養家族のいる既婚男性、A産業及び農業で重要な役割を果たしている有産者や熟練労働者、B身体上障害のある者、C敵性外国人、及び帰化一次書類を未提出の外国人という4つの免除カテゴリーを示し、これに該当する者は免除を申請できるとしています。特徴的なのは、@による「父親」の免除で、家父長主義的な価値観がうかがえると言います。
こういった制度で、参戦期間中アメリカ政府は、総計約280万人の一般市民を兵士に仕立て上げました。そのことにより産業界には、男手の不足が生じ、路面電車の車掌、救急隊の運転手、砲弾製造工場(写真右)などいくつもの職種で、初めて女性が雇用されました。これまで男しか見られなかった職場が、いつの間にか女性ばかりになっていたという現象が見られました。世界大戦の総力戦が、男女平等と女性の社会進出を進めたと指摘する研究者も多いと言います。しかし一方で、数多くの女性が、自らの被扶養者性を申告し、近しい関係の男性の懲役免除を請願しています。
またこの免除の条件には、人種的な意味合いがあったことも見逃せません。政府は、免除を受けられない者、つまりは徴兵されるべき人間を次のように概説していました。「独身男性や彼がいなくても被扶養者が適切な支援を受けられる少数の既婚者、産業や農業で自己実現に向いていない者、そして少数の未熟練労働者など」。ここで「彼がいなくても被扶養者が適切な支援を受けられる少数の既婚者」というのは、具体的には入隊後の手当てが月50ドルなので、それ以下の収入しか得ていない「父親」を意味し、それは言外に南部の小作農や日雇い労働者を想定していたのです。つまり、多くの場合免除が認められなかった既婚者は「家族を扶養できない」黒人でした。
次に見落とせないことは、同法は全米を4648の徴兵地区に分割し、登録、免除などの選抜業務を当該の地区徴兵委員会に委任しました。政府は全国共通の徴兵登録カードを作り、統一の免除基準を強いてはいましたが、実際に現場である地区徴兵委員会を構成したのは、その地区の有力者で、知人やその近親者から免除申請を受け取り、その生殺与奪を司るごとく、実務を実行したのです。こうして戦時下、有産階級の白人男性は、政府のエージェントとなることで、彼らがコミュニティ内に既に保持していた権力と威信を強化していったのです。

選抜徴兵と人種問題

第一次世界大戦での黒人兵たち

先に見たように、第一次世界大戦期アメリカは、帰化および将来帰化する意志を持つ外国人を徴兵の対象としました。そしてそれには敵性外国人も含まれました。彼らの存在、そして加えて先住民つまりアメリカ・インディアン、さらには植民地であるプエルトリコやフィリピンからも徴兵を行いました。それらのことからそれぞれ様々な問題が起こりますが、それは専門の研究書に任せるとして、ここでは黒人兵について見ていくことにしましょう。
戦争を社会改良の好機ととらえ、軍事奉仕を通じて、黒人たちの地位向上が期待できるのではないかという考え方は、人種差別に苦しむ黒人指導者たちの間にも広く存在していました。参戦直後の1917年5月、NAACPが主催した全国黒人戦争会議において、主要国人団体は、次の言葉で始まる合同決議を採択します。
「世界戦争の真の原因は、ヨーロッパ諸国間で利己的な有色人収奪が競い合われたことである。永遠平和は、被治者の合意による統治の原則が、ヨーロッパの小国だけではなく、アジア、アフリカ、西インド諸島の民衆そしてアメリカ黒人の間にも広げられて初めて実現するであろう。」この戦争批判は、起草者のデュボイス自身が2年前に発表した「戦争のアフリカ起源」論文を踏襲したものです。しかし17年5月の決議文はこう続けるのです。「過去の不幸な歴史にも拘らず、人種と肌の色による障壁のない、民主主義の偉大なる希望は、連合国側にあると熱烈に信じよう。だから世界を自由にするために黒人同胞市民が、わが国旗の下にはせ参じ、軍に参加することを強く求めたい」と。つまり軍事的な献身によって、分け隔てのないアメリカ国民共同体の一員となれる―この希望が黒人の戦時戦略の基礎となっていたと考えられるのです。

イースト・セントルイス人種暴動
イースト・セントルイス人種暴動 しかし1917年7月、イリノイ州イースト・セントルイスで勃発した人種暴動は、民主主義と国民統合による戦争遂行という建前を粉砕する大惨事となりました。
7月2日同市の白人住民が黒人居住区を襲撃し、およそ150人の黒人がリンチを受けて殺害されたのです。どうしてこのような暴挙が起こったのでしょうか?この事件の背景には、戦時経済が引き起こした未曽有の人口移動がありました。深刻化する軍需産業の労働力不足を補うために、50万人とも言われる南部黒人が北部都市に移住したのです。重要な軍需品の一つであるアルミニウムの製造工場が立地したイースト・セントルイスにも毎週2000人以上の黒人が流入し、そのことは古くから住む白人労働者層の反発を買っていたのです。数日間に渡るこの暴動は、「20世紀アメリカ史上最悪の労働関連暴力事件」と評され、米国史上最悪の人種暴動の一つと言われます。
全米の黒人社会にとって、軍需物資増産の要請にこたえて移住した同胞の虐殺は、「アメリカ」による裏切り以外の何物でもありませんでした。7月28日にはNAACP等の呼びかけで、大規模な抗議デモがニューヨークで行われます(写真左)。そして翌月ハワード大学のK・ミラーは、ウィルソン大統領宛の公開書簡を発表し、政府の不作為と「民主主義の戦争」の欺瞞を厳しく論難しました。「世界の国々は、アメリカが民主主義を海外に広めようとする前に、まず国内の問題に取り組めというでしょう。非難されているのは、あなたが悲しむべき国内の過ちに直面して、なお世界の民主化を唱えていることなのです。」
このような黒人の抗議の声は、ほとんど前例のないものでした。政府はこのような事態を戦争遂行上の脅威と捉え、イースト・セントルイス事件を広く報道した黒人ジャーナリストやハワード大学のK・ミラーを陸軍情報部の監視対象とした。この陸軍情報部と司法省調査部を柱とする国内諜報は、第一次世界大戦中に急成長した政府機能であった。陸軍情報部と司法省調査部は戦時防諜法、騒擾法を武器に、反戦社会主義者の監視や徴兵拒否者の摘発を行いましたが、1917年夏以降は特に「黒人の破壊活動」という共有ファイルを作成するようになります。政府は黒人大衆を潜在的な反乱分子と見ていたのです。 ニューヨークでの抗議デモ このことは1917年9月に陸軍参謀本部が公表した、黒人の徴兵方針にも影響を与えます。先ず、軍は黒人徴兵の大多数を鉄道建設や港湾労働等に活用することとし、軍事訓練は最小限に抑えます。これは黒人が武装するすることを恐れた白人世論を意識したもので、実際に36万7000に上る黒人兵のうち、戦闘に参加したものは、わずか4万人強と約1割程度と推測されますが、このことは戦うことによって「市民」となるという道は初めから閉ざされていたことを意味します。黒人が武装することへの警戒感は次の規定、<各訓練基地での白人兵と黒人兵の「安全」比率は、2対1以下に保つ>という方針にも表れています。さらに軍と政府は、黒人を分離軍団に組織し、基地内の施設及び訓練プログラムも人種別とする方針を固めたのです。
歴史的には、黒人兵氏はアメリカ正規軍の精鋭でした。彼らは米西戦争のキューバ攻略戦から、米比戦争、メキシコ干渉戦争いずれの帝国主義戦争においても最前線に立ってきました。しかし徴兵制が導入され、巨大な国民軍が形成される過程で、政府には黒人将校の指揮を嫌う白人新兵の苦情が殺到し、駐屯地の近隣住民による黒人兵士への嫌がらせも後を絶ちませんでした。特にイースト・セントルイス暴動の勃発後、ウィルソン政権は、こうした問題が表面化することを嫌い、敢えて人種隔離軍団を形成するとともに、各地で頻発する差別事案について、公式に認めない立場を取るのです。それは民間社会の人種偏見が総力戦を媒介として、公的な制度に浸透していく過程でもありました。そして一旦軍の制度の中で承認された人種慣行は、今度は全国規模の公共性を身にまとい、民間社会に還元されていきます。戦時下、この再帰的な関係の内に人種にまつわる「社会的な」不平等は増幅していくのです。

ヨーロッパ遠征軍

フランスの米軍

前述のような状況にありながら、黒人団体の主流は、ウィルソンの戦争を支え続けます。デュボイスすら戦争末期になってもなお、「この戦争が続く限り、我々の特殊な不満を忘れ、民主主義のために戦っている我が白人市民や連合国の国民と協力し合おう」とNAACPの機関誌に書いています。それはアメリカが、曲がりなりにもリベラルな戦争目的を維持し続けたためでした。1918年1月に発せられたウィルソンの14カ条は、国内的にも重要な意味を持ちました。14カ条は講和条件として、国際連盟構想の推進、ヨーロッパ内の民族自決、そして植民地問題の公正な解決などを列挙していました。勿論それは純粋な理想の表現とばかりとは言えません。前年末にアメリカ・オーストリア戦が始まって、ハプスブルグ多民族帝国の解体が現実味を帯びてきたこと、また、ロシアのボリシェビキ政権が「平和に関する布告」(1917年11月)で、既に無併合・無賠償・民族自決を宣言していたことが大きな動機付けとなっていました。さらに当時は、ブレスト・リトフスクで独ソ間の休戦交渉が行われており、東部戦線維持のためにも、レーニンの平和攻勢に対抗する必要があったのです。
しかし1918年3月ロシアは講和し、宣戦を一本化したドイツの攻勢は激しさを増します。アメリカはそうしたタイミングで、総勢200万人のヨーロッパ遠征軍の主力を派遣したのです。その際英仏両軍は、自軍の消耗を補う兵力の供給をアメリカに求めます。これに対して総司令官パーシングは、黒人2個師団のうち1個師団をフランスに譲渡することで応じ、アメリカ独自の戦線を形成しました。アメリカの遠征軍は、6月のシャトー・ティエリの戦い、ベロー・ウッドの戦いを制し、戦況は大きく連合国側にか向くのです。写真右はフランスにおけるアメリカ軍。

ジム・ヨーロッパ
ジム・ヨーロッパとヘルファイターズ

1918年アメリカが参戦してからのことになりますが、アメリカからヨーロッパに赴いた軍隊の中でひと際ユニークな軍楽隊があります。それがフランス軍に配属された第369歩兵連隊のジム・ヨーロッパの率いた軍楽隊、「ヘルファイターズ」(Hellfighters 写真左)です。1918年2月から3月にかけて、彼の軍楽隊はフランスを2,000マイル以上旅し、イギリス、フランス、アメリカの軍人やフランス市民の前で演奏し、大いに聴衆たちを元気づけたと言われます。このヨーロッパという名前のアメリカ人は黒人で、1910年音楽業界の黒人アメリカ人のための協会であるクレフ・クラブを組織し、カーネギー・ホールなどでコンサートを開くなど活発に活動を行っていました。彼らの演奏する音楽は、ジャズというわけではなく、ラグタイム、プレ・ジャズと言われるようなものですが、ヨーロッパで演奏するミュージシャンの草分け的存在として、ヨーロッパの人々の記憶に長く残ったと言われます。

シベリア出兵
チェコスロヴァキア 要はロシア国内に取り残されたチェコスロヴァキア軍団の救出を名目に、連合国がロシアに軍隊を派遣したことを「シベリア出兵」といいますが、この問題は非常に複雑です。そもそもチェコスロヴァキアは連合国側に加わっておらず、何故に連合国が救出に向かわなけらばならないのかが分からないのです。以下なるべく簡単に事の次第をまとめてみましょう。
そもそも「チェコスロヴァキア」は西スラヴ系のチェック人とスロヴァキア人が合同した国家です。チェック人達は、10世紀ごろ自立してボヘミア王国を樹立していましたが、その東部のスロヴァキア人は、マジャール人の国家ハンガリーの支配を受けていました。その後紆余欲説を経て、チェック人とスロヴァキア人は共にハプスブルク家領として、オーストリア帝国の一部を構成していました。しかし20世紀の初頭、民族運動がチェック人の中にも高まると、プラハ大学の教授であったマサリクがその指導者として活動するようになります。そしてオーストリア=ハンガリー帝国内のスラヴ系民族運動の激化から、第一次世界大戦が勃発すると、マサリクはパリに亡命し、チェコ国民会議を組織、共和国の樹立を目指します。1918年1月、アメリカのウィルソン大統領が十四カ条を発表、その主張の一つ「民族自決」を大きな追い風として、同年10月28日、チェコ国民会議はチェコとスロヴァキアが統一国家として独立を宣言します。これを連合国側が11月に承認し、チェコスロヴァキア共和国が誕生するのです。
ところがそれ以前の第一次世界大戦の開戦時、まだオーストリア帝国の一部だったため、チェック人、スロヴァキア人ともにオーストリア兵として動員され、東部戦線で連合国のロシア軍と戦っていました。しかし彼らの中には、オーストリアに従うより、同じスラヴ系のロシア軍に投じるものが多く、進んで捕虜となっていました。そのようなチェコ兵捕虜は、ロシア革命後、チェコスロヴァキア共和国に加わり、西部戦線でドイツ・オーストリア軍と戦うため、シベリア経由で移動することとなったのです。このチェコスロヴァキア軍団はシベリア鉄道で東に向かい、ウラジオストクから海路でヨーロッパへ向かう予定でしたが、反革命政権と一体化する動きを示したため、各地でレーニン率いる赤軍ボリシェヴィキと衝突し、ボリシェヴィキ軍はチェコスロヴァキア軍団を幽閉するに至ります。
ウラジオストクに上陸した連合軍 しかしボリシェビキも政権を奪取したばかりで、ドイツと闘う状況ではなく、単独で1918年3月単独で講和を結び、戦線から離脱します。これで宣戦を西部に一本化したドイツの攻勢は激しさを増します。苦戦を強いられたイギリス、フランスはドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、その一環としてロシア極東のウラジオストクに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵するのです。これが「シベリア出兵」です。ドイツの攻勢激化で手一杯になっているイギリス、フランスには、大部隊をシベリアへ派遣する余力はありませんでした。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診してきます。ここに日米連合軍が結成され、イギリス、フランス、イタリア、カナダ、中国の軍隊が参加した多国籍軍による軍事作戦が開始されます。1918年8月2〜3日にかけてアメリカ・日本はシベリア出兵を宣言、兵力は日米とも同数の8000人程度、出兵範囲はウラジオストクに限るとされていました。
しかしアメリカは、連合諸国との共同出兵を宣言したものの、元来ボリシェビキ政権と事を構える考えはなく、派遣した兵は協定よりも少ない8000人に留め、また現地においても戦闘は避け続けたと言われます。一方日本は独自に兵の増派を続け、7万2000人もの大軍を送り込みます。

レーニン

そして1918年11月に起こったドイツ革命によって第一次世界大戦は停戦し、さらに1919年秋ロシア白軍のアレクサンドル・コルチャーク政権が崩壊したことで、ボリシェビキ革命政権打破の計画は可能性は無くなります。これによってシベリア出兵の目的を喪失した連合国各国は、1920年に相次いで撤兵しましたが、その後も日本軍だけは駐留を続行しました。ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザンとの戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満洲を鉄道沿いにバイカル湖東部まで侵攻し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大しましたが、1922年のワシントン会議でアメリカからの圧力があり、同年10月25日にはシベリア本土から派遣軍を引き揚げました。こうして5年以上にわたる日本のシベリア出兵は、日本軍の戦死者こそ3〜4千人でしたが、零下30度という極寒の地で、凍傷となった死傷者が1万人に達しました。また戦費も、当時の金額で10億円を越え、結果的に「無名の出師(名分のない出征、の意味)」と言われ、何も得ることがなく、国民的な支持もない、無謀な戦争をなぜ続けたのか、ふりかえることが必要だと思います。
アメリカも1920年6月何もせぬままシベリアから兵を撤退させた格好でした。そしてアメリカにとっても、シベリア出兵は矛盾に満ちたもので、ウィルソン自身が言明した「14カ条 平和原則の第6条ロシアからの撤兵・ロシアの自決」に反したものであることは明白で、さらに言えば、このあからさまな内政干渉は、各国の国内改革と戦争政策を言った不可分のものと論じたアメリカの大義を自己否定するに等しかったのです。
ソ連、レーニン率いるボリシェビキにとっては、第一次世界大戦を資本主義国の致命的な帝国主義戦争と見ており、同盟国と連合国の違いを重視していませんでした。むしろ彼らが恐れたことは、資本主義諸国が一致団結して、反革命の干渉戦争を仕掛けてくることでした。そうであるからこそ、このシベリア出兵という列強による「領土侵犯」は許しがたいものだったのです。

第一次世界大戦 終戦

1918年11月11日ヴィルヘルム2世が退位し(ドイツ革命)ドイツは降伏、第一次世界大戦は終結し、翌1919年1月18日戦争処理を話し合うパリ講和会議がスタートします。

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド

ジャズの動き

1917年オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixieland Jass Band 写真左)が、史上初めてと言われるジャズ・レコード("Darktown strutters' ball"/"Indiana")をコロンビアへ吹き込みます(CD解説では1月30日。Webのディスコグラフィーでは5月31日)。これはウィルソン大統領が、第一次世界大戦への参戦を閣議決定し、ドイツに対して宣戦を布告するのとほぼ同時期に当たります。「ダークタウン・ストラッターズ・ボール(Darktown strutters' ball)」は、1年間で100万枚も売れ、年間ヒット・チャート第3位にランクされる大ヒットとなります。この時期のジャズの動きについては、「僕の作ったジャズ・ヒストリー 6 原初のジャズ 1」をご覧ください。

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