1928年11月の大統領選では、共和党のハーバート・フーヴァー(Herbert Clark Hoover 写真右)が、「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて、民主党候補アル・スミスに全48州中40州を獲得し、圧勝します。さらに共和党は、併せて行われた議会選挙で、下院で32議席、上院で6議席増やし、両院で安定多数を確保します。翌1929年3月フーヴァーは、大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている……」と語ります。まさに繁栄の謳歌と言えます。
しかしそのわずか7か月後の1929年10月24日木曜日、ニューヨークの株式取引所で株価が大暴落します。この事件は、アメリカだけに留まらず世界中を巻き込んでいきます。「世界大恐慌」の始まりです。この「事件」が第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制を崩壊させ、さらには第二次世界大戦の要因の一つとなるのです。
ではなぜ「株価大暴落」が起こったのでしょうか?
第一次世界大戦後、戦渦に巻き込まれなかった戦勝国として、アメリカは急速にその生産力を拡大していきます。その生産力は寡占大企業が中心で、自動車、建築等耐久消費財を中心に高い成長を続けていました。寡占大企業による莫大な利益の獲得は、一方で株式に対する配当も急増させます。増大していく配当は高額所得層の収入となりますので、アメリカでは未曽有といってもよいほどの株式ブームが発生していました。株式ブームは、やがて株式騰貴につながっていきます。つまりバブル状態で不健全な投機熱に浮かされていたのです。
こうしたことは持てる者はより以上に利益を得、持たないものは利益を得られないという所得分配の不平等化を生みます。要は持たざる者は、新たな耐久消費財を次々とは購入できず、米国経済の推進力である、耐久消費財需要は限界に達します。生産は29年半ばごろから減少に転じ、株価も9月をピークに下がり始めます。
これを見た投資家(株主)たちは、これまで湯水のようにつぎ込んでいた資金を回収できないのではないかと不安になり、株価の値下がり前に売って利益を確定しようという心理が動いて一斉に株式の売りに出ます。そして1929年10月24日(木曜日)に、ニューヨークのウォール街にある株式取引所で一斉に株価が大暴落するのです。さらにこうした不安に拍車がかかり、企業に投資していた銀行に対し、預金者は一斉に預金を引き出しに殺到し、支えきれなくなった銀行が倒産していきます。後に1929年10月24日は『暗黒の木曜日』と呼ばれるようになります。
株式相場の瓦解は、20年代の好景気を支えた製造業にも多大な影響を及ぼします。不況の4年間で、GDPはちょうど半減し、鉄鋼生産は恐慌前の60%、住宅建設は25%、自動車に至っては、14%にまで落ち込みました。失業者は、総労働人口の25%に当たる1300万人に達し、毎年20万人に近い人々が住宅を失いました。
農業の不況はさらに深刻でした。おそらくは慢性的な生産過剰が原因で、アメリカの農産物価格は、20年代の好況期にも、低迷し続けていたからです。そもそも農業は、製造業などとは収益率で大きな違いがあり、そのことに農民は不満を抱えていました。そうした状況下に大恐慌が勃発し、農産物価格は最初の3年間に恐慌前の約4割にまで下落し、農家の平均所得は1/3にまで落ち込みます。この農業不況と連動する形で、1930年末から銀行恐慌に拍車がかかります。都市部の取り付け騒ぎと農村の地方銀行の急激な経営難は、世界的な金融危機を招き、1931年の1年間で、2300行の銀行が倒産するという最悪の事態に陥りました。
フーバー大統領は、産業界の各種団体や大企業に、雇用と賃金の維持を要請し、また集や自治体に失業対策の実施を勧告するなど、いわば連邦政府の間接的影響力と業界自治の原則に従った政策を推進します。しかし、不況はますます悪化の一途をたどり、大統領にかかる政治的プレッシャーは極大化していきます。フーバーは、これまでにない直接介入的な経済政策を決断を迫られるのです。そして1931年12月の大統領教書は、おそらく初めて、連邦政府による公共事業の実施と民間金融機関への支援を謳うものになるのです。
これを受けて1932年2月全国の銀行に年間10億ドルの公的支援を行う復興金融公社設置法が議会を通過し、続く6月には所得税の税率を25%から63%に引き上げる新連邦歳入法が成立し、7月には自治体の失業対策への連邦資金投入を定めた緊急救済建設法が成立しました。しかし不況は収まらず、1932年11月までには、米国の労働者のほぼ5人に1人が失業していました。右の写真は職を求めて並ぶニューヨークの失業者の列です。
第一次世界大戦後、アメリカは世界最大の債権国となっており、世界経済はアメリカ経済に依存する体質になってしまっていました。そのことから1929年アメリカのウォール街で株価が大暴落し、アメリカの経済が破綻すると、必然的に世界経済の破綻へとつながっていきました。恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及していきました。それは全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、32年末には全世界の失業者は5000万人を越えたと推定されています。
持てる国イギリスとフランスは、「ブロック経済」を敷いて、この難局を乗り切ろうとしました。イギリスは1932年カナダのオタワで、イギリス連邦経済会議を開催、イギリス本国・自治領・植民地の間でのみ貿易を行うことを決定します。このような本国と植民地の間でのみ貿易を行うような、排他的な貿易政策のことを ブロック経済 といいます。このイギリスの採った政策を「スターリング=ブロック(Sterling bloc)或いはポンド=ブロック(Pond bloc)」と呼びます。フランスも同様に、植民地・友好国の関税を下げ、それ以外の国に高関税を課すブロック経済「フラン=ブロック(Franc bloc)」を敷いて対応しようとします。
この恐慌が深刻な影響を及ぼしたのが、持たざる国<日本>と<ドイツ>でした。
アメリカの『暗黒の木曜日』に端を発する恐慌の前1927年には、日本は既に金融不安に陥っていました。戦敗国ドイツがドーズ案によって繁栄を謳歌していたのに反して、なぜ戦勝国である日本が金融不安に陥っていたのでしょう。
そもそも日本には外資の流入が少なく、国内市場は狭く、資本力も脆弱でした。ただ第一次世界大戦時は、軍事産業の好況(大戦景気)などがあったのですが、終戦後1920年ごろから一転して戦後不況に陥り、企業や銀行は不良債権を抱えていました。そこに追い打ちをかけるような大事件が発生します。1923年9月1日に発生した関東大震災です。首都圏に起こったこの大震災は、日本経済に大混乱を起こします。この未曽有の事態に対応するために政府は震災手形を発行しますが、そもそも不況にあえいでいた中での災害であり、震災手形は回収できない不良債権化し、その数は膨大なものになります。折からの不況を受けて中小の銀行は経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていました。
その不況の火に油を注ぐような事件がさらに起こります。1927年3月15日衆議院の予算委員会において、蔵相吉植正一郎の失言により、渡辺銀行が破産に追い込まれたことでした。この事件は、渡辺銀行が取り付け騒ぎにあっているところに引導を渡すような形になったのですが、騒動はこれに留まらず、民衆は銀行など金融機関に押しかけ(写真右)、取り付け騒ぎが大きくなり、経済混乱に陥ります。
そこにアメリカから世界恐慌の大波が押し寄せたのです。輸出に依存する日本経済は、世界恐慌に伴う輸出の不振は、日本の徹底的に苦しめました。世界恐慌への対応策としてイギリス、フランスがブロック経済体制を敷き、大英帝国、フランスが全植民地を保護関税の高い塀で囲み、同じくアメリカがアメリカ大陸を保護関税で囲ったとき、日本経済は苦境のどん底に落ち込みました。
このような大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加し、農村は相次ぐ自然災害も加わり貧困に喘ぎ疲弊する中、それらの問題に政党政治は有効に対処できず敵視されるようになっていきます。1931年政友会犬養毅内閣の蔵相高橋是清内閣は、金輸出再禁止、史上初の国債の日銀直接引き受けによる政府支出の増額、公共事業などケインズ経済学を先取りする財政資金投入策を実施し、経済の立て直しを図ります。しかし軍事予算を抑制しようとしたことで、軍部の恨みを買い、1936年2・26事件で軍部に暗殺されてしまうのです。
第一次世界大戦後パリ講和会議によって策定されたヴェルサイユ条約によって、敗戦国ドイツは植民地と領土の一部の割譲、莫大な賠償金の支払い、軍備の制限を負わされていていました。社会、経済とも大きく混乱していました。しかし1923年ごろからインフレは沈静化し、安定期を迎えつつありました。さらに1924年「ドーズ案」の決定により、翌1925年からドイツは、かなりの繁栄を享受していました。
ところが1929年10月『暗黒の木曜日』に端を発する取り付け騒ぎが起こると、アメリカ資本は一斉にドイツへの資本輸出を止めざるを得なくなります。ドイツはアメリカからの資本導入によって戦争賠償金を払ってきたわけですから、アメリカからの資金が止まれば賠償金は支払えなくなります。こうしてドイツはアメリカと共に経済的に奈落の底に突き落とされることになるのです。
1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となってしまいます。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援(ドーズ案)で経済が成り立っていましたので、ドイツ経済が破綻すれば、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻します。ドイツでは3人に1人が失業します。1931年6月、時のブリューニング首相(写真左)は賠償支払いが困難であることを声明するのです。
フーバー大統領は、国内においてこれまでにない直接介入的な経済政策を決断しますが、これらは彼本来の政治哲学とはかけ離れたものでした。また彼の取った対恐慌対策の特徴的な施策の一つに国際的なアプローチが挙げられます。フーヴァー大統領は、1931年6月のドイツの賠償支払いが困難であることの声明を受けて、アメリカのフーヴァー大統領はモラトリアム(フーヴァー・モラトリアム)を実施します。このフーヴァー・モラトリアム(Hoover Moratorium)は、そもそも世界恐慌によって財政危機に陥ったドイツを救済するために行った債務支払猶予措置でした。西洋諸国によるアメリカへの債務支払いを1年猶予すると同時に、ドイツによる西欧諸国への賠償支払いに1年の猶予を与えたのです。1931年6月20日にフーヴァー大統領が声明を発表するとフランスは即座に反対しましたが、モラトリアムは7月6日までに15カ国からの支持を得て、アメリカ議会は12月に承認しました。
また彼は、世界的な自由貿易の推進に不況脱出の可能性を信じ、ロンドンでの経済会議の開催にお執念を燃やすのです。大恐慌の影響を受けたイギリス、フランスなどは既にブロック経済へと舵を切っていましたが、これを阻止し、貿易を再活性化しようとしたのです。このフーバーの国際協調路線は、20年代の外交からの継続と見ることもできますが、同時彼の政権が、大恐慌の原因を国内問題というよりも、むしろ世界規模の経済構造に求めていたことにもよります。そのことは翻って見れば、長引く不況に呻吟するアメリカ民衆の暮らしに対する、政府の鈍感さにつながっていたとも言えます。
恐慌が勃発して以降、フーバーは庶民を見殺しにして、銀行をはじめとする富裕層のみを保護しているというイメージが次第に広まっていました。そして1932年7月のボーナス・アーミー事件は、その悪評を決定的なものにしてしまうのです。ワシントンDCには初夏のころから、困窮した退役軍人1万7000人を含む4万3000人の群衆が全国から集まり、第一次世界大戦の恩給を前倒しして、即時現金で支払うことを要求しました。写真右はそのデモの様子。しかし議会は、彼らを救う法案を否決します。しかしこれに納得できない約2000人の元兵士が、キャンプ生活しながらワシントンに残ったのです。すると政府は、彼らに「破壊分子」のレッテルを張り、FBIの監視対象としたのです。しかし彼らは、7月後半になっても大統領の退去命令に従いませんでした。そしてついに7月28日夜ダグラス・マッカーサー率いる連邦第12歩兵連隊とジョージ・パットン率いる第3騎兵連隊によって、テントは焼かれ、力づくで追い散らされるのです。このニュースは、瞬く間に全米を駆け巡り、フーバーに対する失望は深まっていくのです。
さて、この時代の重要な事項として、ボルステッド法(Volstead act正式名:国家禁酒法 National prohibition act)が1919年1月16日に3/4の州が批准し憲法の修正条項が成立し、翌年1月16日に施行されたことが挙げられます。
いわゆる「禁酒法」ですが、下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドに因んで「ボルステッド法」と呼ばれています。ノンベェの僕には「天下の悪法」と思えますが、KKKなどは、「高貴な実験(The Noble Experiment)」といって支持したそうです。
どうしてこのような法が成立したのでしょうか?19世紀後半から20世紀初頭にかけて起こった、革新主義運動により、北アメリカの多くの地域社会で、徐々に悪徳行為、特にギャンブル、アルコール、麻薬に対する規制を強化するようになりました。その中でアルコールに関するこの法律は、特にプロテスタントの福音派教会と酒場反対連盟によって推進され、酩酊、軽犯罪、家庭内暴力、酒場政治の腐敗を減らすことが目的で考えられたと言います。
この法律の成立により、酒の製造・販売は出来なくなります。ではアメリカ国民は皆断酒したかというとそういうわけにはいかなかったようで、違法な酒の流通および無許可での製造・販売が激増するのです。
その代表的存在がシカゴのアル・カポネ(Al Capone:1899〜1947)とその一味で、彼らは違法なアルコールの売り上げで何百万米ドルもの大金を稼いだと言われます。カポネは1929年「セント・ヴァレンタインデーの虐殺」と呼ばれる抗争事件で、対立するジョージ・モラン一味を暗殺し、シカゴの闇の世界の帝王となります。その後彼は、拳銃の不法所持で自作自演で逮捕され、1929年5月17日から1930年3月17日まで収監されます。もちろんそうはいっても彼の待遇は特別で、刑務所内でも豪華な暮らしをしていたようです。しかしそこに登場するのが連邦捜査官エリオット・ネス(Eliot Ness:1903〜1957)率いる「ジ・アンタッチャブル」です。カポネ一味と「ジ・アンタッチャブル」との凄絶な戦いは映画やテレビドラマにも有名です。実際にギャングとの銃撃戦で連邦捜査官500名もの殉職者を生み、市民やギャングも2千人以上が死亡したと言われているそうです。ネス達は、彼等はカポネの脱税を告発し、カポネは1931年10月7日に始まった裁判で有罪となり、1931年10月24日イリノイ州クック軍の刑務所に収監されたのです。
一方ニューヨークの闇の世界で活躍するのがマフィアです。当時ニューヨークの闇の世界では、激しいマフィア同士抗争、ジョー・マッセリア一味とサルヴァトーレ・マランツァーノ一味の間のカステラン・マレーゼ戦争が起きていました。色々紆余曲折はあるのですが、マランツァーノ一味に加担したラッキー・ルチアーノ(写真左)が1931年4月15日コニーアイランドのイタリアン・レストランでマッセリアを殺害、ニュー・ヨーク・マフィアの大ボスにのし上がっていきます。やがてはマランツァーノも暗殺し、ニュー・ヨークの暗黒街支配するラス・ボスとなっていきます。このラッキー・ルチアーノこそが映画『ゴッド・ファーザー』のモデルです。
このような中で、1932年11月8日第37回大統領選挙が行われます。共和党は二期目を狙うフーバーが指名を受け、民主党はニューヨーク知事だったフランクリン・ルーズヴェルトが指名を受け、選挙戦が行われます。民主党側は、フーバーの不況対策がうまくいっていないことを突き、「私は貴方たちに誓う。私は自分にも誓う。アメリカの人民のために新しい方法(ニュー・ディール政策)を行うことを」と述べて、ニューディール政策でアメリカの大恐慌と自ら戦うと宣言したルーズヴェルトが、獲得選挙人数472対59と圧勝するのです。同時行われた連邦議会選挙でも、民主党が下院で97議席、上院で12議席増やすことに成功し、大戦後12年間続いた共和党政権は終わりをつげ、以後1969年までの36年間民主党が政権を担うことになります。
こうして1933年3月4日フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt 写真左)が第32代大統領に就任します。ルーズヴェルトは、就任した翌日3月5日は日曜日にも拘らず、公約の「ニュー・ディール政策」を実行に移すべく、議会に働きかけて、矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策を審議させ、最初の100日間でこれら主要15法案を成立させ、猛烈な勢いで改革が進行していることを印象付けます。
| ・緊急銀行救済法(Emergency Banking Act) |
| ・AAA(Agricultual Adjustment Act:農業調整法)による生産量の調整 |
| ・FERA(Federal Emergency Relief Act:連邦緊急救済法)による失業者救済 |
| ・NIRA(National Industrial Recovery Act:全国産業復興法)による労働時間の短縮や最低賃金の確保 |
| ・ワグナー法「全国労働関係法」による労働者の権利拡大 |
| ・PWA(Public Works Administration:公共事業局)による公共事業の推進 |
| ・CCC(Civilian Conservation Corps:市民保全局)による大規模雇用 |
| ・TVA(Tennessee Valley Authority:テネシー川流域開発公社) |
イタリア社会党を除名されたムッソリーニ(Benito Mussolini 写真左)が、1921年「国家ファシスト党」を結党、同年の総選挙で当選していましたが、そもそも議会政治に頼る気はなく、私兵組織「黒シャツ隊」を組織します。そして1922年、4万人の「黒シャツ隊」に、ローマに進軍させるのです。国王は、この事態を収拾できるのは、「国家ファシスト党」のムッソリーニしかないと判断し、彼に組閣を命じるのです。ムッソリーニは1924年「独裁」を宣言して、独裁制を強め、1926年にはファシスト党による一党独裁制を確立します。独裁政治のことを「ファシズム」といいますが、その言葉の由来は、このムッソリーニの「国家ファシスト党」から来ています。
1930年の世界恐慌によってドイツは壊滅的な打撃を受け、1931年6月賠償支払いが困難であることを声明、1931年12月フーヴァー・モラトリアムが実行されることになりますが、効力はありませんでした。そんな社会不安の中で台頭してくるのが、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler 写真右)を指導者とする国家社会主義ドイツ労働党(ナチ党)です。
ヒトラーは、第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎませんでした。戦後にはバイエルン州において、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首として、アーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになっていました。そして1923年フランスのルール占領という事態に、弱腰の対応しかできない当時のヴァイマル共和国に対して、武力クーデターを企てます(ミュンヘン一揆)。企ては失敗しますが、反ヴェルサイユ体制の指導者としてヒトラーの名前はドイツ国内に広まるのです。ヒトラーは、選挙という正当な手続きで議会に多数を占め、権力を握るという路線に転換し、そのためには宣伝と行動によって大衆の心をつかむことをめざすようになります。
そしてヒトラーは、1932年2月大統領選挙に立候補します。結果はヒンデンブルク得票の約5割、に敗れますが、約3割を獲得し、次点となります。さらに続く7月の国会議員選挙では、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が第一党になり、1933年1月ヒトラーはドイツの首相に就任し、ナチ党政権が誕生するのです。そして1934年8月2日ヒンデンブルグが大統領在任のまま死去すると、直ちに大統領の職務を首相の職務と合体させる法律を発行させ、ヒトラー個人に大統領の職能を移します。これでヒトラーは首相と大統領の権限を併せ持つ「総統」というドイツにおいて唯一の絶対権力者となるのです。
ヨーロッパにおける第二次世界大戦の勃発を、すべて一人の個人、アドルフ・ヒトラーにせいにすることは、さすがに短絡極まるとは思います。しかし、ではこの人物が登場しなくても、あのような規模で大戦は勃発したかと問われて、明確に「社会情勢からみて勃発した」と答えられるでしょうか?そのくらい彼の存在は大きいと言わざるを得ません。歴史学者エーバーハルト・イェッケルによれば、ヒトラーほど自分の理想とする世界を思い描き、一貫してその目標を追求し続けた政治家は稀だそうです。つまりその掲げた理想、目標がいかに誤っていたとしても、一切ブレることなくその理想を追求し続けた人物ということになります。そしてその理想、目標は著書『我が闘争』(写真右 当時の物ではない)に明確に書かれており、その通りに実行していったのです。
第一次世界大戦の敗戦国であったドイツは1926年に国際連盟加入を認められていました。国際連盟は加盟国に最低限まで軍備を縮小することを求めていましたが、連合国側には「最低限まで軍備を縮小」という曖昧な表現にとどまる一方、ドイツには「陸軍は兵力10万人以内、海軍は1万6500人が上限、空軍は全面禁止」と決められていました。
このようなヴェルサイユ体制の下、ナチ党を率いるヒトラーは、領土を削減され、植民地の放棄、軍備の制限、過重な賠償金を押しつけられたとして、その打破を国民に訴えていました。そして1932年から始まったジュネーヴ軍縮会議に出席したドイツはこのような不平等な軍縮体制に反発し、1933年10月国際連盟を脱退します。実際には国内で密かに軍備拡充を進めていましたが、これ以降ドイツは大々的に軍拡への道に突き進んでいくことになります。
ドイツでは翌1933年、ナチス政権が成立しますが、ヒトラーはヴェルサイユ体制打破、賠償金支払い拒否を公約していたので、結局賠償金の残りは支払われることはなく、事実上、消滅します。イギリスとフランスはドイツからの賠償金が入らなくなると、自国の戦後復興が困難になるだけでなく、アメリカへの戦債の支払いができなくなります。そこでローザンヌ協定の批准の条件としてアメリカに対して戦債の帳消しを要求しますが、アメリカはそれに応えず、結局ローザンヌ協定は実行されることなく、ドイツの賠償金、イギリス・フランスの対米戦債はうやむやのうちに消滅します。賠償問題の消滅は、第一次世界大戦とヴェルサイユ体制でつくり出された、ドイツ賠償金とアメリカへの戦債の支払いによって資金が回るという世界経済の構造が、それ自体が構造的要因となった世界恐慌によって崩れ去ったことを意味しています。
1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加、農村は相次ぐ自然災害で貧困に喘ぎ疲弊する中、それらの問題に政党政治は対処できず敵視されるようになっていました。
さらに日本は、四カ国条約や海軍軍備制限条約などのワシントン体制により、山東省権益を放棄など中国での権益が抑えられ、締め付けられていました。また議会は軍縮により削った軍事費を民政に回す方針を打ち出すと、軍部は一斉に反発を強めます。軍は統帥権干犯問題を持ち出し、議会と対立を深めます。軍の一部急進派は、政治家による「現在の腐敗した政治」を、クーデターにより覆し、軍主導の政権の樹立を目論み、1931年3月には、本格的な蜂起を計画(三月事件や十月事件)するようになります。この事件は未遂にの内に抑えられますが、世情は緊迫していくのです。
世界恐慌の影響を免れた国があります。ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)です。ロシア革命後国内は大いに乱れますが、最終的にはレーニンが主導するロシア共産党が政権を奪取します。1924年絶対的指導者レーニンが死去すると、スターリン(写真左「鋼鉄の男」という意味のあだ名。本名はヨシフ=ヴィサリオノヴィチ=ジュガシヴィリ)とトロツキーの間で後継者争いが起こります。激しい闘争の末勝利したのは、スターリンであったことはご承知の通りです。そして1929年までにはスターリン独裁体制を築き上げます。
スターリンは、社会主義国家の建設を目指し、1928年10月に第1次五カ年計画を決定し、工業の重工業化と翌1929年からコルホーズ・ソフホーズによる農業集団化を推し進めていきます。つづく第2次五カ年計画も含めた10年間を通して、スターリン体制のもとでの社会主義国家建設が続いていきます。しかし急速な工業化と農村の集団化に批判的な政治的対立者は次々と排除され、独裁体制の政治手法に批判的な人々も厳しく処罰されて投獄されたり、シベリア送りにされました。そして最終的には数多くの人々が抹殺されるのです。正確な数値は分かっていませんが、1990年秘密警察KGB長官は、1930〜53年の間に380万人を拘留し、78万6千人が死刑判決を受けたと証言しています。これでも大変な数字ですが、そんなものではなかったという研究結果も発表されているようです。1930年代に行われたこれらスターリンの弾圧は『大粛清』と呼ばれています。スターリンは、ドイツ、イタリアにファシズムが台頭すると、1935年に開かれたコミンテルン(共産主義運動の国際会議)第7回大会で方針を「反ファシズム統一戦線」を提唱しますが、自らが行っていることこそ典型的な「ファシズム」でした。
イタリア、ドイツ、日本、ソ連が反ヴェルサイユ体制、反軍縮に突き進む中、アメリカ合衆国は、ともかく国内政策―不況からの脱出に専念していたように思えます。
1933年3月大統領就任後、ルーズヴェルトがまずもって着手しなくてはならなかったことは、すでに38州に波及していた銀行パニックへの対応でした。ルーズヴェルトは、長く停止していた、第一次大戦期の対敵通商禁止法を活用し、3月6日か強制的に、全米の銀行を休業させました。その上で3月9日に招集した議会で緊急銀行法を即日通過させ、フーバーが創設した復興金融公社に銀行株を買い取らせる形で、銀行システムの信用を回復しようとします。こうして全米の銀行は3月13日に再開しましたが、見事に騒擾は沈静化していたのです。ただしこの奇跡的とも思える効果は、ルーズヴェルトのカリスマ的人気によるところが少なくないようですが。ルーズヴェルトは、銀行再開の前夜ラジオ放送で、直接茶の間の大衆に銀行の安全性を訴えました。そんな新大統領には連日国民から激励と期待、救済の望みをしたためた無数の手紙が届いたそうです。その数はその1週間で45万通にも上り、その後も平均1日7000通の手紙が届いたそうです。
1932年の大統領選挙では禁酒法も大きな争点となります。失業対策と農家救済が叫ばれる中、フランクリン・ルーズベルトは禁酒法の改正を訴えて勝利したのです。アメリカ合衆国大統領となったルーズベルトは、1933年3月23日にボルステッド法のカレン=ハリソン修正案に署名したことで、特定の種類のアルコール飲料の製造・販売が許可されることになります。さらに1933年12月5日に、アメリカ合衆国憲法修正第21条は修正第18条を廃止します。つまり「禁酒法」は廃止されたことになります。しかしカンザス州では1987年まで、バーの様な屋内の中で酒類を提供することを許可せず、ミシシッピ州も1966年まで禁酒法を廃止しませんでした。そして、今日でも酒の販売を制限したり禁止する「ドライ」な郡や町も多数残っているのです。
100日間で成立された15法案の中でも注目すべきは、この農業不況への対策だと言われます。農業不況対策は、最優先課題の一つに掲げられており、それが具体的な形となったのです。実際1933年の春、米国経済の農業部門は崩壊状態にありました。この問題の背景には、アメリカ農業全般に構造的な生産過剰があり、それゆえ農産物価格が長期低迷してきたという問題があったのです。この法の施行により、1932年から1935年までの間に、農家の収入は50%以上増加しましたが、その一部は連邦政府の各種事業によるものでした。農民が農地の縮小を奨励され、小作人が行き場を失っていたまさにこの時期に、大平原地帯の各州が厳しい干ばつに見舞われます。1931年から1939年にかけ、アメリカ中西部の大平原地帯で、断続的に発生した砂嵐(Dust bowl ダストボウル)が発生し、作物は全滅し、多くの農家は破産しました。(写真左は1935年テキサス州に起こった砂嵐)
1933年5月12日に成立した農業調整法(AAA)の趣旨は、小麦や綿花等の主要作物の生産制限を、広く農民に求め、「減反」のインセンティヴとして、政府補償金を供与するというものでした。補償金の財源は、作物を加工する産業への課税によって調達されることになっていました。しかしながら、この法律が制定されたときにはすでに作物の生育期に入っており、政府は農民に補償金を支払って豊作だった作物を鋤で掘り起こさせたのです。作物の減産、および作物を買い上げて貯蔵する商品金融公社(CCC : Commodity Credit Corporation)の補償金により、生産高は下がり、価格は上昇したのです。
特に南部では、大恐慌期に農場の倒産が多発し、何とか生き延びた経営者も小作農に対する前貸しが困難になっていました。1931年夏アラバマ州で組織されたシェアクロッパーズ・ユニオン(刈り分け小作農組合)は、夏の間の前貸し一時打ち切りの再開を求め、また同時に自家菜園の耕作を認めるよう要求します。元々前貸しは、小作農を債務超過に陥れ、地主の小作農に対する恩情的支配を支える手段でしたが、ユニオンは逆に、地主に恩情的支配の義務を果たすように要求したのです。小作農に前貸しができなくなった地主は、黒人たちに小作農地での菜園の耕作を認めざるを得なくなり、前貸しによって黒人を縛り付けておくプランテーションとしての機能は弱まり始めます。
また、南部の農村商人や銀行家、プランターは、その危機を乗り切るために、債務不履行に陥っていた黒人の物件を収奪し、資金を回収しようとします。1932年12月19日、シェアクロッパーズ・ユニオンが、組合員の抵当物件没収に抗議して、警察官と揉みあいとなり、ついには銃撃戦に発展し、白人武装集団が動員される事件が発生します。その結果、数人が死亡、多くの人々が負傷し、11人が裁判にかけられ、有罪判決を言い渡されます。
1933年に成立した農業調整法によって、小作農にも作付けの済んだ畑などを掘り起こせば、その分だけ連邦政府から補償金が受け取れるはずでした。しかし南部の地主たちは、小作農たちへの補償金を、自分の債務返済などに充て、小作農には渡しませんでした。翌年からは、小作農にも補償金が支払われる仕組みができましたが、多くの地主たちは、小作契約を解約し、その土地を減反分に充て、補償金を独占しました。そして彼らは、直営地で、換金作物を栽培し、農繁期にだけ、黒人を賃金労働者として働かせたのです。そして農閑期には、連邦政府の各種の救済事業によって黒人たちの生活を維持させようとしたのです。
アーカンソー州では、南部小作農組合が組織され、農業調整法による小作農追い立てに抗議する活動が行われ、またアラバマ州では、シェアクロッパーズ・ユニオンが綿摘みストライキを宣言しますが、白人武装集団が動員され、徹底的な弾圧に会い、数多くの視野が出る事態となりました。
ダスト・ボウルに襲われ、1940年までには、250万人が大平原地帯の諸州を脱出しました。これは米国史上最も大規模な人口の移動でした。このうち20万人はカリフォルニア州へ移住します。移住したのは農民だけではなく、専門職者、小売店主、その他農業社会の繁栄に依存して生計を立てていた人たちも含まれていました。その多くは、極めて低い賃金で作物を収穫する季節労働の仕事をめぐって競争しなければなりませんでした。
ダスト・ボウルに襲われ、故郷を捨てカリフォルニアに向かう小作人の一家。しかしカリフォルニアも安住の地ではなく、散々苦渋を強いられる物語を描いた映画が『怒りの葡萄』(左はそのポスター)です。1939年にジョン・スタインベックが発表した同名の小説を、ジョン・フォードが監督、主役のトム・ジョード(Tom Joad)は、ヘンリー・フォンダが演じました。1940年のアカデミー賞で監督賞とジェイン・ダーウェルが助演女優賞を獲得しました。この映画を見ると、彼らの苦悩がよく分かります。またロック・ミュージシャン、ブルース・スプリングスティーンは、このトム・ジョードを題材にした”Ghost of Tom Joad”を1995年にリリースしていますね。
さて、政府は、1935年に土壌保全局を設置する形で援助を提供します。それまで土壌を疲弊させる耕作法が行われていたために、干ばつの影響が一層大きかったのです。土壌保全局は、土壌の侵食を抑える方法を、農民に指導し、長さ3万キロメートルに及ぶ防風林が植えられました。
農業調整法は、概ね成功を収めていましたが、1936年食品加工業者に対する課税は違憲であるとの最高裁判決が下されたため、同法は廃止されました。連邦議会は直ちに、土壌保存のために農地耕作を停止した農民に政府が補助金を支払うことを許可する農業救済法を可決して対応しました。1938年には、最高裁でニューディール支持派が過半数を占めるようになり、議会は農業調整法を復活させます。1940年までには、600万近い農民が連邦政府の補助金を受けていました。ニューディールの各種事業は、余剰作物を担保とする貸付、小麦の保険、そして食料の安定供給を保証するための計画的貯蔵などを提供しました。こうして多額の費用と政府の多大な介入を必要としながらも、農業の安定がかなりの程度で達成されるのです。
ルーズベルトが大統領に就任した1933年には、1300万人もの米国民(労働力の4分の1以上)が失業しているという前例のない状況でした。食料の無料配給所で列を作る人々の姿が、ほとんどの都市で普通に見られ、何十万もの人々が、食料、仕事、住居を求めて、全米各地を渡り歩く有様でした。当時"Brother, can you spare a dime ?"(兄弟、10セント恵んでくれないか 写真右)という歌が流行ったほどです。
このような状況に対し、ルーズヴェルトの「百日議会」は、AAAと同じ5月12日に、連邦緊急救済法(FERA)を成立させます。この法は、失業者の救済事業を行う州に対して、連邦政府が、総額5億ドルを供与するという画期的なものでした。この法を実施する機関として、新たに連邦緊急救済局(Federal Emergency Relief Administration:FERAと略)を新設し、主に直接支払いという形で、何十万もの人々に直接的な救済を供与したのです。また、同局は学校の教師やその他の地方公務員の給与を肩代わりして支払うこともありました。
また、民間事業局(Civil Works Administration:CWAと略)も1933年末から1934年春にかけて、同様の各種プロジェクトを展開しました。雇用創出のための「不要な作業」と批判されたこれらのプロジェクトによる雇用には、溝掘りから高速道路修理工事、そして教員まで、様々な事業が行われました。ルーズベルト大統領と主な側近は、そのコストを懸念しましたが、福祉より失業対策を重視するこれらの制度を続けました。
しかしこの連邦緊急救済局は、1935年12月でその役割を終えます。それは、救済申請者の選別は各地地域社会に委ねられていたことから、選別の過程で、理不尽な人種差別や依存者としてのレッテル貼りが横行し、困窮者の人格を貶めるような事例が頻発していたからです。そのため1936年以降は、公共事業促進局(Works Progress Administration : WPAと略)と社会保障局(Social Security Board : SSBと略)によって引き継がれ、公的な雇用を活用する失業者救済方式に移行していくのです。
因みに、"Brother, can you spare a dime ?"は、1932年ブロードウェイのミュージカル「アメリカーナ」(Americana)で使用されたナンバー。当時最も人気が高かった男性シンガー、ビング・クロスビーが歌ったレコードは、1932年度年間ヒット・チャート第2位にランクされるヒットとなりました。しかも第3位も、ルディ・ヴァレー&彼のコネチカット・ヤンキーズが歌った同曲。異なる歌手が歌った同一曲が、2位、3位にランクされるというのは、極めて珍しいことで、それほどこの時代に人々の心情を現した曲ということが言えるでしょう。さらにジャズ評論家油井正一氏によると、ビング・クロスビー最大のヒット曲は、超有名な「ホワイト・クリスマス」ではなく、この曲とのことです。
全国産業復興法(National Industrial Recovery Act:NIRAと略)も、百日会議のもう一つの目玉でした。1920年代には、労働運動が激しく弾圧され、1921年には500万人だった組合員数は、1933年には300万人以下になっていました。そして大恐慌の下で、解雇反対運動やストライキを戦い、雇用側と闘っていました。1933年に、全国産業復興法(NIRA)により、全国産業復興局(National Recovery Administration:NRAと略)が設置されました。NRAは、雇用を増やし、購買力を高めるため、産業ごとに同業者団体を組織し、それぞれに生産量や価格、賃金等を定めた「公正競争規約」を作らせるものでした。各業界に、いわば「自主規制」を求めることで、過剰生産とデフレを抑制し、熾烈な競争に終止符を打とうとしたものでした。NRAは当初は歓迎されましたが、間もなく過剰な規制を批判され、産業の復興を達成するには至らず、1935年には違憲であるとの判決が下されてしまいます。
この違憲判決を受けて、その中の労働者の権利についての部分を改めて立法化したものが、全国労働関係法(National Labor Relations Act)です。この法律は、起案した民主党の上院議員ロバート・ファーディナンド・ワーグナー(Robert Ferdinand Wagner)に因んで、「ワグナー法」(Wagner Act)と呼ばれます。ワグナー法は、経済的には労働者に購買力を付与し、国民所得の賃金部分を増大させ、所得再分配を実現しようと意図したものでした。そのため、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権を保障し、具体的方式として組合の代表権に多数決原理を採用し、労働者の権利を国家的に保障する機関として「全国労働関係委員会」(National Labor Relations Board:NLRBと略)を設置し、広範な権限を付与しました。また、雇用者の「不当労働行為」(組合に対する干渉、抑圧、強制、援助、妨害、雇用条件による差別、組合活動を理由とした解雇、団体交渉の拒否)を禁止したのです。当然産業界は猛烈な反対運動を展開しましたが、議会における民主党の多数とアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor:AFLと略)など労働界の支持で成立しました。このことにより、アメリカ合衆国の労働運動は、法的保護のもと未曾有の組織化が進んで行くことになります。
全国産業復興法(NIRA)により、公共事業局(Public Works Administration:PWAと略)が創設し、33億ドルの予算を計上します。PWAは、主として各種の中規模・大規模プロジェクトで、熟練建設労働者に雇用を提供しました。PWAは、その後の数年間で1万1000件以上の道路、ハイウェイを建設し、7500近い学校校舎を建設しました。これらの多くの業績の中でも最も重要なものとしては、太平洋岸北西部のボンネビル・ダムとグランド・クーリー・ダム、シカゴの新しい下水設備、ニューヨークのトライボロ・ブリッジ、そして米国海軍の空母2隻(ヨークタウンとエンタープライズ)の建設などが挙げられます(写真右は、建設中のボンネビル)。
1933年百日会議は、3月31日には緊急資源保全法(Emergency Conversation Work Act:ECWと略)が成立します。そして、翌月よりこの法に基づく、市民保全部隊(Civilian Conservation Corps:CCCと略)という組織が発足します。CCCは、失業中の18歳から25歳までの若い未婚男性を対象に、国立公園等での植林や施設建設の仕事に従事させるプログラムでした。最盛期には30万人、10年間では延べ200万人に達したCCCに入った若者は、軍隊が運営するキャンプ生活が基本で、土壌浸食を防ぐための植林や国有林の保全、河川の汚染除去、魚・動物・鳥の保護区の作成、および石炭、石油、シェール、天然ガス、ナトリウム、ヘリウムの鉱床の保護など、さまざまな環境保全プロジェクトに携わりました。こうした労働を通じて、道徳的な健全性を回復できると考えられたのです。写真左はCCCに参加を呼び掛けるポスター。なお、CCCは黒人を排除はしませんでしたが、1935年夏までは、全キャンプは人種別となっていました。
また日本でも有名なテネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority:TVAと略)は、失業対策兼公共計画の直轄事業として、行われました。この事業は緊急の失業対策であると同時に、地域社会の経済開発に重心が置かれたいた点が特徴といえます。TVAは南部7州に広がる渓谷一体に何カ所かの水力発電所を建設し、洪水対策を行い、そこで生み出される安価な電力によって、恐慌で荒廃した農村地帯を電化し、また窒素系肥料を生産して農業の近代化を図るというものでした。加えてTVAは、当該地区で失業者の雇用や産業誘致、さらには住民の健康、衛生状態の改善にも取り組む、総合的な社会政策のパッケージでもありました(右図はその計画全体)。そして、南部農村に派遣された多くの専門家が、最新の農事技術や防災の知識を現地農民に伝え、営農と地域社会の再建に尽力するという、草の根リベラリズムの側面も併せ持っていました。また、TVAはこの地域に安価な電力を提供することによって、経済の発展を刺激しました。これらの前例のない大規模な連邦資金の投入とインフラ整備が冷え切った経済を再び活性化させ、大衆の購買力の増進にもつながる景気浮揚の「起爆剤」になると期待されたのです。
ルーズベルト大統領と民主党が牽引する「百日議会」は、矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策、主要15法案を成立させ実行に移していきます。全国産業復興局(NRA)数々の施策を実行にするにあたって、「青鷲運動」(Blue eagle)なるキャンペーンを展開します。これは、各産業ごとに作成された「公正競争規約」への参加と遵守を、民間企業や個人事業主に求めたもので、加盟した事業者には、「NRAー自分の役目を果たします」(写真左))とインジされたピンバッジや店舗用バナーを配布し、非加盟社との差別化を行ったものです。
またニューヨークのなどの都市部では、大規模なパレードが開催され、巨大な青鷲の彫像が展示されました。1933年9月に行われたニューヨークのパレードには25万人が参加し、「NRA支持」を叫んだと言われます。正に戦時を思わせるような、国家総動員的、扇動的なキャンペーンが行われたのです。
ルーズヴェルトは、半ば確信犯的に、アメリカ憲政の情動を踏み越えて、強権的な大統領になろうとしていていたと評価されても仕方がないと思われますが、当時の危機的な情勢にあっては、そうした全体主義的な手法が、一定の支持を得ていたことも事実です。
ニュー・ディールは初期の2、3年間に、数々の優れた立法を実現させ、生産と価格の大幅な上昇を達成したが、大恐慌を終わらせることはできませんでした。目前の危機が緩和されるに従い、新たな要求が出てきた。事業家は「自由放任」主義の終わりを嘆き、産業復興法の規制にいら立った。政治的な左派からも右派からも、経済的問題の解決策を掲げた夢想家、策略家、そして政治家が登場し、国民がこれに耳を傾けるにつれ、現状に対する不満の声が高まりました。
まず産業界からはNRA体制への不満が表明されます。NIRA法第7条a項の労働者保護への強い抵抗があり、「規約」を通した国家行政の介入を忌避する雰囲気が醸成されていました。中でも1934年4月に鶏肉販売業界に成立した「規約」に関して、政府が違反業者を提訴した事件では、紛争が最高裁まで持ち込まれた挙句、政府が敗訴するという事態に発展しました。1935年5月に出された最高裁判決は、NRAが「規約」を当該業界の成員に強制する行為は、本来立法府に帰属する権限であり、憲法が定める行政の範疇を逸脱するというものでした。もしこの裁判に従うなら、百日議会で生まれた無数の独立行政機関は、いずれも憲法に違反し、無効とならざるを得ません。
その他にも様々な反発が噴出します。
・1934年「我らの富を分かち合おう」クラブという政治運動が旗揚げし、富裕層への増税と徹底した再分配を主張。
・60歳以上の市民に毎月200ドルを支給する老齢年金を提唱。この年金プランの普及を目指す団体は全国で、3400にも達した。
・農民休日連盟は、農業調整法(AAA)の生産制限を批判、1933年10月から農産物の出荷を拒否。政府が減反ではなく、農産物の生産コストから割り出した適正価格を無条件で保証するべきと主張した。
・労農革新主義の第三政党運動も、社会保障や集産主義の路線を求め、ルーズヴェルトの保守性を批判。
・南部の綿花地帯では、黒人の借り分け小作農達が、農業調整法(AAA)の制度下では、減反の保証金は土地所有者である地主に対して支払われたので、同法は結果的に大量の小作契約の解除と農業労働者の解雇を生むことになりました。彼らは1934年7月南部小作農連盟(STFU)を結成し、貧農への土地の再分配という急進的な要求を掲げて戦うことになります。
・労働界においても、鉱山労組の組合員は4倍近くにまで増えます。労働組合員が増加することで、産業別組合を求める声が高まり、労働者組織の形態を巡る紛争が頻発します(写真右は労働者のデモ)。
労働界においては、これまで未組織だった、自動車や鉄鋼といった大量生産業界で、産業別の組合が次々と誕生し、1935年11月には、産業別労働組合会議(Congress of Industrial Organizations:CIOと略)という全国組織が結成されます。もともとは1935年に米国労働総同盟(AFL)内の委員会として、全米鉱山労働組合(UMW)の指導者ジョン・L・ルイスによって設立されたものですが、これら大量生産業界の労働者は、非熟練労働者が多く、AFLからは無視されていた存在でした。この組織化を行われていくと、組合運動の方針等を巡った対立が起こり、1938年AFLから独立し、独立した組織となります(1955年にCIOはAFLに再加盟し、AFL-CIOとなります)。AFL、CIOなどの労働組合は、資本主義社会の中で経営者に対する「拮抗力」をもつに至り、1938年には公正労働基準法が改めて制定されて、最低賃金(全業種で8年後に40セント)、労働時間(3年後に週40時間)が統一されました。
こうした問題に直面したルーズベルト大統領は、主に貧困対策、失業者のための雇用創出、および社会的な安全網の提供を目的とした、新たな一連の経済的・社会的対策を行います。これがこのいわゆる第2次ニュー・ディール政策です。
その中心となったのは、1935年5月6日に「大統領令」により発足した、雇用促進局(Works Progress Administration、後に Work Projects Administration と改称、略称WPA)でした。WPAは、ニューディール政策における最大かつ最も重要な公共事業機関で、1943年に連邦議会によって閉鎖されるまで、WPAは全米最大の雇用主でした。数百万人の失業者を公共事業を通じて雇用し全米各地の地方経済に影響を与えました。
WPAは、全米各地で小規模なプロジェクトを実施し、建物、道路、空港、学校などを建設しました。連邦劇場プロジェクト、連邦芸術プロジェクト、および連邦著作家プロジェクトにより、俳優、画家、音楽家、そして著作家が雇用されたのです。特徴的なのは、このように音楽、演劇、美術など芸術分野における失業者も支援された点です。但し、WPAの大部分の事業において、雇用対象となった労働者は、生活保護を受給している世帯主ないし家庭の大黒柱となる者(多くは年長の男性、ただし15%は女性)でした。労働者の平均年齢は40歳であり、これは生活保護受給家庭の稼ぎ手の平均年齢とほぼ同様でした。そしてその時給は各地方ごとの一般賃金と同等でしたが、雇用された者は週30時間以上はWPA事業のために労働に従事することはできませんでした。また、1940年までは新しい職能を習得させるための訓練機能を備えてはいませんでした。
WPAの手がけた計画の90%ほどは、未熟練労働者などブルーワーカーの雇用のための計画で、雇用した労働者の75%、およびWPAが使った支出の75%は、高速道路・街路・公共建築・空港・ダム・下水道・公園・図書館・レクリエーション空間など公共施設の建設に費やされました。WPAは8年間で65万マイルの道路、7万8,000の橋、12万5,000件の建築物、滑走路700マイル分、46の大規模キャンプ場を建設しました。また、図書館がいまだになかった地方や僻地にまで図書館の建設を拡大するための活動も行っています。こうして850万人以上のアメリカ国民がWPAに雇用されて肉体労働(ブルーカラー)などに従事したのです。
その他、予算の7%ほどは芸術活動支援に費やされ、22万5,000件のコンサートや公演を開催して延べ1億5,000万人の観客を集め、47万5,000の美術作品が作られた。また失業した音楽家、美術家、俳優、研究者、小説家などを雇用し、数々の芸術教育活動や芸術遺産調査活動、各州の歴史調査活動、元黒人奴隷などさまざまなアメリカ人の生活史の聞き取り作業が行われました。これは芸術や出版などの分野が断絶するのを防ぐための施策でした。
少年少女など若年世代に対しては、若者を対象にした計画は、1935年6月に全米青年局(National Youth Administration 以下NYAと略)設置し、WPAとは別に進められていました。高校、大学に在学する若者に、校内の雑務を割り当てる代わりに奨学金を支給し、職業訓練プログラムを受講させました。以前のCCCとは異なり、女性を排除しませんでした。
また、WPAの雇用計画は、「夫と妻は共働きすべきでない」という当時の強い観念を反映していました。それは一家のうち二人が働くことは、別の家庭の働き手から仕事を奪ってしまうという事情もあったのです。都市部のペンシルベニア州フィラデルフィアで雇用された2,000人の女性についての調査では、このうち90%は既婚者でしたが、さらにそのうち配偶者である夫と同居している者は15%でした。夫が民間企業に雇用されている者はわずか2%にすぎませんでした。調査報告は、「これら2,000人の女性たちは、それぞれの家庭で1人から5人の家族を養う責任を負っている」と述べています。地方のミズーリ州では、WPAに雇用された女性のうち60%は独身でした(12%は未婚、25%は未亡人、23%は離婚や別居など)。40%だけが結婚し夫と共同生活をしており、夫のうち59%は身体障害者、17%は一時的な障害者、13%は老齢でした。夫が失業状態に入ってからの平均年数は5年で、女性の大多数は縫製作業で労働に従事し、ミシンの使用方法などを教授され、病院や孤児院のための衣服やリネンを作成していました。写真は「家政婦訓練」ポスター。
このように、WPAのプログラムは多岐に渡りますが、歴史的にみて重要なことは、黒人の失業者や学生が、社会政策の受益者として包摂されていたことです。FERA及びWPAの供給した雇用や生活保護などの利益のうち、黒人に与えられた割合は、黒人の人口に対する比率よりも高い比率でした。FERAの生活保護に関する最初の調査では、200万人以上の黒人が1933年初頭の段階で生活保護を受給していました。これは黒人のうち17.8%が生活保護を受給していた計算になり、生活保護を受給する白人(ヨーロッパ系)の割合(9.5%)の2倍に達していました。また、1935年には黒人の30%に達する350万人の大人や子供が生活保護受給の対象でした。これにWPAに雇用されていた20万人の大人たちを加えると、1935年には約40%の黒人が何らかの政府の保護を享受していたことになります。
しかし黒人の公民権運動の指導者たちは、WPAは黒人を人口比よりも軽く扱っていると非難していました。黒人指導者たちはニュージャージー州のWPA雇用に関してこう述べています。「州の失業者のうちニグロ(黒人)たちが20%以上を構成しているにもかかわらず、1937年にWPAが雇用したニグロたちの割合は15.9%に過ぎない」と。
全国では、WPA雇用者のうち黒人は15.2%で、全国有色人向上協会(NAACP)の雑誌『オポチュニティ』(1939年2月)はWPAについて、さまざまな建設や労働に、地域社会に在住する黒人たちが参加できる機会を与えたことは大いに評価できると述べています。また、アメリカ南部のWPA事業では、民業圧迫の懸念から、その最低賃金を各地域の慣行に従わせる政策を取ったため、人種ごとに異なる二重の賃金を容認することとなりました。一方北部の特に都市部では、ホワイトカラー(頭脳労働)の職種に黒人が参加できる最初の本当の機会が与えられたと言われます。
WPAにより建設された建築物としては、全米の市庁舎・裁判所や各地公園など様々です。フェデラル・ワン(Federal One)芸術家救済プロジェクトや連邦音楽計画によって、例えばジェリー・ロール・モートンの発掘が行われ、その証言がジャズの誕生などについて、非常に重要な証言となっています。
第2次ニュー・ディールのもう一つの要は、1935年8月14日に成立した社会保障法(Social Security Act:SSAと略)でした。その内容は、@「社会保険」とA「生活保護(困窮者の救済)」が大きな柱でした。さらに、@の「社会保険」には、失業保険と老齢年金があり、A「生活保護」には、要扶養児童手当(Aid to Dependent Children:ADCと略)と困窮した高齢者、視覚障碍者の救済が含まれていました。
まず、@「社会保険」は、税制上の優遇措置などによって、各州に独自制度を促す形を取りました。そのため、週ごとに極めて多様な失業保険が並立し、州を越えた労働力の移動を妨げることもありました。その一方で、憲法上の地方自治の原則を守りながら、一時的な失業に対する連邦政府の責任を明確にすることができました。次に、老齢年金の最大の特徴は、本人負担金(保険料の積み立て)を基礎とする制度設計にありました。それは事実上、逆進的な徴税に等しいものでしたが、そのおかげで、年金の受給は、ある種のエンタイトルメント(権利)と認識され、次に見る生活保護に対する社会的偏見とは無縁のものと認識されたのです。むしろ大きな問題は、ここで対象とされた老齢年金がカヴァーする対象を、非常に狭く限定していたことでしょう。適用除外とされた人たちには、農業労働やメイド、パートタイム労働など、黒人や女性が多く就業した職種が含まれ、総勢940万人の労働者が、社会保険の外に放置されたのです。
A「生活保護」に関しては、ADCとして、シングル・マザーの貧困対策が、これに含まれました。これは、かつての革新主義期に萌芽の見られた、母性福祉の系譜を継ぐもので、出産、育児といったジェンダー・ロールを当然視した上で、社会的弱者となった貧しい母親を、「福祉」で保護しようというものでした。しかし、上記の規定により、約60%の女性労働者を社会保険の埒外に置きながら、困窮した母子に対して、地域行政による過酷な収入調査を課し、依存者の烙印を押すやり方は、それが本来、性差を問わないはずの一般的な福祉国家の形成過程に行われた故に、見逃せない問題といえるでしょう。
しかし、それにも拘らず、この不況の中で、30年代末には、約70万の母子家庭がADCを受けて生活を維持し、40年代初めには、老齢年金の支払いが始まったことはやはり評価に値します。政策策定者の思考の中には、旧来の母性主義への拘りだけではなく、女性と高齢者を、タイトな労働市場から遠ざけようという考えがあったのかもしれません。当時すでに他の多くの工業国ではそのような制度が実施されていましたが、アメリカではそれまで、そうした制度を求める声が無視されていました。まだ不十分とはいえ、恒久的なセイフティネットが個人主義の国、アメリカにも築かれつつあった事実は重要です。要扶養児童手当(ADC)はのちAFDC(Aid to Families with Dependent Children)と名称を替え、今なお、社会保障制度は、米国政府が運営する最大の国内制度です。
@「社会保険」とA「生活保護」に加えて、ルーズベルト大統領は、全国労働関係法、富裕層に対する課税を引き上げる「財産税法」、大規模な電力複合事業体を解体するための公益事業持株会社法、そして大手民間銀行に対する連邦準備制度理事会の権限を大きく拡大する銀行法を制定しました。また、全米各地の農村地帯に電力をもたらした農村電化局の設立も、注目に値する措置でした。
先の産業別労働組合会議(Congress of Industrial Organizations:CIOと略)は、非熟練労働者が主な構成要員であり、黒人や女性を受け入れる組合が多く、1938年には、米国労働総同盟(AFL)よりわずかに多い370万人が加盟していました。彼らは、賃金引き上げや組合承認を求めて戦っていました。このCIOの運動には、当時勢力を増しつつあった共産党が参加し、彼らの組織的反人種主義は、黒人労働者を惹きつけ、CIOの中に反人種差別的政策を持ち込みました。共産党が、黒人を惹きつけるきっかけとなったのは、彼らが「スコッツボロ事件」裁判に加わり、黒人少年を死刑から救ったことでした。
1931年3月25日、サザン鉄道のチャタヌーガとテネシー州メンフィスを結ぶ路線のスコッツボロ駅で、無賃乗車をしていた9人の黒人少年が逮捕されました。当時、列車をねぐらにしていた人は、全国で20万人もいたので、それ自体は何の変哲もない事件でした。ところが、同じ列車に乗っていた2人の女性が、黒人少年たちにレイプされたと言い出したのです。それを聞いた保安官は捜索隊を集め、「列車に乗っていた黒人全員を逮捕」するよう命令したのです。そして捜索隊は列車に乗っていた黒人乗客全員を暴行の疑いで逮捕したのです。実は、彼女たちは務めていた繊維工場を解雇され、あちこちで売春をしながら生活していたのです。実際、2人とも売春婦の疑いがあり、逮捕される危険があっただけでなく、「不道徳な目的」で州境を越えたことによりマン法に違反したとして起訴される可能性もあったため、それが露見することを恐れて虚偽の証言をしたのでした。
2人は、警官隊に被告達が拘置されている刑務所に連れて行かれ、彼らがレイプ犯だと証言したのです。医師が呼び出され、2人に強姦された痕跡がないか検査しましたが、何も見つかりませんでした。被告の有罪を示す証拠は、2人の証言以外はありませんでしたが、それは関係ありませんでした。この当時南部で、この類の証言がなされれば、彼らが直ちにリンチにかけられなかっただけでも、幸運と言わなければならない状況でした。形ばかりの裁判が行われ、13歳の少年を除いて、全員に死刑判決が下されたのです。この噂はすぐに広まり、リンチの暴徒がスコッツボロの刑務所に集まり、若者の引き渡しを要求しました(写真左)。
しかしこの地のマット・ワン保安官は刑務所の前に立ち、暴徒に向かって、頑としてこれを拒絶したのです。このような保安官がいてくれたことも実に幸運でした。囚人たちは、機関銃で武装したアラバマ州兵118人によって法廷に連行されると、すぐに数千人の群衆が集まったと言います。
当時NAACPは、黒人レイプ犯の裁判に関わることを避けていました。しかしこの件で、すぐさま動いたのは共産党だったのです。共産党は、直ちに調査に入り、この裁判に関与することを宣言します。共産党から派遣された弁護士達は、黒人の両親たちと面会し、この裁判での弁護を自分たちに任せるように説得します。彼らは、南部の人種エチケットに捉われることなく、黒人を対等な人間として扱う言葉遣いと態度で接したため、少年たちの両親たちは驚き、全面的に協力を依頼することにしました。
共産党は、この裁判の不当性を全国に訴え、また国際共産主義運動のルートを使って、全世界にも知らしめたのです。各地で集会が開かれ、それをきっかけに、南部の黒人の置かれた状況が、広く知られただけではなく、共産党の非妥協的な人種差別反対の姿勢が鮮明となったのでした。
共産党から派遣された弁護士達は、刑事事件として証拠に基づいて無罪を立証しただけではなく、当初の裁判では、黒人が正当な被弁護権を保障されず、陪審員選出の過程から、黒人が恣意的に排除されており、憲法に違反すると訴えました。連邦最高裁判所は2度に渡って、裁判のやり直しを命じました。州の裁判のやり方について、連邦最高裁判所が憲法違反との判決を下したのは、初めてのことでした。しかも裁判の最中に、被害を訴え出た女性の一人が、レイプされたことを否定し、少年たちの救援運動に加わりさえしたのです。それでも地元の陪審員たちは、その都度有罪判決を繰り返したのです。しかし順次個別の黒人少年たちに対する告訴が取り下げられ、1950年までには、途中で逃亡した一人の少年を除き、全身が釈放されたのです(写真右 弁護士と少年たち)。
スコッツボロ事件を巡る一連の事象は、南部における人種差別の実態とそれを覆した画期的な裁判として現代も取り上げられています。そしてこれらのことを通して、黒人たちの間に共産党に対する信頼が醸成されていくのです。
1936年11月3日に行われた第38回アメリカ合衆国大統領選挙は、二期目を狙う民主党のフランクリン・ルーズヴェルトと共和党のアルフレッド・ランドンの一騎打ちとなりました。結果は、選挙人票523対8、全48州46州対2州(左図)と、1850年の二大政党体制以後最大の大差で、民主党フランクリン・ルーズヴェルトが勝利を収めました。また、同日に行われた議会選挙では、下院で334対88、上院で74対17と、民主党が共和党を圧倒するのです。
この地滑り的大勝は、どこから来ているのでしょうか?やはり1935年ニュー・ディールで、社会保障政策や再分配政策を導入することで、左右の急進者からの反発を解毒、体制に組み込むことに成功したことが大きいと考えざるを得ません。複雑な利害関係を有する、多様な政治勢力が、「ニュー・ディール連合」として統一戦線を築き、大同団結した結果といえるでしょう。
例えば、ルーズヴェルト民主党の大きな支持基盤は、AFL、CIOという労働組合組織でした。彼ら、特に黒人や移民が多く含まれる非熟練労働者のCIOは、全米中での統一賃金を目指していたのに対し、南部民主党幹部は、黒人の隔離された低賃金労働を維持することが、彼らの支配する社会秩序の源泉と考え、差別の温存を要求していました。そもそも民主党は、南部の保守層がその基盤であり、民主党が南部のあらゆる公職を独占していました。この相反する労働組合組織と南部保守層が、「ニュー・ディール連合」として統一戦線を築いたのです。労働組織の法は分かりますが、南部保守層が「ニュー・ディール」を支持するのには次のような背景があります。実は、南部諸州は、大恐慌の経済被害を最も深刻に受け、国内最大の貧困地帯となっていたのです。そのため彼らは、「ニュー・ディール」が推進する公共事業、特にアラバマやジョージアなど7州をカヴァーするTVA事業は、やってもらわねばならぬ施策だったのです。つまり「ニュー・ディール」とは、文化的なナショナリズムや社会公正などではなく、「経済的な要請」だったのです。
第U期ルーズヴェルト政権は、「ニュー・ディール」の集大成の時期でもあり、また「ニュー・ディール」のつまずきの始まりともなりました。
1937年7月、小作農の土地購入を支援するバンクヘッド=ジョーンズ借地農法が成立します。また、9月には低所得者世帯の住環境改善のための公営住宅法(ワグナー=スティーガル法)が成立します。さらに翌38年に制定された厚生労働基準法(Fair Labor Standards ACT:FLSAと略)は、NISA法第七条a項の児童労働禁止を再度条文化し、最低賃金、最長労働時間、超過勤務手当についても、これを厳格に定めるものでした。
このように社会政策の立法化に成果が上がる一方で、1937年はニューディールのつまずきの始まりともなったのです。ルーズヴェルト政権は、1937年2月裁判所改組法案を提出し、最高裁判事の増員と定年制導入を示唆したのです。これまで、最高裁は、全国産業復興法や農業調整法に違憲判決を出しており、今後ワグナー法や社会保障法に対しても同様の決定が下される可能性がありました。そのため、大統領が判事の構成に手を入れようとしたのです。この三権分立の原則にもかかわる政治的なふるまいは、二つの方向に影響を及ぼしたと思われます。一つは、ルーズヴェルト大統領への議会内外からの批判の高まりでした。大統領は、独裁を目指していると、広く市民からも声が上がり、結局法案は成立しませんでした。
もう一つの影響は、それにも拘らず、1937年3月最高裁は、ワシントン州の最低賃金法に合憲判決を出したのです。また、4月にはワグナー法に合憲判決を出し、5月には社会保障法にも憲法上有効であると宣告したのです。これらによって、ニュー・ディールの主要な成果は、恒久的な制度として定着していくこととなります。
しかし、裁判所改組問題は、ルーズヴェルトの求心力を急速に低下させることとなります。また37年秋に始まる2度目の経済後退も、順調に進んできたかに見えたニュー・ディール改革への信頼を失墜させることになります。ルーズヴェルトへの求心力の低下は、共和党保守派及び一部の南部民主党による反動的な活動を呼び起こします。そうした反動化の典型的なものが、1938年に下院に創設された、非米活動委員会(House Un-American Activities Committee:HUACと略)なる反共、反リベラルの調査機関でした。この機関は、特にWPAの芸術支援プロジェクトを攻撃対象とし、各種公聴会を通じて、リベラルの市民的自由を圧迫していったことはよく知られています。ルーズヴェルトは、この偏狭な反動主義者に対して糾弾しますが、全く動ぜず圧力を強めました(写真左 ルーズヴェルトに対して手紙を書く議長)。この動きは後のマッカーシーらによる赤狩りに通じていきます。
これまで見てきた通り、ルーズヴェルト政権は、発足当時から、国内対策に専念するとして、極めて消極的な外交姿勢を示してきました。対外的には、1934年6月これまで議会が持っていた関税交渉の決定権を政府に移すという互恵通商協定法を成立させ、50%を限度に関税を引き下げられると規定しました。これによってルーズヴェルト政権は、20年代から続く高関税政策を転換し、貿易自由化の流れを作ろうとしました。その互恵通商法が適用され、最恵国待遇となった国の多くは、中南米の国々でした。要するに近隣の西半球諸国と結ぶ「善隣外交」を展開したのです。この方針は前政権から引き継いだもので、1924年ドミニカから海兵隊を撤収し、33年1月にはニカラグアからも撤兵しました。33年12月、パン・アメリカ会議でアメリカの内政干渉権を否認し、34年5月対キューバ・プラット案を廃棄し、8月にはハイチからも撤兵しました。そうはいっても、キューバのグアンタナモ湾、パナマ運河、フィリピン・マニラの軍事基地が維持強化されたことも忘れてはならないことです。
その一方で、風雲急を告げるヨーロッパ情勢との関係においては、強固な孤立主義が支配的でした。それは第一次世界大戦を「無益な戦争」と否定的にとらえる世相を反映したものでした。1935年8月にはあらゆる交戦国に対する武器禁輸を定めた中立法が制定され、37年には内戦にも禁止事項を適用することとしました。この流れが変わるのは、1939年9月の第二次世界大戦勃発後で、11月に成立した第四次中立法で、「現金支払い・自国船により輸送」を条件に武器禁輸を解禁します。しかし当面は、この戦争から距離を置く中立政策を取るのです。
1934年8月ヒンデンブルグ大統領の死後、首相と大統領を兼任する絶対的な権力を持つ「総統」に就任したアドルフ・ヒトラーは、1935年3月ヴェルサイユ条約破棄を宣言し、公然と再軍備を拡大していきます。当時のイギリスのボールドウィン内閣は、ヒトラーに一定の譲歩をすることでそれ以上の膨張政策を抑え、最も懸念していた共産国家ソ連に対する防波堤とするという宥和政策を取ります。一方イタリアは、1935年10月エチオピアへ侵攻を開始します。これは当然ながら国際社会から激しい批判を浴びることになります。この機にオーストリアの併合を目論むヒトラーはイタリアとの関係を改善しようと動きます。こうした両国は接近し1937年「ベルリン=ローマ枢軸」と呼ばれるような関係になっていきます。
1936年ヒトラー率いるナチス・ドイツは、3月7日1925年のロカルノ条約により非武装地帯となっていたラインラントに進駐します。しかしドイツは1936〜37年の2年間は、積極外交はスペイン戦争でのフランコ軍支援だけにとどめ、もっぱら来たるべき戦争に備えて軍備の増強とそれを支える国内経済の整備(「四か年計画」の策定など)、国威発揚の期間とします。
1935年強行したエチオピアの併合は国際的に厳しい批判を受け、国際連盟は経済制裁を決議します。さらに1936年スペインに起こった内乱に際し、フランコ将軍の反乱軍を支援したことからイギリス、フランスと対立することとなり、同じく反乱軍を支援しイギリス、フランスと対立していたドイツと急速に接近していき、10月ベルリン=ローマ枢軸が成立します。翌37年にはこれに日本が加わり、「独伊防共協定」が成立していくことになります。
右は有名なパブロ・ピカソの描いた「ゲルニカ」です。戦争の悲惨さ描いたこの絵は1937年に描かれました。1936年スペインで勃発した内戦にイタリアと共に介入したナチス・ドイツの空軍が、フランコ将軍率いる反乱軍に味方し無差別空爆を行いました。故郷スペインが無差別空爆を受けたことを知ったピカソは早速その製作に取り掛かり、1937年6月パリで開催されていた万国博覧会に掲げられました。ナチスドイツの軍事介入は、再軍備後の軍の訓練の意味があったと伝えられています。たくさんの人々が軍隊の訓練のため無残に殺されたのです。何という愚かな行為でしょう。
そのヒトラー率いるナチス・ドイツはアウトバーンの建設に代表される公共事業や軍備拡張による軍需工業の隆盛そして徴兵制によって雇用を拡大し、インフレを起こすことなく経済繁栄を実現させます。国民の多くも戦争の危険よりも経済の好転を望んだのです。さらにドイツ国内にもあった反対論を押し切って行われたラインラント進駐に対してフランス、イギリスからの反撃がなかったことから、進駐を決定したヒトラーは、ドイツ国内で神がかり的な指導者であるというイメージが醸成され、「ヒトラー神話」ができあがっていくことになります。その一方でエルンスト・ヒムラーの指揮する親衛隊(SS)とヘルマン・ゲーリングの掌握する国家秘密警察(ゲシュタポ)が反対派を封ずる暴力装置として機能し、恐怖政治により独裁体制を強化していきます。そしてナチス・ドイツはポーランドへと進行の準備に進んでいきます。
1937年5月イギリスではボールドウィン内閣が総辞職し、保守党のネヴィル・チェンバレン内閣が成立します。チェンバレンもヒトラー率いるナチス・ドイツに対して「宥和政策」を取ります。「ゆうわ」は「融和」=「とけあう」ではなく「宥和」=「なだめる」という意味です。そもそもイギリスは前ボールドウィン内閣時代から、ドイツの反ヴェルサイユ体制の動きや日本の中国侵略などに対して積極的に批判を行ってきませんでした。当時イギリスにとっての最大の脅威はソ連の共産党体制と受け止められており、ドイツ、日本は防共の防波堤になりうると考えられていたこと、また特にドイツは第一次世界大戦で悲惨な敗戦を味わい、再び大きな戦争を起こすほど愚かではないだろうと高をくくっていたと言われます。これがヒトラーの増長に拍車をかけることになるのですが、それは戦後70年以上も経った今だから言えることかもしれません。
1938年3月、ヒトラーのナチス・ドイツは、オーストリアを併合し、さらにドイツ人居住者が多いことを理由にチェコスロヴァキアに対してズデーデン地方の割譲を要求します。このような事態に対応するため、イギリス首相ネヴィル=チェンバレンは、ヒトラーに対話を呼びかけます。そして1938年9月15日、チェンバレンとヒトラーはドイツのベルヒテスガーデンで会見を行いますが、ヒトラーがズデーテン併合要求について戦争も辞さずと言う強硬姿勢を示します。さらに同月中にゴーデスベルクで2度目の首脳会談が行われますが決裂します。事態は緊迫しますが、9月26日、ヒトラーはズデーテン割譲は自分の最後の要求であると声明、それを受ける形で9月29日ミュンヘン会談が開催されることになります。左写真帽子を持つのがチェンバレン。
ミュンヘン会議には、右写真の左からイギリス(チェンバレン)・フランス(ダラディエ)・ドイツ(ヒトラー)・イタリア(ムッソリーニ)の4国代表が集まりましたが、当事国のチェコスロヴァキアの代表は召集されませんでした。会議はイギリス首相チェンバレンの対独宥和政策によって枠が作られ、ヒトラーの要求通りズデーテン併合を認め、フランス外相ダラディエもそれに追随しました。
ヒトラーはこれ以上領土拡張を行わないと宣言したことを以て宥和外交の成果だとチェンバレンは強調していましたが、それは一時のごまかしにすぎず、ドイツは必ず更なる領土拡張に動くと予測した政治家もいます。イギリスのウィンストン・チャーチルです。
ヒトラーのナチス・ドイツは、1938年3月オーストリアを併合し、ミュンヘン会談で宥和政策をとるイギリス・フランスの妥協を引き出し、ズデーテン地方割譲に続くチェコスロヴァキア解体に成功します。さらにオーストリア併合し、リトアニアからメーメル地方を奪います。ヴェルサイユ条約で自由都市とされていたポーランドのダンツィヒを併合、本格的なポーランドへの侵攻を開始します(右はポーランドを進軍するドイツ戦車部隊)。そしてヒトラーは、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を締結した上で、9月ポーランドに侵攻します。そしてソ連もこれに呼応するように同じく9月ポーランドに侵攻します。ソ連はポーランドの半分を制圧し、さらにフィンランドやバルト三国の併合を謀ります。これを見た国際連盟は12月、フィンランド侵攻を理由にソ連を除名処分にします。
事ここに至ってようやく宥和政策を続けることが困難と判断したイギリスは、ドイツを牽制するためポーランド支援を明確にし、25日イギリス=ポーランド相互援助条約を締結、フランスもそれに倣います。
1939年9月1日ダンツィヒを親善訪問中のドイツ巡洋艦シュレスヴィヒ・ホルスタイン号が、突如ポーランド守備隊に対して砲撃を開始したのです。ナチス=ドイツは開戦の理由としてポーランド国内で虐待されているドイツ系住民の保護を掲げましたが、そのような虐待の事実はありませんでした。ヒトラーの目的は、ヴェルサイユ条約で失ったドイツ領を回復することであり、それによって東方への「生存圏」を拡大することでした。イギリスとフランスは9月2日共同で最後通牒を送付、ドイツ軍のポーランド領からの即時無条件撤退を要求します。しかしドイツはこれを無視し、9月3日イギリスとフランスに宣戦布告し、イギリス・フランスもドイツに対し宣戦布告を行います。これによって第二次世界大戦が始まることになります。
ドイツに対し宣戦布告をしたもののイギリス、フランスは、ソ連の動きを警戒し、兵を派遣することもなく、にらみ合いが続いていました。そんな中ナチス・ドイツは、1940年4月西部方面でも侵攻を開始します。4月9日デンマーク、ノルウェーに侵攻、デンマークはその日のうちに降伏します。ついでオランダ・ベルギーに侵攻し、5月15日オランダが、そして5月28日にはベルギーがドイツに降伏します。イギリスは対ドイツに対し宥和政策を取っていたチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチルが率いる挙国一致内閣成立します。
さらにドイツは6月3日パリを空襲、6月4日にはダンケルクを占領しますが、包囲されていた英仏軍の大半は脱出に成功(ダイナモ作戦 写真左)し、40万人の派遣兵の内36万人を無事本国イギリスに帰還させます。翌6月5日からは、ドイツ軍が対仏総攻撃を開始します。この段階で6月10日ムッソリーニ政権下のイタリアが対英仏宣戦布告を行います。同日ノルウェーがドイツに降伏します。
そして6月13日フランス軍がパリから撤退し、翌14日ドイツ軍がパリに無血入城するのです。加えて6月15日イタリア軍もフランス領に侵攻します。写真はパリを行進するナチス・ドイツ軍。
6月17日フランス・ペタン首相がドイツ軍に休戦提議し、22日対ドイツ27日に対イタリアと休戦協定が締結されます。ヒトラーは大陸を抑押さえたものの、ドーバーを越えることは困難とみて、7月10日イギリス本土への激しい空爆を開始します。イギリスはチャーチルのもと激しい空爆に耐えてドイツ軍の上陸を許しませんでした。このような西ヨーロッパでの戦乱を見て、ソ連は6月ラトビア・エストニア、ルーマニアに進駐開始します。一方イギリス征服に失敗したドイツは、東ヨーロッパで次々に版図を拡大するソ連に対し警戒感が増しついにソ連を打つべく1940年12月18日ヒトラーは独ソ戦(バルバロッサ作戦)の準備を命じます。
1935年4月満州帝国の皇帝溥儀を日本に招き、満州帝国の傀儡化を進め、中華民国との摩擦はいよいよ激しさを増していきます。翌1936年、1月15日日本はロンドン軍縮会議から脱退し、その1か月半後にはクーデターにより軍部内閣の樹立を目論む陸軍青年将校たちによる「二・二六事件」()が勃発します。高橋是清蔵相、齋藤実内大臣らが殺害されます。その後いろいろな経緯はありますが、陸軍が政治に介入していくこととなります。
既に1932年大陸に満州国を傀儡政権として成立させていた日本は、さらなる大陸侵略を企図し、中国の国民党政府と対立を深めます。このような日本の露骨な侵略に対し、それまで中国内の覇権争いを行っていた蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党は1936年12月に起こった西安事件以後「抗日」を旗印に歩み寄ります。そして1937年7月に勃発した盧溝橋事件により、中国側と全面的な戦争へと進んでいくのです。
1938年2月日本では第2次人民戦線事件が起こり、軍部が実権を握る政府にとって好ましくないと思われる思想の弾圧が本格化していきます。そして4月には「国家総動員法」が成立します。この法律は、日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用(総動員)できることを規定したもので、国家の戦争のためには、個人の生活や資産は制限されてもかまわないということになっていきます。
1938年、日本は5月に徐州を占領し、10月に広東、武漢を占領、12月には重慶への爆撃(写真右)を開始します。日本と中国の戦争はもう後戻りできないところまで進んでしまったのです。
1939年さらに日本は、満州国と国境線が隣接しているソ連との間に、広大な草原ノモンハン地区で機甲部隊同士の戦闘状態になります、双方に多大な犠牲が生じることになります。この戦闘で関東軍は、情勢を不利と判断、9月15日に休戦協定を締結します。このときヨーロッパでは既にドイツ軍によるポーランド侵攻が開始され、第二次世界大戦が始まっていました。ソ連軍も全力でヨーロッパ戦線に当たる必要が生じていたのです。日本軍も日中戦争において前年に武漢三鎮、広東を攻略したものの、戦線拡張は限界に達し、重慶に逃れて抵抗を続ける蒋介石・国民党軍と、延安を拠点とする中国共産党の八路軍の抵抗に手を焼きいていました。このノモンハン事件での敗北を機に、中国との戦争の膠着を打開するため東南アジア方面に進出しようという南進論へと戦略を転換することとなっていきます。
翌1940年日中戦争において、日本軍は満州国の防衛と広大な中国戦線の維持が困難になっていました。3月30日蒋介石と対立していた汪兆銘を首班とする親日政府を南京で樹立し、5月から蒋介石・国民党軍が根城とする重慶の空襲を続けますが、屈服させることはできませんでした。さらに8月には国民党軍だけではなく、毛沢東率いる八路軍が日本軍に対して大攻勢をかけ、いよいよ中国における戦線の維持が苦しくなった日本は、このような状況を打開するため、またソ連との間で戦われたノモンハン事件での敗北から、東南アジア方面に進出しようという南進論へと戦略を転換することとなっていきます。そしてヨーロッパ戦線でのフランスの降伏に乗じ、9月フランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を実行し、イギリス、アメリカとの対立は決定的となるのです。そして日本はベルリン=ローマ枢軸に加わり、9月27日日独伊三国同盟が成立するのです。
1939年にナチスがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発すると、米国人は明らかにヒトラーの侵略の犠牲者に同情し、連合軍の民主主義国家イギリスとフランスを支持しましたが、それにも拘わらず、孤立主義的な感情が依然として根強く残っていました。そして、フランスが陥落し、1940年代半ばにドイツの対英空爆が始まると、米国では、民主主義国家に対する支援を支持する人々と、戦争に反対する孤立主義者との間の論争が過熱していきます。ルーズベルトは、世論を介入支持の方向に向けるべく、できる限り多くの努力をしました。米国は、カナダと相互防衛協定を結び、中南米諸国と協調して西半球の諸国に集団防衛を提供しました。
拡大する危機に直面した連邦議会は、再軍備のための巨額の予算を可決し、1940年9月には、米国史上初の平時選抜徴兵法案を可決します。また同月、ルーズベルトは、英国のウィンストン・チャーチル首相との間で大胆な行政協定を結んだ。米国は、ニューファンドランドおよび北大西洋の英国空軍・海軍基地と引き換えに、「老朽化した」駆逐艦50隻を英国海軍に提供したのです。
各年のスポーツやジャズの話題は以下からご覧ください。
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 16 … 初期のジャズ 9‐1931年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 17 … 初期のジャズ 10‐1932年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 18 … 初期のジャズ 11‐1933年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 19 … 初期のスイング ‐1934年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 20 … スイングの幕開け ‐1935年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 21 … スイング時代 ‐1936年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 22 … スイング時代 ‐1937年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 23 … スイング時代 ‐1938年」
「僕の作ったジャズ・ヒストーリー 24 … スイング時代 ‐1939年」
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