第39回アメリカ大統領選挙は、正にヨーロッパでイギリス、フランスとナチス・ドイツの戦闘が激しさを増した1940年11月5日に投票が行われました。民主党はこれまでの慣例を破り、3期目を目指すフランクリン・ルーズヴェルト、対する共和党は一匹狼のダークホース、実業家のウェンデル・ウィルキーが指名されました。結果は、選挙人獲得数、ルーズヴェルトが449人に対して、ウィルキーは82人、獲得州、ルーズヴェルトが38州に対して、ウィルキーは10州と、ルーズヴェルトが強さを見せつけるような結果となりました。ルーズヴェルトは、米国史上初の大統領3選を果たしました。
ルーズヴェルトは、大統領選挙戦期間中、「アメリカの若者を海外の戦争に送らない」を選挙公約としていました。しかし、3選を果たした翌41年1月の一般教書において、「アメリカの安全保障が今ほど外部からの大きな脅威に晒されたことはない」と恐怖を煽ったうえで、「もはや我々は、慈悲深い心を持つ余裕などない」と、戦争が不可避であることを示唆したのです。大統領は、来るべきアメリカの戦争の大義を、「人類の欠くことのできない四つの自由(Four Freedoms)」、すなわち
@言論と表現の自由(Freedom of Speech)
A信教の自由(Freedom of worship)
B欠乏からの自由(Freedom from Want)
C(侵略の)恐怖からの自由(Freedom from Fear)
に求め、これを「日独伊三国同盟による専制政治の新秩序の対極」に位置づけました。
この「四つの自由」の理念がアメリカの国家的目標であるばかりか、「世界のあらゆる場所で」実現されるべき理想であると語られたのです。このことは、アメリカがついに孤立主義をやめ、世界政治にコミットしていく決意の言葉でもありました。
後にルーズヴェルトが設置した政府プロパガンダを担当する機関、戦時情報局(Unitede States Office of War Information:以下OWIと略)は、当時ウォルト・ディズニーとともに人気のあった画家、ノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell)に、この「四つの自由」を図像化させ、戦時公債の販促活動を通じて、広く国民各層に、この理念を周知していきます。
両側の図はロックウェルの図像。左から、@言論と表現の自由、A信教の自由、B欠乏からの自由、C恐怖からの自由です。
ウォルト・ディズニーと並び称せられる画家なので、もっと簡略な漫画チックなものかとそうではなく、きちんとした絵画です。ロックウェルは、この制作に7か月かかり、10ポンド(4.54Kg)ほど痩せたと言います。
1940年再軍備のための巨額の予算を可決し、1940年9月には、米国史上初の平時選抜徴兵法案を可決し、アメリカは、まだ中立を保ちながらも着々と参戦に向けて環境を整えていきました。41年3月には、ソ連を含む連合国に、武器の貸与・譲与を認める武器供与法が議会を通過します。そして5月27日には、お得意のラジオ放送『炉辺談話』で、「戦争は、西半球の淵まで近づいてきています」と語り、戦時と同じ権限を大統領に与える緊急事態宣言を発布します。
1941年8月9日、英首相チャーチルとルーズヴェルトの会談が行われ、「大西洋憲章」が採択されました。会談は、ドイツのUボートによる攻撃を回避するため極秘のうちに計画され、8月9日からカナダのニュー・ファンドランド、プラセンシア湾上で、イギリスの最新鋭戦艦プリンス=オブ=ウェールズ、アメリカの巡洋艦オーガスタを両者が相互に訪問し、会談を重ねました。武器貸与法の具体的な適用に関する問題や両国の防衛問題が協議され、その結論として同14日に両者の合意による、いわゆる「大西洋憲章」を発表します。
「大西洋憲章」は8カ条で構成され、その内容は、民俗の自決や自由貿易、恐怖や欠乏からの自由、さらには安全保障体制の構築などで、後にこの公約は連合国のファシズム国家に対する戦いという戦争目的、「連合国共同宣言」となります。
しかしこの会談では、もう一つ検討が行われた議題がありました。それはこの会談の直前に行われた南部仏領インドシナへの侵攻を断行した日本への対応でした。
日本は膠着する日中戦争の打開を謀っていましたが、アメリカとの戦争は望んでいませんでした。そこで1月日米交渉のため野村駐米大使を派遣します。大使は2月14日ルーズヴェルト大統領と会談を行い、その後はハル国務長官と交渉を継続することになります。
さらに日本は、日中戦争の打開のため、大東亜共栄圏構想を打ち出し、1941年4月に日ソ中立条約を締結した上で、1941年7月、南部仏印進駐を実行、アメリカ・イギリスとの利害の対立は決定的になります。同7月ルーズヴェルト大統領は、義勇空軍の中国配置を許可、軍事援助を行うことを明確化します。さらに7月25日には在米対日資産を凍結し、8月1日には石油の対日輸出を全面禁止します。追い込まれた日本は、アメリカに対し日米首脳会談を要請しますが、アメリカはこれを拒否、当時の近衛文麿を首相とする第二次内閣は総辞職し、陸軍大臣だった東條英機を首班とする戦時内閣が誕生します。そして国務長官ハルは、日本側に中国撤兵要求を提議します(ハル・ノート)。
この後アメリカは、太平洋と大西洋にわたって、膨大な軍事力を展開し、近代史以降において二正面戦争に勝利した唯一の国家となりますが、本来は直接戦闘には参加せず、支援国に武器を供与する或いは枢軸国を窮地に追い込むことによって、戦争を諦めさせるというのが、その目論見でした。アメリカは当初の目論見は、先ずヨーロッパ戦線に注力し、ドイツ・イタリアを敗戦に追い込む、両国の敗戦を見た日本は、負けると分かっている連合国との戦争には踏み出さないであろう、そうして欲しいと願っていたと言われます。
当時ドイツは西部戦線は、守りを固め東部戦線ソ連攻略に注力していました。11月25にはモスクワ中心部まで、あと35キロというところまで迫っています。しかし翌11月26日からソ連軍は、ロストフから反撃を開始、12月5日から、モスクワで大反撃を開始し、その勢いに押され翌12月6日ドイツ軍はモスクワから退却、その後は一進一退の攻防が続きます。アメリカは、日本との交渉を引き延ばし、ドイツの負けるところを見せつけて戦意を削ぐ計画だったと言われますが、ドイツが敗れる前に「ハル・ノート」を日本に対する最後通牒と捉えた日本は、太平洋戦争への道を突き進むことになります。12月8日(日本時間、アメリカは12月7日)、日本はイギリス領のマレー半島に上陸しイギリス軍の拠点があったシンガポールをめがけて進軍します。その1時間後にはハワイの真珠湾にあった太平洋艦隊の拠点を攻撃します。そして双方への宣戦布告が行われ、大戦への扉が開かれてしまうのです。
実は真珠湾攻撃が行われる直前まで、日本はアメリカとの衝突を避けるため、日米交渉を続けていました。そして攻撃の30分前に交渉打ち切りがアメリカ側に通告される予定でしたが、実際に文書が手渡されたのは真珠湾攻撃後になってしまいます。この原因は日本大使館による文書作成の不手際によるものとされていますが、詳しい経緯はわかっていません。なお、イギリスに対しては事前の交渉等が何もなされぬまま攻撃を始めています。これは一方的な武力による侵略と捉えられても仕方ありません。
日本は12月8日午後11時40分に米英に宣戦布告を行いますが、これはマレー上陸の7.5時間後のことでした。アメリカ議会は対日開戦を、上院82対0、下院488対1で決議し、宣戦布告を行います。下院の反対票1は初の女性議員のJ・ランキン氏でした。英国も即刻日本に対し宣戦布告を行います。3日後の12月11日、独伊もアメリカに対し宣戦布告し、米英ソの「連合国」と日独伊の「枢軸国」による、ヨーロッパからアジア・太平洋に広がる世界大戦となるのです。
アメリカが、日本との太平洋戦争に参戦したことにより、翌年1942年1月、米英ソ中の4国が発議し、26ヵ国が参加した「連合国共同宣言」が発せられます(写真右はそのポスター)。これは前年のルーズヴェルトとチャーチルの「大西洋憲章」を基にしたもので、ルーズヴェルト(米)、チャーチル(英)、リトヴィノフ(ソ連)、宋子文(中国)が草案を起草しました。「連合国」26ヵ国とは、アメリカ合衆国、イギリス、ソヴィエト連邦、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタ・リカ、キューバ、チェコスロヴァキア、ドミニカ、エル・サルバドル、ギリシア、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラヴィアです。これに対して「枢軸国」は、日本、ドイツ、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド、タイの8か国です。連合国26か国は一体となってファシズム枢軸国と闘い、単独では講和をしないと宣言しました。戦後、この連合国26か国が中心となって、1945年6月成立の「国際連合」に継承されていきます。
さて、1941年12月にアメリカが参戦した時、アメリカはナチス・ドイツ、大日本帝国及びファシスト・イタリアを徹底的に打ち負かすことができる特異な立場にいたのです。では、具体的にアメリカは、どれだけの兵力投入したかというと、1635万人の戦時動員数、108万人の死傷者を出し、総戦費は6640億ドルという総括的な数値資料はあるのですが、欧州戦線と太平洋戦線それぞれどうだったかという資料は見当たらないのです。
欧州戦線といってもフランスの西部戦線、北アフリカ・地中海戦線、そしてソ連に攻め入った東部戦線とドイツはかなり幅広い戦線を展開していました。1941年以来一進一退の攻防を続けていた東部戦線において、43年2月スターリングラードでドイツの大軍が敗れたことが転機となって、ソ連軍が反撃に転じます。この間ソ連は英米に対して最も切実な要求として、北フランスに連合軍が上陸して、「第二戦線」を開設することを求めます。ドイツが東部に注力されるのはたまらん、西部戦線からも攻め込み戦力を分散させろということです。
まず1942年5月イギリスは、ドイツの都市ケルンに大規模な空爆を行います。これで初めてドイツ国内が戦場となりました。その後45年まで連合国空軍は、ドイツの工場や都市を空爆し続けます。北フランス上陸作戦も検討されますが、準備不足ということで、破棄されヨーロッパの各地からドイツ軍を攻撃する方法が選択されます。そして1942年11月英米連合軍による北アフリカ上陸作戦が決行されます。激しい戦闘の上、1943年5月北アフリカの枢軸軍は降伏します。
1943年7月連合軍は、イタリアのシチリア上陸作戦を行いますが、これが米軍が陸軍を投入した最初の作戦でした。連合軍はシチリアからイタリア本土へ上陸するとまもなく、ムッソリーニは罷免され幽閉されます。その後イタリアは混迷を深めほぼ無政府状態となります。降伏を発する人間もいなくなり、連合軍も対応に困ったようですが、9月8日イタリアは無条件降伏したと発表するのです。ムッソリーニは、ドイツの親衛隊によって救出され、ドイツに向かいます。イタリアに駐留していたドイツ軍は、北に後退しながら防衛戦を展開し、連合軍の進撃は遅々として進みませんでした。
1944年6月6日ついに「史上最大の作戦」と言われる「ノルマンディー上陸作戦」(写真左)が決行されます。この作戦には、イギリス軍、カナダ軍、ナチス・ドイツ占領下のヨーロッパから逃れてきていた各国軍の合計26個師団とアメリカ軍21個師団、戦艦6隻、巡洋艦21〜23隻、駆逐艦108隻、護衛艦152隻、掃海艇277隻、上陸用舟艇4000隻、出撃した爆撃機は述べ9210機、投下された爆弾は11912トンにも及びました。正に史上最大の作戦の名にふさわしいものでした。この作戦のため、150万人ものアメリカ兵がイギリスに駐留したのです。
激しい戦闘の末上陸作戦に成功した連合軍は、徐々にドイツ軍を追い詰めていきます。8月末にパリを開放し、ドイツ国内に迫ります。1945年2月ドレスデンを空爆、そしてアメリカ軍は3月7日ライン川を渡ります。一方、東から侵入したソ連軍は、4月16日にベルリンを包囲します。追い詰められたヒトラーは、4月30日に自殺して果てます。そしてドイツは、5月7日フランスのランスで、西側連合国に、5月9日ベルリンで、ソ連軍に無条件降伏し、欧州での第二次世界戦は終わります。
日本は、真珠湾攻撃を行い英米に宣戦布告した後、素早い動きで1941年12月中にマレー半島、ウエーク島、グアム島、香港を、翌42年春には、フィリピン、シンガポール、クアランプール占領します。この快進撃にアメリカも対応せざるを得なくなります。快進撃が転換点を迎えたのは、1942年6月ミッドウェーにおける海戦(写真右 炎上する空母ヨークタウン)でした。この戦いで、日本は空母4隻、艦載機390機を失う大敗を喫します。この敗戦の原因としては、日本側の暗号は、全て解読されており、そうとは知らなかった現地軍関係者が相手を甘く見て油断していたことなどが挙げられています。
同じ頃日本は、北方アリューシャン列島のキスカ、アッツ島を占領し、8月ソロモン諸島のガダルカナル島に攻撃を開始します。しかしここでも日本は大敗を喫し、ついに翌43年2月撤退を余儀なくされるのです。さらにアメリカは、艦船派遣計画を見直し、1943年には欧州よりも太平洋に多くの艦船を派遣し、日本を追い詰めます。5月にはキスカ、アッツ島が玉砕、翌44年2月にはアメリカ軍にマーシャル諸島上陸を許し、トラック島も壊滅します。この間日本は、無意味な「インパール作戦」を実施、消耗度が増していきます。44年6月には、アメリカ軍はサイパン島を奪取します。
さらにマリアナ沖海戦でも勝利したアメリカは、マリアナ諸島に大規模な航空基地を建設します。これにより日本のほぼ全土が、長距離爆撃機B-29の攻撃範囲内となってしまいます。44年11月東京空襲が開始されます。日本は、フィリピン奪回を目指して進行してくるアメリカ軍を迎え撃つべく、レイテ島沖で決戦に挑みますが、戦力の差はいかんともしがたく、ここでも大敗を喫し、1945年1月ルソン島を明け渡すことになります。
1942年1月、米英ソ中の4国が発議し、26ヵ国が参加した「連合国共同宣言」が発せられたことを受けて、ソ連もこれに同調というか米英の疑念を払うために、共産主義国の連合であるコミンテルン(第三インターナショナル)を解散します。そして1943年10月モスクワに、米・英・ソの外相が集まり、国際的平和機構樹立に関する合意を行い、「モスクワ宣言」が発せられます。
さらにこれを受けて翌月11月米大統領ルーズヴェルト、英首相チャーチル、中国主席蒋介石がエジプトのカイロに集まり、大戦後処理に関する首脳会議を行います(写真左から蒋介石、ルーズヴェルト、チャーチル)。これは対日戦線を主な議題としたもので、日本降伏後、中国への大陸の領土の返還、朝鮮の独立などで合意に達し、12月1日、「カイロ宣言」として発表されます。
ルーズヴェルトとチャーチルは、この後すぐにイランの首都テヘランに移動し、ソ連のスターリンと協議を行います。ここでの重要な議題は、三国の大戦遂行の決意、イランの独立と領土保全などどともに、いわゆる第二戦線問題とポーランド問題が討議されました。第二戦線問題とは、ソ連はドイツが主力を傾ける東部戦線(ソ連侵攻)で疲弊しており、西ヨーロッパから上陸作戦を行い第二戦線を形成し、ドイツの力を分散してほしいというものです。チャーチルは、ソ連のバルカン方面への進出を危惧し、バルカンで第二戦線を築くことを主張します。しかし当時ほぼ一国で対日戦線を戦っているアメリカは、ソ連の対日参戦を望んでおり、1944年5月北フランスで上陸作戦を行う代わりに、ドイツ降伏後ソ連は対日参戦するということで合意するのです。また国際的平和機関の樹立についても話し合いが行われ、10月のモスクワ宣言を受け、ルーズヴェルトが、米英ソ中の4大国による紛争解決のための調整機関を創るという「四人の警察官」構想を提案し了承されました。これが後、「ダンバートン・オークス会議」、「ヤルタ会談」、「サンフランシスコ会議」を経て、国際連合樹立に繋がっていくのです。
参戦に伴う国家総動員は、国民と産業の総力を動員する態勢であり、アメリカ社会に極めて大きな影響を及ぼします。農業、製造業、鉱業、商業、労働、投資、通信、そして教育・文化に至るまで、米国のあらゆる活動が、何らかの形で、新たに拡大された統制の下に置かれました。
先ず、連邦政府が総額160億ドルの軍需生産への投資を行うなど、財政支出は急膨張します。これらの投資により、それからの3年半の間に、軍需産業は、航空機30万機、貨物船5000隻、揚陸艇6万隻、戦車8万6000台という驚異的な生産目標を立て、達成しました。このことはアメリカ経済復活の呼び水となりました。1942年には、戦争バブルと見言える好景気が到来し、人々はついに過去10年以上に渡って囚われてきた、失業の恐怖から解放されたのです。
この1830億ドルとも言われる巨額の軍需の約50%は、企業規模上位33社によって受注されました。中でもフォードやUSスティール、ゼネラル・エレクトリックといった巨大企業は、軍との契約を通じて莫大な利益を上げました。後に軍産複合体と揶揄される大企業と連邦政府。とりわけ軍との密接な関係が、戦時下に築かれていったのです。
戦争景気は労働運動においても、追い風となりました。AFL、CIOの両組合とも、戦時のスト権放棄と引き換えに政府からその地位を保護され、組合員数の合計は終戦までに、1432万人に達しました。そして全国労組は、大企業の場合と同様政府と密接な互酬関係を結んでいきます。
総力戦下の軍事奉仕も人々の生活を変えていきます。1940年9月に成立した選抜徴兵法は、第一次大戦期のそれと選抜のプロセスは、ほとんど同じでしたが、登録者の総数は4300万人、入隊者は1500万人と、その規模は約6倍となりました。この新兵の中には、多くのマイノリティが含まれ、新しい傾向としては、約50万人のメキシコ系の兵士が加わり、また、先住民兵士も2万5000人を超えたとみられ、太平洋、ヨーロッパ戦線双方に派遣されました。さらに大戦下に約35万人の女性が軍に志願し、陸軍女性部隊(Women's Army Corps:WACと略)等の補助部隊に入隊しています。これは、女性の軍事奉仕をほとんど認めなかった第一次大戦とは大きく異なっています。
また大規模な徴兵制が行われ、終戦時の米軍兵力は1200万人を超えていました。そんな中、戦時増産体制を取るわけですから、労働力は不足します。第一次大戦時以上に、女性労働者が、工業生産において、かつてない重要な役割を果たすようになります。戦時人材局が、「リベット打ちのロージー」(Rosie the Riveter)という、軍用機工場で働く架空の女性熟練労働者を「自由の戦争のヒロイン」として、喧伝したことは有名です(右はそのポスター)。女性たちは、戦時下に過去最大の1900万人が賃金労働に従事しました。
このような第二次世界大戦の経済効果やリベラルな影響、そして大規模な政府広報は、戦後極めて肯定的な戦争イメージを形成していきます。しかし、この「よき戦争」(good war)と呼ばれる集合的記憶には、敢えて忘却された事実、「忘れられた人々」が存在しました。例えば女性の社会進出について見ても、200万人とも言われる防衛産業の女性労働者は、戦後激烈な雇止めに会うことになります。戦後の全労働力に占める女性の比率は、戦前と比して必ずしも増加していないのです。その一方で、景気の回復は結婚率、出産率を大幅に上昇させています。数十万人の「ロージー」たちは、50年代には、ベビー・ブーマーの母となって、育児に専念せざるを得なくなったのです。
アメリカ参戦直後に行われた日系人の強制収容は、正に「自由の戦争」の大義名分を自ら否定する政策でした。先ず、真珠湾攻撃があったハワイでは、直後から戒厳令が敷かれ、日系人は1944年10月までの長期間、軍の監視下に置かれることになります。一方、アメリカ本土では、戒厳令こそ敷かれませんでしたが、1941年末から42年初頭にかけて、西海岸の日系人の処遇について、厳しい議論が噴出しました。そして連邦政府は、1942年2月19日の行政命令第9066号とそれに続く一連の軍命令により、西海岸の日本人移民3万3000人と日系アメリカ人市民7万9000人を全米10カ所の有刺鉄線に囲まれた拘禁施設に収容しました。さらに戦時移住局(War Relocation Authority:WRAと略)は、1943年初頭、収容者の忠誠審査を行い、反抗的なものをトゥール・レイク収容所などの、より過酷な拘禁施設に移送しました。左はカリフォルニア州のマンザナー強制収容所。
これらの措置に対して、フレッド・コレマツ氏やゴードン・ヒラバヤシ氏らの日系アメリカ人は、強制収容政策や夜間外出禁止令等は、憲法上の権利を侵害していると裁判所に訴えていました。しかしいずれの法廷闘争も、最高裁で敗訴するのです。彼らを拘禁する理由は「スパイ活動を行う可能性」でしたが、スパイ活動の証拠が発見されたことは1度もありませんでした。
1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対して降伏し、翌月の9月2日に連合国への降伏文書に署名したことで、日本とアメリカの間の戦闘状態が終結します。戦闘終結に伴い、西海岸及びハワイに居住する日系アメリカ人及び日本人移民に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所は1945年の10月から11月にかけて次々と閉鎖され、すべての強制収容者は着のみ着のままで、元々住んでいた家に戻るように命令されたのです。
日系人たちは、この後も今までにも増して酷い人種差別にさらされることになります。また強制収容に対する補償は1948年に始まりますが、かなり不備なものでした。1948年の法では考慮されなかった、無形の損害や日系人の自由及び尊厳の回復を求めた、所謂「リドレス運動」が1970年より展開される事となります。連邦議会が、日系人の権利侵害を認め、謝罪するのは、なんと40年も後の1988年のことです。
大戦が勃発し、自国の軍需産業の増産体制に加え、「武器貸与法」が成立し、アメリカが「民主主義の兵器廠」となったことから、新たな雇用が大量に生まれることになります。そのため約300万人と見積もられる南部黒人の、北部工業都市への移住を促すことになります。この「大移動」は、第一次大戦時と同様に、人口移動に伴う移住先の労働関係、人種関係を著しく緊張させていきます。特に航空機等の防衛産業での賃金差別と軍の人種隔離は、黒人の強い不満の種になっていました。1941年6月、市民権活動家のA・フィリップ・ランドルフ(写真右)は、こういった状況に抗議して、5万人を動員する「ワシントン行進」計画を明らかにします。これに脅威を感じたルーズヴェルト大統領は、2週間後行政命令第8802号により、連邦政府と契約関係にある企業において、雇用に関わる人種差別を禁止し、公正雇用実施委員会(Fair Employment Practices Committee:FEPCと略)なる監視機関を立ち上げました。この大統領令は、長い間維持されてきた、ニュー・ディールの悪しき鉄則「人種関係の現状維持」に手を付けた画期的なものでした。
しかし現状は、参戦後も、南部でのリンチ事件や軍隊内部での人種差別は後を絶ちませんでした。自由を達成する戦争の中で、差別が放置されているという矛盾した状況に、黒人のメディアや運動は、強い不満を表明するようになります。なかでも黒人新聞『ピッツバーグ・クリール』は、1942年2月7日付の紙面で、「民主主義の二重の勝利(Double Victory)―国内と海外」というスローガンを掲げたことは、特筆に値します。これは海外でのファシズム枢軸との戦いと国内の人種差別との戦いを同列に位置づけるものでした。まさに「四つの自由」を逆手に取った主張で、多くの黒人各層に支持されました。しかし同紙はは同年5月発禁処分となってしまうのです。
NAACPもその機関紙『クライシス』も、1942年11月の社説で、続発するリンチ事件を放置する政府の態度を、「戦争努力のサボタージュであり、(中略)同盟者たる中国人に白人の民主主義への疑念を抱かせるもの」として厳しく断罪します。人種差別の存在は、「四つの自由」の戦争目的を裏切る「アメリカの矛盾」であったばかりか、戦後のアメリカの世界戦略を左右する重要な課題だったのです。
第二次大戦がはじまると、多くの黒人が軍隊に招集されたり、全国の工場に吸収され、南部のプランテーション地帯では、一挙に労働力不足の状態となります。綿花価格が高騰し、労働コストも上昇したので、機械の導入が求められました。しかし農作業の最終段階である綿摘み作業の機械化には、まだ技術的に問題が残っていました。しかも戦時中で、機械を開発する余裕はなく、南部農業の機械化は進みませんでした。そのため、伝統的な力づくの労働力確保が追及されたのです。
先ず、南部の政治家は、自営農育成・救済政策を廃止ないし縮小させて、余剰労働力を絞り出しました。また徴兵事務に介入して、外部に働きに出ようとしているものや連邦政府の計画の対象者を徴兵リストの上位に並べました。債務を理由とした黒人農民の移動制限は、戦時中ナチスの反米宣伝の材料にされる危険があったため、連邦司法省がその抑制に乗り出していました。しかし多くの黒人は、借金があり、農場を出ていけないと思っていたのです。しかし多くの賃労働者たちは、より良い水準の雇用主を求めて移動し始め、場合によってはストライキも行い、賃上げに成功した事例も多く見られました。
また戦時中、南部農業には、もう一つの変化が起こります。南部でも軍需生産が行われるようになったのです。これにより、都市人口が増大し、食料需要も増大し、これまでは困難だった、食糧作物栽培を含む多角的な農業経営の可能性が高まったのです。こうして南部は、単一作物栽培プランテーション経営に特化しなくてもよくなりました。
1944年第二次世界大戦もその趨勢が見え始めた1944年11月7日第40回アメリカ大統領選挙の投票が行われました。現職大統領で民主党のフランクリン・ルーズベルト(写真右)は、既に過去のどの大統領よりも長く、その職にありましたが、人気は衰えていませんでした。民主党内にも、ルーズベルトが民主党候補者としてもう1期の選出を求め、出馬することにほとんど疑念を持つ人はいなかったと言います。この年の対抗馬は共和党のニューヨーク州知事トマス・E・デューイでした。デューイは精力的に選挙運動を行いましたが、結果は、選挙人獲得数、ルーズヴェルトが432人に対して、デューイは99人、獲得州、ルーズヴェルトが36州に対して、デューイは12州と、1940年ほどではありませんが、大差をつけての勝利となりました。ルーズヴェルトは、米国史上初の大統領4選を果たすのです。そして副大統領には、ハリー・トルーマンが指名されます。
第二次世界大戦の終息が見える中、ルーズヴェルトが腐心したのは、アメリカ主導の戦後国際秩序を形成できるかということでした。その際、具体的な目標とされたのは、
@「大戦勃発の原因の一つと見られる排他的なブロック経済を反省し、自由な多国間の貿易を保証すること」
A「将来の戦争を防止する、実効的な安全保障体制を構築すること」でした。
@の国際経済システムの再建については、1944年7月アメリカのニュー・ハンプシャー州ブレントンウッズのマウント・ワシントン・ホテル(写真右)で会議が行われました。45か国が参加し、連合国通貨金融会議が開催され、翌1945年、国際通貨基金(International Monetary Fund:IMFと略)と国際開発銀行の創設として結実しました。これは、米ドルを国際基軸通貨とする固定相場制により、為替の安定化と戦後の復興資金を確保しようとするものでした。この協定に基づいて確立した体制のことをブレントン・ウッズ体制といいます。
Aに関しては、世界大戦の末期の1944年8月から10月にかけて、アメリカ・ワシントン郊外のダンバートン・オークス(Dumbarton Oaks:写真左)で、大戦後の戦後構想を話し合う会議が開催されます。初めはアメリカ・イギリス・ソ連の三国代表で協議を行い、次いでソ連にかわり中国代表が参加して協議がおこなわれました。場所の名前を取って、「ダンバートン・オークス会議」と言われます。ここで構想されたのは、第一次世界大戦後に創設された「国際連盟」に代わる新たな国際機構の設立が話し合われました。内容の大筋について合意したが、安全保障理事会の常任理事国に拒否権を与えるかどうかでは意見が対立します。アメリカ、イギリスは拒否権を否定しましたが、ソ連は安全保障の実行力を高めるためには全会一致が必要である、つまり拒否権を認めるべきであると主張したのです。結局合意には至らず、安保理の採決については討議を続けるということにして、最終決定は1945年2月のヤルタ会談での米英ソ首脳会談に持ち越されることになりました。
第二次世界大戦の末期、イタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も近いと想定された1945年2月4日〜11日に開催された、連合国の戦後処理構想に関する首脳会談です。開催場所がソ連のクリミア自治区ヤルタだったため、「ヤルタ会談」と呼ばれます。参加者は、イギリス首相チャーチル、アメリカ大統領ルーズベルト、ソ連首相スターリンでした。
この会議までは、アメリカのルーズヴェルトの強力な指導力のもと、大同盟の枠組みはおおむね維持されていました。ドイツの降伏後ソ連は対日宣戦に参加するという密約が交わされました。ドイツは1945年5月に無条件降伏しますが、ソ連は日本への原爆投下後の8月9日、日本との中立条約を一方的に破棄して、満州になだれ込むのです。また「ダンバートン・オークス会議」で紛糾した、常任理事国に拒否権問題については、ソ連に押される形で拒否権を認める方向で合意がなされました。
この会議では、戦後ドイツの占領形式などについても話し合われ、米・英・ソ・仏4か国による分割管理が決定されたのです。
この会議は、第二次世界大戦後の世界政治のあり方=国際連合の設置と米ソ二大陣営の対立という、ヤルタ体制ともいわれる戦後体制を作り上げた、歴史上重要な会談となります。
1945年2月ソ連で行われた「ヤルタ会談」を終え、アメリカに帰国したルーズヴェルトは、体調が不良で、ジョージア州ウォーム・スプリングスの別荘で療養していましたが、4月12日帰らぬ人となってしまいました。1944年の大統領選で史上初の4選を果たし、1945年1月から4期目の職務について3か月後の出来事でした。後任には、副大統領のハリー・トルーマン氏が昇格しました。トルーマンは外交経験がなく、また国際的には無名の存在でした。これまで偉大な大統領ルーズヴェルトが表に立っていたのですから、仕方のないことかもしれません。さらに副大統領に指名はされていたものの、ルーズヴェルトとは、1回しかあったことが無く、親しい間柄ではありませんでした。また、ルーズヴェルトは秘密主義者で知られ、戦争の進捗・内部の情報は全く聞かされていませんでしたし、メモなども残されていませんでした。この当時ヨーロッパ戦線では、ナチス率いるドイツが降伏間近で、アジア・太平洋戦線でも連合国軍が日本を追い詰め、戦争をどう終わらせるか舵取りが求められていたのですが、トルーマンは改めて、戦争の進捗状況を整理、把握する必要があったのです。さらに戦後の国際秩序を決めるソビエト連邦など連合国との駆け引きが、一挙にトルーマンの肩に乗し掛かっていきました。大統領に就任してからのトルーマンは外交政策に没頭せざるを得ない状況になります。
未だドイツも日本も正式には降伏していない1945年4月25日から6月26日にかけて、アメリカ・サンフランシスコのウォー・メモリアル・オペラハウスで開催された連合国による国際会議で、これが就任したばかりのトルーマン大統領の国際会議でビューの場となりました。この会議は、ルーズヴェルトが腐心した、A「将来の戦争を防止する、実効的な安全保障体制を構築すること」に関するもので、「ダンバートン・オークス会議」、「ヤルタ会談」に続くもので、主導4か国以外の国が招請されたものです。招集したのは、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の四か国で、1945年3月1日までに連合国共同宣言に署名した42か国が招請されました。しかし、会議開幕後にアルゼンチン、デンマーク、そしてソ連の構成国であるウクライナとベラルーシが招請されます。ウクライナとベラルーシは、社会主義国の議席を増やすことを狙って、スターリンが要求したものです。これに対して正式には独立していなかったインド、フィリピン、シリアも参加することになり、参加国は50か国となります。また国連諸機構の細部を詰めるこの会議の開催間もなく、5月8日にドイツの降伏の報に接することになります。
この会議は、2か月もの間開催され、6月25日に国際連合憲章を採択し、翌6月26日に参加50カ国が調印して、戦後世界の国際協力体制がスタートすることになりました。
第二次世界大戦の末期のイタリア・ドイツの降伏の後、1945年7月17日〜8月2日、米英ソ三国首脳は連合国の戦後処理構想の最後の会談として、ドイツ・ベルリン郊外のポツダムで首脳会談を開催します。左写真、左から英首相アトリー、トルーマン、スターリンです。米・英・ソ参加国協議といえば、ルーズヴェルト、チャーチルがこれまでのメンツでしたが、ルーズヴェルトは4月に死去し、チャーチルはイギリスの選挙で所属する保守党が敗れたため、労働党党首のアトリー(Clement Richard Attlee)が首相になっていました。ただ会議が始まった時点では、まだチャーチルが首相で途中で交代した形です。
大きな議題は2つでした。@ドイツの戦後処理とA日本への無条件降伏勧告と戦後処理方針です。
@ドイツの戦後処理については、ドイツの非軍事化、非ナチ化やナチの公職追放、戦争犯罪人への裁判、ナチのすべての法律・制度の廃止、賠償金の支払いなどが決められ、さらに米英ソにフランスを加えた4か国による分割統治が決定されます(ポツダム協定)。これによりドイツは東ドイツ、西ドイツに分かれ、東ドイツの首都ベルリンも東と西に分けられるのです。
A日本への無条件降伏勧告と戦後処理方針について
この時点で、敗戦は時間の問題でしたが、まだ日本は降伏していませんでした。この会議始まったばかりの7月17日、トルーマンとチャーチルのもとに一つのメモが届けられます。「新型爆弾(原子爆弾)」の実験に成功したというニュースです。これでトルーマンとチャーチルは、ソ連が介入しなくても日本を降伏させることができると確信したそうですが、同盟者のスターリンに伝えないわけにもいかず、7月24日トルーマンが伝えたそうですが、スターリンは特に反応を示さなかったそうです。原子爆弾がどれほどのものかの知識がいきわたっていなかったのかもしれません。
そして会談の会期中である、7月26日に無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」が出されます。日本政府はこの勧告を無視するのです。これに対し、アメリカは前述した通り、8月6日に広島市に史上初めて原子爆弾投下し、8月8日日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連が対日宣戦布告します。さらに8月9日には長崎市へ原爆投下を行います。これが引き金になり、日本は「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏するのです。
そして8月15日天皇陛下自身による玉音放送(録音によるラジオ放送)で国民に、日本が降伏したことが伝えられます。日本国民が天皇陛下の声を聴くのは、これが初めてでした。玉音放送とともに政府から軍に対し武装解除命令と連合軍への投降が命令され、連合国もこれを受けて戦闘は停止します。
2024年ノーベル平和賞は、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会が受賞しました。核兵器のない世界を実現するための努力と核兵器が二度と使用されてはならないことを証言によって示してきたことが受賞理由となっています。しかし原爆投下を行ったアメリカにおいては、依然として「原爆投下はやむを得なかった」とする容認論が根強く残っています。また、ロシアのプーチン大統領は、ことあるごとに「核を使うぞ」という脅し文句を、繰り返し言い放っています。「核」を使うことは絶対に許されることではありません。しかしその前に、なぜアメリカは1945年もう降伏寸前の日本に「核」を使ったのでしょうか?僕には、アメリカは本当は「核」を使いたい、人体実験してみたくて仕方なかったとしか思えないのです。
米英ソ三国首脳が集まった、1945年7月17日から始まる「ポツダム会談」において、米英ソは日本に無条件降伏を勧告します。しかしこの勧告は、米・英・中の三国名でなされました。なぜソ連が外れたのかというと、この時点では日ソ中立条約が有効で、日本とソ連は領土保全と不侵略をお互いに約束していたからです。しかし実際は、1945年2月に行われた「ヤルタ会談」で、ドイツが降伏後ソ連は日本と開戦するという秘密条約が、米・英・ソの間で取り交わされていました。日本は当然この秘密条約を知らず、交戦国ではないソ連に仲介を頼み、有利な条件で講和を行いたいと外交交渉を続けていたのです。
歴史の教科書には、広島、長崎に投下された、圧倒的な新兵器「原子爆弾」とソ連の参戦によって、8月14日天皇陛下臨席の御前会議が開かれ、ポツダム宣言受諾の聖断が下されたとあります。確かにその通りでしょうが、連合国側に、日本人の人命尊重という意向があったとは思えないのです。アメリカ側主張は、今でも公式には、本土決戦を行った場合失われる人命は、日本側連合国側合わせれば、100万に上るそれをいかに少なくすべく行われたのが「原爆投下」で正しい判断だったというのです。しかし日本への原爆投下は、1944年9月18日に行われた、ルーズヴェルトとチャーチルの間に交わされた「ハイドパーク覚書」に、「新型爆弾が完成したら、日本に使うのがいいだろう。降伏するまで繰り返し使う」と明言しています。一部に本来ドイツに使う予定だったが、ドイツが早く降伏してしまったので、日本に使ったという記載がありますが、それは間違いであることが分かります。初めから日本に使うつもりだったのです。それは何故でしょうか?それはルーズヴェルト、及びトルーマン等英米首脳陣には、抜き差しならぬ黄色人種への根深い差別意識があったことは、各種証言から明白です。
確かに大本営は、「一億玉砕」思想にとらわれ、「本土決戦」の準備を進めていました。しかし制空権、制海権共にアメリカに握られ、海外にいる兵を日本に戻すこともできず、本音は決戦ではなく交渉による終戦を望んでいたと思われます。その一縷の望みがソ連だったのです。そのソ連が頼りにならないと分かっても、日本はそれでも本土決戦を決断したでしょうか?もしジェノサイド(大量殺戮)をもし避けたいのであれば、ソ連の参戦を先に行い、その他考えられる限りの方法を考慮し、それでも降伏せず、日本が「本土決戦」を決断したのなら、最終手段として「原子爆弾投下」もありえたでしょう。
そもそも「ヤルタ会談」で日本に、無条件降伏を勧告したとなっていますが、実は連合国名で正式に日本政府に伝えられたわけではありません。ポツダム宣言の草案から、ソ連を中国に変え、天皇の地位保全(国体護持)を削除し、最後通告の公式文書だと思わせない形式にし、ホワイトハウスや国務省からではなく、宣伝機関の戦時情報局からラジオ放送で発表されました。日本はラジオ放送を通じてポツダム宣言を入手し、直ちに日本語訳を作成して、内容の検討が行われました。しかし未だソ連に仲介を依頼中ということもあり、正式文書とも見えないことから、日本政府は無視することとします。しかしこれに軍部が、政府見解を表明すべきと圧力をかけます。それを時の首相鈴木貫太郎が、「無視する」と発言するのです。「無視する」とは「ノー・コメント」に近いニュアンスですが、これを連合国側は、「拒否する」と解釈したというのです。これも何としても、原爆を落としたい米国国務省の作為が感じられます。
その結果、大都市中心部への原爆投下という、史上類を見ない、その後も例を見ない「大量虐殺」となります。なぜ僕が人体実験と考えるのかといいますと、広島にはウラン235を用いた原爆が落とされ、流し期にはプルトニウム239を用いた原爆が落とされます。その違いが雲の形の違いとなって表れています(写真左)やむを得ない措置だとしたら二種類を使う必要はありません。双方を試してみたかったとしか思えないのです。原子爆弾は、ただその爆発の威力だけではありません、ご存じのように放射線が人体のDNAに影響を及ぼし、その子孫にまで害を及ぼすのです。トルーマンは戦後も原爆投下に関して、「後悔していない」、「まったく心は痛まない」述べていますし、米国の国務省は、現在でも「米国民は、原爆によって終戦が早まったことに安堵した。核兵器の恐ろしい破壊力の意味するところが十分に認識されるようになるのは後のことである」と述べています。当時はこれほど破壊力があることは分からなかったのだから、仕方がないというのである。
僕の最終判断。日本への原子爆弾の使用は、どう考えても人種差別、白人層の黄色人種への差別が原因です。原爆を無くすことが一番いいのは間違いありませんが、「人種差別」が亡くならない限り、ジェノサイドは続きます。
イタリアにおいては、1945年5月4日駐留していたしていたドイツの全軍が降伏し、イタリア戦線における戦いはすべて終了します。
ドイツは、1945年4月30日にナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが地下壕で自殺したことを受けて、海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領に指名され、新たな政府を組織しました。しかしデーニッツ自身降伏は、避けられないと考えていましたが、出来るだけ赤軍(ソ連軍)ではなく、米・英に降伏したいと考えていました。そのため5月7日フランスのランスで西側連合国に、5月9日ベルリンでソ連軍に無条件降伏しました(写真右はソ連に対する降伏文書にサインするカイテル元帥)。これで戦闘は終結し、6月5日連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツの中央政府消滅と米・英・仏・ソ四国による主権掌握が発表されました。しかし1948年に西側連合国占領区域ではドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域ではドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足し、ドイツの文壇の歴史が始まります。
1945年8月14日ポツダム宣言を受諾して無条件降伏を決定し、連合国側に通知を行い、翌15日玉音放送で国民にも伝えられます。これで戦争は終結したはずですが、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案しました。これは当然のことながら拒否され、駐在武官のみを送るにとどめます。しかしスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生しました。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島での日本軍とソ連軍との戦いは9月上旬になってからも続きました。
停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、アメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同基地を占領しました。なお、全面戦争において首都の陥落がないままで、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことでした。さらに連合国軍最高司令官総司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将が8月30日に厚木に到着し、アメリカによる日本統治が始まります。
そして9月2日東京湾に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して、降伏文書調印式が行われました(写真左は降伏文書にサインする重光外相)。これによって正式に、約7年に渡って続いた第二次世界大戦は、終わりを告げたのです。
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