ジミー・ランスフォード 1930年

Jimmy Lunceford 1930

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」で解説を担当するのは、僕の最も信頼する評論家粟村政昭氏である。
粟村氏によれば、ジミー・ランスフォード・オーケストラはスイング時代に台頭した数あるビッグバンドの内でもエリントンやカウント・ベイシーと並び称される第一級のフル・バンドであったという。但し彼のバンドが本当の意味でのマチュリティーを獲得したのは、バンドの契約がヴィクターからデッカに移り、サイ・オリヴァーが縦横にアレンジの腕を揮うようになった30年代中期以降のことであって、それに先立って吹き込まれた、本アルバムの諸作品は、いわゆる「ランスフォード・スタイル」と呼ぶにはやや生硬な、時にメカニカルな響きさえ混じった、個性薄のものが大半を占めていた。
したがって、このアルバムの鑑賞に当たっては、あくまでもこれをジミー・ランスフォード楽団の傑作集とせず、スイング時代に名を成した偉大な黒人バンドの、成熟途上の姿を記録したものとして聴く必要がある。もちろん後年アレンジャーとして重きをなしたエル・ウィルコックスは、発足当時から在籍していたし、33年以来、サイ・オリヴァーもスタッフに加わってはいたが、彼ら自身もまた、自らの才能を伸ばすべき形成期にあったことを納得せねばならない。
何と正直なレコード解説なのだろう。さすがわが師である。何でもかんでも傑作とは言わないのである。これだから粟村師は信頼できるのである。

ジミー・ランスフォードは、1902年6月6日、ミズーリ州フルトンに生まれ、47年7月13日オレゴン州シーサイドに巡業中突然心臓発作に見舞われてこの世を去った。当時、ランスフォード楽団は、メンバーの移動が激しく、バンドとしては必ずしも往時の水準を維持しているとは言い難かったが、それでも享年いまだ45歳という若さは、前途になお多くの可能性を残すものであった。
ランスフォード楽団の前身は、メンフィスにあったマナッサ・ハイ・スクールのスクール・バンドであった。
ランスフォードは、黒人としては中流以上の恵まれた家庭に育ち、早くから各種のリード楽器やアレンジを手掛けていたが、フィスク・ユニヴァーシティを卒業後ニューヨークのシティ・カレッジに学び、その後体育並びに音楽の教師として、上記メネッサ・ハイ・スクールに赴任してきた。大学時代より、すでにランスフォードは、各地のプロのバンドに加わって演奏経験を積んでいたが、教員となってからも、ジャズに対する情熱醒め難く、やがて学内にバンドを作って、その指揮を取ることになった。これがいうなればランスフォードが率いた最初のバンドで、この時選ばれて参加した生徒の中に、ドラムのジミー・クロフォードやベースのモーゼズ・アレンがいた。そして間もなく、フィスク大学の後輩であったウィリー・スミスやエド・ウィルコックスらもこれに加わってついに1929年、彼らは正式にプロのバンドとして、メンフィスのダンス・ホールでデビューしたのであった。
これより先の27年12月に、ランスフォードはバンドを連れてテキサスのダラスに赴き、“Chickasaw Syncopators”のバンド名で2曲ほど録音をしているが、これがランスフォード楽団としては実質上の初吹込みとなった。そして30年6月に、彼らはメンフィスで第2回目の録音(ランスフォードの名を冠した最初の吹込み)を行い、このあと31年から楽旅に出て一路ジャズ史に残る名バンドへの道を歩み始めたのである。

<Date & Place> … 1930年6月6日 メンフィスにて録音

<Personnel> … ジミー・ランスフォード・アンド・ヒズ・オーケストラ(Jimmy Lunceford and his Orchestra)

< /tr>
Band leader & Alto saxジミー・ランスフォードJimmy Lunceford
Trumpetチャーリー・ダグラスCharlie Douglas
Clarinet & Alto Saxウィリー・スミスWillie Smith
Tenor Saxジョー・トーマスJoe Thomas
Pianoエド・ウィルコックスEd Wilcox
Bass & Vocalモーゼズ・アレンMoses Allen

何度も繰り返しで申し訳ないが、上記パーソネルは一部である。このヴィクターの企画編集盤は素晴らしい内容を持ちながら、やってはいけないところで経費を節減した結果実に情けないものになってしまった。粟村氏自身が解説本文中に次のように記している。「本アルバムの録音が採られた当時のランスフォード楽団のサイドメンについて紹介しておくが―。別掲のディスコグラフィーにて明らかなごとく…(後略)」と。ところが別の箇所にディスコグラフィーはないのである。この組み物に収容されている他のバンド、ベニー・モーテンやチャーリー・ジョンソンなどのように色々調べたが、この時期のランスフォード楽団のパーソネルはよく分からなかった。そこで粟村師の解説に出てくる人物だけを取り上げたのが、上記パーソネルである。

<Contents> …「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」(RA-50)

Record6/A面1曲目イン・ダット・モーニンIn dat mornin’
Record6/A面2曲目スィート・リズムSweet rhythm

Record 6.A-1[イン・ダット・モーニン]
ランスフォード自身の作編曲になるもので、ジミー・ランスフォードの名を冠した最初の吹込みに当たる。モーゼズ・アレンの唄―というよりはプリーチングが聞かれる。プリーチングとは、多分「Preachin'」で、いわゆる教会で牧師が説教することである。確かに唄ではないし単なる語りではない。牧師が教会で教えを垂れる口調をまねたものであろう。ソロはチャーリー・ダグラスのTpとウィリー・スミスのAs。スミスのプレイに、ジョニー・ホッジスの影響が聞かれる辺りが興味の中心となろうと粟村師は解説している。
ある解説では、これがモーゼズ・アレンの最もよく知られたプレイであると書いてある。多分演奏ではなく唄―プリーチングのことかもしれない。
Record 6.A-2[スイート・リズム]
前曲と同日に同じくメンフィスでの録音。作編曲は終止リーダーと行動を共にしたエド・ウィルコックスの手になるのだが、後年サイ・オリヴァーと共にランスフォード楽団の屋台骨を支えたウィルコックスの才能も、この初期作品においては、いまだ十分に開花していないという印象を受ける。ここでのウィリー・スミスのソロにも、ジョニー・ホッジスからの影響が感じられるというが、この時点ではホッジスもまだ独自のスタイルを確立したとは言えないのではないだろうか?ウィルコックスも短いソロを取るが、ストライドともラグタイムとも異なる独自性を感じる。

確かに20年代から30年代にかけてのビッグ・バンドの中で、このランスフォード楽団は他のヘンダーソンやモーテン、エリントンとも異なる全く独自のサウンドを持っているように感じる。