「ブギ・ウギー」の誕生物語については油井正一氏が『生きているジャズ史』に書いている。それによると1920年前後、アメリカの産業構造が変わりというか軍港都市ニューオリンズでの規制強化によって、シカゴに大量の黒人たちが移住して行く。このことはニューオリンズ・ジャズに関してキング・オリヴァーやルイ・アームストロングに関連して何度も触れてきた。
人種的に差別されている黒人は、シカゴに来ても決められた黒人居住地区に住むことが決められていた。一定区域に住む住民が増えれば、「需要供給の法則」に基づき、貸家の家賃はどんどん値上がりしていく。そしてとうとう、収入に比して家賃の占める割合が増えて行き、普通の労働賃金だけでは、家賃が支払えないほどになる。そこでサウス・サイドの黒人たちは、家賃パーティー(ハウス・レント・パーティー)というものを開きいくばくかの利益を得、家賃を支払うということを頻繁に行うようになったという。入場料は当時のお金で50セント、これは主催者側の収入、お客はそれぞれサンドイッチなどの食べ物、ジンなどのアルコール飲料を持参し夜中騒ぎ散らかすという寸法です。
このパーティーに入場も払わず、食べ物も飲み物も持って来ないくせに歓迎される客がいた。その名はジミー・ヤンシー。彼は不思議なスタイルのピアノを弾いたのだが、当時そのスタイルに名前はなかった。これがのちに「ブギ・ウギ―」として全世界に知られるようになったスタイルであるという。
ヤンシーは、子供のころからヴォードヴィルで歌ったり、タップを踊ったりしていた寄席芸人でしたが、25歳の時(『ジャズ人名辞典』では31歳)芸人家業を辞め、地元野球チームであるホワイト・ソックスのグランド・キーパーをして亡くなるまでの30年間を過ごした。彼の妻はエステラ・ママ・ヤンシーと呼ばれるブルース・シンガーで勤務の余暇に頼まれれば、夫婦でブルース演奏をした。一生のうち一度としてコンサートのステージを踏むことなく一労働者としての生活を過ごしたヤンシーは、自宅にピアノを持っていなかった。さらにピアノは全くの独学でレッスンさえ受けたことが無かったと油井氏は書いている。
このように油井正一氏は、ブギー・ウギー・ピアノの創始者であり、生涯プロとして活動したことがない幻のピアニストとして紹介している。どうも油井氏の記述を見ると「ヤンシー=美しきアマチュア精神」ということしたいような意図が感じられる。そもそもブギー・ウギーのような独特のスタイルは、ヤンシー一人で生み出されたものではないのである。彼の演奏を今日聴くとブギー・ウギーというよりも、ハバネラ的な要素の方を強く感じる。
実際彼の名が知られるようになったのは、1935年彼を崇拝する同じブギー・ウギー・ピアニストのミード・ラックス・ルイスが彼の名を取ったナンバー「ヤンシー・スペシャル」を吹込んでヒットさせ、38年にはボブ・クロスビーのバンドが吹き込んでヒットさせたことによってであった。そして彼はずっとシカゴのレント・ハウス・パーティーで活躍してきたが、この年初めてレコーディングを行ったのである。
| A面1. | ヤンシー・ストンプ | Yancey stomp |
| A面2. | ステイト・ストリート・スペシャル | State street special |
| A面3. | テル・エム・アバウト・ミー | Tell 'em about me |
| A面4. | ファイヴ・オクロック・ブルース | Five O’clock blues |
| A面5. | スロウ・アンド・ステディ・ブルース | Slow and steady blues |
| A面6. | ザ・メロウ・ブルース | The mellow blues |