ジョン・コルトレーン(テナー&ソプラノ・サックス)

John Coltrane (Tenor & soprano sax)

ジョン・コルトレーン

フルネーム:ジョン・ウィリアム・コルトレーン John William Coltrane
1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレットの生まれ。
1967年7月17日肝臓炎のため死亡。

ジョン・コルトレーンはノース・カロライナ州ハムレットで生まれ、生後ほどなく同じ州のハイポイントで17歳までを過ごした。ということは南部の生れ南部育ちということである。これもこれから学習しなければならないことだがアメリカ人の場合、出身地域例えば南部、北部或いは西海岸などによってその育つ環境が大きく異なり、考え方や感じ方などの大きな差が生まれてくることを忘れてはならないと思う。
日本でも例えば北海道と九州とか、関西、関東とか出身地に違いで考え方や感じ方などが異なることもあるが、何せ法律は全国一律であるのに対して、アメリカは合衆国であり、一気通貫の連邦法というのもあるようだが範囲は限られており、各州ごとに定められている州法が幅を利かせている。
ノース・カロライナはフロリダ、ジョージア、サウス・カロライナ、ヴァージニア、ウエスト・ヴァージニアなどと共にThe South Atlantic Statesに区分され、南北戦争の時には奴隷制容認の立場をとった地域である。こういった出身地域の環境が少なからずその地域に生まれた人々に否応なく圧し掛かることを忘れたはならないだろう。実際ジョンが生まれた時も町にはジム・クロウ法と呼ばれる黒人差別法が覆い被さり、黒人の人権は全く認められていなかった。白人居住区に入る時は許可証が必要だったのである。つまりジョンは、成長する過程で肌身を通して人種差別を体験して育ったのである。

生い立ち

藤岡靖洋著『コルトレーン』

後に出会ったテナー・サックス奏者のベニー・ゴルソンは、ジョンと初めて会った時に「変わった名字だな」と思ったという。我々日本人には分からないが、アメリカでは極めて珍しい苗字なのだという。藤岡靖洋氏『コルトレーン』によれば、「コルトレーン」という苗字は、英国ローランド地方(スコットランド中部の低湿帯)に由来し、ノース・カロライナ州に限定的に残っているとし、開拓者としてやってきたローランド人「コルトレーン」が、所有する黒人奴隷たちに自分の名前を名乗らせた名残であるという。
さて、ジョンの父親はジョン・ロバート・コルトレーンといい洋服の仕立て人で、腕が経つと評判の人だったという。ノース・キャロライナ州ハイポイントいう地で洋服の仕立て職人兼クリーニング屋を営んでいたという。また彼は音楽が好きでウクレレとヴァイオリンを弾いたという。これまでの資料(スイング・ジャーナル社『ジャズ人名事典』)などではこの父親が最初に音楽の手ほどきをしたとなっている。

ジョン・コルトレーンが17歳まで過ごしたハイポイントの家

藤岡靖洋氏『コルトレーン』によれば、この「ハイポイント」という地が非常に重要であるという。
その町は首都ワシントンD.C.と南部アトランタの中間では一番の高台に位置している。今でこそバス、自動車など移動が手軽にできるが、20世紀初頭は、鉄道が重要な移動、輸送の手段であった。ハイポイントの周辺は、地理的に北西20マイルにウィンストン・セーラムという町があり、北へ50マイルいけばヴァージニア州に至る。これらの地名は愛煙家の方にはピンとくるだろうが、この一帯はタバコ産業が中心の地域であった。そのタバコ物資を運搬輸送するための重要な鉄道拠点、それがハイポイントだったという。
一方、母親のアリス・ガートルード・ブレア(旧姓)は、オペラのアリアを歌ったり、ピアノでクラシックを弾く、大学での教養ある女性だった。また彼女は敬虔なクリスチャンでもあった。
母親の通う協会はセント・スティーヴンAME(アフリカン・メソジスト・エピスコパル)シオン教会といい、自宅のすぐ隣にあった。母方の祖父ウィリアム・ウィルソン・ブレアが牧師をつとめ、地域の信仰と信頼を一手に集めていたという。ブレア牧師は人格者として人望も厚く、ハイポイントだけではなくノース・キャロライナ州各地をはじめ、他州の町まで説教して回っていた。
父方の祖父ウィリアム・ヘンリー・コルトレーンも同じ会派の牧師であったが、一家の大黒柱はブレア牧師で、コルトレーンの両親は、ブレア牧師と一緒に各地を転々と移り住む生活を送っていたという。コルトレーンが誕生したのは、ブレア牧師がノース・キャロライナ州中央南端の小さな町ハムレットに赴任中の1926年9月23日(秋分の日)のことである。
※コルトレーンの父親はハイポイントで営む仕立て屋兼クリーニング屋ではないの?なぜブレア氏と各地を転々とするのかな?
ジョンはノース・キャロライナ州ハイポイントで生後3か月から17歳まで過ごした。もともとコルトレーン一家はジョンの生れたハムレットよりもハイポイントの方が馴染み深く、友人も多かった。祖父ブレアの都合もあり、ジョンが生まれて数か月後に一家は再びハイポイントに戻り、その後十数年をここで過ごすのである。
1927年1月から29年までの3年間はプライス通りの家で暮らし、それからアンダーヒルの新居に引っ越した。アンダーヒル地区は中流黒人居住区で、家にはラジオや蓄音機もあったという。当時黒人居住区のほとんどは、雨が降ると道はぬかるみ衛生状態もよくなかったが、アンダーヒル通りは例外で、道は舗装されており、人々から「良い地区」と呼ばれていたという。しかし「良い地区」とは言われながらも、冒頭で述べたように黒人差別法は厳然と存在していた。彼は祖父ブレア牧師や母からも黒人たちの苦しみの歴史を聞かされて育った。ジョンは小学校5年生の時に全12ページからなる、「黒人の歴史」と題するスクラップ・ブックを作っている。彼の精神的、音楽的バックボーンはここに由来すると言えるだろう。
ジョンが12歳から14歳の間、コルトレーン家に次々と不幸が襲う。1938年伯母のレオノーラが亡くなり、続いて一家の大黒柱ブレア牧師が肺炎で世を去った。その翌月には父ジョン・ロバートが胃がんで亡くなり、1939年春には祖母アリスが乳がんで死亡、さらに1940年秋従妹のメアリーの父ゴラーが慢性喘息で死亡。わずか2,3年でブレア・ハウスの住人の大半を失うことになった。何家族か一緒に住んでいたようだ。
相次ぐ家族の死が多感な年ごろのジョンにどんな影響を与えただろうか。この苦しい時期ジョンを支えたのは、祖父直伝の敬虔な信仰心と学校での音楽だったという。男手を失った「ブレア・ハウス」では、空いている部屋を他人に貸したり、生計を立てるためにあらゆる手を尽したという。

少年期

1943年、母のアリスは職を求めてハイポイントの家を離れ、北部へと向かう。ニュー・ジャージー州のリゾート地アトランティック・シティで住み込み家政婦の職を得るためであった。高校を卒業する必要があったジョンは、メアリーと彼女の母とともにハイポイントの「ブレア・ハウス」に取り残された。
ジョンが通っていたのはウィリアム・ペン・ハイスクールであった。ウィリアム・ペンとは、黒人の救済、教育、生活向上に長年尽したクエーカー教徒であり、フィラデルフィアの建設者であるという。藤岡氏の『コルトレーン』では、ハイポイントでその名前を冠したハイスクールに通う。当初この学校にバンドはなかった。コルトレーンが生まれて初めて楽器を手にしたという。それはアルトホーンとクラリネットだったという。セント・スティーヴンAMEシオン教会のコミュニティ・バンドのウォーレン・スティール氏に教わったとジョン・コルトレーン自身が話しているという。このコミュニティ・バンドの成功を受けて、ウィリアム・ペン・ハイスクールのサミュエル・バーフォード校長は、1940年にスクール・バンドを創設、グレイス・ヨークリー女史の指揮の下、ジョンは初代メンバーとしてクラリネットで参画したという。
また町のワシントン通りのレストラン経営者チャーリー・ヘイグウッドからアルト・サックスの手ほどきを受け、修練を積むことができた。高校の成績は、音楽で最優秀賞、また少年コーラス隊では竪琴賞を受賞し、非凡な音楽的才能が既に現れ出していた。
因みにこの「初めて手にしたアルトホーン」とは、チューバとフレンチホルンを合体させたような金管楽器で、英国式のブラスバンドでよく用いられるという。英国から移民が持ち込み、それを黒人たちが使い始めたと言われる。実はチャーリー・パーカーも最初に手にした楽器は、アルトホーンだったという。
この辺りは古い資料(スイング・ジャーナル誌発行『ジャズ人名事典』)とは記述が異なる。音楽の手ほどきは、音楽好きであった父親が、ジョンに楽器を買い与えて音楽の手ほどきをしたと記載している。
『ジャズ人名事典』によれば、父は洋服仕立業を営んでいたこと、自身も楽器をプレイしたことは同じだが、さらにジョンに楽器を買い与えて音楽の手ほどきをしたという。
ともかくこうして音楽に興味を持ち出したジョンの心をとらえた音楽は、クラシックをたしなむ母親とは違い、ビッグ・バンド全盛時代のジャズであった。当時ジョンの十八番は“タキシード・ジャンクション”と“マージ―”であったという。“タキシード・ジャンクション”は、グレン・ミラー楽団のものが有名だが、元は南部アラバマ州バーミンガム出身のトランペット奏者アースキン・ホーキンスが1939年に放った大ヒット曲で、ビル・ジョンソンのアルト・サックスがフューチャーされていた。“マージ―”はジミー・ランスフォード楽団の演奏が当時有名で、そのアルト・サックスはジョニー・ホッジスの影響が濃厚なプレイヤーであった。ホッジスの朗々と歌うアルト・サックスは、以降ジョンの憧れとなっていく。
またウィンストン・セーラムにやってきたカウント・ベイシー楽団を聴いた時は、テナー・サックスを吹くレスター・ヤングのカッコよさに魅せられた。ジョンがアルトからテナーに転向した遠因はこの辺にあるかもしれないと藤岡氏は指摘する。
当時ラジオやジューク・ボックスでは、ハリー・ジェイムスやグレン・ミラーなど白人音楽しかかけないラジオ局が多かったが、サッチモやキャブ・キャロウェイ、ビリー・エクスタインなど黒人が演奏する音楽を流す局もあった。ジョンはラジオから流れてくる局に耳を傾け、熱心にコピーしては練習するハイスクール生活を送っていた。クラスメイトが野球やフットボールに熱中する中、ジャズ専門誌「ダウン・ビート」に乗る楽器の広告の頁を眺めるような少年だったというが、1943年母アリスが家を離れると、卒業までの数か月の間に、飲酒を覚え、セックスを体験し、少しばかりの悪さもしたという。それまでは祖父ブレア牧師を手本とした成績優秀な模範生だったが、成績は転がるように落ちて行ったという。
そして1943年6月11日(16歳と9か月)、高校を卒業したジョンは「ブレア・ハウス」を出る。スイング・ジャーナル誌発行『ジャズ人名事典』では、「43年一家はフィラデルフィアへ移住した」と記載されている。つまりジョンだけではなく、家族みんなで引っ越したということだ。ところが藤岡氏の著作によれば出たのはジョンだけで、友人と語り合って出たという感じだ。
ジョンは故郷を出るに当たって、激しい人種差別のある南部の町ハイポイントに未練はなかったという。クラスメイトのフランクリン・ブラウワー、ジェイムス・キンザーとともに、かねてから計画していたハイポイント発午後10時30分ワシントンD.C.行きの汽車に乗った。向かう先はフィラデルフィアである。翌聴6時30分ワシントンD.C.に到着。ここからは北部である。南部で乗る汽車は、黒人と白人は別の車両であるが、ここから北部の列車は黒人も白人も同じ車両に乗るという。
フィラデルフィアに到着した3人はまず市役所に向かった。市役所の屋根のてっぺんにはウィリアム・ペンの肖像がそびえたっている。母校ウィリアム・ペン・ハイスクールの名の下になった偉人である。この地フィラデルフィアでジョン・コルトレーンは、まだ見ぬ夢、音楽人生への第一ステップを踏み出すのである。
<フィラデルフィア・軍隊時代> フィラデルフィアにやって来たコルトレーンは、製糖工場で働いたり、キャンベル・スープの本社工場に勤務していたという。仕事の合間を縫って、オルスタイン・スクール・オブ・ミュージックへ通い、音楽の基礎を学ぶ傍ら、フィラデルフィアの地元ミュージシャンたちと日夜ジャム・セッションに興じる日々を送っていたという。その手には母から送られた1本のアルト・サックスがあった。
その支払明細書が残っているという。日付から推察して、ジョンの17歳の誕生日プレゼントだった思われる。たとえ中古とはいえ念願だった自分だけの楽器をついに手にすることができたのである。ジョンはうれしさのあまりそのアルトを肌身離さず持ち歩き、毎日練習に明け暮れたという。
一方スイング・ジャーナル誌発行『ジャズ人名事典』によれば、「19歳の時当地のカクテル・バンドに入ってプロ・ジャズマンとしてのスタートを切った」とする。
そしてジョンは太平洋戦争の真っただ中、19歳の誕生日を間近に控えた1945年8月6日海軍に入隊した。その日は広島に史上初の原子爆弾が投下された日であった。ジョンはアメリカ本土の数カ所で基礎的な軍事訓練を受けた後1945年11月28日二等海兵隊員としてハワイ、オアフ島の真珠湾で任務に就いた。そして幸運なことに既に戦争は終わっていた。
軍隊入隊に当たって、藤岡氏の筆致も意外と軽い。レスター・ヤングのように逃げ回ったが結局捕まり入隊を強制されたという状況とは違ったのだろうか?僕にはよく分からないが、実際には様々な葛藤があったのかもしれない。しかしよく考えれば僕たちはジャズ・ファンであり、ジャズ・ミュージシャンとしてのジョン・コルトレーンに興味があるわけで、その後の人生も充分に波瀾に富んでいるコルトレーンのこの辺りのエピソードに多くの紙数を割くのを避けたのだろう。

コルトレーンが加入していた陸軍海軍白人黒人混成バンド 中央でアルト・サックスを持ちサングラスをかけているのがジョン

海軍でジョンは通信施設の内勤だったので、自由時間にはアルト・サックスの練習に明け暮れることができた。そして「メロディー・マスターズ」という黒人ビッグ・バンドにも加入することができた。このバンドの前身は、ノース・カロライナ州チャペルヒルで結成された「ユニット・バンド・ナンバー・ワン」というバンドであった。ジョンは、ハイポイント時代にこのバンドの演奏を聴きに行ったことがあり、同郷の好で加入を許されたのだという。
ハワイでの任務から9か月ほどたった1946年8月11日、ジョンは海軍を正式に除隊した。除隊記念に録音したレコード(78回転SP盤4枚計8曲)が現存する。海軍で親しくなったビル・ゴールドスタンが保管していたもので、ジョンが残したものでは最も古いものである。録音日は7月13日、場所はハワイ・オアフ島の米軍ラジオ局スタジオだった。このレコードは重要である。藤岡靖博氏『コルトレーン』によれば、そのレコードは巡り巡って数か月後マイルス・ディヴィスの耳に届く。マイルスはこのコルトレーンの演奏にいたく感銘を受けたというのだ。
晴れて除隊となったコルトレーンはフィラデルフィアに帰る。帰郷すると音楽をさらに勉強するため、グラノフ音楽院に入学し、月65ドル支給されるGIビル(復員兵援護法による退役軍人基金)は、週25時間以上の授業を受けるのに十分であった。
グラノフ音楽院は、当時ニューヨークのジュリアード音楽院(マイルス・ディヴィスやセロニアス・モンクが一時通っていたことで有名)、フィラデルフィアのカーティス研究所に次いで全米で3番目に大きな、カリキュラムがしっかりした音楽学校だったという(フィラデルフィアに2つもあったのか)。
デニス・サンドール師の下でサックス奏法について研鑽を積む傍ら、西洋音楽、とりわけストラヴィンスキーやバルトークといった現代の理論を徹底的に解析、学習した。このことが後年、作曲や編曲の技術向上、特に「ジャイアント・ステップス」や「至上の愛」にも大いに反映されることになる(藤岡氏)。同時にフィラデルフィアの地元ミュージシャンたちと日夜ジャム・セッションに興じる日々を送っていた。手にする楽器はもちろん母から送られたアルト・サックスである。
この頃コルトレーンと付き合った音楽仲間の一人にベニー・ゴルソンがいる。彼の述懐によると、コルトレーンがまるでジョニー・ホッジスみたいに吹くこと、ものすごくうまかったこと、みんなにとても丁寧に接していたという。 そしてジョンはゴルソンと共にゴードン・アシュフォード(ベース)のバンドに入り、地元のクラブやバーなどで演奏しプロとして活動していく。
1946年の秋から翌年1月にかけては、ヴォーカリストのビッグ・メイベルを擁するジョー・ウェッブのビッグ・バンドに入れてもらいツアーにも参加した。ここには後に親友となるキャルヴィン・マッシーもトランペットで参加していた。 1947年春にはトランペットのキング・コラックスのビッグ・バンドでも全米をツアーし、5月頃からジャム仲間のジミー・ヒースに誘われて彼のバンドに入り、数々のチャンスをモノにしていく。
(45年19歳の時海軍に入ったジョンは海軍バンドで腕を磨き、除隊後ジョン・ウェッブ、キング・コラックスなどの楽団を経て47年にエディ・ヴィンソンのR&B楽団に加入、この時アルトからテナーに替えた。

後列右端がコルトレーン 後列左端がレイ・ブライアント(P)、右端がジョン。前列左からジョニー・コールズ(Tp)、ジェイムス・”サックス”・ヤング(sax)、ジェイムス・ローズ(B)。

そののち一端故郷へ帰り、ジミー・ヒースなど当地のジャズマン達とジャム・セッションに没頭したという。当時気の合った仲間にはほかに、サックスのビル・バロン、ジェイムス・ヤング、ピアノのレイ・ブライアント、ハサーン・イブン・アリ、マッコイ・タイナー、ベースのジミー・ギャリソン、ジェイムス・ロージー・ローズ、ドラムのフィリー・ジョー・ジョーンズ、スペックス・ライト、トランペットのジョニー・コールズやキャルヴィン・マッシーらがいた。彼らは互いに切磋琢磨し腕を上げていった。
フィラデルフィアのミュージシャンたちの友情、ネットワークは強固で、音楽の世界では「地縁」がものを言う良い一例と言える。中でも、サックスのジミー・ヒースとの友情は、初期コルトレーンのキャリアを見るうえで重要だとは藤岡氏。ヒース自身は1926年生まれでコルトレーンと同い年、父はノース・カロライナ州ウィルミントン生まれ、母はサウス・カロライナ生まれだった。父がコルトレーンと同郷ということもあり二人はすぐに親しい友として付き合い始めた。
ジミー・ヒースは回想する。
「コルトレーンとはしょっちゅうお互いの家で練習したりフィラデルフィア図書館へ行って西洋クラシック音楽をヘッドセットで聴いたりした。ストラヴィンスキーの「火の鳥」、「春の祭典」なんかは、バードとディズも影響を受けた音楽だから、それを研究しにいったんだ。」
ジミー・ヒースは地元フィラデルフィアで、チャーリー・パーカーが客演したこともある自分のバンドを持っていた。冠にはトラペットのハワード・マギーをいただいて1948年秋にはツアーにも出ていた。コルトレーンはヒースのバンドに加えてもらったことで貴重な経験を積んでいく。
フィラデルフィアのジャズクラブで双璧をなしていたのは<ショウボート>と<ペップス>であった。ロンバード通り1409番地にあった<ショウボート>は<ダグラス>というホテルの中にあり、建物の2階が楽屋になっていて、地下が90名くらいのキャパを持つジャズクラブであった。その上の階にはしばらくはビリー・ホリデイも住んでいたというストリート・サインが現在ビルの前に掲げられているという。
その<ショウボート>から1ブロック南、サウス・ロンバート通りとサウス通りが交差する北西角に大きな建物がある。その1階にはかつて<ペップス>と呼ばれたフィラデルフィアでも最大級のジャズクラブがあった。キャパは約170名、ここではコルトレーンはもちろん、キャノンボール・アダレイ、チャールズ・ミンガス、そしてマッコイ・タイナーを擁する「ファーマー=ゴルソン・ジャズテット」や、ユセフ・ラティーフら錚々たる顔ぶれが連夜エモーショナルな熱演を繰り返していた。
ウエスト・フィリー(フィラデルフィア西地区)の<アップタウン劇場>は、マンハッタンのハーレムにある<アポロ劇場>のようなところだったし、<アール劇場>はさながら52丁目のような場所、すなわちフィラデルフィアでジャズの中心として機能していた。地元新聞『フィラデルフィア・アフロ・アメリカン』に勤めていたハイポイントから一緒にフィラデルフィアへ出てきたフランクリン・ブラウワーは、1949年11月5日付の同紙に、故郷ノース・カロライナの親友コルトレーンのディジー・ガレスピー楽団の一員としてフィラデルフィアの殿堂<アール劇場>への出演を果たしたという快挙を大々的に報じる記事を書いている。
コルトレーンがアルトからテナーに持ち替えるきっかけは1948年に訪れた。一つはジミー・ヒースと一緒に聴きに行ったデクスター・ゴードンの悠然としたプレイに大いに感銘を受けたこととエディ・(クリーンヘッド)・ヴィンソンのバンドに入ったことだった。ヴィンソンがアルト・サックスなのでコルトレーンはテナーを担当することになったという。 1948年ヴィンソンは、メンバーの若返りを図り、ヴィンソン以外全員を24歳以下にするという思い切った挙に出る。すなわち「ビバップ」という新しい音楽を演奏できる若いミュージシャンたちであった。
1948年11月20日から1949年6月10日までの半年以上、断続的にではあるがコルトレーンはヴィンソンの全米ツアーに参加した。ヴィンソン・バンドが好評な土地には、後から新しいビバップ・バンドがどんどんやって来る。つまり彼らは、ビバップの「先駆者」として各地を演奏して回ったことになる。大人気のバンドだったので、この間にレコーディングも予定されていたが、実現しなかったのは大変悔やまれる。原因はヴィンソンがレコーディング・セッション当日に遅刻したからだという。遅刻原因は定かではないが大酒飲みのヴィンソンの二日酔いだったろうとは藤岡氏。
このバンドが演奏していた“フォア”や“チューンナップ”という曲は元々ヴィンソンの曲だという。後にマイルス・バンドの18番ともなった曲だ。“チューンナップ”は、「いわゆるコルトレーン・チェンジ?」によって“カウント・ダウン”という曲に生まれ変わる曲だけに録音されていれば貴重な音源となったはずである。ヴィンソンの悪癖はその頃コルトレーンにも伝染し、後年麻薬癖も加わって、ジョニー・ホッジスやマイルス・のバンドで失態を繰り返すことになる。

ディズとコルトレーン

ここでもう一つ大きな転機が現われる。ディジー・ガレスピーとの出会いである。ディズはご存じの通りバードと並んでビバップの創始者の一人と言われる人物であるが、コルトレーンの生地ノース・カロライナ州ハムレットとは州境をまたいだ隣町、サウス・カロライナ州シェローの出身であった。コルトレーンはジミー・ヒースの推薦もあって1949年9月ガレスピーのビッグ・バンドに加わることになる。 この時には売れっ子になっていたディズは大手レコード会社キャピトルと契約していて、そのレコーディングにはコルトレーンも誘ってくれた(ディズのキャピトル版は未聴)。もともとヒースの紹介で知遇を得たのに、1950年9月末、バンドをスモール・コンボに縮小した時にディズはヒースをクビにし、コルトレーンを残した。綴じヒースとコルトレーンの実力は伯仲していたのに、残れたのは「隣町」という同郷の好であったという。

まだまだ続く。
レコード・CD

"John Coltrane/First giant steps"(RLR 88619)