本名:ジュリアン・クリフォード・マンス・ジュニア(Julian Clifford Mance Jr.)
1928年10月10日イリノイ州エヴァンストン生まれ。
2021年1月17日ニューヨーク州ニューヨーク死去。
日本でも大変人気のあるピアニストである。
父親もピアニストで、5歳の時からピアノを弾き始めたという。
親子でピアノを弾いたことから、「ジュニア」と呼ばれるようになった。
10歳のときシカゴで初めてプロとして演奏した。これはアパートの上の階に住む
サックス奏者のピアニストが病気になり、他に代役がいなかったためだったという。
母親はノース・ウェスタン大学で医学を学ぶよう勧めたが、シカゴのルーズベルト大学に入学した。
医学部進学準備クラスを受講するよう勧められたが、音楽クラスを受講した。
しかし学部によってジャズが禁止されていることがわかり、隠れて練習したという。
ルーズベルト大学在学中の1947年、シカゴでジーン・アモンズと初めて共演した。
同年9月23日、アラジン・レコードでアモンズとレコーディングを行った。
練習室でジャズを演奏しているのが見つかり停学処分を受けた直後、ニューヨークでアモンズと活動を始めた。
Webのプロフィールには、「1949年アモンズとツアー中、演奏を見に訪れたレスター・ヤングに、認められ
シカゴに来るのが遅れた正規ピアニスト、バド・パウエルの代役としてサヴォイ・レコードにヤングと吹込みを行った」
とあるが、1944年ヤングの吹込みにマンスがクレジットされており、間違いだと思われる。
但し、1949年にもヤングのコンボに参加し、サヴォイへのレコーディングに参加している。
1950年にはアモンズ、ソニー・スティットとプレスティッジ・レコードでレコーディングを行った。
1951年陸軍に徴兵された。
1953年に陸軍を除隊し、直ぐにシカゴのビー・ハイブ・ジャズ・クラブで働き始め、
イズラエル・クロスビーとバディ・スミスとともにハウスのリズム・セクションを組んだ。
ビー・ハイブに在籍していた1年間に、チャーリー・パーカー、コールマン・ホーキンス、
エディ・"ロックジョー"・デイヴィス、ソニー・スティットなどのミュージシャンのバックを務めた。
チャーリー・パーカーからニューヨークへの移住を勧められ、ビー・ハイブでほぼ1年間働いてお金を貯めた後、移住した。
1954年、ウィントン・ケリーが徴兵された後、ダイナ・ワシントンの伴奏を依頼された。
その後2年間ワシントンとツアーを行い、ワシントンのアレンジャーであるジミー・ジョーンズから伴奏テクニックを学んだ。
1954年8月のワシントン、クリフォード・ブラウン等とのセッションは、エマーシーからLPがリリースされている。
1956年、ナット・アダレイ、サム・ジョーンズ、ジミー・コブとともにキャノンボール・アダレイの最初のコンボに加わり、その後2年間活動した。
アダレイ・グループが解散した後、アダレイはマイルス・デイヴィス・セクステットの一員となり、
マンスはウィントン・ケリーに代わってディジー・ガレスピーのバンドに参加した。
このバンドで活動中、ノーマン・グランツに認められ、ベースにレイ・ブラウン、ドラムにレックス・ハンフリーズを起用した初リーダー・アルバム、
『ジュニア』のレコーディングを、1959年4月に行った。
その後キャピトル(1964年 - 1965年)、アトランティック(1966年 - 1970年)でレコーディング活動を行った。
それから後30年間は、ゆったりとしたペースでレコーディングと演奏活動を続けた。
2007年に自身のレコードレーベル、JunGloを設立した。
2021年転倒後に脳出血を起こし、ニューヨークで92歳で亡くなった。
1947年のジーン・アモンズの吹込みに名前が見える。
「ジーン・アモンズ/テナーの巨星」(Mercury BT-5119〜20)
「ブルー・レスター」(Savoy Mg 12068)
「ジ・イモータル・レスター・ヤング」(COCY-9807)
「ザ・マスターズ・タッチ」(Savoy MG-12071)