1914年1月9日ペンシルヴァニア州ピッツバーグ生まれ。
1985年1月26日フランス・モントルイユにて死去。
モダン・ドラムの先駆者であり、リズムを刻むのをソック・シンバル(ハイ・ハット・シンバルの前身)から
トップ・シンバルに切り替え、ベース・ドラムでオフ・ビートを刻んだ。
ハイ・スクールでピアノ、トロンボーン、ドラム、ヴァイブ、音楽理論などを学び35年にはロイ・エルドリッジと共演した。
1937年にエドガー・ヘイスのビッグ・バンドに加わり、そこで間もなく初めてのレコーディングを経験している。
僕はヘイス楽団の録音を聴いていないが、粟村氏によると後年のプレイに通ずる奔放さはほとんどと言っていいくらい認められないという。
続いて39〜40年はテディ・ヒル・バンドで過ごしたが、この頃からミントンズにも出入りするようになった。クラークが新しいドラム奏法の可能性に思い当たったのは、そのためにクビになったというテディ・ヒル時代(39年)のことと考えて間違いないようだ。
但しクラーク自身の言によれば、彼のドラミングが本当にそれらしきものになったのは、その後ロイ・エルドリッジのバンドに採用されてからのことであって、基本リズムを刻む役割をベース・ドラムからトップ・シンバルに移し、ベース・ドラムのオフ・ビート・アクセントから生まれる刺激によって、予測出来ないリズミック・ラインを作り出そうという彼のアイディアは、ロイの積極的な指示のもとに初めて実践可能なものとなったのだという。
いずれにしてもこうした苦難時代を経て確立された彼のドラム奏法は、40年代初めという時期にあっては、<完成された時点のビ・バップに最も近いもの>という意味において、一、二を争うほどモダンなものではなかったかと考えられる
。
41〜42年はベニー・カーター楽団で、そして独立して自分のグループも作ったが、46年にはディジー・ガレスピー楽団に加入した。
また48年にガレスピー楽団とともにヨーロッパに楽旅に出たが、楽旅が終わってからも数か月パリに滞在、
この時の生活が大変気に入り、後にパリ永住を決める一つの伏線になった。
帰国後はタッド・ダメロンやビリー・エクスタインとも付き合ったが、52年の4月にガレスピー楽団時代からの友人達
ジョン・ルイス、ミルト・ジャクソンとMJQ(モダン・ジャズ・クァルテット)を作ったが、ジョン・ルイスと音楽的対立から
55年コニー・ケイにその座を譲り在団した。
56年の夏以来主な活躍の舞台をパリに移した。60年にはピアニストであるフランシー・ボーランと双頭バンドを結成、世界的な名声を博した。
「ビリー・ホリディ物語 第5集」(SOPH 69〜70)
"Harlem Odyssey"(Xanadu 112)
「チャーリー・クリスチャン・アット・ミントンズ」(Columbia SL-5001-EV)
「ディジー・ガレスピー/シングス・トゥ・カム」(Columbia YW-7534-EV)
"Dizzy Gillespie/Professor bop"(Atlantis ATS-11)
"Dizzy Gillespie/Groovin high"(Savoy MG-12020)
"Fat Navarro/The 1946-49 small group sesions"(Blue moon BMCD 1016)
"Billie Holiday/Kind of Holiday"(House of JAZZ 220121)
"Hall of fame/Sarah Vaughan"(Past perfect 220209)
"The Fats Navarro story"(Properbox 11)