本名:レナード・ウィリアム・ハンブロ(Leonard William Hambro)
1923年10月16日ニューヨーク生まれ。
1995年9月26日ニュー・ジャージー州ソマー・ポイントにて死去。
父親はダイヤモンド研磨工で、母親は家でラグタイム・ピアノを弾いていたが、12歳の時に乳がんで亡くなった。
1941年にブロンクスのジェームズ・モンロー高校を卒業した。
28歳の時に父が肺炎で亡くなった後、放浪生活をしていたという。
10代の頃はトランペットをやりたかったが15歳の時木管楽器を演奏するようになった。
高校生の頃、ニューヨークを代表する音楽教師でセッション・ミュージシャンの一人であるビル・シャイナーから個人レッスンを受けた。
そこでスタン・ゲッツとも知り合ったという。
第二次世界大戦中、多くのプロの音楽家が軍楽隊に入隊し、プロのバンドで空席が目立つ頃、18歳でジーン・クルーパのバンドのオーディションを受けた。
しかし1942年12月にバンドを離れ陸軍に入隊し、第379陸軍サービスフォース(ASF)バンドのメンバーとして3年間活動した。
1946年から1947年まで、ビリー・バターフィールドのバンドで活動を行い、1947年にジーン・クルーパのバンドに再び加わり、1950年まで活動した。
その他にヴィンセント・ロペスやプピ・カンポ等のラテン・ジャズ・バンドでも演奏していました。
1951年から1952年まで、レイ・マッキンリー・バンドで演奏し、マネージャーも務めた。
1953年、自らのクインテットを結成し、9月にマチートのリズム・セクションとレコーディングも行った。
1955年再びレイ・マッキンリー・バンドで演奏し、マネージャーも務めた。
1956年、映画『グレン・ミラー物語』の人気を活かし、グレン・ミラー・バンドの再編成の依頼を受け、
マネージャーとアシスタントリーダーの両方を務めた。
バンドは非常に成功し、テレビ出演や世界各地を巡った。
1964年から、ブッキング・エージェントのウィラード・アレクサンダー社の代理店で働きながら、現役ミュージシャンとしても活動を続けた。
1968年から69年には旧友レイ・マッキンリー率いるコンボなどで演奏した。
1980年、57歳で軽い脳卒中を患ったが、ブッキング・エージェント、ミュージシャンとしても活動を続けた。
1991年フロリダに移り、地域のジャズ・クラブで個人レッスンで教え、さまざまなバンドで演奏し、ブッキングエージェントとしても働き続けた。
ジーン・クルーパの1947年の録音に名前が見える。
"Gene Krupa/Drummin' man"(Columbia C2L 29)