フル・ネーム:フル・ネーム:ルキアス・カール・ワターズ Lucius Carl Watters
1911年12月9日カリフォルニア州サンタ・クルーズ生まれ。
1989年11月5日カリフォルニア州サンタローザにて死去。
ルー・ワターズは、プレイヤーとしてはともかくジャズ史上の重要人物だと思う。
まず粟村政昭氏は名著『ジャズ・レコード・ブック』で次のように書く。
「41年に彼のヤーバ・ブエナ・ジャズ・バンドがジャズマン・レーベルに吹き込んだ歴史的なセッションを皮切りに、以後数年間に渡って歴史的なセッションを皮切りに以後数年間にわたって世界に波及した古典ジャズ復興の動き―ニューオリンズ・リヴァイヴァルはその幕を開けた。
ワターズは、サンフランシスコに住む一アレンジャー兼トランぺッターに過ぎなかったが、ニューオリンズ・ジャズの熱心な信奉者であり、キング・オリヴァーズ・クレオール・ジャズ・バンドの楽器編成とレパートリーに範を取り、忘れられていたオリヴァー楽団の演奏を徹底した分析と研究のもとに再現して見せたのである。
こうしたワターズ一党の試みは、やがて『サンフランシスコ・スタイル』なる称号のもとに爆発的な人気を以てファンに迎えられ、次いで埋もれていたバンク・ジョンソンやジョージ・ルイスが発見されてニューオリンズ・リヴァイヴァルはジャーナリスティックな話題にまで発展していくわけだが、今日バンクやルイスのレコードを集める人こそあれ、ワターズ自身の吹込みには、ほとんどのファンが無関心であるという事実は、再現ジャズのもつ宿命とは申せ、庇を貸して母屋を取られた以上の皮肉を感じずにはおれぬものがある。
ワターズのYBJBが演じたジャズは確かにオリヴァーの手法の模写ではあったたが、明快な独自のツー・ビート、強いアタック、規則正しくオン・ビートで演奏するホーン隊の存在―といったところに僕は彼らなりの創意を感じるし、それにもまして往年のオースチン・ハイスクール・の青年たちに通ずる、黒い巨人たちへの心からの敬意と憧憬とを察知せずにはいられない。こうしたアマチュアリズムにも似た情熱こそがジャズの演奏にとって、最も大切なものだと僕は思う。」(文中の「僕」は粟村氏)
ここにワターズの業績は凝縮されていると思う。
1925年彼は家族とともにサン・フランシスコに移り、高校在学中の1926年に同地でジャズ・バンドを立ち上げた。
その後キャロル・ロフナーと5年間アメリカ中を巡業した時ニューオリンズでトラディショナル・ジャズに興味を抱いたという。
サン・フランシスコに戻りでいろいろなバンドに加わったり、仲間を集めてジャム・セッションを行っていたが、
1939年キング・オリヴァーに範を取るニューオリンズ・ジャズ・バンド「ヤーバ・ブエナ・ジャズ・バンド(Yerba Buena Jazz Band)」を結成し、
サン・フランシスコのドウン・クラブ(The dawn club)を根城に活動を行った。
もともとアマチュアだったバンドは次第に人気を得て、このクラブを手に入れるまでになったが、
やがて大戦の影響でメンバー全員が応召することになったため、バンドは解散してしまう。
除隊後同じサン・フランシスコの金門湾の東岸に大きなナイト・クラブを手に入れ、「ハンボーン・ケリーズ(The club Hambone Kelly’s)」と命名した。
1949年このクラブには、キッド・オリーやジェイムズ・P・ジョンソン、マット・キャリーなどが訪れ共にプレイしたという。
ところが、人気絶頂の1950年コルネットと「ハンボーン・ケリーズ」を人手に譲り、「僕はジャズを捨てる。一生の仕事として鉱物学を完成する」と言い残して、
一台のトレーラーに身を託して砂漠の彼方に消えていった(油井正一氏)。
他の資料には「鉱物学」ではなく「地質学」とありますが、あまり変わりないかもしれません。
1963年一度復帰し、ボデガ湾に建設予定の核施設建設反対運動に加わり、かつての仲間たちとレコーディングを行ったという。
"Lu Watters' Yerba Buena jazz band/1942series"(Good time jazz L-12007)
"Lu Watters' Yerba Buena jazz band/Vol.2"(Good time jazz 12002)
"Lu Watters' Yerba Buena jazz band/Vol.3"(Good time jazz 12003)
「ルー・ワターズ/サン・フランシスコ・スタイル」(SR(M)3133)