メトロノーム・オールスターズ 1939年

Metronome Allstars 1939

そもそも「メトロノーム(Metoronome)」とは、1884年創刊されたアメリカ最古の音楽雑誌であった。この雑誌においては始めジャズ関連の記事はほとんど掲載されることはなかったのだが、1935年ハーバード大学出身のドラマー、ジョージ・T・サイモンが編集部に加わり、当時スイング・ジャズが一般大衆の間で人気を集め始めていたとことから、次第にスイング・ミュージックの専門誌的な編集方針を取るようになっていったという。
当時ライバル誌として1934年に発刊した「ダウンビート」(Downbeat)誌が、1937年から読者人気投票によるミュージシャンを選出していたので、「メトロノーム」誌も39年度(集計は38年暮)からサイモン氏の指導の下に同様のポール・ウィナーの選出を始めた。その頃は「メトロノーム」誌の方が圧倒的に売れていたので、その結果は「ダウンビート」誌よりも一般大衆の好みを一層反映していたことになる。そしてその結果に基づいたレコーディングを企図することは、ジャズ・ファンの夢を満たすものとして大きな意義を持つものであった。
ところで「メトロノーム」誌、「ダウンビート」誌の39年度のポール・ウィナーズはどのような顔ぶれだったかというと現段階では資料がなく分からない。ググってみても該当する資料にヒットしない。「メトロノーム」誌の方は本録音のメンバーと解説文中から想像するしかない。
そして僕が考えるにこう言うことが実現できることこそがジャズの特徴の一つではないかということである。
すなわち「メトロノーム・オールスターズ」とは、トランペット、クラリネッット、ピアノ、ベースなどの楽器ごとの分野での人気No.1プレイヤーを集めたバンドによる録音ということであるが、そういった企画自体他の分野では難しいのではないかと思われる。ヴァイオリン部門やチェロ部門の人気No.1になった演奏奏者を一堂に集めて交響楽団を作って演奏や録音をしたなどということはあるのだろうか?僕は聞いたことがない。
では、このような企画がなにゆえジャズでは可能かといえば、ジャズで一番の聴かせ処は「アドリブ」だからではないだろうか?アンサンブルが重要ではないということではないが、そもそもプロになるくらいのプレイヤーなら譜面のあるなしにかかわらず主旋律部のアンサンブルくらいはそれほど苦労なく吹けたり、弾けたり出来るであろう。つまりそういった合奏部はそれなりにこなして、勝負はソロになる。そしてここでは各プレイヤーが腕を競うからかえって聴き処の多い演奏になることも多いのだろう。
ともかくこうして選ばれたポール・ウィナーたちは、スタジオに集合しレコーディングを行った。因みに第1回目は「ヴィクター」に、2回目は「コロンビア」というように2大メジャー・レコード会社が録音を行ったが、7回目からはキャピトルが参加し、その後MGMとクレフ(後のヴァ―ヴ)も1回ずつ吹込みを行った。

この催しは太平洋戦争中を除いて51年まで毎年続いた。その後は53年と56年に行われただけで、肝心の「メトロノーム」誌が廃刊となったため消滅した。
また56年に録音を行ったのは「クレフ」であったが、「メトロノーム・オールスターズ」と銘打っているものの、投票結果を全く無視した編成で、単に上位に入賞したクレフに専属契約していたミュージシャンが加わっていた。つまりクレフのノーマン・グランツが「メトロノーム・オールスターズ」という名を商売に利用しただけであった。
さらにこの企画を最初に考え、中心となって担当してきたジョージ・T・サイモンは、投票結果を尊重しながらも、ただそれだけに盲従したわけではなく、構成メンバー全体のバランスを考え、また単なる表面的な人気だけではなく真の実力を備えた者を選出するなど最新の配慮をしながらこのレコーディングに向かったのであった。
なおこのセッションに当たって、それぞれ別々のレーベルに専属契約していたスターたちを一堂に集めてレコーディングすることの問題は、「メトロノーム」誌がミュージシャンに支払うギャラの問題だが、これを失業ミュージシャン救済のため使うということで解決したという。
第1回1939年度は投票が行われたのは1938年である。この年と言えばスイング時代の絶頂期で、ベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、アーティー・ショウ・ボブ・クロスビーなど白人ビッグ・バンドの演奏が圧倒的に大衆に受けていた時代である。当然ポール・ウィナーズの顔ぶれも白人によって占められた。結局この年ポール・ウィナーに選ばれた黒人はピアノ部門のテディ・ウィルソンとヴォーカル部門のエラ・フィッツジェラルドだけであった。結局この年の録音は白人プレイヤーのみで行われることになった。またこの時は「メトロノーム・オールスターズ」という名ではなく単に「オール・スター・バンド」という名で吹き込まれた。ドラムス部門のポール・ウィナーはジーン・クルーパだったが、都合により不参加となった。
このレコーディング・セッションは1月11日夜から準備が行われ、実際に録音に入ったのは12日の午前1時であった。当時これらの録音の気苦労は大変なものであった。当時人気を二分するベニー・グッドマンとトミー・ドーシーを共演させること自体が問題だったという。2人ともプライドが高く気難し屋で有名だったからである。さらにボブ・クロスビー楽団から4人が選ばれていたが、当夜このバンドはフィラデルフィアの劇場に出演しており、終演後間に合うように来てくれるかどうか心配もあったという。

<Date&Place> … 1939年1月11日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … オール・スター・バンド(All star band)

Trumpetバニー・ベリガンBunny Beriganソニー・ダンハムSonny Dunhamチャーリー・スピヴァクCharlie Spivakハリー・ジェイムズHarry James
Tromboneジャック・ティーガーデンJack Teagardenトミー・ドーシーTommy Dorsey
Cralinet & Alto saxベニー・グッドマンBenny Goodman
Alto saxハイミー・シャーツァーHymie Schertzer
Tenor saxxアート・ロリーニArt Rolliniエディー・ミラーEddie Miller
Pianoボブ・ザークBob Zurke
Guitarカーメン・マストレンCarmen Mastren
Bassボブ・ハガートBob Haggart
Drumsレイ・ボデュークRay Bauduc

顔ぶれを見ればわかるように黒人は一人も選ばれていないところが時代を感じさせる。

<Contents> … 「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第17巻/スイングからバップへ」(RCA RA96〜100)&「コンプリート・ベニー・グッドマン」(BMG BVCJ-7030)

record2-A面1.&CD12-3.ブルー・ルー テイク2Blue Lou take2
record2-A面2.&CD12-4.ブルー・ルー テイク3Blue Lou take3
record2-A面3.&CD12-5.ザ・ブルースThe blues

音源は、上記の2つ。どちらも同じ内容である。

ブルー・ルー
セッションで最初に演奏したナンバー。ここではトミー・ドーシーがバンドを指揮した。それは彼のバンドが使っていたアレンジを用いたからであった。
ここではメンバーに選ばれていたTpのハリー・ジェイムズは加わっていない。それは彼の場合リーダーがBG以外の下ではレコーディングに加わわらないという契約を結んでいたからである。そのためこの曲では代役のチャーリー・スピヴァクが加わったとレコード・ボックスにはあるが、CDボックス「コンプリート・ベニー・グッドマン」には、この時ハリー・ジェイムズはBG楽団を辞めていたとある。ならばなぜ参加しなかったんだろう。ジェイムズはBGの祝福を受け、自身のバンドをスタートさせるに当たってはベニーの財政的援助を受けたという。
サックス・アンサンブルをリードしたのはBG楽団のハイミー・シャーツァー。BG自身もアンサンブルには第2アルトとして加わった。
最初にSP盤として発売されたのは、A面1テイク2の方だったが、やはり出来はこちらの方が良い。ソニー・ダンハムのアドリブを聴くとベリガンのプレイと酷似している。それだけこの時代のトランぺッターにベリガンの影響が絶大だったことが知れる。
ザ・ブルース
BGがバンドを指揮することになった。そこでスピヴァクが抜け、ジェイムズが加わった。
BGはブルースはどうだろうかと提案し、自分でブルース・リフのハミングを始めた。メンバーは賛同し、すぐさまヘッド・アレンジに取りかかった。
トミー・ドーシーは自分がポール・ウィナーであったにもかかわらずソロをジャック・ティーガーデンに譲った。こういうブルース・プレイは自分よりティーガーデンが名手であることを認めていたのである。それでメンバーもドーシーにも鼻を持たせるべく、ティーガーデンのアドリブ・バックをドーシーのストレート・メロディーが修飾するように提案し実行された。友情と敬愛の念の証である。
マストレンのギター・イントロの後、前述のようにドーシーのストレート・メロディに乗ってフレイズを重ねていくティーガーデンが素晴らしい。ここでのジェイムズのTpソロにもベリガンの影響が色濃い。

このWebサイトについてのご意見、ご感想は、メールでお送りください。

お寄せいただいたご意見等は本文にて取り上げさせていただくことがあります。予めご了承ください。