ノーマン・グランツ(レコード・プロデューサー&プロモーター)

Norman Granz (Record producer & Promoter)

ノーマン・グランツ

1918年8月6日カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。
2001年11月22日スイス・ジュネーヴにて死去。

ユダヤ人の家系に生まれ、少年期にKKKの人種差別的な暴挙を目撃し、人種差別に反対する彼の理念を形成するきっかけとなった。
大学在学中に、証券取引所でパート・タイマーの事務員として働いていたというが、そのころから熱心なジャズ・ファンであった。
その内にただジャズを聴いているだけでは飽き足らなくなり、各楽団のジャズメンが正規の仕事を終えた後に行うジャム・セッションの面白さに目を付け、
ハリウッドにあったクラブの休業日を毎週借り受け、入場料を取って、ジャズメン達が行っていたジャム・セッションを企画した。
ジャズメン達にとっては、楽しみや研鑽のためにやっているジャム・セッションで収入が得られる上、聴衆の反応を得られるのだから、一挙両得であった。
彼のこの企画には、やがてデューク・エリントンやカウント・ベイシーといった一流バンドのスター・プレイヤーも参加するようになった。
1941年第二次大戦で徴兵され、アメリカ軍の航空隊に所属し、航空隊の娯楽を担当する士気部門に配属された。
1944年除隊すると、MGMスタジオのフイルム編集員となったが、もっと本格的に大規模なジャム・セッションの興行化を図るようになり、
そして従来クラシック音楽だけにしか解放されていなかった、ロサンゼルスのフィルハーモニック・オーディトリアムで開催することにした。
この企画は、当初"A jazz concert at the philharmonic auditrium"と名付ける予定だったが、会場のパネルにこの字数は入りきらないため、
"Jazz at the philharmonic"と短縮された。そしてその頭文字を取り、"J.A.T.P."と呼ばれるようになった。
こうして1940年代後半、当時の代表的な一流ミュージシャンを網羅する豪華なジャム・セッションを実施していくのである。
1948年レコード会社のマーキュリーと提携を行い、J.A.T.P.のコンサート録音はマーキュリー・レコードから世に出、人気を呼ぶことになる。
そして40年代末からはチャーリー・パーカーなどのジャズメンのスタジオ・レコーディングもグランツの監修のもとに行われるようになっていく。
1951年グランツはマーキュリー・レコードとの提携を打ち切り、クレフ・レコードを立ち上げる。
クレフ・レコードは従来マーキュリーから78回転SP盤で出されていたJ.A.T.P.の録音を25p盤化し発売していく。
さらにJ.A.T.P.のコンサートを通じ、親交を深めていたミュージシャン達と専属契約を結び、傘下に収めていった。
こうしてビリー・ホリディ、コールマン・ホーキンス、バド・パウエル、オスカー・ピーターソンら、多くのジャズメンの録音を行っていった。
アメリカのジャズ音楽(特に1950年代と1960年代)にとって重要な存在であり、クレフ、ノーグラン、ヴァーヴ、パブロといったレコード・レーベルを創設した。
またプロモーターとしては、JATP(Jazz at the Philharmonic)の興行で一世を風靡した。
自身が携わったコンサートにおいて、人種を差別せずどんな聴衆も受け入れるべきであることを主張した人物としても広く知られている。

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