セロニアス・モンク (ピアノ) 

Thelonious Monk  (Piano)

セロニアス・モンク

1917年(1920年説あり)10月10日ノース・カロライナ州ロッキー・マウント生まれ。
1982年2月17日脳梗塞にて死去。

フル・ネイム セロニアス・スフィア・モンク(Thelonious Sphere Monk)

モダン・ジャズ・ピアノの巨人である。その影響はピアノに留まらず、ジャズという音楽全体に広がっていると思う。彼についてもじっくり取り組んでいきたい。
4歳の時家族とともにニューヨークに移住。11歳でピアノを習い、日曜日には教会でオルガンを弾いたりもしていた。学歴はニューヨークのピーター・スタイヴサント・ハイ・スクールで、数字が得意だったという。在学中の14歳の時アポロ劇場主催のプロ・アマ・コンテストに出場して何度か優勝した。
プロになったのは17歳の時で、最初は福音伝道隊のピアニストとして旅に出た。40年代初頭より、ジャズ・ピアニストとしての活動を始めるが彼の演奏スタイルは、この頃は「ハード・スウィンギング」と呼ばれる類いのもので、 アート・テイタム(Art Tatum) のスタイルに近かったというが独自の個性を持っていたといわれる。
1940年ニューヨークのクラブ「ミントンズ」が出来、翌41年ケニークラークらとともに専属として雇われ、ディジー・ガレスピーやチャーリー・クリスチャン、チャーリー・パーカーらと共演、ここでBe-bopのイディオムを確立、モダン・ジャズのパイオニアの一人となった。1942年ラッキー・ミリンダ楽団、44年にはコールマン・ホーキンスのカルテットに参加し同年自身の最初のスタジオ録音を コールマン・ホーキンス・カルテット(Coleman Hawkins Quartet) と共に行っている。1947年にネリー・スミス(Nellie Smith) と結婚し、同じ年に彼のバンド・リーダーとしての初めての録音がなされた。
40年代後半から50年代前半は、ブルーノートやプレステッジへのレコーディングはあったにせよ、仕事には恵まれず、54年にヨーロッパに楽旅した際も聴衆からそっぽを向かれたほどその音楽は理解されなかった。
モンクの音楽が理解され始めたのは、55年にリヴァーサイドの専属となり同社が積極的に支援し出してからで、57年コルトレーンを加えたカルテットで「ファイヴ・スポット」に6か月の長期出演をするなどようやく人気が湧き出すようになった。
59年以降はテナー・サックスのチャーリー・ラウズを迎えて70年代まで演奏活動を行い、このコンビで63年と66年に来日、さらに70年には新カルテットで来日している。
なお、59年にはタウン・ホールで、63年12月にはリンカーン・センターでオーケストラを率いて演奏を行い絶賛を博している。
そのピアノスタイルは全く独自なもので、それだけに直接的な後継者は少ないが、ランディ・ウエストン、セシル・テイラーなどに大きな影響を与えている。
またモンクはエリントンと並び称されるほどの作曲の才を有し「ラウンド・ミッドナイト」、「ストレート・ノー・チェイサー」など不滅の名曲を数多く残している。
1970年代の始めからは、舞台から姿を消し、1971年11月に彼の最後の録音が行われた後、彼の生涯の最後の10年間はごく数回の演奏が行われたのみである。幾つかの情報源によれば、モンクは双極性障害(躁鬱病)に苦しんでいたという。

レコード・CD

「チャーリー・クリスチャン/アット・ミントンズ」(Columbia SL-5001-EV)
“Hot Lips Page/After hours in Harlem”(Onyx records 207)
“Harlem Odyssey”(Xanadu 112)
「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.1」(Bluenote 1510)
「セロニアス・モンク/ジニアス・オブ・モダン・ミュージック Vol.2」(Bluenote 1511)