バニー・ベリガン 1940年

Bunny Berigan 1940

僕の持っているベリガン率いるオーケストラの最後の録音は、1939年11月28日に行われたものだった。詳しい日付などは分からないが、ベリガンのバンドは経営がうまくいかず1939年の末にベリガンは破産宣告を受けたという。極度の飲酒癖がもたらした災難であろう。そこで彼は古巣であるトミー・ドーシーの楽団に戻るのである。

<Date&Place> … 1940年4月10日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … トミー・ドーシー・アンド・ヒズ・オーケストラ(Tommy Dorsey and his orchestar)

Band leader & Tromboneトミー・ドーシーTommy Dorsey
Trumpetバニー・ベリガンBunny Beriganジミー・ブレイクJimmy Blakeレイ・リンRay Linnジョン・ディラードJohn Dillard
Tromboneレス・ジェンキンスLes Jenkinsジョージ・アルスGeorge Arusロウエル・マーティンLowell Martin
Reedsジョニー・ミンスJohnny Minceフレッド・スタルスFred Stulceハイミー・シャーツァーHymie Schertzerポール・メイソンPaul Mason
Pianoジョー・ブシュキンJoe Bushkin
Guitarクラーク・ヨーカムClark Yocum
Bassシド・ワイスSid Weiss
Drumsバディ・リッチBuddy Rich
Vocalコニー・ヘインズConnie Haines

<Contents> … 「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/ザ・サウンド・オブ・スイング」(RCA RA-61)

Record2.A-6.「アイム・ノーボディーズ・ベイビー」(I'm nobody's baby)
サイ・オリヴァーのアレンジで、テーマをTpとTbで奏し、柔らかいTbの音はドーシーだろう。合奏を経てコニー・ヘインズのヴォーカルに入る。コニーは当時19歳若々しくキュートな声で、アップ・テンポが得意だったそうだが、4歳の時にデビューしたというヴェテランである。バディ・リッチのドラム・ソロ、バッキングも見事である。

<Date&Place> … 1940年5月23日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … トミー・ドーシー・アンド・ヒズ・オーケストラ(Tommy Dorsey and his orchestar)

Trumpet … ジョン・ディラード ⇒ レオン・デブロウ(Leon Debrow)
Reeds … ドン・ロディス(Don Lodice) ⇒ In
Vocal … フランク・シナトラ(Frank Sinatra) ⇒ In
Chorus … ザ・パイド・パイパース(The pied pipers) ⇒ In
因みにザ・パイド・パイパースのメンバーは、ジョー・スタッフォード(Jo Stafford)ビリー・ウィルソン(Billy Wilson)チャック・ロウリー(Chuck Lowry)ジョン・ハドルストン(John Huddleston)という女性1名男性3名というメンバー構成である。

<Contents> … 「オリジナル・トミー・ドーシー」(RCA RA-9008)

Record2.B-3.「アイル・ネヴァー・スマイル・アゲイン」(I'll never smile again)
トミー・ドーシー楽団で名を上げ、後には20世紀を代表するエンターティナーとなったフランク・シナトラの出世作となったスロウ・バラッドの傑作で、当時大ヒットとなったという。パイド・パイパーズのコーラスも効いている。解説の野口久光氏は、この時代ヴォーカリストを立ててこんなに洒落たレコードを世に送り出したのはトミー・ドーシーだけだった。ヴォーカル後のトミーのむせび泣くようなTbソロも素晴らしい。

<Date&Place> … 1940年6月27日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … トミー・ドーシー・アンド・ヒズ・オーケストラ(Tommy Dorsey and his orchestar)

Trumpet … レオン・デブロウ ⇒ クライド・ハーレイ(Clyde Hurley)

<Contents> … 「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/ザ・サウンド・オブ・スイング」(RCA RA-61)

Record2.B-1.「ザ・ワン・アイ・ラヴ」(The one I love)
解説の瀬川昌久氏によるとこの曲辺りからサイ・オリヴァーのアレンジは強いランスフォード・タッチを示し始めるという。合奏とソロとの掛け合いが実にうまいという。Tbのテーマ・ソロ、ミンスのAsソロ、シナトラの歌とパイド・パイパースのコーラスが実に気持ちよく歌っている。

<Date&Place> … 1940年7月17日 ニューヨークにて録音

<Personnel> … トミー・ドーシー・アンド・ヒズ・オーケストラ(Tommy Dorsey and his orchestar)

前6月27日から変更なし。

<Contents> … 「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/ザ・サウンド・オブ・スイング」(RCA RA-61)

Record2.B-2.「ソー・ホワット」(So what)
もちろんマイルス・ディヴィスとは全く関係ないサイ・オリヴァーのオリジナル曲。急速調のテンポに乗って、リードとブラスのリフの応酬に圧倒される。そして当時としては珍しいテナー・バトルはバトルもののはしりであろうと瀬川氏。トミーとサイの先駆的アイディアが活きた作品。

ここでドーシー楽団にとっては一大事件が発生する。ベリガンが8月20日NBCのラジオ放送中にソロを取ろうとして倒れてしまうのである。そもそも「偉大なる」と形容詞が付けられるベリガンは、古巣ドーシー楽団に戻ってから、吹込みにおいてはほとんどソロを取っていなかった。ベリガンは酒におぼれアルコール中毒症状も出始め、バンド・マネージャーのボビー・バーンズを悩ませていた。そしてついにこの日ドーシー楽団から去らざるを得なくなるのである。結局ベリガンは古巣ドーシー楽団で数か月しか保たなかったのである。
そして後釜にはベニー・グッドマンの楽団で名を上げた、これも偉大なトランぺッター、ジギー・エルマンをスカウトする。エルマンはBGの腰の手術で休暇を取っている間チャーリー・クリスチャンと共に二人だけ給料をもらうという特別待遇を受けていたが、演奏をしない日々が続くことに耐えられなくなったのかもしれない。またドーシー楽団のベリガンの後という栄誉とそれに見合う報酬もあったのであろう。ともかくこの電光石火のバンド運営は見事である。そのエルマンが加わっての最初の録音が8月29日に行われる。

最後

ベリガンはその後何とか復帰し、一時的に新しい小規模グループを率い、ツアーを行うべくビッグ・バンドを再編成した。1940年の秋から1942年の初めにかけてバンドを率い、それなりに成功を収めたというが、健康状態はどんどん悪化していった。そしてツアー中の1942年4月20日、ベリガンは肺炎のためペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲニー総合病院に5月8日まで入院した。医師からは肝硬変が極度に進行していることから、飲酒をやめしばらくトランペットの演奏を辞めるよう勧告された。しかしベリガンはそれを受け入れずバンドに戻り、ツアーを行う。そしてニューヨークの自宅に戻るまで数週間演奏したが、1942年5月31日に大出血を起こし、6月2日ついに帰らぬ人となった。33歳という若さであった。僕はこのドーシーの楽団に復帰した以後のレコードを持っていないので、この不世出のトランぺッターを取り上げるのはこれが最後になる。

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