僕の作ったジャズ・ヒストリー 13 … 初期のジャズ 6 1928年

ハーバート・フーヴァー

前年1927年については、『アメリカを変えた1927年夏』(著者ビル・ブライアン 白水社)という本があり、それを元に展開していきましたが、1928年について何かこれと言って象徴的な出来事を見出すことが出来ていません。日本においては、6月4日関東軍による満州某重大事件(張作霖爆殺事件)が発生、日中戦争が抜き差しならぬ深みにはまり込んでいくことになります。
8月27日には、パリで不戦条約がイギリス、フランス、アメリカ、日本など15か国で調印され、国際連盟規約、ロカルノ条約と共に国際社会における集団安全保障体制を築き上げられることになります(最終的には63か国が調印)。「不戦条約」というと国際紛争を戦争で解決しない、平和的な素晴らしい条約のような気がしますが、この国際紛争の侵略戦争は否定され放棄すべきされますが、自衛のための戦争は認められると解釈されることになります。しかし当条約では侵略についての定義はなく、さらにイギリス、アメリカは、国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないと主張します。アメリカは自国の勢力圏とみなす中南米に関しては、この条約が適用されないと宣言し、イギリスも数ある植民地もに関しては態度を明らかにせず、始めからその有効性に疑問が生じていたと言われます。

シカゴ・ギャングとジャズメンたち

大和明著『ジャズの黄金時代とアメリカの世紀』

そのアメリカでは11月に大統領選挙が行われ、共和党のハーバート・フーヴァー(写真右)が大差で第31代大統領に当選します。そして以前として禁酒法の時代であり、大都市では”Speak Easy”(スピーク・イージー:もぐり酒場)がはびこり、マフィアなどギャングが幅を利かせていました。前回はシカゴ・ギャングとジャズメンたちのエピソードを油井正一著『生きているジャズ史』から紹介しましたが、今回は大和明著『ジャズの黄金時代とアメリカの世紀』から、この年1928年録音の吹込みにまつわる話をご紹介しましょう。
ジョニー・ドッズ ジョニー・ドッズの名演の一つに、1928年ヴィクターに録音した<ブルー・クラリネット・ストンプ(Blue clarinet stomp)>という演奏があります。驚くことにピアニストによるイントロでは、レオンカヴァァッロのオペラ<道化師>の第一幕に出てくる、テノール歌手による有名なアリア<衣装をつけろ>の最後のクライマックスを、そのまま引用した大変興味深いプレイが聴かれるのです。ドッズにせよ、このピアニストにせよ、どう考えてもオペラに関心があったとは思えません。ではどういうことなのでしょうか?
当時黒人ジャズメンは、ギャング達の経営するクラブやもぐり酒場を職場としていました。そこで自然と両者は交流を深めていきました。その上彼らには互いに理解し合える共通点さえあったのです。それは互いに夜の仕事が中心であり、服装のセンスも似通っていることや、両者とも一般社会からはみ出した存在だったことなどです。白人と黒人が仲間として付き合うことなど滅多になかったこの時代に、社会の片隅に生きる者同士の共感によって、互いに彼等だけに通ずる親近感を抱くようになったのです。
かくしてイタリア系マフィアが誇りと感じ、彼らが愛したイタリア・オペラの歌手エンリーコ・カルーソーらが得意としたこのアリアを、ドッズたちは演奏の中に引用し、マフィアたちとの絆を強めていったのだろうというのです。ドッズのこの吹込みについては「ジョニー・ドッズ 1928年」で取り上げています。
ジョニー・ドッズには、彼の息子がレコードのライナー・ノートで紹介しているこんなエピソードも伝えられています。ある時アル・カポネが父の出ている店に来て、ある曲をリクエストしました。父が知らない曲だったので、「知りません」と答えると、カポネは100ドル札を真ん中で破り、片方を渡してこう言ったというのです。「黒んぼよ、次まで覚えておきな。」そしてカポネはその店に1週間後に現れました。父は見事に100ドル札のもう片方を受け取ったというのです。このリクエストされた曲がオペラ<道化師>のアリア<衣装をつけろ>だったのかもしれませんね。
多分この時代のジャズメンたちは同様のエピソードの20や30は持っているのでしょう。

クラシックとジャズ

この年1928年フランスの作曲家であり指揮者でもあるモーリス・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel:1875〜1937)が初めてアメリカに渡り、4か月にわたる公演旅行を行います。これは大成功に終わりラヴェルの名は世界中に広まることになります。そして興味深いことに、ラヴェルがシカゴを訪れた時に、シカゴ交響楽団のアーサー・キッチ(Arthur Kitti)に誘われエイペックス・クラブに赴いたというのです。そしてそこはジミー・ヌーンが根城としていたクラブでした。そこでラヴェルはジミー・ヌーンの演奏を聴き、絶賛したと伝えられます。ガンサー・シュラー氏は、「シカゴでジャズを聴いたことが彼の次作「ボレロ」(Bolero:超有名)と二つのピアノ協奏曲に決定的な影響を及ぼすこととなった」と書いています。シュラー氏は元々クラシックの音楽家なので間違ってはいないと思いますが、『クラシック音楽鑑賞辞典』(神保著:講談社学術文庫)によれば、「ボレロ」は1927年11月の作とあり、それだと渡米前に作っていたことになります。
「ボレロ」はアメリカで大ヒットしたらしく、1928年のヒット・チャートにランク・インするほどです。シュラー氏の言うようにもしこの「ボレロ」にエイペックス・クラブでのヌーンが影響を与えているとすれば、1928年の初めのころと推測されます。

「アメリカン・ミュージックの原点」

ポピュラー・ミュージック

1928年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。No.1ヒットは、ジミー・ロジャーズの”T for Texas”(Blue yodel No.1)、No.2はヘレン・ケインの”I wanna be loved by you”、No.3にエリントンの”Black & Tan fantasy”、4位ポール・ロブソン”O'l man river”、5位アル・ジョルソン”Sonny boy”、6位ルイ・アームストロング”West end blues”、7位はザ・カーター・ファミリー、8位パイントップ・スミスの”Pinetop Boogie Woogie”、9位はアル・ジョルソンの”My Mammy”、10位にBertolt Brechtの”Mack the knife”です。
No.1ヒットとなったジミー・ロジャースはカントリー系の歌手で、ヨーデルを取り入れた独特の唱法で有名です。No.2のヘレン・ケインは20年代に活躍した女性シンガーで、この”I wanna be loved by you”は彼女の最大のヒット曲、後にマリリン・モンローが映画「お熱いのが好き」で歌って有名になりました。No.3のエリントンの”Black & Tan fantasy”は1928年には録音を行っておらず、1927年3社(Brunswick、Victor、Okeh)に録音していますが、どれでしょうか?4位のポール・ロブソンは黒人の歌手、俳優であり作家であり、公民権運動その他の政治活動家でもあり、ソ連のスパイだったともいわれる複雑な人物です。6位のルイの曲、8位のパイントップ・スミスも本項で取り上げます。
左の『アメリカン・ミュージックの原点』CD2枚組に収録された1928年の楽曲を聴いてみましょう。
歌手・演奏者英語名曲名原題録音日
CD1-17フランク・ストークスFrank Stokesノーバディーズ・ビジネスTain't nobody's business if I do1928年8月30日
CD1-19エメット・ミラーEmmett Millerアイ・エイント・ガット・ノーバディI ain't got nobody1928年6月12日
CD1-24ジーン・オースチンGene AustinラモーナRamona1928年4月2日
CD2-19メンフィス・ジャグ・バンドMemphis Jug bandジャグ・バンド・ワルツJug band waltz1928年9月15日

CD1-17.ノーバディーズ・ビジネス
演者のフランク・ストークス(1888〜1955)は黒人歌手兼ギタリストで、「メンフィス・ブルース・ギターの父」と言われているそうですが、そう云った予備知識なしにこの曲を聴くと、ブルース色は薄く「フォーク・ソング」に聴こえます。中村とうよう氏によれば、そもそもストークスはミンストレル・ショウや大道芸であるメディスン・ショウの出身の芸人であり、当時はブルース・シンガー、フォーク・シンガーといった区別はなく求められればなんでも歌い演奏したと言います。そう云った芸人の代表としてこのナンバーが選ばれたのでしょう。
CD1-19.アイ・エイント・ガット・ノーバディ
<Personnel> … エメット・ミラー・ウィズ・ジョージア・クラッカーズ(Emmett Miller with Georgia Crackers)
Vocalエメット・ミラーEmmett Miller
Trumpetレオ・マッコンヴィルLeo McConville
Tromboneトミー・ドーシーTommy Dorsey
Clarinet & Alto saxジミー・ドーシーJimmy Dorsey
Pianoアーサー・シャットArthur Schutt
Drumsスタン・キングStan King
Vocalダン・フィッチDan Fitch

歌っているエメット・ミラー(1900〜1962)の経歴は詳しく分かっていないようですが、わずかに残っている右の写真でも分かるように、ミンストレル・ショウの芸人でした。1924年からオーケー・レコードに吹込みを始めたと言われています。伴奏のグループは「ジョージア・クラッカーズ」と名称で上記のように有名なジャズメンが起用されることが多かったようです。不思議なのは「ジョージア・クラッカーズ」というグループは他にもあり、そのちらはヒルビリーなどを演奏するバンドだったようで、同じくオーケーからレコードが出ています。どうして同じ名称にしたのでしょう?
レオ・マッコンヴィル、トミー、ジミーのドーシー兄弟、アーサー・シャット、スタン・キングといった面子はレッド・ニコルス、ベニー・グッドマンなどのグループで活躍中の若手ジャズメンで彼ら呼ばれれば、こうして様々レコーディング参加していたのでしょう。
ミラーとフィッチ(全く資料がない)のかけあいのようなナンバーで、ミラーはヨーデルのような唱法も交え芸達者なところを見せ笑わせてくれます。1928年にはまだまだこうした芸人が活躍していたことを示す選曲でしょう。
CD1-24.ラモーナ
歌手のジーン・オースチン(1900〜1972)は、最初期のシンガー・ソング・ライターであり、ビング・クロスビーと並ぶ最初期のクルーナーの一人でもありました。元々はヴォードヴィルのひき語りをしていたそうですが、電気式録音が登場するとそれを活かしクルーナーの歌手として大成功を収めます。この「ラモーナ」は1928年年かヒット・チャート第27位にランクされるビッグ・ヒットとなります。いかにも甘く切ないバラードナンバーで、間奏のハバネラのリズムがイカしています。
CD2-19.ジャグ・バンド・ワルツ
演奏している「メンフィス・ジャグ・バンド」は南部黒人ジャグ・バンドの最高峰と言われているそうです。メンバーは、ハーモニカ、カズー、ギターが2人そしてジャグの5人。大きな瓶などを吹いて低音楽器のように鳴らすジャグの響きが慣れていない僕には異様に感じる。ヒルビリー、ブルース共々実に土臭い音楽で、ジョニー・ドッズなどジャズメンとの関連も深い音楽だが、正直僕にはこの音楽の面白さが分からないのです。現在日本ではほとんど聴かれませんが、当時のアメリカではそれなりの存在感を示した音楽だったということで収録されたのでしょう。

ポール・ホワイトマン・オーケストラとペンシルヴァニアンズ

ポール・ホワイトマンとその楽団は1927年の年間ヒット・チャート・アーティストのナンバー1に輝いていましたが、この年大きな変革を迎えます。1927年にアレンジャーのビル・チャリスを迎え、さらに10月ビックス・バーダーベックやフランク・トランバウアーといった名うてのジャズメンも擁していましたが、1月にこれまで専属契約をしていたヴィクターの最大のライヴァル社コロンビアと折衝を重ね、好条件を提示してくれれば移籍する意向を示します。
ホワイトマンがヴィクターからコロンビアに移籍したことは、フォックス社のムービートーン・ニュースにもなったほどの話題となりました。しかしその前にヴィクターは、ホワイトマンに契約更新の意思がないことを知ると、契約期間内に出来るだけ多くの録音を行い順次発売していき、売れ行きの維持を図ります。1928年1月4日から4月25日までに吹き込まれた曲数は少なくとも71曲、ことによると90曲にも及んだと言われます。何故推定なのかと言いますと、余りに録音し過ぎたヴィクターは1941年までそのすべてを発売することが出来なかったからです。そして溜め込んだ音源は、録音から10年以上も経てばさすがに古臭くて使い物にならず結局多くの曲がオクラ入りになったということです。ヴィクターの大誤算というわけです。
ところがコロンビアに移籍したホワイトマンは、絶え間ないメンバーの入れ替えもあり、音楽的には振るわなくなっていったと油井氏は述べています。
ホワイトマンの録音については、「ポール・ホワイトマン 1928年」をご覧ください。

僕はこの辺りの音源は先の「アメリカン・ミュージックの原点」以外ほとんど持っていないのですが、唯一アルバムとして持っている「フレッド・ウォーリングズ・ペンシルヴァニアンズ」を紹介しておきましょう。1928年は彼等には当たり年で年間チャートに4曲がランクされ、アーティストとしても8位にランクされています。詳しくは「ペンシルヴァニアンズ 1928年」をご覧ください。

ジューク・ボックスの登場

現代の若い方はジューク・ボックスなるものをご存知だろうか?ジュークボックス(jukebox)は、自動販売機の一種で、店舗等に置かれ、内部に多数(数十枚から2000枚程度)のシングル・レコードを収納し、利用者が硬貨を投入して聴きたい曲を選択すると、そのレコードがターン・テーブル上に移動し、針が置かれレコードの再生が始まるという機械です。右の写真は後年のものですが解りやすいので掲載しました。僕も小学生のころにはよく見かけましたし、利用したこともあります。友達と協議しビートルズやヴェンチャーズのヒット曲をかけたものです。
さてアメリカではこの機械の先駆けとなる硬貨を投入すると作動するオルゴールや自動ピアノは以前から存在していました。1889年11月23日にはパシフィック・フォノグラム社がカリフォルニア州サンフランシスコのパレ・ロワイヤル・サルーンにジュークボックスを初めて設置したという記録が残っているそうです。この装置は電動のエジソン蓄音機(蝋管式)を4台付けたものでそれぞれに硬貨投入口があり、独立して動作するようになっていたそうです。これは現在のジューク・ボックスとは使用目的が異なり、人の声を聞かせて驚かせるというものでした。この装置は1890年代に全米各地に広まったそうです。しかし1900年代になると蓄音機も目新しいものではなくなり、一般家庭に蓄音機が浸透し始めると、公共の場では大音量の機械式オーケストリオン(Orchestrion:写真右)が設置されるようになり、硬貨投入式の蓄音機は廃れていきました。
話は逸れますが、オーケストリオン(orchestrion)は、オーケストラやバンドのような音を奏でるよう設計された音楽演奏機械で、手回しオルガンのようなピンの突き出た大きな円筒や連続紙または19世紀後半以降普及したロール紙型のパンチカードを使って操作されます。基本的にはパイプ・オルガンのようにパイプで様々な音を発生させますが、打楽器も空気圧で操作することができます。また、ピアノや弦楽器を含むオーケストリオンもあるそうです。
このオーケストリオンという機会はジャズが流行した1920年代のドイツで、最も広く使われていたといわれます。1930年代に蓄音機の台頭により生産中止となりますが、ドイツのオーケストリオン製造業者(Weber, Hupfeld, Philipps, Popperなど)は、ベルリンやアメリカで人気のあるジャズを演奏するため、オーケストリオンの仕組みを様々に改良をおこなったそうです。ドイツでもこんなに早くからジャズが人になっているとは驚きです。
さてジューク・ボックスに話を戻します。一時期硬貨投入式の蓄音機は廃れますが、電気録音とアンプが考案され、硬貨投入式の蓄音機が復活します。そして1927年、AMI社(Automated Musical Instrument Company)が、レコードを選択できるジューク・ボックスを発売して成功を収めると、翌1928年、自動ピアノを製造していた Justus P. Seepburg が、レコード・プレーヤーとスピーカーを組み合わせ、硬貨を投入することで8枚のレコードから選んで演奏させることができるジュークボックスを開発します。当初シェラック製78回転のSP盤のレコードが主流だったが、1950年に塩化ビニール製45回転のシングル盤が登場すると、そちらに移行していくことになります。
以前音楽は、演奏者や歌い手がいなければ聴くことができませんでした。そこに方式は別として蓄音装置(レコードという媒体と再生装置)が開発されることによって、演奏者や歌い手がいなくても音楽が聴けるようになりました。さらにラジオが登場したことにより、はるか遠くで演奏された音楽やこれまで知らなかった音楽を紹介してくれるようにもなりました。しかし聴きたい音楽を聴くには、自前で再生装置を備えることが必要ですが、当時はまだまだレコードや再生装置は高価で、そう簡単に手に入れられるものではありませんでした。20年代末ジューク・ボックスで音楽を再生するにはいくら必要だったかなかなか資料が見当たりませんが、60年代で1曲10セント、3曲25セントだったそうです。
そしてこの装置は特に黒人層に受け入れられます。黒人たちは一般に所得が低く、高価なレコード再生装置は買えませんし、ラジオ放送も当時はいわゆる「白い音楽」が中心で、なかなか自分たちの好む音楽が聴けなかったからです。
ジャズやその他ブラック・ミュージックは社会情勢だけではなくこうした技術開発などによっても様々な影響を受けながら進んでいきます。

ジャズの動き … 1928年

ではざっとこの項…1928年にジャズ関連に起こったことの概略を振り返って行きましょう。但しこれはレコード上でのことで、クラブやダンス・ホール等での状況はなかなかわかりづらくレコードなどから推測するしかありません。

ニュー・ヨーク・シーン

フレッチャー・ヘンダーソン

フレッチャー・ヘンダーソンオーケストラ 1928年

当時ニューヨークでナンバー1のバンドは何といってもフレッチャー・ヘンダーソンのバンドだったはずです。ヘンダーソンは1927年も多数の録音をこなしていましたが、1928年はわずか9曲しか録音がありません。一体どうしたのでしょうか?ガンサー・シュラー氏は、その大きな原因はやはりアレンジャー、ドン・レッドマンの退団が大きいといいます。シュラー氏はレッドマン退団の打撃がそうさせたのかどうかは判然としませんが、ヘンダーソン自身が不可解なことにこの時期バンドというものに興味を失ってしまったというのです。さらに1928年夏に自動車事故にあって元気を失くし、とりわけバンドの実務面に対してはますます無頓着になり、このことがバンドの音楽的な側面でも規律を低下させてしまったというのです。
シュラー氏は、このことを如実に反映しているのが、28年の全9曲の録音中唯一CDに収録されていない曲「ホップ・オフ」であるといいます。この曲は27年11月にレッドマン最後の仕事としてコロンビアに録音されましたが、それは大変出来映え良いものでした。詳しくは「ヘンダーソン 1927年」を参照。ところが1928年9月にパラマウントに録音された同ナンバーは、ヘンダーソン楽団の演奏とは信じられないほど劣悪なものだとシュラー氏は述べています(未聴)。それほど劣悪なために「ヘンダーソン・ストーリー」取り上げられなかったのかもしれませんが。ともかくアルト・サックス奏者としての彼の代わりを探すのはそれほど困難ではないが、アレンジャーとしての彼の代わりはいなかったということになります。詳しくは「フレッチャー・ヘンダーソン 1928年」をご覧ください。

キング・オリヴァー

キング・オリヴァーズ・ディキシー・シンコペイターズ

ニュー・ヨーク一番の高級クラブ、「コットン・クラブ」での専属契約を断ったディキシー・シンコペイターズを率いるキング・オリヴァーについて、歌手でジャズ研究家でもある丸山繁雄氏はこう書く「後からオーディションに参加したワシントン出身の青年、デューク・エリントンが、活きのいい上質の演奏で仕事をかっさらっていった。オリヴァーはこの仕事を失った後、転落の一途をたどる。あらゆるチャンスに見放されて、不況の南部をドサ周りをした挙句、演奏体力も衰え、メンバーにも見放され、最後はビリヤード小屋の小使いにまで身をやつし、1938年無一文で脳溢血で死んだ。(中略)残酷なことではあるが、筋金入りのニュー・オリンズ・ジャズ・マンであるジョー・キング・オリヴァーの勝ち目はとうになかったのである。ルイの抜けたバンドにバーニー・ビガード、アルバート・ニコラスを補強し、ニューヨークに打って出たオリヴァーのバンドの音楽は、すでにニュー・ヨークでは受け入れられることが無かった。ジャズのスタイルがすでにニュー・オリンズから徐々にニューヨーク・スタイルというものへ移行しつつあった」と。
ところで、僕の持っているキング・オリヴァーのレコード、CDはこの1928年までとなります。しかしこの最後の最後で意外なことが起こります。僕の持っている最後の録音1928年9月10、12日ニュー・ヨークにて録音された3曲は実に素晴らしいのです。なぜか?何が起こったのでしょうか?
ここからは僕の勝手な推測です。オリヴァーはこの年1928年6月11日自作のある曲を録音します。タイトルは「ウエスト・エンド・ブルース」。この曲を弟子に当たるルイ・アームストロングが17日後の6月28日に吹き込みます。これがルイ・アームストロングの全生涯における最高傑作として有名になるのです。オリヴァー版はオリヴァーのソロに始まりますがメロディーを多少崩す程度で、他のメンバーのソロに比べても展開がパッとしないつまらないソロです。オリヴァーと17日後のルイを比べてみればオリヴァーの完全な力負けを感じます。オリヴァーは、ルイの演奏を聴いてどう思ったのでしょうか?これまで目をかけて育ててやったルイが、自分の作品をもとに目もくらむばかりのプレイを展開し、大評判を取っているのです。「おい、奴は俺の弟子だ」と思ったかもしれません。本気で吹けば俺の方が上だとも思ったかもしれません。オリヴァーはここで一皮も二皮もむけて、生まれ変わったのかもしれません。詳しくは「キング・オリヴァー 1928年」をご覧ください。

デューク・エリントン

ジャズ・シンガーでありアフリカ系アメリカ人の文化の研究など幅広い音楽活動をしている丸山繁雄氏によれば、「1927年から30年までの4年間でエリントンは、他の黒人ミュージシャンとは比較にならない膨大な数のレコーディングを残し、ルイ・アームストロングの2.5倍、ベッシー・スミス、フレッチャー・ヘンダーソン、キング・オリヴァーの3倍にも相当する」(『ジャズ・マンとその時代』弘文堂)と述べています。
27年の録音数は、アームストロング、ヘンダーソンと比べてそれほど多くはありませんので、急激にその数が増えるのは28年以降のことだといえます。実際に僕が持っているこの時代の録音の数もエリントンは圧倒しています。因みに僕が持っている楽曲数の数はどのくらいかというと、History版のCD40枚セットのCD-2に4曲、CD-3,4全編で40曲、CD-5に1曲合計45曲ほどになります。
ではなぜそんなにルイやヘンダーソンを上回るほどの録音の機会を得られたのでしょうか?それはひとえにコットン・クラブへの長期出演契約得たためであるというのです。コットン・クラブはニューヨークで最も権威のあるジャズ・クラブであり、ここでの演奏はラジオの生中継で全米中に放送されていました。これでエリントンの名声は全国規模のものとなり、やがてはヨーロッパにまで響き渡り、数々の海外公演やレコーディングに恵まれることとなっていくのです。すなわち、コットン・クラブへの出演が、後のエリントンの輝かしい生涯を決定した(前掲丸山氏)といえるのです。
さらにこの年にはエリントンのバンドに実に魅力的な色彩を加えることになる新メンバー、ジョニー・ホッジスが加入してきます。ある程度安定した仕事を持つことでエリントンは、”Yellow dog blues”や”Tishomingo blues”に見られるように積極的に実験的な作品にも取り組むようになっていきます。詳しくは「デューク・エリントン 1928年」をご覧ください。

チャーリー・ジョンソン

ハーレムのクラブ「スモールズ・パラダイス」(Small's Paradise)を根城に活躍した「チャーリー・ジョンソンズと彼のパラダイス・オーケストラ」もこの年、プレイヤーとしてもアレンジャーとしても抜群の実績を示すベニー・カーターを得て、素晴らしい作品を残しています。詳しくは「チャーリー・ジョンソン 1928年」をご覧ください。

ジェリー・ロール・モートン

ジェリー・ロール・モートン

キング・オリヴァーの他にシカゴからニュー・ヨークに向かった偉大なジャズマンがもう一人います。ジェリー・ロール・モートンです。1927年6月10日の吹込み後もモートンは“Red hot peppers”を率いてカナダなど各地で演奏活動を行っていましたが、1928年2月モートンは“Red hot peppers”を率いてニュー・ヨークに向かいます。と言っても直行したわけではなく、途中各都市を巡演しながら向かったと言います。各地での公演は好評を博しますが、ニュー・ヨークに入って間もなくバンドを解散したとレコード解説には記載されています。パーソネルが記載されていないので、27年のレコーディングで率いていた赤唐辛子楽団と1928年2月公演しながらニュー・ヨークに向かった赤唐辛子楽団が同じか異なるのか、好評を博しながらなぜ解散したのかは記載がなく不明です。
ともかくRCAのボックス解説によると、モートンのレコーディングはニュー・ヨークに到着後も続けられ、ヴィクターはそれまでの好評に応え1928年専属契約をモートンと交わします。そして1930年10月までモートンの録音は続けられることになります。しかし前述のようにニュー・ヨーク入りしてバンドを解散したモートンはバンドを持っていません。そこで1928年6月11日のセッションのメンバーの大部分は、「ローズ・ダンスランド」の専属ピアニストであるチャーリー・スキート(Charlie Skeete)のバンドメンを集めて行われることになります。その後モートンはこのバンドをスキートに代わって引き受け、ローズ・ダンスランド」に出演するようになるのです。
前後の関係も不明な点が多いのですが、ともかくニュー・ヨーク進出後の初リーダー・セッションとなる6月11日のセッションでは、オリジナル赤唐辛子楽団に負けないだけのモートン・ミュージックの実力を発揮した演奏に仕立て上げられているのです。詳しくは「ジェリー・ロール・モートン 1928年」をご覧ください。

ファッツ・ウォーラー

ビッグ・バンドではありませんが、ジェリー・ロール・モートンつながりでニュー・ヨーク・シーンのピアニストを取り上げておきましょう。ファッツ・ウォーラーは「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第5巻/ジャズの巨人」(RVC RA-23〜27)の解説に拠れば、ウォーラーは1927年に40曲、28年には15曲と録音数が半分以下に減ります。15曲もあるのですが、僕の持っているのは、ニュージャージー・キャムデンで吹き込んだパイプ・オルガンを弾いた2曲のみです。今回もソロではなく非常に変わった編成で録音を行っています。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1928年」をご覧ください。

シカゴ・シーン

マッキニーズ・コットン・ピッカーズ

「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ(McKinney’s Cotton Pickers 以下M.K.C.P.と略)」は今回初登場となります。リーダーはウィリアム・マッキニー(写真右)で、第1次世界大戦に従軍した後サーカス団のドラマーとなり、その後バンドを結成、拡充し、1926年ミシガン州デトロイトのアルカディア・ボールルームを根城とするようになります。
M.K.C.P.の知名度は決して高いとは言えませんが、瀬上昌久氏は「1920年代にあっては、フレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントンと肩を並べるところまで行った一流バンドとしてジャズ史上不滅である」と高く評価しています。このバンドのターニング・ポイントはこの年1926年で、このバンドに二つのビッグ・イヴェントが起きるのです。
一つは、この年アメリカを訪問中だった英国皇太子(後のエドワード8世)の前で演奏する機会を与えられ、しかも皇太子自らがドラマーとなってステージを共にするハプニングに恵まれたことです。このエピソードの驚くべきことは、1928年時点でジャズを英国の皇太子が聴いており、自ら何らかの演奏を行っていたということです。もう一つは、ゴールドケット氏のバック・アップにより、全米中に中継されるラジオ番組に出演したことです。この二つの出来事は、当時の黒人バンドとしては破格であり、異例でした。彼らの名が上がったこと言うまでもありません。
しかしバンドにはこれといった特色もなく、客の求めに応じて何でもこなすという感じだったといいます。しかし名実ともに一流を目指すマッキニーはゴールドケットと相談の結果、フレッチャー・ヘンダーソン楽団からドン・レッドマンを招いて、バンドの再編を図ることにするのです。マッキニー自身は目立たない人で、キューバ・オースチンの入団以後、ビジネス・マネージャーに専心していましたが、レッドマンに目を付ける辺りはさすがの慧眼です。招きに応じたレッドマンは、さっそくジョン・ネスビットの協力を得てバンドの全スコアを書き直し、バンド・カラーを一新させてしまいます。いろいろの手法をフルに生かしてM.K.C.P.を平凡なダンス・バンドから一流ジャズ・バンドへ脱皮させてしまうのです。ドン・レッドマンの、ヘンダーソン楽団⇒M.K.C.P.への移籍は、ヘンダーソン楽団を瀕死の状態にまで衰弱させ、M.K.C.P.を一流バンドにまで変貌させるのです。詳しくは「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ 1928年」をご覧ください。

ジミー・ヌーン

ジミー・ヌーン・アンド・ヒズ・エイペックス・クラブ・オーケストラ

シカゴはニュー・ヨークと違い、ニュー・オリンズの影響が大きくビッグ・バンドがそれほど形成されなかったと言われます。この地ではドク・クックのバンドなどがビッグ・バンドとして有名ですが、そのバンドをこの1928年に辞め自己のバンドを結成したのがジミー・ヌーンです。そしてヌーンは根城としていたクラブ「エイペックス・クラブ」の名を取り、「エイペックス・クラブ・オーケストラ」と名付けました。しかし「オーケストラ」と名乗っていてもメンバーは5人程度でとても「オーケストラ」と呼べる代物ではありませんでしたが、渡米していてこのバンドを聴いたフランスの作曲家モーリス・ラベルが感動したことはすでに述べました。
しかし結成に当たっては、クックのバンドの同僚のジョー・ポストンを誘い、ルイ・アームストロングのサンセット・カフェ・オーケストラにいたアール・ハンズを誘い、ニュー・オリンズからバンジョー奏者のバド・スコットを呼び寄せ、かなり本腰を入れて編成していると思われます。しかしアール・ハインズはこの年直ぐにバンドを辞し、自己のバンドを率いるに至ります。詳しくは「ジミー・ヌーン 1928年」をご覧ください。

ジョニー・ドッズ

1927年ルイ・アームストロングの歴史的なレコーディング・コンボ「ホット・ファイヴ」で存在感あるプレイを披露したドッズでしたが、1928年からルイ・アームストロングはキャロル・ディッカーソンの楽団のメンバーをレコーディングに使うようになり、ルイとの共演はなくなります。またキング・オリヴァーも休みの時の代役として入ったオマー・シメオンを可愛がるようになり(ドッズ2世談)、またオリヴァーがニュー・ヨークへ出たこともあって共演はなく、1927年に参加したジェリー・ロール・モートンもこの年ニュー・ヨークに出て共演はありません。と言っても演奏活動自体が停滞していたというわけではないと思われますが、ブルース・マン(ブラインド・ブレイク)やトリオ編成での録音など今日の視点から見れば斬新で聞き応えのある録音を行っているように思われます。初期ジャズの重要人物ビル・ジョンソンによるジャズ史上初のベース・ソロなども聴かれる重要録音を行います。詳しくは「ジョニー・ドッズ 1928年」をご覧ください。

ルイ・アームストロング 黄金時代

ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロングはこの年1928年も目の回るような多忙な日々を送っていたと思われます。アースキン・テイト楽団とヴァンドーム劇場、キャロル・ディッカーソン楽団とサンセット・カフェと掛け持ちで出演を続け、27年ディッカーソンが退いたためこのバンドを引き継ぎ、アール・ハインズを音楽監督に据え、バンド名を「ルイ・アームストロングと彼のストンパーズ」と替え、リーダーとして率いていました。さらにその間にクラレンス・ジョーンズ楽団に2度出入りし、28年にはシカゴのサヴォイ・ボールルームに出演していたキャロル・ディッカーソン楽団にも加わっていたのです。そのためか1927年12月13日から1928年6月までルイはレコーディングは行っていません。
一方Okehへの録音は28年に入るとメンバーを一新して行うことになります。それは6月27日から行われる後期ホット・ファイヴ、サヴォイ・ボールルーム・ファイヴ名義で行われる一連のセッションです。そしてそこからルイのトランペットがもっとも輝かしい光を放ったと言われる1928年の重要作品が次々と生み出されて行きます。大和明氏は1928年のルイについて次のように解説を始めています。以下抜粋してみましょう。
「1928年という年は、前後の数年間の絶頂期の中でも最絶頂期と言ってよい。録音した全てが傑作で、正に生涯のピークにあった。そこには厳しさがある。何物をも恐れぬ若さがある。激しい情熱がある。そして圧倒されんばかりの迫力に満ちているのである」と。
その代表が6月28日にホット・ファイヴをバックに吹き込まれる「ウエスト・エンド・ブルース」で、これはジャズ史上に燦然と輝く傑作ということを認めない評論家一人もいないほどです。そして「ウエスト・エンド・ブルース」を超えるかもしれない傑作か失敗作と評価が真っ向から対立する「タイト・ライク・ジス」など、様々な革新を行いながら突き進むルイ・アームストロング、詳しくは「ルイ・アームストロング 1928年」をご覧ください。

白人ジャズマンの台頭

ビックス・バイダーベック

ホワイトマン時代のビックス・バイダーベック

1927年10月31日ポール・ホワイトマン楽団に入団して最初の録音は、約2週間余り後の1927年11月18日、ホーギー・カーマイケルをピアノ兼歌手として迎えてヴィクターに行われた。この時期ホワイトマン楽団の一員だったので、ビックスの録音はホワイトマン楽団におけるものが中心となる。しかしホワイトマンは所属楽団員をあまり縛らなかったのか、ビックス名義の吹込みやもう一人の楽団員フランク・トランバウアー名義の吹込み等にも参加していた。
ポール・ホワイトマンは1928年1月にレコード会社をヴィクターとの契約更新をせず、コロンビアへの移籍を決めます。これを知ったヴィクターは契約が切れる4月25日までシャカリキになってレコーディングを行います。さらにコロンビアに移籍してからもレコーディングは頻繁にあり、読譜力に問題のあるビックスには多大な負担になっていきます。苦悩したビックスは酒に溺れるようになり、健康を害していくのです。そしてついに1928年の暮ホワイトマンはビックスをイリノイ州ドワイトの病院に入院させるに至ります。詳しくは「ビックス・バイダーベック 1928年」をご覧ください。

「エディ・コンドン/シカゴ・スタイル・ジャズ」レコード・ジャケット

シカゴアンズ … エディ・コンドン

前掲のビックスもシカゴアン達と実に近しい関係にあります、一足先にレコーディングなどを行いスターになっていました。一方エディ・コンドンとその一党は、1927年の12月にレッド・マッケンジ―という有名な歌手の知己を得レコード・デビューすることになったことは、前年度のページで触れました。そしてこの一団にはマグシー・スパニアやフランク・テッシュメーカーやメズ・メズロウ、ジーン・クルーパという素晴らしい才能が揃っていたためか順調にレコーディングの機会も得られたようです。詳しくは「エディ・コンドン 1927年」をご覧ください。

シカゴアンズ … ハスク・オヘア
「シカゴアンズ」レコード・ジャケット

実はシカゴ・ジャズの音源を集めたものはあまり多くありません。エディ・コンドン一党が中心の「シカゴ・スタイル・ジャズ」(Columbia ZL-1091)、『Jazz Odyssey vol.2』(Columbia C3L-32:未保有)並びに『ザ・シカゴアンズ』(Decca SDL-10361)などはその貴重な録音集です。
デッカ盤の『ザ・シカゴアンズ』のトップ・バッターとして最初に収められているのがハスク・オヘアのバンドです。そもそもオヘアはミュージシャンではなく、1921年陸軍を退役した後故郷シカゴで音楽界に身を投じ、バンドのマネージャー、指揮者として活躍した人物です。以前彼のバンドの1922年の録音については、「僕の作ったジャズ・ヒストリー 7…原初のジャズ2」で取り上げました。
ハスク・オヘアは、エディ・コンドンに率いられたオースチン・ハイ・スクール・ギャング達とは一線を画す「白人シカゴ・ジャズの第一世代」の音楽家だと言えるでしょう。彼の活動などが若者たちの共感を呼び、ハイ・スクール・ギャング達に大きく影響を与えたのだと思います。詳しくは「ハスク・オヘア 1928年」をご覧ください。

シカゴアンズ … ウィンギー・マノン

ウィンギー・マノンは、ニュー・オリンズ出身の白人トランぺッターで、1928年の時点ではシカゴの北クラーク街にあった「ロイヤル・クラブ」に自分のバンドを率いて出演してというので、オースチン・ハイ・スクール・ギャング達とは、異なりニック・ラロッカ等に近い「白人シカゴ・ジャズの第一世代」に属していると思われます。歌も歌ういわゆるエンターティナーで、後には「白いサッチモ」と呼ばれるようになったといいます。詳しくは「ウィンギー・マノン 1928年」をご覧ください。

ベニー・グッドマン

ベニー・グッドマンが出版した本

シカゴ出身でオースチン・ハイスクール・ギャングとも関りを持ちながらこの年グングン伸してくるのがBGことベニー・グッドマンです。ベン・ポラック在団中に認められ始め、1928年にスターと呼ばれる存在になっていくのに貢献したのは、右の本ではないでしょうか。”Benny Goodman's 125 jazz breaks for the saxophone and clarinet”、直訳すると「ベニー・グッドマンのサックスとクラリネットの125種類のジャズ・ブレイク」つまりは「BGの吹いたソロ・フレーズの125の実例集」という教則本のようなものでしょう。この本はメルローズ・ブラザーズというシカゴでは最も名の通った音楽出版社から1927年に出版されたものです。サックスとクラリネットの実例はBGですが、トランペットはルイ・アームストロング、トロンボーンはグレン・ミラーのものが出版されています。トランペットのルイ・アームストロングは順当だと思いますが、BGとグレン・ミラーは順当だと言えるであろうかという疑問が湧きますが、一つには彼がプレイした曲の多くの楽譜の権利をメルローズが持っており、楽譜が欲しければさらにメルローズは潤うという仕組みもあったのでしょう。しかしBGはまだ当時18歳です。天才クラリネット、サックス奏者登場ということで売り出したかったのでしょうが、これだとルイ・アームストロングと肩を並べる存在に見えてしまうではないかと思いますが…。
こうしたことも相まって1928年から1931年までの3年間余りで200を超えるレコーディングに呼ばれるくらいの大人気スタジオ・ミュージシャンとなっていきます。詳しくは「ベニー・グッドマン 1928年」をご覧ください。

レッド・ニコルス

これまで見てきたように、この時代の白人によるジャズは全てシカゴが舞台となっています。何故でしょうか?僕は今のところその答えを持っていませんがニュー・ヨークで頑張っているジャズマンとしてレッド・ニコルスの名前を挙げなければならないでしょう。この年のニコルスに特筆すべきことは見当たりませんが、「レッド・ニコルス 1928年」もご参照ください。

「ブルー・ギターズ」CD・ジャケット

エディ・ラングとロニー・ジョンソン

白人最高のギタリストで「ジャズ・ギターの父」と呼ばれるエディ・ラングはこの年も様々なバンドのセッションに参加しレコーディングを行っています。そのバンドはほとんど白人バンドであるのは時代的にしかたのないことだと思います。
一方黒人最高のギタリストの一人ロニー・ジョンソンもブルース、ジャズ共に様々なセッションに呼ばれて活躍しています。1927年のルイ・アームストロングに加えこの年にはデューク・エリントンの録音にも呼ばれています。
ところがここで大きな出来事が生まれます。エディ・ラングとロニー・ジョンソンの共演です。1928年11月15日アルガー・”テキサス”・アレクサンダーというブルース・シンガーのバックを一緒に務め、そして翌々日11月17日にはギター・デュオを録音するのです。人種差別が当たり前の時代、白人が黒人ブルース・シンガーの伴奏をすることや対等の形でデュオを行うというのは、ほぼありえないことです。ここにはなにがしかのエピソードがあるはずですが、評論家の方でこれらの録音に言及したものを見たことがありません。
詳しくは「エディ・ラング 1928年」そして「ロニー・ジョンソン 1928年」をご覧ください。をご覧ください。

カンサス・シティ … ベニー・モーテン

瀬川昌久氏によれば、モーテン楽団は、1926年にRCAヴィクターに移籍し、多数のレコーディングを開始しました。ヴィクターなのでレコーディングはニュージャージー州キャムデンで行われています。そして1929年半ばまでが前期のモーテン・バンド、以降1932年の最終セッションまでが後期のニュー・モーテン・バンドと大別することができると述べています。モーテン楽団は、1929年7月と10月にレコーディングを行っていますが、いわばこの間で変化が起こり、1929年7月までが前期モーテン楽団、1929年10月から1932年までが後期モーテン楽団としています。この間何が起こったかは次回「ベニー・モーテン 1929年」に乞うご期待ですが、ともかく今回は「ベニー・モーテン 1928年」を聴いていきましょう。

ブルース

ブギー・ウギー

「ブギー・ウギー・マスターズ」レコード・ジャケット

「東京ブギ・ウギ、リズムウキウキ」のブギー・ウギーです。「東京ブギ・ウギ」は、笠置シヅ子さんが歌ってレコードが1948年発売され、大ヒットとなったことは皆さんご承知の通りです。さてこの日本でも有名な「ブギ・ウギー」の誕生物語については油井正一氏が『生きているジャズ史』に書いています。ポール・オリヴァー著『ブルースの歴史』にも関連する記載があるので合わせてみていきましょう。
それらによると発祥は、1920年前後シカゴの家賃パーティー(ハウス・レント・パーティー)であるというのです。油井氏は次のように述べています。「このパーティーに入場も払わず、食べ物も飲み物も持って来ないくせに歓迎される客がいた。その名はジミー・ヤンシー。彼は不思議なスタイルのピアノを弾いたのだが、当時そのスタイルに名前はなかった。これがのちに「ブギ・ウギ―」として全世界に知られるようになったスタイルであるという。」
そしてパイントップ・スミスが、1928年の暮れに2曲吹き込みますが、この吹込みで彼はタイトルに「ブギー・ウギー」と名付け、歌詞にも「ブギー・ウギー」と歌い込みます。これがこのスタイルを「ブギー・ウギー」と名付けた最初とされていると油井氏は書いています。このように「ブギ・ウギ―」と名付けられた最初録音はパイントップ・スミスによって1928年12月29日に行われます。
しかし「ブギー・ウギー」と名付けられた「ブギー・ウギー」スタイルのピアノ・ソロのレコードはパイントップ・スミスのものが初めてですが、このスタイルのピアノ録音はそれ以前から存在します。最初の「ブギー・ウギー」スタイルのピアノ・ソロのレコードは、1924年4月にジミー・ブライス(Jimmy Blythe)が吹き込んだ『シカゴ・ストンプス(Chicago stomps)』です。僕はこのレコードは持っていませんが、Youtubeで簡単に聴くことができます。スミスの少し前1928年7月16日にカウ・カウ・ダヴェンポートも「ブギー・ウギー」スタイルの『カウ・カウ・ブルース』、『ステイト・ストリート・ジャイヴ』を吹き込んでいます。詳しくは「カウ・カウ・ダヴェンポート 1928年」そして「パイントップ・スミス 1928年」をご覧ください。をご覧ください。
さてこの「ブギー・ウギー(Boogie Woogie)」という言葉の語源ですが、1900年以前に出版された楽譜(アメリカ議会図書館所蔵)にはタイトルに「ブギー」という言葉が使われたものは少なくとも3つあるそうです。1901年「フーギー・ブギー(Hoogie Boogie)」、1880年には「ブギー・マン(The Boogie man)」があり、またレコーディングされた曲のタイトルでは、1913年にエジソンのシリンダー式蓄音機に録音された「アメリカン・カルテット(American Quartet)」による『シンコペーション・ブギー・ブー(That Syncopated Boogie Boo)』という曲があるそうです。
ピアノ・ソロ以外ではウィルバー・スエットマン(Wilbur Sweatman:1882〜1961)は、1917年4月「ブギー・ラグ(Boogie rag)」という曲を録音しますが、そこには「ブギー・ウギー」のスタイルは見られないそうです。「ブギー・ウギー」の独特なベース・パターンが最初に見られるのはルイジアナ・ファイブ(Louisiana Five)が1919年に吹き込んだ「ウエアリー・ブルース(Weary Blues)」のテイク2と言われています。
しかしこのスタイルのベース・パターンは古くから行われていたようで、初期のブルース・シンガー、レッドベリー(Leadbelly:1888〜1949)は、1899年にテキサス州北東部でブギー・ウーギー・ピアノを初めて聞いたと語っているそうです。
また大元の語源は、アフリカ・バンツゥー族の服を揺らして踊ることを意味する「ンブキ、ンヴキ(Mbuki Mvuki)」から来ているその他の研究があるようです。

ベッシー・スミス

「ベッシー・スミス/エンプティ・ベッド・ブルース」レコード・ジャケット

ベッシー・スミスはこの年も21曲ほどコロンビアにレコーディングを行いますが、その中には大きな問題作と思われるものが2曲あります。
1曲は左の全集第3集のタイトルにもなっている『エンプティ・ベッド・ブルース』です。エドワード・リー氏はその著『ジャズ入門』(音楽之友社)の中で、ベッシー・スミスを「シティ・ブルース」の代表的シンガーとした上で「ブルース歌手は器楽奏者に伴奏してもらう機会が多くなるにつれて、次第にヨーロッパの影響の強いジャズ・スタイルと古いブルース・スタイルの合流が始まることとなった。その古典的な例がベッシー・スミスの『エンプティ・ベッド・ブルース』である」と述べています。
またガンサー・シュラー氏は、トロンボーン奏者チャーリー・グリーンのうめき声を表現した音は荒々しい音とベッシーの苛烈で、苦い感情の吐露との組み合わせも抜群なところがあるとし、『エンプティ・ベッド・ブルース』では、グリーンの吼えたり、軋るようなトロンボーンの響きがベッシーの様々な性的暗喩を見事に浮き彫りにすると述べています。
重要なのはこの「性的暗喩を見事に浮き彫りにする」ということで、エロだという理由で1928年発売と同時にボストンでは発禁処分となったのです。このことが話題を呼び、売れ行きという点ではデビュー曲の”Downhearted blues”の方が上ですが、ベッシー・スミスの名が白人たちに知られるようになったのはこの曲によってであるといわれています。
因みに我が油井正一氏は「これはSP盤両面に吹き込まれた当時の超大作であり、私はベッシー・スミスの最大傑作である。恋愛を歌ったブルース中出色のもので美辞麗句の類は全くなく、素直で率直に愛人を友だちに取られた女ごころが歌われる最高級の芸術であると評価しています。
もう1曲は8月24日に吹き込んだ『プア・マンズ・ブルース』です。この曲は珍しいベッシー・スミスの自作のブルースで、人種差別に激しい抗議を叩きつけた歴史的な作品です。コロンビアのような大会社がよくぞ吹込みを許し、発売したものだと思います。約10年後の1939年ビリー・ホリディの『奇妙な果実』の録音・販売を拒否し、ビリーはこの曲をコモドア・レーベルに吹込み発売せざるを得なかったことを考えると意外なことです。ベッシーはこの後9か月の間レコーディングをしていません。油井正一氏は「ブルース人気に陰りが見え始めた」と暢気なことを書いておられますが、ベッシーとコロンビアの間に発売を巡る何らかの障害が生じたことが想像されますが、この問題についての言及は今のところ発見できていません。
詳しくは「ベッシー・スミス 1928年」をご覧ください。

ブラインド・レモン・ジェファーソン

僕の持っているこの年の吹込みは6曲だけですが、彼の吹込み自体は20面分以上行われたようです。僕自身はこの人こそカントリー・ブルースの代表という感じています。泥臭く叫ぶように歌い、見事にギターが絡んでいきます。詳しくは「ブラインド・レモン・ジェファーソン 1928年」をご覧ください。

ブラインド・ブレイク

この年は30面分近い大量の録音を記録しています。この年の録音を聴くとブルースというよりもフォーク・ソング、そしてジャグ・ミュージックとの親和性を感じます。詳しくは「ブラインド・ブレイク 1928年」をご覧ください。

上記以外のブルース・ピープルの1928年の録音については、詳しくは「ブルース・ピープル 1928年」をご覧ください。

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