僕の作ったジャズ・ヒストリー 7 … 原初のジャズ 2

今回は1920年くらいから1923年にかけてのジャズの動きを見ていきましょう。その前に当時のアメリカのポピュラー・ミュージックの流れを概観しておくのも無駄ではないと思います。

ティン・パン・アレイ

20世紀アメリカ芸能事情 … 1920年

1020年代頃になるとミンストレル・ショウも衰退し、ヴォードヴィル・ショウが人気を集めます。僕にはミンストレルとヴォードヴィルの決定的な違いというのがよく分からないのです。歌、踊り、漫才、寸劇などを一つのパッケージ化した旅芸人一座が、各地を公演して回り、それが各地方においては大きな娯楽となっていました。僕の理解はこうした旅芸人一座がミンストレル・ショウで、旅回りはせず固定的な芝居小屋を持ってそこで公演するのがヴォードヴィル・ショウというものですが、違うかもしれません。ともかくそれらの中で質的に最高峰に位置するのがニュー・ヨークのマンハッタンに位置するブロードウェイだと思われます。
ブロードウェイは、元々はオペラなどを上演するハイ・ソサイエティ向きの劇場が多かったのですが、徐々に大衆化し、20世紀に入ってニュー・ヨークに1904年に地下鉄が開業し、1910年に現劇場街にも地下鉄が通り、 電球の普及で劇場街一体が白い電球で明るく照らされるようになり、ミュージカルの街としてアメリカン・ショウ・ビジネスの中心地として発展していくようになります。ブロードウェイ・ミュージカルは1927年初演の「ショウ・ボート」に始まると言われますが、ティン・パン・アレイは既に形成されつつありました。

アル・ジョルソンのレコード

ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley)とは、ニュー・ヨーク市マンハッタンの28丁目のブロードウェイと6番街に挟まれた一角の呼称で、ブロードウェイのミュージカルの楽譜出版社、演奏者のエージェントなど音楽に関係する会社達が集まっていました。形成された当時はまだレコードの普及前であり、当時の音楽に関する主たる商品は楽譜でした。これらの会社は、楽曲の試演を行っていたため、まるで鍋釜でも叩いているような賑やかな状態だったことから、この名前(Tin Pan Alley: 直訳すると錫鍋小路、通称ドンチャン横丁)がついたといわれます。そこから商業主義的なポップスにおける作曲家と歌手の分業システムを、「ティン・パン・アレイ系」などと呼ばれるようになります。
そこには前にも触れましたが、移民系ジョージ・ガーシュインやアーヴィング・バーリンたちが日毎夜毎が新しいヒット・曲を生み出すために知恵を絞っていたのです。その代表的存在であるジョージ・ガーシュイン(George Gershwin 1898〜1937:本名ジェイコブ・ガーショヴィッツ Jacob Gershowitz)はユダヤ系ロシアからの移民で、1919年に作曲した「スワニー(Swanee)」が同じロシアからの移民で、ミンストレル・ショウ出身でニュー・ヨークに進出し、当時ブロードウェイのスターダムにのし上がりつつあった歌手のアル・ジョルソン(Al Jolson 1886〜1950:本名エイサ・ヨエルソン Asa Yoelson)が1920年に取り上げることで、1年間にレコードが225万枚、楽譜は100万枚も売れ、1920年最大のヒット曲となります。。このヒットでガーシュインは売れっ子作曲家に、ジョルソンはブロードウェイきっての売れっ子となって行きます。
ジョルソンはヴォ―ドヴィルからブロードウェイに進出し大成功を収め、後には映画にも進出し大成功を収めました。現在は見向きもされませんが、当時を代表するスターでした。彼が見向きもされなくなったのは何といってもミンストレル・ショウ由来のブラック・フェイスで売り出したことでしょう。

1920年代のラジオ

ラジオ放送の開始

19世紀後半から始まったレコード再生の歴史は、録音、再生とも機械振動を直接カッティングし、振動を直接サウンドボックスで拾ってホーンで拡大する、いわゆる「蓄音器」(アコースティック式)の時代が続いていました。この長い歴史を一変させる事態が1920年にアメリカで起きます。それはラジオ放送の開始です。
ラジオ放送が始まった1920年代のアメリカは蓄音器業界にとってまさに激動の時代でした。真空管を中心とするエレクトロニクスの急速な発展は、ゼネラル・エレクトリックを中心とする大メーカーによる特許の実施をめぐり、欧米各地で様々な企業の設立、および合従連衡が始まります。
1920年、ピッツバーグのKDKA局から始まったラジオ放送は蓄音器、レコード業界に大打撃を与えました。ニュースや株式市況などの時事情報だけでなく、音楽やスポーツ、ドラマなどの目新しい娯楽が次々と流れてくるラジオに人々は夢中になったといいます。また、アメリカでは最初から商業放送でラジオが始まったため、聴取料はなく、ラジオを買えば無料で音楽を聴くことができたのです。ラジオからは、生演奏の中継も含めて最新の音楽が大量に流れてきました。結果として、しばらく後のことですが人々はレコードを聴かなくなり、蓄音器、レコード業界は苦境に立たされることになります。
また1920年頭から禁酒法が施行されます。これらのことはじわじわとジャズ界にも影響を及ぼしていくことになります。

黒人初のレコーディング…オーケー・レコード

「メイミー・スミス/クレイジー・ブルース」SP盤ラベル

1920年ジャズ関連で大きな出来事と言えば何といってもメイミー・スミスが「クレイジー・ブルース」を吹込んだことでしょう。この辺りについては拙HP「ジャズの歴史3…ブルース」で触れましたが、少し詳しく見ていきましょう。
まずスミスの「クレイジー・ブルース」が最初の「ブルース」のレコードではないことは先にも触れました。では黒人歌手が歌ったブルースの吹込みが最初だったのでしょうか?
黒人差別撤廃の活動家デュボイスのもとで学んだハリー・H・ペイス(Harry Pace:1884〜1943)はW.C.ハンディと1912年メンフィスで音楽出版社を立ち上げ、1918年事務所をニューヨークに移転させます。そこで二人の関係は終わるのですが、1921年ペイス・フォノグラフィック・コーポレイション(Pace Phonographic Corporation)を立ち上げ、ブラック・スワン・レコード(Black Swan Records)というレーベルでレコーディングを開始します。これが最初の黒人による楽譜出版、レコード会社だと言われてきました。しかし大和田俊之著『アメリカ音楽史』によると、その2年前の1919年マサチューセッツ州メドフォードにコンサート・ミュージックに特化した黒人によるレコード会社ブルーム・スペシャル・フォノグラフ・レコードが通信販売をしていたというのです。この会社がどのような音楽をレコード化し、通販していたかは定かではありませんが、ブルースであった可能性もあります。もしそうだとすれば、メイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」初めての「黒人によるブルース」とも言えないことになります。もちろん店頭販売ではなく、通販だった理由は白人圧力団体からの圧力回避だったと思われます。
さてメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」を録音、販売したオーケー・レコード(Okeh records)は、この時代の例に漏れず1916年にドイツ系のオットー・ハイネマン(Otto K.E.Heinemann)によって設立された蓄音機メーカーで、オットー・ハイネマン・フォノグラフ社(Otto Heinemann Phonograph Corporation)が1918年に立ち上げたレーベルです。しかし1918年第一次世界大戦におけるドイツの敗戦によって、「オットー・ハイネマン」といういかにもドイツ人らしい名前を避け、ジェネラル・フォノグラフ社(General Phonograph Corporation)改称しています。レーベル名「オーケー(Okeh)」は、『ジャズ・レコード全歴史』のブライアン・プリーストリーは、「オーケーとは第一次世界大戦の俗称である」と書いていますが、Web等を見ると創業者オットー・ハイネマン(Otto K.E.Heinemann)の頭文字を取り”OKeh”としたとあります。
オーケーは別に黒人の音楽だけではなく流行の音楽を手掛けていました。レーベル立ち上げ前の1917年には、ジェイムズ・P・ジョンソンがテスト録音を行っています。これは未発表のままで終わりますが、当時のレコード会社に取って黒人のミュージシャンを起用することは明らかに危険な行為でした。また1918年にはジャズのレコーディングを手掛けます。O.J.D.B.の模倣白人バンド、O.N.O.J.B.(Original New Orleans Jazz Band)です。因みにこのバンドはジネット、エマーソンにも同時期レコーディングを行っています。
『アメリカ音楽史』の著者大和田俊之氏は「黒人作曲家ペリー・ブラッドフォードがオーケー・レコードの音楽ディレクター、フレッド・ヘイガーを説得し、ヘイガーのアシスタントのラルフ・ピアとともにメイミー・スミスのレコーディングを実現させた話は有名」と書いていますが、スミスの録音は「クレイジー・ブルース」が最初ではありません。最初の録音は同年の2月に行われています。ヘイガー氏の首を縦に振らせるのは大変だったと繰り返し述べていたのはブラッドフォード氏ですが、それもそのはずヘイガー氏は、もし黒人シンガーを録音するようならボイコットするぞという脅迫状を北部そして南部の圧力団体から相当数受け取っていたそうです。僕は説得したブラッドフォード氏よりもヘイガー氏の方が精神的にはきつかったと思います。またブラッドフォード氏には何としてもスミスの録音を行わせたかった事情もあるようですが、それは後ほど触れます。

当時の女性ブルース・シンガー

マ・レイニー

メイミー・スミスは、もともとはミンストレル、ヴォードヴィルの歌手でした。1910年ごろまでには南部のほとんどの黒人コミュニティにはヴォードヴィル劇場が存在したといいます。そしてそこでは頻繁にブルースが歌われていたといいます。このブルースをヴォードヴィル・ブルースと呼んでいます。ではいつごろからブルースがミンストレルやヴォ―ドヴィルで歌われていたのでしょうか?
ポール・オリヴァー著『ブルースの歴史』の次の記述が気になります。それによれば「ブルースの母(The mother of the blues)」と呼ばれるマ・レイニー(Ma Rainey:1886~1934)は、ジョージア州コロンバス生まれで、生まれ故郷のコロンバス地元のタレント・ショウ「きいちごの房」でデビューしたのが14歳の時、つまり1900年頃でした。彼女がジョン・ワークに語ったところによれば、初めてブルースを聴いたのは、1902年ミズーリ州の小さな町で若い女が「奇妙で辛辣な」悲哀の歌を歌うのを聞いた時だというのです。この後マ・レイニーはアンコールには必ず、自分こそ名付け親だと主張する「ブルース」を歌うようになります。そして後年になると彼女の演奏活動のほとんどすべてはブルースで占められるようになったというのです。それで彼女は「ブルースの母(The mother of the blues)」と呼ばれるようになったというのです。
レイニーは長いキャリアの間に幾つかのミンストレル・ショウに加わりましたが、結局は自分の一座を作って南部中を巡業するようになります。北部では彼女の噂を聞くことはありませんでしたが、南部では、そのずんぐりした体つき、若い男好き、幅広いいたずらっ子のような顔、20ドルもする金の鎖をつないだネックレス、背景の鷲の絵といった特徴は良く知られていたといいます。因みに2020年彼女を題材に取り上げた映画『マ・レイニーのブラックボトム』が公開され、レイニーを演じたビオラ・デイヴィスがアカデミー賞主演女優賞を獲得して話題になりましたが、残念ながら見ていません。
ポール・オリヴァー氏は、他にミンストレル・ショウの有名歌手で最も古い芸歴を誇り一番ファンに記憶されていた歌手として、アイダ・コックス(Ida Cox:1889~1968…Webなどでは若干異なる)を挙げています。1889年テネシー州ノックスヴィル生まれの彼女は、14歳からミンストレル・ショウに入って働いていました。「彼女はほとんどブルースかブルース・ソングしか歌わず、ディープ・サウスの小さな町々で非常に愛されていた」と記載していますが、この「ブルース」と「ブルース・ソング」の違いが分かりません。
そして偉大な歌手マ・レイニーのたった一人のライヴァル、ベッシー・スミス(Bessie Smith:1898〜1937 ジャズ人名辞典では1895年生まれ)。故郷のチャタヌガで歌っているのを聞いたマ・レイニーが彼女を自分の一座に迎え入れたと伝えられています。この話の真偽は明かではないとのことですが、トリヴァーズ・サーカスで一緒に働いていたことがあるということは明らかになっています。ベッシーはチャタヌガの極貧の家に生まれ、9歳の時に初舞台を踏み以後10年間は様々なミンストレル・ショウやテント・ショウを渡り歩き、1917年にはアラバマのすさんだ酒場で歌い、その2,3年後にはアトランタのナインティ・ワン劇場というところで腰振りショウ(Hip shaking show)の座長をしていたそうで、1923年初頭ニュー・ヨークに出てきたといいます。
僕が疑問に思っていたのは、なぜ<メイミー・スミス>だったかということでした。大和田俊之著『アメリカ音楽史』によれば、黒人作曲家ペリー・ブラッドフォードがオーケー・レコードのフレッド・ヘイガーを説得し、ヘイガーのアシスタントのラルフ・ピアとともにメイミー・スミスのレコーディングを実現させました。またポール・オリヴァー氏によれば、彼女は「ベッシー・スミスやマ・レイニーの水準から見れば大した歌手ではなかった」し、先輩格であるマ・レイニーを差し置いてどのような経緯でメイミー・スミスがレコーディングを行うことになったのでしょうか?しかし考えてみれば、必ずしもその時最高のミュージシャンがレコーディングを行うというわけではないことは、前回取り上げたO.D.J.B.が当時最高のジャズ・バンドではなかったにもかかわらず最初のジャズ・レコーディングを行ったことにも表れていますね。1920年という時を考えれば、ニュー・ヨークでマ・レイニーの名は知られておらず、ベッシー・スミスもニュー・ヨークに出てくるのは1923年なので知られていなかった可能性が高いと思われます。

メイミー・スミス

メイミー・スミス

ではメイミー・スミス自身についてみてみましょう。ポール・オリヴァーは次のように述べています。「クラシック・ブルース・シンガーの中で最初にレコーディングを行い、後から来る仲間たちに道を開いたのは、1890年シンシナチ生まれのメイミー・スミス(1890~1946)だった。若いころはタット・ウィットニーのスマート・セットに入って巡業していた。1913年ニューヨークの移り、ヴォードヴィル・ショウに出演するようになっていた。1919年ハーレム135丁目にあったオリエントという店で歌っていたが、週休150ドルを稼ぐ歌手になっていた。彼女は白テンの縁取りの衣装を着て、自分の率いるバンドと一緒に巡業して回っていた。」つまりニュー・ヨークでは売れっ子だったということなのでしょう。
しかしこれに真っ向から反する記述があります。それは『初期のジャズ』に収められたガンサー・シュラー氏がヴァイオリン奏者ジョージ・モリソン氏に行った1962年のインタヴュー記事です。モリソン氏は1891年生まれで幼いころから苦しい家計をヴァイオリンを弾いて支えてきた黒人奏者です。モリソン氏の語るところを以下要約します。因みにモリソン氏はコロンビアでのレコーディングのためにニュー・ヨークに来ていました。文中の「私」はモリソン氏です。
「ペリー・ブラッドフォードという小男が私が泊まっているホテルにやって来て、『金儲けをしたくないですか?絶対儲かりますよ』ともちかけてきました。そしてともかくここ(私の部屋)を出て、一緒に朝食を食べながらじっくり話し合いましょうと言います。そして奴は2人前のハムエッグを食べ、私はホットケーキを1人前食べ、奴は文無しだったので、勘定は私が全て支払いました。そして彼の儲け話というのは、『飛び切りの美人で、天下一品のブルース歌手がいる。わたしが必要としているのは、あなたのオーケストラです』と言い、私にしゃべる間も与えず彼女の家に連れて行ったのです。それは古ぼけた家で、昼間なのに古ぼけたランプが燃えている酷いところ、いや凄まじいところでした。その女が「録音した」最初のブルース歌手メイミー・スミスでした。その女はアイロンをかけていました。そしてその女に向かって奴はこう言ったのです。『お嬢さん、手配は整いましたよ。こちらのモリソンさんがお金を支援してくださいます。安心してください。あなたにはきちんとした格好をしてもらうつもりです。』私は小金を貯め込んでいました。その中から150ドルを出し、メイミーに帽子、下着、靴下、靴などを買ってあげました。下着から上着まできちんとした格好をさせてあげました。それまでその女性のことは、見たことも聞いたこともありませんでした。
メイミーはお金は私に返すつもりだと言いました。彼女はオーケー・レコードのために録音することになっていました。私は奴に言いました。『メイミーにお洒落をするお金はあなたに持たせたが、メイミーのために演奏は出来ない。コロンビアが許してくれない。』そこで我々は白人、黒人のバンドマンを探し、混成のオーケストラを作りました。それが彼女の行った最初の録音でした。私は彼らと歩き回って、メイミー・スミスのレコード作成の手伝いをして、彼女の歌唱の指導をしてあげた。およそ3週間して彼女は、奴を伴って私に会いに来た。そして私の150ドルを返してくれました。それがメイミー・スミスとペリー・ブラッドフォードとの最後の出会いでした。」
オリヴァー氏、モリソン氏の語るところはかなりの食い違いを見せています。モリソン氏の語るところが事実とすれば、1920年初頭時点でメイミー・スミスは全く売れっ子などではありませんでした。しかしオーケー・レコードへの売り込みに際して彼女は、ヴォードヴィル・ショウで売れっ子であり、レコードを吹き込み販売すれば売れそうだとということを、レコード会社にアピールする必要があります。そのための工作としてモリソン氏に金を借り、身繕いし、売れていることを喧伝したのでしょう。オーケー、オリヴァー氏はまんまとそれに乗っかったということになります。そしてその首謀者はペリー・ブラッドフォード氏ということになります。なぜそこまで肩入れするのでしょうか?単に才能を発見したということだけではないかもしれませんが、ここはこの辺りで留めておきましょう。

メイミー・スミス 初レコーディング

ペリー・ブラッドフォード

上記モリソン氏の話を裏付けるように、そもそもメイミー・スミスのレコード吹込みは「クレイジー・ブルース」が最初ではありません。1920年2月14日ニュー・ヨークで"That Thing Called Love" と "You Can't Keep a Good Man Down"2曲をオーケー・レコード(Okeh records)に録音しています。ところがポール・オリヴァー氏によると、そもそもこの吹込みはソフィー・タッカー(Sophie Tucker:1886〜1966)を使って行われる予定だったというのです。タッカーはロシア生まれで、1887年家族と共にアメリカに移住してきた移民です。20世紀初め全米で最も人気のあったエンターテイナーの一人と言われます。その彼女を押しのけて、そのレコーディングにメイミーを使うようにブラッドフォード(写真右)は工作を行ったことになります。
この音源を僕は持っていませんが、ドキュメント・レコード(Document records)というところから編集もので再発されています。それによると伴奏を務めたバンドはレガ・オーケストラ(Rega orchestra)でメンバーは次のように記載されています。
<Personnel> … メイミー・スミス 伴奏レガ・オーケストラ(Mamie Smith Accompanied By Rega Orchestra)
Vocal … メイミー・スミス(Mamie Smith)
Cornet … エド・コックス(Ed Cox)
Trombone … ドープ・アンドリュース(Dope Andrews)
Clarinet … アーネスト・エリオット(Ernest Elliot)
Bass Saxophone … 不明(Unknown Artist)
Piano … ウィリー・”ザ・ライオン”・スミス(Willie "The Lion" Smith)
Violin … リロイ・パーカー(Leroy Parker)
しかしディスコグラフィー(harlem-fuss)では、レガ・オーケストラはオーケーのハウス・バンドで、それを率いていたのがピアノのフランク・バンタ(Frank Banta)という人物であるとし、その他は不明としています。ディスコグラフィー(harlem-fuss)とドキュメント・レコード(Document records)に記載の録音データが余りに異なるので、どう考えてよいか分かりませんね。それはともかくプリーストリー著『ジャズ・レコード全歴史』によれば、実は「クレイジー・ブルース」に先立つこの録音もハーレム界隈では評判になっていたと言います。ポール・オリヴァー氏によればこちらも月7万5千枚も売るヒットとなっていたそうです。

メイミー・スミス「クレイジー・ブルース」

メイミー・スミスと彼女のジャズ・ハウンズ

そして2月初レコードがヒットとなったことを受け、2回目の録音が半年後の1920年8月10日に同じオーケーで行われます。初レコーディングの成功への貢献に報いるためか今回は、ペリー・ブラッドフォードが作曲した"Crazy Blues" と "It's Right Here for You (If You Don't Get It, 'Tain't No Fault of Mine)"の2曲がレコーディングされ、カップリングされ発売されます。今回は「ブルース」しかもバックを務めるのは「彼女のジャズ・ハウンズ(Her jazz hounds)」という黒人ミュージシャン達で固めるのです。といってもパーソネルについては、資料によって若干の相違があります。
<Personnel> … メイミー・スミス・ウィズ・ハー・ジャズ・ハウンズ(Mamie Smith with her jazz hounds)
Vocal … メイミー・スミス Mamie Smith
Cornet … アディントン・メジャー Addington Major
Trombone … ドープ・アンドリュース Dope Andrews
Clarinet … アーネスト・エリオット Ernest Elliott
Violin … ルロイ・パーカー Leroy Parker
Piano … ウィリー・スミス Willie Smith
Bass … 不明 Unknown

『アメリカン・ミュージックの原点』

上記は「アメリカン・ミュージックの原点」記載のものです。ドキュメント・レコーズはコルネットをアディントン・メジャーかジョニー・ダン(Johnny Dunn)であるとしていますが、ディスコグラフィー(harlem-fuss)ではコルネットはジョニー・ダンはありえず、クラリネットはエリオットではなく、ボブ・フラー(Bob Fuller)であるとしています。僕には判断しかねるのでここは、中村とうよう氏に敬意を表して「アメリカン・ミュージックの原点」記載のものを採用しておきます。
では実際に音源を聴いてみましょう。大和田氏(『アメリカ音楽史』)は、「一聴して分かるように、この曲のサウンドは現在のブルースのイメージからはかけ離れている。ブルース形式(AAB12小節)も踏襲していないし、スミスの歌唱もいわゆる一般的なブルースのイメージとは程遠い。そもそもスミスはオハイオ州シンシナチで生まれ育っており、南部出身ですらない。小編成のバンドを従えたにぎやかな伴奏もむしろ初期のジャズを思わせる。」
確かに現代に普通に通用している12小節1コーラス構成ではありません。構成は<A16小節+B12小節>を2度繰り返し、B12小節+再度A16小節という構成、しかも12小節のBはほぼ現在のブルース形式なのです。さらにメイミー・スミスの歌はブルース・フィーリング溢れるものです。伴奏はディキシーランド・ジャズっぽいのですが、当時黒人ミュージシャンを集めれば、そうなるのは必然ではないでしょうか?ピアノにデューク・エリントンのアイドルだったウィリー・ザライオン・スミスという大物が配されていますが、ピアノの音は全くと言っていいほど聞こえません。
ともかくこのレコードは爆発的なヒットを記録することになりました。一説によれば「クレイジー・ブルース」は発売後1か月でハーレムだけで7万5千枚、1年間では100万枚も売れ1920年間ヒット・チャート第3位にランクされるヒットとなります(因みに第1位はアル・ジョルソンの「スワニー」です)。このことによって、レコード会社はこの時点で初めて黒人購買層に気づいたのです。
そもそも黒人自体のレコーディングは、が1890年代のジョージ・W・ジョンソン等によってすでに行われていました。しかし彼らはヨーロッパ出身のアメリカの聴衆、すなわち白人に向けて音楽を演奏していたのです。これに対して「クレイジー・ブルース」は黒人のための音楽でした。実際このレコードの大半は黒人によって買われたと言われます。オーケーは、後に次のような広告文を出していたそうです。「人種(レイス)のための人種(レイス)レコードを出すことを最初に思い付いたのは誰か?オーケー、そうだ、その通り!」
ブラッドフォード氏とともにヘイガー氏を説得し、「ヒルビリー」という造語も発明していたラルフ・ピア氏は、オーケーのレコーディング・マネージャーになっていた1938年次のように告白しているといいます。「うちの会社にはあらゆる民族系のグループのレコードがそろっていた。ドイツ系の音楽レコード、スウェーデン系の音楽レコード、ポーランド系の音楽のレコード、しかしうちとしては黒人のレコードを宣伝するのは怖かった。それで私がそういったレコードを『人種(レイス)』レコードと名付けた。」ともかくこのヒットをきっかけにレコード会社は黒人コミュニティに特化したレコードを生産し始めたのです。1923年ごろまでに各社は「レイス・レコード」と呼ばれるシリーズを立ち上げ、ブルースやジャズ、ゴスペルなどに音楽を黒人コミュニティ向けに制作し始めるのです。因みにこのレコードその歴史的な重要性によって、1994年グラミー賞栄誉の殿堂(Hall of fame)に、2005年国家的保存レコーディングに登録されました。
このスミスのレコードの成功によって、他のレコード会社も積極的に他の女性ブルース・シンガーをレコーディングするようになり、「古典的女性ブルース」時代が到来することになります。同じブルース・シンガーのアルバータ・ハンター(Alberta Hunter:1895〜1984)は「最初のブルース・レコードとなった『クレイジー・ブルース』のレコーディングで、あたしたちみんなに道を開いてくれた」と述べています。1920年8月にはアルト社がルシール・ヘガミンの吹込みを行い、翌1921年3月エマーソン社がリリアン・ブラウン、5月にはハンターがブラック・スワンにデビュー盤を吹き込みます。さらにコロンビアもイーデス・ウィルソンで続きました。エセル・ウォーターズ(Ethel Waters)の”There'll be some changes made”は年間で16位にランクされるヒットとなっています。
しかしこれらは先のペリー・ブラッドフォードやクラレンス・ウィリアムズ、スペンサー・ウィリアムズといったプロの作曲が書いた「作曲された」ブルースでした。正統派ブルースが録音されるのは1923年2月のベッシー・スミスの「ダウンハーテッド・ブルース」まで待たなくてはなりませんでした。こうして「ブルース」は、アメリカの音楽ジャンルとして定着していきます。マ・レイニー、ベッシー・スミス、エセル・ウォーターズなど女性ヴォードヴィル・シンガー達が積極的にヴォードヴィル・ショウでブルースを披露していきます。そしてついに1922年1月20日にはハーレムで最初の「ブルース・コンテスト」が開催され、優勝したトリクシー・スミス(Trixie Smith:1895〜1943)はブラック・スワン・レコードと契約を交わしています。
一方男性のブルースのレコードは1926年に初めて発売されます。
メイミー・スミスはその後もバックバンド、「ジャズ・ハウンズ」と共にレコーディング他の活動を続けますが、そのバンドにはガルヴィン・ブッシェル、ジョニー・ダン、コールマン・ホウキンス、ジョー・スミス、ババー・マイレイなど名だたるジャズメンも加わっていました。彼女のような売れっ子のシンガーがジャズメンに仕事の場を提供していたのです。

1920年 その他録音

僕の持っている1920年の音源はもう一つだけ、O.D.J.B.(Original Dixieland Jazz Band)です。前回渡航先での録音をご紹介しましたが、約1年半の楽旅から帰国した第1回目の録音が「白人草創期ジャズ音楽 ディキシーランド」に収録してあります。
5人のメンバーの内2人が代わり、さらにアルト・サックスが加わりサウンド的にはかなり変化してしまっています。ガンサー・シュラー氏によれば、そもそも中身の薄いバンドが突然受けて有名になり、世界的な名声を得てしまう。そして著作権を巡る100万ドルのメンバー内に起こった訴訟問題や妬みによるつまらないトラブル、アルコール中毒などの事件の果て1924年にはあっけなく解散してしまうのです。
1920〜1924年の間には他にもレコーディングを行いますが、ほとんど聴く価値は見当たらないと厳しい評価をされています。ただこれはジャズとしては聴く価値がないのであって、彼らの人気がなくなったわけではありません。彼らのレコードは相変わらず売れていたのです。

1921年

ジェイムズ・P・ジョンソン

この年には、「クレイジー・ブルース」の成功の影響を受け、女性ブルースシンガーの録音が行われるようになっていますが、僕は全く音源を持っていません。代わりにというか世の中を動かしはしなかったけれどもジャズ界に大きな影響を与えた録音がありますのでご紹介しておきましょう。
それは「ザ・スミソニアン・コレクション・オブ・クラシック・ジャズ」LP6枚組に収められた「ストライド・ピアノの父」と呼ばれるジェイムズ・P・ジョンソンのピアノ・ソロ「キャロライナ・シャウト」です。デューク・エリントンはその自伝で、「わたしはこの曲をどんなに練習したことだろう!わたしはこの曲を心に抱きくり返しくり返し弾いた。そのことが私にしっかりした基礎をもたらしたのだ。(中略)『キャロライナ・シャウト』はわたしのパーティで必ず弾く曲となった」と述べています。エリントンが練習したのはピアノ・ロールでジョンソンが1917年に録音したものです。野口久光氏によれば、ジョンソンの初吹込みは1921年8月であると書いているので、1921年10月18日の録音のこの曲は彼の最初の録音ではないかもしれません。ジョン・F・スウェッドはその著『ジャズ・ヒストリー』(青土社 訳諸岡敏行)で、「1921年の“キャロライナ・シャウト”は当時の真摯なストライド・ピアニストの例で、技巧を凝らした風格ある作品だが、一方ではシャウト、つまり輪を作って踊るシャッフル・ダンスに基礎をおいている。サウス・キャロライナの人たちが教会の中でも、外でも好んだものだ。曲は16小節のテーマの上に8つの変奏で構成され、いくつかの点でフォーク・シャウトのコール・アンド・レスポンス(応答形式)に近い表現を取る。また、4分の4拍子でありながら、曲の出だしでジョンソンの左手は3−3−2拍子の形でビートを分解して、これらのダンスのとるポリミーター(複合リズム)をそれとなく提示する。」と解説しています。聴いてみるとこの左手の動きは複雑で、典型的なストライド奏法というよりもラグタイムにリズム変奏を加えたものという感じを受けます。

サンシャイン・レーベル/オリィズ・クレオール・トロンボーン

またジョンソンは、同年巡業レビュー団<Dudley’s black sensations〜“Smart set revue”>の音楽監督として全米各地を回り、翌22年初めて自分のバンド<Harmony seven>を率いました。さらに翌1923年3月には<Plantation day’s show>という黒人グループにピアニスト兼音楽監督として参加し、初めてイギリスに渡っています。
黒人ジャズ初録音 もう一つ、或いはもっと重要なのはこの年サンフランシスコでキッド・オリィがサンシャイン・レーベルに「オリィのクレオール・トロンボーン(Ory's Creole trombone)」と「ソサエティ・ブルース(Society blues)」を吹き込んだことです。ガンサー・シュラー氏は、「初期のジャズの演奏曲目の過半を占めるラグタイムとマーチとミンストレルの混ざり合った種類の単純ではあるが、明確な例」としています。
シュラー氏は1921年、ただしWebでは1922年となっていますが…。もしかすると録音は1921年で発売が1922年だったのかもしれません。この「サンシャイン・レーベル(Sunshine records)」はマイナーなレーベルですが、1922年の年間ヒット・チャートの22位にランクされていますので、「知る人ぞ知る」というわけではなく、当時結構多くのアメリカ人に聴かれていたことになります。音源はYoutubeで簡単に聴けますので、ご興味のある方は是非聴いてみてください。
プリーストリー著『ジャズ・レコード全歴史』によると、この年レコードの総売り上げ数が1億枚を超えたのだそうです。また先ほども触れましたが、メイミー・スミス「クレイジー・ブルース」のヒットによって開かれた女性黒人ブルース・シンガーのレコーディングが盛んにおこなわれたようです。

1922年

この年のヒット・メイカーと言えば1位にポール・ホワイトマン、2位にアル・ジョルソンの名前が見えます。目を引くのはメイミー・スミスの”Lonesome Mama blues”が27位にランク・インしています。

ニュー・オリンズ・リズム・キングス

フライアーズ・ソサイエティ・オーケストラ

ジャズに関して言えば、O.D.J.B.とよく比較されたバンド、N.O.R.K.(New Orleans Rhythm Kings:ニュー・オリンズ・リズム・キングス)が初吹込みを行っています。ジャズ・ファンになじみ深いN.O.R.K.という名称は、1923年に改称されてからのものであり、1922年はその前の名称「フライアーズ・ソサイエティ・オーケストラ(Friars Society Orchestra)」という名称で行われています。この詳細については「フライアーズ・ソサイエティ・オーケストラ 1922年」をご覧ください。
史上初のジャズ・レコードを吹き込んだことでO.D.J.B.は歴史に名を残しましたが、彼らよりはるかに上質な演奏を行っていたのは、このN.O.R.K.でした。コルネットのポール・メアーズ、トロンボーンのジョージ・ブルニーズ、クラリネットのレオン・ラポロ共にニュー・オリンズの最良の白人奏者とみなされていました。彼らは本物の即興を演奏しただけではなく、ジャズに対してO.D.J.B.とは異なった態度、つまり謙虚な気持ちを抱いていました。ラ・ロッカならば黒人音楽の遺産を否定すると思われますが、コルネットのメアーズの方は、キング・オリヴァーの響きとスタイルを模倣しようと努めたことを誇らしげに主張したのです。彼らはニュー・オリンズ経由のシカゴのサウス・サイドの音楽の最良の伝統の熱狂的な支持者で、それらを巧みに模倣した最初の音楽家たちの一員だったと言えます。

ジ・オリジナル・メンフィス・ファイヴ

ジ・オリジナル・メンフィス・ファイヴは1917年Tpのフィル・ナポレオン、Pのフランク・シニョレリによって1917年にニュー・ヨークで結成されました。彼らの初レコーディングは、1922年3月で、O.D.J.B.のニック・ラロッカが神経衰弱でレコーディングに参加できなくなったため、その代役として採用されたと言います。ガンサー・シュラー氏によれば、彼らはO.D.J.B.よりも安価で録音を請け負ったため、1922年だけでも100面分の録音を行ったそうです。
ただこのバンドはしばしば異なるバンド名でレコーディングを行ったため、大変ややこしい。<The Original Memphis Five>の他に<The Cotton Pickers>、<Ladd's Black Aces>、<Jazzbo's Carolina Serenaders>、<Bailey's Lucky Seven>、<The Southland Six>などという名前が使われたと言います。この年の録音についての詳細については「ジ・オリジナル・メンフィス・ファイヴ 1922年」をご覧ください。

ハスク・オヘア

オヘアは1921年に陸軍を退役後、N.O.R.K.等のマネジメントを行っていましたが、ついには自己のバンドを率いるようになります。こういった活動が後の「シカゴアンズ」達の活動に繋がっていくのでしょう。詳しくは「ハスク・オヘア 1922年」をご覧ください。
いろいろなバンド名に中で最終的には、<The Cotton Pickers>が残って行ったように思いますが、それはまた後の話です。

このWebサイトについてのご意見、ご感想は、メールでお送りください。
お寄せいただいたご意見等は本文にて取り上げさせていただくことがあります。予めご了承ください。