僕の作ったジャズ・ヒストリー3 … ブルース

ジャズの形成 ブルース

さて今回はオレンジの楕円の部分、ブルースとの関連を見ていきたいと思います。<ラグタイム>がジャズに吸収され現在では跡形もなくなったのに対し、<ブルース>は現在でも隆盛を極めています。
そもそも<ブルース>とは何でしょう?現代の日本人でこの言葉を聞いたことのないという人は、ほとんどいないでしょう。僕が思うに現代においては、「ブルース」とは、その「形式」を指す場合と「気分」を指す場合とがあるように思います。
まず「形式」から見ていきましょう。
バンドなどに加わり、ロックやジャズを演奏したことのある人なら誰でも経験していると思われることがあります。それまっで顔を合わせたことのない者同士でもブルースなら一緒に演奏ができるということです。なぜならそれはブルースというのは音楽的形式が定まっているので、その形式を利用すれば、その場で演奏しミュージシャン同士の交流を図る便利な手段として機能させることができるからです。恥ずかしながら僕も下手クソながら、ロック、その後にジャズのバンドに参加していたことがありますが、そのどちらでもそのような経験があるのです。
ここで改めてブルースの形式を確認すると1コーラス=12小節でキーをCとすると、[CFCC]、[FFCC]、[GFCG]という形式(ロック系とジャズでは若干コードが異なります)が決まっているので、キーを決めてテンポを決めればすぐにでも演奏を始められるのです。

「青江三奈/伊勢佐木町ブルース」

もちろんコードを単純化して書きましたが、各コードの音階は本来はブルー・ノート・スケールが用いられることが多いです。ブルー・ノートとは、本来はそう単純なものでもないのですが、3度(キーがCの場合はE)、7度(キーがCの場合はB)を♭させて演奏することが多いです。
以上はジャム・セッションなどをやる場合のブルース形式ですが、すでに楽曲として成立している曲によっては16小節が1コーラスのものやワン・コードだけというパターンの曲も存在します。しかしこのような形式が生まれ定着した時期や経緯については実は明らかになっていないのですが、それはまた後程触れます。
次に「気分」についてです。
要は「形式」を度外視し「気分」の方にのみ重点をおいて、「ブルース」と名乗る楽曲も多くみられます。日本では、ちょっと前の安室奈美恵の「19ブルース」、少し前の青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」や森進一の「港町ブルース」などが有名ですが、実は1935年にはもう既に使われているのです。それはヘレン雪子本田の歌った「スイート・ホーム・ブルース」(1935)です。そして大ヒットした淡谷のり子の「別れのブルース」は1937年の作品でした。
しかしこれは日本だけのことではなく、本国アメリカでもフィフス・ディメンションの「ウエディング・ベル・ブルース」やマーヴィン・ゲイ「インナー・シティ・ブルース」のように、黒人たちの作品にも例は見られます。
逆に「気分」ではなく「形式」に重点を置いたものはどうでしょうか?ロックやジャズのミュージシャンたちがその腕前を披露する或いは競い合う場合の素材として「ブルース形式」を選択した場合などがそれに当たると思われます。
「気分は上々、俺のブルース・ギター・テクニックを見せてやるぜ!」といううような場合でしょう。しかし3度音の♭化はマイナー・スケールに繋がり曲調に多少は憂いが含まれるものになるかもしれませんが。

「マイルス・ディヴィス/ビッチェズ・ブリュー」

「ブルース」の難しさ

「ブルース」は難しい。なぜ難しいのでしょうか?実は定義があるようでないというのもその一つの要因かもしれません。
「ハンプトン・ホースのひくブルースには他の誰にも真似のできない味があり〜」(粟村政昭著『ジャズ・レコード・ブック』)、「知性派と言われるジョン・ルイスだが彼は実はブルースを弾かせても実にうまいのである」(岩浪洋三氏)。こんな文章を読んだことのある人は多いと思います。この場合の「ブルース」は「形式」のことでしょう。
これも有名な話です。マイルス・ディヴィスが1970年に発表した『ビッチェズ・ブリュー』は、ロックのビートを取り入れ、エコー・マシンなどのエレクトリック・サウンドを大胆に使用し当時問題作と言われました。評論家たちもだいぶ当惑したようです。これに対し当のマイルスはこう言ったのです。「何を騒いでいるんだい?俺のやり方は昔のまま、何も変わっちゃいないさ。これはブルースだ。ブルースなんだよ。」しかし『ビッチェズ・ブリュー』を聴いて「これはブルースだ」と感じる人はどのくらいいるでしょうか?少なくとも僕は感じませんでした。
しばらく前にNHKで放送したニュー・オリンズを特集した番組がありました。その番組の最後の方で、太鼓などを組み合わせた自作の楽器を叩きながら歌う初老の黒人男性が登場しました。アナウンサーが「何をしているのですか?」と尋ねるとその男はこう答えます。「ブルースを歌っているんだよ。」しかしその歌が上記のブルース形式を踏まえたものでないことは明らかで、さらに翻訳された歌詞の内容を見ても「ブルー」な気分を歌っているわけでもありません。アナウンサーが「それがブルースですか?」と尋ねるとその男は笑いながら答えます。「これが俺のブルースなんだよ」
こうなるともう何でもありで、歌い手或いは演奏者がどんな音楽を演奏しようが歌おうがその演者が「ブルースだ」と言えば、ブルースということになってしまいます。果たしてそれで良いのかという気もしますが…。先に進みましょう。

ブルースの発見

W.C.ハンディ

2002年9月、アメリカ議会は翌年2003年2月1日から1年間を「ブルースの年」(Year of the blues)とすることを宣言しました。ではなぜ2003年が「ブルースの年」なのかというと、「ブルース百周年」なのだというのです。ということは100年前の1903年にブルースが誕生したのかというとそういうわけではなく、アメリカ上院議会に提出された決議案によると、クラシック音楽の教育を受け、ジェリー・ロール・モートンに嘘つき呼ばわりされた音楽家W.C.ハンディ氏がミシシッピ州の鉄道駅で初めてブルースを耳にしてから100年経つというのです。つまりブルースが誕生して100年ではなく、ブルースが発見されて100年だということらしいのです。
「ブルース発見から100年」というのはいったい何を根拠にしているのかというと、それはそのハンディ氏の自伝の記述です。まずはともかくその記述を紹介しましょう。
「1903年のある日の夜、タトワイラー(ミシシッピ州)の駅で9時間遅れの列車を待ちながらうとうとしていると、突然何者かに肩を揺すられたような感覚に襲われ、私(ハンディ氏)は驚いて目を覚ました。痩せこけた一人の黒人が、私の眠っている間に隣でギターを弾き始めたのだ。ぼろ着をまとい、靴の先から裸足がのぞいていた。その顔には、年相応の悲しみの表情が浮かんでいる。男はナイフをギターの弦に押し付けて演奏していたが、それはハワイアンのギター奏者がスチール製の棒を用いて一般化した奏法だ。その効果は決して忘れることができない。私は彼の歌にもすぐに心を揺すぶられた。
男は同じフレーズを3度繰り返して歌いながら、私がこれまで聴いたこともない奇妙な音楽をギターで奏でていた。」
このハンディ氏がこれまで聴いたことのない音楽が、いわゆる「ブルース」だったというのです。そしてハンディ氏はその音楽に打ちのめされ、ブルースのとりこになり、活動の拠点をメンフィスに移し、ブルースの採譜に努めはじめます。つまりこの1903年ハンディ氏がブルースと出会った=発見したことが、現在世界中で聴かれ演奏される「ブルース」が世に知られるきっかけとなったということです。このブルース発見のエピソードは1941年に発表されたハンディ氏の自伝に載っている逸話です。
この話は色々と示唆に富んでいます。ではまずその「ブルースを発見した」ハンディ氏とはどのような人物なのでしょうか?H.C.ハンディ氏(William Christopher Handy:1873〜1958)は、アラバマ生まれの黒人で、コルネット奏者としてミンストレル・ショウに加わり7年間巡業し、またミンストレルのバンド・リーダーとしても各地を巡業した人物です。そんなバンド・リーダーとして各地を長年にわたり巡業した人物がこの1903年までブルースを知らなかったということは、かなりの驚きではないでしょうか?それとミンストレル・ショウのバンドを運営していた氏がブルースを知らないということは、ミンストレル・ショウとブルースとは無縁だったということになります。

「ザ・メンフィス・ブルース」の楽譜

そんなハンディ氏自身はブルースについて、「ブルースは1900年代初期に虐げられた南部に住んでいた無学文盲のニグロの中から出てきたものである」と語っているそうです。なんか上からの発言ですが、ハンディ氏の話が真実とすれば、1903年には「ブルース」は存在していたことになります。そしてそこではギターを使ったブルースを演奏していたことになります。
しかしもう一つ不思議なのはなぜハンディ氏は心を揺すぶられ、打ちのめされ、そしてとりこになったのでしょうか?そこに秘密があるような気がするのです。教会という敬虔この上ない家庭に育ち、ブルースを「無学文盲のニグロの音楽」と馬鹿にしていながら、それに心を揺すぶられ、とりこになっていく。それは抗うことのできない黒人の血がそうさせるのでしょうか?ブルースとはそういうものだということなのでしょう。
そしてハンディ氏はブルースの採譜などを行うようになるのですが、1912年自作の「メンフィス・ブルース(The Memphis blues)」をシート・ミュージックとして発売します。ここにもう一つ重要なこととして、ハンディ氏のこの曲は大ヒットとなるのですが、この曲に対して黒人コミュニティ向けの定期刊行物に黒人ヴォードヴィル劇場のプロデューサーが1914年に評価を載せています。
「メンフィスやその周辺以外でハンディ氏を個人的に知る人は多くないかもしれないが、『メンフィス・ブルース』の独特のリズムとマイナー調のメロディーに心を揺すぶられ、興奮しないものはほとんどいないだろう。(中略)ハンディ氏はこの曲を作曲したことで多くの人に非難された。この曲は音楽として出来が悪く、ハンディ氏の曲の中でも標準を下回るものだという。確かにこの曲は独特である。ひとまとまりが16小節ではなく12小節で構成されているのだ。」
この記述は現時点(2011年4月)で確認できる12小節というブルース形式について言及した最初の記事だといいます。この執筆者は黒人音楽のプロです。そのプロが12小節1コーラスという構成は通常ではないと述べているのです。すなわち1914年の時点では黒人コミュニティの間でも12小節というのは浸透していなかったことになります。
さて、このように1903年に発見されたブルースはどのように生まれてきたのでしょうか?
南部の再建時代が混乱した終末を迎え、北部の「占領部隊」が南部の政治的圧力のせいで撤退すると、黒人たちの自由への歩みは、白人市民たちの暴力を用いた強硬手段によって阻止され、形を変えた黒人再呪縛の時代が復活します。人種差別の過酷な現実が痛感されるようになって、フィールド・ハラーや労働歌が復活しのです。そして次の数十年の間に粗野なブルースの形式が、まだ大半は無伴奏のままに、不規則な、自由な即興パターンと結びついて発達します。この段階でのブルースは歌そのものというよりは「歌われる語り」で、世紀の変わる時期に、南部の工業化によって引き起こされた人工移動の最中に都市へ移入されたが、この時期まではブルースという単語が、明白な名詞としてであれ、歌の題名としてであれ、登場した記録が全くありません。これ以前の黒人音楽については、「そもそも9 そもそも黒人史」「そもそも10 ミンストレル・ショウ」をご覧ください。

ブルースの起源

「ガンサー・シュラー/初期のジャズ」日本語版

W.C.ハンディ氏が「1900年代初期に出てきた」と記述しているのに対し、『初めてのアメリカ音楽史』でバーダマン氏は、「ブルースが成立したのは19世紀後半、ニグロ・スピリチュアルスが奴隷制の時代に生まれたのに対し、奴隷解放後に生まれた音楽だ」と述べています。丸山繁雄氏は『ジャズマンの時代』で、「ブルースは、労働歌であるフィールド・ハラーと黒人生活に欠かせない素朴な口頭伝承物語、「バラッズ」(Ballads)を基に生まれたと言われる。ブルースのコール・アンド・レスポンスの形式はハラーから受け継いだ。そして最終的に落ち着く三行詩、12小節の繰り返しはバラッズから受け継いだものである。」と述べています。
しかしもっと深く、アフリカの起源にまでさかのぼる研究もなされています。説はいろいろありますが、結論をまず先に言ってしまえば「はっきりとは分かっていない」ということになりそうです。大元の起源はアフリカにあり、西アフリカ沿岸部から連れてこられた黒人奴隷たちが持ち込んだといわれてきましたが、さらにそのルーツについては極めて多様な説があるのです。そのルーツは現在のセネガル、ガンビア、ギニアからガーナ、カメルーンへと連なるギニア湾沿岸部であるという説、そこに内陸のマリ、ナイジェリア北部も加える研究者もいます。イギリスのブルース研究家ポール・オリヴァー氏は、ギニア湾北岸地帯のうちの海岸よりの熱帯雨林ではなく、その奥の内陸部、すなわちサヴァンナにブルースとの近似性を見つけることができると述べ、また他の研究者はグリーオ(Griot:アフリカの口承詩人)達の音楽にブルースの源流があるといい、ムーア人占領下のスペイン(8世紀から15世紀)にブルーズと類似性の高い音楽があるという説を唱えている研究者もいます。
ガンサー・シュラー氏は『初期のジャズ』で「ブルースの起源を表す正確な証拠はほとんど完璧に消滅した」と述べています。この「消滅した」ことを如実に表すのが次のエピソードだと思います。
左は文芸春秋社が発行している月刊誌『文学界』です。この2020年11月号は特集が「JAZZ×文学」ということで、当時ジャズ・ファンの間で話題になりました。特に話題になったのが、スタン・ゲッツの自伝を翻訳・刊行したばかりの村上春樹氏のインタヴュー記事でしたが、僕は特集の一つの記事「山下洋輔氏と菊地成孔氏」の対談に出てくるエピソードが気になりました。

「文学界」2020年11月号

ある時山下氏が言語学者であり文化人類学者でもある西江雅之氏と東京のジャズ喫茶「ピット・イン」で話しているとアート・ブレイキーの「アフリカン・ビート」のレコードがかかったそうです。すると西江氏はアフリカの地図のバァーっと描いて、「今のフレーズはここ、今のリズムはここのリズム。(こんな風にいろいろ混ざっているということは)これを演っている人はアフリカ人ではない」と指摘したそうです。
僕が何に気付いたかというと、アフリカで黒人達を強引に捕まえて新大陸に送り込んだ奴隷商人、それを新大陸でセリにかけて売り払った奴隷商人たちは、「この黒人は○○族、こちらは△△族、あちらは□□族。なるべく同じ族でまとめないと彼らは話もできず可哀想だ」などとは絶対に考えなかったであろうということです。アフリカから送り出された奴隷たちはいったん西インド諸島にプールされ、そこからアメリカやブラジルに運ばれました。西インド諸島にプールされた時点で各種族が混じあい、プランターに売り飛ばされる時点でも各人出身族の同異など気にされることはなかったでしょう。この時点で彼らの種族としての伝統が純粋な形で残るということは難しかったのではないでしょうか
つまり17、18世紀の間に、南部の港に運ばれたたくさんの黒人たちは、その所属していた部族集団から引き離され、部族は解体され、個々の奴隷たちがさまざまな大農園へ送り込まれて行ったのです。
そして黒人たちは新しい環境の下で耳にした音楽、賛美歌の断片、作業の監督たちが口笛で吹いた歌の一部、踊りの際に聞いた音楽のかけらなどを取り入れ始めるのです。そして南部全体の黒人たちは、それぞれ個人的なやり方で白人の音楽の中に、自己自身の本能的な特徴を注入していったのです。これこそ正に黒人たちのお家芸です。しかし黒人は拘束された社会的立場におかれていたので、大規模なコミュニケーションの手段は限られていました。例えばテキサス州の奴隷は、ジョージア州の同胞とはほとんど全く接触を持つことが出来なかったのです。

アフリカ音楽の残存…和声とブルーノート

「ロバート・パーマー/ディープ・ブルース」日本語版

では、ブルースやフィールド・ハラーなどにアフリカの音楽の影響はどのくらい見いだせるのでしょうか?
イギリスのアフリカ音楽研究の権威、A.M.ジョーンズ氏はその著『アフリカ音楽の研究(Studies in African music)』は、「アフリカの歌唱は斉唱か2部唱である」とし、「2部唱の場合並行音程で歌われる。アフリカの和声は、並行4度、並行5度、並行8度、並行3度のいずれかで歌われるが、これは西欧全音階でいう4度というわけではない、低い方の声部が音程を低めにとったりする。高めたり下げたりはケースバイケースで西欧人にはそのルールが分かりにくい。そして4度でとったり、5度でとったりというのは部族によって違う」という研究結果を明らかにしている。
ガンサー・シュラー氏は、興味深い次のような逸話を紹介しています。19世紀の女優であり音楽家でもあるフランセス・ケンブル(Frances Kemble)は、1839年にジョージアの大農園へ旅をしたといいます。そしてその時につけていた日誌において、「船の漕ぎ手たちが、オールの動きを声の響きに合わせるのです」と記載し、さらに「それらの歌はこれまで聞いたこともないもので、呼びかけと応答のパターンに歌唱を付けた見事なテンポと真のアクセントを持っていました」と記しているそうです。さらにケンブルはこれらの「舟の漕ぎ手の奴隷たちはすべて斉唱で歌った」と記しているそうです。またそれからおよそ30年後の1867年に刊行された『合衆国の奴隷歌謡(Slave songs of the United States)』の編集チームの一人チャールズ・ウェアー(Charles Ware)氏は黒人の歌謡に「我々の理解するような、パートに分かれての歌唱は全く存在しない」と記載しているそうです。
つまり1839年時点では、和声は黒人奴隷たちに馴染んでいなかったことが解ります。黒人と言えばゴスペルのコーラス隊や「ドゥ・ワップ」に代表されるように、重厚なコーラス・ワークを思い浮かべますが、そもそもそれはアフリカ由来ではないということです。
また1867年に黒人奴隷たちの歌を記譜しようとしたトーマス・フェナー氏は、「西欧音階では正確に再現する音楽記号を持ち合わせていない」とし、その場合「幾つかの曲でとりあえず可能な限り近い♭7度で記譜しておいた」という報告をしているそうです。シュラー氏はこれは明らかに「ブルーノート」だと推測しています。
ロバート・パーマー著『ディープ・ブルース』では、1901年6月にハーヴァード大学ピーバディ博物館のチャールズ・ピーバディがコーホマ群のインディアンの古墳の発掘調査の際に雇った黒人労働者達が、古墳までの道中、そして発掘作業中ずっとコールアンドレスポンス形式で歌い続けていること、そしてその歌に興味を持ち、少しばかり音楽教育を受けていたピーバディが記譜を試みますが、「音程が風変わりで、リズムが奇妙なため音符に写すのが困難だった」と1903年に「ジャーナル・オブ・アメリカン・フォーク=ロア」に記事を載せているのが、南部デルタ地帯の黒人音楽に関する最も古い記述であると述べています。
また先ほどのA.M.ジョーンズ氏などの研究によって、「ブルーノート」音階についても、アフリカでは存在しないことが明らかになっています。
つまりシュラー氏によると、入手可能なあらゆる証拠から確実に言えることは、南北戦争の時期までは、すべての表現は和声をつけず、独唱か斉唱かのいずれかで歌われ、大部分は無伴奏で歌われたのです。それが最終的に完成されたブルースは、形式が和声によって規定されことになりました。その段階に至るまで、ブルースは詩句も和声のパターンも固定しておらず、したがって、その固有の形式は表現者の自由裁量に任されていたのです。ブルースは、単なる和音、単なる旋律ではなく少数者が自分の悩みを表現する、大事な表現様式だったのです。 つまりブルースはアフリカ伝統とヨーロッパが出会うことで生まれてきた音楽ということです。さらにエドワード・リー氏はアングロ・アメリカ系の讃美歌が、アフリカの単旋律的、複旋律的歌唱と融合して黒人霊歌並びにその世俗版のブルースとなったと記載しています。さらにリー氏は、ミンストレル・ショウの発展が黒人の大衆芸能の領域でのはけ口を提供したとし、その過程で黒人は西欧からの多様な通俗音楽の形式―ジグ、行進曲、ポルカ、カドリールその他―を吸収し、とどのつまりはピアノ面での子孫であるラグタイムを生み出したとしています。またブルースのT−W−X―T(トニック、サブドミナント、ドミナント、トニック)という和声進行は、どのアフリカのどの部族の伝統にもぶつかり合うことがないというよりも「ぶつかり合わない」形式に絞り込まれてこの形になったというのが正しいのではないかとしています。
さらに付け加えて、丸山繁雄氏は『ジャズマンの時代』において、「初期のブルースはすでに純粋なアメリカ語の歌詞を志向していた。黒人以外のアメリカ人にも歌を理解してもらおうという意図がそこにはあった。「ブルースは、ほぼ完全なアメリカ語を使った歌唱だった。元奴隷がこの言語を何とかものにして初めて、ブルースはシャウトやハラーとは違うはっきりとした形を取り始めた」というリロイ・ジョーンズ氏の言葉を紹介しています。

伴奏楽器 ギターの登場

「ブルースの発見」でご紹介したW.C.ハンディ氏の体験では、1903年にギターを持った黒人が登場します。ぼろをまとってギターを抱えた黒人‐如何にもブルース・マンという感じですが、さてブルースの伴奏楽器としてなくてはならないこの「ギター」はいつから使われるようになったのでしょうか?シュラー氏は「おそらく和声の付いた最初の伴奏は、バンジョーのような手製の粗末な楽器、瓢箪の上にアライグマの乾いた革を張り、弦の材料には針金や馬の毛などで作られたものが利用されたのだろう。こうしたギターによる伴奏は、南北戦争が終わって大分経ってからである」としています。ギターを使いたいが容易に手に入らないので粗末な楽器を手製で作ったのだろうと推測しています。ジェイムズ・バーだマン氏も『初めてのアメリカ音楽史』で、「初期(1900年ころ)はギターはそう簡単に手に入らず、自作だった。ディドリー・ボウと呼ばれる針金の弦が1本だけついた単純な楽器だけで演奏していた。ブルースをロックン・ロールにつなげたボ・ディドリーの芸名はそこからとっている。」と記載しています。さらに「初めはディドリー・ボウだったかもしれないが、本格的にギターを志す者は通信販売でギターを手に入れるようになった。1908年シアーズ・ローバックのカタログで一番低価格のギターは1ドル89セントだった」そうです。でも一番安い楽器はハーモニカで、マディ・ウォーターズも最初はハーモニカから演奏を始めたそうです。
ではなぜ黒人たちはギターを知っていたのでしょうか?それは多くの奴隷たちが、アフリカから合衆国への旅路の途中、カリブ海の停泊地で目撃したのだろうとし、アーネスト・ボーンマンの”Creole echoes”の記述を紹介しています。曰く「アフリカから合衆国への旅路の途中、カリブ海の停泊地での停泊はしばしば長引くこともあり、場合によっては数年に及ぶこともあった」というのです。そしてそれらカリブ海の地は正に「ギター」の盛んなスペインの領土だったのです。そして19世紀の終わり近くに南部にギターが入り込んだのはメキシコから入ったという説が有力です。ギターが入ることでハーモニーが生まれることにもなりました。
もう一つ気になるのが、ハンディ氏の「男はナイフをギターの弦に押し付けて演奏していた」です。現在では「ボトルネック奏法」として知られるものですが、既にこの頃から行われていたということになります。ハンディ氏は、「ハワイアンのギター奏者がスチール製の棒を用いて一般化した奏法」と述べています。アメリカは1898年米西戦争の勝利により、ハワイを併合します。この新領土獲得にアメリカ中が湧き、ハワイの文物を紹介するフェアが人気を博した時にアメリカ本国に紹介されたという。しかし『ディープ・ブルース』によればスチール製の棒を用いたスライド・ギターはハワイ生まれではないといいます。スライド・ギターは1893〜95年の間に学生のジョセフ・ケククによってハワイに紹介されたものという。ハワイからアメリカ本土に広まったのはフランク・フェレラが普及させた1900年以降だったが、その時にはすでにミシシッピの黒人たちは、瓶から斬り落とした首の部分でスライド・ギターを奏していたという。

ブルースの形成

「ブラザー・ジョン・セラーズ/ブルースとフォークを歌う」

ではブルースはどのように形作られてきたのでしょうか?ガンサー・シュラー氏は『初期のジャズ』で「12小節や8小節のブルースの古典的なまでの完成度、和声進行と関連する3部構成がいつ頃定まったのかについては全く分かっていない。和声的基盤となったT−W−X(トニック、サブドミナント、ドミナント)の和声は、アフリカ由来でないことは明らかだが、いつそれを採用したのか?」と疑問を呈しています。一方『アメリカ音楽史』で大和田俊之氏は、上記の1914年の「メンフィス・ブルース」への評論、「16小節ではなく12小節で構成されていることを変わっている」と捉えていることからこの時代は、16節が普通だったのだろうとし、「この16小節ひとまとまりという形式は、南部白人のマウンテン・ソングなどにみられるものであり、これをブルースの一つの原型としてとらえる研究書は多い。脚韻の使用や四行詩、弱強五歩格(?)といった特徴は中世イギリスのバラッド(物語詩)にまでさかのぼる形式であり、それがアパラチア山脈沿いの移民により歌い継がれ、ブルース誕生に影響を及ぼした」という説を紹介しています。大和田氏だけではなく村井康司氏もその著『あなたの聴き方を変えるジャズ史』で、アパラチア地方に残るスコットランド、アイルランドの古い旋法がブルースの形成にあたえた影響に言及しています。そして「こうした黒人と白人の相互交渉は、フォーク・ソング「ジョン・ヘンリー(John Henry)」について考察した歴史学者スコット・ネルソンの著書に詳述されているとのべています。それによると、「この曲はブルースではないが、黒人と白人が音楽において密接にかかわりあっていたことを示す例であり、ブルースが成立する時点で白人の音楽文化が密接にかかわっていたことは重要である」と述べています。ということでフォーク・ソング「ジョン・ヘンリー」を聴いてみましょう。
僕はこれらの本を読むまでこの「ジョン・ヘンリー」という曲を知りませんでした。「日本でもよく知られた」とは言えませんよね?僕だけ?ともかく聴いた感じではいわゆる「フォーク・ソング」で「トム・ドゥーリ―(Tom Dooley)」などに非常に近いものを感じます。
さて、ではブルースはどのようにして広まっていったのでしょうか?色々な研究者の一致した見方は、テネシー州のメンフィスからミシシッピ州ヴィックスヴィル辺りの「デルタ」地帯でブルースは生まれ、カントリー・ブルース、デルタ・ブルースなどと呼ばれながら、南部諸州を巡り歩く旅芸人たちによって育まれていったということです。それはミンストレル・ショウとは違い、近年まで黒人の聴衆向けに、黒人だけによって演奏されていたのです。少し時代は下りますが、南部のプランテーションを回って生計を立てるブルース・マンたちの様子については先のロバート・パーマー氏の『ディープ・ブルース』に描かれています。
このように南部の綿花地帯で生まれたブルース(デルタ・ブルース)は南部諸州を巡り歩く旅芸人たちによって育まれ、南部の都会メンフィスへ出てメンフィス・ブルースとなり、30年代セントルイス、シカゴ、デトロイトといった北部都市に広がります(シティ・ブルース)。戦後になるとアンプリファイド(電気によって音が増幅され)され、シカゴのブルースが注目されるようになります(シカゴ・ブルース)。また北部以外中西部や西海岸など広範囲にわたる都市でブルースが盛んになり(アーバン・ブルース)、B.B.キングなどより洗練されたブルースも登場します(モダン・ブルース)。
しかしもう一つブルースの発展に大きく貢献したのが「ジャグ・バンド」(Jug band)です。ジャグ・バンドはギター、ハーモニカ、バンジョー、ジャグ(ビン)、手製のフィドル、ウォッシュボード(ブリキ製の洗濯板)、スプーンなど身近なものを楽器の代用として使った小編成のバンドで20年代後半全盛期を迎えます。50年代イギリスに飛び火して「スキッフル」として大流行しますが、それは後の話です。

ブルースの音源

前回の「ジャズの歴史2…ラグタイム」では、スコット・ジョプリン自身によるピアノ・ロールがありましたし、他のピアニストが演奏したジョプリンの曲集などを取り上げました。しかし今回ご紹介する音源はありません。ブラザー・ジョン・セラーズという歌手が歌う「ジョン・ヘンリー」を含むアルバムはご紹介しましたが、これは1950年代の録音であくまで「ジョン・ヘンリー」という楽曲を聴くためでした。何故音源がないのかといえば、理由は簡単でこの時期20世紀の初めには、レコードなどはなかったということです。
さてブルースの最初のレコードといえば、メイミー・スミスが1920年に吹き込んだ「クレイジー・ブルース」であることは有名です。そして男性ブルース・シンガーによる最初のレコードは1926年まで下ります。
しかし大和田俊之氏は『アメリカ音楽史』で次のようなことを指摘しています。
「曲名に「ブルース」という語が使用されたのは、メイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が初めてではない。「ブルース」という言葉はこの以前にシート・ミュージックを通して広く流通していた。
1908年アントニオ・マッジオ作曲の「アイ・ガット・ザ・ブルース」というピアノ曲が発売され、翌1909年にはロバート・ホフマン作曲の「アイム・アラバマ・バウンド」(副題:ジ・アラバマ・ブルース)が出版されている。どちらもニューオリンズを拠点とする音楽出版社によるもので、二人の作曲家はともに白人である。さらに「アイム・アラバマ・バウンド」(副題:ジ・アラバマ・ブルース)については1909年の段階でレコーディングがされているのである。
また1912年では、現時点で判明しているものだけでも4曲が発売されている。
ハンディの『メンフィス・ブルース』、H・フランクリン・”ベイビー”・シールズ「ベイビー・シールズ・ブルース」、ハート・ワンド「ダラス・ブルース」、ルロイ・ホワイト「ザ・ニグロ・ブルース」である。このうち後者の2曲は白人の作曲であり、1908〜1912年にかけて「ブルース」が音楽用語として定着した様子がうかがえます。
レコーディングについても、初めて「ブルース」を録音したのはメイミー・スミスではない。インストルメンタルとしては「アイム・アラバマ・バウンド」やヴィクター・ミリタリー・バンドとプリンス・バンドによる『メンフィス・ブルース』(1914)が存在するし、ヴォーカル入りヴァージョンとしては、白人ヴォードヴィル・シンガー、モートン・ハーヴェィが歌う『メンフィス・ブルース』が1915年に発売されているのである。
ではなぜ長きにわたってメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」が「最初のブルース録音」とされてきたのか?それはメイミー・スミスが黒人だからで、シート・ミュージックの「ブルース」はせいぜいタイトルに「ブルース」という言葉が含まれているのとブルー・ノートとシンコペーションが使用されているだけであるという。
そこで疑問がわく。クラシック音楽の素養がある黒人作曲家が作曲した『メンフィス・ブルース』を白人ヴォードヴィルシンガーが歌ったものと、中西部出身の黒人が歌った「クレイジー・ブルース」では一体どちらがブルースなのであろう?ブルースに近いのであろう?」と述べています。
しかし何年の録音かは記載がないので分かりませんが、Youtubeでハンディ氏の””Memphis bluesを聴くと「どブルース」ではないが、ブルースの香りがします。また大和田氏は取り上げていませんが、初めてジャズ・レコードを録音したO.D.J.B.(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」のその初録音は「ライヴリー・ステイブル・ブルース(Livery stable blues)」でした。実は1910〜20年代「ブルース」は最も新しい音楽だったということが言えるでしょう。そのため猫も杓子も「ブルース」状態だったのかもしれません。さらにブルースの難しさの最後で触れたように、演者自身が「ブルースといえばブルース」という図式が成り立てば、白人が作ろうが歌おうが「ブルースといえばブルース」が成り立ってしまいますので、そもそも問題ないのかもしれません。ともかく1920年のメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」は、初めてのジャズ・レコードよりも後の録音ですので、もう少し後に取り上げたいと思います。

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