1929年10月、高騰していた株式市場が暴落し、アメリカ経済は深刻な景気後退に見舞われ、生産、雇用、マネーが共に大幅に収縮していきます。その結果、米国の融資に大きく依存していた不安定なヨーロッパ諸国の経済も悪化し、その後の3年間に米国の景気後退として始まったものが、全世界的な恐慌へと広がっていくことになります。こうして世界規模の「大恐慌」へと陥っていきます。アメリカでは、商社や工場が閉鎖し、銀行は預金者の貯蓄を失って破綻し、農家の収入は約50%減少し、1932年11月までには、米国の労働者のほぼ5人に1人が失業していました。右の写真は職を求めて並ぶニューヨークの失業者の列です。
1929年3月4日大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている……」と語り、繁栄の謳歌した共和党のハーバート・フーヴァーは、就任のわずか8カ月後に株式市場が大暴落するという不運に見舞われたことになります。フーバー大統領も懸命に不況と闘い、事業の組織化や公共事業日程の前倒し、企業や金融機関を援助するための再建金融公社の設立、そして議会の反対を押し切って住宅ローンを保証する機関の設置を実行しますが、そうした努力は直ぐに効果を発揮するわけではありません。1930年はそうした社会不安が深刻化していく年だったといえるでしょう。
しかしそれでもナイト・クラブやボールルームではダンス・ミュージックが演奏され、数は減りつつありましたがレコーディングも行われていたのです。
1930年のヒット・チャートトップ10を見てみましょう。
順位 | アーティスト | 曲名 |
1 | ベン・セルヴァン(Ben Selvin) | ハッピー・デイズ・アー・ヒア・アゲイン(Happy days are here again) |
2 | ハリー・リッチマン(Harry Richman) | プッティン・オン・ザ・リッツ(Puttin' on the Ritz) |
3 | ルース・エッチング(Ruth Etting) | テン・センツ・ア・ダンス(Ten cents a dance) |
4 | ドン・アズピアズ・アンド・ヒズ・ハバナ・カジノ・オーケストラ(Don Azpiazu & his Havana Casino orchestra) | 南京豆売り(The peanuts vendor) |
5 | ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman) | 身も心も(Body and soul) |
6 | デューク・エリントン(Duke Ellington) | スリー・リトル・ワーズ(Three little words) |
7 | ルディ・ヴァレー・アンド・ヒズ・コネチカット・ヤンキーズ(Rudy Vallee & Connecticut Yankees) | スタイン・ソング(Stein song) |
8 | テド・ルイス・アンド・ヒズ・オーケストラ(Ted Lewis and his orchestra) | 明るい表通りで(On the sunny side of the street) |
9 | ロイ・イングラム(Roy Ingraham) | チャント・オブ・ザ・ジャングル(Chant of the jungle) |
10 | ナット・シルクレット(Nat Shilkret) | ダンシング・ウィズ・ティアーズ・イン・マイ・アイズ(Dancing with tears in my eyes) |
ゴスペル(Gospel)は、本来は新約聖書における四福音書(マタイ、ヨハネ、ルカ、マルコ)の総称です。新約聖書の「マタイ伝」はは英語では”Gospel of Matthew”といいます。しかし現在音楽関連で「ゴスペル」といえば、1920年代にシカゴのニグロ・バプティスト派教会から起こった黒人独自の讃美歌を指すのが普通です。
「ゴスペル」について観ていく前に少しアメリカの黒人たちにおけるキリスト教の普及について振り返ってみましょう。南北戦争の終結によって奴隷だった南部の黒人たちが解放されます。そのことによって奴隷時代の「見えない教会」(Invisible churach)が次第に「見える教会」(Visible church)になっていきます。この辺りのことは拙HP「そもそもモール アメリカの黒人」をご覧ください。
ジェイムズ・バーダマン氏と里中哲彦氏共著『はじめてのアメリカ音楽史』によれば、南部の解放奴隷の黒人たちは、バプティスト(Baptist)派かメソジスト(Methodist)派を選びました。どちらもプロテスタントの教派ですが、それはこの2つの教派は早くから奴隷制に反対を表明していたからに他なりません。南北戦争の後のリコンストラクション(南部の再建)の間に黒人たちはかつては秘密だった集会を公然と組織し、何千もの独立した教会を形成していきました。里中氏は、そしてその教会では、「礼拝の時、黒人牧師はゆっくりと準備してきた説教原稿を読み上げます。原稿を読む目が会衆の反応をうかがうようになると、口調は徐々に速くなって、言葉は即興的になる。すると感情が高まってきた会衆は立ち上がり、牧師の言葉を繰り返す。このようなコール&レスポンスが始まると、いつの間にかオルガンの音が耳に届く。語りは熱を帯び、やがて神をたたえる歌になっていく。」これがゴスペル・ミュージックになっていくのです。
ゴスペルがアメリカ中で芽を吹くと、白人だけではなく、黒人の一部の牧師からもゴスペルに対する批判の声が上がりました。手拍子をしたり足を踏み鳴らすことが品位に欠けるというのです。しかし胸に迫るものがあったら体中全体で表現するのは当たり前だというゴスペル・シンガーたちの声が、そんな批判をかき消してしまったと里中氏は述べています。事実全国バプテスト大会は1930年の会議で初めてこの音楽を公に支持したと言われているのです。
先に取り上げた「黒人霊歌」は現世の苦しみに耐え、来世に期待をかける「静」の歌唱法に対して、「ゴスペル」は現世での解放を歌い、会衆者が体の動きとともに応えるという「動」の形式なのも特徴です。僕はアフリカの「歌と踊り」の文化とキリスト教が結びついた独特の文化だと思います。また大きな特徴の一つとして、「黒人霊歌」が長年歌い継がれてきたのに対して、大半は黒人音楽家によって作詞作曲されています。さらに「黒人霊歌」がアカペラ(無伴奏)なのに対し、「ゴスペル」にはたいてい楽器の伴奏があり、シンコペーションと打楽器的なリズムを持っています。「ゴスペル」は3度と7度が半音下がるという点においては「ブルース」と同じですが、「黒人霊歌」にはそれがありません。
ゴスペル・ミュージックの作者は教会に属する聖職者、オルガン奏者、歌手などで、シカゴのピルグリム・バプティスト教会のオルガニスト、トーマス・A・ドーシー(Thomas Andrew Dorsey:1899〜1993 写真左)はじめロバータ・マーチン(Roberta Martin:1907〜1969)、セオドラ・フライ(Theodore Frye:1899〜1963)、クララ・ウォード(Clara Ward:1924〜1973)が有名です。特にトーマス・A・ドーシーは、「ゴスペル音楽の父」呼ばれ、生涯1000曲(400曲という記述もある)にも上る作曲を行いました。ドーシーはもともとはジョージア州生まれのブルース・マンで、「ジョージア・トム」という別名でタンパ・レッド(Tampa red:1903〜1981)とコンビを組み、かなり猥褻な歌も歌っていたようですが、「宗教的目覚め」を経験し、ゴスペル・ミュージックに全力を傾けることを決心したといいます。
ドーシーはシカゴのピルグリム・バプテスト教会で50年間音楽監督を務める一方、1930年に音楽の出版社を設立、次いで1932年「ゴスペル合唱団とコーラスの全国協議会」(National Convention of Gospel Choirs and Choruses :NCGCCと略)を組織し、ゴスペル・ミュージシャンや歌手の育成、訓練する組織を共同設立しました。こうした活動からサリー・マーティン(Sallie Martin:1895〜1988)、マへリア・ジャクソン(Mahalia Jackson:1911〜1972)、ロバータ・マーティン(前出)と言ったミュージシャンが輩出します。
中でもっとも重要なのはマへリア・ジャクソン(Mahalia Jackson:写真右)です。ジャクソンは「ゴスペルの女王」と呼ばれ、ドーシーとタッグを組みドーシーの作った歌を世に広めました。ジャクソンは、ブルースは絶望の歌であり、ゴスペルは希望の歌と語り、ブルースを奏でる退廃的なナイト・クラブには生涯出演しなかったことは有名です。また元々は教会で歌われるものだったゴスペルは、録音されて発売されるまでに時間がかかりました。「ゴスペルの女王」マへリア・ジャクソンも初めてのレコード吹込みは1937年になってからのことです。
ゴスペルは、第二次世界大戦を境に、ニューヨーク、フィラデルフィア、ロサンゼルスなど大移動(南部から北部への黒人アメリカ人の移住)に影響を受けた都市で現れ始めます。そしてロバータ・マーティン、クララ・ウォード、ジェームズ・クリーブランド(James Cleaveland:1931〜1991)、コーラス・グループとしてピルグリム・トラベラーズ(Pilgrim Travelers)、ソウル・スターラーズ(Soul Stirrers)などが人気を獲得します。
1950年代を過ぎると、多くのゴスペル・アーティストがポップ・ミュージックに進出し始めます。リトル・リチャード(Little Richard:1932〜2020)、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin:1942〜2018)、サム・クック(Sam Cooke:1931〜1964)などのスター達は皆教会のゴスペル合唱団の出身で、ソウル、R&B、ロック・アンド・ロール音楽の基礎を築いていきます。
では本題の1930年のジャズ界の動きを見ていきましょう。この年辺りから少しずつ恐慌の影響が出始め、録音数は減少しているように感じる。
いつでも厳しいガンサー・シュラー氏は、「1928、29年に吹き込んだ“West end blues”、“Muggles”のようなレコードは、ルイ・アームストロングの成熟した力を充分に表現したもので、これを越えてさらに成長することは、天才の彼ですらかなわぬ事であったろう。ルイがこうした商業的な制約によって全面的に屈服されなかったことが彼の偉大さを測る尺度である。アームストロングの天才の復元力はとてつもないもので、60歳を過ぎても演奏と歌唱力は技術的に損なわれなかった。長年の間、派手なスタンド・プレイをやり、大げさな演技をして道化役も務める芸人生活を送りながらも、彼の芸術は壊されなかった」と。
1930年は、大恐慌の影響で録音が激減したと言われますが、ルイの録音も減っているようには見えません。1929年ルイはキャロル・ディッカーソンを音楽監督して、自身がリーダーとなりニューヨークに進出、“コニーズ・イン”などに出演するとともに、翌30年初めまでオール黒人キャストによるレヴュー“ホット・チョコレート”に出演しました。その直後ルイ・ラッセル楽団のゲストとしてワシントンD.C.に向かい、帰って来てからも自分のバンドやザ・ココナッツ・グローブ・オーケストラに加わって演奏するなどしています。さらに30年にはシカゴに戻ったり、初めてカリフォルニアに行き8か月間に渡り滞在しました。
カリフォルニアでは、フランク・セバスチャンの経営する“ニュー・コットン・クラブ”に7月からソロイストとして出演し、当時このクラブに専属出演していたレオン・エルキンスのバンド(30年秋からレス・ハイトが率いる)と共演しています。そしてそこにはローレンス・ブラウンやライオネル・ハンプトンが在団していました。1930年のルイのレコーディングを見ていくと、5月まではニューヨークで行われ、7月からはカリフォルニアのロスアンゼルスで行われているのです。詳しくは「ルイ・アームストロング 1930年」をご覧ください。
まずは老舗のフレッチャー・ヘンダーソン楽団。この年も前年からの気力減退と大恐慌の影響でレコーディングの機会が減ったからか「ア・スタディ・イン・フラストレイション」にこの年の録音は3曲しか収録されていません。しかしその3曲は実に素晴らしい出来栄えを示しています。厳しい評論を行うかのガンサー・シュラー氏さえも「復活の機運を感じさせる」と述べているほどです。ではその復活の機縁となったののは何でしょうか?それはアルト・サックス奏者でアレンジも担当するベニー・カーター(写真右)です。
シュラー氏は、カーターの1929年のアレンジについては酷評していましたが、「長い(?)試行錯誤の過程を経て、セクションをスイングさせる解決策をとうとう探り当てたことは明らかである」と述べ、フ例を挙げてその手法を解析しています。僕には楽理の難しいことはよくわかりませんが、この3曲が実によくスイングし、他楽団に先駆けてスイング時代に突入したと思わせるには十分な魅力的な演奏です。ただ惜しむらくはその素晴らしい録音が3曲しか収録されていないことですが、翌1931年へ大きな期待を抱かせてくれるものです。詳しくは「ヘンダーソン 1930年」をご覧ください。
1930年は、世界大恐慌の影響が深刻化しジャズのレコーディングは激減すると言われますが、エリントンに関する限り全くその兆候は見られません。驚くほどの録音数です。
この年の出来事として柴田浩一氏はその著『デューク・エリントン』で、フランスの俳優で歌手のモーリス・シュバリエと共演したことを挙げていますが、その後の影響等を考えるとそれほど重要な出来事とは思えません。
それはともかくシュバリエとの共演の後ハリウッドに向かい、2度目の映画、『チェック・アンド・ダブル・チェック(Check and double check)』(77分)への出演を果たします。しかし第1作1929年の”Black and tan”では、エリントンは主役でしたが、こちらでは白人上流階級のパーティーで演奏する約2分間の出演です。しかしこの映画では楽曲を提供し、演奏するという音楽担当的な意味合いが強かったように思えます。
4月11日の録音ではこの年に流行ったアコーディオン奏者(“ジョー”・コーネル・スメルサー)を加えての録音を行っています。また僕が感じるこの年の録音の特徴は、白人歌手との共演が多いということです。マネージャーのアーヴィング・ミルズをはじめフランク・マーヴィン、ディック・ロバートソン、ビング・クロスビーがメンバーの一員であるザ・リズム・ボーイズ、シド・ギャリー、スミス・バリューといった歌手の名前が見られます。ベニー・ペインも歌手ですが彼は黒人です。不況が深刻化する中マネージャーが取ってきた仕事をビッグ・バンドのリーダーは断ることができなかったとは思いますが、デューク自身は白人歌手の歌伴をすることにどんな思いを抱いていたのでしょう。
この年に初録音された不朽の名作としては、「ムード・インディゴ」(Mood indigo)がありました。その他詳しくは「デューク・エリントン 1930年」をご覧ください。
モートンのレコード・ボックスの解説も、1929年10月勃発した大恐慌により人々はジャズを楽しむどころではなくなっていたと記し、モートンのバンドも行き詰まりの状態に陥り、メンバーも一人、二人と辞めていくようになったとしています。そんな中で、モートンの派手な生活ぶりや化粧品の事業に手を出し失敗したこともあって、モートンは破産状態に陥ってしまったといいます。しかしヴィクターとは契約があり彼の録音は、この年1930年10月までは続けられたといいます。この時代はどうもクラブなどで毎日のように演奏するバンドとレコーディングの時だけ参集するレコーディング・バンドとは異なる場合も多かったように感じます。
3月19、20日に行われた最初の録音では、モートンらしいバンドとしてのサウンド追求というよりはメンバー各自のソロを重視した演奏スタイルになっており、スイング・イーラ到来を感じさせるものです。デューク・エリントンの楽団を退団したババー・マイレイをはじめとする一流の奏者の起用が功を奏している。
またこの年はユーモア・ソングの録音に参加したり(写真右収録)もしていますが、7月の録音などなかなか聴き応えのあるものが多いように感じます。しかしシュラー氏は「絶頂期の『ブラック・ボトム・ストンプ』と30年10月の『フィックル・フェイ・クリープ』(未聴)までのほとんど一直線に下降している」と厳しい評価をしています。詳しくは「ジェリー・ロール・モートン 1930年」をご覧ください。
では、フレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン、ジェリー・ロール・モートン以外のニューヨークのジャズ・シーンをビッグ・バンドを中心にみていきましょう。
左はかつてヴィクターから出ていた「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻/ザ・ビッグ・バンド・イーラ」というレコード・ボックスです。レコーディング・データがたぶん再販時に削除されかなり不備な音源集ですが、こういったものがないとこの時代の録音を聴くことはかなり難しいと思われます。そういった意味では大変ありがたいレコード・ボックスです。
前回まで登場していたチャーリー・ジョンソン、ルイ・ラッセル、チック・ウエッブはこの年の録音が収録されていません。これは恐慌の影響ではなく単にスペースの関係だと思います。ということで今回の初登場バンドは、ジミー・ランスフォードです。各バンドの詳細は、
「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ 1930年」
「ザ・ミズーリアンズ 1930年」
「ジミー・ランスフォード 1930年」
をご覧ください。
カンサス・シティ・ジャズ・バンドの雄、ベニー・モーテンはこの年初めて地元のカンサス・シティでレコーディングを行っています。そしてその録音は10月27日から10月31日にかけて一挙に17曲ほど録音されています。またこの年バンドにはトランペットのホット・リップス・ペイジとヴォーカルのジミー・ラッシングが加わりより強力な布陣となっていきます。詳しくは「ベニー・モーテン 1930年」をご覧ください。
シカゴを拠点に活躍しているアーティストで僕がこの年のレコードを持っているのは写真右のジミー・ヌーン率いるエイペックス・クラブ・オーケストラだけです。ヌーンのバンドから独立したピアニストのアール・ハインズもシカゴのグランド・テラスを根城に活躍していて吹込みもあるようですが、残念ながら保有していません。ということで「ジミー・ヌーン 1929年」をご覧ください。
ビックス・バイダーベックは1931年8月6日28歳の若さでこの世を去ります。ディスコグラフィーによれば最終年1931年にレコード録音はされていないので、この1930年が、記録(record)に残る最後の活動の年となります。
ビックスは、ポール・ホワイトマンの伝記映画「キング・オブ・ジャズ」に楽団員としてロスアンゼルスに同行しますが、ホワイトマンと映画会社がもめたため8月末に一端ニューヨークに引き上げます。その後ビックスは健康を害し、養生のため故郷のダヴェンポートに戻り、再びニューヨークに戻ったのは1930年4月の終わりのことでした。そしてこの間にあの「世界恐慌」が勃発していたのです。
さて、復帰したビックスは、親友ホーギー・カーマイケルは、5月21日オールスター・編成でヴィクターに2曲吹き込みます。トミー・ドーシー、ベニー・グッドマン、ジミー・ドーシー、バド・フリーマン、ジョー・ヴェヌーティー、エディ・ラング、ジーン・クルーパといったスターたちとともに過ごし、その午後のビックスは幸福そうに見えたと伝えられます。
その後もアーヴィング・ミルズ名義のバンドで吹込みに参加したり、カサ・ロマ・オーケストラ人加わったりしていますが、複雑で精緻を極めるカサ・ロマ・オーケストラの楽譜についていけるわけもなくわずか4日で辞めてしまいます。そして色々紆余曲折の後9月に自己名義のオーケストラで吹込みを行いますが、これが僕の持っている最後の吹込みとなります。僕持っていなものでは1週間後にホーギー・カーマイケル名義の吹込みがあります。それが最後です。詳しくは「ビックス・バイダーベック 1930年」をご覧ください。
日ごとに衰えていくビックスと相反してこの先勢いをつけていくのがBG(ベニー・グッドマン)です。1930年レコード上ではビックスとも共演をしていますが、この年のBGの吹込みにおける特徴は自己名義のリーダー録音がないということです。BGがベン・ポラック楽団を1929年を退団し1931年までの3年間余りで200を超えるレコーディングに呼ばれ、34年の自己バンド結成までに吹込みに参加した曲は500曲にも及んだと言われます。このことはいかに彼が当時引っ張りだこの人気ミュージシャンであったかが分かると同時に不況が深刻化していく中敢えてバンドなどを自己責任で率いず、一プレイヤーとしてスタジオに入りギャラを得た方がリスクもなくて良かったのかもしれません。ただこれは僕の推測でBGがどう考えたかは分かりませんが。
彼が加わった吹込みはレッド・ニコルスのようなジャズ・バンドに留まらず前出のベン・セルヴァンなどポップ・ミュージックへも参加しています。詳しくは「ベニー・グッドマン 1930年」をご覧ください。
この年もニコルスに特筆すべきことは見当たりませんが、BGやジャック・ティーガーデンなど有望な新人たちを起用した「ファイヴ・ぺニーズ」名義の録音を順調に行っていたようです。詳しくは「レッド・ニコルス 1930年」をご参照ください。
また「ビッグT」とも呼ばれるトロンボーンの名手ジャック・ティーガーデンも安定した活動を行っていたようです。詳しくは「ジャック・ティーガーデン 1930年」をご参照ください。
そもそも「シカゴ・スタイル」とはフランスのジャズ評論家ユーグ・パナシェ氏らによって名付けられた名称で、本質的にはディキシーランド・ジャズと変わったところはないといいます。粟村政明氏は、「シカゴ・スタイルなる言葉は、現在では死後とかしてしまった感があるが、ニューオリンズ・ジャズの精神を白人の知性を通じて昇華し、出来るだけ数少ない音符によってこれを表現せんとした彼らの努力は、稚拙さと模倣という点に問題があろうともジャズ史に特筆されてよい貴重な価値があった。こうしたアマチュア精神の権化のごとき演奏スタイルが崩れ去って『普通のディキシーランド・ジャズ』化していく過程は誠にはかない。」そのために以前も書きましたが、シカゴ・スタイルのレコードというのはあまり多く存在しないのでしょう。
僕はこの年1930年のエディ・コンドン一党の吹込みレコードは持っていません。持っているのは左「ザ・シカゴアンズ/1928-1930」(Decca SDL-10361)に収録されたウィンギー・マノンの吹込みのみです。「ウィンギー・マノン 1930年」をご覧ください。
初めてこの項を設けてみました。「ピアノ」という楽器は少しばかり他の楽器と違った流れを持っていると思われます。他のジャズで主流の楽器、トランペットやクラリネット、サックス、ベースにドラムスという楽器は、そもそもはニュー・オリンズのマーチから発生し、その特性から伴奏なしのソロ演奏には不向きでこの時代そういったレコードは皆無ですが、ピアノはそうではありません。そもそもはラグタイムなどソロ楽器として機能している面も多くありました。
そんなことから少しピアニストの吹込みについて少し見ていきたいと思います。
まずは「ストライド・ピアノの父」と呼ばれるジェイムズ・P・ジョンソンの1930年の吹込みです。詳しくは「ジェイムズ・P・ジョンソン 1930年」をご覧ください。
続いてジェイムズ・P・ジョンソンの正当な継承者と言われるファッツ・ウォーラー。詳しくは「ファッツ・ウォーラー 1930年」をご覧ください。
この二人は期せずして二人ともピアノ・デュオを録音しています。ジョンソンはクラレンス・ウィリアムスとそしてウォーラーはベニー・ペインとです。
シカゴ・シーンに入れるべきかピアノ・シーンかはたまたブルースか?ブギー・ウギー・ピアノは多様な側面を持っていますが、この年の録音はスペックルド・レッドの録音しか持っていません。詳しくは「スペックルド・レッド 1930年」をご覧ください。
ベッシー・スミスはこの年1930年は大幅に録音数が減り、全部で8曲しか吹込みがなかったそうです。そしてその内僕は3曲しか持っていません。
詳しくは「ベッシー・スミス 1930年」をご覧ください。
「デルタ・ブルースの父」と呼ばれるチャーリー・パットンは、この1930年ウィスコンシン州グラフトンで4曲の吹込みを行っています(保有は3曲)。今回の録音はギターのウィリー・ブラウンが伴奏に加わってのものです。相変わらず迫力ある歌と叩きつけるようなギターに圧倒されます。詳しくは「チャーリー・パットン 1930年」をご覧ください。
またこの年パットンの影響を強く受けたサン・ハウス(Son House:1902〜1988)がレコード・デビューします。彼の「マイ・ブラック・ママ」は年間ヒット・チャート第23位にランクされるヒットとなりますが、残念ながらレコードを持っていません。但しYoutubeで簡単に聴くことができます。サン・ハウスもすごい迫力のブルースマンです。
ギターの名手として名高いロニー・ジョンソンですが、この年の録音ではブルース・シンガーとしての味わいが深くなった気がします。詳しくは「ロニー・ジョンソン 1930年」をご覧ください。
ブラインド・ブレイクもこの年の吹込み数10面分と大幅に吹込み数が減っています(前年は25面)。詳しくは「ブラインド・ブレイク 1930年」をご覧ください。
上記以外のブルース・ピープルの1930年の録音については、詳しくは「ブルース・ピープル 1930年」をご覧ください。